なんだかパタパタ忙しくて、仕事を終えて会社を出たのが9時半過ぎ、自宅の最寄りの駅から家への道を歩いている時はもう10時半をまわっていた。
妻からメール。
「今どこ?」
「あと2分」
と打ち返す。「家まで」は省略。
いつもなら会社を出た時に「帰るよ」「はいよ」のメールのやり取りで終わる。こんなメールはイレギュラーだ。
ひょっとして、と思う。
なんとなく出産の兆候の兆しの面影があるようなことを言っていたので、ひょっとして、と思う。
でもまだ予定日まで2週間ある。長男は予定日を一週間ほど過ぎてから陣痛促進剤を投与しての出産だったため、高をくくっていたが、ひょっとして。
家に帰り着くと妻は産気づいていた。
コタツの上板のへりをつかんでじっと座りながら
「痛いのよ」
よし、病院へ行こう。
そんなにあわてることはないと言うので背広のままそこにあった夕食をかっ込んだ。
妻が病院に電話している間に、着替えるために2階へ上がった。眠っている長男に声をかける。
「オカーが産気づいたぞ」
よく眠っていてぴくりとも動かない。ノンレム睡眠だ。放っといて着替える。
着替えながら、(先に着替えでそのあと飯のほうがよかったかな?)と思ったが、そんなことはどうでもいい。
妻が荷物を取りに来たついでに長男に声をかけている。
「ん?ん?行くの?どうするの?」
のぞくと、長男が顔を上げて眠そうな顔でうなずいている。
よし。行こう。三人で行こう。いや、すでにほぼ四人か。
産院までは車で10分。着いたのは11時半過ぎだった。
「俺が持ってく」
長男が妻の入院用荷物の入ったバッグを引っぱり出した。
妻は医者の診断を受けるため、すぐに診察室へ。
長男と私は廊下の長椅子で待機。
そうだ。
こいつに言っておかなきゃならないことがあるんだ。
しかし長男は、長期戦に備えて持ってきたゲームボーイアドバンスを取り出して「ポケモン・サファイア」を始めた。
ま、もう少しあとでもいいか。
診察室からもれてくる「まだ3センチ…」「痛みが…」「どうしますか…」という声を聞きながらそう思った。
こりゃ、出直しかな。
しかし診察室から出てきた妻はそのまま陣痛室へ入れられた。私たちも一緒に入室する。
お腹に何かを貼り付けられ、診察用の機械とつながれた状態でベッドで横になる。それが11時55分。
何を計る機械なのかわからないが、地震計みたいな、ウソ発見器みたいなやつで、吐き出される紙にニ本の波形が描かれてゆく。
妻は痛そうにしている。
妻につながれた機械
二人の男はやることもないのでその機械をじっと眺めたりしている。何を計っているのか全然わからないまま。
やがて看護婦さんがやって来て、その機械をのぞいて
「かなり痛そうね」
と言った。
?
少しして、また別の人がやって来て同じように機械をのぞき、
「あぁ、かなり痛みが来てるわねぇ」
と言った。
え?
これって、痛みを計る機械なの?
波形を描きながら紙を吐き出す機械をじーっと見る。
25、50、75、100、と数字が印刷されている。
波形が25から50に上がってゆく。
妻が「痛い」と言い出す。
50から75へ。さらに上がってゆく。
「痛い痛い」
そうか。
「わかったよ、痛くなるとこれが上がってくんだ」
妻に教えてやる。妻はそれどころじゃないみたいだが。
波形が上昇して行く。妻がどんどん痛がる。
「もうすぐ『100イタイ』だよ」
その場で考えた「痛み」の単位で妻に教えてあげる。ちょっと面白いだろうと思って。
しかし妻は息も絶え絶えに、
「お願い。
今は笑わせないで」
見ると、肘を曲げた右手を宙に差し出し、痛みをこらえている様子。手の平は五本の指が反り返るくらいに開かれていて、機械の数値を見なくてもかなり痛いことがわかる。
なるほど。ユーモアも時と場所を考えろってことだ。いくつになっても人生勉強である。
「人の痛みがわかる人になりなさい」
などと言われながら育った人もいるだろうが、
機械はすでに実現していたのだ。
その後助産婦さんがやって来て、様子を見た結果、分娩室へ移ることになった。
その助産婦は長男を見て、なぜ子供がいるんだといった調子で、
「ホントは夜は子供はダメなのよね。御主人だけなのよね」と言った。
「うちはこれでひとチームなんだよ」と思ったが、黙っていた。
妻が分娩室に入り、廊下のソファーで、また長男と二人きりになった。
長男は落ち着かない様子だ。
時々看護婦さんがあわただしく出たり入ったりしている。
時々分娩室から妻の苦しそうな声や助産婦さんの励ますような、怒っているような声がもれてくる。
ナースステーションから「もう生まれるんだって?」という話し声が聞こえてくる。
長男も不安そうにしている。
そうだ。
こいつに。
言っておかなきゃならないことがあったんだ。生まれる前に。
「あのさ」
「え?」
普段はへらへらしている長男がまじめな顔で振り向いた。
「お前がオカーのお腹の中にいる時に、オトーとオカーで約束したことがあるんだよね」
「うん」
「もしもね。
もしも、お腹の中の子に何か障害があってもがんばって育てようねって。だから」
「うん」
さらにまじめになる長男の顔を見て、鼻から目にかけて軽くひくつく。
「だから。
多分大丈夫だと思うけど。多分大丈夫だけど。
もしもこれから生まれる子に何か障害があっても、みんなでがんばって育てような」
「うん」
よし。これでよし。約束したぞ。
この約束だけはしておきたかったのだ。ただあまり早いうちに言い出して、不安がらせてもかわいそうかな、と思っていたので、ぎりぎりの時まで待っていたのだ。
これでよし。
やがて。思っていたよりもずっと早く。
分娩室から、
「よくがんばったわね」
という、助産婦の声が。
耳をすましていると、切れ切れで小な声だったけれど
「ほぇ ほぇ ほぇん」
「生まれたみたい」
私が言うと、長男の口が三日月型になった。
二人で耳をすます。
「ほぇん ほぇ ほぇん」
二人で顔を見合わせて黙って笑った。
しばらくして、待っていた私たちのところへ赤ちゃんが運ばれてきた。もう眠っているようだった。
長男が生まれた時とそっくりな顔をしていた。ただし長男は髪の毛がほとんど無かったが、この子にはくせのある髪の毛が生えている。
抱いてみる。
赤ちゃんてこんなに軽かったんだ。忘れてたよ。
赤ちゃんを連れてきた人が長男に
「だっこする?」
と訊くと、長男は一歩下がって
「あ、いや、えと」
私が「抱いてみな」と促すと
「うん」
恐る恐る手を出した。
長男が赤ちゃんを、妹をぎこちなく抱いている。
持ってきていたデジカメで一枚だけ写真を撮り、赤ちゃんを返した。
少しして助産婦さんが私を分娩室に呼び出した。
「ここは子供は入れないから。御主人だけだから」はいはい。
入ると妻が分娩台で横になっていた。消耗しきっている様子。
「お疲れ」
「うん。痛かったぁ。手が震えてる。ほら」
右手を上げて見せる。
「うん。お疲れ」
「赤ちゃん、見た?」
「うん。さっき連れてきてくれた」
助産婦に渡された入院中の日程を読み上げてやる。
産んだ日を第0日として、退院は第5日となっている。来週の火曜日だ。
その間の家のことを少し打ち合わせる。名前をどうしようかという話も。
「じゃ、そろそろ、もういいよ。あいつも明日学校だし」
「そうだね」
立ち去りがたくはあったが、妻の言う通りだ。時計を見るともう1時半を回っている。
2時3時になるのを覚悟でやって来てはいたが、私も会社を休めない。
分娩室の扉を開けた時に妻が
「祥平、いるの?」
「うん、ここに」
と私が言うのと、長男がソファから乗り出してこっちを見たのがほぼ同時だった。
手招きすると駆けて来た。
開けた扉の内と外で、分娩台に横たわったままの妻と、廊下に立ったままの長男が対面する。
「赤ちゃん、見た?」
「うん。さっき」
二言三言静かに話し、今日はさよならをして分娩室の扉を閉じた。
帰りの車の中では二人ともほとんど話さなかったが、なんだか充実した空気だった。
駐車場に車を入れ、家まで二人で歩く。
夜空を見上げて長男が言った。
「星がきれいだね。
あ、オリオン座」
「冬は星がよく見えるね」
「うん。空気が澄んでるからね。あ、オトー、
風呂入った?」
「まだ。帰ってから入るよ」
「俺も入ろうかな」
「うん。あったまって寝よう。明日もあるからな」
こうして。
私たちは四人家族になったのだ。
自分達の写真は公開しないという方針で今まで突き進んで来た「オトーラの書」であったが、今回ばかりは特別に公開。
生まれたのが2003年1月16日午前0時56分。
体重3310グラム、身長50センチの女の子でした。
ちなみに、抱いているのは長男、撮影はオトー。