2009年7月12日(日) 死のことなど

 いきなりだが、今週は、死のことなど、少し考えた。というのは、もう4年前になるか、以前ラオスで働いていたオーストラリア人の友人、C氏が、休暇中に南太平洋の島で、ダイヴィング中に事故で亡くなったのであるが、19歳になった彼の娘さんが、遺灰をメコン川に流しにやってきたのである。私は、亡くなった友人C氏の、とても親しい友人の、とても親しい友人なので、その一部始終をヴィデオ撮影する役目を仰せつかり、船にまで同乗することとなった。
 
 雨季のメコン川の泥色の流れは、遠目にはゆったりと見えるが、実は意外に速くきびしい。大きな流木もどんどん流されてくるその水量は圧倒的で、おそろしいほどである。でも、雨季の晴れ間の太陽に、川面がキラキラと光り、その日は魂のメコン川への旅立ちには、ぴったりの日に思えた。船には、C氏の娘さんとボーイフレンド、友人たち、そして、若い僧侶が一人同乗していた。友人が、川の神様?に許しを乞うた後、彼の遺灰は娘さんの手から川へ、友人たちの手から7色の花々が、川の流れに吸い込まれていった。 
 亡くなったC氏は、メコン川の環境問題にも関わって働いていた。また泳ぐのが大好きで、どこへ行っても泳いでいたそうだ。くしくも亡くなったのは、南太平洋の島で、ダイヴィング中に大波が来て、頭を岩にぶつけて気を失ってしまったからであろうという。でも、水が好きな彼の魂は水を得た魚のように、メコン川をすいすいと泳ぐのだろう。
 この儀式をとりしきった友人は、「しまったわ。メコン川にお金を流すのを忘れた。彼の魂の居場所を買わなくちゃいけなかったのよ」と言い、あとで、川沿いから、ラオスのお金、1000キップ(10円ほど)と、タイのコインを流したそうだ。「これで、ラオス側でもタイ側でも、好きなようにいられるわけね。まぁ、元々NGOのスタッフだし、ただでいさせてもらえそうな人だけど・・・・」と言って笑った。
 さて、このことをきっかけに、私と連れ合いは、自分たちのことを話し合ったのだが、彼は
「ぼくは、泳ぐのが苦手だし、寒いのがいやだから、川に流してもらうのは御免だね。家にいるのが好きだから、家のあたりにタートを作ってそこに置いてよ」と言う。
 ラオスでは墓地というものがなく、お寺の周りや好きなところ?に、小さな仏塔を作り、そこにお骨が入っているのだという。もちろん、民族によって違い、モン族などは、山で土葬である。さて、私はどうしよう・・・と思うけれど、やはり、一部は、日本の両親(今は父だけが眠っていて、母はまだピンピンしているので、将来の話であるが・・・)と一緒がいいか・・・・・一部は、ラオスで一人でどこかに置かれるのも嫌だし、彼と一緒がいいか・・・・などと、思ったりしたのである。
 
 まったく、こんなことを考えるのは、どうよ・・・と思うけれど、ラオス人は、死ぬのは肉体だけで、魂はまた生まれ変わって輪廻を繰り返すと信じている。当たり前に信じている。だから、死が完全な終わりではないのである。魂は、遺灰や遺骨などがどこに置かれようが、自由にどこへでも飛んで行けそうな気がする。やはり、どう送るか・・・それは後に残る人の思いなのだろう。

 人は死ぬことで、見えなくなって、粒子となって、いろいろな人々の中に少しずつ入り込んで、他の人の中で生きていくのかもしれない・・・・とそう思えてきた。魂は、いろいろなつながりを持って、人々は続いているのだろう。きっと魂は、自由に飛んでいくことができるのであって、死の送り方は、あとに残る人たちが、どれだけ、その人の死を受け入れて、その死を目に見えない粒子として後の人生に取り入れて、生きていくか? ・・・ということなのかもしれない・・・などなど考えたことであった。