バンビナイを訪ねる                           2012年5月23日(金)

 以前の職場、SVA(シャンティ国際ボランティア会)の人々と一緒に、以前、SVAのプロジェクトがあった、バンビナイ難民キャンプ跡地を訪ねた。バンビナイキャンプは、タイのルーイ県のメコン川沿いの町、パクチョムから、さらに数キロ奥地に入った場所にあった、当時、最大と呼ばれていたラオス難民キャンプである。多い時で、5万人もの人々が暮らしていた難民キャンプである。1975年から1993年までの間、ラオス難民の中でも、主にモン族が収容されていた。多くの人が、キャンプの仮暮らしを経て、アメリカなどに定住していったり、また、ラオスへ帰還した人々もいる。難民のまま、キャンプで亡くなった人々も多い。
 私自身は、23歳から29歳までの年月を、そこで過ごした。「子ども小屋」と呼んでいた図書館で、モンの子どもたちに絵本を見せたり、本を作ったり・・・・・どうしたら子どもたちが楽しい日々を送れるか? 難民キャンプの中で、何をしていけばいいのか? どうすればいい図書館活動になるのか? 日々、もがきながら一生懸命だった。

 一時は、大勢がひしめきあうように暮らしていた難民キャンプ。今は、ひっそりとしていて、いったいどこが入口なのかさえ、わからない。辛うじて、バンビナイという札がたっているのが唯一の目印。今は、地元の人に振り分けられ、農地として使われているというが、ひっそりとしていて、ほとんど人影も見なかった。 

 私は5年間、毎日このキャンプに通って働いたというのに、すっかり道がわからない。あの頃は、難民の人々が暮らす家がひしめき、NGOのオフィスや国連のオフィス、学校や病院や市場・・・・難民としての仮暮らしといえども、人々の息づかいがあふれんばかりであったこの空間が、あまりにもひっそりとしていて、何もない。よく見ると、コンクリの土台やレンガのかけらが転がっているけれど・・・・・みんな壊されてしまったのだ。難民がいなくなったら、そのために作られた施設も何も用はない。私たちの図書館や印刷所も壊されて、もうないはずだ。

 広場の先に橋があった。確かに難民キャンプの中には橋があった。2カ所・・・・記憶の中で一生懸命思い出そうとするのだが・・・・この広場は、きっと国連の建物や配給所があったサッカー広場・・・・その先の橋・・・その先は、IRCという団体がやっていた清掃オフィス・・・・と、記憶をたどる。その先を、曲がって、さらにまっすぐ行くと、もう一つ橋があって、その橋を渡って坂を上ると、私が働いていたSVAの印刷所や、図書館があった広場に出るのだった。

 橋は壊れていた。車は渡れない。私は、壊れた橋を渡ってみた。草が生い茂っていて、もう道とはいえない。仕方ない。これ以上行くのは無理か・・・と引き返した。


 
 後で家に帰ってから、以前書いた本の中に書いた難民キャンプの地図を見た。あの国連前のサッカー広場だと思った場所は、違う・・・市場が立っていた小さい広場だ・・・・とすると・・・・あの壊れた橋は、2番目の橋だ。・・・・・あの橋を渡った先は・・・・あぁ、私が毎日通って、子どもたちと遊んだり、絵本を読んだり作ったり、子どもたちと懸命に日々を過ごした、あの図書館がある広場だったんだ。そうだ・・・あそこは坂道だったもの・・・・確かにそうだ。
 あの頃、私たちの乗った車が坂道を上るとき、子どもたちが、「キッコー、キッコー」と、私の名前を呼びながら、坂道を駆け上がってきた。私が来ると、図書館が開くからである。それを楽しみに、みんな「子ども小屋」と呼んでいた図書館になだれ込んできたものだ。
 
 あぁ、あの草の生い茂る坂道を上りさえしたら、あの場所に行けたのに・・・・生い茂る草むらに、尻込みをしてしまい、行けなかった。残念だった。
 でも、あの場所に行ったところで、何も残ってはいないんだっけ。子どもたちと日々を過ごした図書館はもうないのだもの。
 ただ、生い茂る草むらがあるだけだ。

 あれから、難民キャンプで過ごしたよりも長い年月がたった。
 難民キャンプを出て、アメリカで、ラオスで・・・・難民だった人々は難民ではなくなり、子どもたちは大人になり、みな新しい人生を生きている。

 私も、右往左往しながらも、一生懸命に生きてきた。
 あの場所に、今は何も残っていなくても、私にとっては、確かにあそこが出発点だった。
 バンビナイで、モンの子どもたちと過ごした日々が、私の出発点だった。