2010年5月20日(木) スモモ酒

 先日、シェンクワン県の山のモンの村を訪ねた時、スモモをもらってきた。庭のスモモの木がたわわに実をつけていた。
剪定などもせず、摘果もせず・・・だから、毎年、実が小さくなるような気もするが、枝が重くて垂れ下っている。結局、この季節は、ここらへんはどこでも実がなっているから、1kg=1100キップくらいだそうで、あんまり大した収入にはなっていないようだが、車が村に来て、買い集めている。ヴィエンチャンなどに運ぶのだろう。
 さて、私は、毎年、スモモ酒を作るのだが、今年も作ってみた。
 日本の梅酒みたいに、焼酎につけるのと、ただお砂糖を入れて、自然に発酵させるのと、両方やってみている。
 まぁ、いつも途中で味見をしたくなってしまうので、ちゃんと出来上がる前に、なくならないようにしようと、思っているけれど。
 スモモのお酒は、赤くてきれいなものである。
 ものの本によると、1年ほどおくとよいと書いてあるのだけど、1年後のできあがり・・・・まで待てるだろうか?

  ←焼酎につけたもの 

     ←お砂糖につけて数日したら赤いジュースがでてきた。
                                     放っておけばお酒になるのが不思議。


2010年5月21日(金)
  バナナの葉のお供え

 溜めに溜めたアイロンがけを、暑い二階でして、汗びっしょりで下に降りてくると、ノイが、たくさん切ってきたバナナの葉で、仏様のお供え物を作っている。
 そういえば、今日はワンシンと呼ばれている、ラオスの仏様の日であった。その日は仏様の休息日であり、仏様は仕事をせずに?遊びにいかれている?とかで、ピー(霊)たちが、仏様の監視?がないのをいいことに、飛び回る日だそうである。だから、人々は事故が起こるのを恐れて、畑仕事やら、大工仕事やらをやらない。
 ここヴィエンチャンでは、特に事務仕事の人々は、仏様の日に仕事をしないということはないが、やはり、みなお供えをする。道端で、バナナの葉と、マリーゴールドや香りのいい白い花(ジャスミン?だろうか?)で作ったお供えを売っている屋台が出たら、それは仏様の日か、その前日である。

 そういえば、今日は仏様の日だというのに、お供えを買わなかったな・・・・と思っていたのだった。彼は、買うのを忘れたのか、今日は自分で作ることにしたらしい。
 手際よく、長四角に切ったバナナの葉を丸めたり、三角に折って、楊枝で留めては、器用にそのお飾りを作っていく。

 私も真似してやってみたが、なかなかうまくはいかず、ぶきっちょなのができた。

「小さい頃、よく作ってたんだよ。2週間もやれば、上手く作れるようになるよ」と、ノイが言う。
 彼は器用に、手早く4つのお供えを作り、私はぶきっちょにようやく2つ作った。本当に、私が作ったのは格好は悪いのだが、庭に咲いている、ドック・チャンパー(ラオスの国花、プルメリア)をとってきて、そのお供えに飾ると、とてもきれいになった。
「いい香りだね」と、鼻をつけて花の香りをかぐと、「お供えの香りを嗅いではいけないんだよ。タブーだ」と、ノイに怒られた。
 それなのに、うっかり忘れて2回も香りを嗅いでしまった。

 ラオスの人々は、バナナの葉と庭にある花々で、こうしてお供えを作って来たのだな・・・・それは、造花ではなく、日々枯れて、数日後にはまた自然に帰るお供えである。私のようなぶきっちょ者でも、自然の花の美しさで、なんとか美しく見えるお供え・・・一つ一つ手で作る・・・
 心をこめて、自然の美しさを借り、自分の手で作る・・・・それは、本当は素敵なことだ。
 普段、メールチェックだぁ、ホームページの更新だ!(あまりしないけれど)と、ついつい、暇な時間が惜しくて、これでも、わさわさと時間を送っている私であるが、バナナの葉でお供えを作っている時間が、とても心穏やかで豊かなものに思えたのであった。

 本当は、一つ一つ、こうして丁寧に時間をかけて作っていける日々を送れたら・・・・・本当は、そんなペースで人生を送れたら一番いいんじゃないか?と思いつつ、なかなか・・・・そうはいかないものなのだ。




5月25日(火) 停電です。

 今年は雨が遅い。そのおかげで、家の前のドブ川の水が流れずに、臭い臭いのである。もう、どうしようか・・・と思う。
 実際には、生活排水が流れこんでいることと、ゴミをみんな平気で捨てるので、水が腐って、淀んでしまっているのが、はたまた雨が降らないので、流れない・・・のであろう。このまま放っておいてはいけない状況だと思うのだが、ノイは、「もう少しの辛抱、雨さえ降れば・・・」などと言う。
 とりあえず、雨がたくさん降れば、一時的に回避はできるかもしれないけれど・・・・それは、根本的な解決には全然ならない。
 なんとかしたい。
 どうしたらいいだろう・・・・・

 さて、今年は、ラオスはとにかく雨が遅い。私などは、まだ都会に住んでいるからいいものの、農村の人たちは、雨が降らなかったら、死活問題になる。米ができなくなってしまう。
 さて、今夕、たいした量じゃないけれど、雨が降った。そして、停電になっている。
 夕方5時過ぎに停電して、もう10時になろうというのに、復活していない。たぶん、今日はもう電気が来ないだろう。
 いつもうるさくて、まあ私の文句の対象になっている2件隣りのカラオケが機能せずに、ざまあみろ!である。静かでいい。
 もちろん、うちだって電気が落ちているから、ろうそくを3つつけている。モンの村だと、2つつけても、ばあちゃんに「なんでろうそくを2つつけるの?1つじゃ足りないの?」と怒られるのだが、今日は、ノイは出張でいないし、犬と私だけなので、やはり1つではさみしいし3つもろうそくをつけている。
 雨が降ったおかげで、涼しい。電気がないから扇風機も回らないが、今日は大丈夫だろう。
 犬ももう丸くなって寝ている。こんな日には寝るに限るのだ。
 たまに電気が落ちるのは、私はいやじゃない。静かでいい・・・などというのを、充電電池で動いているパソコンで打っているんだから、なんだか変だけど。
 でも、まぁ、こんな日は、もう寝ます。
 おやすみなさい。


5月31日(月) ひったくりのことなど、あれこれ
 
 まったく、先週はいろいろなことがあった。ダンナが出張でいないので、それこそ、思いっきり、これまで溜めているいろんな書き仕事とか、一人きままにやろう!と思っていたのであるが、まったく、それどころの騒ぎではなかった。
 仲良くさせてもらっている、在ラオス30年以上という、日本人のY爺さんが入院することになり、身寄りのまったくいない爺さんなので、結局、あれこれお世話をすることになり、なかなか、いや、大変に忙しい。ラオスの病院は、入院の前提が付添がいること・・・である。まず、ご飯はついていないので、ご飯は全部、持ち込み。それから、薬や注射なども、必要に応じて、看護婦さんから薬の名前の書いた紙を渡され、窓口で買ってきてから、注射なり投薬などを受ける。点滴もそうである。トイレなども、付添の世話。つまり、身一つの身では、入院不可能なシステムになっている。爺さんは今、天涯孤独の身なのであるが、親しくしてきたラオス人の知り合いの人を中心に、何人かで、付き添っているが、みな仕事がある身なので、なかなか大変。Yさんはもう高齢で、収入もないので、本当は病院の支払いもできないのであるが、そこは、ヴィエンチャン在の某タイの方が、「それくらいは私が払ってあげる」と言って下さっていたりして、本当に、みなさん、赤の他人に対して、よくなさる・・・と感心する。
 私たちは細々と、ようやく付添をつなげて、なんとか見守っている感じ。昨日も、「私は、土日は図書館を開ける日だから、勘弁してくれ」と言っていたのだが、結局、呼び出され、自転車で30分弱かかる病院を必死で往復。まだ、朝ごはんを食べていないというので、麺を買ってきたり、トイレに立つのを支えたり・・・・してきて、「悪いですけど、もう仕事なので行きます。次の人が来るまで間があるけど」と戻った。回りのラオス人を見ると、一つのベッドの回りに大勢の家族が詰めかけて、大お食事大会になっていたり、家族が全部移動してきているような人たちもいる。これだったら、付添がい過ぎるくらいであって、その辺が、核家族というか、家族のいない人も多い日本人とは、全然違う・・・・と感じる。
 それにしても、年齢を重ねて、人生を最後まで生きるということは、本当に大変なことだ。私は、2年前にやっとラオス人のつれあいができたけど、子どももいないし、いつ、どこでやっぱり一人になってしまうかもわからないし・・・・いったいどうなるか?なんて、まるでわからない。・・・・・家族であろうが、なかろうが、いろいろな人に迷惑をかけ、また迷惑をかけられ、それをやらないことには、人生は生きていけないのだな・・・・と思う。そして、他人に迷惑をかけ、かけられ・・ということを、ちゃんと受け入れるつながり、土壌がある社会でなければ、それもできないわけだ。扉の中で孤独死をすることになってしまう日本は、他人に迷惑をかける・・・というつながりさえ、なくなってしまっているのだ。

 さて、ひったくりのことである。カメラを盗られた。一眼レフのデジカメである。ショック。ということで、しばらく、写真はなし。長期滞在だから、旅行保険にも入っていないので、もう戻ってこない。
 これまでも、さんざん愚痴っている、うちの前のドブ川の臭さである。もう耐えられず・・・・という時に、ネットで、「ベトナムドブ川再生」の記事を読み、あれこれ調べてみたら、関わっている人のメールアドレスやらはわからないが、住所が書いてあった。ので、ダメ元で、教えを請う手紙を書き、今度、日本に戻った時に、できればお訪ねしたい…と思っている。そして、先週金曜に、このドブ川のことをいっしょにやれたら・・・・と思っている、協力隊のFさんを誘って、ドブ川の写真をとろう・・・と二人で、自転車で川沿いを、時々止まって写真をとりながら走っていたのである。午後3時ごろ。暑い。私は、お金などはショルダーに入れて斜めがけしていたが、自転車の前のかごに、傘と雨具(たまに雨が降り出すので)とサングラスを入れた袋を入れ、そこに、カメラを入れていた。
「あ、バイク後ろからきますよ」とFさんに言われ、少しよけようとした途端、後ろから2人乗りのバイクが追い越しがてらに、すっと、私のカメラの入った袋を持っていきやがった。一瞬、何が起こったかわからず。気がついてから、「どろぼー、どろぼー」と日本語で叫ぶ。Fさんも。「あれ、日本語じゃダメだ」と、ラオス語で「カモーイ、キーラック、カモーイ」と大声で言ったけれど、あまり人がいない場所。一人、土手に魚とりのためか座っていたおっさんがいたが、「我関せず」で、動かない。バイクはナンバープレートのない、おんぼろバイク。後ろ姿が憎たらしい、いやらしい男二人の後ろ姿。
 このやろー
 まさか、こんな、一見のどかなところで・・・・まさか・・・・と、ショックなのでありました。午前中は、病院詰めで疲れて帰ってきて、午後、やっと、これまでずとやろうと思っていた写真撮影を、Fさんと始めた直後のこと。まったく、間抜けな日本人がぼけぼけ、ドブ川を写真にとって、トテトテのんびりと自転車で走っているんだから、カモであろう。
 そして、ショックで家に帰ってきたら、また病院から呼び出し・・・・ということで、本当になかなかハードな1週間だったのでした。

 でも、その翌日、なぜか、朝から大勢の高校生やらが、うちのあたりの川沿いに集まっている。「今日は、労働奉仕の日」とかで、なぜか、ショベルカーまで出て、ちょうどうちの前の流れの、はびこって水の流れをとめていたホテイアオイを、取り除く作業をしていた。人海戦術である。「わ、すごい、できるんだぁ」と、うれしかった。しかし、その写真を撮ろうにもカメラはなし。
 しかし、その人海戦術は、午前中だけだったので、ほぼ、50メートル分くらいの流れのホテイアオイを取り除いたが、それで、労働奉仕は終わってしまった。つまり、それ以降の流れには、ホテイアオイがびっしり詰まっている。川(水路)だから、せっかくだったら、全体をやっていただきたいものだが・・・・・でも、ラオスの、「やる時は、人海戦術でやる!」という一面を見たようで、少しだけ、「ドブ川再生作戦」の希望を見たような気もしたのであった。
  
 あれこれ