2010年7月27日(火)  カオパンサー


 最近はよく雨が降り、家の前のドブ川は、水かさを増し、TOTO(じゃなくて・・・)滔々と流れています。相変わらずのドブ川には変わりはないのですが、乾季のどす黒い水はではなくて、土色の水となっています。乾季の終わりには耐えがたかった、腐ったような匂いは消えて、当面はほっとできそうです。また、乾季になったら同じでしょうけれど。

 昨日は、カオパンサーでした。カオパンサーというのは、雨安居というのでしょうか。雨季の農繁期に、僧侶が外を歩き回ると農作物やら、泥の中の虫だとかを踏みつぶしたりすることもあるので、お寺にこもる時期・・・・とかいうことなのでしょうか。一般の人々も、その時期に結婚式やらのお祝い事は控えるし、人によっては、その時期禁酒をする人もいます。
 まぁ、昨日は、みんながお寺に行って、托鉢をする日でした。その托鉢のために、うちでも、初めて夫婦二人だけで、ちまきを作ってみました。前の日の夕方、旦那がバナナの葉を切ってきて、それを四角に切り、また葉脈のところを割いて、ちまきを結ぶひもにします。
 もち米、黒米、小豆、そしてお砂糖を混ぜて水につけたものを、そのバナナの葉でまいてくるみ・・・・(私にとっては、書くほど簡単じゃないですが・・・・)それを、大なべでゆっくり煮て・・・・カオトムと呼ぶちまきを作りました。

 バナナの葉をあらかじめ準備しておかなかったので、切りたてのほやほやでは、バリバリしてうまく包めない・・・・と、フライパンでちょっとばかし蒸して、柔らかくしてから使いました。
 それにしても、やっぱり、バナナの葉は、ラオスの人たちの暮らしに欠かせないんだ・・・・と実感。

     


 朝、お寺に行くと、なんと大勢の人!ここは、町の中心地の寺でもないし、有名な寺でもないけれど、やはり、この地区に住む人たちが、みな老いも若きも子どもたちもみんな、托鉢にやってきていました。なんと列となっていて、托鉢の順番が来るまで、30分ほど待たなくてはいけなかったほどです。
 図書館に来る子どもたちも何人も来ていて、ちょっとおしゃれをしてお寺に来ている子どもたちを見るのは楽しいものでした。引っ越してしまい、しばらく図書館に顔を見せなかったレェも、ゆで卵やらお菓子やら、たくさんのお供えものを持って、神妙な顔をして来ていました。旦那が、「お母さんのために来たのかい?」と。お母さんは、数年前に亡くなったからです。みんなそれぞれの思いを持って、托鉢するんだろうなぁ・・・と思いました。
 小さい子どもたちは、やたら、回りをうろうろしています。鉢がお供えのお菓子や、もち米やなんかでいっぱいになると、お手伝いの大人たちが、それを大きなかごに入れ替えて、寺へと運びます。それのおこぼれをもらいたい子どもたちが、回りにうろうろしているわけです。
 家に帰ると、やはりお寺から帰ってきた小1の女の子、ポックから「はい、あげる」と、お菓子を1つもらってしまいました。
「いいよいいよ」と言っても、「いいのいいの」とにこにこしてくれました。よっぽどたくさんお菓子をもらってきたんでしょう。
 なるほど、大勢が集まる托鉢の日というのは、子どもたちにとっても、なかなか楽しみなもんなんだろうなぁ・・・・と、思ったのでした。


2010年7月29日(木) ヤーコンの入院
 ヤーコンは、私がよく行くS村の少年である。彼は、5年前に、弟や他の少年と木の実を取りに、木に登り、そして木から落ちて、ちょうど下に立っていた柵のための竹・・・・するどく上を斜めに切られていた竹に串刺しになってしまった。本当に、串刺し状態であったらしい。ただ、突き抜けはしなかった。そこで気を失ってしまったお兄ちゃんの助けを、弟たちが近くの村の男たちを呼び、みんなの協力と、村の医者の判断で、すぐにヴィエンチャンへの病院へと運ばれた。遠い山の畑にいたお父さん、お母さんはあとから駆け付けたという。
 死ななかったのが本当に運がよかった。でも、彼は歩けなくなり、そして、排尿を感じないので、おしっこがもれるようになってしまった。ヴィエンチャンで外科では一番の150ベッド病院で手術を受け、その後、しばらくしてからは、リハビリ病院に移り、そしてその後、村に戻ってきた。はじめは車いすだった彼は、その後、少しずつ歩けるようになった。今は、杖をついてなんとか歩ける。おしっこを感じずにいつのまにか出てしまうので、おしめをして学校へ行く。学校も2年間休学した後、小学校3年生に戻り、今年5年生を、学年トップの成績で卒業することができた。9月からは中学生である。
 
 しかしである。ここ1年ほど、どうも調子が悪くなっていた。背中の傷口から膿やら液が出てくるのだという。前からその話を聞いて、病院に検査にくるように言っていたが、やっと、この6月に入って、両親の田植えが終わってから、150ベッド病院に連れてくることができた。レントゲンを撮った結果「わからない」と言う。ラオスには、まだ本当に緻密な細かいところまで写るレントゲンがないのだという。そして、タイまでレントゲンを撮りに行くことを勧められ、レターを書いてもらったのはいいが、その高度なレントゲンの撮影代は、なんと6万円くらいかかるのである。
 その相談を受けて、一瞬、絶句した。でも、「ちょっと無理じゃない・・・」と私が言ったら、ヤーコンの治療への希望はなくなってしまう。このまま放っておいたら、いいはずはない。そこで、私は、その時持ち合わせていた有り金をかき集めて、お父さんに渡したのであったが、それができたのは、日本でシヴィライ村の中学校建設などに協力してくださった人々が、きっと協力してくれるに違いない・・・・と思ったからであった。レントゲンだけにそんなにかかるのだから、今後の治療費はどれくらいになるか?わからない。だから、私ひとりではとても負えないけれど、日本で、協力してくれる人々の顔が頭に浮かんでいたから、私には決心がついた。私が、日本のヤーコンのことを心配してくれる人々に、ちゃんとつないであげないといけないのだ。

 果たして、彼の体内には、まだ竹の細かい破片が残っていた。それが元で、中が化膿していてそうである。7月のはじめに、ヤーコンはお父さんに連れられて、再び入院した。私はすでに日本に行ってしまっていたので、手術費に足りるほどのお金はあらかじめ渡しておいた。手術は6時間くらいにおよんだそうで、背中には親指くらいの穴がぽっかり空いたそうだ。150ベッド病院は、今、千客万来?で、彼らは、本来なら廊下である場所に並べられたベッドの隅に寝ていた。
 毎日、背中の手術あとをお医者さんに消毒してもらう。ぽっかり穴があいているそうだから、菌が入ったら大変である。回りのベッドの人たちが入れ替わり、入院しては退院していくのを何度も見送り・・そして、やっと今日、ヤーコンも退院する。
 まだ、しばらく村のお医者さんには毎日消毒してもらわなくてはいけない。でも、少しずつ、中の肉も盛り上がってきたそうで、今度こそ、元気に回復してもらいたい。順調にいけば、9月から彼は中学生になる。