10月21日(水) ペプシの一大騒動
10月初めより、私は日本に帰っている。犬たちとダンナはラオスである。日本に到着してから、数日後の夕方、ダンナから電話がある。
「はいはい、キヨコね、いますよ・・」などと、受話器をとった母が会話しているのが可笑しい。ダンナはほとんど日本語が話せない。後で、母に聞くと、
「モシモシ、オカアサン・・・・」と、たどたどしく言っているそうで、それで母はラオスからだとわかる。母が日本語でペラペラ言うことは聞き取れないはずだから、彼の方は適当に「ハイ、ハイ」と言うのであろう。
でも、ラオスから電話がかかってくるなんて、何だろう?と電話に出る。
「あのね、ペプシがいなくなった」
「え?」
「昨日,からいなくなって、まだ帰ってこない。」
前の日の夕方、扉を開けたとたんに、ペプシとメリーが外に出てしまったのだという。2匹は、家の敷地内で放し飼いになっている。家のドアは人がいる時は、いつも開けっ放しなので、家の中も庭も、自由に走り回って遊んでいるが、やはり、道へ出る外扉を開けたすきに外へ出て、近所の犬たちとじゃれるのも、好きなのである。でも、すぐ近くに車の多い道路があり、よく犬もひかれてしまうので、なるべく外には出さないようにしているのだが・・・・・昨夕、うっかりしたすきに出てしまったそうだ。普段は、ひと遊びすると帰ってくるのだが・・・・
「すぐ戻ってくると思ったんだ・・・・でも、ちょっとしてメリーだけ帰ってきて、ペプシが一緒じゃなかった」
それで、おかしいと思って、彼はすぐに探しに出かけた。あちこち、名前を呼びながら探したけど、見つからなかった。
「きっともう、盗られてしまったと思う。ペプシは、若くて大きくて、おいしそうだからね」
「えっ!うそ」
「きっと、もうこの世にいないと思う」
「で、で、でも、もしかしたら、まだどこかふらついているのかもよ?」
「でもさ、メリーを残して行くと思う?」
それは考えにくかった。ペプシはメリーが大好きで、2匹はいつも一緒に走り回っていた。私がメリーを怒る時は、ペプシが「怒らないで」というようにクンクンいいながら割って入ってきた。メリーを置いて、ペプシだけ行ってしまうことは、考えにくい。やっぱり、ペプシは盗られてしまったのか・・・・
なんて…ことだ。あの、ペプシがいない?つまり、もう食べられてしまって、この世にいない?そんなことがあっていいのだろうか?
ペプシは生まれてから半年くらいで、まだ子どもなのだが、最近ぐんぐん大きくなって、少し肉づきもよくなってきた。でも、ほんとにまだ甘えん坊で、誰が来ても、クゥーンクゥーンととび着いてなついてしまい、まったく番犬にはならない犬である。まったく、人を疑うことのない「お犬よし」の犬なのだ。
そんな犬だから、簡単に盗られてしまったのかもしれない。メリーの方は、食べるには小さすぎて毛むくじゃらでおいしくなさそうだから、きっと、魔の手をすり抜けて帰ってきたのだろう・・・・あんまりにもひどいじゃないか・・・
ラオスでは、犬を食べる人もいる。ベトナム、中国からやってきた人々も多いし、最近、犬食い人口は増えているようである。市場などで売られているわけではなく、どうも裏市場があるらしい。よく、犬が盗られた・・・・いなくなった・・・という話を聞いていたが、まさか、本当にうちの犬にふりかかるなんて・・・・怒りと悲しみがこみあげてくる。犬を食べるということに対して、とやかく言うつもりはない。でも、人がかわいがっている犬を盗らなくてもいいじゃないか!
かわいそうに・・・・最期はどんなに怖かったろう・・・・かわいそうに…・疑いもなく付いて行ったのかもしれない・・・・・ペプシのばか・・・・かわいそうに・・・・頭がグルグル回る。
でも、もしかしたら、帰ってきたかもしれない・・・・・そう思って、夜、またラオスに電話をかけた。電話の向こうが騒がしい。ダンナは友人の家にいるようだ。彼も家にいると滅入るのだろう。
「ペプシは帰ってないの?」
「帰ってないよ。もう帰ってこないんだよ。もう、逝っちゃったんだよ。」と、彼は噛みふくめるように言う。
「えーん、なんで・・・」と私が泣き声になると、ダンナは
「ぼくだって悲しいんだ。帰ってきてほしいよ。メリーだって寂しいんだ。今日は、一日2人(一人と一匹)で一緒に寝てたよ・・・」と言う。
「メリーは、家にいるのね」
「うん、出がけに、卵をゆでてやってきたよ」と言う。
メリーはゆで卵が好物なのである。両手(前脚といいますか・・・)にしっかりはさんで、ぺろぺろとなめて皮ごとぺろりと食べてしまう。せめても、そのメリーの好物のゆで卵を作ってやってきた・・・というのが、少しだけ心を和ませた。
「ペプシがちゃんとあの世で成仏して、今度は食べられたりしないものに生まれ変わりますようにって、ぼくはお線香をあげて、お祈りしたんだ」
と彼は言う。ラオスの人は、輪廻を信じている。ペプシは今度、何に生まれ変わるのだろう?
その晩、私は眠れなかった。夜明け方にうとうとした時、いきなり手の指に痛みが走った。
「痛!」と起き上がる。「夢?でも、ほんとに痛い」と思ってよく見ると、右手の人差し指の爪のところに血が出ている。本当に噛まれたのだ。ネズミ?母の寝床に行き、「ねぇ、うちにネズミいるの?」と聞くと、「いないと思うよ。でも、窓が開いてたら入ってくるかもしれないけど・・・・」。確かに少しだけ窓が開いていた。
「ペプシの魂がね、『ありがと!』って言って行ったんだよ」と母が言った。
ペプシの魂・・・が日本まで飛んできた?それでネズミに姿を借りて? それなら、やっぱり逝ってしまったのだろうか?
私は、やはり信じられず、毎日電話をかけて、「ねぇ、帰ってこないの?」と聞いては、彼に怒られた。
「メリーだって、もう立ち直っているのに、ダメだよ、もう諦めなくちゃ。ペプシの運命だったんだよ。二匹盗られなくてよかったと思わなくちゃ」
受話器の向こうで、メリーの吠える声が聞こえてきた。いつも、ペプシとじゃれあって遊んでいたメリーは、今は一人でボールを相手に遊んだりしているのだという。
数日後のある朝、起きてみると、今度は左腕が痛い。おかしいな・・・と思って見ると、腕に数本の引っかき傷がある。結構な傷だ。え〜なんでだろう?寝ている間に、また何かに引っ掻かれたのだろうか?それとも、確かに少し伸びている爪で、自分で引掻いたのだろうか?私はラオスに電話をかけると言った。
「きっと、ペプシが何か言いたがっているんだよ。ねっ、ペプシはまだ言いたいこと、あるんだよ・・・」
そんな気がした。
(でも、これは、寝ながら自分で引掻いたのだろう?と、後で自分では納得したのだが、それにしては馬鹿力で引っ掻かないと、あんな傷はできない。不思議である。)
あれから10日たった。夕方また電話がかかってきた。母が、「あら、ハイこんにちは。ハイハイいますよ」などと言っている。ラオスからだ。
受話器の向こうで、嬉しそうな声が、「今日はいい知らせだよ。ペプシが帰ってきたよ」と言う。
「えっ!ほんと、ほんとに帰ってきたの?」
「うん、すっかり痩せこけて、臭〜くなって帰ってきた。さっき、洗ってやったところだよ」
彼が昼過ぎに、外から戻ってくると、ペプシは外扉の前で、寝ていたのだという。きっと、疲れきってようやくたどり着き、ホッとして寝てしまったのだろう。
「ぼくを見たら、クゥゥウゥウゥ〜〜〜っていつもみたいにクンクン鳴いて、飛びついてきたよ。すっごく臭くなってたけどね・・・」
メリーは帰ってきたペプシを見つめ、2匹は見つめ合って、ワンワン鳴いたという。(ワンワン泣いたわけではない)
ペプシは、その晩、ご飯を3杯おかわりした。(もっとも、本人が「おかわり!」と言うわけではないが…)よっぽどお腹がすいていたのだろう。その後に、ダンナが、自分と犬たちのために特別のご馳走で買ってきたローストダックを、みんなで分け合って食べたのだそうだ。「ペプシはすぐ食っちまって、メリーはまだしゃぶってるよ」と、彼もムシャムシャしながら言った。
おかえり!ペプシ。よかった・・・・・ほんとに、ありがと。帰ってきてよかった。ありがとう。
私は誰にでもなくお礼を言った。
いったいお前はどんなスリルに満ちた冒険を10日間もしてきたんだろう?誰かに盗られて、どこかに連れていかれた後に、逃げだして帰ってきたのか?それとも、最初から、フラフラとさすらっていたのか?最後の頃は、あんまり臭くなっていたから、もう見向きもされなかったのか? 道ばたで丸くなって寝たのだろうか? 家で寝るみたいに、安心しきって腹出してあおむけになって寝るようなことはできなかったにちがいないね・・・・・私はあれこれ想像するけれど、真相がわかることはないだろう。
ペプシは、おしゃべりできないから、その真相を語ってくれることもない。
でも、本当によかった。おかえりペプシ。
(ペプシは生きていたわけなので、指と腕の傷は、やはりこれも真相がわからない。「助けて!」と、ペプシの魂?が飛んできたのかもしれないし・・・・まっ、犬のことだから、そんなこともあるかも・・・とか思ったり、結構、世の中にはわけのわからんことが起こるわけであります。でも、最後にはメデタシめでたし。)