ぱちん、と枝を剪定したとき、下のほうで「いだっ」と声が聞こえた。
「うわ、ごめんなさい!」
切り落とした枝が誰かに当たってしまったみたいだ。周りに人がいたということに気づかなかった自分自身にあちゃーと思いつつ、じいちゃんにまた怒られてしまうという恐怖を抱えながら、私は慌てて脚立から飛び降りる――といっても高枝切りばさみというれっきとした刃物を持っている身だしそんな事はできるわけないので、ゆっくり慎重に芝生の上に降りた。
木の根元のすぐそば、背丈の低いもこもこした庭木の近くに今しがた剪定しただろう枝が転がっていて、よくよく見ればその庭木の中に人のようなものが見え隠れしていた。それは頭を抱えてしゃがみこんでいる様に見えなくも無い。庭木のちくちくする細い枝葉を掻き分けて覗き込んだ。
「ほんとごめんなさい、怪我はないですか?」
言うと、その人が頭を抱えたまま顔をこちらに向けた。目じりに涙を浮かべてこちらを見上げてくるその人は、びっくりするくらい可愛い女の子だった。なんだかものすごい罪悪感がのしかかってくる。もしや、このお屋敷のお嬢様ではないのかという考えがよぎって、嫌な汗が吹き出てきた。
…と思ったけれども、彼女の服装はテレビ番組の秋葉原の特集に出てきそうなメイド服を着ていた。メイド喫茶とかにありそうなフリフリのやつ。ていうか人生で初めてゴスロリ以外にこんな服を着てる人を見た気がする。エプロンはもちろん、下に着てる黒いミニのワンピースもフリルばっかりで、安物みたいにゴワゴワした素材じゃない。こういう服は、噂では2万も3万もするらしいけど、実際どうなんだろう。
なーんてぼんやり考えてたら、いつのまにやら女の子の顔が青ざめていた。もしかして、打ち所が悪かったんじゃないだろうか――。
「うわ、だだ大丈夫ですか?! どこか痛みますか、って痛いのは当たり前ですよね!」
あーあーと変な声を出しながらあたふたしている姿は、自分でも変だと思えた。情けないけど自分でもどうしたらいいのかわからない。こういうときはとりあえず、じいちゃんか誰かを呼ぶしかない。
「今誰か呼んできま「うわ呼ばないでください!」
茂みから身体を離してくるりと踵を返したときに、言葉をさえぎるようにそう言われた挙句、腕をがっしり掴まれてしまった。腕まくりをしていたので、その子の手の感触がじかに伝わる。ちょっと女の子とは思えないその骨ばった感触にびっくりして、思わず立ち止まってしまった。振り返ると、眉尻をめいっぱい下げた顔のその人。
「後生ですから、ほんとお願いします…」
震えるようなその声に、小さく頷いてちゃんと向き合った。
「――、あの、失礼だとは思いますが、…そういう趣味のひとなんですか?」
「いや違いますから」
泣きそうな声できっぱりそう言われても、どうにもしっくりこない。だってそうでしょ、一度はだまされかけたけど、この人多分性別上は男の子だ。男の子が女装している、それがしかもメイド服、となればもう変人として認識するしかないと思うのだ。
「じゃあホ「違います」
またも泣きそうな声できっぱり言われてしまう。
「趣味でもなんでもないなら、どうしてそんなカッコしてるんですか?」
「…お嬢様の嫌がらせにあいました」
ああ見られたもう死にたい、と今にも泣き出しそうな声で言うもんだから、なんとなく自分の意思でそんな格好をしているのではないというのが伝わってきた。なんだかほっとけなくなってくる。というのも、去年の学園祭で見てても恥ずかしいような服を着せさせられた挙句、宣伝係として校内じゅうを看板持って無理にかけまわされた、そん時の自分の姿と彼の姿がなんだか重なるのだ。こういう時って、何か羽織るものとか貸してくれるともう飛び上がるくらい嬉しいんだよなあ、と自分の格好を見おろした。生憎だが今私が来ている作業着は上下繋がってるヤツだから貸すわけにはいかないし、寧ろ仕事着なので貸せない。
そういえば、今日学校からジャージを持ち帰ってきてたんだっけ。
「えーっと、ちょっと待ってて」
芝生からアスファルトで舗装された道路に降りて、走って白い軽トラに向かう。助手席のドアを開けて座席においてある黒いカバンをひったくるように持ち、強くドアを閉めた。その音に気がついたのか、近くで生垣の刈り込みをしていたじいちゃんから「このやろう!」と怒声を投げかけられてしまった。
「このバカ、てめっ、何やってんだ!」
「じいちゃんごめーん! ちょっといろいろあって!」
そう言って罵声から逃げるように元の場所に全力疾走で戻る。言ったとおりに、彼はそこで待っていた。
「えーと、えーと、これ学校のジャージなんだけど、着ていいから」
歩きつつカバンの中から丸まったジャージを出す。
「え! いいんですか?! あー、でもなあ、迷惑じゃないですか?」
「ぜんぜん。どーせジャージだし」
言いながら彼にジャージを手渡す。そのときジャージの隙間に紛れ込んでいたらしい、今日友達からもらったチロルチョコがひとつふたつと芝生に落ちた。慌ててそれを拾い上げて作業着のポッケに詰め込んだんだけれど、身をかがめたせいなのか開けっ放しのカバンから鏡やら筆箱やらポーチやらがぼろぼろ芝生に落ちた。じいちゃんにさっき怒鳴られた言葉が頭の中で響く。ほんとバカだ。思わずうなる。
小さくため息を吐いてしゃがみこみ、散らばったものを詰め込んでると、目の前にすっと櫛と手帳が差し出された。目が合った瞬間に彼は小さく笑った。どうやら彼も拾ってくれてたらしい。
「…ありがと」
受け取ってカバンに入れてファスナーを閉める。剪定していた木の根元の近くにそのカバンを置いて彼を見れば、ジャージを持ったまま困ったように私を見ていた。
まあ、学校指定の芋くさいジャージを渡されてもやっぱ困るよなあ。でもサイズは一応2Lだからこの人なら普通に着れると思うんだけどなあ。もしかしてジャージが臭すぎて着れないのだろうか…。そんなんだったら嫌だ、というか普通に死ねる。
「やっぱ嫌だった? ジャージ」
言うと、彼はとんでもないといった感じでぶんぶん首を振った。
「違う違う、どこで着替えようかなって」
「屋敷の中は?」
「…屋敷の中で着替えれるなら、そうしてます」
あー、納得。そこらへんを見回してみたけど、細い木ばっかりで隠れて着替えるにも丸見えだ。しいていうなら私が今剪定していた木、の裏側の庭木なら隠れて安全に着替えれそうだ。しゃがみこめば、の話だけど。
「近いとこで考えれば、そこの茂みしかないと思う」
「ですよね」
まあ彼もおんなじことを考えてたらしくて、そのもこもこした庭木を見てうなってから、「しかたないかぁ」と投げやりに呟いてがさごそと茂みに戻っていった。他人の着替えなんか見たくないから、私も慌てて脚立のほうへと戻る。
なんだか疲れたなあと思いつつ、脚立を持ち上げて場所を移動させた。もこもこした庭木が見えなくなったところにその脚立を置いて、芝生の上にあるはさみを拾い上げて脚立を上った。ぶわあっと強く吹いた風が私の髪を巻き上げる。目にゴミが入った気がした。
葉っぱの間にある枝を満遍なく見て、はさみの先を向ける。なんかさっきまで騒がしかったせいか、今は酷く静かな気がした。普段はそんなことは考えないのに。
ばちん、とほそっこい枝を切り落として、また木の間を見る。ぐねぐねした枝――からみ枝って言うらしい、を見つけたのでそれも一応切ることにした。ばちんっ、という音の後にばさっと枝が地面に落ちてくる。
これで大まかなやつは切っただろう。あとは細かいのだけだ。
「もしかして、業者さんの方ですか?」
声が聞こえて、私は下を見下ろした。紺色のジャージに身を包んださっきの人が、メイド服と思われるものを両手で抱えてこっちを見上げていた。小さく頷く。
「っていっても、見習いみたいなもんだけど」
この周りにいると枝落ちてくるから危ないよ、と付け足してまた枝を切った。彼が立ち去る気配はない。そのうちいなくなるだろうと、気にせず枝を剪定し続けた。けれどもそこから彼がいなくなる様子は全く感じなかった。興味津々といった感じの視線が、なんだか痛い。おまけにそれが枝を剪定するじいちゃんを見上げる昔の自分と重なって、なんだか不思議だった。
私が庭師の見習いをはじめて、もう2年くらいになる。
頑固で偏屈者なお師匠様(っていったらいいのだろうか)のじいちゃんは日本のなかではかなり有名な庭師らしくて、だからなのか、お父さんに自分の技術を引き継がせようとしたらしいけど、お父さんは庭師なんかに興味が無かったらしくて、寧ろ庭師みたいに給料も一定じゃなくておまけに古臭い仕事は嫌だと一蹴したらしい。
当然というべきか、じいちゃんの矛先はお姉ちゃんとお兄ちゃんと私に向いたけれど、やっぱりお姉ちゃんもお兄ちゃんも庭師よりは普通の仕事がいいと県外の大学を受験して家を出て行ってしまい、唯一家に残った、高校受験に合格したばかりの15の私が強制的に庭師の仕事を引き継ぐことになってしまった。
みんなの代わりに庭師になれと言われたときは、なんで中学を卒業したばかりの私がこんな事をしなければならないんだろうと、まるでじいちゃんへの生贄にされたようで物凄く嫌だったけれど、あの怖いじいちゃんに逆らえるわけなくて泣く泣く従った。
でも職場につれてってもらったら、周りの人たちはみんな優しかったし、じいちゃんもめったには怒らなかった。じいちゃんが造ったのだという和風庭園の写真をたくさん見せられて、もともと自然とかが好きだった私は徐々に庭師という職業に惹かれていった。
じいちゃんの造った庭を実際に自分の目で見たことがないから、今度の夏休みに行ってまわってみようと思った。行って確かめてみたかった。池のまわりにバランスよく並んだ紅葉の木の葉っぱが落ちた綺麗な水面にかかる橋や、茶室の縁側から見れる庭の中に響く鹿威しの音色を見てみたい――。
結局、彼は私が最後の枝を切り終えるまでそこにいた。
「見てても楽しくなかったでしょ」
あきれたように笑って言うと、彼はううんと首を振った。
「むしろすごいと思いました」
「そんなことないって。こんな枝きるの、そこらへんのおじいちゃんおばあちゃんでもできるよ」
これはほんとの話。庭の木が伸びてきたなあと思ったら業者に頼まずに自分でやるくらいのことをやって褒められるのはなんだか変に感じる。これができて当たり前だと教え込まれてきたなら、なおさら。
「あんたこそすごいじゃない、あんな服着て敷地内走り回るなんて」
「いやだからあれは嫌がらせで」
「まー嫌がらせであんなの着てなかったらただの変態だもんねえ」
笑いながら脚立をたたんで、放置したままのカバンを左肩にかかえて、はさみを左手にしっかり握る。そしてよいしょと脚立を右肩に担ぐ。脚立はずしりと重いけど、持てないというわけではない。そのままスタスタとアスファルトのほうに歩いていくと、何故か彼もついてきた。気にせず軽トラまで向かう。
「なんだおめえ、もう終わったのか」
休憩中らしいじいちゃんと職場の人たちの視線に出迎えられて、わたしは思わずあははと苦笑した。
「何があははだ」
軍手をはめた手で軽く額をたたかれる。皆からどっと笑いが溢れた。軽トラの荷台に脚立とはさみを乗せようとしたら、じいちゃんがひったくるように脚立とはさみを荷台に乗せてくれた。厳しいときもあればこういう時もあるじいちゃんはまるでアメとムチだと思いながら「ありがと」と告げると、じいちゃんが無邪気に笑った。多分じいちゃんは90才以上は生きるだろう。
「手伝うことは?」
「あるわけねえ。休んでろ」
そう言って、吸ってたタバコを作業着のポケットに入ってた携帯吸殻ケースに入れ、「休憩終了ー」と言って歩いていく。そのときに私のジャージを着た彼とすれ違ったが、じいちゃんは興味なさそうに一瞥するだけだった。
みんなが仕事に戻って、私と彼が取り残される。どちらともなく苦笑した。
「お屋敷に戻んなくていいの?」
聞くと、彼はあいまいに頷いた。
「戻りたくても、戻ったらお嬢様の思うつぼというか」
ぼそぼそと呟く彼に苦笑して、軽トラの荷台に置いてあるビニール袋を漁った。めぼしいものはみんな取ってしまったみたいで、サラダせんべいと250ml缶のコーヒーと三ツ矢サイダーしかなかった。なんだか無性にため息が出る。
「…サイダーとコーヒーどっちがいい?」
振り返って彼に聞くと、彼はややたじろいでから、
「こ、コーヒーっ」
言った。ちょっとだけ温くなっている缶コーヒーを彼に投げる。ついでにサラダせんべいもあげた。軽トラによりかかって、サラダせんべいを銜えながらサイダーのタブを引き口を開けた。炭酸の抜けるいい音がした。わたしに続いて彼も缶コーヒーの口を開ける。
「そういえば」
言って、ぬるくなったサイダーでサラダせんべいを流し込む。彼の視線がサラダせんべいから私へと移った。
「あんたって、このお屋敷の使用人とか?」
「ああ、はい。執事やってます」
しつじ、という聞きなれないイントネーションに私はメェメェ鳴いてる羊を思い出した。
執事ってのは、あれだ。メイドの男の人バージョン、…みたいなものだと私は思っている。でもメイドよりは多分位は高いんだろうけど、でもなんだかしっくりこない。なんでかというと私の中では執事っておじさんとかがやるもんだという先入観をもっていたからだ。
「えーと、君何歳?」
「16ですけど」
「あ、一緒だ。…じゃなくて、えーと、執事さんなの? ほんとに」
「まあ見習いみたいなもんですけど」
言ってコーヒーに口をつけて、彼はちょっと眉を寄せた。どうやら生ぬるいコーヒーはお気に召さなかったらしい。私も嫌だけど。
「なんか、お屋敷とか執事とかメイドとか理解できない世界だなぁ」
ここがものすごい金持ちの財閥とは聞いていたが、ここまでとは思わなかった。というのも以前とある財閥の家の庭の手入れを申し込まれて言ってみたらメイドとか執事とは無縁の、“和”を前面に押し出したお家だったからだ。まあ敷地は平安時代の家かよというくらいばかでかかったけど。
「僕も最初はそうでしたけど、まあそのうち慣れるんじゃないですか?」
あははと軽く笑って言う彼を見て、私とは住んでいる世界が違うことを押し付けられたような気がしてくらりとめまいがした、ように思えた。本当に理解不能な世界だ。私は一生平民でいい。
「慣れるって言っても、もうここには来ないと思うよ」
そもそもこの家の庭木の手入れを任されたのは、同業者の社長が脳梗塞で倒れて即入院してしまい、社内がごたごたしていて仕事ができる状況ではないと相談を受け、じいちゃんがその社長と友達だからという経緯でこの仕事を引き受けているのだ。多分来るのは今回限りだろう。そもそもその社長さんの会社と比べてじいちゃんのほうはほんとにごく小規模の会社なのだ。こんなでかい規模の家の庭木の手入れなんか普通は引き受けない、というかそもそもそういうお願いもこないらしいんだけれど。
「代理のお仕事だからねー。しかもじいちゃんは洋式より和式がモットーだから」
「…そうなんですか」
と、彼は何故かあからさまにしょんぼりしてしまう。え、私何かまずいこと言ったかな。
「まあでも、こうやって仕事を引き受けたわけだし、次からはこういうお家からの仕事も引き受けるかもね」
ある種の可能性の話だけれど、実現までほんのわずかな確立しかもたない私の言葉を聞いて彼は小さく笑った。
「そうなんですか」
さっきの「そうなんですか」のイントネーションよりはだいぶかけ離れた物言いだった。なんで他人のことなのに嬉しがるのかなあと思いながら、サイダーを喉の奥に流し込んだ。
「あの、なんというか今更なんですけど」
ん?と缶に口をつけたまま返す。
「名前、なんていうんですか?」
あーと、思わず呟いた。名前のことなんてこれっぽっちも考えていなかった。
「。あんたは?」
「綾崎です。綾崎ハヤテ」
へえ、と相槌を打つ。ハヤテって確か風のことだよなあとか、なんか忍者みたいな名前だとか、どういう漢字で書くのかとか、見た目とギャップあるなあとか、いろいろ考えた。
「かっこいい名前だね」
そんなひねくれた考えとは違って、素直に思ったことを言うと、彼はうつむきがちになって顔を赤くした。照れてるらしい。面白いなあとニヤニヤしてると、「からかわないでくださいよっ」とハヤテ君はムキになって言った。なんか反応が新鮮で、それがまた面白い。私に笑われるのが癪に障ったのか、ハヤテ君はそっぽを向いてしまった。
かと思えば、こっちをぐるりと振り返って「ジャージ!」と言った。
「これ返さないと…」
なんだそんなことかあ、と小さく笑う。
「ああ、返さなければ返さないでいいよ。家にもうワンセットあるから」
ジャージといっても、ハヤテ君に貸したのは卒業した先輩からもらったジャージだし、正直もらわなくてもよかったやつだった。…なんていったら先輩に怒られるだろうけど、ジャージが二つもあると箪笥に入んなくなるのだ。私服のスペースの関係で。
やっとサイダーを飲み干す。温いサイダーはまずい、と心の中で呟いてビニール袋に缶を入れた。ついでにせんべいの包装もいれておく。納得いかなさそうにハヤテ君が見てくるので、苦笑しながらビニール袋を差し出した。何かいいたげに私を見ながらも、空き缶をそのビニール袋の中に入れる。
「じゃあ、ちゃんとクリーニングして新品同様の状態でお返しします」
「…まあそれでもいいけど、クリーニングまでしなくていいから」
せんたくのりでパリパリになったジャージは、いやだ。
結局じいちゃんたちの仕事が終わるまで、軽トラの近くでずーっとしゃべっていた。意外にも私たちは何故か気が合ったのだ。まあ私は結構苦労体質だと思うし、見た目ハヤテ君もそれっぽいから、なんとなく通ずるものはあったんだと思う。初対面でこんなに仲良くなったのは彼がはじめてだ。
「うちの者が大変ご迷惑を掛けました」
トラックの助手席から、じいちゃんに対してスーツ姿のおじさんが何度も頭を下げているのを黙ってみていた。あれが執事長のクラウスさんだと、今さっきハヤテ君に教えてもらった事を心の中で何度も復唱する。したところで自分の生活には関係ないのになあとちょっとだけ自嘲した。“しつじちょうのクラウスさん”って何度も言ってると早口言葉みたいだ。
その執事長のクラウスさんの隣に立っているスーツ姿のハヤテ君が、クラウスさんに催促され(たように見えたけど実際はどうだかしらない)頭を下げた。学校の先生もびっくりしそうなほど綺麗なお辞儀をするので、じいちゃんが感心してるみたいに「ほお」と呟いたのが聞こえた。ハヤテ君の姿はじいちゃんには良く映ったみたいだ。
じーっと見てたせいで、それに気づいたらしいハヤテ君が頭を上げる時に私のほうをちらりと見た。思わずにやりと笑ってしまうと、ハヤテ君の瞳が動揺したようにゆらりと揺れる。
「しかし今日は本当にどうもありがとうございました」
「いやいや、とんでもない」
なんてクラウスさんとじいちゃんが話してる間もじーっと見てると、時折ハヤテ君はこちらをちらりと見た。気になるらしい。
“仕事しろー”とゆっくり口パクすると、ハヤテ君がえっ?といった感じでわずか目を見開いて、それからちょっとだけ首をかしげた。もう一回口パクすると、彼は眉尻を下げて口を動かした。“なに?”と言ったみたいだ。思わず苦笑する。
「こら、どこ見てるの」
ハヤテ君の隣に立つメイドさんがぺちりと彼の頭を叩いた。悪いことしちゃったなあと思いながらも、恨めしそうにこっちを見てくる彼にからかうように笑い返した。
「このばかもん、何やっとんだお前は!」
いきなりじいちゃんにそう怒鳴られて、「うひゃっ」と声が出てビクリと震えてしまった。視線が私に集まる、気がした。じいちゃんがこっちに歩いてくる。いつからじいちゃんは気づいていたんだろう。
「みっともないにも程があるぞ!」
「ぎゃーじいちゃんごめんなさいー!」
扉を挟んでのじいちゃんとの攻防は、結局私が頭を殴られるまで続いた。殴られた直後にちらりとハヤテ君を見れば、さっきまでの私と同じようににんまりと笑っていた。してやられた感が残る。くそう…おぼえてろよ。
ひとしきり怒って満足したらしいじいちゃんがクラウスさんたちの方に戻ると、二人は何かをはなしてからじいちゃんがぺこりと頭を下げた。それから軽トラのほうに歩いてくる。やった、帰れる!と本能で察して内心ガッツポーズを作った。運転席側のドアが開いてじいちゃんが乗り込んでくる。じいちゃんが差し込んだままのキーをひねると車のエンジンがかかった。窓の外を見ればクラウスさんたちはみんなそろって頭を下げていた。彼らが頭を上げるのとほぼ同時に、車が動き出す。
ハヤテ君に向かって軽く手を振ると、彼も笑って手を振った。だがそのすぐあと両側の二人に怒られていた。やっぱりまた悪いことしちゃったなあ。
「また来ることになるかもなあ」
じいちゃんがぼそりと呟いたのを、私は聞き逃さなかった。外からじいちゃんに視線を移して、「そうなの?」と聞いてみる。じいちゃんがフロントガラスをぼんやり見つめながら「ああ」と呟いた。
「その、…社長さんそんなに悪いの?」
「そうらしい。よくはわからんけどなあ」
脳梗塞で倒れたという社長さんの病室に行ったら手術前で面会謝絶だったと、じいちゃんが言っていたのを思い出した。ニュースでも有名人が脳梗塞で急死、とかやってるから、やっぱり酷いんだろうなあ。
「そっかあ、社長さん元気になるといいね」
「そうだなあ」
なんだか社長さん社長さんって言ってると外国から来たホステスみたいで笑えた。
「もう遅いし、高速に乗るぞ。寝たいなら寝とけ」
「わかった」
いわれなくても眠るつもりだった。窓を閉めて、そこにこつんと額をくっつける。
夕焼けがすごく綺麗だった。きっと明日は晴れだ。
2007/05/14