空を覆った灰色の雲から雨粒がトンと石の上へ落ちた。それは石に吸い込まれる事無くつるりとした石の面を滑り、刻み彫られた文字の窪みにはまる。それはやがて無数の雨粒と一緒に雑草が生い茂る地面へと吸い込まれていった。
いつも乾燥したイメージがあるファイアーランドに珍しく雨が降った。雨が降った日のファイアーランドは人通りが少なくやや不気味である。いつもの晴れ渡った空も濁った灰色に覆われていて、いつもの乾燥した空気は湿気に包まれ、いつものさわやかな風もねっとりとした熱気を含んでいる。きっと郊外の流れる溶岩の上に落ちた雨が蒸発しているのだろう。はそんな事をぼんやり考えながら、舗装すらされていない砂利道を傘を差さずに只ひたすら歩いていた。決して歩きやすいと言う訳ではないが、今までの旅の間で足腰がもう慣れという境地に入っていた。平地にぽつんと佇む大木の下、丁寧に作られた石の前に佇む。葉が雨をさえぎるものの、葉にたまった雫が雨粒よりも大きな粒で落ちてきた。
は瞼を動かさずじっと石を見つめた。その表情は僅か虚ろで生気が全く見られない。彼女は何か一言呟いてからしゃがみ込み、抱えた鞄の中から水色の花と白い花で綺麗に作られた花束を取り出した。墓石の地盤にそれをそっと置く。木々の隙間から零れ落ちる雨が花束と彼女を濡らしていった。
しばらくその状態で墓石に彫られた文字を見つめてから、そっと指でそれをなぞり、表情一つ崩さず濡れた唇を小さく開いた。おとうさん、と。
「…わたしは、げんきです。おとうさんは…」
げんきですか、と口を開こうとした自分に気付いて、は口を閉じる。死んだ者に元気ですかと聞くのは少し可笑しいかもしれないけれど、は自嘲の笑みを浮かべてからげんきですかとぽつり呟いた。それと同時、とんと雨粒が彼女の頬を叩く。
「おとうさんに、言っておきたいことがあるんです」
雨音に掻き消えそうなか細い声色が小さく響く。返事は返ってくるわけではないけれども、彼女はじっと墓石を見つめてから、気持ちを落ち着かせるために静かに瞳を閉じた。自分は今、酷く心が乱れている。
の母親はを産み落としたと同時、命を失った。の父親はデビルで、いかにハーフデビルとはいえ人間の子供を魔界につれてくることは出来ずを孤児院に預け、只ひたすらに仕事に没頭していた。いつか愛娘と一緒に暮らせる事を夢見ながら。
そんな時、ファイアーランドに天使と名乗る悪魔がやってきた。天使たちはファイアーランドの街を焼き払い、あろう事か住人の命までを奪い去った。その犠牲者の一人に、の父親も入っていたというのだ。
は父親を探してファイアーランドに来たが、そこはもうさながらゴーストタウンのようで、生き残ったデビルたちが街を復旧しようと朝から晩まで働いていた。1ヶ月ほどそこで情報収集をかねて父親を探し回ったが結局、死体が入っていない墓という名の石しか見つけることは出来なかった。
意味も無く敵を討とうとファイアーランドを襲った天使というのを調べてみたが、自分の友人――刹那の弟だと知った時はまさに目の前が真っ暗になったという状態だった。しかもラグナロクを起動させた今では刹那の弟はいない。――彼はもともといない存在だったのだ。永久はラグナロクを起動させるためのコマにしか過ぎなかった。
頬に落ちる雫が止んだ。は雨が止んだのかと目蓋を開ければ幹の向こうにはやや太めの雨糸が地面に落ちている。同時に頭の中に響くような雨音。なぜ、と視線を上げると黄色い布が見えた。プラスチックの骨組みの角先に雫が溜まって自分の鼻先に落ちる。それが傘だと理解するのにかなりの時間を要した気がした。
彼女はここに来てから初めて大きく表情を崩した。慌てて後ろを振り返ると宝石のような翡翠色が見えた。視界がぼやける事に困惑しながらそこで気付いた。自分は瞳に涙をためているのだと。目の前に立つ彼に泣き顔を見られた恥ずかしさと、彼がなぜここにいるのかという疑問が、いつの間にか涙を流すまでのもやもやとした感情を洗い流していた。
「…泣いてる?」
「…これは汗と雨が瞳の中で交じり合った青春汁で御座います」
が強めにごしごしと目を擦ってから、景色の中に只一つ明るい黄色の傘を持ったゼットをちらりと見上げると、彼はやや苦笑に似た表情を浮かべていた。ある意味墓穴を掘ったと後悔しながら、は墓石に視線を戻す。早く帰れと呪文のように心の中で唱えてみたがその呪文は叶う事は無かった。ゼットが浮かべる満面の笑みを見てはしばし呆れた笑みを零した。意味が違うけれども毒気が抜かれるとはこういうことなのだろうか、と。
「を探しに来た」
は開いた口を閉じる。なぜならば問おうとしていた事の答を先に言われたからだ。だから彼は苦手だと心の中で毒づきながら、は墓石を見つめる。
「未来と、……――刹那が会いたがってたよ」
思えば刹那達とゼットとは二ヶ月ほど会っていなかった。今更会える訳が無い、特に刹那とは。もしも彼と会ったら、きっと酷い言葉をかけてしまう。父を失ったという、彼の弟に対しての恨みから。
傘に当たる雨音が少しだけ弱くなる。辺りを見回せばか細く小さい雨粒が地面を撫でるようにして落ちていた。もう少ししたら、雲の合間から太陽が顔を出すだろう。
「が気にしてるのは、永久くんの事?」
はしばらく黙り込んでから、微かに頷いた。その後抱え込んだ膝に目蓋を押し当てる。視界が一層暗くなった。まだこの青春汁という名を持つ涙は出るのかと考えながら、ゼットにわからないよう涙を膝小僧にこすりつけた。
「刹那も薄々感づいてるし、未来たちにとって言ってくれたほうが嬉しいと思うけど」
何を、とは問おうとして、口を噤んだ。その代わりに顔を上げてまさかと自嘲したように呟いてみる。このことをあの二人に告げたならば、責任を感じた刹那のおかげで多少なり面倒ごとに発展しかねないだろう。きっと彼の性格からして何度も謝るに違いない。想像してみて素晴しく嫌な光景が思い浮かんだ。
「無理だよ」
彼らはよくても、自分はよくない。それに、未だ心の整理はついていないし、そこまで出来るほど自分には勇気が無い。おまけに、こういう個人的な問題には人に干渉などされたくはない。
「不器用だなあ」
「元々だもん」
ゼットは苦笑して、拗ねたような表情のの頭の上に手を置いた。じんわりと熱が伝わってきて、は少しだけ目を伏せる。そのまま指先が頬を撫でて、濡れてぴったりと頬にくっついた髪を持ち上げ耳にかけた。思えば、自分は酷く濡れている。おまけに足下から這い上がる寒気が自分を襲った。靴から髪の毛の先まで濡れていて、本当にびしょ濡れそのものだった。
「これからはどうするの?」
ゼットがぽんぽんと頭を軽く叩きながら聞いてきた。子ども扱いされている事に少しだけ腹が立つものの、自分が生きている年月よりも、深淵魔王と呼ばれる程に遥か長い年月を生きているのだと意識すると、どうにも反論できない。甘えたいのかな、なんて考えている自分が酷く情けなく思えた。そう思わせるほど、彼は精神的に大人なのだ。
「…明日か明後日にここを出ようと思う。行き先は決まってないけど」
ぽつりと呟くと、彼は小さく笑った。
「そっか」
それから彼は立ち上がって、黄色い傘を閉じる。そして軽く水を払うようにとんとんと地面に軽く先を叩き付けた。水玉が跳ねて地面に吸い込まれていく様がには綺麗に思えた。葉に溜まった雫がきらきらと日光を反射している。いつの間にか雨は止んでしまったらしい。隙間から零れ落ちる光が今までの暗さと対照的で、凄くまぶしく感じられたような気がした。
不意にゼットがの名前を呼んで、はきょとんとした表情で振り返る。
「本当に、言わないつもりなのか?」
は微かに笑って、こくんと頷いた。きっとお人よしの彼らは気づくかもしれないけど、その時は自分からちゃんと話すつもりだ。
「いえないよ。…でもね、時が来たら、――刹那には言おうと思う」
その事を述べると彼は安心したように微笑んだ。は心に引っかかった錘が取れたような気がした。今は気分がとても軽い。彼女は墓石を振り返り、おとうさんと呟いた。
「わたしは、しあわせです」
だから心配しないで。天国でやさしく見守ってて。と彼女は優しい声で告げた。もうなにがあってもここに来る事はないだろうと決心しながら。直接的に耳に届く返事は無いけれども、その代わりざあと優しく風が吹いた。湿気を含んだ生暖かいものではなく、心地よく爽やかな。
ゼット、と彼女がやや大きめに声を立てると、前方で子供のように傘を回しているゼットが立ち止まって何事かと振り向いた。緑の中にぽつんと佇む翡翠と黄色。は微かに微笑んでから、口を動かした。
ゼットは一瞬目を見開いてから照れたように笑う。それから振り向き様に手を振ってその場から空気が歪むようにして消えていった。
は鞄を持ち直して足を踏み出す。ここに来た時の気分とは違って、今の天気と同様彼女の気分は晴れやかだった。
日付不明