「ちょっとこれさ、ハラケンに返しといてくれない?」
放課後のことだった。帰りのホームルームが終わって、教室にはもう生徒が全くといっていいほど残っていないとき、ヤサコは後ろの席のフミエにそういわれた。フミエの手には一冊の古びた本がある。その汚れ具合は紛れもなく、電脳世界のモノではなく現実のモノだという証拠だった。
「今日返そうと思ったんだけど先生に呼ばれちゃってて…、お願いね」
半ば押し付けるような物言いだったが、ヤサコはにこりと笑って快くそれを了承した。ハラケンとは同じ部に所属しているし、ハラケンと会って話すのはさほどいやではなかった。それに、フミエのいないところで聞いてみたいこともあったので、この用事のついでに聞いてみようと思ったのだ。
ヤサコは席を立って、ランドセルの中に教科書を詰め込む。本を片手にランドセルを背負いながら、ヤサコはすたすたときっちりした足取りで廊下に出た。
廊下にはもう誰もいなかった。窓の向こうから聞こえる校庭の喧騒がやけに遠くに感じられた。ホームルームが終わった直後はあんなに騒がしかったのになあ、とヤサコはきょろっと辺りを見回した。なんだかこんなに静かすぎると、逆に不気味だ。ふいに、学校に怪談話は付き物だという事をヤサコは思い出し、小さく身震いした。自然と早足になる。有り得ないとは思うものの、やはり幽霊とかオバケとかは怖い。
6年1組の近くに来ても、やっぱり静かだった。教室のドアは遠くから見ても開けっ放しになっているのがわかる。どうやら最後に出た人が閉め忘れたらしい。1組の教室の窓が開けたままになっているようで、校庭からの喧騒がいっそう酷くなると同時に、足を生ぬるい風が撫ぜた。恐る恐る、といった感じでヤサコは1組の中を覗き込む。教室の中はハラケン以外、誰もいなかった。
ハラケンは何をするでもなく、ただ窓際に寄り添い、窓枠に肘を立てて手のひらに顎を乗せ、ぼーっと外を眺めていた。ヤサコが教室に入るが、ハラケンは気づかない。何にそんなに夢中なんだとヤサコは首をかしげて足を進めた。ハラケンのところまであと1メートル、という場所まできたのに、ハラケンはヤサコに全く気づかない。どんだけボーっとしているんだとヤサコは苦笑して、窓の外に目を移した。
四角いコートを二つに分けた中に、8人、9人の生徒がちらほら散らばっている。コートの外ではぐるっとコートを取り囲むように6人立っていた。どうやらドッジボールをしているようだ。その中に、むーっと眉を寄せて真剣そうなの姿があった。
はあ、なるほど、だから窓際にいるのか、とヤサコはちらりとハラケンの顔を見たが、ハラケンは生憎ヤサコにはまだ気づいていない。
相手コートの男子が青いボールをのほうに向かって投げるが、はそれをひょいっと軽く避けた。そのボールを外野の男子が拾い上げ、体制の崩れたを続けざまに狙うが、はまたひょいっと避ける。なんて反射神経だとヤサコは思った。
「すごいのね、ちゃんって」
ヤサコが何気なしにぽつりと呟くと。
「うわっ!」
ばっと窓際から離れて数歩後ずさったハラケンは珍しく驚きに満ちた顔をしている。なんだか面白いなあ、とヤサコはくすくすと密かに笑った。
「いっ、いつからいたの!?」
「さっきからだけど…」
そんなに驚くことないじゃない。とヤサコが苦笑すると、ハラケンはばつがわるそうな顔をしながらまた窓際に戻った。そこが定位置なのね、とヤサコは苦笑して片手で本を差し出した。
「これ、フミエちゃんから預かってたの」
ハラケンは少しだけ瞳を開いてから、それを受け取った。
「…ありがと」
そう呟いて、ハラケンはすたすたと自分の席のほうに向かう。机の横に備え付けのフックにかけられたランドセルにそれを入れて、ハラケンはまたすたすたとこっちに戻ってきた。
「うしろー!」
いきなり外からそんな叫び声が聞こえて、ヤサコはすぐさま視線を窓の外に移した。見ればコート内で転んでしまったのかしりもちをついたの後ろで、外野の女子生徒がボールを拾い上げていた。その女子生徒がボールを投げる構えを取る瞬間、ハラケンがぴくりと少しだけ動いたのをヤサコは見逃さなかった。
女子生徒がボールを投げると、が身をすくめた。そのボールはひょろひょろと弧を描いて、の右横にてんっと落ちた。てんてん、と数回バウンドして、がいるコート内の男子生徒がそれを拾い上げる。どうやらその女子生徒、ボールを投げるのが苦手らしい。確かにヤサコもそういう事は苦手だが、あそこまで下手ではないと思う。同じコート内にいる女子に手を引っ張られてが立ち上がるのを見ながら、ヤサコは安堵の息を吐いた。その横にいるハラケンもふう、と小さく息を吐く。
「ちょっと今のは、あぶなかったねぇ…」
あはは、と乾いた笑いを浮かべながらヤサコはハラケンに向けて呟いた。ハラケンが小さく頷く。
それからのは、しりもちをつくことなく、コート内をそこかしこ駆け回っていた。のチームは最初劣勢だったものの、じょじょに相手チームを押し始めている。なんでこんな暑い日にドッジボールなんかしているのか、運動があまり得意ではないヤサコには理解しがたかったが、がやけに楽しそうに動き回っているので深くは考えないことにした。
「そういえば、ちょっと疑問に思ってたんだけど」
ヤサコが言うと、ハラケンがん?と少しだけ顔を上げた。
「ハラケンって、ちゃんのこと好きなの?」
ヤサコにとっては本当に、ごく自然な質問だった。今日の晩御飯何かな? と聞くような質問と大して変わりはない。だがハラケンにとってはそうではなかったらしい。ハラケンはえ…、と小さく呟いてからしばし固まった後。
「え、えええ!?」
と声をほんの少しだけ裏返らせて叫んだ。けれどもヤサコにとってそれが叫ぶという表現には声の音量が見合ってない気がした。ハラケンが金魚みたいに口をぱくぱくさせる。彼の耳が赤くなったことに、ヤサコはやっぱりなあと小さく笑った。
「な、な、何を言って…」
「やっぱりそうなんだ。だってハラケン、ずっとちゃんのこと見てるじゃない」
さも楽しそうに言うヤサコに、ハラケンがあたふたと言葉をつむぐ。
「そ、そんなんじゃないって!」
ボールから必死に逃げているを見下ろしながら、暫くした後ハラケンは言う。
「――、2年前に事故にあって、こういっちゃあれだけど死にかけてるから。…ちっちゃいころにも車とぶつかったらしいし。2度あることは3度あるって言うし…」
あたふたしながらのぎこちない物言いだったが、それはヤサコにとっては十分理解できる言葉だった。
「それに、ずーっと見てないと、目を離した隙にカンナがを連れてっちゃいそうで怖いんだ」
それを聞いて、ヤサコは昔読んだホラー漫画を思い出した。小学生の子供が死んでしまい、棺の中に副葬品を入れなかったから、その子は寂しさのあまりに周りの友達をみんな死なせてしまうといった内容のものだった。そういうのをひっくるめて確か友引、というんじゃなかっただっただろうかと必死に思い出す。
ただの迷信だろうけどなあとヤサコは思うのだが、去年幼馴染を亡くしているんだし、……あののことだ。ちょっとしたことで危ない目に会いそうな彼女の雰囲気は、会ってからまだ間もないヤサコにもわかる。もしも、フミエが事故で亡くなり、続けてアイコも事故で亡くなったらと思うとヤサコはぞっとした。その恐怖はきっと、対象が幼馴染となればなおさら深まるんだろう。
でもそれとこれと、好きなのは違うような気がしないでもない。ヤサコはハラケンになんだかうまくはぐらかされてしまったんじゃないかと小さくため息を吐いた。
「ヤサコちゃーん! ケンちゃーん!」
聞きなれた声が耳に届いて、ヤサコとハラケンは同時にばっと窓の外を見下ろした。見ればコートの中央で、男子にまぎれて立っているがこっちに向けてぶんぶん手を振っていた。相手方のコート内を見れば全滅している。どうやらのチームが勝ったらしい。
ドッジボールをやっていたメンバーがぞろぞろと校舎に戻っていく中、を含めた2人がまだ校庭に残っていた。
「もしかして最初から見てたー?」
ハラケンはその問いに答えず、ヤサコをちらりと見た。どうやらヤサコに答えろという事らしい。
「途中からー!」
言いながら、多分ハラケンは最初から見てたんだろうなとヤサコは考えた。
「そっかー! 残念だなー、わたしきっとものすごーくかっこよかったんだよー!」
えへへとまるでお花を飛ばしそうな勢いでほのぼのと笑うに、ヤサコは自然と口元が緩むのが感じられた。そんなんあるわけないでしょ、と隣にいた女子生徒の突っ込みに、そうかなーとは苦笑する。
「あーもーお前ら早く来いよー先行くぞー!」
なんていう男子の声とともに、青いボールが飛んでくる。大きな弧を描いて飛ぶボールを投げたその男子は、多分力を抜いて投げたらしい。しかしそれがまずかったのか。青いボールはの頭にめがけて飛んでいく。
てーん、といういい音がして、ボールはの頭から地面にバウンドした。はふらりとよためいて、崩れ落ちるようにその場に倒れこんだ。
「っ!」
ハラケンが窓から身を乗り出しそうな勢いでそう叫んだのは、のそばにいた女子生徒がギャーと奇声を発するよりも早かった。女子生徒がを抱き起こしてぶんぶん揺さぶるそばに、ボールを投げた張本人だろう男子生徒が慌てた様子で駆け寄ってきた。彼はのそばにしゃがみこむ。
ハラケンとヤサコは緊迫したような顔でたちの様子を見ていたが、が二人に向かってひらひらと手を振ったので、ヤサコは胸に手を置いて盛大に息を吐いた。
クラス内での小さなドッジボール大会を終えた後、はいつもどおりハラケンと合流して下駄箱までやってきた。が靴を取ろうと手を伸ばしたときに、そろそろと頭を撫でられたので、はびくりとして手にしていた靴を落としてしまった。あわわわわ、と言いながらは靴を拾い上げる。振り返ってハラケンを見れば、ハラケンはハラケンで戸惑っているらしく手を引っ込めている最中だった。
「もしかして、たんこぶできてたとか?」
「いや、…そういうんじゃないけど」
はっきりしない態度はいつもの事だったので、は深く追求するまいと靴をはいて外に出た。
「ばいばいー」
遠くのほうにいるクラスメイトにそういわれて、はまたねーと手を振った。彼女がこっちに背中を向けて歩き出したころ、ハラケンがの横に並ぶ。の背はクラスで2番目に小さい。だから自然と、ハラケンを少しだけ見上げる形になってしまう。
「かえろっか」
にこー、と笑うに、ハラケンは小さく頷いた。が一歩踏み出したと同時、
「あ、待って」
とハラケンがを引き止める。
「え、忘れ物?」
「いや、…の服、すごい汚い」
言ってハラケンは問答無用での服を払い始めた。は驚きのあまり硬直してしまう。ドッジボールの最中に地面を転がったりしたことを、は今激しく後悔した。
そんな二人を自分のクラスから見下ろしているフミエはうーわー、というような顔をして、その隣に立つヤサコは冷やかしてみよっか、と小さく笑った。
2007/06/17