※23話冒頭の後。かなりの捏造と妄想が入り乱れています。
ギシリ。
床の軋む音に宵風はぱちりと目を開けた。どのくらい寝ていたのだろうかとぼんやり彼は考える。ギシリ。また床が軋む。ギシリ。さっきから連続的に続くこの音はどう考えても人の足音だ。誰かがここに来たのだろうか。ギシリ。宵風は嫌そうに眉を寄せて上体を起こした。どうにも気分が悪い。ギシリ。雨漏りした天井からぽたりと滴が落ちる。ギシッ。それとほぼ同時に、宵風は音のするほうを見据え、人差し指を向けた。
が、見慣れたその顔立ちに彼は拍子抜けする。
「…オハヨオ」
宵風に指差されたままのは、両手をゆっくり上げながら、一つ一つの言葉を確かめるように彼にそう呼びかけた。意外な訪問者にぽかんとした宵風と、まさか攻撃されそうになるとは思っていなかったらしいの視線が交錯する。それは、ふと我にかえった宵風が右手を下ろすまで続いた。
宵風が立ち上がろうとするのを、が慌てて制する。仕方なく座席にもたれかかる宵風の横に、が同じように座り込んだ。床はびちゃびちゃに濡れているというのにどうして平気で座れるんだと指摘しようとと思ったが、よくよく見ればはびしょぬれで、そういえば自分も同じようなものだと気づくと宵風は言いかけた口を閉じた。
「…何しに来たの」
「べっつに、ただなんとなく」
雨漏れの滴を鬱陶しそうに手で掃いながら、吐き棄てるように呟いた声は聞き取りにくい。だが彼女が自分のことを心配しているという事は簡単に見て取れた。それは自惚れでもなんでもない。どうしてもそうわかってしまうのだ。
そういうしがらみがひどく鬱陶しくて、うざったい。ほんの前までは彼女にそんな気持ちをひとつも抱かなかったのに、いつからそう思い始めてしまったんだろう。まるで空気みたいな存在感の彼女といるのはあまり気に障ることはなかったのに。
と、にじーっと見つめられていることに今更気がつく。不満そうに見てくる宵風に、は苦笑を浮かべた。
「なんか1人ムツカシそうな顔してるけどさぁ、…大丈夫?」
大丈夫、という言葉が頭に響いた。があの女性とだぶって見える。何か、ぞくりとするものが体を伝う。が怖いわけではないのに、畏怖の対象ですらないのに、よくわからないけれど彼女に脅えている自分がいる。なんでこうも無条件に他人に優しくできるのだろうか。自分に構ったところでなんのメリットもないのに。構わないでほしいと願っても無駄なことだとわかっている。僕なんかに構うな、ほっといてくれ。構うな構うな構うな――!
「…っ!」
何かが弾けるような音と、ひゅっと息を吸い込む音に、我にかえる。見ればは顔をしかめての右手の前腕を片手で押さえていた。その指の間から溢れた鮮血が床にぽとりと落ちる。どうやら無意識のうちの行動だったらしい。気羅を打ち込まれたの腕を凝視して、思わず息を呑んだ。酷い後悔にとらわれる。激しい自己嫌悪のせいで破壊衝動に襲われたが、それをなんとか堪えて握りこぶしを作るだけに留めた。
「もう、放っといてくれ…」
そう吐き棄て、足を抱えて膝頭に目頭を押し付けた。今すぐ消えてほしい。一人にしてほしい。そう願ったところで彼女がすぐにここから立ち去ってくれるわけではなかった。苛々が募っていく。
「たとえばのはなし、」
いきなりが言い出すものだから、宵風が少しだけ顔を上げた。の右手にはどこから出したのだろう、ギラギラとにびいろに光る黒いクナイが握られていた。はそれをぴたりと自身の首筋に押し当てる。
「私が今ここで死にたいと言ったら、宵風くんはどうしますか」
くん付けで名前を呼ぶあたり、いつもの冗談だろうと思ったが、彼女はまっすぐに宵風を見つめている。
「放っとける?」
ぐ、とが手に力を込めてクナイを滑らせるので、宵風は手を伸ばしてクナイをの首筋から離した。本気だったのだろうか、そこには血がにじんでいる。なんて無駄な事をするんだろうとをあきれたように見るが、はいたってまじめな顔つきだ。
「ほっとけないでしょ? わたしだってミハルくんとかがそんな事したらほっとけないと思う」
は小さくため息を吐いて、床にクナイを置いた。宵風から視線をそらして、正面を見据える。
「宵風にとっちゃあ、わたしが鬱陶しく感じるのわからなくもないよ。わたしが死ぬとわかってて接してくる人たち…まあ主に先生なんだけど正直うざったいもん。だから、宵風が私のことを鬱陶しがってるのはわからなくもない…ってこれ最初に言ったな」
言葉に詰まったのかうーんうーんと悩み始めるは、えーとと天井を見上げてからきりっとした顔つきでこっちを見る。そのままずいっと顔を近づけてきた。
「要は、今にも死にそうなやつをほっとけないんだってば!」
そう叫んでからふいと顔をそらしてはむすっとした顔のまま窓の外を見やる。なんだか言われてばっかりで、しかも死ぬなどと言われてはこっちも黙っていられなかった。
「僕は死なない」
死んでたまるか、その前に消えてやる。そんな事を思いながら呟くと、がちいさく鼻で笑う。
「どうだか」
それからはへらへら笑って、怪我した腕をかばいながら立ち上がった。それにつられて宵風も顔を上げる。そこに、小さな手のひらが差し出された。雪見のように骨ばってない柔らかな丸みを帯びたその手はの造りは、人を傷つけるためのものではないなあと柄にも無いことを考えてしまう。
「風邪ひいて死んだら洒落にならないでしょ」
早く手を握れと言わんばかりにちょいちょいと動かすので、宵風は何も考えずにその手を取った。自分と同じような立場の彼女に、共通意識を持ってしまったせいか、無下に扱う事はできなかった。決して同情しているわけではないが。
引っ張られるようにして宵風は立ち上がる。宵風が素直に応じたのが意外だったらしく、はぱちくり瞬きしてから、少しだけ目を細めて笑った。
2007/05/01