雨が降っている。今日は綺麗な満月が出る日なのに、その月は重たい色をした雲にすっぽり隠れてしまい、今や空から落ちてくる雫のおかげで、月の影は殆ど見えなかった。
は窓の外からぼんやりと眺めた。ざあざあという音が、遠い世界にある音みたいにぼんやりと聞こえる。シャープペンシルをテーブルの上に置き、座椅子の背もたれに身体を預けて時計を確認する。明日がもう、すぐそこまで迫っていた。かといって、朝日が差し込むとか、雨がぴたりとやむとか、劇的に外の風景が変わるわけではない。むしろより一層、雨がひどくなるだけだった。
窓に当たる雨の音は、途絶えることは無い。の身体に眠気が訪れる気配も、雨がやまないのを感じさせないのと同じくらいに、ちっとも感じることは無かった。
ココアを飲みながら、ノートに目を写す。数学の計算、漢字の練習、理科の問題集、社会歴史の年表。これが今日やった勉強の内容だ。小学生でも受験をしなければならないあたり、魔界とは違って人間界というものはややっこしくもあり、またそれが面白いといえば面白い、とゼットがぼやいていたのを急に思い出した。
飲んでいたココアが無くなった。は底にたまったココアの粉をじっと眺めてからため息をついて、デーブルの上に置く。前かがみになって手を伸ばし、テーブルの反対側に置いてあるガラスの器に人差し指をかけ、こちら側に持ってくる。そして雪のように白くて、綿のように柔らかいマシュマロをつまみとった。それを口に含んで噛み千切ると、中からチョコレートが出てくる。はこのチョコマシュマロという菓子が好きだった。それも単に、亡くなった父親が昔よく買ってきたから、好きだった。
そのときだ。部屋中にピンポーン、と無機質なインターホンの音が響いた。はゆっくりと首だけ動かして、この部屋と廊下の境界を定める窓付きのドアの向こう、廊下の奥の玄関のドアを見た。真夜中に来客が来るなんてのは、の家では殆どない事だった。たとえ来客がいたとしても、同じマンションに住む未来か刹那あたりなのだが、こんな日時が変わる時間帯に来る様な性格ではない。
は炬燵から足を抜いて立ち上がり、居間を出てから、ドアの向こうの相手に聞こえるかはわからないが、はーい、と軽くひとつ返事をする。サンダルを履いて鍵を外し、チェーンロックを外して勢いよくドアを開けた。
外には誰もいなかった。は辺りを見回してから、下のほうで聞こえた小さなくしゃみをきっかけに、前を見据えていた視線を下へと落とした。
その客には見覚えがあった。角やらわけのわからない、にとっては無駄に見える装飾のついた群青色の帽子に、同じような群青色の服。ゼットと違って柔らかそうな緑の髪の毛に、赤みがかった大きな瞳、そして今の雨雲に似た、薄暗い灰色がかった肌の色。背は自分より二回り程度小さい。
は珍しい人物の来客に固まった。どう迎えたら良いのかわからず固まっていると、彼は小さくくしゃみをする。そして初めて、彼――フェゴールがずぶ濡れであることに気がついた。
「…とりあえず、入って」
が言うと、フェゴールはとことこと家の中へと足を進める。はドアを閉め、さっきと同じように鍵をかけ、チェーンロックをかけた。
フェゴールは荒く息を吐きながら肩を上下させ、けほけほと軽く咳き込む。どうやらゲートがある神社の裏からこの雨の中走ってきたらしい。は感心しながらサンダルを脱ぎ、玄関のマットの上に立ってフェゴールを高い位置から見据えた。
「今、タオルと着替え持ってくるから」
彼は小さくこくんと頷いた。髪の毛からダイヤモンドみたいにきらきら光る雫が足元に落ちるのが見えた。はくるりと振り返って、居間のドアを開ける。予想外の範囲の人物の来客に、正直頭は混乱していた。昨日洗濯をして乾ききったバスタオルをハンガーから引っ張り取り、箪笥の一番下の段にある、もう小さくなって着れなくなってしまったパジャマを引っ張り出して、急いで玄関へと向かう。
「…フェゴール、こんなにずぶ濡れで、どしたの?」
足元にパジャマを置き、真っ白なバスタオルを広げながらは言うと、フェゴールは水に濡れた帽子を取り、同じように水に濡れた髪の毛を鬱陶しそうに払う。そして忌々しそうに、ぽつんと呟いた。
「兄さんが…」
掠れた声に、は首をすくめて見せた。真っ赤で大きなヘアピンを使い、後ろに纏めた髪が数本、さらさらと肩の上に落ちる。
「長男のほう?」
長男、というのは彼女の中ではゼットの事を指していた。ゼットは放浪癖があり、まあよく言う"怠け者"というやつで、ディープホールの王だの何だのと呼ばれている割には、自由気ままに魔界や人間界を行き来していることが殆どで、自分の住処に一日中居座るのはごくまれなことだった。だから、当たり前の事なのかも知れないが、彼らの弟たちに深淵を見守らなければならない権利が行く。弟たちは真面目に仕事をしているが、兄はそうでない、となれば、多少なり兄弟での反発は起きるはずだ。
以前魔界へ足を運ばせたとき、刹那からそういう相談を受けた覚えがにはあった。そのときに返した言葉はなんだったかなと考え、兄弟間では喧嘩はつき物だ、と軽く流したことをは思い出した。
は小さくため息を吐いてから、バスタオルでフェゴールの頭を包む。
「はい、目瞑ってー」
言いながら、は乱暴気味に濡れた髪を拭いていく。
「っぶ、ぶぇ、…ぶはっ」
「こら、暴れない」
苦しそうにわたわたと手を振りながら暴れるフェゴールをよそに、はそんな彼にまるで子供のようだと、くすくすと小さく笑った。
もういいかな、とがぽつんと優しく呟いて髪の毛を拭き終わる頃には、フェゴールのずぶ濡れだった髪の毛は、今や水気は少ししか残っていなかったが、毛先は四方八方に飛び散って、まるで強風を浴びたかのようにぼさぼさになっていた。それに怒っているのか、フェゴールはむすっとした表情でを見上げていた。
「雨の日に来るのが悪いよ」
ぐ、と声を上げるフェゴールに苦笑して、はバスタオルを膝の上に置き、彼の頬をつまんだ。ふに、と音がしそうなくらい柔らかいそれを極限まで引っ張り、そして離す。フェゴールは痛そうに両手で頬を押さえて、小さくうめき声をあげてから、を睨み返す。けれどもその表情はすぐに、反省の色に変わった。多分彼はこんな時間にこの家に訪れたのを、申し訳ないと思っているのだ。はそんなフェゴールに自然と顔を緩ませて、ぽんぽんと頭を撫でた。するとフェゴールは頬に少しだけ赤みを差させて、むすっとした表情に戻った。
「言っとくけど、俺は子供じゃないぞっ。そこんとこ、わかってるのか?」
「わかってるよ。はい、ばんざいして、ばんざーい」
「っ! ふ、服くらい、自分で脱げるっ」
の、まるで子供を相手にする態度に怒ったのか、フェゴールは赤みが差した顔できつくをにらみつけた。はくすくすと笑いながら、フェゴールにバスタオルを渡す。
「後は自分でできるよね?」
「当たり前だ」
フェゴールはさも不満といわんばかりに顔を顰めて、小さく低く、それでいて覇気を感じさせる怒鳴り声を上げた。はそんな彼に苦笑して、両手を上げながら立ち上がる。
「おー、怖い怖い」
飄々と、からかうようにその場を後にすると、後ろからフェゴールのうるさい!という怒鳴り声が聞こえた。は苦笑して、居間の真ん中を陣取るコタツに向かい、先ほど座っていた座椅子に戻ろうかと思ったが、廊下の奥でフェゴールの大きなくしゃみが聞こえた。
ははぁとため息を吐いてから苦笑を浮かべて、テーブルの上にあるカップを持ってキッチンに向かった。
は棚からココアの粉とマグカップ一つ取り出して、先ほど使った鍋に砂糖と一緒にココアの粉を入れて、少量の水を注いでガスコンロの火にかけ軽く練り、冷蔵庫にある牛乳を少しずつ注いでいく。はこの、ココアの入れ方がとても得意だった。
ココアの甘い香りが部屋中一杯に広がった頃に、フェゴールがむすっとした、それでいて嬉しそうな表情で、とことことキッチンにやってきた。
「…服とタオル、洗濯籠に入れておいた」
「うん、今洗ってあげるね」
ガスコンロの火を止め、置いていたマグカップにココアの量が均等になるように注ぐ。注ぎ終わってから、はもう飲まないだろうと流しに置き水道水で軽く洗い、水を溢れる位まで入れて、濡れた手でマグカップを二つ持つ。今に向かって歩き出すと、フェゴールもそれに急ぎ足でついてきた。
「炬燵入ってて。寒いでしょ」
湯気の立つマグカップを炬燵の上に置きながらは言い、部屋の隅にある洗濯籠を持ち、立ち去ろうと足を進めた、そんな時。
「あ、…!」
フェゴールに呼ばれ、はなあにと言ってくるりと振り返る。するとフェゴールはぽかんとした表情を一瞬だけ見せてから、むすっとした表情でうつむき加減に、ぽつんと小さく呟いた。
「その、済まない……ありがとう」
小さくて聞き取りにくい声ではあったが、にとってはその声がとてもはっきりと聞こえた。は暫くぽかんとフェゴールを見つめてから、嬉しそうに無邪気な笑みを顔に貼り付ける。
「いいよ、気にしてない」
そういって、はフェゴールのそばに近寄り、悪戯っぽく笑いながら、炬燵の上に置いてあるガラスの器に入ったチョコマシュマロを、フェゴールの口の中に押し込んだ。
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