三種の神器
レッシングは最初、目の前のそれが何なのか、すぐに理解できなかった。後方支援部の一角にある防音室である。ここはつい先日まで誰もが素通りする空き部屋だったのだが、レッシングがドラムの演奏場所として使用申請書を出した事により、明かりが灯らない日はなくなった。
暴風雨のような勢いでドラムを叩くのがレッシングの趣味であり、また精神安定剤でもあった。無我夢中に、心の赴くままにスティックを振るって音を奏でると心が休まるのだ。
そうして荒々しい演奏を終え、ふと、ドラムセットの向こう側に少女が一人ちんまりとしゃがみこんでいるのに気が付いた。
きょとんとした顔でレッシングを見つめている。対するレッシングもきょとんと目を見開き、何度も瞬きを繰り返した。
幻覚かと一瞬疑った。だが少女がパチパチと拍手をし始めたので、現実だと悟った。
「すごいすごい!」
少女はキラキラした輝きを放つ視線をレッシングに向ける。言葉の調子に合わせて拍手も一層勢いを増した。
「……あなたがいるのに気が付かなかった。何か用でも?」
「えっと、備品を置きに来たんだ。でも夢中で叩いてたから気付かなかったんだと思う」
と言って、少女は壁際に置かれた縦長の細い箱を指さした。蛍光灯だ。それだけでレッシングは察した。たしかに部屋の奥の蛍光灯の一本がちかちかと明滅するときがあったからだ。あれはそろそろ替え時という事なのだろう。
「すぐに退室するつもりだったけど、演奏がすごかったのでつい聞き入ってしまいました……。盗み聞きは行儀悪いけど……でも、ここで真正面から堂々と聞いたから盗み聞きじゃないと思う!」
てっきり少女は流れで謝罪を述べるかと思いきや、とんでもない理論を展開してきたので、レッシングは面食らった。
「……まあ、演奏の邪魔にはならなかった。気にしてない」
少女の言動に色々突っ込みたい所はあったが、ちょっと面倒くさそうな雰囲気があったのでレッシングはあっさりと水に流した。それに、演奏の邪魔にならなかったのは事実だ。
「器用なんだね」
「え?」
「私だったら、どれを叩いたらいいのか混乱しちゃうよ」
少女は自分の腕を交差させてドラムを叩く真似をしたあと、にっと笑いかける。
「他の人と一緒に演奏とかしないの?」
「……。一人で演奏するのが好きなんだ」
「えー、勿体ないな」
不満そうな物言いながら、興味津々そうな眼差しを向けられ、レッシングは戸惑った。じっと見上げられるので、じっと見つめ返していると、
「また聞きに来てもいい?」
と少女が尋ねてきた。レッシングはしばし考え込み、
「俺の邪魔をしなければ、構わない」
「本当に?」
「ああ。嘘をついても仕方ないだろう」
少女はもう一度、にっと微笑んだ。
「ところで、あなたはのコードネームは?」
「ナマエ。名前と同じなんだ。きみは?」
「レッシング。俺も名前と同じだ」
ナマエは意外そうにまぶたを持ち上げ、微笑んだ。
「レッシングくんだね、覚えた」
あれから、ナマエはレッシングが防音室を利用する時間に合わせて、たびたび足を運ぶようになった。
奏者はレッシングただ一人、観客もナマエただ一人のささやかな演奏会だ。だが、部屋に響く音色は演奏会と呼べるほど上品なものではない。ロックミュージックの地盤を築けるほどの協調性もなく、ポップスの柔らかな音を牽引をできるほど頼りがいがあるわけでもなく、瀟洒なジャズのメロディにはまるで似合わない乱暴な音だ。それでもナマエは楽しそうに聞き入って、レッシングの演奏が終われば決まって盛大な拍手を送る。
最初こそレッシングは雑念を振り払う弊害になりそうだという不安を抱えていたが、こうして何度も繰り返した結果、ナマエの存在はまるで邪魔にならない事がわかった。ナマエは座っていると床と一体化していると思わせるほど存在が希薄になる。しかし、ひとたび動き出してしまえばきちんと存在感をあらわにするのが不思議でならなかった。
そして、意外にもナマエとは馬が合った。
レッシングは一見すると寡黙で無愛想と取られがちなせいか、下手な気を回されやすい。その気遣いが億劫に感じることがあったが、ナマエとの対話にはそういった気遣いがなかった。
ナマエはよく喋り、よく笑って、たまに冗談めかして怒ったり、表情がころころと様変わりする。レッシングと正反対で、趣味もてんでばらばらの二人だったが、それを頭ごなしに否定する事もされる事もない。意見が合致すれば、それいいよね、と同調しあう。そういった空気感は、会話の合間の沈黙すらも気にならないほど心地が良く、レッシングが気を回す必要がなかったのも幸いだった。
今日もこうして演奏を終え、他愛のない雑談に身を投じている最中の事だった。
「一緒に演奏できたりしないかな」
ナマエの唐突な発言に、レッシングは目をしばたたかせた。
「弾けるのか?」
「自慢じゃないけどね」
「うん?」
「今まで楽器触った事ない」
「はぁ……」
思わず溜息が出た。
「ドラムって何が合うんだろ。エレキギター?」
「弾けないんだろ?」
「うん……」
ナマエが肩をすぼめて落ち込んだ。その姿を見ていると、つい先日ナマエがダンシングフラワーを持ってきた事を、レッシングは嫌でも思い出してしまう。
部屋に持ちこんだ当初、ドラムの音に反応して踊ってくれるんじゃないかとナマエは期待に目を輝かせていたが、レッシングが演奏を始めるとすぐに電池切れを起こして微動だにしなくなった。へにゃっと傾いた玩具の隣でナマエもへにゃっと傾いて落ち込み、それを目の当たりにしたレッシングは笑いのツボを刺激され、演奏するどころではなくなったのは言うまでもない。
どこか不憫なその姿に何かを刺激され、レッシングはぽつりと呟いた。
「……打楽器」
「え?」
「打楽器なら、初心者でも扱いやすいはずだ」
ナマエはきょとんと目を丸くして、レッシングを見つめる。
数秒の間をはさみ、ナマエはにっと微笑んだ。
「うん、探してみるね!」
次の日、ナマエはマラカスを持ってきた。
それを見たレッシングは純粋な気持ちで、何故だ、と思った。
「打楽器って言わなかったか?」
「これで太鼓叩けるって聞いたよ」
シャカシャカしながらナマエは言う。
「ああ……」
目頭を抑えたレッシングの口から、同調とも落胆とも溜息とも取れるような、曖昧なぼやきがこぼれ出た。
確かにティンパニなどの大ぶりな膜質打楽器をマラカスで叩く演奏法はある。しかしそれは現代技法を加えたオーケストラや特定の条件下におけるアンサンブルでの話だ。マラカスでスネアやタムが叩けるわけがなく、ドラムにはてんで合わない。
そんなレッシングの胸中など露知らず、ナマエは楽しそうにシャカシャカしている。いかにも上機嫌で、さながら遠足前の子供のようなテンションだ。そこに水を差すだなんて真似はレッシングには到底できなかった。
気を取り直して顔を上げ、スティックを持つ。
「とりあえず、合わせてみるか」
「うん!」
壊滅的だった。
その次の日、ナマエはトライアングルを持ってきた。
「……打楽器だな」
「そう、レッシングくんご所望の打楽器だよ」
ちーんちーんと叩きながらナマエは言う。
レッシングは、さもありなん、と肩をすくめた。
「真面目な話をしていいか?」
「うん」
「合うと思うか?」
「……」
ナマエはトライアングルを叩く手を止め、さっと目をそらした。
自覚があるのであればまあいいか、とレッシングはもはや悟りと諦めが混ざったところに到達した。それに、わざわざこれを探して持ってきたナマエの事を考えると、無碍にはできなかった。
「とりあえず、合わせてみよう」
「うん」
激しい音のなかに、ちーん、という音が混ざる。わかってはいたが、ナマエにはリズム感がまるで無い。楽器を演奏したことがないのだから当たり前だ。ドラムの重厚でリズミカルな音が、虚無のちーんにかき消されていく。
二人の手元は、徐々に緩慢な動きに変わっていった。演奏も尻すぼみになっていく。
「なんか、やるせない……」
「ああ……」
虚しさを極め、二人同時に手を止めた。
「最近、レッシングくんの邪魔ばっかしている気がする」
ナマエが神妙な面持ちで言うので、レッシングは面食らった。
確かにここ数日を思い返せば、思うがまま直球にドラムを演奏できていない。紆余曲折を経て、ようやくドラムを叩くに至っている。
かといって、それが負担になっているかと問われれば、きっぱり『違う』とレッシングには断定できた。
「いいんだ。俺も、ナマエが次は何を持ってくるのか少し楽しみになっている節がある」
「本当?」
「ああ」
レッシングが頷くと、ナマエの瞳にやる気が灯った。
「次はもっといいの探してくるよ」
「無理はするな」
「うん!」
レッシングは今日も今日とて、件の防音室へと足を運ぼうとしていた。ナマエは一体何を持ってくるのだろうかといくつか予想を立てながら廊下を進む。
ふいに、後ろから慌ただしい足音が聞こえてきた。根拠のない予感に突き動かされ、レッシングは立ち止まって振り返る。
「レッシングくーん!」
聞き覚えのある声だ。果たして廊下の向こうにはナマエの姿があった。右手を高く掲げ、小走りでこちらに向かってくる最中だった。
駆け寄るナマエを見つめる。真夏のひまわりのような笑顔を浮かべていた。
「これー、さがしてきたー!」
ナマエが右手を示すかのようにぶんぶんと振る。レッシングは怪訝に思いつつも、ナマエの手中に目を凝らす。
手のひらの中には円形の、赤と青という正反対の色合いの板を重ね合わせたモノがあった。
「カスタネットー!」
「……」
「だめかなあー!?」
ナマエは不安そうに尋ねながらも、カチカチと軽く鳴らして見せる。
レッシングはしばらく黙っていたが、やがて吐息混じりに小さく吹き出した。
2025.05.03