冥契の夢主 / 付き合っている
いい加減なふたり
業務終了間際、通りすがりに手伝いを頼まれたズオ・ラウは部屋の時計をちらりと見た後、二つ返事で了承した。軽い仕事だから、という言葉に嫌な予感はしたが、請け負った手前もう後には引けない。案の定、軽いというのは建前の話であって、実際は人手を要する大作業であった。すべて終わった頃にはいつもの終業時刻をとっくに過ぎていた。残業手当が出ることにほっとしつつ、ズオ・ラウは一人で食堂へと向かった。いつもより遅めの夕食を済ませ、自室に戻る。
このまますぐ入浴に向かいたかったが、腹がこなれていないのと軽い疲労感から少しの間休憩を挟んだ。先日図書室で借りてきた本を区切りのいい所まで読み、体の具合がよくなってきたところでズオ・ラウは本を閉じた。
共同浴場に向かうための持ち物を整える。と、ふいにコンコンと二回、扉をノックする音が聞こえた。顔を上げて固まっていると、もう一度コンコン、と音がする。
こんな時間に一体誰が何の用なのか? 怪訝に思いながらも無視するわけにはいかず、ズオ・ラウは部屋の入口へと向かう。
「はい。どちら様でしょうか?」
「ナマエ様です」
どっと力が抜けた。
「……自分に様をつけるのはどうかと思いますよ」
「いいから開けて」
果たして、扉を開けた先にはナマエがいた。
いつもの外出着ではなく、スウェット素材の長袖とショートパンツを身にまとっている。あまりにも部屋着じみており、この格好で出歩くには礼節を欠くのではないか――などと考えながら、ズオ・ラウは視線をナマエのつま先から肩のあたりまで移動させ、最後に顔を見る。
視線がかち合うなり、ナマエはにっと笑った。ろくでもないひらめきを実行しようとしている顔だった。
「どうかしましたか?」
「夜這いに来た」
むせそうになった。
「今夜は寝かせない」
表情をキリッとさせながら追撃するナマエに、ズオ・ラウは顔をしかめた。眉間に深い皺を寄せ、あからさまに不満げな表情になる。ナマエが臆面もなく軽い調子で言うので、ズオ・ラウにとっては冗談なのか本気なのかいまいち判別がつかず、身動きが取れない。
数秒経てようやく、ズオ・ラウは口を開いた。
「……何に触発されたんですか?」
「雑誌」
「……雑誌?」
ズオ・ラウが首を傾げると、ナマエは首を縦に振った。
「うん、食堂に置いてあるやつ。『人生で一度は言ってみたい台詞ランキング』って特集にあった」
腑に落ちた。次いで、途方もない呆れの波が押し寄せてくる。
「……はぁ。何位だったんですか?」
「11位」
「……かなり微妙な順位ですね……」
「うん……」
「……」
しばしの間を置いて、
「今夜は寝かせない」
ナマエはさらに表情をキリッとさせて言う。
「二度も言わなくていいです。そもそも、人の往来で何て事を言ってるんですかあなたは……」
言いながらズオ・ラウは身を乗り出し、廊下の左右を忙しなく確認する。誰もいないことにほっと胸を撫で下ろし、あらためてナマエに向き直った。
「どきどきしない?」
「残念ながら……」
「うーん……別の言い方がいい?」
「そういう問題ではありません……」
「じゃあ、愛す」
アイスクリームみたいな、無邪気な言い方だった。
相変わらず面白がるような軽い調子が、ズオ・ラウにはどうしても引っかかる。
「……じゃあとはなんですか」
「じゃあはじゃあだよ」
「……」
眉間に皺を寄せたまま黙っていると、徐々にナマエが気まずそうな表情へと変わっていった。
じわじわと目をそらして、ゆっくり半歩下がろうとする。ナマエは調子に乗るときはとことん乗るくせに、なにかしら具合がわるくなると決まって逃げ腰になってしまう。
それを察したズオ・ラウは、慌てて扉を開けはなった。もとより、そこまで邪険に扱うつもりはなかった。
「どうぞ」
「……」
ナマエは数秒ズオ・ラウの顔を見つめ、ぎこちない動作で足を踏み出した。おそるおそる部屋の敷居をまたぐ。
「おじゃまします」
「はい」
ナマエが部屋の奥に向かうのを見送って、ズオ・ラウは扉を閉めた。
部屋にナマエが遊びに来るのはもう両手では数え切れないほどの回数になった。もう珍しい事じゃなくなったはずなのに、気が逸る感じがして少し落ち着かない。
それはナマエも同じようで、ベッドのふちにちんまりと腰掛けていた。落ち着かなさそうにふらふらと視線をさまよわせ、ズオ・ラウがテーブルの上に置きっぱなしにしている入浴道具一式に目を留めると、ぱちぱちと目をしばたたかせた。
「ラウくん、今からお風呂?」
「はい」
「遅いの珍しい……」
「所用が立て込んでいて……すぐ済ませてきます」
「ううん、ゆっくりでいいよ、押しかけたのこっちだし。……あ、そこの本借りてもいい?」
そう言って、ズオ・ラウがさっきまで読んでいた本を控えめに指差すので、ズオ・ラウは頷いた。
「はい。栞は取らないでくださいね」
「わかってるよ」
ナマエは本を取るなり、勝手知ったる様子でベッドの上にころんと横になった。我が物顔に行儀が悪いと注意したところで聞きやしないので、ズオ・ラウはすでに諦めていた。それに、これが彼女なりの甘え方だと思えば気分は悪くない。
興味津々に本の表紙と背表紙を眺めて、それから丁寧な手つきでページを捲る。目次をじっと眺める。そんなナマエを尻目に、ズオ・ラウは着替え一式とタオルを持つ。
と、ナマエが目ざとく視線をよこした。
「いってらっしゃい」
「……はい。いってきます」
なんともいえない気恥ずかしさを覚えながら、ズオ・ラウは部屋を出た。
ゆっくりでいいと言われた手前、湯船には少し長めに浸かった。疲労が溶け出したのを感じると湯から上がり、カラスの行水もかくやと言わんばかりに髪と身体を洗う。
結局いつもより早めに風呂を済ませ、ズオ・ラウは早歩きで部屋へと戻る。
「ただいま戻りました」
控えめながらも部屋の奥にまで聞こえるような声量で言うが、ズオ・ラウが予想していた返事は聞こえない。
落ち着いた気配、そして停滞した空気の流れ。ズオ・ラウは最初こそ、ナマエが真面目に本を読んでいるのだろうと思った。でも、やけに静かだ。少し待ったが、反応はやはり返ってこない。
ズオ・ラウは後ろ手に扉を締め、違和感を覚えつつも部屋の奥へ向かった。
「……」
ズオ・ラウはベッドのそばまで近寄り、無言でナマエを見下ろした。
ナマエは横向きで布団にくるまり、枕に顔を埋め、すやすやと穏やかな寝息を立てていた。読みかけだった本は、顔の横に無造作に放り出されている。
その安心しきった無防備な姿を、ズオ・ラウは微動だにせずしばらく眺める。
「……はぁ……」
大きな溜息を皮切りに、ズオ・ラウはようやく動き出した。落胆から肩を落としつつ、本を取り上げる。栞がそのままになっているのを確認してから、元の位置へ戻した。
バスタオルなどを洗面所に干しに行くついでに、歯磨きを済ませる。
上着と袴をハンガーにかけ、寝間着に着替える。脱いだ服はきれいに畳んで所定の位置へ。そうした諸々の手順を済ませても、ナマエはすやすやと寝入ったままだった。
ズオ・ラウがベッドの縁に腰を下ろしても、相変わらず起きる気配はない。遠慮がちに手を伸ばして髪に触れてみるが、反応はない。平時であれば跳ねるように上体を起こすのに、撫でてもやはり無反応だった。さらっとした髪の感触を確かめ、顔の方まで垂れてしまった髪を指ですくって戻し、最後にひと撫でして手を離す。すべてを晒して弛緩している姿は、あまりにも無警戒だった。
ここまで深い眠りに落ちてしまった相手を無理に起こすのは、ズオ・ラウにとって大きなためらいが生じた。絶大な信頼を寄せられているという安堵と充足感。そこに自分を置いてけぼりにして一人で先に眠ってしまったという寂しさが混ざり合って、複雑な感情に変化する。
ズオ・ラウは小さく息を吐いて立ち上がり、部屋の明かりを消した。
ベッドに潜り込もうとしたが、心なしかいつもより狭く感じた。怪訝に思って布団の中を覗きこめば、ナマエは足を折り曲げ、その間に自分の尻尾を挟み、その先端を両腕で抱え込むような姿勢になっていた。
幅を取る体制だ。が、寝ている相手に文句を言っても仕方ない。
ズオ・ラウはじりじりとした挙動でなんとかナマエを壁際に押しやり、ゆったりと身体を横たえられるスペースを確保した。それでも尻尾が布団に収まりきらずにはみだしてしまうので、やむを得ずベッドの外に垂れ下げた。
枕の半分に頭をあずけ、穏やかな息遣いを感じながら目を閉じる。そうして落ち着いてしまえば、不思議と眠気が襲ってきた。
「ん……」
眠りに落ちるすんでの所で小さな声が聞こえ、ズオ・ラウはまぶたを持ち上げた。
てっきりナマエが目を覚ましたのかと思ったが、どうやら違う。ナマエは寝ぼけた様子で手をさまよわせ、手探りの果てにズオ・ラウの腕に触れた。
「んー……」
不満そうな声とともにナマエは抱え込んでいた尻尾を離し、かわりにズオ・ラウの手を引き寄せる。さながら古い貝殻を捨てて新しい貝殻に飛びつくヤドカリみたいだった。ズオ・ラウは口元を緩めながら大人しくされるがままになっていると、今度は両足もからまってきた。
ぬくい。それに、自分のとは違う石鹸の香りがほのかに漂ってくる。
「ぅうー……」
そしてナマエがむずがるように小さく唸ったかと思えば、今度はナマエの尻尾が布団の中を動き回り始めた。ずるずると音を立てて移動し、尻尾の先でぺたぺたとシーツを叩きはじめる。まるで何かを探しているような仕草にも取れる。
「ラウくん……」
鼻にかかったような声で名前を呼ばれ、ズオ・ラウは一瞬どきりとした。寝言かと思って様子を伺うが、遠慮がちに袖を引っ張られたので寝言ではないと察した。
「はい」
ズオ・ラウが返事をすれば、ナマエは小さく身動ぎして、
「しっぽ……」
「……」
ズオ・ラウは何度も瞬きを繰り返し、おもむろに布団を持ち上げると自分の尻尾を中へ引き込んだ。すると、その音に反応したナマエの尻尾が探るように這いずって、ズオ・ラウの尻尾に取り付いた。
布に引っかかればほつれが生じ、肌を掠めれば軽いミミズ腫れを引き起こす、ズオ・ラウでも少し扱いに困るときがある棘々の尻尾。その厄介さなんてお構いなしの様子で、ナマエの尻尾は無遠慮に巻き付いてきた。
からませあった足の上に、ぐるぐるとからみあった尻尾が横たわる。
「ちめたい……」
軽い身震いとともにナマエが呟く。その声は半覚醒のせいで呂律がうまくまわっていなかった。
「布団の外に出していたので」
「んー、あっためる……」
鼻にかかったようなあどけない声の後に、ぎゅっと締め付けが強くなる。圧迫感はあれど痛みはない。むしろナマエのほうが痛いんじゃないかとズオ・ラウは不安になったが、ナマエはそういった気配を微塵も感じさせなかった。
そして『あっためる』という言葉通り、ナマエの尻尾はあたたかかった。こうして温もりを与え続けてもらえば、ズオ・ラウの冷え切った尻尾もすぐ人肌の温度に戻るだろう事は容易に想像できた。
でも、与えてもらってばかりは少々不服だ。
ズオ・ラウは手探りでナマエの手を見つけ、指先をそっと包み込む。するとナマエはその手をゆるく握り返し、ズオ・ラウの方へすり寄ってきた。その緩みきった変化の仕方が微笑ましい。ズオ・ラウは空いた片手を持ち上げ、肩とも背中とも呼べない曖昧なところを一度撫でると、そのまま背中へと手を回した。するとナマエはさらに距離を詰めてきて、ズオ・ラウのふところに潜り込むような形になる。
「ん……ふふー……」
あどけない調子の声が耳から染み込んで、脳裏をくすぐる。
「ラウくんも、する?」
半分寝ぼけた調子の主語のない曖昧な問いかけだったが、ズオ・ラウはすぐに頷いた。
「……欲しいです」
「ぁは、すなおー……」
からかうように言いながら、ナマエもズオ・ラウの背中へと空いた片手を回した。手のひらが背中を往復し、じわりとしたあたたかさが伝わってきてズオ・ラウはたまらず吐息をこぼす。
すぐに振りほどけるような緩い抱擁を交わし合って、それでようやくおさまりがよくなったような気がした。お互いの垣根すら曖昧に混ざり合って、あるべきところにカチッとはまったような不思議な感覚が身を包む。
時間の感覚がぼやけるほど、互いの柔らかくて弱いところをくすぐり合って、そうしてナマエが無防備な安心を寄せれば寄せるほど、ズオ・ラウもそうなってしまう。
よくない事かもしれない。そんな漠然とした煮えきらない葛藤は、ズオ・ラウの頭の中から消えることはない。でも最近は、少しくらい抜け道があったっていいと開き直るようになった。それも、ナマエ一人だけが通ってこられるような、小さくて細い――。
「……おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
まどろみの中で、言葉をかわし合う。
やがて、ナマエから健やかな深い呼吸音が聞こえ始めた。
寝るのが早いと笑いそうになりつつも、眠気を甘く刺激され、ズオ・ラウもまぶたを落とした。
* * *
ふいにズオ・ラウは目を覚ました。
部屋の中は薄暗いが、いつも起きる時間だという感覚だけはしっかりある。
いつものようにのろのろと身体を起こそうとしたが、自分の意志で上手く身体が動かせない。がっちりと固定されている。そこでようやく、ナマエと一緒に眠ったのをズオ・ラウは思い出した。
足はいまだにくっつけあったままだし、尻尾だってぐるぐると絡みあっている。ナマエは爆睡したままで忍びなかったが、ズオ・ラウが無理やりに上体を起こせば、隣で眠っていたナマエが小さなうめき声を上げた。
「いま何時……?」
「4時半です」
「はやいよ……」
不満げな声とともに尻尾がほどけて、足も離れる。ようやく自由になれたが、同時にほんの少しの寂しさも覚えた。
ズオ・ラウはベッドから出ると、真っ先に洗面所に向かった。うがいをすると目が冴えた。そのまま顔を洗って部屋に戻る。
部屋の明かりは付けないまま、部屋着から運動着に着替える。と、いつの間にかナマエの目がぱっちり開いていることに気づいた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
ちょっとした嫌味のつもりだったが、
「うん。ぐっすり……」
ナマエの返事はやけに素直で、どこか照れくさそうだった。
「部屋に戻ったら寝てたので驚きましたよ」
「う、ごめん……」
「疲れていたんですか?」
「そういうわけじゃないけど……」
「まあ、いいです。ナマエさんは持ち上げて落とすのが本当にお上手ですからね」
「……すねてる?」
「……、いいえ」
否定する声は、どこかふてくされた調子だった。
ズオ・ラウが着替えを済ませ服を畳んでいても、ナマエはじーっと興味津々な眼差しをズオ・ラウへと向け続ける。
「……何か?」
たまらずに声をかけると、
「ラウくん、ちょっとこっちきて」
ナマエが上体を起こして手招きするので、ズオ・ラウは小首を傾げながら近寄った。
「かがんで」
「……」
大人しく従う。と、ナマエがおもむろに手を伸ばした。
ズオ・ラウの後頭部を何度か撫でつけ、それから押さえ、数秒たってから離す。はじめは頭を撫でているのかと思ったが、どうやら違った。
やがてナマエは手をおろし、目を細めるようにして穏やかな笑みを浮かべた。
「ふふ、寝癖ついてる」
「えっ……、どこですか?」
あたふたしながら後頭部をおさえるズオ・ラウを見て、ナマエはくすくすと笑いだした。
「なおしてあげる」
そう言ってナマエはベッドから降りると、ズオ・ラウの手を取った。そのまま二人で洗面所へ向かう。
鏡の前に立つように指示され、ズオ・ラウは大人しく従った。ナマエは櫛やら必要そうなものを取り出し、ズオ・ラウの背後に回る。
ナマエが寝癖をいじっている間、ズオ・ラウは鏡越しにナマエの動きを眺めながら、じっと待ち続けた。
「ラウくん」
「直りました?」
「そうじゃなくて……その、……ごめんね?」
「何がですか?」
「昨夜、先に寝ちゃったから……」
ナマエにしては珍しく落ち込んだような声色だった。
「謝る必要はないですよ」
「ほんとに?」
「まあ、厄介だなとは思っていますが」
「……やっぱすねてるじゃん」
「いいえ」
ズオ・ラウはからかうような笑みを浮かべながら首を振ると、ナマエは手にしていた櫛と整髪剤を置いた。終わったのかと声をかけようとした瞬間、ナマエがいきなり後ろから抱きついてきた。
軽い衝撃とともに背中にぴったりとくっつかれ、ズオ・ラウは硬直する。
「きょ、今日の夜は、だめ?」
「……」
息を呑む。
鏡に映る顔はすました様子だ。しかし内心は挙動不審になっていた。
衣服を介した背中越しに、自分とはまったく違うほのかな柔らかさを否応なしに意識してしまう。密着した状態でズオ・ラウは身動きの一つも取れず、どうしようもない歯痒さを堪えてじっとしていると、ふいにナマエの鼓動が伝わってくるのに気がついた。
脈拍は早い。ナマエなりに緊張しているのだと気付けば、ズオ・ラウの胸中でつい芽生えたみだりがましさが引っ込んだ。そのかわりに、ナマエにこんな事を言わせてしまったという奇妙な不甲斐なさが顔を出す。
腹部のあたりで交差された手を見下ろし、そっと手を這わせる。と、ナマエの両手がほどけたかと思えば、ズオ・ラウの手を大事そうにぎゅっと包みこんできた。
「だ……だめなわけ、ありません……」
一回り小さい手を握り返しながら、言う。
「……うん」
ナマエが照れくさそうに頷いた。その拍子に、ズオ・ラウの背中におでこを擦り寄せる形になる。そのささやかな刺激から得も言われぬ気恥ずかしさが込み上げてきて、ズオ・ラウは逃れるように視線をあちこちに彷徨わせる。
喉の奥がひきつるように締まって、呼吸の仕方も不自然になる。ズオ・ラウはそんな感覚を『今は早朝だ』と念じることでどうにかやり過ごした。ゆっくりと静かに深呼吸をして、なんとか平静を取り戻してから口を開く。
「……。この前決めたこと、きちんと覚えてますか?」
「覚えてるよ」
「……夕飯は?」
「腹八分目、デザートは我慢。ラウくんは?」
「頼み事は安請け合いせず、断る」
方や食べすぎて眠くなってしまったり、方や所用が長引いて約束の時間に遅れてしまうという事がたびたびあった。節制の無さ、度を超したお人好しを互いに注意しあったところで、成人目前までしっかり育ちきってしまうと、直せるものにも限度がある。
それを回避するための、二人だけのささやかな取り決めだった。
「ちゃんと守ってね」
「ナマエさんこそ」
「うん」
ぎゅっと抱きついてきたかと思えば、ちゅっ、と背中に軽い感触。
その途端、ズオ・ラウの背中にぞくりとしたものが這い上がってきて、声が出そうになるのを慌てて堪えた。
しかし、高揚感から来る尻尾の動きはどうしても我慢できなかった。無意識のうちに振ってしまい、ズオ・ラウが気付いた時には手遅れだった。尻尾でナマエの足をぺちっと軽く叩いてしまう。
「こら」
「す、すみません」
ズオ・ラウが慌てて振り返るのと同じくして、ナマエが体を離した。
向き合って顔を見合わせる。ナマエは怒った口ぶりの割に、嬉しそうに微笑んでいた。
「……それで、寝癖は?」
「直したよ」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。寝癖はねてるの可愛かったから、ちょっと勿体なかったかな」
「それだと私が困ります……」
「うん。ラウくんは格好良いのが一番似合ってるよ」
「……」
相変わらず無邪気で軽い調子だったが、唐突に褒められてしまうとズオ・ラウはどうしても戸惑ってしまう。周囲が厳しい人ばかりだったせいかストレートに褒められ慣れてない事も手伝って、むずがゆい感覚に見舞われる。
そんなズオ・ラウの心境を知ってか知らずか、ナマエはにこにこと上機嫌に微笑みながらズオ・ラウの背中を軽く叩いて退室を促した。
部屋に戻るなり、ナマエはまっすぐにベッドに向かう。てっきり二度寝するかと思ったが、ズオ・ラウの予想とは裏腹にナマエは軽いストレッチを始めた。
「ええと、……ナマエさんはどうしますか?」
「一旦部屋に戻って、ジョギングしようかな」
「わかりました。なら一緒に出ましょう」
ナマエは前屈を最後にベッドから降りると、一度だけうんと背伸びをした。
二人そろって部屋を出る。廊下は朝の空気が充満して、静かだった。
ズオ・ラウが部屋の扉に鍵を掛けると、どちらともなく足を踏み出す。早朝の静けさを壊さぬよう気遣って会話はなかったが、べつだん気まずいわけではない。むしろいたずらに指先に触れられたり、尻尾の先同士をからませられたりして、ズオ・ラウはひたすらに弱ってしまった。
ナマエの方にちらりと目を向ければ、ズオ・ラウの視線に気づいて悪戯っぽく目を細める。その柔いところをくすぐってくるような仕草は嫌ではないし、かえって嬉しいから、ただただ困る。
分岐点に差し掛かると、二人で立ち止まった。あっさりと尻尾がほどける。
「それじゃラウくん、終わったらいつものとこで待ってるから」
「はい。それでは」
「うん。またね」
ばいばい、と手を振ってナマエは立ち去る。
長い尻尾を軽く揺らしてのんびり歩く後姿を数秒ほど見送ってから、ズオ・ラウも別方向へ足を踏み出した。
ナマエが言う『いつものとこ』とは、食堂に近いあの購買の隣にある休憩スペースだ。
いつからか、あそこが朝食前の待ち合わせ場所になってしまっている。こんなふうに、二人だけのささやかな取り決めが増えていくが、ズオ・ラウにとって悪い気はしなかった。
きっとこの先も、二人にしかわからない決め事が増えていくのだろう。
2025/05/16