冥契の夢主 / ほんのりグロい
ゲーム内の説明と相反していますが創作なので目を瞑って下さい
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へびの踊り食い

 このたびの任務で、ズオ・ラウは小隊の隊長を任命された。
 昇進した結果によるものらしい。普通、組織の中で地位が上がれば上がるほど後方に押しやられることが多いのだが、ロドスではどうも違うらしい事をズオ・ラウは理解した。
 とはいえ、大変な光栄なことである。そして給料は増えるし手当ても出るのが、ズオ・ラウにとってはありがたかった。
「それで、隊のメンバーは……?」
「これだよ。任務に関する詳しい説明は追々ね」
 ドクターから手渡された書類を受け取り、わずかな緊張を覚えながら目を通す。
 第4小隊という表題を目にし、昇進したという実感に生唾を飲み込んだ。そしてすぐ下の表に羅列されるコードネームに目を通す。
 数秒の間を置いて、ズオ・ラウの口からささやかなため息がこぼれた。

 任務地はサーミ、クルビア、カジミエーシュの三国をまたぐ国境近くのホテル跡地であった。以前敵対した組織の残党が潜んでいるとの情報を入手し、こうして派遣されるに至ったのである。先の武力衝突が猖獗を極めた際、行き場を失った者たちが逃げ惑った末にこうした廃墟を穴蔵として使い、旅団や現地の人間を襲いながらあてどなく転々としているとの事だった。
 ズオ・ラウはあらためて廃墟を見上げる。意匠を凝らしたベランダは錆び落ち、窓は割れて硝子があちこちに散乱している。外壁もひび割れたタイルが落下し、庭には雑草が生い茂り、見るも無惨な姿になっている。ズオ・ラウがまだ生まれる前のはるか昔は繁盛していたらしいが、今やそのきらびやかさは消え失せ過去の栄光は見る影もない。そして今現在の天候がどんよりとした曇り空ということもあって、不気味さに拍車をかけていた。
 天災がいつ降りかかるかわからない状況、こんな場所に豪勢な建物を建てようとした時点で無謀だったのではないかとすら思えてくる。
「なんかお化け屋敷みたいだね、気味悪い」
 唐突に隣から声がして、ズオ・ラウはそちらに目を向けた。小隊のメンバーのグレインバッズことシャオマンだった。彼女は愛用している笛を握りしめながら、4階建ての建物を見上げている。その瞳には恐怖よりも、強い好奇心が滲んでいた。
「という割には、怖がっていないように見えますが……」
「だって、こんな建物初めて見るんだよ? 大荒城にはこんなの無かったし」
「まぁ、そうですね……」
 ズオ・ラウは曖昧な相槌を打った。
 シャオマンが任務に参加するのはこれが初めてとの事で、移動中はひどく緊張した様子を見せていた。しかし、今や観光気分であちこちを見て回っている。怯えて動けないよりはマシだろうとズオ・ラウは楽観的に捉えているが、そろそろ注意しなければ、という考えがもたげ始めていた。
「シャオマン、あまり離れないで」
 と、近くから声がしてズオ・ラウはそちらに目を向ける。PDAを操作していたワンチィンことホーシェンが手を止め、眉をひそめてシャオマンを見つめていた。
「わ、わかってるってば……」
「顔見知りがいて安心する気持ちはわかるけど、危ないことに変わりはないんだから。……そうですよねズオさん」
「はい」
 PDAの画面には周辺の地図が表示されており、生体反応の記号が複数点滅している。別の隊が飛ばしたドローンがホテルの周囲を徘徊しながら周囲の反応を拾い、そこから発せられた信号がこうして地図上に映り込むという仕組みだ。
 ズオ・ラウはこういった機械の操作には慣れるのに時間もかかるうえ、隊の戦力を占めるということもあって、ホーシェンが操作することになった。大荒城において農機具の操作はもちろんデバイスの扱いに長けていた事もあり、PDAを手渡され簡単な説明を聞いただけでホーシェンはすぐに仕様を理解した。
 地図上の北側に点滅する3つの丸印が、ズオ・ラウとホーシェンとシャオマンだ。ドローンの信号はズオ・ラウが予想していたよりも制度が良く、シャオマンが気まぐれに徘徊すればそれに伴って丸印もふらふらと微細に移動する。
 画面を眺めていると、建物内部にいる生体反応がわずかに動き、やがて移動を始めた。それを見ていた3人は特に焦る様子はなかった。なぜならこの生体反応は目視できる範囲内にあり、しかもこの小隊のメンバーだったからだ。
 人影が窓枠を飛び越えて地面に着地するのと同じくして、生体反応も建物の区切り線を突き抜ける。足早でこちらに近寄ってくる人影もといナマエは、ズオ・ラウと目が合うなり肩をすくめてみせた。
「手がかりは無しですか」
「焚き火の痕があって、壁に燃え移って焦げてた。でも、その上に植物が這ってたから、焼け跡はかなり昔のものだと思う」
 こういう人が近寄らなくなった建物は家を失った浮浪者の寝床になることもあれば、近隣住民の肝試しに使われることもある。傍迷惑な過程で内部は荒れ、風雪にさらされる回数が増えると獣が迷い込み、そうして廃墟が出来上がってしまう。不審な点を洗いざらい見繕い、今回の任務に関連性があるか結びつけるのは容易いことではない。
「とりあえず、不審な点はそれくらい」
「そうですか……」
「移動する?」
「……そうですね。これ以上ここに残っても進展はないでしょうから」
 ズオ・ラウはそう言って、ホーシェンのPDAを覗き込んだ。
 丸印の生体反応が密集している所は、他の隊がいるという事だ。建物内部は別の隊がくまなく探しているようで、6つの点がじりじりと移動している。となれば、建物内部に入っても仕方がない。
 画面を隈なく見回して、
「南東が空いていますね。そちらに向かいましょうか」
 ズオ・ラウが提案すると、
「わかりました」
「うん」
「了解」
 三者三様の返事が飛んできた。その不揃いな声が、どうしても前途多難を予感させる。
 見ての通り、この隊には4人しかいない。
 ズオ・ラウが隊員リストを見てため息をこぼした理由がこれだった。お馴染みの顔ぶれは遊撃部隊にしては心もとなく、任務内容も数名でこなすほどの大仕事ではなさそうだと予想を立てたら案の定である。
 出立前にドクターと言葉を交わした際、ドクターが言った事をふと思い出す。
 ――空気に慣れてもらうためだよ。
 確かに慣れてもらうのは大事だ。だが今まで通り後方支援で良かったのではないか? という懸念はくすぶって消えない。しかもズオ・ラウにとっての大切な友人でもあるので、怪我なんてさせられない。できることなら危地から遠ざけたいというのが、ズオ・ラウの本音であった。
 任務の数日前、その事を副隊長のナマエに伝えれば、さもありなんと言った様子で頷いた。
「不安ならラウくんが最後尾を努めて。視界にワン……ええと、ホーシェンくんとシャオマンちゃんを入れられるから安心すると思う。後ろからの迎撃はラウくんも得意でしょ? 私としても、そのほうが安心する」
「ですが先陣は……」
「私がやる。行き先を指示してくれれば、ちゃんとこなすから。それにラウくんが先頭だと、足早くてみんな疲れちゃうよ」
 珍しく冗談めかしたように言うので、ナマエなりに気を使っているのが伝わってきた。
「私が頼りなく見えるのはわかるよ。その、ラウくんにはいろいろ迷惑かけたし、自分でも説得力ないなって思うから……」
 喋るにつれ、もごもごと言いにくそうにする。ナマエなりに後ろめたい自覚があったのかと奇妙な感慨を覚えつつ、ズオ・ラウは首を横に振った。
「そういうつもりはありません。それに、頼りないと思ったらこんな話は打ち明けていませんよ」
 ナマエはまぶたを持ち上げて数秒ほどズオ・ラウの顔を見つめると、なにか考え込むような素振りを見せる。しばらく無言を挟んでから、ナマエが口を開いた。
「ホーシェンくんもシャオマンちゃんも、ロドスの戦闘のテストは通ってる。戦力としては申し分ないって証拠。それに二人とも肝が据わってるっていえばいいのかな……すごくしっかりしてるし、きっと大丈夫だよ」
 しっかりしているという評価はズオ・ラウにとって納得がいった。大荒城ではシャオマンに世話を焼かれ、また危機的状況下でホーシェンに助けられたのは記憶に新しい。
「一人でできることって、限度があると思う。なんでも自分でやろうっていろいろ抱え込むと失敗しちゃうから、ラウくんはもっと周りを頼ってもいいと思う」
 ナマエがきっぱりと言い切るのを耳にした瞬間、ズオ・ラウは肩の荷が降りたような錯覚を覚えた。
「……ナマエさんは案外、頼もしいところがあるんですね」
「一言余計」
「痛っ!」
 軽く脇腹をどつかれ、痛がる素振りを見せながらズオ・ラウは口元を緩めた。

 ひどく荒れ果て、草木に覆われた道なき道をひた進む。
 前列にナマエ、中列にシャオマンとホーシェンが横に並び、後列をズオ・ラウがつとめるというひし形のような方陣を取っている。前列が正面を確認しながら進み、中列が前方ないし左右を警戒し、後列は真後ろから全体を見据えつつ背後も確認できるという役割分担により、幅広い視野を警戒できる理にかなった隊列だ。
 かといって、戦地を進む軍隊のような勇ましくも張り詰めた緊張感はない。シャオマンが雑談を投げかけ、それぞれが反応するという和やかな空気になっていた。あまりにも弛緩した空気に、ここに何をしに来たのか本来の目的を見失いかけるほどである。
「あっ……」
 と、ホーシェンが小さな声をあげたのを合図に、皆が一斉に立ち止まった。先を行くナマエが首だけで振り返る。
「どうかしましたか?」ズオ・ラウが尋ねると、
ナマエさんの地図上の点滅が途絶えたので」
「……私の?」
 ナマエが首を傾げると、ホーシェンは皆に見えやすいようにPDAを持ち直した。画面上を指差すので、シャオマンとズオ・ラウが覗き込む。確かにホーシェンの言う通り、画面上に点滅する生体反応は3つしかない。
 先頭のナマエが近寄ってくると、生体反応は4つに戻った。
「ほんとだ。尾長ちゃんがこっちに来たら元に戻った。故障?」
「違う。ここから先はドローンの索敵範囲外ってこと」
 ホーシェンの言葉に、シャオマンは「へー」と感嘆の声を漏らした。
 機械はプログラムに命令されるがまま完全無謬で動作している。他の生体反応が明確に反映されている以上、間違えているのは人間の判断ということになる。
「ごめん、範囲を見誤った。ここにいるのは危ないね」
 ナマエはもう一度地図に目を落とし、ズオ・ラウに視線を向ける。
「ラウくん、進路を建物寄りにしたほうがよさそう?」
「はい、お願いします」
 地図で道筋を確認してから、前進する。
 暫くの間は反応が途切れることなかったが、またしても反応が途切れてしまうとホーシェンが声をかけ、全員がその場に立ち止まった。
 再度現在位置を確認し、ナマエが進路を取りなおす。そうして三度目の反応消失が起きると、ナマエも流石に不信感をあらわにした眼差しをPDAに向けた。
「おかしい。ここは索敵範囲内のはず」
「ほんとに? 尾長ちゃん道間違えたとかじゃなくて」
「いや、ナマエさんは間違えてないよ」
 ホーシェンはそう言って、シャオマンに見やすいようにPDAを傾けた。
「ドローンの位置はこのあたり。ここから直線距離で見てみると、別働隊と比べて近い距離で反応が消えてる」
「ふーん。じゃあ故障?」
「どうだか」
 そんな二人のやり取りを聞きながら、ズオ・ラウは周囲を見渡した。
 建物側にはひしゃげて倒壊した柵があり、向こうにはプール跡地があった。タイルで舗装された床は野ざらしによってひび割れており、プールは防水塗装が剥げコンクリートがむき出しになっている。プール内には濁った雨水が溜まっていること以外、不審な点は目視で確認できなかった。
「気になる? 見てこようか?」
 と、ズオ・ラウの仕草に目ざとく気付いたナマエが声をかけた。ズオ・ラウとしてはこれ以上ナマエを単独で行動させたくはなかったが、かといってホーシェンやシャオマンのどちらかを同伴させるのも心もとない。
「……お願いします。念入りでなくともいいので」
「うん。適当に見てすぐ戻って来るから」
 ナマエは念の為、鞘を外した剣を右手に携えてから、柵の向こう側へと侵入した。ズオ・ラウはその後姿を視線で追いかけつつも、周囲の警戒は怠らない。
「尾長ちゃん、さっきも一人で行っちゃったけど、怖くないのかな」
「本心では怖いと感じていると思いますよ。怖くなかったら、あそこまで慎重にはなりません」
「……あたしもついてったほうがよかったかな? 二手に分かれたほうがいいんじゃない?」
「シャオマン、いいからここで待ってよう」
 ホーシェンが横からたしなめると、シャオマンはむっとした表情になった。
「なんで?」
「僕らはこうやって任務に参加するのは初めてだし、出来ることはまだまだ少ない。シャオマンがナマエさんについていったところで、何が出来るっていうんだよ。隣でやかましくお喋りするくらいだろ?」
「そんなことないよ、あたしの笛だって役立つんだから。この間、尾長ちゃんが『笛で何が出来るの』ってひどい事言うから、目の前で笛吹いて眠らせてやったんだよ! あたし、どんな相手でも眠らせる自信はあるし、あたしのすごさは尾長ちゃんも身を持ってわかってるはずだよ!」
「じゃあなおさら一緒にいたらダメだろ。ナマエさんが交戦中に笛吹いたら危ないって事じゃないか」
「うっ……」
 虚を突かれシャオマンがたじろぐと、ホーシェンが大きなため息をつく。そんな二人を尻目に、ズオ・ラウは複雑そうな眼差しをナマエへと向けた。
 シャオマンが奏でる音色には動物を落ち着かせたり眠らせる力が備わっているのはもちろん、それが人間にも効力を発揮するのをズオ・ラウは知っている。だがズオ・ラウは音色を聞いて穏やかな気持ちに浸った事はあるが、眠ったことは一度たりともない。
 あの笛の音色を聞いただけで眠ってしまったのか――とズオ・ラウから憐憫の眼差しを向けられているナマエは、三人がこんな話をしているとは露知らず、警戒を剥き出しにして周囲を見回っている。
「こほん……二人とも、言い合ってる場合ではありません。とりあえず、シャオマンさんはここで何か不審な点がないか周囲を確認して下さい」
「……うん」
 頷くシャオマンは落胆した様子だったが、すぐに辺りを見回し始めた。ホーシェンも周囲を見回し、PDAと照らし合わせながら警戒行動を取る。
 ややあって、
「燭台くん、聞いていい?」
「またそうやってお喋りしようとする……」
「いいでしょ別に、聞きたいことがあるんだから」
「構いませんよ。なんでしょう?」
「うん。ちょっと思ったんだけどね……今使ってるドローンって、生き物の位置を特定できるんだよね?」
「はい」
「じゃあその逆はないの?」
「逆、ですか?」
「うん。生き物を認識できないように妨害しちゃうやつとか……」
「――」
 息を呑む。
 ズオ・ラウの挙動に何かを察したホーシェンが眉を寄せると、呑気な顔をしていたシャオマンも不安そうな表情へと変わった。
「……ナマエさん! 戻って下さい!!」
 すぐにナマエに向かって大声で呼びかけると、ナマエは立ち止まって三人の方を見た。手で了解の合図を出し、プールサイドを走り出す。
 すると、濁った水面が僅かに揺らいだ。
 無風だというのに小さな波紋が立つ異常さにズオ・ラウが気付くのとほぼ同時に、ナマエも横目でそちらを見た。水面の揺らぎは白波に変化していき、それが徐々に並走を始めると、ナマエは走りながら剣を構え直す。
 目視で確認できる異常事態だというのに、PDAは警戒音の一つも立てずに沈黙を貫いている。この機械は今の状況に対し、何の危険性もないと判断を下した。つまり、シャオマンの予想が的中したという事だ。
 今から三人でナマエを助けに向かったとして、もう間に合わない。しかし、ナマエであれば危機的状況を一人で打開できるはずだという根拠のない信頼がズオ・ラウにはあった。
 この状況下、ズオ・ラウがすべき事は一つしかない。
 ズオ・ラウが鞘鳴りの音を立てて剣を抜き払うと、シャオマンがビクッと大きく体を震わせた。シャオマンは笛を握りしめながら、忙しなくきょろきょろと周囲を見回し始める。
 生ぬるいそよ風が通り過ぎ、今まで嗅いだことのないような奇妙な異臭が鼻を突く。
「シャオマン!」
 続けざま、ホーシェンが焦りに任せてシャオマンの腕を引いた。
 濁ったプールから飛沫を立てて人影が飛び出てくると、ナマエは構えた剣で薙ぎ払う。それと同じくして、シャオマンの横の藪から白い幽鬼のような人影が飛び出すと、ズオ・ラウはそちらに向かって剣を振り下ろした。
 手に伝わる振動は軽い。切っ先が掠めただけで、ほとんど空を切っただけだった。
 ズオ・ラウはホーシェンとシャオマンの二人を背後に押しやりながら剣を構え直し、正体不明の敵と相対する。
 異様な風貌だった。両手にはぐるぐると布が巻き付けられているが、その下は怪我をしているのか、はてまた皮膚炎を起こしたのか滲出液が浮き出ている。二の腕より上は墨をかけたように黒いが、よく見ると赤く熟すようにただれ、かさぶたまみれになっている箇所が見受けられた。かすかに漂ってくる異臭の原因はおそらくこれだろう。不衛生な生活環境から皮膚炎を発症したに違いない。
 頭には布を裂いて作った暖簾のようなものをかぶり、側頭部から二本の角が伸びている。羽織っている外套は見事なものだが、裾は擦り切れボロボロになり、ひどく無惨な状態になっている。
 体躯はズオ・ラウが見上げるほどの高さがあり、横幅すらもふたまわりどころかみまわりを優に超えるほどの大きさだ。しかし肥満というよりも、やせ細って飢餓のさなかにあるという印象を受ける。
 そんな、悪夢のような見た目に驚いたのか、シャオマンが引きつった表情のまま固まっている。
「なんだこいつ……」
 ホーシェンが怯えまじりに呟いた一言に、ズオ・ラウは心の中で同調した。
 枯朽サルカズ吸収者――ロドスの作戦記録の動画や写真で見た事はあったが、当人を目にするのはこれが初めてだった。彼らの指導者が死んだという事も司歳台の記録簿にあったが、これが本当に敵対している残党なのかという疑問が膨らむばかりで、恐懼から来る警鐘が思考を鈍らせる。
 これは――人間を食う。
 ロドスの戦闘記録で見た光景を思い返し、ズオ・ラウは生唾を飲み込んだ。
 吸収者は微動だにせず、三人を伺っている。対するズオ・ラウも剣を構えたまま、相手を伺う。表情は暖簾状の布に隠れて見えない。もとより、顔があるのかすらも定かではない。おそらく顔をしっかりと確認できる瞬間は、喰われる時だけだろう。
 背中の二人が黙りこくったまま気配もないので、ズオ・ラウは振り返りもせず声をかけた。
「二人共、一度呼吸してください」
 やがて深呼吸する音が聞こえ、内心で胸を撫で下ろした。
「恐怖で呼吸が怠るかもしれませんが、きちんと酸素を取り込んでください。全身を動かすのに必要ですから」
「は、はい!」
 ホーシェンの返事を合図に、ズオ・ラウは一瞬だけ視線を動かしてナマエの方を伺った。
 ナマエはプールサイドで吸収者とは違うサルカズと応戦している最中だった。戦闘中ながらも無事だという事を確認し、再度正面に視線を戻す。
「ホーシェンさん、救援は?」
「すでに呼びました」
「ならば、応援が来るまで、三人であれをなんとかして倒します」
 一瞬、ためらうような間があった。現に、二人からの返事はない。
 それを見て取ったのか、吸収者がじりじりと距離をつめ始める。
「私が応戦します。その間、二人は支援をお願いします」
「う、うん!」
「わかりました」
 ようやく返事がきたのを合図に、ズオ・ラウは剣を握る手に力を込めた。
 相手の体重はいかほどなのか。骨格は、脂肪は、筋肉は――? 異様な風体の内側がまるで把握できず、鋼の利刀ですら相手を一撃で屠れるか予想もつかない。だが、ナマエが一人で戦っている以上、怖気づいている場合ではない。
 ズオ・ラウの得意とする軽功は、軽さと速度をもってして、いかような者を凌ぐ武術だ。倍以上も離れた筋力や体重による差を埋める技量が備わっている。宗師から教わった功夫の深奥にはおよそ届かないが、それでも彼から直に賜ったという自負が勇気になって己を支える。
 息を吸い、地面を蹴った。
 にじりよる吸収者の懐に剣を突き立てる。一撃。剣を抜いて振りかざす。二撃。そして三撃を出そうという瞬間、吸収者の大きな手がズオ・ラウの脇腹を掴んだ。
 みぞおちへの強い圧迫が、やがて内臓を押される激痛に変わっていく。
「っぐ……!」
 うめきながらも肩に三撃を叩き込んだ瞬間、地面から足が離れた。片手だけで持ち上げられている。異様な怪力に唖然としていると、暖簾の奥から透明な液体がズオ・ラウの頬に垂れてきた。
 これが唾液だと気付いた時には、すでに舌と歯が見えていた。
 左手で吸収者の手を引き剥がそうとしたがびくともしない。剣で突き刺そうと右手を持ち上げると、その手を掴んで捻り上げられた。激痛から思わず剣を取りこぼしてしまう。
「ズオさん!!」
「燭台くん! 逃げて!!」
 逃げろと言われても、土台無理な話だった。
 ズオ・ラウの視界が闇で覆われた。首から上が生あたたかいものに包まれ、嫌悪感からぎゅっと目をつむる。
 粘質を伴う温度は徐々に上半身へと広がっていき、手の平から伝わる人肌の粘膜の質感に身震いする。呼吸も自由にならない息苦しさから、ただひたすらにもがく。
「こらーっ!! 燭台くんは食べ物じゃないんだからーっ!!」
 シャオマンの大声が聞こえたかと思うと、笛の音色が響き渡った。
 続けざま、遠方から大きな水しぶきの音が聞こえる。ナマエが相対する敵をプールに突き落としていた。

 ナマエは剣の構えをほどかずに、一歩二歩と後ずさるように距離を取る。水面を漂う人影を数秒ほど見つめ、微動だにしない事を確認し、元いた場所へ視線を移す。吸収者と応戦しているホーシェンとシャオマンの姿に目を見開き、脇目も振らず全速力で駆け寄った。
「ホーシェンくん、シャオマンちゃん! 無事!?」
 ナマエが声をかけると、ホーシェンは首だけでナマエの方を振り返った。
ナマエさん! 僕は大丈夫です! でも、ズオさんが……!」
「ラウくんが……!?」
 更に駆け寄り、ホーシェンの真後ろまで来くると、ナマエは目の前の状況にたじろいだ。
「なにこれ、どうなってるの」
「み、見ての通りです……!」
 吸収者の頭部を覆う暖簾状の布の合間からズオ・ラウと思しき下半身が飛び出しており、両足と尻尾がのたうち回るようにもがき苦しんでいる。ホーシェンはばたつく両足と尻尾に蹴られないよう気をつけながら、凧を括り付けた棒で吸収者の頭や身体を叩いていた。
 ナマエには枯朽サルカズ吸収者が人を襲うという知識はあったし、対処法もSharpから聞いていたので心得はあった。だが、上半身だけを飲み込んだままという形を見るのは初めての事だった。今まで知り得なかった情報が目の前で展開されており、何がなんだかわからず困惑する他ない。
 どうすべきか混乱のままに視線を彷徨わせると、ぜえはあと肩で息をするシャオマンを見つけた。シャオマンはナマエの姿に気づくと、安堵と悲壮が混ざったような表情を浮かべる。
「尾長ちゃん!!」
「シャオマンちゃん、怪我は!?」
「ないよ! でも燭台くんが……」
 今にも泣きそうなシャオマンの声に、ナマエはぎょっとする。シャオマンが泣きそうになっているのは初めて見たからだ。
「大丈夫、今助けるから」
「う、うん!」
 ナマエは吸収者のそばに近寄り、ふと違和感に気付いた。
 この吸収者、まるで微動だにしていないのである。なんなら暖簾の隙間からぷうぷうと鼻ちょうちんを出していた。
「えっ……こいつ、寝てるの?」
「うん。さっきから起きるたびにあたしの笛で寝かせてる」
「……えぇ?」
 ナマエはさらなる困惑に見舞われた。
 すると、吸収者の肩がぴくりと動いた。場にいる三人が同時にビクッと体を震わせる。
「シャオマン!」
「うん!」
 ホーシェンの呼びかけにシャオマンは頷き、笛を口元に構えて息を吹き込む。
 あたり一帯に、シャオマンが奏でる笛の音色が響き渡った。戦場にはまったく似つかわしくない、牧歌的な音色だった。
 のろのろと動き出した吸収者だったが、数秒も絶たないうちに膝から崩れ落ちて動かなくなる。そうしてまたぷうぷうと鼻ちょうちんを出し始めた。
 二人の息のあったファインプレーにナマエは奇妙な感動を覚えつつ、ズオ・ラウの剣が地面に転がっているのを見つけると、自分の剣をその隣に突き刺した。自由になった両手を握りしめ、意を決して吸収者の真横へ移動する。
 相も変わらず、ズオ・ラウの下半身がじたばたと暴れまわっている。器用なことに、反動を利用して吸収者の頭部に膝蹴りを加えたりもしているが、悲しいかなその頑張りは眠っている相手にはあまり効果がなさそうだった。
 ナマエは恐る恐る手を伸ばして忙しなくバタつく足を軽く叩くと、頑なだった動作がピタッと止まった。さっきまで活きが良かった両足と尻尾が、ぐったりと垂れ下がる。
 それを合図にナマエは深く深く息を吸い込み、吸収者の暖簾をくぐった。ズオ・ラウの上半身が飲み込まれている口元に左手を滑り込ませる。奥深くへ腕を突き入れ、肘を折って隙間を広げると、次に右手を差し込んだ。右手で下前歯をつかみながら、左手で上の歯を掴んで押し上げながら身体をすべりこませ、てこの働きを使って必死にこじ開ける。
 ようやく口腔内に明かりがきざし、奥が見えるようになると、
「っ……げほっ、げほっげほっ……!」
 大きな咳込みが聞こえた。窮地のズオ・ラウが必死に酸素を取り込もうとしているのだ。それを間近で感じ取ったナマエは思い切って右足を下前歯にかけ、全身までもを使ってどうにか隙間を確保し、新鮮な外気を取り入れようとする。
 ナマエは極力意識しないようにつとめていたが、口腔内は鼻が曲がりそうな臭いで充満していた。ようやく呼吸ができると吸い込んだ空気がとんでもない悪臭を含んでいるのだ、ズオ・ラウが盛大に咽るのも無理はないだろう。
「ラウくん、大丈夫!?」
「な、なんとか……」
「今助けるから!」
 足で下前歯を押さえる事により、自由になった右手でズオ・ラウへの腕を掴む。
 ――が、ぬるりと滑って掴めない。
「な、なにこのぬるぬる……」
「……おそらく、吸収者の唾液でしょう……」
「きたない!」
「言っている場合ですか!」
 今更になって自分の身体にもべとべとしたものがまとわりついている事に気付いたナマエは、嫌悪感が振り切るあまり、うーっと唸り声を漏らした。それでも怯むことなく更に手を伸ばし、ズオ・ラウの外套を掴む。濡れた布は人肌よりも掴みやすく、滑りにくい。
 ナマエが外套を手繰り寄せると、ズオ・ラウも両手で上顎を押さえながら這い出ようと体を動かし始める。ズオ・ラウの身体がじりじりと緩慢な速度で外へと出始めると、ナマエはほっと息をついた。それでもズオ・ラウが腰に提げた鞄や鞘が引っかかりそうになると、持ち上げたりと補助は怠らない。
 ――のも束の間、ズオ・ラウの身体が微動だにしなくなった。引っ張っても動かない。ズオ・ラウも異変に気づいたのか、きょろきょろと忙しなく視線を彷徨わせ、表情に強い混乱を滲ませる。
「動かない、何で……?」
「たぶん……肩のベルトが、どこかに引っかかっています……」
 一瞬の間を置いて、
「脱げ!」
「無茶を言わないで下さい!」
 ナマエは思いっきり顔をしかめると、深く呼吸をしてから口腔内に身体を潜り込ませた。
「うー……どこ引っかかってるのか教えて!」
「右背中の、金具のあたりだと思います」
 手でなぞるようにベルトを辿ると、確かにズオ・ラウの言う通り、背中の金具が吸収者の歯の間に挟まっていた。力を込めて引っ張るが、ベルトの金具がうまい具合に歯の隙間に噛み合ってしまってびくともしない。
「尾長ちゃん、どうしたの!」
「なにか手伝えることはありますか?」
 と、外から切羽詰まった二人の声が聞こえ、ナマエは首だけで振り返った。
「んと……ラウくんの足引っ張って!」
「わかった!」
「僕が右足を引っ張るから、シャオマンはそっちお願い!」
「うん!」
 威勢のよいやり取りのあと、外側からぐいぐいと引っ張られるのがナマエにも分かった。しかし、引っ張られている当の本人は、ベルトが首に食い込んで見るも無惨な状態になってしまっている。
「くっ、苦しい……」
「我慢して!」
 助けられている状況とはいえ、あまりにも酷い仕打ちにさすがのズオ・ラウも顔をしかめた。歯を食いしばり、降りかかる苦痛を調息で耐え凌ぐ。
 ナマエは金具を上下左右に動かし、どうにか外そうと試行錯誤を繰り返す。そうこうしているうちに、カチッと金属音が鳴り響いた。
「外れた!」
 嬉々としたナマエの声とともに首への圧迫感が消え失せ、ズオ・ラウはほっと息を吐いた。先ほどとは打って変わってスムーズに這い出ることが出来る。ズオ・ラウは首だけで頭を持ち上げ外の景色を視界に収めると、不安と緊張で表情を強張らせたシャオマンとホーシェンが見えた。目が合うなり、二人は安堵いっぱいに表情を緩める。
 ズオ・ラウが声をかけようとした時だった。
「う、あ……かはっ……」
 掠れた声とともに、ナマエが前のめりになる。
ナマエさん、どうしたんですか!?」
 ズオ・ラウの呼びかけに返事もせず、ナマエはうめき声を上げる。外の二人が慌てふためき始める。
 どれくらいの時間を救助に費やしたのか、いつの間にか吸収者が目覚めていた。吸収者はナマエの脇腹を掴み、これでもかというほどの力で握った。肉ごと内臓を圧迫される激痛に、ナマエは前のめりで耐えるしかなかった。
「まずい、シャオマン!」
「う、うん」
 シャオマンが笛を構えるよりも、吸収者が動く方が早かった。吸収者は左手でズオ・ラウの足を掴むと、口の奥へと詰め込もうとする。そして右手で掴んだままのナマエも一緒くたにして、喉の奥へと押しやった。
 ズオ・ラウとナマエの悲鳴は、吸収者の嚥下音にかき消された。
「た……食べられちゃった」
 青ざめたシャオマンがぽつりと呟く。隣のホーシェンは強い怯えを表情に滲ませながらも、アーツで空気の流れを発生させると、その揚力を使って空高くへ凧を掲げた。

 ズオ・ラウは何度も瞬きを繰り返した。まぶたを閉じても開いても視界は暗闇のまま一向に変わらない。続けて、両手を握っては開いてを繰り返す。両足はくの字に曲げた状態から動かせず、尻尾も思うように動かせない。わずかに腕を動かせるくらいのささやかな空間があるのは幸いだった。
 とにかく狭苦しいうえに、四方からの圧迫感が強かった。液体で湿ったあちこちがピリピリとしびれるような感覚を訴える。呼吸はできるが、長くはもたないという予感があった。
ナマエさん、生きていますか?」
 体の上の圧迫感の原因と思しき人物に声を掛けると、ズオ・ラウのちょうど右肩のあたりがもぞもぞと動いた。
「生きてる」
 耳のすぐ横から声がしてズオ・ラウはぎょっとしたが、すぐに安堵のため息を漏らした。
「それより、動けないんだけど……」
「私もです」
 簡潔なやり取りを経て、ズオ・ラウはお互いがどういう姿勢を取っているか漠然と理解した。
 背中を地につけてでんぐり返しのような姿勢になっているズオ・ラウの上に、ナマエが正面から折り重なるようにしてくっついている。現にズオ・ラウの足の間にナマエの身体が、そして肩に頭部が寄りかかる重みを感じる。
 今までにないほど近い距離にいる。平時であれば互いに動揺して慌てふためいたであろう事は想像に難くないが、この状況では羞恥はおろか何の感慨もわいてこなかった。
「真っ暗で何もわかんない。ここ、あいつの腹の中って事?」
「おそらくは……」
「うわぁ」
 ナマエが心底嫌そうな声を上げた。
「なんか、濡れたとこピリピリする……」
「胃酸でしょう。幸い、粘度の高い唾液が皮膚を覆っているおかげで、痛みを感じるまでには至ってませんね」
「冷静に怖いこと言うな」
 いつもの調子で軽く怒る声から、ナマエが今どういう表情をしているのかありありと想像できてしまい、ズオ・ラウは微かに微笑んだ。
 あまりにも絶望的な状況下、ズオ・ラウが冷静さを保っていられるのは、ひとえに『一人ではない』という実感があったからだった。作戦記録によれば吸収者に飲み込まれても消化までには時間がかかるらしく、それなりの猶予がある。PDAの画面に映った異変は他の部隊も観測しているはずで、外にはホーシェンとシャオマンがいる。きっとどうにかなるだろう、と楽観する気持ちがあった。
 とはいえ手放しで喜べる状況ではない。今のところ呼吸はできているものの、この狭い空間に充満している空気がいつまで持つのかわからないし、皮膚に感じる微弱な刺激も嫌な予感を増幅させた。たんぱく質を溶かす事に特化した消化液に長時間触れたらどうなるのかだなんて、当たり前にわかることだ。
「……どうにかしてここから出ないと……」
 ナマエは苛立たしげに呟くと、腕立て伏せをするかのように上体を起こそうともがき始めたので、ズオ・ラウは慌てて手探りでナマエの腕を掴み、それを制した。
「あまり動かないでください。動けば動くほど、酸素が持ちません」
「でも……」
「こうして腹の中におさまってしまうと、どうすることもできません。助けを待つほかありませんよ」
 ナマエは何も言わず、渋々といった様子でもとの場所におさまった。ズオ・ラウの右肩に重みが加わる。
「この体制つらい」
「我慢してください」
「ラウくんにはわかんないと思うけど、ラウくんの服の金具がほっぺに刺さって痛いんだよ」
 確かに、ズオ・ラウの外套やらベルトの金具は右側に集結していた。
「おまけに左脇腹のとこ、なんかチクチクするし……」
 持燭人の面の事だとズオ・ラウには合点が行った。
 あの面は細い鉄板を交錯させるように編んだ作りだが、端の処理を意図的に尖らせているせいで刺さるとそれなりに痛い。ズオ・ラウも持燭人として駆け出したばかりの不慣れな頃、人ごみの中ですれ違いざまぶつかった際に面のふちが刺さって悶絶した覚えがある。
「申し訳ありません。ですがこの状況、私にはどうすることもできません……」
 とズオ・ラウが言えば、ナマエはため息をついて、
「……まあ、こんなふうにくっつくの想定して作ってないだろうし、ラウくんに怒っても仕方ないね」
 それっきり、ナマエは静かになってしまった。金具が食い込むから嫌だと言った割に体制も変えず微動だにしないものだから、ズオ・ラウの胸中で徐々に不安が膨れ上がる。
 おまけにこの暗闇の中、ゴーゴーという低音がずっと鳴り響いているのが、ズオ・ラウの不安を助長させた。このノイズのような音は、生体器官の流れや内臓の収縮運動といったありとあらゆる音が混ざりあったものだ。ずっと聞いていると、耳が麻痺しそうになる。
「……ナマエさん?」
「何? どうかした?」
 すぐに返事が飛んでくるものだから、ズオ・ラウは面食らってしまった。
「……いえ。急に静かになったものですから……」
「さっきラウくんが言ってたでしょ。喋っても酸素減っちゃうし、黙ってじっとしてたほうがいいかなって」
「……」
 ズオ・ラウも自然と黙り込んだ。
「怖い?」
 こういう事をあけすけなく尋ねてくるのがナマエだった。そして尋ねられた以上、無視するわけにはいかない。
「いいえ、……といえば、嘘になります」
「その割には落ち着いてるよね」
「焦ったところで良い結果につながるとは限りません。あとは、染み付いた性分なんでしょうね」
 他人事のように言うと、ナマエがふっと軽く笑った。
「怖いときに怖がれないのって、損しちゃう性格だよね」
 そう言って、ナマエは探るように腕を動かし始めた。何をする気なのかとズオ・ラウが無意識に身構えると、やがて左腕に軽い刺激が加わった。腕貫ごしに前腕を軽く数回叩かれ、ズオ・ラウは内心首を傾げた。
「あの、何をしているんですか……?」
「ラウくんの不安を緩和してる」
「……ええと……」
「どうせ気を失うのは一緒だよ」
 暗に一人ではないと言われているような気がした。一定間隔の刺激が与えられるたびに、強張った感覚が抜けていく。それに伴いノイズのような鬱陶しい胎内音も、徐々に気にならなくなった。
 平静とした気持ちを取り戻せば、感覚のアンテナがぐっと広くなる。騒がしいノイズのはるか遠くに、牧歌的な笛の音色が聞こえてくる。
「シャオマンちゃんの笛だ」
「そのようですね」
 ナマエにも音色が聞こえたようで、フッと穏やかに笑う声がした。
「眠らせてるのかな。……寝ると消化遅くなるんだっけ?」
「大体の生き物はそうですね」
 と、一定のペースで軽い衝撃が伝わってくる。おそらくホーシェンが凧の棒で吸収者を叩いているのだろう。
「……外にいる二人は無事のようですね」
「うん。しかも逃げないで応戦してくれてる」
「……」
 また笛の音色が聞こえ、同じように軽い衝撃が発生する。ホーシェンとシャオマンの二人がこうして持ちこたえてくれているのを実感すると、胸中で言いようのない感情が湧き上がってきた。
 この状況を早く打開したいという衝動に急かされそうになるが、ナマエがそれを見透かしたようなタイミングでズオ・ラウの前腕を軽く叩く。ズオ・ラウの中でくすぶりかけた逸る気持ちが、ゆるゆると消え去っていく。
「多分、あとちょっとだよ。頑張ろう」
「はい」
 暗闇に視覚を奪われ、体の自由もままならない状況でひたすらに時が過ぎるのを待つ。それでもシャオマンの笛の音色と、暴力に不慣れなホーシェンが発生させる衝撃と、ナマエが気まぐれに腕を軽く叩く事によって、着々と時間が過ぎているという強い実感がズオ・ラウにはあった。
 恐怖もなく、ほんの僅かな緊張だけを残しながらじっと耐えていると、不意に衝撃による振動がやんだ。ホーシェンが叩くのを止めたようだが、いくら耳をそばだててもシャオマンの笛の音色は聞こえない。
「……んん?」
 ナマエが怪訝そうに唸るのを耳にした瞬間、ズオ・ラウはハッとした。
ナマエさん、失礼します」
「えっ、何?」
 狭い空間でも自由に動かせる両腕をナマエの背中に回すと、途端にナマエの体がこわばった。しかしそれは羞恥からくるものではなく、次に来る事態を察した事による緊張からだ。ズオ・ラウの両足の間にあるナマエの身体を固定すると、ナマエも尻尾を動かしてズオ・ラウの足に絡めてくる。お互いがお互いを支えるような姿勢を取り、来たるべき瞬間に備える。
「舌を噛まないようにしてください」
「うん」
 ナマエが頷いた直後、ズオ・ラウも歯を食いしばる。
 その数秒後、ホーシェンのものとは比べ物にならないほどの衝撃が全身を襲った。
 爆発的な振動に、肉壁がうねるのを感じた。続けて、吸収者の身体が地面を転がるのが胎内にも伝わってくる。暗闇でも視界がぐるぐると回るのを感じながら、ズオ・ラウは腕に力を込めると、ナマエもズオ・ラウの服をぎゅっと握り返した。
 猛攻は容赦がない。吸収者の激痛にもがく悲鳴を聞きながら、二人で呼吸もせずにじっと耐え忍ぶ。ズオ・ラウは目をつむって、ただただ怪我が及ばないようにと念じ続けた。
 やがて浮遊感が全身を包んだかと思えば、重力負荷からの激しい衝撃が加わり、それから圧迫感や胎動音が消え失せた。
 頬にゆるやかな風を感じ、ズオ・ラウはおそるおそる目を開ける。いつの間にやら地面に放り出されていた。顔を上げて周囲を伺うと、横たわる吸収者の身体が見えた。その周囲を数名のオペレーターが取り囲んでいる。彼らに手ひどくなぶられたのか、吸収者はむごい有り様だった。
 近くで様子を伺っていたオペレーターの中から一人が抜け出して、ズオ・ラウの方へ駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか?」
「は、はい。大丈夫です」
「怪我はしていませんか?」
「はい、目立った怪我もありません」
「なら良かった……そちらの方は? 怪我をしているんですか?」
「そちら? ……あっ!」
 一瞬、オペレーターの言わんとする事がわからずズオ・ラウは首をひねりかけるも、すぐに思い当たる節を見つけると素っ頓狂な声を上げ、慌てて視線を下に向けた。
 外部からの衝撃があまりにもひどいものだから、ナマエをかばうように抱え込んだ体制のままだった。現にズオ・ラウの腕の中にいるナマエは、いまだ身体を強張らせたままじっとしている。
 ズオ・ラウがおそるおそる手を離すと、ナマエは緩慢な動きで身体を離してから、ゆっくりと顔を上げた。その双眸はとにかく不満げだったが、どこか照れ隠しのようなものが垣間見え隠れするのは、ズオ・ラウの気の所為ではないだろう。
 他意はありませんという意味を込め、ズオ・ラウは両手を顔の横に持ち上げる。するとナマエがさらに顔をしかめるので危機感から身構えると、二人の様子を伺っていた医療オペレーターが助け舟を出すかのようなタイミングでナマエに声をかけた。
「あなたも怪我はありませんか?」
 尋ねられたナマエは、自分の体を見聞し、
「えっ……と、ないです」
「二人共怪我はなし、と。良かったです。でも一応、後で診ますからね」
 ナマエは恐縮しきった様子で頷いた。この対応の違いはなんなのかとズオ・ラウが眉間に皺を寄せると、医療オペレーターは二人を交互に見やり、柔和に目を細める。
「それだと立てないんじゃないですか?」
「……?」
 ナマエが首を傾げ、それから視線を下へ向ける。つられてズオ・ラウも視線を下へ。
 見れば、ズオ・ラウの足にナマエの尻尾が絡みついたままだった。ナマエはそれに気づくとひどく慌て始め、赤くなったり青くなったりしながらしゅるしゅると尻尾を解いていく。
「ご、ごめん……」
「い、いえ。構いません……」
 どこかぎこちない空気が蔓延すると、医療オペレーターは微笑んでから足早に立ち去っていく。それと入れ替わるようにして慌ただしい足音が近づいてくると、二人同時にそちらへ顔を向けた。
「燭台くん! 尾長ちゃん! 生きてる!?」
「生きてる」
 ナマエが呆れ気味に目を細め、駆け寄ってくるシャオマンに声をかけた。その後ろから、小走りでホーシェンもやってくる。
 シャオマンは近くまで来ると二人に向かって右手を差し出した。ナマエがその手を取ろうとした途端、手を引っ込めてしまう。
「うげっ、燭台くんも尾長ちゃんもなんかドロドロしてる……」
 シャオマンは嫌悪をむき出しにして言うと、数歩後ずさった。
「美肌効果あるよ」
「なわけないでしょ!」
「シャオマンちゃんにもつけてあげる」
「わーっ、ばかばかっ! こっち来ないで!」
 ナマエが立ち上がると、シャオマンはさらに距離を取る。そのまま追いかけっこが始まった。
 そんな二人をホーシェンは呆れ眼で見やってから、ズオ・ラウを見下ろす。ホーシェンは両手にそれぞれ剣を携えており、そのうちの一振り――ズオ・ラウの剣を差し出すので、ズオ・ラウは苦笑を浮かべて首を横に振った。
「今はいいです。汚れているので」
 そう言うと、ホーシェンは肩をすくめて手を引っ込めた。
「ズオさんもナマエさんも、無事で良かったです」
「ええ、命拾いしました」
 ホーシェンは目を細めて微笑み、それから数歩あとずさった。
「……なぜ距離を取るんですか?」
「いえ、なんというか、……思っていた以上にベトベトしてるので……」
 見れば、ホーシェンは心底嫌そうなジト目になっている。ズオ・ラウはフッと自嘲気味に口元を緩めた。
「……牧獣の糞には平気な顔をして近づくのに?」
「堆肥と体液を一緒くたに語らないで下さい」
 暗に堆肥以下の存在に成り果てていると言われている気がして、ズオ・ラウは落胆した。ため息をついて立ち上がろうとすると、視界の隅にいたホーシェンがさらに遠ざかり、入れ替わるようにしてナマエがやってきた。
「おや、シャオマンさんはどうしたんですか?」
「飽きちゃった」
「そうですか……」
「あと、ベタベタを綺麗にしてくれる人連れてきてくれるって」
「それは……助かりますね」
 ほっと息をついたのも束の間、ズオ・ラウの眼前に手の平が差し出された。
「立てる?」
「……」
 ズオ・ラウは無言のまま、おそるおそる手を取る。
 ぬるぬるして滑るかと思ったが、意外とそうでもなかった。ナマエはズオ・ラウの手をしっかり握って離さない。そのまま引っ張り上げられるようにしてズオ・ラウが立ち上がると、ナマエは手を離した。
「ありがとうございます……」
「ううん。それはこっちの台詞だよ」
 ナマエは逡巡するように視線をさまよわせ、
「ラウくん、衝撃からかばってくれたでしょ。ありがとね」
 もごもごと言いにくそうにして、ナマエは足早に去っていく。その背中を目で追いかけ、ふと気配を感じて隣を見れば、呆れ眼のホーシェンがいた。
「ちょっと前から思ってたんですが」
「……なんでしょう?」
ナマエさんへの苦手意識はどこにいったんですか?」
 首を傾げながらホーシェンが尋ねれば、ズオ・ラウはぱちぱちと目を瞬かせ、
「どこかに行ってしまいましたね……」
 そう言って苦笑を浮かべた。

2025/06/23