冥契の夢主
なべて世は事もなし
雑務を終え、やることもなくなってしまい、ズオ・ラウは途方に暮れた。ドクターの秘書を外されてからかれこれ1週間が経過した。外された理由は決してズオ・ラウが至らないからというわけではなく、単に新しく着任したオペレーターを秘書にして業務に慣れさせるというのが、ドクター流のならわしのようだった。
秘書業務と比較すると雑用というものは忙しい日もあれば昼前に終業を迎えてしまう日もあり、てんでバラバラだった。空いた時間を有効活用できるのはとても有意義だったが、規則正しさを好むズオ・ラウにとってこの起伏の激しさはもっぱら調子が狂った。
なにはともあれ、国外に来たからには他国の技術を学びたい。そんな考えのもとに訓練室へと足を運んでみたが、手合わせに付き合ってくれそうな都合の良い相手を見繕うのは叶わなかった。かといって一人で鍛錬するのも気が乗らない。
そうして向かった先は結局、あの二人のところだった。
「忙しいので後にしてくれませんか」
モニターから目をそらすことなく、ホーシェンが言う。
「……ええと、何か手伝うことはありませんか?」
「今は特にないわね」
ホーシェンの隣で画面を覗き込んでいたシュウもまた、ズオ・ラウに目もくれずに言う。ホーシェンは忙しなくキーボードを叩き、シュウの指示に相槌を打っては逐一画面を見つめ、時たま手元の書類を確認し――と、取り付く島もない。
ズオ・ラウは静かに観察する。データ入力をしているようだが、表計算などの事務作業には見えなかった。
「ホーシェンさんは、何をしているんでしょうか」
尋ねると、シュウがちらりとズオ・ラウに目をよこした。そしてホーシェンに小声で何かを伝えてから、あらためてズオ・ラウへと向き直る。
「稲の遺伝子の組み換えに関するゲノムデータの解析よ。ここの水は下水を循環させていることは知っているわよね?」
「はい」
移動都市の上水道は都市内で発生した下水を逆浸透膜などを用いた大型ろ過装置を通して循環させている。だがこのロドスではろ過装置の中間に農業用水路をはさみ、水耕栽培や土ないし砂利などの自然物によるフィルターをはさんだうえで都市内の生活用水として供給されているとのことだ。ズオ・ラウはここに来てから何度も水を口にしているが、特段気にはならない。だがシュウはこの機構になにか思うところがあるのか、含みのある表情で言う。
「大荒城から持ち込んだ苗とここの水は相性が悪いみたい。だから、環境に適応できるか試行錯誤している最中よ」
「なるほど」
「申し訳ないけれど、他の人のところへ行ってちょうだい。シャオマンや、ナマエさんはどう?」
「……シャオマンさんと、ナマエさんですか……」
「シャオマンは医療部で子どもの相手をしてるわよ。ナマエさんは……今日はどこにいるのかわからないわ」
「そうですか、……ありがとうございました。では二人共、頑張ってください」
「ええ」
部屋を出て、廊下を歩きながらズオ・ラウは考えた。シャオマンと一緒に子どもの相手をするか、はてまたナマエを探すか。迷いに迷った末、ズオ・ラウはドクターの執務室に足を運んでいた。子どもの相手は、ズオ・ラウにとって忌避感を募らせるものがあったからだ。
執務室の中にはドクターたった一人だけだった。どうやら秘書は所用を済ませている最中らしい。ズオ・ラウが簡潔に用事を述べると、ドクターは小さく唸った。
「ナマエの場所かぁ……んー、甲板のどこかにいるかな」
「……ずいぶんと大雑把ですね」
「いつもなら医療部で音読をやっている時間だけど、今はもうその必要がなくなってしまったからね」
その言葉を聞いた途端、ズオ・ラウは気まずくなった。なのにドクターはけろりとした態度でいる。傑物だ、とズオ・ラウは思った。
「甲板ですね、ありがとうございます」
「ついでに、甲板で何か不審な点を見つけたら報告してくれると助かるかな」
「はい」
* * *
通路を進み、エレベーターを使って甲板に出た。周囲を見渡せば、いつだったかフラッグ争奪戦を行った場所で数名の職員がフットボールに身を投じていた。その横を素通りし、あちこちを見回しながらズオ・ラウは足を進めた。不審な点を探すついで、ナマエの姿を見つけるためだ。
コンクリートのかすかなひび割れ、手すりの柱の錆つき、空き缶を拾い、ハンカチの落とし物があったので丁寧にたたんでポケットにしまい、別の区画のエレベーター出入り口の横にゴミ箱を見つけたので空き缶を投げ入れたりと、ささやかな事を消化したり記憶に留めながらのろのろと歩みを進める。
上階の通路が頭上を横切ってできたトンネルを通り過ぎてから、ズオ・ラウは一度立ち止まった。来た道を振り返れば、相変わらずフットボールに身を投じる職員が遠くに見える。そして前方、これから向かう先には人の影は見当たらない。もしかすると物陰に潜んでいるかもしれないが、何もなければそのまま一周してズオ・ラウが甲板に出た場所に戻ってしまう。無駄足だ。
ふと、壁の横から突き出た太いパイプに目を留め、ズオ・ラウはなぞるように視線をすべらせた。
10メートルほどの高さのある壁はてっきりどこかの区画に通じるエレベーターの出入り口かと思ったが違うらしい。露出したパイプは途中で曲線を描いて折れ曲がり、下へ下へと伸びている。ズオ・ラウはおもむろに近づくと手すりに手をかけて下を覗き込めば、思った以上に底は深かった。そうして顔を持ち上げた真正面に、はしごがあった。
ズオ・ラウは瞬きを繰り返す。まるで存在に気づかなかったが、どうやら積み重なったコンテナや、並列駐車されたリーチスタッカー、そして黄色と黒で交互に着色された警告色の巨大なクレーンに隠れて死角になっていたようだ。
コンクリート壁を見上げる。天井は見えない。
迷った末、ズオ・ラウははしご近づくと、手をかけた。慎重に、一段ずつゆっくりと上っていく。だんだんと天辺が近くなり、残り二段というところで、ズオ・ラウは首を伸ばして先の様子を伺った。
果たしてそこには塔ほどの高さがある貯蔵容器のようなものがいくつか立ち並んでいた。それが影を作っているせいで、少し薄暗い。目を凝らすと、貯蔵容器の足場の端から、見慣れたあの長い尻尾の先がはみ出しているのが見えた。
慎重さを捨てて駆け上り、床に両足をつけて立つ。辺り一帯には手すりがないので少し肝が冷えたが、高いところから見下ろす景色はなかなかに壮観だった。それに、はるか遠くの烟った先まで見渡せる。
数秒眺めてから、ズオ・ラウははっとして足を踏み出した。三歩、四歩と近づくと、いきなり尻尾が引っ込んで、そのかわりにナマエが顔をのぞかせた。おっかなびっくりといった表情だったが、ズオ・ラウの姿を認めるなり安堵混じりのため息を吐いた。
「なんですかそのため息は……」
「なんでもない。誰が来たのかなってちょっと身構えただけ」
苦笑を浮かべるナマエのもとに近づくと、膝の上に開いたままの本に気付いた。ズオ・ラウは一瞬立ち止まり、日向と日陰の境界線をまたいで、そのままナマエの正面に片膝をついてしゃがみ込む。
「ナマエさん、読書をしていたんですか?」
「そんなとこ。ラウくんは何しに来たの?」
「ええと……ナマエさんを探しに来ました」
「どうして?」
ナマエは目を丸くして、わずかに首をひねる。
「何かお手伝いできることはないかなと」
「……暇なの?」
「有り体に言えばそうです」
やがて、ナマエは呆れたような笑みを浮かべた。
「私も暇だからここにいるし、手伝いはいらないよ。ホーシェンくんのところか、シャオマンちゃんのところに行ったほうがいいと思う」
「ホーシェンさんには必要ないと言われました。シャオマンさんはその、……子供相手だったので……」
と、ナマエは目を丸くして、
「……そっか。ラウくん、苦手そうだもんね」
くすくすと笑いはじめるので、ズオ・ラウは気恥ずかしくなって視線をそらした。
そらした視線が、ナマエの手元の本に止まる。分厚い表紙と色合いは、ズオ・ラウにとって見覚えがあった。しばしの逡巡をはさんで、おずおずと口を開く。
「その本……以前、妹さんと読んでいた本ですか?」
「うん」
ナマエは曖昧に微笑んで頷いた。
「ずっと読んでなかったから最後まで読もうと思って。返却期限も迫ってるから急がないと」
「残り30ページくらいですか? 一日ですぐに読み終わると思いますが」
「んーと、ラウくんはまあ、そうだよね……」
濁すように言って苦笑する。そんなナマエの態度にズオ・ラウは怪訝そうに首を傾げつつ、今までの経験を思い返し、やがて合点がいった。
「ナマエさん、まさかここで音読していたんですか?」
「……まさか?」
「あっ、いえ……」
じとっと睨まれ、ズオ・ラウはたじろいだ。するとナマエは右手を持ち上げ、握りこぶしを軽く数回突き出し、
「なんだやるか?」
「やりません。いちいち喧嘩腰になるのはやめてください」
呆れ眼になって言うと、ナマエは笑みを浮かべて拳をおろした。もとより冗談のつもりだった事はズオ・ラウも承知の上だ。それをナマエもわかっているようで、咎められたことをまるで気にした様子はない。
「でもラウくん戦うの好きじゃん」
「戦闘狂のように言わないでください。自分の力量を知る事ができる手合わせが好きなだけです。……それで、なぜここで音読を?」
「部屋で音読してたんだけど、ドアの下に『眠れないので、できれば防音室でやってください』ってメモが挟まってたから。ここなら誰の迷惑にもならないだろうし……」
「えっ……まさかナマエさん、部屋で声を張り上げてたんですか?」
言うと、ナマエはぎょっとしてからぶんぶんと首を振り、
「違うってば! ……多分、夜中に壁に寄りかかって音読してたのがまずかったんだと思う……」
尻すぼみに言い終わると、気まずそうに視線を逸らした。
居住区画の壁は防音処理がきちんと施されているわけではないので、夜間だと廊下からの話し声はもちろん、隣室の物音が聞こえるくらいだ。ズオ・ラウはそれ以上の追求はせず、ナマエに同情の眼差しを向けた。
「音読せずとも良いのではありませんか?」
「良くない。公用語の発音、まだ引っ掛かっちゃうとこあるから……」
「私から見てだいぶ流暢だと思いますが……」
「ラウくんの言う『だいぶ』は逆に安心できない」
「……先程の発言は撤回します。流暢だと思いますよ」
「言い直すな。私が納得しなきゃ意味ないの」
ズオ・ラウは頭の中で、ナマエの主張と今までのやりとりを照らし合わせた。
確かにナマエの発音につたないところはある。だが、意思の疎通は滞りなくうまくいっているしそこまで拘らなくてもいいはずだ――と、ズオ・ラウが言ったところで、おそらくナマエは聞く耳を持たないだろう。なにせ梃子でも動かないような頑固な一面があるからだ。
しかし、ズオ・ラウの評価が逆に安心できないとまで言われてしまうと、なかなかどうして癪に障った。
「なら、ナマエさんが納得できるようお付き合いしますよ」
言いながら足を崩し、ナマエの真正面にあぐらをかいて座り込む。と、ナマエは瞠目して狼狽えた。
「い、いいよ!」
「一人で音読したところで、おかしいと指摘する聞き手がいなければ元も子もないと思いますが」
「そうだけど……こんな事に付き合わせるの、ちょっといたたまれない……」
「おや、私相手でもいたたまれなくなるんですね」
からかい混じりに言うと、ナマエはあからさまに呆れ眼になった。
「あのね……そんなに暇なら、他の事しなよ」
「今日の給金分の仕事はこなしました。もっとも、他の方の手伝いに回れば追加の手当を貰えるので、やぶさかではありませんよ」
「ラウくんってわりと現金だよね……」
「金は天下の回りものとも言います、あるに越したことはありません。……それで、やるんですか? やらないんですか?」
ナマエは眉間に皺を寄せ、長い逡巡をはさみ、
「……やる」
観念したように呟いた。乗り気ではないその物言いが、またもやズオ・ラウの気に障った。
「ナマエさん、人にものを頼む時はなんて言うんですか?」
ズオ・ラウがそう尋ねると、ナマエは呆気にとられた様子で目をぱちぱちとしばたたかせた。そして次の瞬間には憎々しげにズオ・ラウを見つめる。
「……おねがいします……」
下手に出るのが苦手な性分のせいか、ナマエはひどく言いにくそうだった。
「いいでしょう」
ナマエの態度に気を良くしたズオ・ラウが勝ち誇ったような笑みを浮かべると、ナマエは苦々しく顔をしかめ、しかしそれ以上噛みつくことはせず膝上の本に視線を落とした。そして何事もなかったような落ち着いた表情に戻り、文章を指でなぞりながら音読を始める。
開放感漂う場所ながら、ナマエの声はズオ・ラウの耳によく届いた。視線でナマエの指先を追いかけながら、時々ナマエの顔を伺う。珍しく真剣な表情だと気付いた瞬間、ズオ・ラウも茶化すような気分は消え失せた。
真面目に聞き入り、発音に違和感があったり躓いたところがあれば一度中断させ、間違った理由を事細かに述べる。場合によってはズオ・ラウが手本を聞かせてから復唱させ、それでも怪しければ完璧になるまで何度も復唱させる。とはいえ鞭ばかりでは辛いことはズオ・ラウも過去の経験からわかっていたので、最後には褒め言葉を付け足した。
小説の節目に入ったところで、一旦休憩に入った。
「きびしい」
ナマエが小声で呟くのを耳ざとく拾ったズオ・ラウは思わず首を傾げた。
「何がですか?」
尋ねると、ナマエは渋々といった様子で口を開く。
「……ラウくんの教え方が。それと、取ってつけたような褒め言葉がちょっとむかつく」
「なら、褒めるのはやめておきましょうか」
「それはもっとやだ」
「身勝手ですね。……あと1分休んだら始めますよ」
「短い。2分!」
「1分後には始めますからね」
ズオ・ラウの有無を言わせぬ宣言に、ナマエはぐっと押し黙った。そして不満そうな顔つきから一転し、目を閉じて静かに呼吸を整え始める。
最近の付き合いで、ズオ・ラウにはわかった事がある。
ナマエは押しに弱い。相手が下手に出れば強く出るくせに、高圧的な態度をとられると引っ込むのである。
この事に気付いたのはひとえにシャオマンのおかげだ。二人のやり取りを観察していると、シャオマンが主導権を握っていることが多いと気付いた。そんなシャオマンの強引な態度を参考にしたわけだが、思っていたよりもうまくナマエを御せているので、ズオ・ラウも内心驚くばかりだ。
自分の思い通りにならないことを思い通りにできる手段を見つけ、それがいとも容易く成功した時の気持ちよさ。ある種の感動に浸っているうちに1分が過ぎたらしい。ナマエがまぶたを開けるのを合図に、ズオ・ラウも姿勢を正した。
うつむきがちになって音読を始めるナマエの声を聞きながら、発声にあわせて形を変える口元に目を向け、続けて鼻梁、頬と視線を移動させる。日差しが強いサルゴンで長いあいだ暮らしたわりに、日焼けは目立たない。かといって、炎国の都にいたころよく見かけた研究室に籠もりっきりの学者のような生白さはなく、健康そのものだ。
最後に瞳に視線を移す。一定間隔でゆるやかなまばたきを繰り返すのを、ズオ・ラウはただただ新鮮な気持ちで眺めた。
思えばこうして落ち着いて向き合うことは初めての事だった。呼び方が変わったのをきっかけに交流の幅は増えたものの、手合わせに付き合ってもらったり、時々食事を共にしたり、仕事の手伝いをし合ったりとそのくらいしかない。それでもズオ・ラウはナマエの好き嫌いを徐々に把握しつつあるし、ナマエもまたそうなのではないかという予感はある。
見慣れたはずの顔ながら、こうしてまじまじと観察するといろんなことに気付かされる。伏しがちになったまぶたの奥にある虹彩に翳りをつくるまつげが細やかで長いことも、今しがた知った。まぶたが上下するのにあわせて翳りも強弱を見せる。本来の目的を忘れて見入っていると、ふとした拍子にナマエが顔を上げ、ズオ・ラウの瞳を不満そうな視線で射抜いた。
微動だにしなかったが、内心ではみっともなく慌てふためいた。
「ラウくん」
咎めるような声に、静かに息を呑む。
「ちゃんと聞いてる?」
「……聞いています」
「本当に? 変なとこない?」
「今のところはありません。あったら今まで通りきつく言っています」
「……せめてやわらかく言って」
「善処はします」
一度ズオ・ラウに不満げな眼差しを向けてから、ナマエはまた文章を指でなぞりながら音読を始めた。
他人の顔をまじまじと眺めていた事を咎められるかと身構えたが、思っていたような展開にならずズオ・ラウは内心ほっと胸をなでおろした。次いで、集中力が足りないと胸中で自分を叱責し、ナマエの声に耳を傾けながら音読している文字を目で追いかける。だがそこには文字をなぞるナマエの指先があり――本の文字に這わせる動作を目で追いかけ、綺麗に整えられ光沢を放つ爪から、ゆるい曲線を描く指を辿って手の甲までつぶさに見つめ――結局ズオ・ラウは自分のつま先に視線を固定した。
無骨でまったく面白みのない景色を視界におさめながら、ナマエの声に耳を傾ける。休憩前よりも声のトーンは落ち着いていてやわらかかった。どうやらナマエなりにこの状況に緊張を覚えていて、それがようやくほどけたせいだろう。
いつだったか病室で音読していた時と似通ったものを感じ取り、ズオ・ラウはどこか安堵を覚えた。妹だけに向けていたものを他者――それも一悶着あったズオ・ラウにも向けようになったのだ。この事実はなにか特別めいているのではないかと感慨にふけるズオ・ラウの胸中などつゆ知らず、当のナマエは発音に躓いてどもり、おずおずと気まずそうにズオ・ラウを見た。
「復唱しましょう」
「……はい」
ナマエの返事は慎ましかった。
児童向けの本は文字数も少ないため、音読は想定よりも早く終わった。ナマエの読み上げを真面目に聞き、時折助言を出していたズオ・ラウはけろりとしていたが、ナマエはげんなりとした表情だった。
「疲れた……」
「ただの音読ですよ。何が疲れると言うんですか」
「ねちねちしてるとこ」
「していません」
ほとんど反射的に、身を乗り出すようにして言ってから、
「……折角こうして助言をしたのに、そんな言い方をされるのは心外ですよ……」
わずかに顔を背けて付け足すと、ナマエは徐々に気まずそうな表情に変わっていき、
「……ごめん。ありがと、感謝してる」
素直な言葉が返ってきて、ズオ・ラウはそむけた顔を元の位置へ戻した。目が合うなりナマエはにっと微笑んで、それから自分の隣を手のひらで軽く2回、ぺちぺちと叩いた。
「ラウくん、ちょっとこっち来て」
「ええと……はい」
怪訝に思いつつ立ち上がり、ナマエの隣に腰を下ろす。次は何をするのかと首を傾げて相手の言葉を促すと、
「尻尾貸して」
斜め上の言葉が飛んできて、ズオ・ラウは一瞬固まった。
「……尻尾は貸し借りするものではありませんが?」
「いいでしょ、減るもんじゃないし」
「……変な扱いはご遠慮願いますからね」
片手を背中に回して自分の尾を引っ張るように手繰り寄せつつ、尻尾を持ち上げてナマエへと差し出した。ナマエは両手でそっと触れると、自分の太ももの上に横たわらせる。驚いてぎょっとするズオ・ラウに構わず、ナマエは表面をひと撫でした。途端に、ぞわっとした感覚がズオ・ラウの背中を駆けめぐる。
「ちょっ、何をして……!?」
「うわあ、ざらざら。私のと違う」
身構えたズオ・ラウだったが、奇妙な刺激はそれっきりだった。ナマエは尖った鱗の先をなぞったり、持ち上げようとしたりと弄り始める。その興味津々な眼差しから、ただの好奇心で行動しているのが手に取るようにわかった。
「鱗、浮き上がってるから剥がれるのかと思ったけどそうでもないね。残念」
「皮膚の構造はナマエさんのものといたって変わりありませんよ」
「脱皮の時大変そう」
「そうでもありませんよ」
「へー」
ナマエはただ自分と違う尻尾が珍しかっただけらしい。しきりにズオ・ラウの尾を触って確かめている。
実際、ズオ・ラウのように節理状の鱗になっている尾を持つフィディアはそうそう見かけない。おまけに鱗に見えるものは皮溝が変形したものでしかなく、ひし形の部分一枚だけを剥がすだなんてことはできない。だが、鱗をはがせると勘違いしている人間がごくまれに存在している。かつてズオ・ラウが都で学生だった頃、同級生にどういう構造なのか聞かれた事もあれば、下級生から「鱗をください」とせがまれた事もあった。
ただ、こうやって無闇矢鱈に触られるのはズオ・ラウにとって馴染みがなく、混乱が先立って思考がうまくまとまらない。おまけに他人に触られているというのにまるで不快感がないので、混乱は極まるばかりだ。
「ラウくんって尻尾で物持ったりしないよね」
「両親に行儀が悪いと教わりました。それに、そこまで器用に扱えません」
「ひっかけるとこ多いし便利そうだけど」
「布の糸も引っ掛けますけどね」
「……あは、それはちょっと厄介かも」
かすかな笑い声につられ反射的にナマエを見ると、案の定口元を緩めていた。膝上の尻尾を穏やかに見つめながら、尖った皮膚の輪郭を確かめるように指を這わせる。途端にぞくりとしたものが湧き上がって硬直していると、ナマエは鱗の流れにそうようにして、手のひらを往復させ始める。
いくら硬質化していても、神経は通っているので撫でられている感覚は如実にわかるし、手のひらのあたたかさだとかに否応なく意識を引きずられてしまう。息を呑んで見守っていると、ナマエはちらりとズオ・ラウを見て悪戯っぽく目を細めた。
意味ありげなその動作に内心ではみっともなく動揺し、それを必死にひた隠そうとして微動だにせずいるズオ・ラウを尻目に、ナマエは尻尾を持ち上げるとその下をくぐった。何をするのかと見守っていると、床にズオ・ラウの尾を横たわらせ、あろうことかズオ・ラウに背を向けるようにしてその場に横になった。
尻尾の上に頭の重みが加わって数秒後、ようやくズオ・ラウは口を開いた。
「あの……ナマエさん?」
「夜勤で昨夜から寝てない。もう限界」
「……なら、自分の部屋で寝てはどうですか?」
「そうしたいのは山々だけど、はしご踏み外しそうだから無理」
「私の尾を枕にするのは無理がありますよ。自分の腕を枕にしたらどうですか?」
「しびれるからやだ」
「私の尾は痺れてもいいという事ですか……」
「うん」
ナマエがゆるく頷いたのが――裏を返せば頬擦りの感触が、尻尾を通して伝わってくる。
「そもそも、私の尾は棘状ですから痛いはずです」
「ううん。触ってみたら思ってたより柔らかかったし、高さもちょうどいいよ」
「ならばせめて上に何か敷くとか……」
「大丈夫、平気」
「あなたが平気でも、私はそうではいられないんです」
「じゃあこれあげるから我慢して」
ナマエはそう言って、自分の尾を持ち上げたかと思えば、ズオ・ラウの膝の上に横たわらせた。唖然として固まるズオ・ラウにナマエは背中を向けたまま言う。
「1時間たったら起こして」
言い終わるなりズオ・ラウの尻尾に片手を添えるのを最後に、反応がなくなった。ナマエの背中を呆然と見つめていると、肩が一定間隔で上下し始める。もう眠ってしまったようだった。
ズオ・ラウは正面を向いてぼんやりと空中を見つめた。どうしたらいいのかという混乱が付き纏って離れない。しかし、ずっとそうしているのも難なので、気を取り直して近くに置かれた本を手に取った。暇つぶしにちょうどいいと思ったのだ。
膝上に横たわるナマエの尻尾に恐る恐る触れる。滑らかな光沢を放つそれはすべすべとした手触りで、ズオ・ラウは少し驚いた。皮溝のくぼみはあれどズオ・ラウほど目立ったものではなく、滑らかな感触に自分のものとの違いを実感する。そんな赤の他人の尻尾の扱いに戸惑いを覚えながら、膝上でちょうどいい位置に移動させ、その上に肘を置いて本を広げた。
他人の尻尾をクッションがわりにするのは初めてだったが、意外と悪くなかった。
1時間ほど経った頃、ナマエは自力で目を覚ました。起こすのも忘れて本を読みふけっていた事に内心慌てるズオ・ラウのことなどつゆ知らず、ナマエはのろのろと上体を起こすと、一度だけうんと背伸びをする。そして目をしょぼしょぼとさせながら虚空を見つめ、ズオ・ラウの方へ顔を向けた。
「1時間たった?」
真正面から向き合い、ズオ・ラウは一瞬、返答につまった。ナマエの頬に、三角形状の奇妙な形をした跡がいくつも残っていたからだ。
ズオ・ラウは目をしばたたかせ、何とか声を絞り出した。
「……経ったと思います」
「ふふ、ラウくんが起こす前に起きた。私の体内時計すごくない?」
「えっ、ええ……、そうですね……」
「尻尾、ありがとね」
「……どういたしまして」
どうにか平静を装って応じると、ナマエはズオ・ラウのことなど気に留めた様子なく軽いストレッチを始める。そんなナマエを尻目に本を閉じ、ズオ・ラウは自分の尾を見つめる。ナマエがちょうど、頭をあずけていた場所だ。
頬に残った痕は、これが原因だとしか思えなかった。
「ラウくん、もどろ」
ナマエが振り返ると、奇妙な痕がくっきりと見える。だが、本人はまったく気づいていない。
その姿は、ズオ・ラウの瞳にひどく間抜けに映った。
「……ふっ」
吐息混じりの笑い声がうっかり漏れて、思わず顔を背けた。
「……なんで笑った?」
「いえ、ただの思い出し笑いです」
「そう? ならいいけど」
二人揃ってはしごへ向かう。そのまま下りるかと思えば、ナマエは立ち止まってズオ・ラウを振り返り、
「ラウくん先におりる?」
そう尋ねてきた。
「な……なんですか、その妙な気遣いは……?」
「スカートはいてるから」
思わずため息が出た。
「これは女性が身につけるような衣服ではありません。そもそも下穿きも穿いてます」
ナマエは無言でズオ・ラウの方へ一歩近づくと、袴を指でつまみあげた。
「わー、ほんとだ」
「めくらないでください……。今の行動、人によっては大問題にまで発展しますよ」
たしなめると、ナマエは苦笑を浮かべ、
「つまんで持ち上げただけだからセーフ」
「アウトです」
ナマエは尻尾を本に巻き付けるようにして持つと、我先にとはしごを下りていった。ズオ・ラウもナマエの後に続いて、はしごを下りる。
甲板を移動し、エレベーターを利用し艦内に戻る。ナマエはその間も自分の頬の違和感など気にした様子はなかったが、正面から向かってきた職員がナマエの顔を見て盛大に吹き出して通り過ぎたのをキッカケに違和感に気付いたらしい。おもむろに手を持ち上げ、ぺたぺたと頬に触り始める。
「ラウくん」
「はい」
「近くのお手洗いの場所わかる?」
「そこのT字路の角を曲がった先にあったはずです」
言い終わるなり、ナマエは脱兎のごとく駆け出した。角を曲がる後姿を視線で追いかけながら呆然と立ち尽くしていたズオ・ラウだったが、笑い混じりのため息とともに足を踏み出した。曲がり角に差し掛かったあたりで立ち止まる。
1分もしないうちに、ナマエが女性用手洗いの扉を開けて廊下に出てきた。真顔のまま、速歩きでズオ・ラウの方へ直進してくる。
嫌な予感がして後ずさりそうになったが、その場に立ち続けていると、
「このっ、教えろ!」
握りこぶしでどつかれそうになり、ズオ・ラウはさっと横に避けた。ナマエがむっと顔をしかめるのを尻目にズオ・ラウはふっと笑みを浮かべて歩みを進めると、後ろから追いかけてくる足音に気付いて自然と小走りになる。
廊下は走ってはいけないという決まりを破った追いかけっこは、そのまましばらく続いた。
2025/10/04