From tomorrow

明日から

 応接用スペースにある向かい合ったソファの間、膝下ほどの高さのミーティングテーブルの上に透明なガラス製の水槽が置かれている。横幅50センチほどのそれはひと目で飼育用だとわかるもので、水槽の内部は亜熱帯を模したテラリウムが構築されていた。
 水槽の左側半分は砂地に覆われており、枯れ木のオブジェがぽつぽつと点在する。その合間から、サンドフィッシュが顔をのぞかせていた。
 水槽の中央から右側に向かってぽつぽつと緑地化が進むにつれ苔生した岩が何個か置かれ、地面も草で完全に覆われるようになる。その中でひときわ目立つシダ科の植物の根元に、小さなオリジムシがいた。
 オリジムシは一処にとどまっているが、よく見るとじりじりと動いている。どうやら苔を食べているようだった。対するサンドフィッシュは顔を出したまま、どこを見ているのかわからない様子でじっとしている。
 このサンドフィッシュは以前、ズオ・ラウがナマエとともにサルゴンで捕獲しドクターに届けた個体だ。ズオ・ラウがドクターの執務室に入ってから世間話の延長のつもりで何の気なしに「サンドフィッシュはどうなりましたか?」と尋ねたところ、ドクターが部屋の奥からせっせと運んできたのがこのテラリウムだった。ずいぶんと手厚い環境で育てられており、ズオ・ラウは面食らってしまった。てっきりもう死に絶えて、研究のためにホルマリン漬けかなにかになっていると思っていたのだ。
「砂の中に潜らないんですね」
 しげしげと観察しながらズオ・ラウがぼやくと、テーブルをはさんで対面に座るドクターはうなずいた。
「日中はほとんど潜っているけど、物音や振動に反応して出てきてしまっているね」
 かつてナマエが語った習性だ。サンドフィッシュは振動や物音に強く反応する。そうして砂の中から、砂の上にいる虫を捕らえて食べるのだ。
 そうしてふと、疑問がよぎる。
「サンドフィッシュは、オリジムシを餌として認識していないんでしょうか?」
 ズオ・ラウが尋ねると、ドクターは肩をすくめてみせる。
「最初は噛みついていたけれど諦めたみたいだ。このオリジムシは生まれたての幼体だが、サンドフィッシュの口に入らない程度には大きい。サンドフィッシュは歯を持たず丸呑みが基本だから、噛みちぎることもできない」
「……ああ……」
 納得すると同時に、ズオ・ラウの胸中に憐憫のような感情が湧き上がった。
「まあ、おかげで共存がかなったんだ。あれ以来食べようともしないし、喧嘩をする様子もない。相性が良くてよかったよ」
 ドクターが朗らかな調子で言うので、ズオ・ラウはあらためて水槽の中の二匹を観察する。この状態は相性がいいというよりも互いに干渉していないように見えたが、気にしないよう努めた。
「ドクターは、趣味でこれを?」
「うん、研究の一環もかねているけれどね。ロドスには趣味で自然環境を模した箱庭を作ったりしてしまうほどオリジムシの飼育に詳しいオペレーターがいてね、彼らの話を聞いて見様見真似でやっているところだよ」
「なるほど……」
 ドクターは思いのほか好奇心旺盛な性質で多方面に手を伸ばしがちであり、また茶目っ気もあった。口の中でインスタント麺を作るというわけのわからない特技を見せられた際は、流石のズオ・ラウも引きつった笑みを浮かべるほかなかったが、こういう本格的な趣味だと素直に感心してしまう。存外振り幅の大きい人だと思いながら、出された飲み物に口をつけた時だった。
「ところでズオ・ラウ、午後からの予定は? 手伝って欲しいことがあるんだが」
 唐突な申し出に驚きつつも、ズオ・ラウはドクターの机に視線を向けた。書類が積み重なっている。手伝いとはおおかた整理整頓のことだろう。
「……その、午後は別の方との約束がありまして……。断りましょうか?」
「ああ……いや、そこまでしなくていいよ。先約を優先してくれ」
「ご希望に添えず申し訳ありません」
「君が謝る必要はないよ。無理を言ってすまなかった」
 ドクターの返答に、ズオ・ラウは内心ほっと胸を撫で下ろした。
「しかしズオ・ラウ、君は思っていたより周囲に順応するのが早いね」
 前置きもなく賞嘆めいた言葉を投げかけられ、ズオ・ラウは目をしばたたかせた。
「……そうでしょうか?」
「レイズの話では気難しい一面があるというし、司歳台という組織に所属しているという事もあって一線を引かれると思っていたんだ。なのに君は率先してコミュニケーションをはかり、またレクリエーションにも参加している。喜ばしい限りだよ」
 同郷の、それもよく見知った人物の名前が出てきてズオ・ラウは面食らった。相変わらずの世話焼き気質に感心と呆れを覚えつつ、口を開く。
「組織が潤滑に動くよう友好的な態度を示すのは普通のことでは?」
「ここにはそういう当たり前が通用しない人は多いんだ。ほら、ナマエがいい例だよ」
「……」
 またもや見知った顔の名前を出され、ズオ・ラウは口をつぐんだ。ドクターの口調は冗談交じりではあったが、少なくとも良い意味で使われてはいないことはわかったので、反応できなかった。
「そういえば、最近よくナマエと話しているみたいだね」
 内心ではぎくりとしたが、ズオ・ラウは極めて冷静を装った。
「ええ、はい」
「思っていたより馬が合ったかな?」
「まあ……そんなところです」
 ズオ・ラウの返答は曖昧に濁すようなものだったが、ドクターはそれで満足だったらしい。フェイスガードに覆われて表情はわからないが、ドクターが微笑するような気配を感じた。
「正直、君のような立ち回りをしてくれる存在は願ったりかなったりだ。礼を言うよ」
「は、はぁ……」
 何がどう願ったりかなったりなのかわからず、また礼を言われる覚えもなく、ズオ・ラウは釈然としないままに適当な相槌を打った。そして、それを誤魔化すように再度飲み物に口をつける。
「先日、炎国司歳台からの書簡が届いた。君あての文もあったが、目を通したかい?」
 本題に入ったとわかった瞬間、ズオ・ラウはカップをテーブルに戻し、背筋を伸ばした。
「もちろんです」
「君もそろそろ炎に戻る頃合いかな」
「そうですね」
「寂しくなるね……だが、任務が終わったら戻ってくるのかな?」
「あの代理人達がこちらに身を寄せている以上、監督の命は続くでしょう。むろん、あなた方が私たちを受け入れてくださればの話ですが」
「問題ないよ」
 ズオ・ラウは瞬時にドクターの言質を取ったと直感したが、呑気な空気をまとうドクターを見つめ、その考えを振り払った。相手から信頼を向けられている以上、ズオ・ラウはただ期待に応えればいいだけの話だ。そうして信頼を積み重ねていけば、言質を突きつけるよりもずっと強い影響力に変わっていく。
 それからしばらくの間、他愛もない雑談ついでに近況報告も兼ねた面談を終え、退室する間際のことだった。
「ところで、君が約束している相手は誰かな?」
「えっと……」
 ふいに尋ねられ、思わず言い淀んでしまった。ズオ・ラウが『しまった』と思った時には、ドクターがにやりと笑う気配を感じた。
「なら、あててみようか」
 ドクターが考え込むそぶりを見せるので、ズオ・ラウは奇妙な緊張を覚えながら待つ。
 やがてドクターは右手の人差し指を立てて、ある名前を口にした。
「止まれ」
 訓練用の剣がぶつかりあった瞬間、停止の合図がかかった。
 ズオ・ラウがすぐに剣を下ろすと、一拍の間をはさんで対面のナマエも剣を下ろした。
 停止の合図をかけたSharpは二人に歩み寄ると、ナマエの方へ顔を向けた。
「盾を使えと言っているだろう。何度言ったらわかるんだ」
 Sharpが何度も強調して言うように、打ち合いの中断は今回が初めてではなかった。これでもう六度目になる。
「……今のは、やむをえませんでした」
 しぶしぶといった様子でナマエが答えると、
「何がだ。剣を突き出すよりもまず先に盾を突き出せ」
「……実践を想定して動けと言われたから、盾で守るより相手の息の根を止めたほうが早いと思いました」
 ズオ・ラウはナマエの火に油を注ぐような発言を聞きながら、息の根を止めるつもりだったのか――、とぼんやりと思考にふけった。事実ナマエは本気だったようで、突き出された剣先を見てとっさに防御姿勢をとったが、ぶつかりあった衝撃により利き手に痺れるような違和感が残っている。
 今回の手合わせはいつもと違い、ナマエの左手には訓練用の小盾が取り付けられている。もとよりナマエが扱う鎌剣は盾とセットで運用するものらしい。だがナマエは己の剣の師が使っていないからという理由で盾を持つことはしていなかった。
 何がきっかけかはわからないが、Sharpも剣と盾を使う戦法を得意としているため、盾の使い方を叩き込むという話になったようだ。そもそも、これはサルゴンにおける一般的な戦術とのことだった。
 そしてズオ・ラウは今日ナマエと手合わせの約束を取り付けており、一転して練習相手に抜擢された。ズオ・ラウはいつものような打ち合いを想定していたので、ロドスのエリートオペレーターが同席し、かつ盾を持ち出されたのには最初こそ驚いた。が、いざ取り組んでみると訓練の一環としては悪くなかった。
 しかし、ナマエがこの有様なので終わりどころが見えない。訓練はズオ・ラウが予想する以上に難航しそうな気配があった。
「これは実践を想定した盾の訓練だ。いらない自己判断は捨てろ。まず盾を使え。盾を使って剣撃を止め、流す。これをしろ。わかったか」
「はい」
「防衛技術なら彼のほうがよっぽどマシだ。彼を見習え」
「はい」
 ナマエの返事はただ反射的に返しているかのように自動的だった。Sharpの深い溜め息が聞こえ、このまま説教が始まりそうな気配を感じたズオ・ラウは自然と身構えた。
「そして君」
「はい!」
 いきなり標的がこちらに向いたものだからビクッとしたが、軍に所属していたころのように大声で返事をした。
「本気であいつに斬り掛かってくれ。盾で受けやすいようなところを意図して狙わないでくれ。一切手を抜くな。わかったか?」
「はい……」
 ズオ・ラウのささやかな気遣いは、しっかりと見抜かれていた。
 ナマエが左手に盾を取り付けているため、ズオ・ラウは左側を狙う頻度が高かった。それを勘付かれないように振る舞ったつもりだったが、Sharpはこの場にいる誰よりも戦闘に長けているのだから気付くのは当然の話だ。
 しかし悲しいかな、ナマエは盾をろくに使わず剣ばかり振るうものだから、それ以前の問題だった。
「いいかナマエ、剣を振るう前に盾を構えろ。それができるまで訓練は続ける」
「……」
「自分の事より周囲に気を配れ。お前の下手な訓練に付き合わされている彼の身にもなれ。貴重な時間を無駄に浪費させてしまっている事をよく考えろ。人の時間は有限なんだ」
 Sharpの追い立てるような発言に、ナマエが眉間に深い皺を刻む。
「い……いえ、私は別に……」
 ズオ・ラウ自身そういった恩着せがましい思いはないので、慌てて首を振ってしまった。上官に楯突くような発言をしたらどういう結果を招くかさんざん分かっているので、ズオ・ラウはしまったと思いながら身構える。だが、ズオ・ラウが予想したような怒号はなく、代わりに深い溜め息だけが聞こえた。
「変なところで謙遜するな。そもそも、鍛錬の相手なら他に適材がいるはずだろう」
 もっともな言い分だった。ズオ・ラウがまだ手合わせをしていない人材は他にもたくさんいる。
 だがズオ・ラウがここにいる理由なんて、昨日の些細なやりとりがきっかけだ。
 ――ラウくん、明日の午後暇なの?
 ――はい。
 ――じゃあ手合わせに付き合って。
 ――いいですよ。
 二つ返事で応じたのは、今まで数回手合わせをした結果だ。
 ナマエとの打ち合いは遊びの延長のようだが、なりふり構わずといった時もあって手を抜く様子は微塵もない。終わった後の反省会では意見交換も真面目に応じてくれる。日頃のやり取りのおかげでいつしか気も置かなくなり、応対も楽だった。
 ズオ・ラウにとってはそれ以上でも、それ以下でもない。
「剣術を極めたいという利害の一致にすぎません」
 Sharpがふっとかすかに鼻で笑った。
「……すぐ付け上がるぞこいつは」
「しないよ!」
 ナマエが焦った様子で声を張り上げるのをSharpは一瞥し、「どうだかな」と小さく呟くと、
「もう一度始めてくれ」
 その一声を皮切りに、再度定位置へ戻る。やがてSharpが合図を出すと、七度目の訓練が始まった。
 ズオ・ラウは瞬時に駆け出し、間合いを詰めて剣を振るう。だが、ナマエは避けてしまった。
 すかさず姿勢を低くして下から切り込むと、ナマエはあろうことか剣の腹を足で蹴って弾いた。
 そして今度は盾で殴りかかってくるので、ズオ・ラウは慌てて床に身を伏せて避けた。背中のあたりに風を感じ、肝を冷やしながら飛び上がって距離を置く。
 ズオ・ラウは一度呼吸を整えてから、もう一度ナマエに向かって斬り掛かった。
 対するナマエは目をすがめ、向かってくる切っ先を睨みながら右手を動かす。だが次の瞬間、ハッとしたように目を見張り、ほんの僅かな間をはさんでから、勢いよく左手の盾を前面へと突き出した。
 鈍い音を立ててズオ・ラウの剣が弾き返された。その反動でズオ・ラウはバランスを崩し、たたらを踏むように二歩、三歩と後退する。右手にじりじりとした確かな衝撃を感じながらナマエを見れば、目を見開いて固まっている。
 奇妙な達成感にひたるがまま数瞬見つめ合い、そして二人同時にSharpの方に顔を向けた。
「それでいい」
 Sharpはしっかりと頷いた。

 それからナマエの訓練は夕方まで続いた。何度も何度も同じことを繰り返す反復練習じみた訓練だったが、ナマエの反応は次第によくなり、Sharpが頃合いを見計らって次の訓練へと段階的に移行していく。
 Sharpの注文はなかなか厳しく、ナマエはもちろんのことズオ・ラウもじわじわと体力を削られていく。やがて解散の号令がかかるころには、両者とも額に汗をにじませるほど疲弊しきっていた。
「隊長は厳しい……」
 タオルで顔を拭きながらナマエがぼやく。
「あなたのことを気にかけているからでは?」
 ズオ・ラウが水を飲んでから答えると、ナマエは顔からタオルを離して言う。
「言葉ではわかるんだ。でも身体が追いつかないって言えばいいのかな、なんか頭ではわかってるのに動きがバラバラになっちゃって……」
 訥々とした口調で、抱えている悩みを口にする。
「うまくできないって1回でも思っちゃうと、もう駄目なんだよね。思い込みが足かせになって、当然結果も出ない。……ラウくんは上手にできるんだろうけど……」
 ナマエの吐露にズオ・ラウは否定も肯定もせず、ただじっと耳を傾ける。そして話が終わると小さなため息をつき、
「買いかぶりすぎですよ。先日、ほかの人との手合わせで負けましたから」
「えっ、負けたの?」
「はい」
 先日、日課である早朝の武の指導の場にて鉢合わせたジエユンと手合わせをする機会があった。
 数ヶ月前玉門に帰郷した際、比武台にてジエユンとワイフーの打ち合いをタイホーと共に眺めた時『公子の勝率は三割』と指摘されたのを思い返し、いつぞやのリベンジとして身構えたのが原因かもしれない。ズオ・ラウはジエユンにあっさりと負けてしまった。
 試合を観戦していたチョンユエは負けたズオ・ラウに対して落胆も嘲笑も見せず、淡々とした口調で改善点と伸び代を指摘してくれたのが幸いだった。だが、男女の体格差をもってしても敵わなかったというショックは大きかった。
「相手の行動は見えるのですが、身体が追いつかないと強く感じました。今日のナマエさんを見て、身につまされる思いになりました」
「お互いままならないね……」
 しみじみとナマエが言うので、ズオ・ラウは追従するように頷いた。
「ええ。武を極めるにしても、生まれ持ったセンスというものはあります。足りない差は別のなにかで埋めるしかないんです」
 ズオ・ラウは武術にひとかどの感性を持ち得なかったが、身のこなしから宗師に軽功の才を見い出され、がむしゃらに極めた。そして軍に入った過程で剣術も学び、場数を乗り越えていくうちに『自分は同年代と比較してそれなりに強いのだ』という自負も育った。
 しかしロドスではもっと早く走れる人がいて、剣が上手い人間はたくさんいた。ズオ・ラウが得意だと思った分野でも、一番にはなれなかった。
「つまり鍛錬あるのみ?」
「まあ、そうなりますね」
 数秒の間を置いてから、ナマエが「はぁ」と小さなため息をついた。落胆した表情を隠すように、タオルで顔をごしごしとこすり始める。ズオ・ラウも静かに深呼吸しながら、ぼんやりと空中を見つめる。
 追いつくために鍛錬を積み重ねた先に何があるのかわからない。頑張って走り続けた先にはどういう景色が広がっているのかまったく予想がつかない。ただただ不透明で、曖昧だ。だが、どのみち先のことなんて、誰にもわからないのだろう。
 訓練室を片付け、二人そろって退室した。特に何も会話がないまま並んで歩いていると、ふいにナマエが窓の外を見た。遠くを見つめる眼差しはどこかぼんやりとしていて、眼前に広がる風景よりも、はるか遠い向こうの景色を捉えているかのようだった。
ナマエさん」
 声を掛けるとナマエはハッとして、ズオ・ラウの方に顔を向ける。
「なに?」
「いえ、ぼうっとしている様子でしたので。さすがに疲れましたか?」
「……あはは、そうかも……」
 曖昧な苦笑を浮かべる。
 ナマエがああいう眼差しをするのを見るのは、ズオ・ラウにとってこれが初めてではなかった。
 果たしていつ頃からかはわからないが、ナマエが遠くを見てぼんやり思考にふけるのを、最近になってよく目にするようになった。
 注意散漫と思って声を掛けると、本人は慌てて取り繕う。なにか考え事をしているのは明白だったが、ズオ・ラウは特に問いかけることはしなかった。
 思い返せばナマエにはいろいろな出来事が降り掛かった。アーツによる後遺症はもう残っていないようだが、それでも家族を失ったことは何かしら大きく響いているはずだ。ならば考える時間は多いに越したことはないと、ズオ・ラウは深く追求することはしなかった。

 あれから数日後、ズオ・ラウは今日も今日とて依頼された業務を終え、自室に戻ろうとする最中の事だった。
「ああ、ちょうどいいところに。ズオ・ラウさん!」
 後ろから声をかけられ、ズオ・ラウははたと立ち止まった。振り返ると職員がこちらに小走りで駆け寄ってくるのが見え、ズオ・ラウはその場に留まった。向かってくる相手の顔を見つめるが、見覚えはない。
「私になにか御用でしょうか?」
 ズオ・ラウが尋ねると、職員は安堵した様子で口を開く。
「オペレーター・ナマエにこれを渡してもらえませんか?」
 言い終わると、脇に抱えていた事務用封筒を差し出してきた。
「ドクターに渡すよう頼まれたんですが、ナマエさんが見つからなくて……」
 ズオ・ラウは思わず眉をひそめた。嘘だと直感したからだ。
 というのも、オペレーターの居場所はドクターが把握しているので、聞けばだいたいなんとかなるケースがほとんどだ。ここに来てまだ日が浅いズオ・ラウですら理解していることを、目の前の職員が理解していないとは到底思えなかったのだ。
 ズオ・ラウの表情が変わったことで何かを察したのか、職員は早口でまくしたてる。
「ほら、ズオ・ラウさんって最近よく一緒にいるじゃないですか、ナマエさんと」
「……、ええと……」
 想定外の言葉を投げかけられ、ズオ・ラウは戸惑った。
「だから、渡してもらえないかと思って」
 何が『だから』なのかわからないうえに、この職員はどうあがいてもズオ・ラウに雑事を押し付けたいようだった。
 しばしの間視線を交わすも、先に折れたのはズオ・ラウの方だった。
「……はい、わかりました」
「それじゃあお願いします」
 渋々と受け取ると、職員はお辞儀をして足早に立ち去った。
 職員の粘り強さに根負けし、安請け合いしてしまったナマエ宛の封筒を見下ろしながら、ズオ・ラウはさっきの会話を振り返る。
 ――よく一緒にいる。
 ズオ・ラウにはそんなつもりは毛頭なかった。しかしここ数日を思い返せば、ナマエと顔を合わせない日がなかった。食事どきにしろ、手が空いた時間にしろ、どこかで必ず顔を合わせている。
 互いにそういう取り決めをしたわけでもないし、かといって偶然の産物によるものでもない。顔を合わせれば自然ととりとめもない話が始まり、どちらともなく明日の話を切り出すようになり、流れるようにそうなってしまうだけだ。
 いつかクルースが語った話では、ナマエと親交を深めるにもそれなりの期間を要するとの事だった。実際ズオ・ラウが彼女の姿を見かける時も一人でいることが多く、誰かと連れ立つような性分ではないのは明白だ。そこに炎は司歳台の使節として派遣されたぽっと出のズオ・ラウが頻繁に接触したせいで、目立ってしまっているのだろう。
 ずっとこの状態を続けていたら変に波風が立ちそうな気配をズオ・ラウは感じた。かといって周囲の目を気にしていきなり態度を変えるのもナマエに不審がられるだろうし、なんだか癪に障るので論外だ。
 そもそもの話、ナマエが気を置かなくなったのはズオ・ラウが勇気を出して踏み込んだからだ。ズオ・ラウなりにやれることをやった結果に過ぎない。そうやってナマエとの間に積み上げた信頼関係に対し、他人にあれこれ言われる筋合いはないはずだ。
 とはいえ、変な噂は御免被りたい。
 悩みの連鎖からくるもやもやした鬱屈を心の奥に潜ませながら、ズオ・ラウは艦内施設のどこにナマエがいるのか思い浮かべつつも、己の感覚のまま当て所なく歩みを進めた。
 格納庫の近くまでやってくると、通路の先に見覚えのある人物が佇んでいるのが目に留まる。こんな場所にいるのは珍しいと思いながら、ズオ・ラウは足早に近寄って声をかけた。
「おや? ホーシェンさん」
「あっ、ズオさん。どうも……」
 ホーシェンはハッと我に返った様子で挨拶を返す。その姿はどこか頼りない空気を醸し出しており、ズオ・ラウは怪訝に思った。
「こんなところで何をしているんですか?」
「何って……ええと、シャオマンを探しに来たんですけど……」
 ホーシェンが格納庫の内部を指差すので、つられてそちらに目を向ける。
 はたしてそこにはシャオマンとナマエがいた。ようやく目当ての人物を見つけてホッと息をつくのも束の間、ズオ・ラウは言いようのない違和感に気づいた。
 シャオマンは1メートル四方ほどの大きさがあるコンテナの上に腰をおろし、手には笛を構えていた。ナマエはその真正面に距離をおいて立っている。シャオマンはなにか音色を奏でるわけでもなく、ホイッスルのようにただひとつの音を短く鳴らす。それは高音から低音まで幅が広い。ナマエはその音に合わせて飛び跳ね、行ったり来たりを繰り返している。
 ズオ・ラウの目から見ても二人の行動は理解が及ばず、近づくのもためらうような気配があった。
「……えーと、……二人は何をやっているんでしょうか……?」
「わ、わかりません……。僕が見つけた時にはずっとあの調子で、声を掛けるにもかけづらくて……」
 どうやらホーシェンはあの空気に気圧され、固唾を飲んで見守っていたというわけらしい。
 そうしている間にも、二人は変わらず同じ事を繰り返す。ある種の儀式めいたような挙動から察するに、なんらかの遊びに興じているのは明白だった。ズオ・ラウは呆れ混じりの笑みを浮かべ、しばらく観察を続ける。
 笛の音色が高ければ高いほどナマエはシャオマンから離れていき、逆に低い音だとシャオマンの近くへと飛ぶ。どうやら適当に飛び跳ねているわけではなく明確なルールが存在しているようだ。現にシャオマンが軽く怒りだすと、ナマエは申し訳なさそうに肩をすぼめる。
 眺めているうちに、ズオ・ラウはあることに気付いた。
 ナマエは床のタイル線の真上かその合間に着地している。振れ幅はちょうど四枚ぶんのタイルを行き来する形だ。シャオマンが『ラ』の音を奏でるとナマエはタイルの真ん中に着地し、『ミ』の音を奏でればタイルが隣接した線の上に着地する。
 ズオ・ラウの脳裏にふと、『五線譜』という単語がよぎった。
「……ふっ」
 瞬間、呆れと微笑ましさが入り混じったような笑みがこぼれ、ズオ・ラウは慌てて口元を片手で覆った。
「どうして笑ってるんですか?」
 怪訝混じりの胡乱な眼差しを向けられ、観念して手を下ろす。
「二人が何をしているのか見当がついたので」
「えっ、本当ですか?」
「はい」
 二人の奇行を理解できてしまったのは、ズオ・ラウが趣味の一環として笛を嗜んでいたからだろう。しかしホーシェンは音楽に関してはからっきしだからわからないという事だ。
「とりあえずここで眺めていても埒があきません。行きましょう」
「……はい」
 格納庫の中に足を踏み入れる。
 まず最初に気付いたのがナマエだった。足音に反応して動作を止め、入口の方を見る。続けてシャオマンもそちらに目を向けて「あっ!」と小さく声を上げると、すぐにコンテナからぴょんと飛び降りてナマエの隣に並んだ。
「でか角くんに燭台くん、どうしたの?」
「お前を探しに来たんだよ」
「そっか。燭台くんは?」
「私はナマエさんにこの書類を届けるよう頼まれました」
「……書類?」
 ナマエが目を丸くする。
「はい。ドクターからだそうです」
 ズオ・ラウが書類を差し出すと、ナマエははじめこそ不思議そうにしていたが、何か心当たりがあるのか合点がいった様子で受け取った。
「ごめんね、手間かけさせちゃった。ありがとう」
「いいえ」
 首を振る。と、口を挟むタイミングを見計らっていたらしいシャオマンが、ナマエの袖を軽く引っ張った。
「じゃあ尾長ちゃん、これでおしまいね」
「うん。シャオマンちゃんもありがとね」
「ううん、どういたしまして」
 シャオマンが機嫌よさそうに笑みを浮かべて応じるのをホーシェンは不審げな表情で見つめている。そんな三人の様子を見てズオ・ラウは先程の奇妙な行動を思い出し、せっかくなので尋ねることにした。
「ところでお二人共、ここで何をしていたんですか? 床の線を五線譜に見立てていたのはわかったのですが」
「燭台くん、よくわかったね! 尾長ちゃん、今度試験受けるんだって」
「試験?」
 わけがわからないままナマエに目を向けると、ナマエは苦笑を浮かべて頷いた。
「うん。サルゴン全域で活動するためのトランスポーター資格検定を受けようと思って……」
「それでね、一般常識問題で音楽から出題されるらしくて、尾長ちゃん音楽からっきしだっていうから基礎から教えてたんだ」
「……なるほど、そうでしたか」
 音階なんて幼少期にならったきりだが、軍では警告音の区別などで扱った。その知識がトランスポーターに必要かどうかはさておき、一般常識の範疇ではあるかもしれないとズオ・ラウが悶々と考え込んでいると、
「今ラウくんが届けてくれた書類、たぶん申込書だと思う。ほら」
 ナマエがそう言って封筒の口を広げて見せてくるので、ズオ・ラウはためらいがちに中を覗き込んだ。確かにナマエの言う通り、封筒の中には申込用と思しき書類一式が入っていた。
 かねてよりナマエはトランスポーターになるために必要なことをドクターに尋ね、その結果から多種多様な言語に触れていた。むろん炎国の言語も例外ではない。ズオ・ラウは自分の名前の字を教えたことがあるし、雑談の場で炎国での挨拶と作法も教えたのは記憶に新しい。
 とうとうこの時が来たのかとズオ・ラウの胸中に不思議と感動が湧き上がってきた。友人の成長を目の当たりにし、指で目頭を抑えたい衝動を堪えていた時だった。
「……尾長ちゃん、試験に合格したら国に帰っちゃうの?」
 シャオマンが不安げな面持ちで尋ねる。その声はなんだか少し悲しげな響きがあった。
「うん」
「さみしい……」
 シャオマンの弱々しい声を耳にした途端、ナマエが眉間に皺を寄せた。
「あのね……、シャオマンちゃんもそのうち炎に戻るんでしょ?」
「あたしはシュウ姉ちゃんがいる限りここにいるよ」
「じゃあシュウさんが帰る時は一緒に帰るってことだよね。ホーシェンくんも、インターンシップが終わったら帰るんだよね?」
「はい。先生も僕のインターンに一区切りついたら一度炎に戻ると言ってました。……わかったかシャオマン」
「えーっ……」
 シャオマンが不平の声をあげるかたわら、ズオ・ラウは固まっていた。シュウが炎に戻るということは監督役のズオ・ラウも同行しなければならないのだが、それ以上に気にかかることがあった。
 試験に合格したら――サルゴンのトランスポーターになれば、国に帰る。
 もっともな話だ。ひとところに留まってトランスポーターが務まるわけでもなし、活躍の場は自ずと外界へ移る。ズオ・ラウも今でこそ内勤の身だが、いつか外勤としてロドスを完全に離れるだろうし、ナマエも同じように外勤になるだけだ。
 そんな当然の事実を失念していたこと、そしてこれから訪れるであろう現実を突きつけられ、うまく反応ができない。胸に穴が空いたような感覚を味わいながら、何故そんな気持ちを抱くのかさえもわからず、ズオ・ラウはただただ困惑し戸惑った。
「ズオさんはしばらく残るんですか?」
 ホーシェンに声をかけられ、ズオ・ラウはようやく我に返った。
「……上の命によります。とはいえ先日、炎に戻るよう文が届きました」
 ズオ・ラウは職業上、仔細を包み隠さずに語ることは出来ない。この場にいる誰もが守秘義務を理解していたため追求こそ無かったが、数秒の間があった。
「……燭台くん、もうすぐ帰っちゃうの?」
 シャオマンが寂しそうに言う。さっきは傍から聞いていただけだったが、当事者になると胸が詰まるような思いになった。
「いいえ、まだ先の話ですよ」
「そっか!」
 安堵したのか、シャオマンの表情がぱあっと明るくなった。ナマエはそんなシャオマンの仕草にふっと笑みを浮かべると、この場にいる全員の顔を順番に眺め、おもむろに口を開く。
「でも、みんなそれぞれ目標があるし、いつか散り散りになっちゃうね」
 ナマエの発言をきっかけに、この場にいる四人の間にしんみりとした空気が漂った。
 こうして他愛もない雑談で盛り上がっていられるのはきっと今だけだ。それをみんなわかっていながら、気にも留めていなかった。あるいは、楽しすぎて忘れているか――。
「でも尾長ちゃんが合格するかはまだわかんないよね? 手こずってるし」
 シャオマンの一声で、しんみりした空気が掻き消えた。ナマエは不満げな表情になり、シャオマンの方へと両手を伸ばす。
「わーっ、お団子もみもみしないでよ!」
「……」
 自分の髪型を崩される恐怖からシャオマンが身震いするのも構わず、ナマエはもくもくとお団子を両手で揉んでいる。
 ある種の仲睦まじさを感じさせるやり取りだったが、ズオ・ラウは特に止めもしなかった。それ以上に気にかかることがあったからだ。
「ええと……ナマエさん、手こずっているんですか?」
 ズオ・ラウが控えめな調子で尋ねると、ナマエは何も言わないかわりに、すっと横に視線をそらした。
「うん。尾長ちゃん、問題さっぱりわかんないみたい」
 代わりにシャオマンが答えると、ようやくナマエが口を開く。
「だって出てくる問題、今まで知らなかった事ばっかりだし……シャオマンちゃんだってわかんないでしょ、地理空間情報」
「あたしまだそういうの勉強する年齢じゃないもん」
 ズオ・ラウはトランスポーターの仕事についておおむね理解していたが、試験内容については初耳だった。てっきり実技と経験が整っていれば誰でもできると思いこんでいたのである。そもそもズオ・ラウが学生だったころ、将来の進路の第一志望を司歳台と決めてからはその職につけるよう努力する事ばかりに夢中で、他の仕事にまでアンテナを伸ばそうとはしなかった。
「……ふむ、きちんとした座学も必要なんですね……」
 ズオ・ラウが独りごちるように言うと、ナマエは首を縦に振って頷き、
「移動都市基準の資格は難易度が跳ね上がるんだって。でも、都市が管理している道路や国境をまたぐ関門を利用できたり身分の証明にもなったりと、見返りは十二分に大きいってドクターが言ってた」
「なるほど」
 相槌を打つと、ようやくナマエが手を下ろした。解放されたシャオマンはナマエからパッと離れると、逃げるようにホーシェンの隣に移動した。
「この前シャオホーと一緒に勉強したんだよね、尾長ちゃん」
「うん」
「……えっ?」
 ズオ・ラウには初耳の話だった。驚愕のままにホーシェンを見ると、ホーシェンは何やら気難しそうな表情になり、
「試験を受けるのが初めてとの事なので、僕なりに効率がいいと思っている勉強のやり方をレクチャーしただけです。ですが、試験を受けるにあたって大したことは教えられませんでした」
「ううん。ホーシェン君の地理空間の説明、わかりやすかったよ」
「それは、天師府で真っ先に叩き込まれますから……。地質と気候に関する事柄は、僕ら農業天師にはもっとも重要ですので」
 ホーシェンが説明すると、ナマエが納得したように頷いた。
「燭台くん、都に行ってたんだよね? こういうの習った?」
 シャオマンに尋ねられ、ズオ・ラウは一拍の間をおいてから首を横に振った。
「習いましたが専攻が違います。ホーシェンさんは農工学で私は防衛学です」
「……そっかぁ、分野もいろいろあるもんね」
 うんうん、とシャオマンが訳知り顔で頷くと、ホーシェンは眉をひそめる。
「他人事みたいに言ってるけどいつかお前も行くんだからな、将来のこと考えてきちんと決めとけよ」
「えーっ……、あたしずっと駄獣のお世話がいい……」
 嫌そうな顔で不満をこぼしたかと思えば、すぐに切り替わり、
「ま、ちりくーかん情報とかいうのはシャオホーに教われば大丈夫でしょ。先生だもんね」
 ぱあっと明るい表情を見せるシャオマンとは裏腹に、ホーシェンは心底嫌そうな表情になった。
「その呼び方やめろ」
「でもやってるじゃん」
「えっ」
 ズオ・ラウはまたしても驚きの声をあげた。かつてズオ・ラウが大荒城に左遷された時、ホーシェンは農業天師の見習いという立場ながら、講師を任される機会がしばしばあった。そういった経験があったからこそ、ロドスでも教鞭を任されるのは自然な流れだろう。農業天師として次世代の才覚だと周囲に褒めそやされるのをズオ・ラウはしっかり耳にしていたし、また彼の知識量に感心を覚えた記憶が蘇る。
 とはいえ、ズオ・ラウが青天の霹靂のような衝撃を受けたのは間違いなかった。ズオ・ラウが唖然としたままホーシェンを凝視すると、ホーシェンの嫌そうなオーラはさらに深みを増していった。しかめっ面の半眼を通り越して、もはや薄目になっている。
「言っておきますが、臨時ですよ」
 ホーシェンが念を押すように言うと、
「臨時でもすごいよ。その年でたくさんの人に教えるのってなかなかできる事じゃないと思う」
 ナマエにしては珍しく、直球な褒め言葉を口にした。
「……たまたま僕に鉢が回ってきただけです」
 照れくさいのを隠すためなのか、ホーシェンは眉間に皺を寄せて言う。称賛なのだから素直に受け取ればいいものを、変に取り繕ってしまうのはホーシェンの性分だろう。
「僕の話は止めましょう。……試験の出題範囲は基礎の範疇でしたから、しっかり勉強すればいけると思いますよ」
「暗記でなんとかなるかな?」
「流石に自分で考えなければいけません。もっとも、ナマエさんなら解けるはずですよ」
「ほ、ほんとかなぁ……」
「……まあ、結局のところ、努力あるのみです」
「うわ、でか角くんが根性論振りかざしてる」
「お前も茶化してないでたまには勉強しろよ」
「やだよ!」
 そんな三人の賑やかな会話が、ズオ・ラウにはずっと遠くの出来事に感じられた。
 ナマエはトランスポーター試験を受けることについて、ズオ・ラウにだけ打ち明けてくれなかった。
 気付いた時にはもう、ズオ・ラウの思考はその事に囚われてしまった。まるで目の前の三人との間に見えない溝があるような錯覚すら抱いてしまう。自分勝手な疎外感に加え、ホーシェンに対してささやかな引け目を刺激されるのが無性にたまらなくなる。
 誰にだって得意分野はある。ズオ・ラウは司歳台の持燭人だが、ホーシェンは農業天師だ。しかしホーシェンは見習いながら同期より頭一つ抜けて優秀で、教壇にも立った経験がある。勉強の指導を請うのであれば断然後者だろう。引け目を覚える必要はないと内心叱責するが焦燥は消えず、そして焦燥を刺激される原因もわからず、連鎖的に溢れ出る困惑が胸中の奥につかえたような感覚として残る。
「でか角くんがいても、他にも問題は山積みだねぇ」
 シャオマンがしみじみと言ったところで、ズオ・ラウはようやく我に返った。
「……問題ですか?」
 なんとか平静を装って尋ねると、ナマエが苦笑を浮かべて頷いた。
「うん。立体地図や航空写真の見方、天候予測とそれに付随する路面変化の予測、土壌の知識、ルート設計、初歩の薬学、あとは……一般常識問題とか」
「一般常識はさておき、それ以外は僕の専門外です。力になれません」
 ホーシェンが落胆めいた吐息を漏らす一方で、ズオ・ラウは数回まばたきを繰り返す。するとナマエは気まずそうな表情で、すっと目をそらす。
「……だって、世界の歴史とか今まで考えたことなかったし……何年何月に何がありましたとか覚えても、その日のご飯にありつけるわけじゃないし……」
「尾長ちゃん、それ、勉強できないおバカがする言い訳みたいだよ」
「……」
「もーっ、お団子揉むのやめてよー!」
 シャオマンは怒り出したかと思えば、すぐにホーシェンの方を向き、
「天師府お得意の地理学とやらでどうにかなんないの?」
「ならない。農業に必要な地理学は土地を農地として開墾し運用できるか長期的に見るもので、トランスポーターに必要な地理学は土地を無事に通過できるか見極めるための短期的なものだろ?」
「ふーん、そっかー」
「わかってないだろお前……」
 ホーシェンが呆れ気味に肩を落とす一方、ズオ・ラウは三人の様子を静かに伺い、意を決して口を開いた。
「よろしければお手伝いしましょうか?」
 ズオ・ラウが申し出ると、シャオマンのお団子をもみ続けていたナマエの腕がぴたりと止まった。間の抜けた顔でズオ・ラウを見つめ返す。
「先ほどナマエさんが例に挙げたものは兵站学の基礎です。それに世界史などは殆ど覚えていますから、力になれると思います」
 言い終わる頃には、辺りがシンと静まり返っていることに気付いた。ズオ・ラウの胸中で、変に出しゃばってしまったのではないかという不安と後悔、そしてナマエの返事に対する期待が頭の中で混ざり合い、緊張へと移り変わっていく。
 やがて、ナマエがおずおずとしながら口を開いた。
「……いいの?」
「はい」
 間髪入れずに返事をすると、ナマエは何度か目をしばたたかせ、微笑んだ。いつか見た笑顔を彷彿とさせるものだった。
「ラウくんにそう言ってもらえるとすごく助かる。ありがと」
「……、いいえ」
 胸間を貫くような衝撃を感じたが、ズオ・ラウはただの錯覚だと割り切って首を横に振った。だが、さっきまで胸の奥にくすぶっていた焦燥や雑念は忽然と消え去ってしまった。
「でも二人とも、自分のこと最優先にしてね。教えてくれたらあとは自分で頑張るから」
「ほんとに一人で頑張れるの?」
「うん。できるだけ頑張ってみたい」
「そっか。……あたし、できることないけど応援してるね!」
 シャオマンが朗らかに言う。茶化すような含みは一切なく、本心から応援しているのだとすぐにわかった。
 ズオ・ラウの目から見てもナマエがやる気にあふれているのが手に取るようにわかる。設問のほとんどがわからない事だらけの現状を恐れる風でもなく、諦めるような気配さえない。
 きっと、ナマエにとっては自分で何かを選んで挑むのは初めての経験だからだろう。清々しいほど前向きな姿勢を目の当たりにしてしまうと、ズオ・ラウも自然と身が引き締まる思いになる。
「それでは予定を確認次第、空いてる日を伝えますので」
「うん。私も空いてる日確認するね」
「お願いします」
 早くて今日の夕飯時には予定のすり合わせができるだろうという予感がズオ・ラウにはあった。
「それじゃ私、一旦この書類書いて人事部に出してくるね」
「尾長ちゃん、またね」
「シャオマンの相手、お疲れ様でした」
「こら!」
 すかさずホーシェンをどつくシャオマンの姿に、ナマエはくすっと笑みをこぼし、
「うん、またね。みんなありがとう」
 ひらひらと手を振って、ナマエは急ぎ足で振り返りもせず去っていく。
 ナマエの後ろ姿は徐々に遠ざかっていき、やがて姿が見えなくなった頃になって、シャオマンが口を開いた。
「尾長ちゃん、燭台くんの話すんなり受け入れてたね」
「そうだな」
 二人から含みのある眼差しを向けられ、ズオ・ラウはたじろいだ。
「な、なんですか一体……?」
「最初ね、シャオホーが手伝うか聞いた時、尾長ちゃん断ったんだよ」
「……そ、そうなんですか?」
 どういう話の流れになるのかわからず、ズオ・ラウはやや身構えながら相槌を打つと、
「うん。あの時の尾長ちゃん首ブンブン横に振っちゃってさ。首もげるよって言ったらようやく止まったんだよね」
 シャオマンは思い出し笑いをこらえるように言葉を続ける。
「でね、シャオホーが『シャオマンがいつもお世話になってますから……』って言ったらようやく頷いたの」
「……」
 驚きに目をしばたたかせていると、ホーシェンが口を開いた。
「これは僕の勝手な想像なんですけど……無償の善意っていえばいいんでしょうか? ナマエさん、そういうの受け取れない人なんだと思います。だから理由をつければ応じてくれるんじゃないかと思って、シャオマンを引き合いに出したんです」
 ズオ・ラウは息を呑んだ。
 親切にしてもらうことに罪悪感を覚える場合もある。かつてズオ・ラウが学生だったころ、抱えていた巻子本をうっかり落としてしまい、その拍子に巻き紐が解けて床に書物が広がり最悪の光景にあたふたしていると「手伝いましょうか」と申し出てくれた人がいた。しかしどう見ても高齢と呼べる風体だったので、ズオ・ラウは「手を煩わせてしまい申し訳ありません」と平身低頭の思いで謝った記憶がある。
 すると老人は首を振り「実は昔、通りすがったあなたに荷物を持ってもらったんですよ、そのお返しがしたかったんです」と意外な言葉を口にした。その瞬間、ズオ・ラウの気持ちはすっと軽くなった。
 かつてナマエと真剣で打ち合って怪我を負わせた際、手当てをする交換条件としてズオ・ラウは剣の手入れを頼んだ。あの時は無意識のうちの行動だったが、ホーシェンが言ったことと理屈は同じだ。親切にしてもらうことになにか理由があれば、素直にのみこめる場合もある。
「尾長ちゃん、大丈夫なとこと駄目なとこの線引よくわかんないもんね。あたしですらこれだしシャオホーなんかさっぱりでしょ」
「……まあ」
 ホーシェンが曖昧な表情で言葉を濁す。ズオ・ラウが見た限りではホーシェンもナマエも互いに気兼ねしているところがあるから、はっきりと言葉にできないのだろう。
「でもさ、燭台くんだと大丈夫そうなんだよね。なんで?」
 無邪気に尋ねられ、ズオ・ラウは困り果てた。考え込んでみるが思い当たる節が見当たらず、悩み抜いた末に口を開く。
「……よく手合わせしてるからでしょうか?」
 数秒の間があった。
「燭台くんってさ、見かけの割に脳筋なとこあるよね」
「どういう意味ですか?」
 と、ホーシェンがあからさまに溜息をつき、
「ズオさんもシャオマンもずっとここにいるつもりですか? いい加減に戻りましょう」
 そう言ってさっさと歩き出してしまった。
「はーい。燭台くん、行くよ」
「……、はい」
 ズオ・ラウは釈然としないまま、二人の後ろをついていく。目の前の二人と自分は何が違うのかだなんて、そんなことはズオ・ラウが一番知りたかった。
 少なくともナマエの中でズオ・ラウは他の人とは違うらしいが、かといって特別扱いされているようには思えず、また気まぐれなナマエの思考を読み取ることは叶わない。はたして何が大丈夫なのか見当もつかず、ズオ・ラウは今までの記憶を何度も何度も思い返すが、結局よくわからなかった。