毎晩毎晩、貴重な酒を一人で飲むのも寂しいからと、秘蔵のワイン片手にフランセットの部屋を尋ねた。フランセットは目が見えない。目が見えないにも関わらず、いや、目が見えないせいだろうか、部屋に入る前の私の存在を察知したうえ、手に酒を持っていることを見事当ててみせた。このご時勢、酒は貴重だ。30年物になるワインなど、世界の何処を探しても見つかるかどうかすら危うい。フランセットは迷惑のめの字も見せないほど静かに喜び、私を部屋に招きいれてくれた。どこからともなくワイングラスを二つ持ってきて、二人でワイン片手に乾杯する。
いい夜だった。飲みすぎて、悪酔いするほどに。
「ぅげ……ぎもぢわる……っ」
調子こいてボトル全部、二人で飲み干した。とはいえ、フランセットはグラス二杯の量に対し、私は四杯も飲んでしまった。殆ど全部飲んでしまったと言っても過言ではない。酒に酔った上、船にも酔った。船酔いなんてここ数年経験したことがない。もはや最悪である。ちょうど今艦は海面に浮上して停泊しているし、甲板に出て夜風にあたったらどうか、というフランセットの提案に私は二つ返事で応じた。フランセットの肩を借りながら、のろのろと歩みを進める。廊下を進み、階段を昇って、扉を開ける。
扉の向こう。頭上には煌々に輝く星空が、下には安穏たる闇が広がっていた。水面は静かに波打ち、どこからともなく、ざざー、ざざーと音がする。艦の側面に当たった波がちゃぷちゃぷと音を立て、けれども艦は微かに揺れるだけにとどまった。潮風は穏やかなものだが、しかしさえぎるものが一つもない海上を走る風は、陸地のそれと比べると強い。風に煽られそうになる髪を押さえながら、ふと甲板の上に先客がいるのに気がついた。
「……お」
思わず、うめき声とも、驚愕の声ともとれるような、変な声を出してしまった。
甲板の上に先客がいた。私にとっては、見覚えのない少女だった。手で触れたらとっかかりなくするすると滑りそうな金色の髪と、フワフワ、ヒラヒラなんて言葉で表現するのがしっくりくるような服装は、さながら高価な人形を彷彿とさせる出で立ちだ。暗い海の中、天を見上げるその美しい姿に、思わずああ――とため息が唇からこぼれる。いつだったか甲板上でこの艦が夕焼けの中メンタルモデルを形成し、楽しそうに踊っていたという話をフランセットから聞き及んでいたが、私はその時甲板にいなかったので、メンタルモデルがおよそどういった姿なのか目にする事が出来ず随分と悔しがったものだ。そんな、視界に収めることを渇望した姿が、目の前にいる。我が艦のメンタルモデル様の姿に、私は抗うすべもなく、目を奪われ、ただ見とれていた。霧の艦が人間との意思疎通を図る目的で生み出した、ナノマテリアルで構成された高次元インターフェイス。人となんら変わりないその姿に、私はいつしか引き寄せられるように、フランセットから離れていった。
「ね、何してるの?」
後ろから声をかけると、U-2501のメンタルモデルと思しき少女が、ビクリと肩を震わせた。ぱっと振り返る少女の顔貌は想像以上に愛らしい。その少女の額にはうっすら淡く光る刻印が浮き上がっており、いよいよ彼女がメンタルモデルだという認識が、私の中で確定した。
少女の言葉をじっと待つが、少女は小刻みに身体を震わせ、目と口をきゅっと引き結び――ひどくおびえていた。思えば、艦長はメンタルモデルに対して、良い印象を抱いていない。ゆえに、U-2501が日ごろメンタルモデルを形成せずにいるのはそのせいであるからして……。
「大丈夫。艦長に告げ口なんかしないよ」
とはいえ、今ここにメンタルモデルが出現しているということは、その分コアのリソースを消費し、それに伴い演算能力が落ちているという事の証明になる。艦長が気付いていなければよいのだが、時間の問題だ。まあ、ここには私もフランセットもいるのだ、何とかなるだろう。
私の言葉に安心したのか、とりあえず少女はゆるゆると警戒を解いてくれた。
「……。空……、ううん、星をね、見てたの」
とつとつと呟いた声は、艦内で数回耳にしたことのある声と一緒ではあったが、しかし目の前のメンタルモデルから発せられた声だと思うと、どうしてか愛くるしさを覚えた。その声に誘われ、天を見上げる。夜の海の星空なんて別段珍しいものではないが、今日は雲ひとつ浮かんでおらず、一等星はもちろん、塵のような星々の姿がしっかり認識できるほどの夜空だった。なるほどこれならばメンタルモデルが見上げるのも仕方ないだろう。
視線を少女に戻す。会話が成立したという事に感動とくすぐったさを覚え、私はもう一歩分少女に近づいてみた。逃げられるかもしれないと思っていたが、しかし少女はその場に佇んだままだ。案外どっしりと構えている。
「綺麗ね」
少女がこくんと頷いた。その顔は心なしか嬉しそうに見える。
「今日は踊らないの?」
「……ふぇっ?」
「この前、一人で踊ってたって、フランセットから聞いたけど」
しばらくの間をおいて、少女がこくりと頷いた。なんとも気まずそうな顔をしている。別に怒るつもりも笑うつもりもないのに、そういった言葉を浴びせられるのではないかと危惧している様子だった。おどおどしているように見えるが、実際のところそれは艦長からの抑圧によるものだろう。メンタルモデルは我が艦にとっては不要とのお達しが出たとき、ろくな反対理由が見つからず賛成するほかなかったが、しかしこうしてその不要物を前にすると、勿体無いと思えてきた。勿体無さ過ぎる。
「フランセット」
「……なにかしら?」
「ね、軽く手叩いてよ。3拍子でお願い」
「……いやよ。……って言っても、どうせ訊かないんでしょう? 仕方の無い子ね」
「さっすがフランセット。愛してるよー」
いつの間にか、高い所に移動してちょこんと腰掛けているフランセットに笑い返す。とはいえ、フランセットは盲目だから見えるわけがないのだけれども――フランセットはくすっと微笑んでから、タンタンタン、と手を叩き始めた。そこまで力を入れていないせいか音は小さい。けれども静寂の海にはよく響く。心地のよい手拍子を耳にしながら、私はあらためて少女の前に進み出ると、真正面からしっかり向き合った。まずは恭しい所作をもってして一礼。少女が戸惑う気配を感じたが気にしない。手を差し出すと、少女は私の顔と私の手のひらとを何度も何度も見比べ、おずおずと手を乗せた。冷たい手のひらだが、人の手の感触となんら変わらない。ナノマテリアルの集合体なのに、ただの人間のように見える。小さな手を握ると、少女も握り返してきた。腰に手を回すと、少女の瞳がチカチカと瞬き、それにあわせてチチチッと静電気のような音がする。人ではおよそ不可能なその瞳の動きに内心驚きつつ、少女がおずおずと腰に手を回してきたので、野暮な考えは捨てることにした。
ぎこちないステップ。少女が転ばないように支えつつ、一度ターン。手拍子に混じり、私と少女の足元から奏でる音が混ざり合う。はじめこそ、おっかなびっくりな表情で、失敗したときはあちゃーっという顔になった少女ではあったが、徐々に、表情をほころばせていく。だんだん慣れてきたのか、私の動きについてこれるようになった。
「……うまいうまい! 上手だよ!」
「……! ……!!」
褒めたとたん、少女は嬉しそうな表情で、声にならない歓声をあげた。心底楽しんでいるといった少女の表情に、自然と口の端が緩むのが分かった。初めより、動きも機敏になってくる。ぐるぐると紐で縛り付けていたのが徐々に解けていくように、抑圧された衝動がじわじわと表に出てきているのがわかる。幼い子供のように天真爛漫な笑顔を浮かべ、軽やかなステップを繰り出すメンタルモデルに、気分が高揚する。ここまで全身で楽しさを味わうのは久しぶりのことで、私の胸は高鳴っていた。
ふいに、手拍子がやむ。それとほぼ同じくして、艦内から甲板へ通ずる扉が開く音がした。私は瞬時に少女を抱き寄せ、甲板に出てきた人物の視界に入らないよう身体でかばった。幸い、私はちょうど扉のほうへ背中を向ける姿勢になっている。少女の耳元で逃げてと囁くが、少女はまごつくような様子を見せる。再度逃げてと囁いて、ようやっと少女の体から、存在感が薄れた。抱きしめる感触が消え失せ、空虚を抱く感触へ変わる。霧散するナノマテリアルがかたちづくる白い靄は風に紛れあたりに消えてゆき、その霞がふっと顔を掠めた瞬間、ありがとう、と小さな声が耳に流れ込んできた。
妙な達成感に目を閉じる。肺にたまった息を吐いた瞬間、近づいてきた人の気配が私の真後ろで止まった。振り返る。果たしてそこには、我が艦の艦長、ゾルダン・スタークが佇んでいた。仏頂面に、自然と冷や汗が頬を伝う。
「……何もしてないよ?」
「、1ヶ月飯抜きにされたいのか?」
まるで小さい子を嗜めるような言い方だった。
「ちょ、ちょっと。さすがにそれは死ぬって……」
「案外人間というものは丈夫にできている」
「えーお腹すいたら働けないよー」
身体を左にかたむけつつ、右手で腹部をさするマネをすると、ゾルダンが眉をひそめた。
「処罰は後で言い渡そう。……フランセット」
「……何かしら?」
「何故に素直に応じた?」
「手拍子くらい、大した事じゃないもの。私の手拍子で、が一人で勝手に踊った。それだけよ」
「……見過ごした事に関しての弁明は?」
「あら、おかしな事を言うののね。私の目は見えないから、見過ごす以前の問題だわ」
ゾルダンは何も言わない。けれども、今の心境が表情に出ていた。私はただ笑ってやり過ごそうと微笑を浮かべ、フランセットも目を閉じ淑やかに微笑んでいた。しばらくしてゾルダンが歩き出す。
「10分後に出航する。戻れ」
そう言葉を残して、扉の向こうへ消えてしまった。戻れといわれたら戻るしかない。私が歩き出すと、その足音に呼応するかのように、フランセットが身じろぎした。座ったまま身体をくるりと反転させ、梯子をトントンと降りてくる。目が見えないわりに、その動作は健常者と全く変わらない。フランセットの事を知らない人がこの光景を目にしたらどういう反応をするのか、少し気になった。
「、酔いはどう?」
甲板に降りたフランセットの言葉に、私はハッとした。
「なおった!」
ズキズキと訴えかけてくる頭痛も、胃の中のもの全て出してしまいそうな吐き気もどこへいってしまったのか。気持ち悪さの気の字すら感じないほど、清々しい気分だった。
「大きな感動は、悪酔いをさます。勉強になった」
「そう。それならよかったわ」
フランセットが頷いて、扉に向かう。自動式のドアがプシュッと音を立てて開くと、フランセットは扉の向こうへ足を進め、カツンカツンと踵を鳴らし、階段を降りていく。私もその後姿をすぐに追いかけ――る前に、一度甲板の上に視線を向けた。甲板の上にはあの少女の姿はなかったが、銀砂がまばらに残っていた。輝く甲板を暫し眺めたあと、私は艦内へ足を踏み入れ、扉を閉めるスイッチを押した。
2014.11.09 修正
2014.11.07