※オリキャラ注意。現実での窃盗行為は罪に問われるのでやめましょう。




 幾重にも重なる山の傾斜を越え、新しくザジの担当区域となったその町に着いたのは、ちょうど時計の短針が午後の6刻を示す頃だった。
 ユウサリ北東部、ヨダカ地方との区切りをつける川沿いにあるその町は、ヨダカに近い割にはやけに大きな町だった。建物も殆どがレンガ造りの立派なもので、道も石畳で舗装され、脇には雨水用の水路まであった。
 広場には大きな噴水があり、商人のキャラバンがそれぞれ露天を開き、道行く人に声をかけていた。町の人の身なりはそこそこ良く、全体的に裕福そうな印象を受けるのだが、実際のところ、それはただの虚像でしかなかった。

「そいつを捕まえてくれ! 泥棒だー!」
 ザジが手紙の配達のために、通りに沿って軒を連ねる店を訪ね歩いている最中の事。ふいに後方から、そんなだみ声が聞こえてきた。ザジの横を静かについていくヴァシュカだったが、その声に耳をピクリと震わせると後ろを振り返り、まるで喧騒に耳を傾けるかのように足を止めた。それに釣られて、自然とザジも足を止める。声のするほうを首だけで振り返れば、茶色い外套を羽織った子供が、通りを一直線にこちらへ駆けてくるところだった。
 子供は胸に小さな袋を抱え、しきりに後ろを気にしながら走って来る。どうやらこの少年が泥棒の正体らしい。
 豊かそうな町も上辺だけのものだった。綺麗な建物の合間、入り組んだ小路を抜け、もはや闇と等しい路地裏に出れば、乞食と化した老若男女がたむろしていた。スリや窃盗などこの町では当たり前だから気をつけろ、とザジはさきほど手紙を届けるために尋ねたパン屋の店主からそう聞いた。公務員ならばなおさら狙われるぞ、と最後に念も押された。
 この町は東西を小高い山に囲まれ、北方はヨダカとの境目にある川に面していた。人口太陽の光が届く場所に離れた場所にありながら、左右を小高い山に覆われているせいで暗がりが多く、町の外での害虫の出現率は相当数のようだった。そのせいで親を失った子供があふれ返り、教会や孤児院という、子供を預かる施設が満足にないせいで、軽犯罪が日常茶飯事だという。
「ねえねえ、テガミバチのおにいさん」
 横から声をかけられ、ザジは眉を寄せてそちらを向いた。ボロボロのフードをかぶった、6歳くらいの少女が傍に立っている。少女は左手に、古びたバスケットを提げていた。バスケットの中にはたくさんの花が無造作に詰め込まれている。
 一瞬、スリやひったくりなどをされるんじゃないかとザジは身構えたが、少女の姿を見るなり警戒を解いた。その様子を少女は不思議そうに眺めていたが、すぐにバスケットの中から一つ花を手に取ると、それをザジに差し出した。
「花、買ってください」
 つたない口調で花売りの少女が言うので、ザジは思わず少女の姿を上から下までまじまじと眺めてしまった。少女の頬には土汚れがついていて、身に纏うワンピースは汚かった。ともすれば少女から漂う異臭も気のせいで済ませるのは無理があるだろう。もしかして、ろくに風呂も入っていないのかもしれない。
 少女の袖口から伸びる腕は枯れた枝のように細かった。指は筋張っていて、骨と皮しかないように見える。
 ザジはやや思案をめぐらせた後、ポケットに手を突っ込んだ。
「いくらだ」
「200リン」
 正直なところ、1000リンくらいはぼられるかと思っていたのだが、少女が示す値段は思っていたほど高くはなかった。200リン程度なら、とザジはポケットから硬貨2枚を出す。とたんに少女の顔がぱあっと明るくなった。
 硬貨2枚を差し出す代わりに花を受け取ると、ありがとうございます、ありがとうございます、と少女に何度もお礼を言われた。そして少女は大事そうに、胸ポケットに受け取ったばかりの硬貨をしまう。
「お前、親は」
「……いないの」
「そうか」
 それだけの会話を交わし、最後に頭を下げると、少女は別の客を探しに行った。とりあえず、これで少女は今晩の食事には困らないだろう。200リンもあれば普通なら、大人一人が満腹になるくらいのパンを買えるはずだ。
「この野郎! ふざけた真似しやがって!」
 まただみ声が響く。ザジが振り返ってみれば、泥棒と呼ばれていた子供の上に、怒りで顔を赤くした男が馬乗りになっていた。やめて、やめて、と叫ぶ少年の顔に、拳が何度も打ち付けられる。呆然とその様子を見ていた周りの人たちが、まだ子供じゃないか、と止めに入る事で、男の一方的な暴力は収束したが、男がどいても少年は身動きひとつ取らなかった。
 あーあ、殺しやがった。さっさと医者を呼べ。何だ何があったんだ。そういった声で野次馬が集まり、通りが一層煩くなる。
 ザジは一つため息をついて、人の流れに逆らうように足を踏み出した。喧騒から逃げるように歩き出した足は自然と速くなる。さっさと配達を済ませるため、配達先の最後の一つ、町のポスト代わりになっているという教会へと向かった。

「いつもありがとうございます」
 藁のようにやせ細った、余命いくばくかもなさそうな老いた牧師は、ザジが尋ねてくるなり申し訳なさそうに、少し分厚い手紙を受け取った。牧師は手紙の宛先が自分のものであると確認するとゆっくり頷き、それを懐にしまう。
「これが、町の人から預かった手紙になります」
 すると牧師はそう言って、麻の紐でくくられた手紙の束をザジに差し出した。ザジはそれを受け取り、切手がちゃんと貼られているかを確認する。宛先に不備がないことを確認すると、おもむろにショルダーバッグの中にそれを突っ込んだ。
「これで終わりか?」
「ええ、終わりです」
 ザジがバッグの中を見ながら、少しだけ眉を寄せた。集荷した手紙の量が、思いのほか少なかった事に、ザジは内心驚きを隠せなかった。この町の規模なら、集荷する手紙の量は倍はあってもいいはずだろうに。けれども、町の治安が悪ければ悪いほど、集荷する手紙の数は少ないものだ。この町ではこれが普通の量なのだろうと、ザジは勝手にそう結論付けた。
「ならいいや。それで申し訳ないんだけど、一晩だけ、泊めさせてもらってもいいですか?」
 言いながら、手持ち無沙汰にヴァシュカの頭をひと撫でし、喉を軽く指で引っかくようにしてみる。ヴァシュカが目を細めて満足そうに喉を鳴らした。
「ええ、いいですよ」
 ついてきてください、と笑顔で牧師が歩き出す。あっけなく、二つ返事で許可が出たことに、ザジは内心ガッツポーズを決めながら、牧師の後ろについて歩いた。
「夕餉は、どうしますか?」
 歩きながら、牧師がそう尋ねてくる。
「自分で勝手に食うよ。そこまで世話になるのも悪いし」
 ザジがそう伝えると、牧師は「わかりました」とゆっくり頷いた。
 礼拝堂の右側にある扉に入り、廊下を通じて教会の別棟へと足を踏み入れた。この教会は孤児院も兼ねているらしく、聖堂の奥に取って付け足したように4階建ての建物がくっついているという構造だった。ザジがこの建物について訪ねると、牧師は律儀にも、本堂を建築した後に町の治安がすこぶる悪くなり、親を失った子供を預かるという名目で増築したのだと、そう答えてくれた。
 すれ違う少年に会釈を交わし、階段を使って建物の最上階へたどり着いた。廊下の最奥の前までくると、牧師は立ち止まり、向かって右側の部屋のドアを開けた。
「こちらになります」
 三角形を頂点から縦に半分に割った片側のような部屋だった。傾斜した屋根が天井と壁を兼ねている、いわゆる屋根裏部屋というやつだった。傾斜した屋根には窓がついていて、そこから人工太陽の光が僅かに差し込んでいる。その光のちょうど真下に、シーツが整えられたベッドが配置されていた。むき出しになった柱には衣服がかけられるようにフックが取り付けられてある。思ったよりも手入れが行き届いているようだった。
 牧師とともに部屋の中に入ると、ザジはまず先に、部屋の中でとりわけ目を引いた天窓の真下、ベッドのそばへ向かった。ちょうどベッドの中央に四角く、くりぬくように光がさしてある。
「この部屋はもともと、見習いシスターの部屋だったのです。それでもよければ」
 牧師が壁際にかけられたランプにマッチで火をを点しながら、申し訳なさそうに苦笑した。
「全然いいっすよ。ありがとうございます」
 牧師がほっとしたようにザジに微笑んだ。それから牧師は一礼した後、ごゆっくりと言葉を残して立ち去ってしまった。とたんに部屋の中が静かになる。
 ザジに擦り寄るようにしていたヴァシュカは、鼻を利かせながら部屋の中を見回し、ベッドのそばに近寄ると、そこに座り込み、だらしなく横になった。ザジはヴァシュカに近寄り頭をなでる。
 今日一日、大して休憩も取らず、朝からひたすら歩きづくめだったのだ。疲れるのも無理はない。ザジもベッドに腰を下ろし、うんと背伸びをしてみせる。
 半刻ほど部屋の中で休憩をとると、ザジは夕食を摂るついで、食料の調達もかねて町に出かけることにした。

 夜の通りは明るく、人通りも多かった。いろんな店を回って歩きたいところだが、教会に宿を借りた手前、夜遅くに帰ることなど許されない。それに食料調達もある。店が閉まるまでの時間は限られているので、とりあえず食事を手短に済ませるため、手紙の集荷で尋ねた軽食屋で夕食を摂ることに決めた。
 軽食屋を訪ねると、再度テガミバチが尋ねてきたことに主人は最初驚きを見せたが、夕食を食べにきたことをザジが告げると、主人は笑顔でザジを招きいれた。
 一人客なので、自然とカウンター席に座ることになる。カウンターの端の席に腰を下ろして、店の中をざっと見回した。酔っ払いの親父が店の半数以上の席を占めている。空席は片手で数える程度しかない。店は繁盛しているようだった。
 食事がくるまでの間の暇つぶしに、ヴァシュカの相手をして遊んでいると、程なくして食事が運ばれてきた。食事の前の挨拶を済ませた後、料理を口に運ぶ。素直に美味しかった。思えば最近はまともに食事を摂る時間もなく、パン2個で空腹を満たすのが当たり前になっていた。
 久しぶりのまともな料理の味に、ザジは頬を綻ばせ、あっという間に平らげてしまった。
「ごちそうさまでした」
 奥にいる主人に声をかけた後、注文書を手にして席を立ち、入り口のすぐそばにあるカウンターに向かった。カウンターの奥に座っている女性に注文書と、それに書かれている金額分のリンを差し出すと、女性が金額を確認し始めた。ややあってから、領収書を差し出される。ザジはそれを受け取ると、折り目がつくのもかまわずポケットに突っ込んだ。
 女性に頭を下げて、店の入り口のドアノブに手をかけた。どこで買い物を済ませようかと思案をめぐらせながらドアを開け、ふいに顔を上げて、ザジは固まった。
 向かいの店の屋根の上を、人が走っていた。その足は屋根の上を走る恐怖を微塵に感じさせない、実に軽やかなもので、ザジはあっけに取られてしまう。
 普通に考えて、人が屋根の上を走る状況など到底ありえない。じゃあ今の人影は、どうして屋根の上を走っていたのか。ザジぼーっと人影を視線で追いかけていると、どこからか悲壮感漂う声が聞こえてきた。
「あいつを捕まえてくれーっ!! 金を、金を盗られたー!」
 バタバタという感じで、身なりのいい小太りの男が、汗を撒き散らしながら、ザジの目の前を通り過ぎていく。男が発したその言葉を理解するや否や、ザジはヴァシュカを釣れて外に飛び出ていた。
 夜の通りはなかなか人が多く、中でも飲み歩きをしている男性の数が圧倒的に多かった。ザジは足を止めて泥棒の姿を見上げる人たちに極力ぶつからないよう気をつけながら、駆け足で小太りの男の背中を追いかける。ややあってその背中に追いついたころ、屋根の上を走っている人を見上げれば、ちょうど建物と建物の屋根を跳躍して飛び越えていたところだった。その姿に、開いた口がふさがらなくなってしまう。
「……おいおい、サルかよあいつ」
 運動神経は人並み以上だと自負しているザジだが、さすがにあんな風に屋根との間を飛び越えることはできない。好奇心を煽られ、ザジの目が輝いた。小太りの男を追い越し、ヴァシュカをつれて泥棒の背中をを追いかける。
 しばらく走った先、通りを四方に分ける十字路に差し掛かると、泥棒はふいに足を止めた。列を連ねるように建てられた建物の間に、路地があるのだ。そのため屋根と屋根の距離が広くなったのである。流石にこの距離では飛び移れないようだ。
 きょろきょろと辺りを見回す泥棒の姿を、ザジは野次馬にまぎれて下から見上げた。泥棒は黒い衣で身を包み、背中に大きな頭陀袋を背負っていた。どうやらあれに盗品が詰まっているようだ。
 泥棒はおもむろに右手を顔に寄せると、親指と人差し指を口にくわえ、ピーッと高らかに口笛を吹いた。そして一息ついて、また口笛を吹く。何かの合図だろうか。
 ザジは口笛を吹き続ける泥棒を見上げながら、バッグに手をしのばせた。別に泥棒を捕まえたところで自分に利がないのは百も承知だが、一応ザジにも正義感というものはある。泥棒を心弾銃で打ち抜けば捕まえられるかもしれない。しかし、日中に鎧虫を5匹倒したことを考えると、こころの残量が気になってしまった。
 ザジが心弾銃を使おうか渋っていると、唐突に、どこからともなく銃声が響いた。野次馬の中から悲鳴をあがり、恐怖から身をすくめ、地べたに身を伏せる者もいた。
 泥棒の足元の瓦に銃弾が当たり、火花が飛び散る。泥棒はビクリと大きく身体を震わせて、屋根の下に視線を移した。銃を持っている人を見定めているようだった。
「おいこら、どけ小僧」
 いきなり肩に手を置かれて、ザジは思わずびくりと震えた。半ば引きずられるように後ろに下がらせられる。見ればがたいのいい男が、泥棒に向けて銃を構えていた。ザジが今まで立っていた場所は、泥棒を打ち落とすのにちょうどいい場所だったようだ。
 間隔をあけて二回、銃声が響くと、あちらそちらで悲鳴があがった。恐怖のあまり、頭に手を回してその場にしゃがみこむ婦人を横目に見ながら、ザジは一つ舌打ちをして、視線を屋根の上の泥棒へと移した。泥棒は飛んでくる銃弾から逃れると、屋根の上をひょいひょいと飛び回るように動き始める。そのせいで狙いが定まらず、銃を構えた男が徐々に苛立ちを見せ始めた。
 そうして、男はとうとう痺れを切らしたのか、立て続けに発砲し始めた。しらみを潰すように我武者羅に打たれた弾は、瓦屋根に弾かれ跳弾となって、通りに積み重ねられた木箱を打ち抜く。ザジはぎょっとして、慌てて向かいに広げられた果物売りの屋台まで走ると、テントの下に隠れている屋台の主に声をかけた。
「ごめん、ちょっと隠れさして」
「ああ、いいよいいよ! 早くこっちきな!」
 手招きされ、ザジはテーブルの下に身を滑り込ませた。
「くそっ、おっかねえなあ! 何だよあいつ。あんな滅茶苦茶に撃ったって、あたる訳ねぇだろ」
 ぶつぶつ文句を言いながら顔を出し、通りの様子を伺っていると、店主がおずおずと顔を出してきた。
「あれは町で一番荒くれ者のエランドルフだよ。やつはこの前、あの泥棒に金を盗まれてんだ」
「え? あの泥棒って、あいつ、前も出たの?」
 屋台の店主が神妙な面持ちで頷いた。
「これで何回目になるかねえ」
 その言い方から察するに、両手では足りない程度、盗みを働いてるようだった。
「なんで捕まえねぇんだよ」
「捕まえないんじゃないよ。捕まえることができないのさ」
「なんで? サルみたいだから?」
「それもあるけどな、悪い事に手を染めてるって噂が立ってる奴の家からしか、金を盗まないんだ」
「へえ。じゃあの銃ぶっ放してるおっさんも?」
「ああ、なんでも、身寄りのない子供をさらって、売り飛ばしてるって話だよ。今まで金を盗まれた奴の殆どが、金と一緒に怪しい書類も盗まれたって話さ。それが露呈したら、とんでもないことになるだろ?」
 なるほどなあ、とザジは頷いた。ともすればエランドルフのあの焦りに満ちた表情にも納得がいく。しかし、あんなに鍛えられた身体だというのに、それが子供をさらうためのものだと考えると、じわじわと嫌悪がこみ上げてきた。
 そんなエランドルフといえば銃が弾切れしたのか、銃に弾をつめていた。しかし焦りもあってか、なかなかうまくつめれないようだった。
「危ねえ!逃げろ!」
 いきなりそんな叫び声が聞こえてきて、ザジが目を丸くすると同時、バキバキと音を立てて屋台のテントが崩れた。テーブルが横倒しになり、その上に並べられていた果物が路上に転がる。
「うわっ!? なんだぁっ!?」
 土ぼこりが舞う中、テントから抜け出してあたりの様子を伺うと、テントの布の上、ザジのすぐそばに泥棒が横たわっていた。ザジは息を呑み、身を強張らせて、一度だけ上を仰ぎ見た。どうやら泥棒は逃げ道がないので、屋根の上からこの屋台に飛び降りたようだった。
 泥棒がのろのろ身体を起こすので、ザジははっとして銃を取り出した。銃を構えると、銃にはめ込まれた精霊琥珀が輝きだす。
「これでもくらいやがれっ!」
 叫びながら引き金を引くのとほぼ同時に、泥棒の腕がひゅっと伸びてきて、銃身を下から掴んだ。ぐっと強い力で押し上げられ、ザジの心弾は空へと打ち上げられ、花火のように散り散りなって掻き消えてしまう。
「てめっ……」
 言いかけて、ザジはつばを飲み込んだ。
 泥棒の頭は、目だけを避けるように包帯で覆われていた。包帯の合間から覗く目が、睨むようにザジを射抜く。強い眼差しだと思った瞬間、不思議と息が止まって、金縛りにあったように身動きが取れなくなった。
 ひるむザジをよそに、泥棒はザジの銃から手を離すと、四つんばいになって逃げ出そうとする店主の肩をつかんだ。ひいっと悲鳴を上げて身をすくめる店主の耳元に、泥棒は顔を近づける。
「屋台を壊してしまってすみません。あとで必ず弁償します」
 その声は、近くにいたザジの耳にも届いた。
 泥棒はすぐさま立ち上がると、ぽかんと間抜け顔のザジを一度だけ見下ろしてから、ぱたぱたと通りに走り出た。泥棒をいざ捕まえようと躍起になる野次馬を、ひょいひょいと華麗な身のこなしでよけつつ、殴りかかろうとする男を足払いをかけて転倒させ、十字路の真ん中へと飛び出していった。
 呆気にとられていたザジだったが、ヴァシュカが走り出すのを見たとたん、すばやく立ち上がると、銃を片手に走り出した。
 ヴァシュカが泥棒に飛び掛るが、泥棒は横に飛ぶようにして避けてみせた。ヴァシュカは身を翻し、真正面から再度、泥棒に飛び掛る。対する泥棒は姿勢を建て直し、右足を僅かに持ち上げた。左足を軸にして、身体をひねらせる。ヴァシュカの爪がもう少しで届くという瞬間、ヴァシュカの頬に回し蹴りが炸裂した。
「ヴァシュカっ!?」
 ザジは叫びながら、石畳に転がるヴァシュカに駆け寄った。ぐったり横になるヴァシュカの傍にしゃがみこみ、ヴァシュカの顔を覗き込む。ヴァシュカはぐるぐると目を回していた。
「てめぇ……っ!」
 ザジが銃を構えると、泥棒は静かにザジを見据えた。その態度が、余計にザジを腹立たせる。銃に取り付けられた精霊琥珀が輝きだす。心弾を装填し、引き金を引こうとした時、背後から地鳴りのような音が聞こえてきた。
 音は次第に近づいてくる。ザジが首だけで振り返ろうとした瞬間、ザジの身体の上を何かが飛んでいった。思わず引き金を引くのを忘れて、その姿を目で追ってしまう。
 石畳に着地したそれは、茶色い毛並みの立派な馬だった。馬は次第に足を緩め、泥棒の傍に近寄る。唖然とする野次馬をよそに、泥棒は馬の背にひょいと飛び乗ると、手綱を馬に打ち付けた。
 馬が一つ嘶き、石畳の上を走り出す。
「くそっ、待てぇ!」
 エランドルフの声とともに、後方から銃声が二度響く。周りに人がいるのに、なんで撃つんだとザジは怒鳴りたかったが、馬の背に乗った泥棒が僅かにバランスを崩した瞬間、その言葉を飲み込んでしまった。銃弾が泥棒の左肩に当たったように見えたのだ。
 ザジは慌てて立ち上がり、馬の姿を追いかけたが、石畳に点々と落ちる血痕を目にして足を止めた。しゃがんで右手のグローブをはずし、石畳に落ちた血痕に触れる。それはぬるりと指先を塗らした。
 ザジが顔を上げて通りの向こうを見るが、馬に乗った泥棒の姿は闇夜に隠れ、もう見えなくなってしまっていた。
 泥棒が去った通りは、まるで嵐が過ぎ去ったような雰囲気で、皆が皆不安そうにしていた。
 ヴァシュカの様子を見る限り、どうにも食料の買出しをするのには無理そうだった。ザジは仕方なくそれを明日に回すことに決め、意識の戻ったヴァシュカを気遣いながら、ゆっくりとした足取りで教会へと戻った。

 薄暗い教会の中、牧師が案内してくれた道順どおりに礼拝堂を通り抜け、屋根裏部屋に戻った。手荷物の中からヴァシュカの餌を出し、皿に盛って出してみたが、ヴァシュカはほんの少し手をつけただけで、ベッドの下に潜り込んで寝てしまった。何度も呼びかけてみるが、返事はない。ヴァシュカが餌に手をつけず、睡眠を優先するのは初めてのことで、流石のザジも不安になった。だがこのままこうしていてもヴァシュカの眠りを妨げるだけだろう。ザジはしぶしぶその場から離れ、とりあえず寝る支度を始めた。
 部屋を出て、建物の一階へと向かう。まだ起きていた牧師に声をかけ、風呂を借りさせてもらった。
 湯船につかるため身体を洗っている最中、指が血で汚れたままだった事に気がついた。ザジは顔をしかめて、石鹸を無茶苦茶に泡立て、それを洗い落とす。その間、ヴァシュカに回し蹴りを食らわせた、泥棒のあの姿がスローモーションとなって脳裏に浮かんだ。次に会ったら心弾をぶっ放してやる、とザジは心の中で呟いた。
 風呂から上がり、上下を寝巻きに着替える。まだ起きている牧師に礼を述べてから屋根裏部屋に戻ると、ザジはまず先にベッドの下のヴァシュカの様子を伺った。すやすや寝息を立てていることにほっと胸を撫で下ろしながら、内心不安を抱えつつベッドに潜り込む。鎧虫の足で何度も殴られた事のあるヴァシュカだから、さして影響はないだろうとは思うものの、餌に殆ど手をつけないとなると話は別だった。不安から逃れるように、頭から布団を被る。
 眠ろうと思うのだが、どうにも眠れず何度も寝返りを打った。時折身体を起こして、ベッドの下のヴァシュカを覗き込む。それを5回ほど繰り返したときの頃だった。
 屋根の上から微かに、足音が伝わってきた。その足音はパタパタと軽やかな音を立てて、ザジが横たわるベッドの上あたりで止まった。
 ザジは自然と自分の身体が強張るのを感じた。布団を被り、身体を丸めて息を潜める。
 天窓が、静かに音を立てて開いた。その音を耳にした瞬間、ザジの心臓が大きく跳ねた。
 ベッドの上に何かが落ちる衝撃を感じた。それから静かに天窓が閉まる音がする。ベッドに着地した“誰か”は、ベッドから降りると、パタパタと部屋の隅へと向かって行った。どうやらザジに気づいていないようだ。
 布擦れの音がしてしばらくしたあと、足音はベッドの方へに戻ってきた。
「疲れたー……」
 その声にザジはぎょっとした。内心うそだろ、と呟く。気だるそうなその声は、通りで聞いた泥棒の声と、ほぼ同じものだった。
 そもそも何故ここにあの泥棒が、とザジが混乱して目をぐるぐるさせていると、ベッドに何かが潜り込んできた。どうやらあの泥棒が、何を思ったかベッドに入ってきたらしい。もしかしなくとも、泥棒はザジがベッドに寝ていることに気づかなかったのかもしれない。
 被っていた布団を引っ張られ、瞬時にまずいと思った。だがここで身体を起こしたら、と考えると、固まって動けなくなってしまう。
「んぅー……」
 背中に何かが擦り寄ってくるのを感じる。もうだめだ、とザジがぎゅっと目を閉じると、
「……だれー? クラーク? シシリア?」
 やる気が抜け落ちたような、訝しげな声で問いかけられた。ザジにとっては全く心当たりのない人物の名前を呼ばれ、それに返事ができるわけもなく、ただひたすらに息を潜めた。
「あんねー、おねーちゃん疲れてんのよ。寝るなら一人で寝なさい」
 ザジが無言のままやり過ごそうとしていると、背後で一つため息が聞こえた。
「出てかないならわき腹攻撃!」
 ていやっ、と悪戯っぽい変な掛け声とともに、ザジのわき腹に手が伸びてきた。くすぐるように指が動きだし、ザジは目を見開いた。くすぐったさに身体を小刻みに震わせながら、喉の奥から漏れそうになる笑い声を必死に飲み込んだ。
「あれー? 起きないなあ」
 声を漏らすまいとひたすらに堪えていたザジだったが、シャツの裾から自分のではない手が潜り込んできた瞬間、「ひっ」と小さく悲鳴を上げてしまった。
 冷たい指が、腹を撫で回す。妙なくすぐったさに加え、自分とは全く違う体温を持つ他人に素肌を触られているという恥ずかしさが徐々に不快感へ変わり、ザジの皮膚に鳥肌となって現れた。撫でられるたび、ザジの背中をぞわぞわとした妙な感覚が上ってきて、ザジはぶるぶると身体を震わせた。
「いいなあ、すべすべだなあ。若いっていいなあー」
 頭の上でそんな声が聞こえる。何がすべすべだ、とザジは言ってやりたかったが、唐突に泥棒に抱き寄せられ、一瞬で頭の中が真っ白になった。
 男と全く思えない声色でなんとなくわかってはいた。けれども男には到底ありえない女性特有の柔らかいものを背中に押し付けられると、嫌でも泥棒の性別を意識してしまう。
 後頭部に、泥棒が頬を寄せてくるのがわかる。まるでいとおしむかの様に擦り寄られ、ザジは目をぎゅっと瞑った。心臓の音がやけにうるさく感じられる。泥棒がザジの足に自分の足を絡めてきて、一層強く抱き寄せられると、妙に甘いような匂いが鼻腔をくすぐった。それを意識したとたん、頬が熱を帯びてくる。
 もう耐え切れないと、腹を撫で回す泥棒の手をシャツ越しに押さえると、泥棒の手が一旦止まった。のもつかの間、腹の皮を優しくつままれてしまう。
「……へっ! へっ……へっ!」
 思わず、そんな声が出ていた。
「……くしゃみ?」
 泥棒がのんきに聞き返す。ザジにとってはもう我慢の限界だった。
「こ、んのっ、へっ、変態があーっ!」
「うひゃっ……!」
 跳ね起きると、その反動で泥棒がベッドから転げ落ちた。ザジは枕を掴み取り、それを思いっきり泥棒に投げつける。
「わっ! 怒った!?」
 泥棒は見るからにあたふたしながら、それでも枕を受け止めた。
「ひっ、人の腹ベタベタベタベタ撫でまわしやがって! きもちわりーんだよっ!」
 ベッドの上で立ち上がり、泥棒を指差しながら叫ぶと、泥棒はあからさまに困惑し始めた。
「えっ!? あれっ!? シシリアじゃない! 君、誰っ!?」
「誰でもいいだろーがっ! この痴女!!」
 怒りに身を任せ、手当たり次第に物を投げつける。枕を始めに、文庫本、ペーパーウェイト、鉛筆などなど。とにかく何でもかんでも投げつけた。しかし泥棒は床の上を転がりながら、ひょいひょいと身をかわす。投げつけたものが全部避けられてしまっている事が、なおさらザジの神経を逆なでした。
「ちょっ、うわっ! 待て待て! ……ひっ!」
 壁にかかっていたランプを投げつけると、泥棒の声が驚きで高く跳ねた。泥棒は飛んできたランプを慌てて受け取ると、それをそっとベッドの下に転がせた。
「君ねえ、人に物を投げちゃいけないって、親に教わらなかった?」
「痴女に物を投げるなとは教わってねえ!」
 手近にあるものをあらかた投げつけ終わってしまったため、ザジは最後にベッドの上の布団を投げつけると、泥棒はその布団を被ったまま、部屋の隅に転がるように移動した。ザジはぜえはあと息を整えて、部屋の奥に逃げていった泥棒を見据える。
「ごめん! ほんとごめんってば! 知り合いだと思ったの! 変なことしたのは謝るから!」
「テメェは日ごろから知り合いに変なことしてんのか!」
「否定はしない! けど、君、男でしょ!? なんでそんなに反応が生娘みたいなの!?」
 生娘という言葉が耳に届いた瞬間、ザジの口角がひくついた。明らかに馬鹿にされていると思ってしまうと、言いようのない不快感が奥底から湧き上がってきた。ザジはベッドから降りると、自分のバッグを手繰り寄せ、中から心弾銃を手に取った。
 黒い銃身が天窓からの光を反射して鈍く光る。それを目に捉えた泥棒は、さっと顔色を変えた。見るからに焦っている。
「ちょ、それは卑怯だって!」
 精霊琥珀の輝きに、焦りを顔に浮かべた泥棒はパッと身体を起こして、一目散に部屋のドアへ向かう。
「逃がすかよっ! 食らいやがれ! 青棘っ!」
 撃ち放たれたザジの心の欠片は、うねる様に絡み合い、一直線に泥棒へ向かう。だが、間一髪で、泥棒はばっと床に身を伏せてしまった。壁に当たった弾は、散り散りばらばらになって、部屋のあちこちに降り注ぐ。泥棒はそれを布団の隙間から伺ったあと、被っていた布団をすぐさま投げ捨て、勢い良く飛び出した。
 まるで風のように床を走り、ザジに飛び掛る。不意を突かれたザジはそのまま泥棒とともにベッドの上に倒れこんだ。
「いってぇ……!」
 いくらマットレスがあるとはいえ、後頭部を打ち付けてしまったせいで、頭がぐわんぐわんと揺れた。ザジが怯んで目を閉じた隙に、泥棒はザジから銃を取り上げ、それを床に払い落としてしまう。腹の上に跨られ、両腕を押さえられてしまい、ザジは身動きが取れなくなってしまった。
「ちょっと落ち着こう。ね?」
 言い方は優しげなものだったが、ザジの腕を押さえる手に込められた力が、泥棒の心の内を表していた。
 抵抗しようにも腹の上に座られ、いわゆるマウントポジションを取られてしまい、にっちもさっちもいかなかった。ザジは押さえつけている泥棒の手をなんとか振り払おうとするが、それが無理だと悟ると、足を持ち上げた勢いを利用し、膝頭で泥棒の背中を思いっきり突いた。
「い……っ!」
 反動で、泥棒がザジの方に倒れこんできた。柔らかいものが身体の上に覆いかぶさり、ザジは息を飲む。
「ったたたた~。……き、君ねえ、女に膝蹴りはないでしょ、膝蹴りは」
「ううううるせえ! さっさと退きやがれ!」
「やだよーだ。退いたらどうなるかわかんないしー」
「なんもしねぇよ!」
「うそだぁ。そう言って油断したところを、背後から銃でズバーン! と、やるつもりなんでしょ。絶対退いてやんない」
「いいからさっさと退けぇーっ!!」
 じたばたともがいて見せるが、ザジと泥棒の力の差はおそらく互角。それに加え泥棒の方が背丈が大きいので、上手い具合に身体を押さえつけられてしまい、文字通り手も足も出なかった。
 もうだめだ、とザジが抵抗するのを諦めかけたころ、いきなり部屋のドアがノックされた。いや、ノックというよりは叩くというほうが合っているかもしれない。何度も何度もドアを叩かれるので、ザジは驚いてドアの方に顔を向けた。
「ザジさん!? 大丈夫ですか!?」
 廊下のほうから、牧師の声が聞こえてきた。どうやら騒ぎを聞きつけてきたらしい。
 牧師が言い終わるなり、泥棒は「げっ」と声を上げて、見るからにあたふたし始めた。
「だ、大丈夫じゃねえ! 助けてくれ!」
 とザジが言えば、
「あっ! こら馬鹿!」
 泥棒があわててザジの口をふさいだ。しかし、時すでに遅く、勢いよくドアが開け放たれると、入り口にランプを手にした牧師とが立っていた。
「……これは、これは」
 物が散乱した部屋を見回し、ベッドの上の二人の姿を見て、牧師は困ったように苦笑を浮かべた。まるで何か微笑ましいものを見るかのような眼差しを向けてくる。それを不思議に思ったザジは改めて泥棒を見上げ、ハッと息を呑んだ。
 ランプの明かりが弱めなので、その姿はおぼろげに映ったが、泥棒が下着姿であることを認識できるくらいの明かりではあった。体つきから察するに、ザジより少し年上だろう。少女の肩にやや黒みがかった赤い傷があるのを見て、ザジはやっぱりなあと思ったが、次の瞬間には別のことで頭がいっぱいになっていた。
 少女が、ザジの上に馬乗りになっているというこの状況。傍から見ればどう映るのか。
「て、てへっ」
 泥棒が、居心地悪そうにごまかし笑いをしてみせる。
 そうして数秒の間のあとに、ザジの悲鳴が建物に木霊したのだった。




 建物の1階、長テーブルが4脚並ぶこの部屋は、どうやら食堂のようだった。やけに広く、テーブルの上においてあるランタンの明かりが仄かに広がる室内は、少し薄ら寂しいものがある。時折風でステンドグラスがガタガタと揺れるのをぼーっと眺めていると、目の前に静かにカップが置かれた。来客用ではないカップの中には、一目で紅茶とわかる鮮やかな色が広がっている。
「冷めないうちに、どうぞ」
 申し訳なさそうな表情の牧師にそう薦められ、ザジは黙ってカップを手に取った。猫舌なので息を吹きかけてから、口をつける。渋みもなく、香りもきつくはなく、飲みやすい紅茶だった。素直に美味しいと思える。
「それ、私が買ってきたんだー。どう? おいしいでしょー」
 向かいに座る泥棒――という名前だと、牧師がそう教えてくれた――が悪びれた様子なくニコニコと話しかけてきた。ザジはちらりと上目でを見れば、ニコニコと笑いかけてくる。
 牧師が『下着姿ではあんまりだ』とここに来る前に彼女にブラウスを渡したおかげで、の格好は部屋にいたときよりはまともに見れる状態にはなっていた。とはいえザジはまともにと会話する気が全く起きて来ず、からぷいっと顔をそらした。再度紅茶に口をつけると、口の中になんともいえない味が広がった。美味しいのだけれど、素直に美味しいとは言えない、そんな味。
、肩」
「はーい」
 救急箱を開けながら牧師に呼ばれ、が暢気な返事をした。客の目の前で手当てかよ、とザジは内心悪態ついたが、自分が客というほどの身分ではないとわかっていたので、何も言わなかった。
 がブラウスの首もとのボタンをはずして、左肩だけを出した。赤く横一直線に刻まれた傷の周りは赤く腫れ、見るからに痛々しい。銃弾が掠っただけの傷なのが幸いだろう。
「化膿しますよ、これ」
「えー。1週間もすれば治るでしょ」
 けろっとした調子でが言う。
「そう言ってこの前ナイフで切られたのを放置して、5日も寝込んで手を焼かせたのはどこの誰ですか」
「ハイ、わたしわたしー」
 自分を指差しながらけたけたと笑うの後頭部を、牧師は無言で叩いた。へへーと誤魔化すように笑うを横目に、牧師は救急箱から脱脂綿を取り出し、適当な大きさに鋏で切り始めた。それにアルコール消毒液をしみこませると、の顔色がさっと変わった。
「それしみるからヤダーっ!」
 が子供のようにいやいやと首を降り始める。牧師は一つため息をこぼし、無理矢理の傷口に脱脂綿を押し当てると、流石のも瞬時に硬直し、口を引き結んだ。
「~~~~っ!」
 そうして声にならない悲鳴をあげ、ブルブルと身体を震わせ始める。痛みで足をバタバタさせながら、文字通り悶絶していた。
 そんななどお構いなしに、牧師は傷口を綿でふき取ると、アルミガーゼを当てて包帯を巻き始めた。強風が吹けばたちまち飛ばされてしまいそうな藁のような見た目に反して、てきぱきとした手つきにザジは感心してしまった。頼りない風体の癖に、お世辞抜きで手つきはよかった。恐らく、こういうのに馴れているんだろう。
「明日の朝、また見せてくださいね」
 牧師が救急箱に道具をしまいながら、に向けて言う。
「うー、わかった。ありがとう、先生」
 渋々といった返事に牧師は満足げに頷くと、救急箱を抱えて食堂から出て行ってしまった。そんな後ろ姿をは無言で見送り、そうして一息つくと、テーブルの上に置かれたカップを手に取り、紅茶を飲み始めた。
「んー。美味しいと思うんだけどなあ。やっぱりセントラルの方が美味しい茶葉はあるのかな? テガミバチさん」
「……しらねぇよ」
 職業で名指しされてしまい、無視するわけにもいかず、ザジはぶっきらぼうにそう返した。すると何が楽しいのやら、はくすりと笑みをこぼして紅茶に口をつけ、それからふと思い出したように口を開いた。
「ねえ、あの黒い猫ちゃんはどうなった?」
「は? ヴァシュカの事か?」
「へえ、ヴァシュカっていうんだ。あ、えーと。加減はしたつもりだったけど、ちょっと心配で」
 申し訳なさそうに苦笑して、それから不安そうな眼差しを向けてくる。暗に回し蹴りの事を謝ろうとしている意思が汲み取れた。まさかヴァシュカの心配をされるとは思わず、ザジは一瞬面食らった。の顔を訝しげに見つめたあと、少し間をおいて口を開いた。
「ヴァシュカなら寝てる。まあ、明日の朝になってみないと、正直わかんね」
「そっか」
 はそう言った後、しゅんと身体を小さくして、紅茶に口をつけた。その姿からは、あの屋根の上を走っている泥棒の姿を見い出す事はできなかった。こうしてみると、ごくごく普通の少女に見える。あの泥棒と同一人物とは思えない。もし肩に怪我を負っていなかったら、ザジは気づかずに終わっていただろう。
「ねえねえ」
 が馴れ馴れしく声をかけてきた。
「なんだよ」
「こ、この事って、本部に報告するの?」
 一瞬、が言った“この事”とやらが、ザジにはわからなかった。
「――ああ、お前が窃盗働いてることか」
 神妙な面持ちで、が小さく頷いてみせる。
「さーてな。どうすっかなあ」
 ザジが言葉を濁すと、がむぅと口を尖らせた。
 テガミバチの仕事は、人から人へ手紙を届けることだ。町の治安維持をするために活動しているわけではなく、基本的に町の治安はその町その町の自警団任せだ。だが、テガミバチが何かしら手に負えないと判断し、本部に報告すれば、首都からそれなりの対応を求める命令が下ることもしばしばある。もし、ザジが届出を出せば、は犯罪者として然るべき処置を受けるか、どこかしらに連行されることだろう。
「やはり、連行ですか」
「うわぁっ!」
 いつの間にやら、牧師がザジの斜め後ろに立っていた。
「おっ、おおお驚かすなボケ!」
「す、すみません。少し気になる話をしていたので、つい……」
 至極申し訳なさそうに牧師は言い、ザジの隣の椅子に腰掛けた。
「つーか、牧師さん。アンタ知ってたのか。コイツがやってた事」
「はい」
「聖職者の癖に、犯罪者匿ってんのか。教会に」
 ザジが『教会』のあたりを強調して言うと、牧師が神妙な面持ちになった。牧師がごくりと喉を鳴らす。
「こらー。年寄りをいじめるなー」
 気の抜けた声が向かいから飛んできた。
「いじめって……テメーのせいだろが!」
「うひゃー怖! 君って口悪いよねぇ。公務員とは思えないや」
「うるせぇ! んなの俺の勝手だろが!」
 がこれ以上話を進めないよう茶々を入れてきたのは明白だった。ザジは舌打ちをして、ぬるくなった紅茶を一気に飲み干す。
「ごちそうさま」
 そう言って席を立とうとしたところ、思いっきり腕を掴まれた。強制的に椅子に座らせられる。腕を掴んだ主――隣に座る牧師を見れば、何か妙な気迫をまとっていた。
「な、何すんだよ」
「どうか、を見逃してやってください……!」
 切羽詰ったような声に、ザジはごくりと息を飲んだ。牧師の必死な眼差しが、返答次第によってはどうなるかわからない、そんな気配を含んでいた。
「ん、んなこと言われてもなあ……。つーか、何でコイツの部屋に案内したんだよ。バレんの当たり前だろが。頭耄碌してんのか?」
「先生は悪くないよー。私が部屋間違えたんだもん」
 にっとが笑った。きょとんとしてザジがの方を見れば、隣の牧師がとつとつとした口調で、こんな事を言い始める。
「……その、部屋を貸すときにも申しましたように、あの部屋は前に見習いシスターが使っていた、つまり、このが使っていた部屋でして」
 ザジは自分の記憶をぼんやり掘り返しはじめた。そういえばそんな事を言っていたような気がしないでもない。
「今日の昼間にね、ここに住む皆で部屋割り変えたんだ。本当は変えたくなかったんだけどね。で、それを私がうっかり忘れちゃって、元の部屋にきちゃったってわけ」
「そ、そのようです」
 しょんぼりとする牧師とは裏腹、は楽しそうに笑っていた。牧師の態度から察するに、本当の事なんだろう。なんとも詰めの甘い事だ。そんなの尻拭いをせっせとしている牧師の図が、不思議と容易に想像できた。ともすれば可愛そうな爺さんというイメージがザジの中で生まれてしまう。
「あのな爺さん、悪い事は言わねぇから、黙ってコイツに足洗わせとけ」
「え!? もっかいお風呂入ってきたほうがいいかな!?」
 言いながら、が自分の着ているシャツを嗅ぎ始めた。
「そういう意味じゃねえ!」
「……、少し黙りなさい」
「……、はーい」
 が渋々と口を閉ざした。
「とりあえず、窃盗とかやめさせとけ。そういうの説くのがアンタの仕事だろ。俺、町でコイツ見たけどさ、やっぱよくねえよ。いつかぜってー酷い目に会うって」
 牧師は無言だったが、それでも力強くうなずいた。
「それに関しては大丈夫だよ。今日で最後だもん」
「あ?」
 思わず聞き返してしまった。
「先生と決めてたんだ。今日で最後にするって」
「そうなのか?」
「うん。これ以上続ければ襤褸が出ちゃうしね。もともと、見せしめっていうの? そんなつもりだったから」
 へらっと笑いながら、が言う。
 そういえば、とザジは露天商の言葉をふいに思い出した。身寄りのない子供をさらって、売り飛ばす――そういう事なのだろうか。
「とりあえず深い話は明日にしようよー。私もう眠いー」
 が駄々をこねながら欠伸を噛み殺した。それによる生理的な涙を目尻に浮かべ、眠たそうに指で拭って見せる。
「そうですね。食器は私が片付けておきますから、お二人はもう部屋に戻りなさい」
 牧師に柔らかな声でそう促されると、何故か不思議と段々眠くなってきてしまった。瞼の奥が鈍く痛むのを感じつつ、ザジは頷いて立ち上がる。それをきっかけにと牧師も立ち上がり、は牧師にコップを渡すと、無言でザジの隣に並んで。
「先生。おやすみなさい」
 ニコリと笑ってそう言った。それからちらりとザジを見下ろしてくる。暗にお前も挨拶をしろ、と言われているような気がしてしまい、一瞬ザジは戸惑ったものの。
「……ええと。おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
 そう言うと、牧師は柔らかな笑顔を浮かべた。


 食堂を出て暗い廊下を歩き出すと、軽やかな足取りで追いかけてきたがザジの隣に並んだ。ザジが見上げれば、が微笑み返してくる。よくもまあ笑顔を絶やさないものだ。
「ねえねえ、君、いつ戻るの?」
「明日」
「そっか。前この町の担当だったテガミバチさんは?」
「別の町に移ったんじゃねぇかな。これからは俺が担当する事になってる」
「そうなんだー。この町治安悪いから、いろいろ気をつけてね」
 そんな会話をしているうちに、あっという間に4階まで来てしまった。例の部屋のドアを開けると、無残にも散らかったままの状態だった。
「うわー。ひどいなあ」
 言いながらは勝手に部屋に入り込み、部屋の入り口のランタンに火をつけた。床に転がる布団を拾い上げ、ぽんぽんと埃を叩き落とすと、枕も同じようにしてみせる。
「おま、勝手に……」
 言いかけた途中で、が枕と布団を抱えてザジのほうに戻ってきた。
「ごめんね。なんかちょっと汚くなっちゃってるけど、別の布団持ってこようか?」
 がそう言いながら、汚れたらしい枕と布団をザジに見せてきた。ランタンの明かりでオレンジ色に染まったそれは、正直なところザジの目から見て汚れているのかどうかわからなかった。
 やけに親しげなの態度にザジは戸惑ってしまった。盗みの件もあってか媚びでも売ってるのだろうかとに疑いの眼差しを向ければ、はきょとんと目を丸くして、『どうしたの?』という風に首を傾げながら微笑みかけてきた。どうにも媚びを売る仕草には見えない。
「……俺にゴマすったって何もでねぇぞ」
 ザジが不満そうに零すと、が苦笑した。
「そんなんじゃないって。お布団汚くしたの、私の責任だし。それになんか、君に変な事しちゃったからさ」
 変な事、と口が動く前に、さっきの情景が脳裏に浮かび上がった。ひやりとした手のひらの温度とあのくすぐったさを思い出したとたん、顔が一気に熱くなった。
「やー……なんていうか、本気で寝ぼけてたんだ。ほんとごめんね」
 言いながら、が「あはー」と照れ隠しっぽく苦笑を浮かべた。彼女もまた頬が赤い。
「へ、へへ変な事思い出させんな!」
「うわー怒鳴らない! しーっ! しーーーっ!! 皆起きちゃうから!」
 が人差し指を立てて口元に持っていく仕草を見せるので、ザジは慌てて口を噤んだ。恐る恐る耳をそばだて、廊下の奥へ視線を向けるが、相変わらず静寂に包まれていた。眠りを妨害されたことによる怒鳴り声などは聞こえてこない。ほっと胸を撫で下ろし、それから深く息を吸って吐くと、落ち着いたような気がした。
「ええと。お布団、取り替える?」
 やや強引に話を戻されたが、そのほうがザジにとっても有難かった。
「……、いいよ。大して汚れてねぇと思うし」
 ザジがそう告げれば、は「そっか」と頷いて微笑むと、布団を手に抱えたまま再度勝手に部屋に入り込んでしまった。ザジは止めようと思い手を伸ばしかけたのだが、が鼻歌交じりにベッドを直し始めてしまうのを見て、手を引っ込めた。止める気が失せてしまう。ため息を吐いて部屋の中に入り、ベッドの傍に行くころには、もうすっかりベッドは元通りになっていた。
「何か苦情とか諸々ある場合は、隣の部屋に来てね。そこ、私の部屋だから」
 何が楽しいのか、にこにこ笑顔でが言う。
「行かねぇよ」
 間髪いれずにそう答え、ベッドに腰掛けると、が仕方ないなあという意味合いの入った苦笑を浮かべた。無言のままやり過ごしていると、がくるりと背を向ける。それから足を踏み出そうとしたところで、何故かまたザジの方に体を向けた。
「そういえば私、君の名前聞いてないや。なんていうの?」
「……ザジ」
「ザジか。よろしくね、ザジ」
 へらへらと笑って右手を出してくる。妙になれなれしいのが気に食わず、ザジはぷいっと顔を背けてみせると、はため息混じりに肩をすくめて手を引っ込めた。パタパタと部屋のドアまで小走りで移動する。
「ランプ消すよ?」
 ザジが仕方なく頷いてみせると、がランプに息を吹きかけ、火を消した。一気に部屋が暗くなる。
「それじゃ、おやすみー」
 ザジに向けてひらひらと手を振って、静かにドアを閉めた。しばらくして、隣の部屋のドアが開く音が聞こえる。どうやら本当にの部屋は隣らしい。
 静かになった部屋を見回す。床には物が散らばっているのだが、暗くなった今となってはよく見えなかった。片付けは明日に回そう。そう決めたザジはのろのろとベッドの下を覗き込んだ。ヴァシュカがぐっすり寝ているのを確認して、ベッドの中に潜り込む。
 枕に頭を埋めると、ほんの少し埃臭さを感じたが、気のせいで済ませれるレベルだった。それよりも何だか自分とは違う、甘いような匂いが染み付いている気がしてならない。そう思ってしまった次の瞬間には埃臭さなど、頭のどこか隅に追いやられてしまった。の事を思い出し、妙に落ち着かなくなってしまう。
 気にするな、とザジは自分に言い聞かせ無理やり目を閉じるが、ザジに眠りが訪れたのは随分と後の事だった。

2011/11/24