紹介したい人がいるからと、フミエに無理やり引き連れられ、ヤサコがやってきたのはハラケンのクラスだった。
「ハラケン!」
フミエの声に、ハラケンが少しだけ顔を上げる。何を考えているのかわからない、やる気のなさそうなその顔が彼のデフォルトらしい。ハラケンは操作していたフォルダを閉じて席を立ち、ゆっくりした足取りで教室のドアへと向かった。
「は?」
フミエの言葉の中の、聞きなれない人名にヤサコは目を丸くした。だが今質問するのはどうも水を差すようだったのでヤサコは開きかけた口を閉じた。
ハラケンは視線をやや上に向けて、うーんと小さくうなってから。
「知らない」
言って首を振った。
「…、ほんっと、使えないわねー」
「知らないもんは知らないよ」
ハラケンは呆れたように言い放つ。フミエが盛大にため息を吐いて、ヤサコの手を掴んだ。
「仕方ないわね、のクラスに行きましょう」
言ってきびすを返すフミエのすぐ傍で、ピピ、と電子音が鳴り響く。フミエとヤサコは一瞬きょとんとしたような顔をしてから、ハラケンのほうを振り返った。
「あ……」
ハラケンが小さく呟いて、メールフォルダを開いた。問答無用でフミエが画面を覗き込むので、ハラケンは小さくたじろいで不満そうに眉をよせたが、フミエの剣幕に押されしぶしぶといった感じでメールを開く。ヤサコから見れば画面を後ろから見ているので文字が反転され読みにくかったが、新規受信メールの送信者は、紛れもなく、その“”からだった。
* * *
「は生物部の部員なのよ」
夕日に染まった廊下を、ヤサコとフミエ、そしてハラケンが並んで歩いている中、ヤサコの質問にフミエは穏やかな声で答えた。
「一応、のほうにも話はしてたんだけどね、部員仲間なんだし、やっぱり早めに会っておいた方がいいでしょう?」
ヤサコにとって、その“ちゃん”と早めに会っておいた方がいい利点があまり思いつかなくて、ヤサコは曖昧な笑顔を浮かべて頷いた。まあ確かにという人物がどういう人なのか、正直気になる。何せ、あのハラケンに“さきに帰ってていいからね”という内容のメールを送るくらいなのだから。
とはいっても、先に帰ってもいいとメールで言われたハラケンのほうは、そんな気はこれっぽっちもないらしく、カバンを背負って無言のままフミエとヤサコについてくる。そこらへんがなんか、いろんな意味で興味深い気がするなあ、とヤサコは思った。
「ねえねえ、そのちゃんとハラケンくんって、どういう関係?」
ヤサコがフミエにそう耳打ちすると、フミエはにやりと口元を緩めた。その顔はまるでダイチに「してやったり!」と言うような満足げな顔にも似ている。
「見てればわかるわよ、面白いから」
言ってフミエは立ち止まり、そばにある教室のドアに手を掛けた。フミエは静かにドアを開けて、中に入る。ヤサコはぽつんと、「見てればわかるってどういう事?」と首をかしげて呟きながらフミエの後に続いた。
室内にはそこかしこに本棚が並べられていて、色とりどりの本がつめこまれていた。綺麗な白い机がたくさん並んでいる。どうやら、図書室のようだ。やたら静かで、誰もいない雰囲気のなか、窓際の司書席のところに、ぽつんと一人の女の子が座っていた。読書に没頭しているようで、入ってきた3人に気づいていない。
「あれが。図書委員なのよ」
今日がの当番の日だってことすっかり忘れてたわ、なんていいながらフミエは彼女を指差した。ヤサコはへえ、と興味津々そうに呟く。夕日を浴びているという効果もあるかもしれないけど、なんだかぽわっとしたような雰囲気をもった、かわいらしい子だった。
長い髪を赤い水玉リボンのついたゴムで髪をサイドにひとつにまとめていて、それが彼女によく似合っているとヤサコは思った。まつげが長いのか、やわらかそうなほっぺたに影が落ちている。ゆるく開いた唇はぽってりしていた。見れば見るほど、可愛いという印象が強くなる。
「」
ハラケンが名前を呼ぶと、と呼ばれたその子はぱちくり瞬きをして、ゆっくり顔を上げた。
「あれ? ケンちゃん?」
言ってから、は慌てて本を閉じて、テーブルの横に置いていたメガネをかけた。その際、乱暴に席を立ったせいか椅子が勢いよく倒れる。ガターン、と重たい音が響いたとたん、は後ろを向いてびくりと体をふるわせた。
「うわ、わっ!」
何故か、の体のバランスが崩れる。
「っ?」
ハラケンがテーブルを挟んで身を乗り出し手を伸ばすものの、はそれを掴み損ねて転がったいすの近くに転倒した。その衝撃で、運悪くも、そばに積んであった空のダンボールがバランスを失いぐらぐらと揺れる。
「わ、わーっ!」
どさどさどさ、という音とともに、少しだけほこりが舞い上がった。ハラケンがあちゃーといった感じて、片手で目を覆った。何がなんだかわからないヤサコの横で、フミエが必死に笑いを堪えながら、ヤサコの肩をとんとんとたたいた。
「は真性のドジっ子なのよ」
目じりにたまった涙をぬぐいながら、そういった。
転んださいにどこかにぶつけ、なおかつ切ってしまったらしく、の腕には血が浮き出た切り傷があった。保健室に行こうかとヤサコは提案したが、は「へーきっ」と笑いながらぶんぶん首を振って言った。たしかに小さな傷なのだけれど、どうにも痛々しい。
そんなヤサコとおなじことを思っていたらしいのか、ハラケンが「見苦しいから」とカバンからポケットティッシュと絆創膏を取り出して、彼女の手当てを始めた。ハラケンとの付き合いがそんなにないヤサコからでも、彼から行動を起こすのを見るのは妙な違和感を覚えた。
ヤサコにはなんだか、その一連の行動で、二人の関係性がわかったような気がした。言うならば、兄と妹。もっとはっきり言うなら、世話する人とされる人。もっともっとはっきり言うなら、飼い主と、犬。…これは言い過ぎかもしれない。
「えーと、自己紹介がまだだね! はじめまして! です!」
椅子に座ったが、にぱーと笑いながらそういって、勢いよく頭を下げた。その拍子、運悪くも隣に座り、身をかがめての腕に絆創膏を貼っていたハラケンの頭に、の頭がぶつかる。ごぉん、といい音がしたすぐ後、とハラケンは同時にぶつけた箇所を両手で押さえてうなり始めた。
「ね、面白いでしょう?」
必死に笑いを堪えながらいうフミエに、確かに面白いなあと納得せざるを得なくて、ヤサコは頷いた。
「ハラケンはといると、いっつもペース崩されるのよ。それが見てて面白いのよね」
フミエの言葉に、はあなるほど、とヤサコは頷いた。いつものイメージとは違う彼が見れるのは少し面白いかもしれない、とまた納得してしまう。
「ケンちゃんごめんね! だいじょうぶ?!」
言いながら、はわしゃわしゃとハラケンの頭を撫で回す。ハラケンの前髪は無残にもぐちゃぐちゃになっていた。
「い、いいから、離して」
「痛いのとんでけー!」
「いや、もう痛くないから…」
勘弁して、とハラケンはその手を払いのけながら小さくため息を吐いた。そのときにハラケンが少しだけ口元を緩めたのは、気のせいじゃない気がする。表情の乏しい彼が、の前ではほんの少しだけどちっちゃく笑う。なんだかそれがヤサコには特別なものに見えた。
「…もしかして、幼馴染、とか?」
ハラケンの頭を撫でながらにこーっと笑いかけるをぼんやり見ながらヤサコが呟くと、フミエは目を丸くした。
「よくわかったわねヤサコ…」
関心といったように呟いて、フミエは優しいまなざしでを見た。
「まあ幼馴染っていってもおうちが隣同士ってわけでもないし、昔は二人ともこんなに仲良かったわけじゃないのよ?」
今度はヤサコが目を丸くする番だった。え、と小さく呟いて、フミエを見る。フミエはふうっと小さく息を吐いて、目の前の二人に聞こえないように声のトーンを落とした。
「、2年前に事故にあってるのよ、それからこんな風になっちゃって」
フミエがいうには、こうだ。スクールゾーンに指定されている幅の広い国道で、飲酒運転の乗用車が事故を起こしかけ、急にハンドルを切ったせいで歩道に乗り上げ、運悪く帰宅途中のはその乗用車に轢かれてしまったそうだ。
「まあその事件の目撃者が…」
フミエがぴしっと、ハラケンを指差した。
「そこにいるハラケンらしいわ」
その声を聞いたハラケンとが、そろってフミエを見る。しばし呆然と見詰め合ってたが、がむーっと眉を寄せた。がたんと音をたてて席を立ち、ばたばたとフミエのほうにやってくる。てーい、とは言いながらフミエの腰に手を回した。
「こらーフミエちゃんまた喋ったなー!」
「ちょ、こら、うひゃ! や、やめなさいってば」
仕返しだもんねー、と笑いながらはフミエをくすぐりだす、のだが。
「こ、んのぉ!」
「うわあっ!?」
どたーん、と床に転がる二人に、ヤサコはびっくりして身をすくめた。ハラケンも慌てて席を立つ。
「くそー、よくもやったわねえ」
「ひゃ、あひゃひゃひゃひゃ、わーごめんなさいー!」
じたばた暴れるを押さえつけるようにして、フミエはをくすぐりだした。フミエはショートパンツでまだいいけれどはミニスカートだ。がじたばた足を動かすたびになんだか見えそうで、フミエちゃんやりすぎだよと、ヤサコは苦笑する。多分フミエはいつもこんな風に弟を扱っているんだろう。フミエの、のその扱い方が、ヤサコにはそれっぽく見えるのだ。
と、の着ている黒いポロシャツがめくれて、背中にうっすらケロイド状の傷跡があるのにヤサコは気が付いたが、多分事故の時についたものだろうからあえて触れないことにした。
それよりも。
「ハラケンくん、どこ見てるの? 何かあった?」
窓の外を見ているハラケンが気になったのか、ヤサコがそう聞くと。
「…、別に」
こっちを見ることなく、ハラケンはぽつりと呟いた。夕日に関係なく、彼の耳が赤いように見えて、ヤサコはなるほどなあと小さく笑った。
2007/06/16