「ちょ、ちょっと、そこで何やってんのよっ」
 下の方からそんな声が聞こえて、わたしは体育倉庫のでこぼこのトタン屋根の上を慎重に歩いて下を覗き込んだ。
 やっぱりというか、フミエちゃんがいる。それにケンちゃんも。そのちょっと後ろのあたりでわたしの第一発見者(というんだろうか?)のアキラくんが不安そうにわたしを見上げていた。どうやらアキラくんが二人を呼んでくれたらしい。
「その、きなこがね、この屋根のうえに登っちゃって」
 きなこ、っていうのは、わたしのペットの名前だ。黒地に黄色がかったような白い斑点がまばらにあって、お餅みたいだから、きなこ。
 ……――っていう由来をフミエちゃんに話したら「それゴマ餅じゃん! きなこ関係ないじゃん!?」って言われて、目からうろこが落ちたけど。
 そんなきなこといえば、わたしの頭の上に乗って、尻尾をぐるっとわたしの首に回している。これがいっつものきなこの定位置だ。
 ふつう、電脳ペットって誰にでもなつくんだろうけど、きなこの場合は違う。家族はおろかクラスメイトにも近づかないし、仲がいいフミエちゃんにもケンちゃんにも近寄らず、わたしだけにこうやってひっつく。それがちょっぴり困ってる反面、嬉しかったりもするけど。
「きなこって…あ、アンタね、それ電脳ペットでしょ!? 落ちたって死なないじゃない!」
「そ、そうなんだけど、なんか降りれなくなってて…」
「お、降りれないって…きなこトカゲじゃん!?」
 そう、きなこはトカゲ型のペットだ。でも、もとは電脳犬がベースらしい。イメージを差し替えて、ちょっとトカゲらしくしただけだから、こういう緊急時には足がすくんで動けなくなってしまうのだ。しかも時々「きゅー」って犬みたいに鳴く。
 ……――それをフミエちゃんに話したら「そのペット不良品じゃん!」って言われて、またまた目からうろこが落ちたけど。
「ていうか、アンタどうやって登ったのよ!?」
「そこにあるダンボール使ったんだけど…」
 言って、わたしは倉庫の隅っこに散らばっているダンボールを指した。
「ダイチくんがダンボール崩しちゃって、しかも持ってっちゃって…」
「……~~、あ、あんの野郎!」
 怒りに震えるフミエちゃんにちょっと笑って、わたしはその場に座り込んで四つんばいになって、少しだけ身を乗り出して下を覗いた。
 ……やっぱり、高い。ジャングルジムのてっぺんより高い。
 1年位前に、一回だけ、ジャングルジムのてっぺんから飛び降りてみた事があるけど、その時は足がびりびりして1分くらいその場から動けなかった覚えがある。それより高いとこから飛び降りるなんて、痛そうで想像できない。
 突き出た屋根にぶら下がって降りようかと思ったけど、屋根は斜めになってて、しかもツルツルしてるから、手がすぐに滑って落ちてしまいそうなので多分無理。
 ていうか、むしろ、怖くてできそうにもない。
「や、やっぱ先生呼んできたほうが…?」
 と、アキラくん。
「ダメよ! 先生煩いもの!」
 と、フミエちゃん。確かに、先生なんか呼んだらこっぴどく叱られそうだ。
「…うるさいって、そういう問題じゃ…」
 ぼそぼそとケンちゃんが呟くけど、フミエちゃんには聞こえてないみたいだ。
「だ、だいじょうぶだよーお兄ちゃん呼んだから! ………でも、『最悪1時間待ってろ』って言われたけど」
「ダメじゃんそれ!」
 フミエちゃんに言われて、あははと笑ったけどたぶん顔は引きつってるだろうと思った。
「あーもー、こうなったら、アレしかないわね」
「アレ?」
「アンタが飛び降りて、アタシがそれを受け止めるのよ」
 さあカモンっ、とフミエちゃんが両手を広げて仁王立ちをする。――、さすがに、それは無理があるような。
「や、やだよ! わたし重いもん! フミエちゃん潰れちゃうよ!」
「人間がそう簡単に潰れるわけないでしょー!?」
 バカかっ!? と付け足されて、思わず唸る。バカって言われても、嫌なものは嫌だ。
「い、一応フミエちゃんは女の子なんだよ!? 絶対無理だって!」
「無理かどうかはやってみないとわかんないでしょーがっ! つか、一応は余計だっての!」
「わーわーごめんなさいー!」
 きーっと喚くように言うフミエちゃんにびくりと身をすくめて叫ぶように謝ると、フミエちゃんがこれでもかというほど盛大に、ものすごーく盛大にため息を吐いた。
「仕方ないわねー。さ、ハラケン、いくのよ!」
「え、えぇっ! 僕!?」
 わたしに向けてぴっと指差しながら言うフミエちゃんの横で、ケンちゃんが珍しく驚いた顔をした。
「そーよ。あたしがダメなら、ハラケンしかいないじゃない! さ、いってきなさい!」
 けたけた笑いながらケンちゃんの背中を思いっきり叩くフミエちゃんは、どうやらもともとアキラくんを眼中に入れていないらしい。まあ、そうだろうなあと思う。ていうかフミエちゃん、心なしかこの状況楽しんでるように見える。
 小さくため息を吐いてケンちゃんを見れば、ケンちゃんと視線がかち合った。そのままケンちゃんを上から下まで見たあとに、絶対に無理だ! と本能で直感してしまう。
 それに、言葉ではうまくあらわせないけど、なんていうか、嫌だ。ケンちゃんは、絶対に、嫌だ。
「無理だよ! ケンちゃんひょろひょろしてるもん!」
 言うと、ケンちゃんがちょっとだけ目を見開いた。でもすぐに普通の顔に戻る。
「何よー。あたしの提案に文句つけるっていうの!?」
「文句ていうか…そもそも受け止めるって考え方自体がおかしいってばぁ!」
の分際であたしに口答えするのね…?」
「そういうんじゃなくて…っ!」
 黒いオーラをまとい始めるフミエちゃん。心なしかゴゴゴゴゴって音が聞こえるような気がする。
「なんていうか、その………け、ケンちゃんは絶対に嫌なの!!」
 言ってから、あっと慌てて口をふさいだ。ケンちゃんを見れば、ちょっとだけ悲しそうに眉を下げてから、不満そうにわたしを見てくる。いや、別にケンちゃんの顔はいつもと変わらないんだけど、雰囲気がすごい不満そうなのだ。
「うわ、あ、あのその、嫌っていうかその、……ごごごごごめんなさい」
 ケンちゃんの気迫に負けて、思わず謝ってしまう。
「お、怒った?」
「…いいよ、別に。怒ってないから」
 普通、怒ってない人は自ら「怒ってない」なんて言わないものである。――って、お姉ちゃんがこの前言ってた!
「うそだー、ぜったい怒ってる」
「怒ってないってば」
 やっぱり不満そうに言うケンちゃん。ケンちゃんは滅多に怒らないから、なんか怖い。
「ああもう、そんな事はどうでもいいわよ! 先生きたらヤバイんだからほら、さっさとやる!」
 耐えられなくなったらしいフミエちゃんが、またケンちゃんの背中を強く叩いて、そのままケンちゃんの背中を押してわたしのすぐ前までつれてくる。そのまま、ケンちゃんの肩をがっしり掴んで、フミエちゃんはにやりと笑った。
「ほら、あたしが支えとけば、ハラケンが倒れる心配はないでしょ? 心配しないで、どーんと飛び降りなさい」
「いや、そ、そういう問題じゃあ…」
「どーせ失敗しても、怪我するのはかハラケンだし、あたしの事は心配しなくても大丈夫よ!」
「そ、そーいうのがダメなんだってば!」
 何よー冗談じゃないのよう、と口を尖らせて言うフミエちゃん。正直、冗談には聞こえなかったような。うーっと唸るわたしを気にすることなく、フミエちゃんはアキラくんに危ないから少し離れるように言った。アキラくんは一瞬戸惑ってからそろそろ歩いて、ケンちゃんたちから距離をおいた。
 だんだん、逃げられない状況になっていくような。
「ほら、うじうじしてないで早くしなさいよ!」
「で、でもー」
「怪我しちゃったらそんときよ! 保健室に駆け込めばいいじゃない!」
 まあ、確かにここから保健室までは、ベランダを経由して行けばかなり近い。でも、やっぱり無理がある気がする。ケンちゃんはわたしとフミエちゃんよりも背が高いけど、クラスの中で一番ってわけじゃないし、それにひょろひょろしてるし……飛び降りるのを受け止めるなんて、大人じゃないとやっぱり無理だ。

 ケンちゃんが、名前を呼ぶ。おずおずと、わたしの方に手を伸ばしてくる。
「だいじょうぶだから、ほら」
 ちっちゃい子供をなだめるみたいに言われて、ぐうの音も出ない。
「怪我しても責任とらないからね!」
「いやそれこっちのセリフだから…」
 ケンちゃんが呆れたように呟く。わたしはうーうー唸りながら屋根のふちに座る。ちょっとだけ怖くて地に付かない足をぶらぶらさせたらもっと怖くなったのでやめた。
「い、いくよー」
 トタン屋根に手を突いてぐっと力を込め、滑り台をすべる要領でわたしは屋根から降りた。降りたっていうより、落ちたって表現に近いかもしれない、なんて冷静に考えてる間、ケンちゃんのほうに向かって落ちていくのがすごいスローモーションみたいに感じられた。車にぶつかるまえの感覚とちょっと似てる気がする。わたしの脇の下に手が差し込まれて、そのまま抱き寄せられた。がくんと首が動いて、ケンちゃんの首筋に顔をうずめる形になる。そのときにケンちゃんの足元でじゃりっと砂の音がした。
 靴の裏から、地面の感触が伝わる。
「わー、わー! ウソみたい降りれた!」
 ケンちゃんの耳の近くでわーわーと騒いだせいか、耳のすぐ傍でケンちゃんが「うるさい」って呟いた。慌てて口を閉じる。
「……ほんっとにもう、心配させるんじゃないの!」
 フミエちゃんがケンちゃんの後ろからこっちにまわって来て、そのままぺちこーんとわたしの頭を叩いた。でも軽く叩いたみたいで、そんなに痛くは無い。むぎゅーって背中に圧迫感を感じる。ちょっとだけ振り返ってみればフミエちゃんが抱きついていた。思わず苦笑してしまう。
 ていうかそれよりも、ケンちゃんはなんで離してくれないんだろう。
「あの、ケンちゃん、…えと…」
「…もうちょっと」
 ケンちゃんが首筋に顔をうずめるから、重なったきなこの尻尾がちりちりと音を立てた。「もうちょっと」って、全くもって意味がわからない。それをケンちゃんに言おうとした時だった。
“―――――――!!!!”
 ギリギリギリ、とか、キチキチキチっていう音が混ざった、ヘンな音が大音量で聞こえた。耳の奥がキーンってなって、ズキズキと痛みを訴える。まずい、と本能で思った。きなこには変質者とか、なんか危なそうな人が近づくと音波を発する機能があるのだ。まあ、危なそうじゃない人でも、音波を発するけど。ちなみに、その機能はもともとついてたわけじゃない。取り付けたのはわたしでもお兄ちゃんでもなく、一番上のお姉ちゃんである。
「ぎゃああうるさいうるさいうるさいー!」
 フミエちゃんが悲鳴って言うか、奇声を発しながらわたしから離れる。ケンちゃんも小さく呻いてわたしから離れて耳をふさいだ。奥のほうにいるアキラくんも辛そうに顔をしかめて耳をふさいでしゃがんでいる。
「わーわー! みんなメガネとって!」
 電脳世界の音を遮断するにはそれしかない。簡単な回避方法をみんなに向けて言ってから、わたしはメガネの音量をミュートに切り替えて、頭に張り付いているきなこをひっぺがした。思いっきり力を込めて、きなこの口を押さえつける。メタタグで止める事ができるんだけど、不便な事に、そのタグはお姉ちゃんしか持ってない。手動で止めるにはそれしか方法が無いのだ。正直、わたしがそのタグを持たないと意味が無いと思うけど、そんなことお姉ちゃんに言ったら叩かれるのがオチだ。
 しばらくすると、ぎゅーっと目を閉じていたきなこがゆるゆる目を開けた。数回瞬きして、わたしの手からするっと逃げて、やっぱりまたさっきの低位置に戻る。うう、と泣きそうな気持ちでわたしはメガネの音量を通常に戻した。
「あーもう、なんか踏んだり蹴ったり…」
 フミエちゃんがぐったりした様子で呟く。
「ごめん…ほんとごめん…。ケンちゃんもアキラくんもだいじょーぶ?」
 聞くと、二人はぐったりした様子でこくこくと頷いた。きっとわたしが平気なのは、きなこの音を聞きなれてるからだろう。
 きなこといえば、ぐったりしてる皆に見せ付けるようにくあっと欠伸をしてから、甘えるように「きゅーん」と鳴いて擦り寄ってきた。やっぱりフミエちゃんの言うとおり、この傍若無人な態度はトカゲらしくない。

2007/07/01