階段を登ろうとしたら、ふっと影が落ちて、目の前に、人が、降ってきた。
わたしは慌てて手を伸ばして彼女を受け止める。胸の中に飛び込んでくる衝撃で、後ろのほうに倒れそうになったけど、なんとか踏ん張ってそれを堪えた。
「…だいじょうぶ?」
言って、おずおずと身体を離す。見覚えのないその子は目を見開いたままわたしを見てから、きりりとした眼差しでわたしを見て、それから、動かなくなった。そういう風にされるとわたしもどうしたらいいのかわからなくて、そのままじーっと、彼女の顔を見つめる。
それにしても、綺麗な子だと、わたしは思った。顔立ちがなんだかものすごくシャープで、鷹とか鷲みたいにすらっとしていて、なおかつ強そうな印象を受ける。クラスの男の子よりもかっこいい子だと思った。
「ご、ごめん」
ややあってから、女の子がそれだけ呟く。見れば、心なしか彼女のほっぺたは赤いような気がする。もしかして熱でもあったせいで、階段から足を踏み外して落ちてしまったのだろうか? だとしたら、いっこくもはやく、保健室に連れて行ったほうがいいような。
「本当に? 顔赤いよ? 保健室に行った方が…」
そういって、――よくわからないけど、初対面のその女の子のおでこに手のひらを押し当てていた。
やっぱり熱い。さっきよりも女の子の顔は真っ赤だ。
「い、いいから! ほっといてちょうだい」
女の子が慌ててわたしの腕を振り払う。そのときだった。
「うわー! 何、お前らレズ?」
後ろのほうから冷やかすような声が聞こえて、わたしはびっくりして振り返る。クラスの男子がニヤニヤしながらわたしたちを見ていた。
とっさに、まだ女の子の背中に片手を回しているのに気がついて、わたしは慌てて手を離した。
「ち、違うってば! 誤解だよー」
呆れながらその男子に言う最中、女の子がわたしの腕にぶつかるようにして男子の横を走り抜けていってしまった。きっとからかわれて怒ってしまったんだ。
なんだか無性に、目の前の男子たちが恨めしく思えて、わたしは盛大にため息を吐いて階段のほうに足を進めた。
その日、6年生の間では、変な噂で持ちきりだった。
なんでも、2組の女子と、3組の転校生が、階段の踊り場で抱き合っていたというのだ。
3組の転校生、といってもそれに該当するヤサコに身に覚えはない。よって必然的にというべきか、3組の転校生=天沢勇子という式が成り立っていく。だが、相手方の2組の女子は、ヤサコにはまるで見当がつかなかったのだが。
「なんでも抱き合ってたの、らしいぜ」
クラスの男子がそんな事をもらすのを聞いて、ヤサコとフミエは顔を見合わせた。
* * *
「上から女の子が落ちてきて、それを受け止めただけだよ」
図書室の司書席で苦笑しながら言うに、ヤサコとフミエはなんだあといったような感じで顔を緩ませた。
「そんな理由でよかったわー。あたしてっきりが変な趣味に走っちゃったかと思ったじゃないの」
フミエがからかい混じりにそう言った時、椅子に座って本を読んでいたハラケンが小さくむせたのを、ヤサコは聞き逃さなかった。
「そういう趣味って…そんなんじゃないってばあ。…なんでみんなわたしの話ちゃんと聞いてくれないんだろう」
なんて、ぶつくさと文句を言うに、ヤサコは小さく笑った。
「でも、イサコが階段を踏み外すって、考えると間抜けで笑えるわね」
「悪かったわね」
不満そうな声がドアのほうから聞こえて、フミエはびくりと震えて固まった。ヤサコとが恐る恐るといった様子でドアのほうに視線をやる。
イサコが、ドアにもたれかかるようにして立っていた。ヤサコが身構えると同時、ハラケンが静かに席を立つ。そんな警戒態勢に入る生物部の中で一人だけ、はぽかんとした様子でイサコを見てから、小さく微笑んだ。
それに拍子抜けしたのか、イサコは視線を斜め上に向けて小さく息をはいてから、図書室の中へ足を踏み出した。
すたすたと早歩きで、司書席のカウンターのほうまでやってくる。イサコはを見据えてから、ポケットに手を突っ込んだ。フミエが右手の指を2本だけ立てて顔の横に持っていく。明らかな敵意を向けられ、イサコはちらりとそれを横目で見てから、気にせずにポケットから取り出したものをに差し出した。
「これ、あなたの?」
ピンクと白の水玉模様に、黒いリボンがついたタオルハンカチを差し出されたは目を丸くしてから、おずおずとそれを受け取った。
「ど、どこでひろったの?」
「階段の踊り場の横よ。あなた、わたしを受け止めるとき、このハンカチ投げ捨ててたじゃない」
確かに、勢いで投げ捨てたような気がする、とはうーんと考え込んでから、ハンカチの存在をすっかり忘れていた事に少しだけショックを覚えた。どうしてこう、自分はどこか抜けているんだろうと、は俯いて手の中にあるハンカチを見た。そっと撫でると、指先にふわふわとした感触が伝わった。
そういえば、ハンカチを拾ってもらったお礼を言っていない。は慌てて顔を上げた。
「あ、ありがとうねっ」
その必死そうな言い方がおかしかったのか、イサコはくすりと小さく笑った。
「それはこっちのセリフよ」
言って、イサコは踵を返す。すたすたと綺麗な姿勢で歩いていくその後姿を呆然と眺めてから、ドアの閉まる音にはっと我に返ったフミエとヤサコがを見下ろすが、は手元にあるハンカチをじーっと眺めていた最中だった。
二人の視線に気づいたのか、が顔を上げる。丸っこい瞳がじーっと見上げてきて、フミエとヤサコは言いかけた口を閉ざした。
もしかしたら、自分よりも早くイサコと仲良くなるのではないだろうかと、ヤサコはの嬉しそうな顔を見て、そう思った。
2007/07/02