わたしはよく運動神経がいいって言われるけど、それはまったくもってゴカイだ。ゴカイなのである。なんでかってそりゃあ…。………そりゃあ……。
 …だって、泳げないもん。
「っぷはー!」
 ざばーって勢いよく水の中から顔を出す。顔の上を冷たい水が滴り落ちて気持ち悪い。両手で顔をごしごしこすって水を拭った後、前方を見据える。5メートル間隔で引かれている赤いラインが、2メートルくらい先に見えた。泣きそうになった。
「ブハー! おまえほんっとダメだなおよぐの!」
 プールサイドにいるクラスの男子のユースケ君に言われてうぐ、と唇をかんだ。ユースケ君は隣の席の子だ。そして同じ図書委員でもある。授業中はいっつも消しカス飛ばしてきたり、図書委員はいっつもサボるから、本当に悪い奴なのである。
 そんな典型的いじめっ子は大抵運動神経がいいもので(お姉ちゃん談)、水泳で泳げる順にABCクラスに分かれてる中で一番泳げるAクラスに所属している。ちなみにわたしは最高で4~5メートルしか泳げないからCクラス。
「ユースケうざいー!」
 Cクラスでよく使うゴムボール(水に沈めてそれを拾って遊ぶやつだ)をバケツの中から取り出してユースケ君に向かって投げるアキナちゃん(彼女もCクラスだ)はいつ見ても勇ましい。ぽかーんとゴムボールがユースケ君の後頭部にあたったが、生憎合同授業と言う事もあってか先生達は忙しそうに他の生徒に構っていてそれを見ていなかった。ユースケ君がぬぬぬ、とアキナちゃんをにらみつけるので、負けじとアキナちゃんもユースケ君をにらみつける。ふたりとも、本当に、仲悪いんだなあ。飛び込み台の傍に積み重なった真っ白いビート板から比較的綺麗なやつを一枚引き抜きつつ、わたしはぼんやりそれを眺めた。
 と、ぼーっとしてたらいきなりビート板を奪われた。びっくりしてそっちを見る。
「わっ!? ……あれ、ケン、ちゃん?」
 わたしがケンちゃんの名前を言い終わる前に、ケンちゃんはその場にしゃがみこんで水面に足を突き出し、わたしの傍に静かに降りた。波打っていた水面が今以上に激しく波打つ。
「ど、どーしたの!? ケンちゃんここCクラスだよ?」
 ケンちゃんは見た目の割には結構泳げる。水泳教室に行ってないのに、30メートルは軽く泳げるのだ。よってケンちゃんはAクラス。
「知ってる」
「じゃ、じゃあなんで?」
 あわわわわ、と意味もなく挙動不審者みたいにきょろきょろと辺りを見回す。見ればAクラスの子達が水深50メートルプールから25メートルのほうに移動してたり、みんなで積み重なって塔を作ったりしているような。
「Aクラス、みんな25メートル以上泳げるようになったからもう自由時間なんだ」
「えー!? 羨ましいなあ……。でも、なんでケンちゃんがCクラスに?」
「先生に頼まれた」
 ええって大声を上げたらアキナちゃんがびくって震えてこっちを見た。慌てて口をふさいでアキナちゃんにぺこりと頭を下げると、アキナちゃんはケンちゃんと私を見てからにんまり笑ってざぶんと水面にもぐってしまった。アキナちゃんの笑顔がやけにさむい。なんだろうこの嫌な感じ。
があまりにも泳げなさすぎて、もうお手上げだって」
 びっくりして先生を見る。先生もわたしの方を見ていたから視線がばちーんとかち合って、それから申し訳なさそうな顔を作って先生が視線をそらした。
 なんだか、とてつもないぜつぼうかんにおそわれたきがする。
「バタ足で6メートル泳げたらもういいって、先生いってたから」
 がんばろ? って首をかしげながらケンちゃんに言われる。そうされたら首を振る事なんてできなくて、わたしはかくんとうなだれながら小さく頷いた。


 まず浮く事を覚えようっていうケンちゃんの言うとおりに、水深25メートルのほうと50メートルのほうを仕切ってる柵に掴って、そのまま身体の力を抜いてみたのだけれど。なかなか浮かない。っていうか、なんだろう。すごくこわい。必死に“浮こう”って足をプールの底から離して努力してみるも、3秒もたたずに足が底についてしまう。
 それをじーっと見てたケンちゃんが、ぽつんと。
ってさ」
「うん?」
「海とか川でおぼれた事あるっけ?」
 言われて、わたしはあーと無意識に呟いてから、ケンちゃんから視線をずらしつつ小さく頷いた。
「いつ?」
「6歳のとき、おじーちゃんちのちかくの、川で」
「……何してたの?」
 ケンちゃんはこう、人の過去のふるきず(というのかなあ?)をえぐるのが好きなのだろうか。いや、きっとケンちゃんだから別に意味はないんだろうけど。
「たんぽぽの茎ってさ、4つに割いて水に浸すとくるくるになるでしょ?」
「うん。……え、まさか、」
「川辺でそれやってたら、ぐらーってなって、水にぽちゃんって落ちちゃって」
「……」
 “唖然”という言葉どおりのままな顔してわたしを凝視してくるケンちゃん。今にも「バカじゃないの?」って言われそうだし(でもよくよく考えたらケンちゃんって暴言は吐かないんだよなあ)、わたしのあほさ加減がものすごく恥ずかしくて水面をじーっと見てたら、唐突に、頭の上に手を置かれた。ぽむぽむ、と優しく何度か叩かれる。
「…怖かった?」
 やっぱりケンちゃんは優しいなあ、と思いながら小さく頷く。
「…よく、覚えてない。目、あけたら、びょーいんの、ベッド、だったし」
「………え゛」
 ケンちゃんの呆れ顔はもう慣れっこなので、別に何も思わなかった。ケンちゃんはちょっとだけうーんって考え込んでから、
「水、こわい?」
 って聞いてきた。
「うん、すこし」
「お風呂は?」
「お風呂はね、あったかいからこわくないの」
 そうだよなあ、ってケンちゃんがぽつりと呟く。それから暫く考え込むようなそぶりをしたあと、「えいっ」て言いながらいきなりわたしの顔に水をかけてきた。
「わっ! け、ケンちゃんのばかー! いきなりはずるい!」
 あわててごしごしと顔をこする。思う存分顔をこすった後、ケンちゃんをじーっとねめつけると、ケンちゃんは小さく謝ってから、ぼそっと、「やっぱり」って呟いた。えーと、何が、やっぱりなんだろう?
さ、」
「ひぇ!?」
「顔に水かかると、怖いんじゃない?」
 ぅええっ?! って大声で叫んでしまったせいでCクラスのみんなはおろかBクラスの人たちの注目の的みたいなものになってしまって、わたしは慌ててぺこぺこ頭を下げた。しかしケンちゃんは我関せずというか、唯我独尊というか、何も気にせずに話を続ける。
「やっぱりそうなんだ。だったら泳げるわけないよ」
 きっぱりそう言われて、なんだかぐさって心に何か刺さった気がした。でも、顔に水がつくと怖いっていう自覚は昔からあったし、それを誰にも悟られないようひたすらに隠してきたから、だから泳げるわけないじゃないかと胸の痛みを堪えつつケンちゃんの話を聞き続けた。…ていうかケンちゃん、よくわたしの弱点を見抜けたなあ。
「じゃあ浮くのは次にまわそう。まずは水になれないと」
「? どうするの?」
「水面に顔つけて我慢するしかない」
 ありきたりすぎて思わずうげーってなると、ケンちゃんがもうしわけなさそうに苦笑した。そんな顔されるとこっちが逆にもうしわけなくなってしまう。大きく息を吸って、ふうと吐いてから水面を見た。ゆらゆら揺れる水面に、死んだ羽虫が一匹浮いている。かわいそうだなあと思いつつ、わざと波を立てるように水面を手ではらって虫を遠くのほうへやった。
「な、何秒くらいできればいいの?」
「30秒くらいかなあ」
「む、むりだよお…」
 泣きそうになるのを堪えるために下唇を噛むと、またぽむぽむと頭を叩かれた。
「大丈夫だよなら。あんなに運動神経いいんだし」
「それは水中じゃなくて陸上でのはなしだもん」
 ぐちぐち言いながらむう、とケンちゃんを見上げると、ケンちゃんは意外にも笑っていた。おっとりした感じで笑うその顔を見ると、どうしても文句とか言えなくなってしまう。まるで魔力だ。たちのわるい洗脳だ。ケンちゃんにはどうにも敵いそうにない。
 むーっと水面を見つめる。ゆらゆらゆれる水面の先に、自分の足が見える。
「ケンちゃん」
「なに?」
「じかん、ちゃんと、かぞえててね」
 わかってるよ、ってケンちゃんは苦笑する。水面とにらめっこしてても仕方ないんだって自分に言い聞かせて、思いっきり息を吸った。肺にいっぱい空気を溜め込むようなイメージを頭の中で想像したまま、ちゃぷんって顔を水につける。
 なんていうか、心の奥底からわきあがる、つめたい水に対する嫌悪感を必死にこらえる。気持ち悪いなーって思いながら、うっすら目を開ける。
 ゆらゆらーっとゆれる水のむこうがわ、にんまりと笑うフミエちゃんがいた。
「ふっ、フミエちゃん!?」
 水面から顔を離して飛びのいた瞬間、フミエちゃんが魚雷のようなスピードで水中から飛び出してくる。多分、一瞬でもおくれてたら、顔面をフミエちゃんの頭で強打していたと思う。想像して怖くなって、わたしは慌ててケンちゃんの後ろに隠れた。フミエちゃんといえば、にやにやと笑いながら一歩ぶん近づいてくる。
「話は聞いたわよー? 泳げないのためにアタシが手取り足取り教えてあげるわっ」
 獲物を前にした肉食動物みたいにギラギラ瞳を輝かせるフミエちゃんを見て、何故か背筋に物凄い悪寒が走った。ケンちゃんもわたしとおんなじように何かアブナイものを感じたらしくて、わたしを背中にかばったまま一歩後退する。
「や、やだ! フミエちゃんは絶対やだー!」
 叫ぶと、フミエちゃんは眉と眉の間にしわを寄せる。
「何よう、そんなに嫌がる事ないじゃない! ふっ…今こそ積年の恨みを晴らしてやるわ!」
 せっ、…積年の恨みって、わたしフミエちゃんに何かしたっけ!? って思ってたことが顔に出てたらしく、フミエちゃんは目をいっそうギラギラさせてまた一歩近づいてきた。
「何? 忘れたって言うの!? 3ヶ月前、あんた「おうちに帰ってから食べる」って残してた青リンゴゼリー、あたしにくれなかったじゃない!」
「えええ!? それ理不尽すぎるよ!」
 言った瞬間、緑色のゴムボールがわたしめがけて飛んできた。ケンちゃんと二人して、慌ててしゃがんでそれをよける。
「フミエっ、少し落ち着けよ!」
 ケンちゃんがそういうけど、フミエちゃんは聞く耳持たずだ。いつのまにやらゴムボールの入ったバケツを小脇に抱えている。フミエちゃんがゆーっくりした動作でバケツの中から赤いゴムボールを一個手にして、投げる構えを取った。
 なんていうか、ものすごく、怖い。ケンちゃんの手をぎゅーっと握ったそのすぐあとに、ケンちゃんがぎゅーって握り返してきた。やっぱりケンちゃんも怖いんだなあ、なんて場にそぐわない事を考えてみても、今の状況は変わらないわけで。まさに絶体絶命だ。
「こーら! 何やってんの」
 ばこーん、とフミエちゃんの頭にビート板が振り下ろされる。そのビート板の持ち主は、まぎれもなく、生物部の影のまとめ役のアイコちゃんだった。びっくりして固まってるフミエちゃんから、ヤサコちゃんがバケツをひったくる。なんだか二人がものすごく勇ましく見えた。
「とっ、とめるなああ」
 と、ばたばた騒ぎ出すフミエちゃんをずるずる引きずっていくアイコちゃん。すごいなあとそれをぼんやり見送ってると、ヤサコちゃんがちっちゃく笑ってバケツを抱えたままこっちにやってくる。
「二人とも大丈夫? って、見た感じ大丈夫よねえ」
 言いながら、ヤサコちゃんは飛び込み台の傍にバケツをちょこんと置いた。ケンちゃんはうーんとちょっとだけ考え込んでから。
「フミエ、なんかあったの?」
 って言った。やっぱりケンちゃんの観察力はそうとうなものだ。
「ハラケン鋭い! さっきねー、ダイチ君とフミエちゃんで息継ぎなしのバタ足競争することになって、フミエちゃん負けちゃったのよー」
 しかも1メートル差で。ってけたけた笑いながら言うヤサコちゃん。だからあんなに機嫌悪かったんだ。ふむう、と頷くわたしをヤサコちゃんはにんまり見てから、ケンちゃんを見てまたにんまり笑う。アキナちゃんと似たような笑顔を浮かべるから、またもや嫌な予感が駆け巡る。
「それじゃ、がんばってねちゃん」
 言い終わってからまたにんまりと(むしろにやりに近い)、妙にひっかかる笑顔を残して、すいーっと泳いで行ってしまうヤサコちゃん。なんだかなあと思いつつケンちゃんを見上げると、ケンちゃんも戸惑ったようにわたしを見下ろしてきた。
 瞬きせずにじーっと見てると、ケンちゃんの顔がじわじわ赤くなる。ケンちゃんが顔をそらしたと同時、手のひらの圧迫感がなくなる。
 そういえばまだ、手、つないだままだった、なあ。
「あ、…ご、ごめんね」
 ゆっくり手を離すと、何故かまた握られた。…何がしたいんだろケンちゃんは。

2007/09/02

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