今日は金曜日。天候は晴れ。だけど彼の気分はそれに反して雪でも降りそうな勢いだった。
身体がだるい。だるくてしょうがないのである。いや、いつも体はだるいのだけれどそれ以上に身体がだるいのである。ベッドから出るのに1分かかってしまったほど全身が重たい。まるで何か怖いものに取りつかれてしまったようだ、と彼は無意識にオバちゃんの顔を思い浮かべる。
ちょっとだけ顔をしかめてから、とりあえず、と彼は勉強机に置いてあるメガネを手に取りそれをかけ、パジャマのまま部屋を出た。壁伝いによちよちといったリズムで歩き、よたよたとおぼつかない足取りで階段をおりる。リビングのドアを開けると、新聞を読んでいた父親と目があった。父親はコーヒーを飲もうとしていた最中だったらしく片手にティーカップを持ったまま静止している。
「…おはよう」
ぼそぼそと彼は呟いて、食卓においての自分の定位置、父の向かい側によろよろと座りこんだ。頭がぼーっとして、視界がゆらゆら揺れる。どうにもおかしい。メガネの不調ではないかとメガネを取って目を擦るが、あまり変わらないどころか靄がかってしまった。仕方ないのでまたメガネをかけ、テレビを見ながら何度か瞬きしていると、向かいの父親が静かに新聞を畳み始めた。視線をそっちに向けると、父親が静かに席を立ち、そのままの体勢で額に手を押しあててきた。やたら冷たくて彼は思わず目を細める。
「母さん」
「ん? なぁに?」
「体温計、どこにしまってたっけ?」
「体温計ー? えーと、ちょっと待ってね。というかあなた、熱でもあるの?」
出社拒否とかいやよーそんなのーと笑い交じりに言いながらキッチンから母親が出てくる。食卓の二人の体制を見ると首をかしげ、ぱたぱたとスリッパの音をたてて小走りで我が息子のほうへと近寄り肩を掴んだ。ぐいっと、体ごと母親のの方へと向かされた彼は眠たげな眼を見開かせる。
「あら、あらあら!」
慌てているんだか慌てていないんだかよくわからない声をあげて、母親はテレビのそばにある小さな本棚の上に置かれた救急箱を持ってきた。テーブルの上に置いて蓋を開け、がさごそと中身をあさり、電子体温計を取り出す。それをすぐさま彼に渡した。彼はぼーっとした頭の中で、体温をはかればいいのかと、パジャマの中、脇の下に体温計を突っ込む。
両親が見守る中、数分すると、ぴーぴーぴーとアラームがなった。取り出してみる。
38度2分だった。
「あら」「うわ」
ぴったり両親の声が重なった。
もしかして風邪でも引いたのだろうか。彼が体温計を見ながらぼーっと考えていると、彼は無理やり父親に椅子から立たされ、背中を押されてリビングから追い出された。父親に背中を押され階段を上り、自室に戻り、無理やりといった感じで父親にベッドにもぐりこまされてしまう。
「今日は休みなさい」
ぽんぽんと、数回頭を撫でられる。
「ちょ、まって父さん」
冗談じゃない、といった感じで彼は体を起こした。
「と待ち合わせしてるんだってば」
言いながら、にこにこ笑うと指切りをしたことを鮮明に思い出す。そう。そうなのだ。よくわからないけど昨日成り行きで、久しぶりに――とはいっても3日ぶりなのだが――一緒に学校に行こうってことになったのだ。なのになんで今日に限って時季外れの風邪なんか…。
「…ああ、大崎さんとこの? 今あの子のおうちに連絡しておくよ」
そう言って父親は部屋から出て行ってしまった。
うわあああ、と彼は頭を抱え、それから熱でぼーっとする頭で必死に考える。
結果。ごめん熱出て休むことになった、と一言、それだけの文章をにメールで送った。
* * *
しばらく布団にくるまって何もせず、からの返事を待っていると、控え目に部屋のドアが開いた。小さなお盆を持った母親が静かに入ってくる。勉強机の上にお盆をおいて、水の入ったコップと粉末の風邪薬を持ち、息子に差し出す。
「薬持ってきたから、飲みなさい」
金色の包装をぴりりと破き、薬を彼に差し出す。黄色の粉末を見ながら、彼は盛大に溜息を吐いてそれを口に入れた。彼は顔をしかめる。
…正直、この薬は嫌いだ。苦すぎるから。
口に広がるひどい味から逃れたいがために、ひったくるように母親からコップを受け取り水を口の中に流し込む。苦味が喉の奥にすべて流れ込むと、舌の先にほんのり甘味がひろがってきた。風邪薬のあまりの苦さに、普通の水が甘く感じるほど舌が麻痺しているのだと思う。ただの水がおいしく感じられるこの瞬間は別に嫌いではない。
「ごめんね、何か食べたかったら、冷蔵庫にコーヒーゼリー入ってるから」
え、お粥は? という彼の問いも虚しく母親はごめんねえ、と苦笑してお盆にコップを乗せる。
「帰りにプリン買ってきてあげるから。ゼリーの方がいい?」
いやいや穀物らしい穀物が食べたいんだけど。と彼は口をぱくぱくさせるが、にこにこと、有無を言わせないような母親の顔にうーあーと言い渋ってから。
「…プリンで」
言うと、母親は満足そうに頷いて、お盆を持って部屋を出て行った。
また負けた、と彼は自らの情けなさに耐えきれなくなり、泣く泣く布団にもぐるのだった。
声が、聞こえた。――ような気がした。
優しい、静かにこぼれおちるような、やわらかな、慈しむような声。僕には一生そんな声は出せまい、とハラケンはうーんと唸って寝返りを打ち、声から逃げるように布団をかぶる。
すると、ひんやりと冷たいモノが、首筋にそっと触れた。
「うひゃっ」
知らず声が漏れて、慌てて口を両手でふさぐ。一体何なんだ、と体を起こして、さも不機嫌そうな顔で部屋を見回すと。
「わっ、ごめん!」
濡れタオルを持って両手を上げるがいた。銃を向けられた時みたいに手を挙げたままびくりともしないとじーっと視線を合わせ、先に行動を起こしたのはハラケンのほうだった。彼はうわあああ!?と叫んで後ずさる。
いや、いや、なんだこれは。ありえないだろ、と混乱した頭をなんとか働かせようと躍起になる。
「ま、まって。え、何これ、え? 夢?」
頭を抱えてハラケンがうーんと唸ると、がぽかんとした顔をちょっと崩して、くすくす笑い始めた。何がおかしいんだ、とハラケンが眉を寄せると、は口元を片手でおさえながら、ハラケンに向けてごめんねと呟いた。
「寝惚けてるケンちゃんが面白くてつい…」
へらっと楽しそうに笑うを見て、ハラケンは一瞬ぽかんとした表情をしたのち、一層眉をよせて顔をしかめた。寝起きを見て笑われるのは正直不愉快である、といわんばかりに。
「うわあ、ごめんってばあ!」
がタオルを放り投げて慌てて謝ってくる姿がおかしかったのか、ハラケンはすぐに小さく吹きだした。幼馴染の機嫌を損ねていないことに安堵したのか、はふうと一息ついてから、ちょっとだけ心配そうに彼を見つめてくる。
「ケンちゃん、熱だいじょーぶ?」
言われて、ハラケンはあっと声をあげた。そうだそういえば僕は風邪ひいて熱があったんだ、と今更のように思い出す。朝より頭はぼーっとはしないが、それでもやはり、体はいつもよりだるい。体温計はどこだろう、と机の上に視線を向ける寸前。
「あ、これ、体温計」
から当たり前のように体温計を手渡しされた。
「あ、ありがと…う」
受け取って、それをパジャマの中に突っ込んで一息ついてから。ふと唐突に、ふつふつと疑問が湧いてきた。
今は何時だ? 時計を見る。10時13分だった。カレンダーを見る。2025年もとい平成37年、10月24日、ちなみに平日だ。休日でもなんでもない出校日だというのに、なぜ、がこの家にいるんだろうか?
「ちょ、ちょっとまって」
「ん? なに?」
「学校は!? 学校どーしたの!?」
ぎくり、との身体がこわばる。それを見て、ハラケンはどうしようもない不安に煽られた。いやそんな、たかがこんなことで、が学校を休むわけが…。ともんもん考えていると。
「ごめんなさい」
何故か謝られてしまった。
「ご…ごめんなさいって……そ、そういう問題じゃないだろ? れ、連絡は? 学校に連絡したの?」
「お、お兄ちゃんがしてくれた」
甘やかすんじゃねえよあのシスコン、と呟きそうになったが、ひっそり心の中にとどめておく。
「じゃあ、は今日、休み…?」
「うん、えと、そうなる、ね…」
えへへ、と場を和ませようと小さく笑う。だが悲しきかな、ハラケンにそんなものは通用しないのであった。
「馬鹿っ、何考えてるんだよ!」
「だ、だってケンちゃんが心配で…」
「だからって学校休む必要はないだろ! 馬鹿だよほんと!」
彼が言い終ると、部屋中がしーんと静まりかえる。それでやっと、ハラケンは自分が珍しく大声をあげたことに気がついた。慌てての顔を窺うが、さっきまでにこにこしていたはどこへいってしまったのか、ものすごくしょんぼりしてしまっている。言い過ぎたかなあと思う反面、ここまでしないとサボり癖がついてしまうし、たかがこんなことで休まれたらこっちにとばっちりが来るじゃないか、とハラケンが内心あたふたと自己弁護みたいなことをしていると。
「ごめんなさい。ケンちゃんが心配だったから……つい出来心だったんです」
そう言われてしまった。最後の方がなんか犯人の自供みたいだなあとは思ったがつっこむこともできず、彼は未だに落ち込んだままのを見てから、もぞもぞと布団の中にもぐりこんで、寝っ転がったままの方に近寄った。
「…ごめん、いいすぎた」
手をのばして、ぽんぽんと二回、の頭を撫でる。するとはおずおずと顔をあげてから、伺うようにまっすぐ彼を見つめる。
熱が出た友達のために、学校を休むことなんて、きっと、にしかできない。はそういう、何もかもを省みない無鉄砲な優しさを持っている。今みたいにちょっと理解しがたい突飛な行動を取ったりすることもあるけど、そういうところに何度も救われているのはまぎれもない事実であり、実際、今もちょっとだけうれしいなあと感じてしまっているわけで。
照れくさかったけど何度も頭を撫でていると、が戸惑う様に視線をあちこちに移してから、ぽつりと一言。
「お、怒ってない?」
聞かれて、彼は頭を撫でている手を止めた。
「……まあ、怒ってると言うより、ちょっとは、呆れてるけど」
すると、はいつものようにえへへと笑ってくれた。
ぴーぴーぴー。アラームの音が響いて、ハラケンはきょとんとした顔で脇の下から体温計を引っこ抜いた。が覗き込むようにしてくるので、一緒になって文字盤を見る。
38度5分だった。
「…わー! ケンちゃん! 寝てなきゃ駄目だよ!」
あたふたばたばたしながら慌て始める彼方を見て、さっきの淑やかさはどこへいっちゃったんだろう、とハラケンは額に濡れタオルを乗せられながら小さくため息を吐いた。
かちこち、かちこち、壁にかかった時計の音で目を覚ました。
いつの間にか寝てたらしい。身体を起こすと、布団の上にぽとりとタオルが落ちた。それを手に取ろうとしてふと、右手に違和感を感じた。まるで何かにつかまれているかのように固定されている。ハラケンは疲れたように小さくため息を吐いた。
が右手を掴んだまま、床に座ってベッドに寄りかかって寝息を立てていた。すーすーと規則正しい呼吸に合わせて、小さな肩が上下に揺れる。壁にかかった時計を見ればちょうど1時だった。仕方なく布団に入って寝返りを打ち、の方を向く。物音で起きるかと思ったが、案外人はそう起きないものらしい。
自由な左手で、のほっぺたをつまんでみる。ふにふに柔らかいそれを引っ張ると、がちょっとだけ顔をしかめた。笑いそうになるのを堪えて、今度は鼻をつまんでみる。は少しだけ苦しそうに眉を寄せてからぷはっと口呼吸しはじめた。
それから起きることなく、すーすーと規則正しい呼吸をつづける。ちょっとつまらないなと思いつつ、仕方なしに何度か彼女の頭を撫でて、左手をの手に重ねる。
身体を丸めて目を閉じ、の手に自分のほっぺたをすりよせた。の手はひんやり冷たくて、気持ち良かった。
――そういえば。
昔、が熱を出してしまったとき。
休日だからとカンナと二人で押しかけたことがあったような、なかったような。
その時、はカンナと僕の手を握り締めて、ぐーっと寝入ってしまっていた。
今の僕の状況はまさに、その時のとそっくりじゃないか。病気の時、誰かが傍にいると安心するって言うのは本当らしい。熱を出して休んでも、両親は仕事に出てしまって、誰もそばにいないのが当たり前だったのに。
さみしいなあとか思わず眠れるのは、ちょっとうれしいかもしれない。
2008/02/02
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