放課後の話。
 フミエちゃんとダイチくんが些細なことで喧嘩をし始めて、生物部のわたしは半ば巻き込まれるように強制的に彼らと争わなければならなくなった。
 ヤサコちゃんもケンちゃんもデンパくんもナメッチくんもガチャギリくんも最初は呆れ気味だったんだけど、フミエちゃんとダイチくんのメガネビームの流れ弾に当たって熱が入ってしまったようで、もはや戦争状態。
 そんな中、わたしはみんなから逃げてる途中、廊下の真ん中で躓いて転んで、メガネを落として、
 ダイチくんに、メガネをとられた。
「か、かえしてよー!」
「返せといわれて返す馬鹿がいるかよーっ!」
 そして現在。わたしは半泣き状態でひたすらダイチくんを追いかけている。
 メガネをかけていないので電脳世界がどうなっているのかわたしにはわからないし、電脳体が更新されないのでたぶんデータの受信はされていない、はずだ。けれどもその状態でメガネにビームを浴びせられたら、修理代のせいでお父さんとお母さんに怒られる。居間に正座させられてガミガミ怒られるのを想像すると、身体の震えが止まらない。最近はメガネの関係で問題があったばかりだし、もしかしたらメガネ一週間禁止令が出るかもしれない。そんなの嫌だ。
 廊下の突き当たりの曲がり角に差し掛かり、全速力で走っていたダイチくんはこけそうになりながら先へ行ってしまう。わたしは転ばないように速度を緩めながら曲がり角に差し掛かった瞬間。
 目の前に人影が。
「っ!」
 ぶつかると思った瞬間にはもう相手にぶつかっていた。突進するような形になってしまい、相手がバランスをくずす。
 衝撃が体を襲った。ゴン、と嫌な音が上のほうから聞こえる。けれども私の頭は痛くない。視界いっぱいに広がる淡い黄緑色に吃驚して、慌てて顔をあげると男の子が廊下に寝転がったまま後頭部を抑えているのが見えた。
 男の子の格好はわたしと違って、見慣れた制服を見にまとっている。第一小の子だ。
「…いってぇ」
 これは明らかに怒っている言い方だ。けれども怒るのも無理ないと思う。いきなりぶつかって転ばせてしまったのだし、悪いのはわたしのほうだ。
「ご、ごめんなさい。怪我してないですか?」
「してねえよ」
 男の子が私を見る目はすごく不満そうだ。眉間に皺を寄せていて尚更それが怖い。視線をそらして、ふと疑問に思った。そういえばダイチくんはどこに行ったんだろう。顔をあげると、廊下の奥に、ダイチくんが立っていた。わたしと目が合うなり、わたしのメガネを見せびらかすようにぶんぶん振って、べろべろばーっとからかうようにあっかんべーをする。それからばたばたと大きな足音を立てて、近くの階段を降りていってしまった。
「あっ…」
 思わず呟いてしまう。なんかもう、怒りを通り越して、すごく悲しくなった。
 男の子を見下ろす。相変わらずむすっとしている。
「おい」
 声をかけられてびくっとすると、男の子がさらに眉間に皺を寄せた。
「いい加減、どけって」
 言われて、意味がよく分からなくて首をかしげると男の子が舌打ちをした。
「はやくどけっての!」
 吃驚して自分の体を見下ろした。息を呑む。転んだ拍子でそうなってしまったのか、わたしは男の子の上にのしかかっていた。
 この状況が“恥ずかしい事”だってのは、馬鹿なわたしでもわかる。
「ごっごごごごめんなさいっ!!」
 顔が熱い。慌てて退くと、男の子は身体を起こして溜息をついた。後頭部をさすりながら、そばに落ちている帽子を拾って頭にかぶる。それからすっと立ち上がるので、廊下に座り込んでたわたしもつられて立ち上がった。
 のだけれど。
「…いっ」
 右足に体重を乗せると、ビリッと痛みが走った。よろけた拍子に壁に手をついて堪えた。今の痛みが信じられなくて、恐る恐る右足を見下ろす。右足に体重を乗せると、やっぱりビリッと痛んだ。まるで自分の足じゃないみたいだ。
「――?」
 男の子が不審そうに首をかしげるので、慌てて笑顔を取り繕った。けれども内心はかなり焦っているし、心臓はさっきからバクバクしてて、冷や汗が頬を伝うのが分かる。ごくんと生唾を飲み込んで、壁に手をつきながら左足に重心をおくと、恐る恐るといった感じだけれどなんとか立てた。
 男の子を見れば、やっぱり不審そうにわたしを見ている。誤魔化すように笑うと、男の子がわたしの足を見下ろした。それからわたしを伺うように見て左足をあげ、わたしの右足めがけて回し蹴りの動きに入った。
 びくっと身をすくめる。が、痛みはこない。けれどもその後足をこつんとつま先でつつかれて、「ひっ」と声を出してしまった。
「捻ったのか?」
 男の子が聞いてくるから、わたしは自分があんな事で怪我した事を信じたくなくて慌てて首を振ってしまった。けれどそのすぐ後で素直に頷いておけばよかったと後悔した。なぜなら男の子が「ふーん」と呟いて、口元を緩めたからだ。その顔はまさにいじめっ子のそれだ。
 蛇に睨まれたかえるみたいにびくびくしながら、男の子が次にどうでてくるのか伺っていると、しばらくして男の子が呆れたような顔をした。
「捻ったんだろ」
 決め付けるような言い方にむっとしたけれど、怪我をしたのは事実なので、なんだか自分が惨めだなあと思いながらも俯きがちに頷いた。なんでこうもわたしはドジなんだろう。上級生だっていうのに今日二回も学校の中で転んだし、その片方はメガネを落とすくらい派手に転んで、もう片方は男の子を巻き込むくらい派手に転んで怪我をして。そう考えると無性に悲しい。
「歩けるのか?」
 尋ねられたので、左足を前に出して一歩ぶん男の子に近づいた。
「足、引きずってるぞ」
 突っ込まれた。でもそうしないと痛くて歩けないのだ。悔しくて悲しくて口を引き結ぶと、男の子が仕方なさそうにわたしの横に並んだ。
「保健室まで肩貸す」
 男の子はぶっきらぼうに言いながら、わたしの返事を聞かずにわたしの右手を取って自分の肩にまわした。びっくりして息を呑む。近くにある男の子の顔をまじまじと見ると、男の子が怪訝そうにわたしを見てきた。
「なんだよ」
 怒ったように言われて、「なんでもない」と慌てて首を振った。




 保健室になんとかたどり着いて先生に右足を見せるなり、すぐに氷で冷やされて、湿布を張られて、ぐるぐると包帯を巻かれた。そんなに酷くはないと先生は言っていたけれど、これじゃ明らかに重病人みたいだ。たかが捻挫だっていうのに大げさな気がする。
 さすがにすぐには動けなくて、保健室のソファに座って、申し訳ないけどテーブルの上に右足を乗せながら、特別にコップに冷たい麦茶をもらって飲んだ。隣で男の子も麦茶を飲んでいる。男の子はわたしを保健室に届けたらすぐに帰ってしまうのかと思っていたが、意外にも手当てしてもらっている間、ずっとそばに立っていた。今だってもう帰ってもいいのに、まだここに居座っている。男の子がそういうお人よしだとは全く思えなかったから、すごく意外だ。
 そういえば、お礼を言っていなかった。
「あの」
 テーブルをはさんだ向かい側に座っている男の子に声をかけると、男の子が横目でわたしをみた。
「ありがとう」
 ぺこっと頭を下げると、男の子は視線を元へ戻した。わたしもわたしでなんだか居心地が妙に悪いというかむずがゆくて、保険の先生のほうを見る。先生はひたすらパソコンのキーボードをかたかた打っている。大変そうだ。
 しばらくすると、スピーカーから保険の先生を呼ぶ声が聞こえた。先生がわたしたちに声をかけて、それから保健室を出て行ってしまう。しーんと静まり返る保健室の中、とうとう息苦しくなってきて、麦茶ももうすこしでなくなりそうなので全部飲んでしまおうとコップを口につけて傾けた瞬間。
「あのさ」
 声をかけられた。身体がビクッと跳ねる。
「お前、もしかしなくても、いじめられてるのか?」
 口に含んでいたお茶を噴出しかけ、それをあわてて飲み込んだせいで、むせた。思う存分咳き込みながら首を振ると、「そうかあ?」って男の子が聞いてくる。また首を振ると、男の子は不満そうにわたしを見るので、わたしは口を開いた。
「ちが、いじめられてるんじゃなくて、その、友達どうしの喧嘩に巻き込まれちゃって」
「巻き込まれただけでメガネ取られるのかよ」
 反論できない。確かにあの状況は傍から見ればいじめに見えなくもない気がする。
「と、とにかく、いじめられてるんじゃないのっ!」
 半ば叫ぶように言うと、男の子は面食らったような顔をしてから、納得いかなそうな顔をしつつも、不承不承と言った感じで「そうか」と言ってくれた。
「取られたメガネはどうすんだ?」
「い、今から取り返す」
 ぐっと手を握って、自分に言い聞かせるように呟くと、男の子がはっと鼻で笑った。
「その足で」
 またもや反論できない。うっとつまると、男の子が呆れたようにわたしを見てくる。
「…だ、大丈夫だもん、できるもん」
 とは言うけれど、正直取り返せる自信がない。このまま明日に持ち越すことを考えると憂鬱になる。お茶がなくなった空っぽのコップを握り締めて、うーっと内心唸っていると。
ー!」
 叫び声とともにドアがノックされた。どかどかとフミエちゃんが入ってくる。
 その後ろに続いて、ヤサコちゃんとケンちゃんも。
「ふ、フミエちゃん、はやいよう」
 ヤサコちゃんがぜえはあしながら呟いた。なるほど、みんな走ってきたらしい。
「怪我したって聞いたけど…って」
 フミエちゃんはぽかんと口を開けて男の子を凝視した。対する男の子はゲッ、と呟いて引き気味になっている。
「あ…ああああーーっ!!」
 フミエちゃんは男の子を指さしながら、耳を劈くような大音量の叫び声を上げた。いきなりの事だったから、みんなびくっと身体を震わせた。
「あ、あ、あんた、…このっ、あんたー!」
 ぷるぷる震えながらフミエちゃんが喚く。なんだかうまく言葉を発していないフミエちゃんと、ばつが悪そうな顔をしている男の子を見比べて、
「おともだち?」
 首をかしげて見せると、フミエちゃんが、
「ちがーう!」
 右手をぐっと握って叫んだ。フミエちゃんの顔が鬼のようになっている。怖い。フミエちゃんはあからさまに舌打ちをしながらじろじろ男の子を見ながらわたしの方に近寄ってきて、すっと左手を差し出してきた。そこには見覚えのあるメガネが乗ってる。
「ほら、取り返してきたわよ」
 思わずぽかんとしてしまった。
「…何よその顔」
「な、なんでもない! ありがとうフミエちゃん!」
 頭を下げてメガネを受け取った。さっそくかけてログインしてみる。故障とかはしていないみたいだ。
「ちょ、ちょっとちゃん、足どうしたの?」
 ヤサコちゃんが目を丸くして、ぱたぱたとこっちに近づいてきた。
「あ、えと、ちょっと捻っちゃって。大したことないよ」
「ちょっと捻っちゃった、って…」
 ヤサコちゃんが呆れたように言う。そのそばでフミエちゃんが腕組をしてきっと目の前の男の子をにらんだ。フミエちゃんの形相に男の子が怯んで、びくっと震えた。
「…何? アンタがやったの?」
「ちげーよ!」
 慌てて男の子が言い返した。
「違うのフミエちゃん、その、怪我したのはわたしが転んだせいで…」
 このままじゃ男の子の方が言い負かされそうなので、状況説明すべくわたしが言えば。
「…転ばされたの?」
「ち、違うよー! ちゃんと話きいてよー!」
 というわけで、たっぷり時間をかけて、順を追って説明してみると。
「あの野郎ーーー!!」
 ケンちゃんとヤサコちゃんを連れて保健室を出て行ってしまった。
 取り残されたわたしと男の子は、ぽかんと3人の後姿を見送って、顔を見合せてほっと胸をなでおろした。なんというか、同じ修羅場を潜り抜けた同士といった感じだ。へへ、と苦笑してみると、男の子もなんだかぎこちなく笑い返してくれた。
「…じゃあ、俺、帰るから」
「あ、うん」
 男の子がソファから立ち上がるので、テーブルの上にのせてた右足を戻してわたしも立ち上がろうとすると。
「座ってろって」
 身を乗り出して肩をやんわり押された。お言葉に甘えて座ることにする。
「えと、今日は、ほんとにありがとうございました」
「いいって」
 頭を下げると、男の子が遠慮するみたいにぱたぱたと手を振った。
「それじゃあな」
「うん、さよなら」
 ばいばい、と手を振ると、
「もう転ぶなよ」
 言いながら手を振り返して、男の子は保健室から出て行ってしまった。
 保健室が、一気に静まりかえる。とりあえず右足をテーブルの上にのせてぼーっと時計を眺めている最中、ふと名前を聞き忘れたことに気がついた。

2009/01/04