都会という分類に入るだろう高倉市だが、山と海に囲まれているため、冬が近づけば尋常じゃない程に寒くなる。たとえ昼は暖かくても、夕方になると海風のせいで寒くなるのだ。
11月の終わり間近。白く濁る息で指先を温めながら、は路地裏の駐輪スペースに立ち、道行く人を見つめていた。仕事帰りのサラリーマンが、OLが、そそくさと足早に通り過ぎていく。無条件に安心できる我が家に帰りたいのだろう。けれども高倉市にはもう安全な場所はないとは考える。
最近、高倉市はおかしい。
あちらそちらのビルが爆発して死傷者が出た、なんてニュースが毎日お茶の間を駆け抜けている。5年前のようなテロが再来するのではないかと、の学校じゃもっぱら噂になっている。“疎開”という言葉もよく聞くようになった。
――疎開なんて、戦時中のものだけだと思っていたのに。
5年前のテロのときもあまりにも日常離れした光景に思わず目を疑ったものだ。あの時はまだ中学生で、テロが起きたあの近辺には同じ中学に通う人も住んでいた。確かクラスメイトもいたはずだ。名前はなんだっただろうかと考えるが、寒すぎて考えるのすら億劫になる。
はかじかむ指先をカーディガンの裾でくるむようにして温めながら、向こうの通りの人の流れをぼんやり見つめていると、その中から小さな人影が小走りでこちらに向かってくるのが見えた。は最初寒すぎて幻覚を見たのかと思った。彼は基本自己中心的であり、たとえ待ち合わせの時間に遅れても走ってくるようなタイプではないからだ。
しかし、の目の前で立ち止まる姿は、伊沢萩その人であり。
「……1時間」
は呟きながら、目つきの悪いチビッ子伊沢をこれでもかと睨む。睨まれた伊沢は珍しくばつが悪そうな顔になった。
「1時間も、待たされたんですけど」
「……悪い」
「待たされたんですけど!」
「だから、悪いつってんだろ!」
の怒声につられて、伊沢の声も自然と大きくなる。
「悪い、じゃなくて、ごめんなさいでしょー!? てゆーか、逆ギレすんな!」
言うなりは肩に提げていたカバンを手に持ち、伊沢に向けてフルスイングさせた。しかしペンケースとプリントと文庫本そのほかもろもろくらいしか入ってないカバンは、片手でいとも簡単に容易く受け止められてしまう。だがはさして気にした様子なく言葉をまくしたてる。
「時は金なりって言葉知ってますか!? わたしの1時間はいくらすると思ってんの!」
「金払う価値もねえだろ。つーか、俺だって忙しいんだよ」
「アンタの忙しいは信用ならんわ!」
「……ったく、テメエはいちいちウゼェんだよ。さっさと本題に入れ。そして死ね」
伊沢の「死ね」という発言は初対面の人は思わず驚くだろう。だが伊沢にとって「死ね」とはいわば挨拶であり、一般人に例えると、おはようございますとか、こんにちはとか、今日は天気がいいですね、という感じの意味合いなので、決して気にしてはいけないのだ。――これはいわゆる“現実逃避”とかいうやつでは断じてない。
なのではケッと呟きながら、「お前が死ね」と静かに返してやる。すると伊沢が眉間に皺を寄せた。をきつく睨みつける。
伊沢の特技は人を睨み殺すことである。
「……すみませんでした、もうしません」
「そうやって謝んの何度目だよ……」
瞬時に立場が逆転した。しょんぼりと頭を垂れるの姿を見上げて、伊沢が呆れた風に声を漏らす。
「で? 早く要件言えよ」
ここでじゃれあっても埒が明かないので、伊沢が面倒臭そうにに話を促すと、さっきまでへこたれていたは「あ、そうだった」と呟いてカバンをあさり始めた。この転換の早さにはさすがの伊沢も呆れを通り越して若干羨ましささえ感じてしまう。
「えーっとね、出席日数がやばいから、面談のお知らせだって」
クリアファイルからひらりと1枚のプリントを取り出し伊沢に差し出す。「個人面談のお知らせ」と題されたそれを受取ろうともせず、伊沢はプリントの文面を眺めてから、やや思案げな表情になり。
「……こっから5分くらい歩いたとこに、でけー公園あんだろ?」
伊沢が通りのほうを顎で示すので、はつられてそちらに目をやった。確かにこのまま真っすぐ歩いていけば、市内のなかで唯一緑の多い公園にたどり着く。
「それ、そこのゴミ箱に捨ててこい」
「アホかーっ!」
が伊沢の胸にプリントを押しつけるついで、冗談交じりに空いた片手で伊沢の首をつかむ。そんな笑顔のとは裏腹に、伊沢は自分の首にひやりとしたものを感じて表情を強張らせた。の冷たい手との温度差に息を呑み、次の瞬間には「冷てぇっ!」と短い悲鳴をあげて、慌ててその手を払いのけた。
「いいいいいきなり触んなボケ!」
「えっ! あ、ごめん」
まさかここまで大げさに反応されるとは思わず、はおっかなびっくり手を引っ込めた。叩かれた手がジンジンと痛むので、プリントを持ったまま叩かれた手を撫でるが、手の冷たさがその痛みになおさら拍車をかける。
が思わずため息を吐くと、伊沢が舌打ちをしてプリントを半ばひったくるように奪った。適当に折りたたんで上着のポケットに突っ込み、ぽかんとするの顔を見上げる。
「――で、これだけか?」
「うん」
用件の事を問われているのだろうと思いが頷けば、伊沢が嫌そうな顔をした。どうでもいい事に貴重な時間を費やしてしまった、と目が語っている。目は口ほどに物を言う。
「んなどうでもいい事のために、1時間もここで突っ立ってたのか」
「え、うん」
ハッ、と伊沢が鼻で笑う。
「馬っ鹿じゃねえの?」
ぐうとが唸る。自他共に自分は馬鹿だと認めているので、は反論しようがないのだ。それに学年での成績も下から数えたほうが速い。
馬鹿な自分が彼方は嫌いだ。でも勉強はわからないものなので、馬鹿とは正反対の存在には到底なれない事はわかっている。それに、そういう素質は自分にはない。伊沢のような賢さは、自分にはない。
「ば、馬鹿だもん」
精一杯の強がりを伊沢に向ければ、伊沢が呆れたような顔をしてため息をついた。伊沢がポケットから携帯を取り出して時間を確認する。もうすぐ7時だ。
「……お前、これからどうすんだ?」
「え? うちに帰る」
聞かれたので素直に答え、それから今日のご飯はどうしようかと考えた。というのもの母親は3週間ほど前に起きたビルのガス爆発に巻き込まれ、意識が戻らず現在進行形で入院中だ。父親は北海道に単身赴任しているので、家に帰れば1人だ。は目玉焼きやチャーハン程度の簡単なご飯は作れるが、包丁を握る過程が入った、いわく手の込んだ料理は作れない。おまけに美味しく作れるとは限らないので、食べなくてもいいかなとぼんやり考える。が朝夕の食事を抜きにするのは、もう日常となっていた。
「萩はどうするの?」
「一旦家に戻る」
伊沢には妹が3人いる。そのうち2人はまだ幼い子供だ。も何度か会ったことがある。幸か不幸か、2人とも伊沢に似ていて、すこぶる可愛いかった。皆母親似なのだろう。そこが悔やまれる。
「そっか。妹ちゃんたちは元気?」
「聞かなくてもわかんだろ」
つまるところ元気らしい。が苦笑を浮かべる。
「そっちはどうなんだよ」
「何が?」
「母親」
あー、とが気まずそうにぼやく。母親が病院に担ぎ込まれてから次の日、なぜか彼方は伊沢に電話してこの事を伝えてしまった。しかも泣きながら。今となっては穴があったら入りたくなるほど恥ずかしい。
「まだ意識が戻ってないというか……」
「なんだよ、その微妙な答え方」
「……戻る見込みがないというか」
医者に言われたことをオブラートに包んで伊沢に伝えると、伊沢から「そうかよ」と返ってきた。
人ごみの声が遠くに感じる。そんなのは錯覚だとは思う。でもなんとも言えない気まずさがそう感じさせるから仕方ない。
さっさと家に帰ろう。そう決めては伊沢に別れを告げようとしたが、急に伊沢の携帯が鳴りだしたのでそれは叶わなかった。伊沢が携帯を取り出すのを眺める。携帯の画面に新着メールのアイコンが表示されているのがちらっと見えた。
「あのね萩、そろそろ……」
携帯の画面を見つめ、眉を寄せる伊沢に恐る恐る話しかけるが、伊沢は返事をする代わりにの目前に携帯を突き出した。が身を引く。おっかなびっくりといった感じで伊沢に視線を向け、それから携帯の画面に目を向ける。
差出人はけーこだった。文面は「さんへ」から始まっている。けーこには携帯の番号もメールアドレスも教えているはずだったのに、なぜ伊沢の携帯に自分宛のメールがいくのだろうかと疑問に思ったが、とりあえずメールを読み進めた。要約すると“今晩、うちでご飯食べませんか?”というお誘いメールだった。
なんで「夕食一緒に食べませんか?」というメールがくるのだろうか。――おそらく、単純に考えれば、伊沢が妹に前もって教えていたのだろう。の母親は入院中で、今日はに会うから少し遅れる、と。
「返事。さっさとしろ」
苛立ったように伊沢が言いながら、手を引っ込めた。
「いいの?」
「いいから見せてんだろ。アホか。あとテメエ、今すぐ携帯確認しろ」
言われてはカーディガンのポケットから携帯を取り出した。スライド式の携帯を開く。反応がない。やみくもにボタンを押す。やっぱり反応がない。
だからけーこは伊沢にメールを送ったのか、と合点がいった。
「……ごめん、電池切れてた」
そう言った途端、伊沢にジト目で睨まれた。
「――で、返事」
「あ、えと。お、お世話になりますっ」
低い声にひるみつつ、ぺこりと頭を下げると、伊沢がさも面倒臭そうに着信履歴を開き、妹の名前を見つけると通話ボタンを押した。
2009/12/14