※高校時代捏造・オリキャラ注意
ガサガサ、という耳障りなビニール袋の音で目が覚めると、そこは一面の闇だった。
呼吸をするために鼻から息を吸えば、肉や魚が腐ったような刺激臭が目の奥をツンとさせ、自然と目に薄っすら涙が溜まった。
口を開けようとして、もうすでにあごが外れそうなほど口をあけていることに気づく。口の中に、何かがつめられていた。口腔の中でゴワゴワと音を立てるそれを恐る恐る舌でなぞると、ツルツルしていながらもところどころ隆起し、無数のひだがあった。味はない。口を閉じようとすればそれは難なく形を変えるのだが、完全に閉じることはできなかった。
おそらく、ラップやビニール袋の類だろう、ぐちゃぐちゃに丸めて詰め込まれたのかもしれない。なんとも臨也らしい腐った女のようなやり口だ。
なんとか舌で押し出すと、それは口から出はしたものの口のすぐそばに留まっている。静雄は顔をしかめた。口の中を存分に濯ぎたい衝動に駆られるが、我慢するしかない。
どういう状況だこれは、と静雄は内心一人ごちながら、全身が僅かに圧迫されていることに気づいた。腕を動かそうにも何かに押さえつけられて動けない。手のひらの感触から察するに、ビニールだ。ビニールだらけのの暗闇の中に放置されている。夢でも見ているのかと思うが、どうにも夢ではないように思える。
どうしてこんな事になったのか、静雄は暗闇の中ぼんやり思案をめぐらせた。学校帰り、臨也と遭遇し、案の定タガが外れた。臨也を追いかけながらも時折臨也から逃げているうちに、後頭部を何かで殴られたのは覚えている。衝撃で道路にひざをついたとたん、後ろから何度も何度も殴られ、そこで意識はプッツンしている。それからは覚えていない。
ガサガサと聞こえる耳障りな音はどこか遠くで鳴っているように思えたが、おそらくこれは静雄の上から聞こえる音だ。それにこの耐え難い悪臭。おそらくどこかのゴミ捨て場だろう。明日はゴミを捨てる日だ、今日ゴミ捨て場にゴミが大量に捨ててあってもなんらおかしくはない。本当はやってはいけないのだが、時間がないからという理由で前日のごみ捨てなどほぼ誰もが当たり前のようにやっている。臨也はそれを狙って静雄をゴミ捨て場なんかにわざわざ運んだのかもしれない。
こんな悪臭漂うところにずっといられるか、とゴミに埋もれた右手を無理やり動かそうとしたところで、強烈な光が差し込んだ。眩しくて目がくらみ、思わず目を細める。
徐々に目が慣れてきて、おずおずと目を開くと、はたしてそこはやはりというか、ゴミ捨て場だった。ちょうど静雄の頭上に電柱に取り付けられた蛍光灯があり、そこに大きな蛾が2匹たかっていた。
ゆっくり首を動かし、身体を起こそうとしたところで、ふっと顔に影がさした。思わずそちらに視線を向ければ、口元にあったビニールの塊を手で払われた。前髪を撫でられる。不安そうに静雄を覗き込む顔がある。
一つにまとめた髪。真っ白いカッターシャツに、黒いワンピースだろうか、四角い襟のそれがよく映えていた。首元にはリボンを模した黒いタイがつけられている。自分の顔をじーっと覗き込む、幼さの残る不安そうな表情を見つめ、静雄は一瞬、どこの学校の制服だ、と眉を寄せたが、覗き込んできたこの人の顔は薄っすらと化粧をしていて、ようやっとどこかのファミレスか何かの店員だと気がついた。
よくよく見ればワンピースタイプの制服かと思ったそれは、ただの厚手のエプロンだった。
「大丈夫……ですか?」
少女然とした顔立ちだが、おそらく年上だろう――
「……はい」
――と思った瞬間には、静雄の口からはおう、でもああ、でもなく、はいという素直な返事が出ていた。それを聞いたとたん、目の前の女性の顔がぱあっと明るくなった。ただ静雄が大丈夫だと返事をしただけなのに、まるで自分のことのように安堵の表情を浮かべる。
「もうちょっとだから、あと少しだけがんばってね」
何をがんばるんだと思った瞬間、女性はそう言うなり静雄の視界から消えてしまった。それからまもなくして、いつの間にか途切れていたがさごそというビニールの音が聞こえ始める。どうやらこの音は静雄の上に積み重なったゴミ袋を退けていた音だったようだ。合点が行った。
ともすればさっさと身体を起こしたほうがいいだろう。意識がハッキリしてきた今、ここを抜け出すのは静雄にとって造作もないことだ。
静雄は無言のままゴミ袋に埋まった両手を動かし、手探りでかきわけながら、腰のそばに手をついた。力をいれ無理やりに身体を起こすと、身体の上に積み重なっていただろうゴミがごろごろと道路のほうへ転がっていく。それを見ていた女性は目を丸くして、おお、と小さく感心したような声を上げた。
不安定なゴミ袋の上を座ったままずるずると移動し、道路に足をつけると、ゆっくり立ち上がる。のろのろと、さながら殴られたボクサーみたいな動きでなんとか背筋を伸ばし、一息ついた途端に頭に鈍痛が走った。ぐにゃりと視界がゆがんで、身体が浮遊感に包まれる。
「あぶないっ……!」
半ば体当たりするように突進してきた女性に支えられ、静雄はなんとかかんとか倒れずに済んだ。しばらく女性に寄りかかったまま、頭の痛みをこらえた。女性に申し訳なさを覚えるものの、立ちくらみが酷くて離れることができなかった。
痛みが徐々に薄れてきた頃になってから、無意識に後頭部に右手を伸ばすと、髪の毛に何かが付着しているのに気づいた。指でこするたび、それはパラパラと崩れ落ちていく。髪の毛を探るように書き分け、痛みの強い部分に触れてみると、痛みは増し、じくじくと熱くなった。指でなぞると、小さな溝――傷がある。
女性から身体を離して指先を見つめると、触った部分が赤くなっていた。髪についていたのは血が固まったものらしい。道理で痛いわけだと静雄は他人事のように感心する。
「キャっ、キャーッ! 大変大変! 血、血ーっ!」
そんな静雄とは対照的に、まるで自分のことのように女性が騒ぎ出す。女特有の甲高い声が耳を劈き、静雄は眉間に皺を寄せたが、右手首をつかまれ、うるさいと文句の一つでも言ってやろうかと開かれた口はすぐに閉じられた。
静雄は恥ずかしながら、異性にこういう風に手をつかまれ、しかも至近距離で真っ直ぐに見上げられたことは初めてだった。免疫がないのだ、閉口するのも無理はない。
「きゅっ、救急車! 救急車呼ばないと……っ!」
あたふたし始める女性を見下ろし、再度自分の指を見つめる。確かに血は出ているが、ここまで騒ぐほどたいした量ではない。おそらく軽症だろう。どうせ臨也にやられた傷だ、明日には完っ璧に治るに違いない。そんな不確かな自信が静雄にはあった。
「あ、あの。こんくらい、大丈夫っスよ」
おずおずと申し出ると、女性の不安そうな顔がいっそう不安そうになった。青ざめていると言ってもいい。
「で、でもねっ」
「むしろ、こんくらいで救急車呼ぶほうが、いろいろ迷惑になるんじゃないスか? なんか今、軽症なのに救急車呼んだりして、そういうの? 大変だって聞きますし。もし何かあったら、俺一人で病院いきますから」
女性の顔がきょとんとなる。不思議そうに静雄の顔を見上げてくる。
「何すか?」
「あっ、ううん、なんでもない」
ふるふると首を振って、軽く否定した後。
「傷、ほんとに大丈夫なの?」
「多分、軽症だと思いますよ」
「ほ、ほんとーに?」
「はい」
「み、見せてもらってもいい?」
見せないと納得しなさそうなので、静雄はふうとため息を吐き、僅かに頭を傾けた。
視界いっぱいに道路のアスファルトと、女性の下半身が写りこむ。真っ黒な布に足が包まれているのを見て、ストッキングとタイツの境目について以前、新羅に延々と語られたことを思い出した。意気揚々と語る新羅を、くだらねえと一笑した覚えがある。女性が僅かにかかとを持ち上げる仕草をしたので、静雄はさらに身体を傾けた。
爪先立ちぎみだった女性のかかとが、ゆっくりと地面につくのをじっと見つめながら、それでも意識は後頭部に集中したままだった。まるで壊れ物に触るかのような慎重さで、髪の毛をそうっと掻き分けられる。
女の人に頭を触られているというこの状況に、静雄の身体が自然と強張った。意識し始めた途端に、女性のほうから、今まで嗅いだことのないような、ひどく落ち着くようなほんのりと甘い匂いがするのに気づき、徐々に落ち着かなくなってくる。香水だとは思うのだが、同じクラスの女子生徒がつける甘ったるいそれとはかなり違う匂いだ。
「うーん、確かに、傷、小さいね」
そういわれて、僅かに身体を寄せられる。左耳に柔らかいものがあたり、静雄は息を呑んだ。母親以外の異性にこんなに近くに寄られたのは久しぶり――というか、もしかしたら初めてかもしれない――の事に、どっと冷や汗が吹き出てきた。手が汗ばんでくるのを感じつつ、それをごまかす様にぎゅっと握りこぶしを作る。傷口を指でなぞられながら「ほんとーに痛くない?」と問われても静雄は返事を返さず、ただじっとしたままだったが、ややあってからある事に気づき呆然と目を見開いた。
制服が、末恐ろしくなるほどに生ゴミくさいのである。
よくよく見れば学ランには何かの汁が染み込んだような痕が白く残っていて、静雄はさあっと顔を青ざめさせた。クリーニングが必要だと思うよりも先に、静雄は慌てて女性の手からすり抜け、僅かに距離を置いた。
「きゃっ!」
小さく悲鳴が上がったので、静雄は慌てて謝罪を述べようと思ったのだが、悲鳴を上げた張本人といえば目をぱちくりさせたあと、ひどく申し訳なさそうな表情で、静雄のほうに小走りで近寄ってくる。
「ご、ごめんね。痛かった?」
どうやら傷を撫でたことで、静雄が嫌がったのだと思ったらしい。
「……あ、えと。痛くないって言えば、嘘になりますけど……いや、その。そうじゃなくて」
うまく説明できずしどろもどろになる静雄に、女性は僅かに首をかしげたあと、それからはっとしたように、ああ、そっかー、と呟いて。
何がおかしいのやら、にんまりと笑って見せた。
「そかそかー。うんうん。でも、別に平気だよ」
気を使われているのかもしれないが、それでも女性の表情はごくごく普通で、嫌悪感というものは微塵も感じられなかった。ごく自然に微笑みかけられ、静雄は僅かに目をそらす。
純粋な好意を向けられるがゆえの妙な恥ずかしさと、言いようのない羞恥心から来る無意識的な行動だった。学校では異性はおろか同姓にも怖がられるばかりで、静雄は本当に、こういう事には不慣れだった。
「まあ、君が平気って言うなら、いいか」
うんうん、と一人で納得し、女性はよっこらしょ、と道路に転がるゴミ袋を拾い上げて、ゴミ捨て場へと投げた。慌てて静雄もそれに習う。散らかしたままでは周りの人に迷惑がかかってしまうし、散らかした張本人がボーっと突っ立ったまま片付けないのはよくない。
「ああー、けが人は動いちゃだめだってば」
と思った矢先に注意された。
「……そういうわけには」
「い、い、か、ら!」
めっと叱られそうな勢いに、静雄がややたじろいだ。そのすきに、手にしていたゴミを女性に半ばひったくられるように奪われる。静雄はゴミ捨て場に向かうその後姿を、ぽかんと口を開けて見送った。女性はゴミ捨て場にゴミ袋を置くと、近くに置いてあった通学用のカバン――静雄がいつも使っているものだ――を拾い上げる。静雄があ、と声をあげると、こっちに戻ってきた。
カバンを差し出され、静雄は頭を下げてそれを受け取った。
「それで、どうしてこんなとこにいたの?」
開口一番に首を傾げながらそう問われ、静雄はどう説明したらいいのか思案し、口をつぐんだ。思い返すたびに心中にもやもやとした鬱憤が溜まっていくのがわかる。胸糞悪い臨也の、あのキツネのような性悪という文字をそのまま描いたような笑顔が脳裏に浮かび、苛立ちが膨らんでいく。
「まあ、その。なんだ。青春ってイイね?」
「どこがだ!!! あんのクソ野郎!!!」
爆発した。ガードレールの柱を蹴り飛ばすと、背筋をピンと伸ばすようにしていた白いガードレールはぐにゃりと腰を折った。静雄はふーふーと息を荒げたあと、ハッとして女性のほうを見る。女性は目を丸くして口を引き結び、両手を開いて顔の横にあげる――いわゆる降参のポーズをとっていた。
女性はちらっと折れ曲がったガードレールの柱を見た後、静雄に視線を戻し、まるで敵対するつもりはないですよと言わんばかりに、ニコニコと笑顔を浮かべる。この仕草は静雄には覚えがあった。1年の時担任だった教師の態度とよく似ている。
「……すんません」
蹴ったときに力が入ったのか、握ったままの拳を開く。手のひらに冷たい風があたり、急速に熱が奪われていった。怒りが瞬時に燃え尽きてしまうと、残ったのはどうしようもない申し訳なさだった。
「こっちこそごめんね。でもその、なんていうかね、モノに当たるのはよくないよ、うん」
言いながら再度ガードレールを見下ろし、それからちょこちょことカニ歩きを始めた。静雄の横を通りすぎる。そのまま逃げるかと思いきや、折れ曲がったガードレールのそばにしゃがみこんだ。うわーすごい、なんて呟きながら、静雄が蹴り飛ばしたガードレールをベタベタと触り始める。その反応に静雄は面食らってしまった。ここは普通怖がって逃げるところじゃないだろうか。
「んー、ここにいたらしょっぴかれちゃうね。コーキョーの物を壊したら、キブツソンカイザイって言うんだっけ、こういうの」
呟きながら、よっこらせ、と立ち上がる。そのまま、ごくごく自然に微笑みかけられ、静雄はぎょっとした。僅かに半歩下がってから、何故引き下がってしまったのかわからず、自分の取った行動に再度ぎょっとした。無意識のうちに行ったもので、理由はよくわからない。混乱してぎくしゃくしているそんな静雄を引き止めるように、女性が手を伸ばして制服の袖口をわずかに引っ張った。
「……その」
戸惑う静雄に止めを刺すように、女性はにっこり笑いかける。途端に言葉を失った。何を言ったらいいのかわからなくなる。
「そんなに怯えなくてもいいから、ね」
そのまま引っ張られ、はっと意識が引き戻される。
「ちょっ、ど、どこ行くんすか」
「いいからいいから」
静雄はふらふらとした足取りで、それでも手を振り払うことなく、女性にされるがままついていった。
遠くから救急車の音が聞こえてくるが、この通りはひどく静かだ。目の前を歩く女性の靴の音と、静雄の足音しか聞こえない。あたりの建物は殆どが人がすむように建てられた家で、ここは住宅地だと瞬時に悟った。しかしあまり見たことが無い場所だ。ここは学校からどのくらい離れているのだろうとぼんやり考えていると、いきなり排気口から吐き出される生暖かい熱風をもろに顔面に浴び、静雄は顔をしかめた。
女性が立ち止まる。目の前にはひし形ののぞき窓がある黒いドアがあった。しかしドアのつくりは妙に安っぽく、玄関のドアとして据え置くようなものではない。そう考えてから静雄は、ここは裏口だと理解した。静雄が建物を見上げようとするよりも先に、女性がドアを開けた。とたんにオレンジ色のあたたかそうな光がもれでてくる。
「段差あるから、気をつけてね」
静雄はうなずいて、手を引かれるまま、小さな段差を乗り越えた。コーヒー色のフローリングの床に足をつき、顔を上げると、そこは厨房のような場所だった。ような、というのは、一通り調理器具がそろえてはあるが、そこまで大規模なものではなかったからだ。それよりも大きな食器棚が目を引いた。大家庭というレベルでは済ませられないほどの食器が陳列されている。
そのまま厨房を横切り、落ち着いた色合いの壁紙の廊下に出た。耳に落ち着いたアコースティックギターの洋楽が流れ込んでくる。すんと匂いを嗅ぐと、言葉では表現するのは難しい、いい匂いがした。
「まだお店やってるから、静かにね」
しーっと口元に指を立てる仕草をする。静雄は振り返り、廊下の先を眺め、人の声がするのをきっかけに、こくこくとうなずいた。
わざと照明を暗くしているのか、ほの暗い廊下を通り抜けると、突き当たりに階段があった。階段の先は土足厳禁なのか、脱ぎっぱなしのサンダルが置かれている。
「ここで靴脱いでね」
女性が靴を脱ぐので、静雄は言われるがままそれに習うことにした。そうしてまた袖をつかまれ、引かれるがままについていく。手を引かれながら階段をのぼるのは、危なっかしくてろくなもんじゃないと思ったが、それでも静雄は手を振り払うようなことはしなかった。
二階に上がると、小さな明かりしかついていなかったが、その頼りない明かりでも部屋の様子が十分わかった。部屋の隅にテレビが置かれ、その向かいにソファが3つ並んでおり、間に小さなテーブルがおかれている。静雄から見て右側にふすまがあった。和室があるようだ。
左側にオープンキッチンがあり、入り口が赤いのれんで仕切られている。キッチン側のほうの空いたスペースには4人がけの食卓テーブルがおかれている。リビングといってもいい作りだ。
立ち止まり、ぶしつけに部屋の中を見ている静雄を、女性はさして気にした様子なく見上げ、ややあってから静雄の袖をちょいちょいと引っ張った。静雄がハッとすると、女性は微笑んで足を進める。静雄はただ黙ってそれについていった。廊下を進んだ先には、いくつかドアがあり、その中のひとつの前で止まると、女性はおもむろにドアを開け放った。暗闇の中、迷うことなく明かりのスイッチを押す。
洗面所兼脱衣所だった。奥にあるぼやけた感じのガラスのドアの向こうは、おそらく風呂場だろう。
「今ね、バスタオルと着替え持ってくるから、先に入っちゃってて」
「いや、その」
「シャワーだけで寒かったら、お風呂入ってもいいからね。さっき入れたばっかりだから」
「その、そうじゃなくてだ……ですね」
思わずため口になりかける。見ず知らずのお宅の風呂にいきなり入れといわれ、戸惑わない人間などいない。静雄が困ったように女性を見下ろすと、対する女性はさして気にした様子なくにこにこと。
「入りたくない?」
問われて静雄はぐうと詰まった。意識すればするたび、顔のまわりや首のあたりがべたべたしている気がして落ち着かなくなってくる。ややあってから首を振ると、女性は何がうれしいのかふふーっと笑って。
「それじゃ、またくるから。シャンプーとか身体洗うタオルとかは好きなの勝手に使っちゃっていいからね」
ドアが静かに閉められる。静雄は盛大にため息をついて、洗面所の鏡に映る自分の姿をじっと見つめた。見るからにボロボロな姿にがっくりとうなだれながら、カバンを足元に置き、学ランを脱いだ。不器用な手つきで学ランをたたみ、床に置こうか迷った末、洗濯機の上におかせてもらうことにした。
靴下と長袖のTシャツを脱ぐ。シャツを畳んで学ランの上に置いた後、ベルトをはずし、ズボンを脱いだ。適当にそれをたたんでいる最中、ふいに廊下で足音が聞こえた。ドアをノックされる。静雄はぎょっとして顔をあげた。
「あー、その。すまない。ちょっと聞きたいことがあるんだ」
男の声だ。それもひどく渋い。喉が酒焼けでもしたかのようにしわがれている、そんな声だった。
「君の服のサイズはMでもいいのかな?」
「……ええと、はい。大丈夫です」
「そうか」
それだけ言って、足音が遠ざかっていった。今のは誰の声だろうという疑問が沸々とわきあがってくる。まさか女性の父親だろうか、と考え、静雄はその考えを振り払った。とりあえず余計なことは置いといてシャワーだ、と下着に手をかける。
「入ってもいいー?」
あの女性の声だった。
「だああああああああああっ!」
反射的にしゃがみこみ、叫んだ。途端にドアの向こうからケタケタと笑い声が聞こえてくる。
「笑ってんじゃねえええええ!!」
「ご、ごめんごめん。お約束かなと思ってつい」
静雄は何がお約束だ、と怒鳴りたかったが、本当にごめんねとドアの向こうで何度も謝られ、くすぶっていたものがしゅーっと音を立てて消えてしまった。
頭をかいて、盛大にため息をついたあと、入るなよ、とドアの向こうに話しかけ、急いで下着を脱いだ。それを畳んだ服の間に挟み込むと、風呂場の電気をつけた。にごりガラスの向こうがパッと明るくなる。白いドアノブに手をかけ、ドアを開けてみると、ごく普通の風呂場があった。
静雄は風呂場に入り、ゆっくりとドアを閉めた。プラスチックで覆われた二つのバルブに目をやる。それぞれ天辺に赤い丸と青い丸がついていて、静雄は赤い丸のほうをひねった。シャワーから冷たい水が出てきたが、しばらくするとお湯が出てくる。そのタイミングでちょうど、ドアがノックされた。静雄は返事もせずに頭からシャワーのお湯をかぶると、ややあってから脱衣所のドアが開く音がした。
「し、しつれーしまーす」
こわごわとした声が聞こえてくる。
「タオルと着替え、洗濯機の上においとくから。もしサイズ合わなかったら、呼んでね」
しばらくがさもそと物音がした。そうして、ドアが閉まる音がする。お湯を止めると、脱衣所の外、女性が立ち去る音がかすかに聞こえた。
再度お湯を出し、備え付けの鏡のそばの棚の上を見る。ボディーソープのボトルと、女性用と男性用のシャンプーとコンディショナー、そして石鹸がおかれていた。
静雄は迷わず男性用のシャンプーのポンプを押し、手のひらに青い液体が広がるのを眺め、それを両手で伸ばし、髪の毛に塗りたくるようにして泡立て始めたが――シャンプーが傷口にしみこみ、痛みで悶絶するはめになった。
なんとかかんとか髪を洗い終え、身体を洗おうとして静雄は固まった。ドアに吸引式のタオルかけがつけられていて、身体を洗うためのナイロンタオルがかけられているのだが、2枚あるのだ。しかもそれぞれ色が違う。ピンク色と青色の二色を見つめ、なんともわかりやすいなと静雄は思った。
風呂に入る前に自由に使っていいからね、と女性に言われたが、どうにも迷ってしまう。どちらも素材は一緒のようだが、恐らく使う人で分けているのだろう。静雄はしばらく考え込んだ後、青色のタオルを手に取った。
洗面器に湯をため、タオルを湯にくぐらせる。ボディーソープのポンプを二回ほど押して白い液体をタオルの上にとると擦り付け、あわ立ててから適当に身体を洗った。
一通り洗い終わると静雄はタオルを洗面器の湯の中にくぐらせ、タオルを軽く洗った。泡だらけの水を肩からかけたあと、また洗面器に湯をためてタオルを洗う。洗い終わった湯を再度肩からかぶった。これは水が勿体無いという父親からの教えだった。
シャワーをあびて、残った泡を洗い流す。そして湯船に入ろうか迷い、ちらっと風呂に視線をやった。恐る恐る風呂の蓋をあけ、湯気が立つ緑色の水面を見つめる。柚子のにおいがした。入浴剤の香りだろう。
迷いぬいた末、静雄は誘惑に負けてしまった。風呂の温度はちょうどよかった。身体が暖まってから湯船からあがった。
シャワーをあびて、恐る恐る風呂場のドアを開ける。そこには誰もいなかった。ほっと胸をなでおろし、風呂場から出ようとして、バスマットが敷かれているのに気づいた。おそらく女性が敷いたのだろう。洗濯機の上には真新しい白いバスタオルがおかれている。
静雄はバスマットの上におり、風呂場のドアを閉め、バスタオルを手に取った。顔を拭くと、ヒノキの香りがした。タオルの毛並みはつぶれているし、どこかにしまいっぱなしだったのかもしれない。
適当に身体を拭いて、洗濯機の上にある着替えを見つめる。インディゴカラーのジーンズと赤と紺の細かいチェックのシャツ、その上に男性用の下着が置かれていた。ボクサータイプのそれは包装用のビニールに包まれている。新品らしい。見るからにどこかのブランド物っぽそうな包装を破きつつ、申し訳ないと思いながらも履いた。
ジーンズをはき、チェックのシャツを羽織りながら、誰が着たやつなのかと静雄は首をかしげた。ボタンをとめながら、まさかあのしわがれた声の主じゃないかと静雄は考える。サイズを聞いてきたあたり、やっぱりあのしわがれた声の主の物なのだろうかと思うと、無性に申し訳なくてたまらなかった。情けないなあと思いながら、タオルで頭を拭く。
洗面台にドライヤーが出ていたので、それを借りて髪を乾かした。後頭部の傷口はもうふさがっているようだった。髪を乾かし終わった後、ドライヤーを元通りにして、制服とバスタオル、自分のカバンを片手に洗面所を出た。
薄暗い廊下に出ると、リビングのほうから明かりが漏れていた。誘われるようにリビングへ向かう。台所に女性が立っていた。うつむいて何かしている。手に包丁を握っているのが見えた。
「あがったー?」
「あ、はい」
返事をすれば、女性が包丁を置いて顔を上げた。
「なんか飲む? ジュース? コーヒー? お茶?」
「ええと……お茶で」
わかったー、とのんきな声とともに、冷蔵庫のドアを開ける音がした。
「冷たいのでいいよね?」
「はい」
その場に立ったまま、どうしたらいいかわからずキョロキョロしていると、ソファに座りなよ、と笑いながら促された。静雄はぺこっと頭を下げ、ソファの端っこに腰を下ろした。
「どうぞー」
ややあって、ソファの前のテーブルにコースターとともにグラスが置かれた。グラスの中には赤茶色の液体が注がれていて、透き通る氷が浮いている。家の冷凍庫で作る氷とは大違いだと思いながら、静雄はグラスを手に取った。口をつけて飲み干すと、不思議な味がした。
「……ええと、これ、なんですか」
「アイスティー。あ、ごめん。口に合わなかった?」
「あ、いや。そんなことはないです。俺んちだと、いつも麦茶で」
「麦茶もあるんだけど、これ、作り置きしてたやつで、残り最後だったからつい」
「あ、そうすか」
つまりあまり物ということだ。とはいえ、普通アイスティーを作り置きすれば白っぽく濁るはずなのに、グラスの中の紅茶は透き通っている。美味しさに関して文句はなかったし、別に嫌な気はしなかった。
「これ、制服入れるのに使って」
白い紙袋を渡される。これは静雄にとって素直にありがたかった。礼を述べてグラスを置き、紙袋に制服をまとめてつめこんだ。
無言でグラスに口をつけていると、いきなり頭に手を置かれた。驚きで身体が大きく跳ねる。いつの間にか女性が静雄の後ろ側に立っていたらしい。
「な、な、何す……っ!?」
慌てて振り返る。
「けーが。消毒しないと。そのためにお風呂入れたんだからね」
「も、もう平気っす。血とまりましたから」
「ほんとにー? おうち帰ってからウックルシ…! とかなってもしらないよ?」
言いながら女性が胸元を押さえるまねをする。頭をぶつけたのにどうして胸部に異常が出るのか静雄は突っ込みたくて仕方なかったが、頭を何度も撫でられ、そんな気持ちはどこかにすっ飛んでしまっていた。
「これ、染めてるんだよね。見たとこその制服、来神だと思うけど……勇気あるなあ」
自分で触るのとは違い、他人に触られる、異様なくすぐったさに目を細める。探るように指先が動くのを、じっとこらえる。
「あ、ほんとだ。血止まってるね」
指先が傷口に触れるが、痛みはもうそんなにひどくはなかった。
「うーん、縫わないとダメだと思ったんだけどなあ」
そんなことをぽつりと呟いて、女性は静雄の頭から手を離した。お茶のおかわり欲しかったら呼んでね、と言葉を残し、テレビをのスイッチを入れて台所に引っ込んでしまう。
トントントン……、とひっきりなしに包丁で何かを切る音がする。そういえば、リビングに入ったとき、どことなく、食欲をそそられるような匂いがした。何か料理でもしているんだろう。そういえばそんな時間帯か、と静雄は思い、ハッとした。今は何時だろうか。
グラスをテーブルの上に置き、折り畳んだ制服のポケットから携帯を探るよりも先に、正面の壁に時計がかけられているのに気がついた。
時計は8時50分を示していた。息を呑む。いつも家で食べる夕食の時間はとうに過ぎていた。両親の顔と弟の顔が脳裏をよぎる。そもそも、学校を出たのは6時過ぎだというのに、自分は何時間ゴミ捨て場で気絶していたのかと考えるとはらわたが煮えくり返りそうになる。静雄は深呼吸したあと、アイスティーを一気に飲み干した。グラスは割らずにすんだ。
紙袋の中、心なしか悪臭漂う制服のポケットをぎこちなく探り、携帯を取り出す。携帯を開くと、画面がパッと明るくなった。着信履歴が3件ある。
自宅と、母親の携帯と、――無口な弟の携帯からだった。
「あ、あのっ。俺、帰らないと……っ!」
台所にいる女性に声をかけると、んー、とのんきな声が返ってきた。
「どうせならご飯食べていきなって」
「いや、いやいやいやっ。そこまで世話になれな……」
「とりあえずね、お客さんいなくなったらお店閉めて、おじーちゃんが車出してくれるから、おうちまで送っていきます。もう外真っ暗で、危ないしね。……もしかして、ご家族さんから連絡きてた?」
女性が包丁を置いて、コンロにかけていた鍋に、今まで切っていた緑色の野菜――セロリだろうか? それらしきものを入れた。
「はい……」
「んじゃーまずは連絡とらないと。なんならそこの電話使っていいよ」
「あ、いえ。ケータイありますんで」
「そかそか」
なんだか言いくるめられたような気がしないでもなかったが、静雄は自宅に電話をかけた。3度のコール音の後に、はい、平和島です、と細い声が聞こえる。弟の幽の声だった。
俺だ、と静雄が告げると、
『兄さん、今どこにいるの』
途端にこう返ってきた。声の調子から察するに、怒ってはいないようだった。
「わ、……かんねぇ。どこだろうな」
台所のほうから住所おしえよっかー、と間延びした声が聞こえ、静雄は慌てて片手を振り、いらないのジェスチャーをした。
「とりあえず、その、無事だから」
『声聞く限り、そうみたいだね。父さんと母さんも心配してるよ』
「メシは?」
『先に食べた。兄さんの分は作ってない』
「いらないって伝えといてくれ」
『わかった。ところで、女の人の声が聞こえたけど、もしかして彼女』
「違う違う断じて違う」
幽の声を断ち切るように言うと、受話器の向こうで、呆れているような小さなため息が聞こえた。
「その、詳しい話は、家に帰ってから話すから」
『うん。わかった。それじゃ』
通話終了ボタンを押し、携帯を閉じる。安堵から来る生理的な吐息が漏れると同時に、腹の虫がなった。腹をさすると、胃が縮こまっているような気がしてならない。時計を見れば、もうすぐで9時だ。テレビの画面にはひっきりなしにCMが流れている。チャンネルを変えてもこんな曖昧な時間だ、公共放送以外の民放局じゃCMしかやっていないだろう。
女性のほうを見れば、鍋の中身をおたまでくるくるとかき混ぜ、片手に持った小皿に掬い取り、味見をしている。満足そうにうなずいた後、鍋に蓋をして手を洗い始めた。
「あっ」
ふいに、女性が声を上げた。なんともうれしそうなその口調に、静雄は目を何度もしばたかせる。女性が階段のほうを見ていたので、そちらに視線をやれば、徐々に近づいてくる足音があった。
ゆっくりと階段を上る音。そうして現れたのは、白髪をオールバックにした、長身の男だった。白いシャツに黒のスラックスを履いており、その上に黒いエプロンをつけている。
「おじーちゃん、もういいの?」
「ああ。帰ってもらった」
女性のおじいちゃんという呼び方と、皺の目立つ額と頬から、かなり歳が行っているのではないかと静雄は推測した。とはいえうっすら髭を生やしているせいで、顔の下半分は皺があまり見えない。おまけに物差しをぴったり当てているかのような姿勢のせいで、はっきりと年齢がわからなかった。60代前半にも見えるが、実際の歳はわからない。
それよりも、だ。左の頬に一筋、目立つ傷が残っているのが、静雄は少し気になった。
「お得意さんじゃなかったの?」
「いいんだ。さ、ご飯にしよう」
なんとなく、会話が祖父と孫のそれではないなと静雄はぼんやり思っていると、いきなり男の視線がこちらを捉えたものだから、静雄はビクリと肩を大きく身体を震わせた。男の視線がやけに鋭くて、息を呑む。逆らってはいけない、そんな気がした。
「名前は、ええと、――誰だったか」
男が答えを求めるように女性のほうを見る。
「そういえば、名前、聞いてないや。なんていうの?」
じかに俺に聞きゃあいいのに、と思いつつ、平和島静雄です、と名乗ると、二人はぱあっと笑顔を浮かべた。さっきの怖さはどこへやらといった感じで、静雄は面食らった。なるほど蛙の孫も蛙ということらしい。
「静雄くん。へー。静雄くん。そかそか」
うんうんと女性がうなずいた。しかし静雄といえばいきなり名前で呼ばれ、頭を鈍器でガツンと殴られたような衝撃を受けた。
静雄は特定の人物を除けば、いつも怯えた風に苗字で呼ばれることしかない。だから、こんな風に知らない人に笑顔で名前を呼ばれたことは久方ぶりの事で、どう反応したらいいのかわからなくなった。馴れ馴れしいと思うよりも先に、どうしようもない戸惑いが生まれる。
「さ、静雄くん、こっちにかけなさい。夕飯、食べていくんだろう」
そう言ってにこやかな表情のまま、おもむろに食卓テーブルの椅子を引いた。座れということらしい。
孫が孫なら祖父も祖父だった。こういう人柄なのだろうと静雄は割り切り、すいませんと頭を下げるとソファから立ち上がった。静雄が椅子に腰を下ろすと、男は台所に引っ込んでいってしまった。食卓の席に一人取り残される。
「おじーちゃん、これ運んでー」
女性が炊飯器から皿にご飯を盛り付ける。男は両手にそれぞれ受け取ると、テーブルのほうにやってきて、静雄の正面、布製のランチョンマットの上に静かに皿を置いた。エビやイカやホタテが入ったシーフードピラフが盛られている。湯気からほんのりとバターのいい匂いがした。男は静雄の隣の席にも皿を置き、また台所に引っ込んでいく。そうして今度は小さな器を持ってきた。中にはコンソメスープが入っている。
「おかわりあるからねー」
男が席につくと、女性が自分の分の料理を持ってテーブルのほうへやってきた。静雄の向かい側の席にそれを置き、椅子を引いた。エプロンを取って背もたれにかけ、腰掛ける。
いただきまーす、と女性が両手を合わせた後、隣で渋い声のいただきますが聞こえてきて、静雄は慌てて両手を合わせていただきますと呟いた。
スプーンを手に取り、まずはスープに口をつけた。文句なしに美味しかった。次にピラフに口をつけてみると、これまた美味しかった。塩加減が絶妙で、たくさん食べても飽きないだろうという味付けに、静雄は感激した。基本的にこういう洋風の炊き込みご飯は静雄の母親はあまり作らず、ファミレスのしょっぱいピラフの味に慣れていた静雄は、素直に美味しいと思った。
「しかし、驚いたな。お前が男の子を拾ってくるとは思わなかった」
「私も驚いたよ。こんなことあるんだなーって。ね?」
いきなり話を降られたものだから、ピラフをかきこんでいた静雄はスプーンを銜えたまま固まり、しばらくどう答えたらいいか迷った末、とりあえずこくりとうなずいた。
そんな反応でも満足したのか、女性は嬉しそうに笑うと、スープに口をつけた。
「静雄くん、服、それで大丈夫だったか?」
隣から話しかけられ、僅かに身体が強張った。
「え? あ、ハイ。ちょうどいいっす」
「そうか。年寄りの服で悪いね」
「いえ、そんなことはないです」
言いながら、静雄は身に着けているシャツを見下ろした。冬用の厚手のシャツは、まあ何回か着ている感はあるが、それでもデザインが真新しいものだった。それなりにちゃんとデザインされているものだとは思う。どのくらいの値段なのか少し気になったが、こんなことを考えるのは失礼だと思い、その考えを振り払った。
それから会話らしい会話はなかったが、静雄にとって気まずい空気というわけではなかった。おそらくこの祖父と孫はいつもこういう食卓なのだろう。ほんの少しの会話だけを交わして、食事に専念する。それが静雄にとっては居心地がよかった。ペラペラしゃべられると、何かしらカチンと来てしまう静雄にとって、非常にありがたかった。暴力を振るった後になってから後悔するのはいつもの事だったが、それでもこの2人の前でそういう事は避けたかった。
「静雄くん、何か飲む?」
「えっ!? あ、ええと」
「麦茶でいいかな」
「……、はい」
にこっと笑って、女性が席を立つ。それから台所に向かおうとして立ち止まり、振り返った。
「静雄くん、ごはんのおかわりは?」
「……ほしいです」
てんこもりのおかわりを出された瞬間、多いかなあと思いはしたが、それでも静雄はペロリと平らげた。もし味がもう少ししょっぱくて、しつこい感じがするようだったら、おかわりは貰わなかったかもしれない。
食後に出された緑茶をすすりつつ、ほんの少しの苦味と、ほのかな甘さを備えた味に、家で飲む緑茶とは大違いだと絶句した。聞けば、静岡の贔屓にしてもらっている店から特別に仕入れているのだという。道理で、近所のスーパーで売ってる茶葉とぜんぜん味が違うなと静雄は感心した。
「さて、いきますか」
女性が時計を見上げながら言うので、静雄もつられて時計を見た。9時30分を指している。
「そうだな」
男がそう言って立ち上がる。そのまままっすぐにソファへ向かい、静雄が置きっぱなしだったカバンと紙袋を手に持って戻ってきた。自分の荷物を差し出され、静雄は頭を下げてそれを受け取った。
女性が先手を切って階段を楽しそうに下りていく。先に行ってなさい、と男に言われ、静雄は逆らうことなく女性の後に続いた。階段の中ごろを下りている最中、リビングの明かりがすべて消え、足元がまったく見えなくなって少し焦ったが、先に階段を降りた女性が廊下の電気をつけてくれたので、静雄は転ばずにすんだ。
靴を履き、女性の後ろについていく。厨房の中を通り過ぎ、裏口から外に出た。11月の冷たい夜風がシャツの隙間から入り込んできて、静雄はぶるっと身体を震わせる。
「ちょっとね、歩かなきゃいけないんだ。40秒くらい」
「はあ」
男が裏口から出てきて、ドアを閉めた。スラックスのポケットからキーホルダーでまとめられた鍵の束を取り出し、その中のひとつを裏口の鍵穴に差し込んだ。カチャリと鍵がかかる音がした。
女性がまた先手を切って歩き出すのに、静雄は黙ってついていく。その後ろに男、という感じだ。今にも鼻歌でも歌いだしそうな女性の歩調を見つめ、失礼だとは思ったが、悩みがなさそうな能天気な姿に、静雄は羨ましさすら覚えた。
1分も立たないうちに、女性が小さな駐車場の中へ入っていった。緑色のフェンスには、月極駐車場と書かれた看板がくくりつけられている。雨風のせいで淵がさびつつあるその看板を眺めた後、静雄は駐車場の中に足を踏み入れた。
黒い乗用車のそばに女性が立ち止まっているので、静雄は小走りでそちらに向かった。フロントには王冠の形をしたエンブレムが取り付けられている。車から電子音が響くと、女性に後ろに乗るよう薦められ、静雄は頷いて後部座席のドアを開けた。恐る恐る乗り込み、まふっとするシートに背中を預け、一息つく。
と、静雄が座ったほうとは反対側のドアが開けられた。女性が乗り込んでくる。続いて男も運転席に乗り込んだ。
「……うーん、やっぱ後ろのほうがいいねー!」
「それはどういう意味かな」
男が女性に尋ねると、女性は考える素振りを見せてから。
「なんかこう、後ろから見ているという安心感がたまらないかなと」
ねー? と、笑顔を向けてくる。静雄がどう答えたらいいか逡巡していると、
「そうかそうか。お爺ちゃんは助手席に誰もいなくて寂しいよ」
男が演技っぽく言いながら、シートベルトを閉めた。車のエンジンがかかる音がする。
「それで、静雄くんの家はどのあたりなんだ?」
「ああ、えーと……」
説明は苦手だと思いつつ、それでも住所とともにつたない説明をすると、男はうんうんと頷いて車を発進させた。道路に出て、狭い道をゆっくり進む。
「家の近くになったら、どこを曲がればいいか言ってほしい」
「はい、わかりました」
そう答えて、会話はそれっきり途絶えた。窓の外に目を向ければ、街頭と立ち並ぶ家の隙間に、真っ黒な空が広がっているのが見える。直進、右折、左折、直進と車はスムーズに進み、静雄がぼけっとしているうちに、人口灯のおかげで昼のように明るい通りに出た。
女性のほうを見れば、がさごそと車のシートのポケットやドアポケットをあさっている。何をしているのか疑問に思ったが、触れないことにした。
しばらく進むと、静雄が通っている高校の近くに差し掛かる。
「そこ、右っス」
身を乗り出して指差すと、男が頷いて右ウィンカーを出した。のだが、赤信号につかまり、停車する。静雄がおずおずと背もたれに背中を預けると、ちょいちょいと袖を引っ張られた。
「手」
女性のにこにこ顔を見つめる。手を出せということだろうか。おずおずと右手を出すと、女性が自分の握りこぶしを静雄の手のひらに置いた。女性が握りこぶしをほどいて手を離す。
手のひらにはイチゴがプリントされた包装紙の飴が乗っていた。イチゴミルク味の、噛むとじゃりじゃりする飴だった。
「あげる。車のポケットにあったから」
しゃべってる最中、女性の口の中でカラコロと飴玉が転がる音がした。
「……どうも」
包装ビニールの両端を引っ張り、三角形の飴を口の中に放り込んだ。甘酸っぱい味がする。噛み砕くと、甘い練乳の味がイチゴ味と混ざり合った。この飴は甘ったるいと嫌う人もいるが、静雄はどちらかといえば好きなほうだった。
青信号になってからしばらくして、車が右折した。暗い通りを道なりに進み、時折静雄が指示を出す。それを何回か繰り返すうちに、静雄にとって見慣れた家が見えてきた。
「ここです」
車がゆっくりと停車した。
「あの、ありがとうございました。本当に」
「いや。いいんだ。むしろちょっとしたハプニングのようで楽しかったよ」
男の言葉に、女性が同調するように頷いた。
「あの、服、どうすれば」
「面倒だったら返さなくてもいいよ」
ぎょっとした。
「そ、そういうわけには……」
「おじーちゃんがそう言ってるから、いいんだって。もし返すって言うなら、お店のほうに来てくれればいいから」
「はあ」
曖昧な返事を返すことしかできなかった。こんなノリでいいのだろうか。少し不安になる。
ドアを開けて外に出る。冷たい風にぶるりと身体を震わせながら、ありがとうございましたと告げ、ドアを閉める。すると、機械的な音とともに窓が下がった。いつの間にやら、女性が今しがた静雄が座っていた場所に移動している。
「またね」
ばいばいと手を振られ、静雄は迷った末に、ぎこちなく手を振り返した。
車が発進するのを見送り、一息ついて家の門をまたぐ。玄関のドアに手をかける。鍵はかかっていなかったようで、すぐに開いた。
「ただいま」
言うなり心配そうな母親が飛び出してきた。苦笑を浮かべながら、ドアを閉め、鍵をかける。こうなった事情をかいつまんで説明すると、母親が安堵の表情を浮かべた。怒声を浴びせられるんじゃないかとビクビクしていた静雄だが、母親が全く怒っていないことにホッと胸をなでおろし、そうしてあることに気づいた。
服を返したいなら、店のほうに来てくれれば、と女性は言ったが、裏口から店に入ったため、静雄は店の全景がどういう形をしていたのか全くわからなかった。おまけに帰り道、ぼーっとしていて、道筋なんてものは頭に入っていなかった。
高そうなシャツね、洗って返さないと。その母親の言葉に、さあっと顔が青ざめるのを感じた。
後日、静雄は暇を見つけてはあの店を探したが、結局見つけることはできなかった。いまだに服は返せずにいる。洗濯したあと、母親がきれいに折り畳んでくれたそれは、あの生ゴミ臭い制服を入れた白い紙袋とよく似た紙袋に入れられ、そのまま部屋の隅に放置されていた。
そうして季節はめぐり、静雄は3年生へと進級した。
クラス替えはあったものの、相変わらず腐れ縁の岸谷新羅と一緒のクラスだった。恐らく学校側の配慮だろう。なんとか静雄と話が通じる彼を、ストッパーとしておいておきたかったのかもしれない。とはいえ役に立たないのだが。
新しいクラスは新学期が始まったことに浮かれざわついていたが、悪い噂が絶えない静雄に話しかけてくる人など誰もいなかった。教室の、右から数えて2列目の先頭、そこが静雄の席だ。その右隣のはじっこの席に座り、どうあがいても理解できないだろう雑音めいた新羅の話を聞き流しながら、黒板の上にかけられた時計に目をやった。あくびをかみ殺すと、目じりに涙が浮かんだ。
チャイムが鳴ると、新羅が自分の席に戻っていく。入れ替わるようにして隣に座った名も知らない男子生徒は、静雄を見てビクビクしているようだった。横目でそれを見た後、静雄はめんどくさそうに机の上にひじを付いた。
担任の教師――確か、体育担当のベテランだ――が入ってきて、ホームルームが始まった。点呼がはじまる。教師が苗字を呼ぶたび、さまざまなトーンの返事があちらそちらからあがった。順調に進んでいたそれだったが、ある苗字を境に、ふっと途切れた。
「……なんだ、遅刻かー? ったく、新学期早々のんきなもんだ」
教師がため息をついて、手にした冊子に何かを書き込んでいく。そうしてまた、点呼が始まった。
「平和島ー」
「はい」
苗字を呼ばれ、静雄は返事を返した。その時、教師の顔が少し怯えたように見えたのは、気のせいではないだろう。こういうのには慣れっこだった。
ぼうっと黒板の緑色をじっと見ているうちに、点呼が終わった。教師が今日の日程の説明を始める。ロングホームルームのあと校内の大掃除。そして始業式のあと、またホームルームで今日は終わりだ。いくら午前授業とはいえ、こうも式ばっかりだと相当しんどいものがある。
「それじゃあ、クラス替えしたばっかだ、出席番号1番から順に自己紹介」
ええええーと、あちこちから声が上がる。それに同調するように、嫌な時間がきたものだと静雄はげんなりした。毎年恒例、ロングホームルーム内での自己紹介の評判が悪いのは、クラスメイトとの会話の機会が無い静雄でも知っていた。
「もう3年目でお前らクラスの顔ぼちぼちわかってるかもしんねぇけどな、俺は全っ然わかんねぇんだ。愚痴愚痴言わずにさっさとやる」
ブーイングがあがったが、出席番号1番の生徒が立ち上がり、自己紹介をはじめると、クラス内はすぐに静かになった。名前と挨拶だけで済ませる生徒もいれば、それに加え、自分の趣味や部活を交えて語る生徒もいる。ふざけた調子で話す生徒はごくまれだが、そういう生徒には決まって必ず人が集まる。
岸谷新羅です、よろしくおねがいします。そんな簡素な自己紹介のあと、新羅が着席するのをボーっと見つめ、静雄は無難に名前と挨拶だけで済ませることに決めた。
徐々に順番が近づいてくる。あと6人、あと4人、あと3人。そうしてとうとう静雄の番が来た。立ち上がり、自分の名前を名乗る。よろしくおねがいしますと最後に付け加え、席に着く。静雄の後ろの席の生徒が椅子を引く音がした。実にあっけなかった。
出席番号を後ろから数えて3番目の生徒が立ち上がったときだった。かすかに、廊下のほうからパタパタと足音が聞こえてくる。静雄は眉を寄せ、自己紹介を述べる生徒から視線をずらし、教室の後ろのドアに目をやる。と、いきなりドアが開いた。
「すっ、すみません。遅れました」
肩で息をしながら、女子生徒が駆け込んでくる。
来神高校は私立校なので、上履きは各自自由というわけではなく、学校指定のものを使う。おまけに、学年がわかりやすいように、学年ごとに色が違うのだ。赤、青、緑の3色をローテーションしている。飛び込んできた女子生徒は、3年生の上履きの緑色とは似つかわしくない、赤色の上履きを履いていた。
下級生が飛び込んできたことに、クラス内がどよめきたつ。一番後ろの席の男子生徒が、間違って入ってきちゃったのー? なんて話しかけるもんだから、クラスが余計に騒がしくなった。直後、入学式はまだだろうが、とにわかに突込みが入り、後ろの席の一角がどっと沸いた。
話しかけられた女子生徒といえば、首を傾げながら頭上にはてなマークを浮かべていた。
「あー、、とりあえず席について。遅刻理由は後でいいから」
「はい」
肩で息をした生徒は、きょろきょろと教室の中を見回し、クラスの中で1つだけ空いた席を見つけると、そこに向かった。新羅の席のすぐ近くだ。
静雄はそんな女子生徒をじっと見つめ、さらに眉を寄せた。どこかで見覚えがある顔のような気がしてならないが、どうにも思い出せない。
「――1年間、よろしくおねがいします」
最後の一人の自己紹介が終わると、教師の視線がと呼ばれた生徒のほうへ向いた。
「えっ、私?」
教師が頷くと、はへらへらと笑みを浮かべながら席を立った。
「ええと、その。です。不本意ながら、留年という形で、皆さんと一緒に勉強させていただくことになりました。できれば、気軽に話しかけてくれると嬉しいです。よろしくおねがいします」
ぺこりと頭を下げて、それからいそいそと席に着いた。
一瞬の間をおいたのち、教室内がどよめきに包まれる。
「あーこら静かにしろー」
教師が教壇を軽くたたくと、教室内がほんの少しだけ静かになった。
「聞いての通り、は留年生だ。とはえいえ、単位が取れず留年したわけじゃない。お前らも記憶に新しいと思うが、去年のゴールデンウィーク、学校のすぐそばで飲酒運転の車に轢かれ、意識不明のまま半年近く入院していた3年生の生徒がいただろう」
校内事情にうとい静雄でも、ピンときた。体育祭の実行委員に選ばれた3年の女子生徒が、ゴールデンウィーク後の体育祭に備え、夜遅くまで校内に残り、帰宅途中、飲酒運転の車に撥ね飛ばされ、意識不明で入院したという事件があった。当時、世間は飲酒運転を槍玉に挙げるような風潮があったため、全国ニュースでもひっきりなしに取り上げられていた。犯人は捕まったが、いまだに公判中だと聞く。
「と、いうわけで、だ。お前らより1つ上だけど、こいつはバカだからな。仲良くしてやれよ」
「ばばばっ、バカじゃないですよう!」
が慌ててまくし立てるものだから、教室のあちこちから笑い声が聞こえた。はきょろきょろと見回し、それから恥ずかしそうにしている。いじられキャラとしてすぐに馴染みそうな人柄だなと静雄は思った。
「んじゃホームルーム終わり。次、新学期恒例のアンケート書いてもらうから、そのまま待ってろよ。職員室に忘れちまってな、今持ってくるから」
教師はそう言って手ごろそうな生徒の名前を呼んだ。いやいやと文句をたれる生徒を引き連れ、教室を後にする。
すると、教室の中が騒がしくなった。まずトップバッター、ふざけた自己紹介をしていた男子生徒がの席に向かう。いきなりの事に、は苦笑しながらも、そのクラスメイトの質問に律儀に答えはじめた。
時折浮かべる笑顔を見るたび、妙に見覚えがあるなと静雄はモヤモヤしたが、どこで見たか思い出せず、モヤモヤはさらに溜まっていった。
何か思い出せそうで、でも思い出せない。記憶を探りながらのほうをじっと見ていると、ふいにがこっちを向いた。目が合う。
慌てて静雄が視線をそらすよりも先に、が目を丸くして、一瞬だけ静雄に笑いかけた。そして話しかけてきた別の生徒のほうを向いてしまう。
「……あ、」
呟いて口元を覆った。エプロン姿のあの女性の姿を思い出す。
おいマジかよ、と内心呟いた。相変わらずクラスの中はうるさかったが、騒ぎ声はどこか遠くで聞こえるように感じた。の近くの席にいる新羅は我関せずといった感じで本を読み始めている。この神経の図太さは尊敬に値するだろう。
5つくらいは年上だと静雄は思っていたのだが、年の差はたった1つだけだったようだ。
大掃除も終業式も終わり、さあ次はホームルームだという時間。
「しーずおくん」
机に突っ伏していると、正面からそんな声が聞こえた。まさかと思い顔をあげると、静雄の机の前に留年生のがしゃがみこんでいた。机のふちに手を乗せ、伺うようにこちらを見ている。
「っうお!」
慌てて飛び起きると、が楽しそうに微笑んだ。
「一緒のクラスだね、よろしくね」
言葉が出ない。こういう時どうしたらいいのかわからない。無表情で戸惑う静雄をよそに、返事が無いことを不安に思ったは、ほんの少しだけ首をかしげた。
「あれ、もしかして覚えてない? 去年の11月の終わりごろに……」
「あ、いや。ちゃんと、覚えてますんで」
慌てて、の言葉をさえぎった。
「そう? よかったー」
がほっと嬉しそうに笑う。その直後、拗ねたように口を尖らせた。
「服返すって言ってたのに、お店に来ないからね、忘れられたのかと思っちゃったよ。おじーちゃんもね、ちょっとしょんぼりしちゃって」
あの強持てのじーさんがしょんぼりする姿を想像し、静雄はぐっと喉を鳴らした。いい人だった。服を返すといった。なのに返さずのうのうと新学期を迎えてしまった。とたんに申し訳なさがのしかかってくる。
「あ、……う。その節は、すんませ……」
言いかけて、妙な視線を感じた。静雄が口を閉ざすものだから、は不思議そうに静雄を見上げていたが、静雄の後ろに目をやると、まるで静雄の身体の影に隠れるようにちょこちょこと移動した。なんとしに振り返れば、クラス中の視線が静雄に突き刺さっていた。
「あ゛ァ!?」
すごむと、静雄に向けられていた視線は、クモの子を散らすようにあちらそちらに向いた。それからハッとしてのほうを見れば、ニコニコと笑っている。
「にんきものだねえ」
ごくごく小さなヒソヒソ声で、しみじみと言われた。
「どっちがだ……ですか」
つられて静雄も声のトーンを落とす。クラスメイトにはあまり聞かれたい話ではなかった。も恐らく同じ考えだろう。でなければ声を小さくしたりはしない。
しかし、どう考えても、今のは静雄を気にしているというより、を気にしての視線だった。
「えー? 静雄くんは人気者じゃないかな。前の学年のとき、結構ウワサになってたよ」
どういう意味で噂になっていたのか。静雄は少し気になったが、聞かないほうがいいだろうと判断した。どうせ大方、暴力がらみの事で噂になっていたんだろう。静雄に付きまとう噂というのはいつもそれだ。とはいえ、事実も含まれているので静雄自身否定はできないのだが。
そう考えて、はたと気づいた。噂を知っていたとなると、去年ゴミ捨て場で会ったとき、彼女は静雄のことを知っていたのではないだろうか。
「あの、もしかして、はじめから知ってたんすか」
「んー? 何を?」
「その……、俺のこと」
意に反して、声のトーンが尻すぼみになる。
「知らなかった、って言えばうそになるけどね。卒業するまで、噂の平和島くんとは絶対接点ができないと思ってたから」
ごめんね、と申し訳なさそうに笑った。
「まあその、なんだ。あれだ。どれだ! ……えーとね、これもある種の縁だと私は思うし、できれば仲良くしてほしいなって」
だ、だめかなあ? と気まずそうに問われ、静雄は無言になる。
他意の無い、純粋な好意を向けられるのは、正直なところ嬉しかった。むしろ、嬉しくないやつなどいないだろうと静雄は思う。だが、ここでハイと頷く勇気が静雄にはなかった。不良と呼ばれる自分とつるんだらどんな事になるかくらい静雄だってわかる。根も葉もない噂を立てられ、一緒くたに迫害されるのがオチだ。新羅がいい例だろう。いや、新羅はもともと変人の部類で友人は皆無だったが、それでも静雄とよく一緒にいるせいで、噂に尾鰭がついているように思えた。
「だめとかいうわけじゃないスけど、その」
期待をこめた眼差しで見つめられ、静雄は若干身体を引いた。視線をそらし、しばらくの間考え込み。
「……よろしく、おねがいします。先輩」
男は度胸。なるようになれ、だ。決して、余計な事を考えるのがめんどくさくなったわけじゃない。
しかしそんな静雄の言葉が気に障ったのか、が不満そうな表情になった。
「クラスメイトなのに、先輩はないでしょー。気軽にさ、名前で呼んでよ。敬語も使わなくていいから」
「ぐ」
いきなり静雄にとってハードルが高いことを強要された。口を引き結ぶ。しばらくしてから、意を決して口を開いた。
「その、よろしく、」
「うん、こちらこそ」
おずおずと差し出されたの手を見つめ、静雄はそれを凝視したのち、遠慮がちにその手を取った。
けれども、握り返すことはしなかった。なんとなく、壊しそうで怖かったのだ。
そんな光景を後ろから見つめていた新羅は、へえ、と小さく呟いて口元を緩めた。
化け物と恐れられるあの静雄に、ああも普通に接してくれる人がいたのは、意外なんて言葉では到底あらわせなかった。静雄が留年生と話しているのに気づいたときには、さすがの新羅も驚きで目を丸くした。2人の様子から察するに、以前何かしらの接点があったのだろう。しかし新羅はそれを知らない。
今日の帰り、静雄に問い詰めてみたほうがいいかもしれない。これからの楽しみが1つ増え、新羅の気分は高揚したが、ふとした思い付きからある考えに行き当たった瞬間、まるで火に水をかけるように、そんな高揚感は一気に冷めてしまった。
この事実を、あの折原臨也が知ったらどうなるだろうか。今の今まで、静雄に近づこうとした女子生徒をすべて横からかっさらっていたのを、新羅は知っている。けれども、そんな女子生徒たちがいたのを、静雄はこれっぽっちも知らない。もしそれを静雄が知ったらどうなるかわからないから、新羅は臨也の影の悪行を心の内に秘めたまま、墓場まで持っていこうとすら考えていた。
臨也は自分が知らないことがあるのをひどく嫌う性質だ。静雄と仲良くしているの姿を見て、臨也がどう思うか、新羅には簡単に予想が付いた。鵜の目鷹の目、臨也はの身の回りのことを調べつくし、そしてちょっかいを出してくるだろう。
が笑顔を浮かべるのを見つめる。新羅のほうからは静雄の後頭部しか見えないが、恐らく、静雄も笑っているのだろう。
新羅は文庫本を閉じて、嘆息した。
今年こそは無事に過ごしたかったのだが、静雄や臨也と関わりがある以上、波乱からは逃れられそうに無い。何かしらに巻き込まれそうで、新羅は面倒だと言わんばかりに、深いため息をついたのだった。
2011/11/24
2011/12/05 修正