うーん、と上司の田中トムが困ったように唸るので、静雄は自然とトムの表情を伺った。
「どうすっかなあ…」
首の後ろに手を回して、呆れたような、諦めたような声で言う。
「どうしましょうね」
静雄も同調するように言って、“もぬけの殻”となった部屋の中、中央にぽつりと置かれた大きなスーツケースに視線を向けた。
暦の上では春ではありながらも、肌寒い日が続き、はっきりとした暖かさを覚えるのは当分先だろうというこの季節は、いわば新生活の節目でもある。だからなのか、借金苦などの家庭の事情を理由にこっそり逃げ出す人が多かったりする、いわば“夜逃げの季節”でもあった。
ことの発端は静雄が勤める親会社が運営する出会い系サイトにて、あろうことか自分の妻を偽名で登録し、結婚詐欺まがいの行為を行い、それにより被害を受けたという男性の通報から始まった。形ばかりのサポートサービスが調査を行ったところ、それらしいことは数件あったらしく、被害総額はなんと80万円。おまけに利用料の支払いも滞っており、これはよろしくないと判断したお上からの通達により急遽向かったこの貸部屋の持ち主は、見事このとおり、行方をくらました後であった。
何度インターフォンを押しても反応せず、アパートの管理人に事情を説明し、無理を行って鍵を開けてもらったところ、家具はおろかホコリや髪の毛すら落ちていなさそうな部屋の中に、大きな旅行用の黒いスーツケースが一つだけ残されていた。窓から差し込む光を反射する、つるつるとした表面のスーツケースには、ノートの切れ端のようなものがセロテープで貼り付けてあり、そこには水性の黒ペンでこう書かれてあった。
――『申し訳ありませんが、利用料はこの中身でお支払いお願いします』
トムはその紙切れを一瞥するなり乱暴に剥ぎ取ると、スーツケースのファスナーを下げた。中を覗き込めば、かび臭いような独特の臭気を放つ古本がぎっしりと詰まっている。静雄はトムのそばにしゃがみこみ、おもむろに一冊手に取った。ぱらぱらとめくってみれば、よほど古いものらしく、文字はかなり小さくて、独特のつんとする臭いがした。改めて本の表紙を見れば――タイトルは『舞姫』だった。高校のときに教科書に載っていたやつだと、静雄はぼんやり思い出す。
「これ、いくらくらいするんすかね」
「10円もいかねぇだろ。いや、1円でもきついかもな」
トムが言うならそうなんだろうと静雄は納得した。確かに、この古い文庫本がおよそ10円も払って引き取るほど値打ちがあるものとは思えなかったからである。
ほかの本もまちまちといった感じで、どう見てもこの文庫本で利用料を支払いきれるとは思えない。トムも静雄と同様に文庫本を検分していたが、
「ったく、随分と舐められたモンだなオイ…」
そうはき捨てて、手にしていた本をスーツケースの中に放り込んだ。
「疑問です。舐められたとは、何に対してですか?」
僅かに片手を挙げ、ヴァローナが尋ねた。まるで教師に尋ねる生真面目な生徒のようである。
「あー、その、……ここに住んでた客にだよ」
「客に舐められる? 客が不在なのに? ありえません」
「そういう意味じゃなくてな……あーもう説明するのもめんどくせぇよ……」
はーとため息をつく姿は、心底がっかりしているようだった。静雄もなんだか怒る気にもなれず、スーツケースのファスナーを閉め、横にして置かれたそれをたたせてみる。スーツケースは静雄の腰ほどの高さがあった。素直に「でかい」と思う。
「それで、これ……」
「とりあえず……持ち帰るしかねぇべ」
「っス」
取っ手を引いて、ガラゴロと引っ張りながら部屋の中を歩き、アパートの管理人と一緒に部屋を出る。トムと管理人が何事かを話している間、静雄はヴァローナと二人並んで、やや暗くなりつつある景色を見つめながら、何をするでもなくぼーっとしていた。そうして、数分もしないうちにトムが二人のところへ戻ってくる。
腕時計で時間を確認し、ふう、と鼻から息を吐き出し、
「帰るか」
その声に、静雄とヴァローナは同時に頷いて見せた。
ガラゴロガラゴロ、と音を立てながら、静雄は大型のスーツケースを引いて、トムの隣を歩く。時折、首だけで後ろ振り返って、ヴァローナがちゃんとついてくるかを確認し、正面を向く。それを何度か繰り返し、池袋駅東口付近に来たころになって、唐突にトムが「あっ」と声をあげた。その声に釣られて、静雄とヴァローナの肩がびくりと跳ねた。
「悪い、二人とも、ここら辺で待っててくれ」
「どうかしたんすか?」
「ちょっと振込みしなくちゃなんなくてよ」
「あ、そうすか。じゃあ……」
そう言って、静雄は喫煙所をあごで示す。
「あそこで待ってますんで」
「わかった。すぐ戻るから」
「了解です」
小走りで駅構内に入っていく後姿をぼんやり見送り、静雄はヴァローナを連れ立って喫煙所に向かう。歩道と車道を区切る欄干のそばにスーツケースを置くと、静雄は胸ポケットから煙草を取り出し、喫煙所を囲むようにして煙草をすう喫煙者を一瞥し、それからはっとしたような表情になってヴァローナを見下ろした。
「煙、大丈夫か?」
静雄に話しかけられ、ヴァローナはきょとんとした顔で静雄を見上げた。それから怪訝そうに小首をかしげてみせる。
「平気です。それに、ここで待つと静雄先輩は言いました」
「でもな、身体に悪いだろ? 煙草吸うやつより、周りの人のほうが影響あるっつうじゃねぇか」
ふむ、とヴァローナは考え込み、
「副流煙による受動喫煙のことを先輩は言いたいのですね。心配無用です」
「心配無用って、こんだけ人いんだし、肺がんとかになったらやべぇだろうが……あ、そうだ」
いいことを思いついた、と子供っぽい顔になると、静雄はがさごそとポケットをあさり始めた。そして、綺麗に折りたたまれたハンカチを取り出す。見るからに男性用の、渋い色合いのそれを、「ん」とヴァローナに差し出す。
「どうしようもなくなったら、これ口に当ててろ」
「……ありがとうございます」
困惑気味に首を傾げつつも、ヴァローナは静雄の差し出したハンカチを手に取り、それからほんの少しだけ口元を緩めた。しかしそれも一瞬のことで、静雄はそれに気づいた様子なく、ヴァローナから少し距離を置くと煙草に火をつけた。
煙を吸い込んで、吐き出す。それをゆっくり二、三度繰り返し、煙草の灰を灰皿に落とす。静雄が立ち去ると同時に、黒いスーツの、眼鏡をかけた精悍そうな顔つきの男がやってきて、同じように煙草の灰を灰皿に落とした。それを横目で見てから、ヴァローナのほうに視線を向ける。
静雄に言われたとおり、ヴァローナは口元にハンカチを当てて、ぼんやりと車や人の流れを見つめていた。白人でスタイルもいいので、絵になるなと静雄はぼんやり考え、――ふいに違和感を覚えた。
「ん?」
目を凝らす。
「んんん?」
ヴァローナの奥、静雄が置いたスーツケースが、“二つ”に増えていた。
煙草をくわえたまま片手でサングラスを押し上げ、目を擦る。何度か瞬きしてから再度目を向ければ、やっぱりスーツケースは二つに増えていた。まったく同じ色、同じ形のスーツケースが、二つ寄り添うように並んでいる。どういう現象だろうか。
静雄は迷った末に、ヴァローナのほうに近寄った。
「ヴァローナ」
「なんでしょうか」
返答とともに、ヴァローナが口からハンカチをはずした。
「それ、増えてんだけど」
静雄が指摘して初めて気づいたのか、ヴァローナもスーツケースのほうに目を向け、はっとした様子で目を見開いた。
「分裂していますね」
「……見てたか?」
「いえ。先輩は?」
「見てたら言わねぇよ」
「それもそうですね。納得です」
二人して、むう、と考え込む。
「思うに、後から来た誰かが置いたのではないかと推測します」
「だ、だよなあ。分裂するわけねぇよな!」
「当然です」
それからヴァローナは首だけで振り返り、灰皿を囲む面々を見つめる。静雄もなんとなくそれに習い、喫煙所のほうを振り返った。
営業中のサラリーマンのような風体の男性が三人、学生っぽい出で立ちの、私服の男女が二人、計五名が喫煙所を取り囲んでいる。スーツケースの大きさや形から察するに、学生の持ち物ではないだろう。見たとこおそらく、前者の三名のうちの誰かの持ち主なのだろうと、静雄は推測した。
――のも束の間。
「いっでぇ!」
不快で間抜けな声とともに、ドタンガタンと音を立てて、何かが倒れる音が響いた。その音にはっと反応した静雄とヴァローナは、同じタイミングでスーツケースのほうに顔を向ける。
二つのスーツケースは地面に転がっており、そのそばに私服の、チンピラっぽそうな青年が座り込んでいた。その周りを取り囲む、似たような雰囲気を放つ青年たち。見たとこどっかの学生だろう。道幅いっぱいに並んで歩いていたのかは知らないが、おしゃべりに夢中になるあまり注意力散漫になってスーツケースにぶつかってこけたのだと、安易に想像することができる。
「くっそ、なんだよこれ! 邪魔だなっ!」
転んだ青年が立ち上がりざまスーツケースの片方を蹴り飛ばし、周囲がどっと沸いた。アホだ間抜けだとはやす声に、静雄の口元が僅かにひくついた。ぽかんとするヴァローナをよそに、静雄はずかずかと足を踏み出し、
「おいてめぇら」
「あぁ? んだよオッサ……」
静雄の声に青年は振り向きざま不快そうにそう吐き捨てかけ、ピシリと固まった。静雄の姿を上から下まで、文字通り隅々見渡し、『金髪』『バーテン服の男』というキーワードに当てはまる静雄の正体を察したようで、口を引き結ぶと後ずさった。
「人のもの倒して、蹴っ飛ばしといて、謝りもしねぇのか? あぁ?」
「す、すんませ……」
「すんません、じゃなくて、ごめんなさいだろうが」
「ご、ごめ……」
「聞こえねぇなぁ……声が小せぇんだよ!」
“青年に絡む悪名高いチンピラ”の図に、喫煙所にいる人はおろか、通り過ぎる通行人でさえ距離を置く。見かねたヴァローナが大事にならないよう口を挟むべく足を踏み出そうとした瞬間、ヴァローナの横をすっと一人の男が通り過ぎた。ヴァローナは男の顔を横目で見るなり、目を見開いて固まる。
「スミマセン。スーツケース、よろしいでしょうか?」
静雄の隣に立ち止まるなり、カタコトっぽく少し変な日本語で、静雄に話しかけたのは、喫煙所にいたあの精悍そうなスーツの男であった。眼鏡の奥の瞳は柔和に細められていて、さすがの静雄も「あ?」と呟いて固まった。
「……聞こえなかったですか? もう一度言いますね。スーツケース、よろしいでしょうか?」
そう言われて静雄は腑に落ちたような顔になった。頷いてパッと飛びのくと、男は首をかしげながらも片方のスーツケースを立てると、ガラゴロガラゴロと引きずって足早に歩き出す。そのすきに青年たちが走って逃げ出したが、静雄は追いかけるような真似はしなかった。
男の後姿をぼけっと突っ立って見送る静雄の隣に、ヴァローナがやってくる。
「大事はないですか、静雄先輩」
「まあ、な」
ヴァローナを見下ろし、再度、男が向かったほうを見つめる。
「なんだ今のやつ。日本語変だったぞ」
「顔立ちとイントネーションから察するに、中国系の人間と思われます」
そう言い放つヴァローナは、まるで警戒する野良猫のような空気を纏っていた。静雄と同様に、男が向かったほうを見据え、
「嫌な感じです」
心底といったふうに、そう吐き捨てた。珍しく不快感を露にするヴァローナをきょとんとした顔で見つめ、静雄はぽりぽりと首の後ろを掻き、とりあえず倒れたままのスーツケースを起こした。砂埃を払い、ようやっと一息つくと、人ごみの中に見慣れたドレッドヘアを見つけ、静雄は慌てて灰皿の中に吸いかけの煙草を押し込んだ。
「すまん、待たせちまった」
「いえ」
「……なんか変なことあったか?」
静雄とヴァローナは互いに顔を見合わせ、
「いいえ」
「ないっす」
二人してまったく同じタイミングで首を振るものだから、トムは苦笑を浮かべるほかない。
「……あったんだな。まあいいや。帰んべ」
「っす」
割と細かいことは気にしないトムに内心感謝しながらも、静雄はスーツケースをゴリゴリ引きずって、歩き出すトムの後ろに続いた。
* * *
帰り道「荷物置いたら夕飯を食いにいかねえか」というトムの問いかけに、静雄とヴァローナは二つ返事で頷いた。新しくできたというどこかの国の民族料理の店に行こうと、とんとん拍子で予定が決まり、静雄はさておきヴァローナも少し浮かれた様子であった。
――のだが。
事務所内に入るなり、トムは社長に客が逃げたことを報告しに行って、それっきり戻ってこなかった。かれこれ10分は経っている。怒られているのかもしれないが、それでも怒声らしい声は聞こえてこない。
黒い革製のソファに静雄とヴァローナは深々と腰を下ろし、事務担当の女性社員からもらったお茶で喉を潤しながら、そばに置かれたスーツケースを横目で見る。おそらく時間がかかっている原因はこの件だろうな、と静雄はぼんやり考え込む。何せこの持ち主である、あの部屋にいた利用者はどこかに行方をくらましてしまったのだ。対応に追われているのだろう。
と、いきなり部屋のドアが開いた。トムが入ってくるのに続けて、どこぞの俳優をくたびれさせたような顔の社長が入ってくる。
静雄が立ち上がろうとすると、社長は片手を振ってそれを制し、
「これか?」
「そうです」
社長の問いかけに、トムが静かに返す。
「あー、中身、文庫本ばっかだって?」
社長に問いかけられ、トムと静雄、ヴァローナがそろって頷いた。
「おそらく金の足しにもならないんじゃないかな、と。このスーツケースが一番高いんじゃないですかね?」
トムが言うのをちらりと見上げたあと、説明の殆どはトムがしてくれるだろうと、静雄は茶に口をつけた。
「……だろうなあ。とりあえず開けて、検分するか。欲しいやついたらあげて、残ったぶんは売っちまえ」
その社長の一声に、部屋の中にいた社員がちらほら集まり始める。どうやらスーツケースの中身が気になっていたらしい。
トムがスーツケースを床に倒し、ファスナーを開け始める。じーっと音がするのに反応し、静雄の隣に腰掛けていたヴァローナが、静雄の肩越しに覗き込むように身を乗り出した。
トムが蓋を開ける。スーツケースの中身が蛍光灯に晒される。
そこにあったのは大量の文庫本ではなく――
――紛れもない“人間”だった。
全員が無言になる。
そのなかで静雄だけが、飲んでいた茶を盛大に噴出した。弟にもらった服を汚してしまった事に慌てた様子で、テーブルの上に置かれた台拭きを手に取った。汚した箇所を拭き取る音が、やけに大きく響く。
「ええっと……?」
女性社員のひとりが片手を口元に添えて、困惑げに呟いた。無理もない。
身体を折るようにして詰め込まれているその人の服装は、寝巻きと思われる、さわり心地のよさそうなワンピースのみを身に着けていた。ほっそりとした首筋に、倒れそうな手足。見るからに女性だとわかる。
年のころはおそらく、ヴァローナと同じくらいか、それより下だろう。とはいっても、口の部分だけ丸く切り取られたレザー素材の拘束用フードをかぶせられているため、顔はわからない。おまけに、口の部分が切り取られているとはいえ、ご丁寧に同じ素材のギャグもはめられていた。
静雄はこういう器具があるということは“なんとなく”知っていたが、それでも現物を使用しているのを直に目にするのは初めてだった。とはいえ、そういう目的でこれを装着させられているわけではないだろう事はすぐにわかる。両手足もレザー素材の拘束具で縛られ、1ミリたりとも身動きできないように固定されていた。
まさにこの人間を“運ぶ”ためにこうしたとしか思えない。
おまけに、一見ネックレスやペンダントといったアクセサリーと見紛うような、華奢な鎖でできた“首輪”でスーツケースの金具と繋がれているから、尚更である。
一分もしないうちに、この部屋にいる人間全員が状況を飲み込んだのか、見るからにあたふたとし始めた。静雄も例外ではない。
スーツケースの中身は大量の文庫本だとこの目でちゃんと確認したのだ。だというのに、何がどうなって、文庫本が人に代わったのか。静雄にはさっぱり理解不能であった。
「い、きてるのか、これ?」
社長のか細い呟きを聞き取ったトムが、瞬時に女性の口元に手を差し出した。鼻呼吸ができるようにしてあるフードだったらしく、トムの手のひらにわずかに風の流れが当たった。安堵したように息を吐く。
「生きてます。救急車か警察、呼びますか」
「それはまて。いくら人命優先でも、それはまずい」
青ざめた顔で呟く社長に、静雄は何も言えなかった。
この会社の業務内容はあまり大っぴらにできない、いわゆる“悪いことに足を突っ込んでいる”会社なのだ。警察に探りを入れられたら、どうなるかわからない。人命優先だとは思うのだが、それでも、周りの誰もが通報しようという行動を起こすことはなかった。静雄も通報するという発想には至れなかった。職場を失う怖さから“保身”に走ってしまうのは、静雄の“暴力的な性質”上、仕方のないことだろう。もしここが潰れたら、トムも静雄もヴァローナも、ここにいる全員が路頭に迷うことになる。それだけは避けたかった。
ふいにヴァローナが立ち上がり、スーツケースのそばにしゃがみこんだ。誰の許可もなく女性の身体を起こし、口元に手を伸ばす。スナップで固定されたギャグをはずした。
「……は、」
女性の口から、安堵したような、小さな呼吸が聞こえる。ヴァローナはそれを気遣う様子なく、一度だけ女性の身体を抱きしめ、思案げな表情になると、
「体温が著しく低下しています。毛布などはありますか」
よくよく見れば、女性の身体は小刻みに震えていた。恐怖からくるものか、それとも寒さからくるものか、およそ定かではないが。
「毛布か、ちょっと待ってくれ」
問われた社長は立ち上がり、周りの社員に指示し始めた。静雄も茶碗を茶托の上に置き、スーツケースのそばにしゃがみこむ。
女性の足首に巻かれた革紐を検分し、スナップボタンを見つけ、おもむろにそれをはずした。ぐるぐると巻きついたそれを取り外す。ヴァローナも女性の後頭部に手を回し、手探りでファスナーを探し当てると、それを勢いよく下げた。ゆっくりと慎重な手つきでフードをはずす。
結構な時間フードで固定されていたせいか、変に癖のついてしまった前髪の下、一般的なアイマスクが目の辺りを覆っている。ひどく念入りに拘束していたようだ。ヴァローナは眉間に皺を寄せながら、丁寧にそれを剥ぎ取った。
――女性、というよりは、少女、といったほうがしっくりくる顔立ちであった。
少女が薄らと開いたまなこをヴァローナに向ける。何度か目を瞬かせているそのうちに、静雄はそろそろとした手つきで、手首に巻きついている拘束具を外してやった。両端にスナップのついた革紐をぐるぐると巻き取り、一息つくと、妙に視線を感じた。黙って顔を上げる。
少女と目が合った。
まるで出来のいい人形のような少女の顔のつくりを見つめ、静雄は無意識に唾を飲み込む。
「大丈夫ですか」
先に声を発したのは傍らに立つトムだった。はっきりと聞き取りやすい声だと静雄は認識したつもりであったが、しかし少女はぼうっと夢見がちな目つきでヴァローナと静雄を見るばかりだ。まるで聞こえていない様子である。
トムはやや思案げな表情になり、少女の肩に手を置いた。少女ははっとして、けれどもゆるゆると、まるでゼンマイ式人形のように首を動かしトムを見る。
トムはわずかに目を見開き、
「俺の声が、聞こえますか?」
少女は僅かに首を傾げるのみで、それ以外に反応はない。
まさか耳が聞こえない、もしくは口が利けないのではないかと考え込むトムをよそに、静雄はむうと困ったように少女の耳を見つめた後。
「あの、トム先輩、この子、耳栓してます」
「それをはやく言おうな静雄!」
耳栓を外しにかかろうとしたとき、少女が僅かに動いた。ゆっくりとした動作で、自分の耳にはめられた耳栓を外す。俯きがちになったとき、少女の首にかかった髪が、流れるように零れ落ちた。さらさら、と綺麗な音がしそうなほどだった。
少女が顔を上げる。
「ここは、どこでしょう」
誰にともなく発せられた言葉は、流暢な日本語だった。さらさらと綺麗な感じのする発音だと、静雄はぼんやり思う。
少女の問いにどう答えようかと、静雄含め、その場に残った社員たち全員が、顔を見合わせる。
「池袋です。日本の」
先手をきったのはトムであった。その言葉に少女は少し考え込み、
「にほん、」
「そうです」
トムが頷くと、少女は自分を取り囲む面々の顔を見回す。
それから、安堵したようにふっと息を吐いて――
――スーツケースの上に倒れこんだ。
しーんと、あたりが静まり返る。
しかしそれもほんの数秒の事だった。
「毛布、もってきました!」
女性社員の声に、全員がはっと我に返る。
「そ、ソファ! そこのソファに寝かせろ!」
社長の声に静雄はコクコクと頷いて、少女の身体を抱き上げる――のだが、少女の首輪の事を失念していた。それゆえ、勢い良く抱き上げた瞬間、ビィン、とはじくような音を立てて鎖につながれたスーツケースが宙に浮いた。少女の首がスーツケースの重みで傾く。
「やばい! 死ぬ! 死ぬから静雄!」
「あ、えと、すんませんっ!」
静雄は慌てて少女の身体を下ろし、少女の首輪とトランクを繋いでいる、ネックレスの素材にありそうな華奢なチェーンを両手で掴み引っ張った。ブチリと音を立てて簡単に切れる。
再度少女の身体を持ち上げて、黒いソファに横たわらせる。すかさず毛布を抱えた女性社員がやってきて、少女の身体に丁寧に毛布をかけた。
その場にいる全員が、ふうと息を吐く。
しばらくして。
「お医者さん、呼んだほうがいいんじゃないでしょうか?」
毛布をかけた女性社員が、哀れむような視線を少女に向けつつ、その場にいる全員に問いかけた。
静雄の脳裏に、腐れ縁の顔がよぎる。
「気絶しているだけで平気でしょう。衰弱している風には見えません。そのうち目を覚まします」
ヴァローナが言う。医者でも看護師でもないヴァローナだったが、それでも真面目な顔できっぱりと言うものだから、妙な説得力があった。誰もがそれに納得し、反論はしなかった。
しばらくの間、室内は不安を伴う静寂に包まれていたのだが、社長がこほんと一つ咳払いすると、
「とりあえず仕事にもどれ。終わったやつはさっさと帰る!」
鶴の一声に、ソファに集まっていた社員が散り散りばらばらになり、自分の持ち位置に戻っていく。恐る恐る帰宅準備を始める社員もいた。
「田中、本が入ってるって言ったよな。どういうわけだ? 本が人に化けたのか?」
「お、俺にもさっぱりで、静雄もヴァローナも確認したよな?」
トムの声に、静雄とヴァローナは頷いた。社長は顔をしかめ「どういう事だぁ?」と半ば絶望的に呟く。
それをぼーっと見下ろしながら静雄は、ある事を考えていた。
ここに来る前に寄ったあの喫煙所。かたことの日本語の、スーツの男。蹴られて地面に転がったふたつのスーツケース。
――もしかすると、だ。
もしかして、あの時、――あの男がスーツケースを“取り違えた”のではないだろうか?
何せまったく同じ形のスーツケースだったのだ。可能性としては、ありえなくもないだろう。そうすれば、スーツケースの見た目はそのままに、中身がすり替わっているのも頷ける。
じゃあなぜ、あの男は、スーツケースの中に少女を入れていたのだろうか。ご丁寧に、拘束具まで着けさせて。
人身売買、身売り、誘拐。不穏なキーワードが静雄の頭の中を駆け巡る。
なんにせよ、この少女に起きた出来事は全うな事ではないのは確かだ。明らかに犯罪じみたそれである。
真顔で考え込む静雄の右袖を、ヴァローナがちょいちょいと引っ張った。
「静雄先輩、もしかすると、あの喫煙所のときではないでしょうか」
どうやらヴァローナも同じ事を考えていたらしい。
「ああ、俺も同じこと考えてたよ。あん時しか考えられねぇ」
「……やっぱお前ら、喫煙所でなんかやらかしたのか? やらかしたんだな?」
「否定します。やらかしたのは通行人であって、静雄先輩ではありません」
「あーそうかそうか。で、何があったんだ?」
静雄は手短に、喫煙所であった出来事を、順を追って説明した。
スーツケースを置いていたら、いつの間にか同じスーツケースがそばに置かれていたこと。そこに通行人がぶつかって、スーツケースが倒れたこと。どっちがどっちかわからなくなった状況で、カタコトの中国系の男が静雄たちのスーツケースを間違えて持っていってしまったこと。
すべて聞き終えたトムは非常に微妙そうな面持ちであり、隣に立つ社長にいたっては、心底げんなりした様子であった。
トムが「あー」と所在なさげにぼやき、
「つまるとこ、あれか? これは偶然の産物によるものか?」
「肯定します。意図してこのような状況になったわけではありません」
「じゃあそのカタコトの男? の荷物がこれってわけだな」
トムが少女を見下ろすので、それに釣られてその場にいた全員の視線が少女に向けられた。眠ったように気絶したその顔はひどく穏やかで、見るからにいたいけな雰囲気をかもし出している。
「まさか、人身売買とか誘拐の類じゃねぇよなあ……」
トムの言葉に、社長も「むう」と唸った。どうやら考えることは誰しも一緒なようだ。
この精巧な人形のような少女に、およそ静雄の手に届かない値段が付けられていても納得が出来るし、金目当ての誘拐として人質にされるのも頷けた。すんなりと納得させてしまう何かがある。気品とでもいえばいいのか、明らかに別世界の人間だという雰囲気を感じ取ってしまう。
「とりあえず、どうします?」
「目が覚めたら話を聞いて、それから考えるしかねぇだろ」
社長が吐き捨てるように言った。
「じゃあ、外食は、また今度、ということですか」
「だな。まー、腹減ったらコンビニから何か買ってくればいいだろ」
「っすね」
ほんの少し肩を落とすしぐさを見せるヴァローナだったが、文字通り“ほんの少し”の動作だったので、その場にいた誰もが気づかなかった。
とりあえず、買出し部隊をグーパーで決めた結果、静雄が一人残る形となってしまった。
同僚はすべて帰宅してしまい、事務所内には誰も残っていない。他のフロアにはまだ残っている人もいるだろうが、静雄のいる部屋には気絶した少女以外誰もいなかった。
少女が横たわるソファの対面側に腰掛け、何をするでもなくぼうっと少女を見つめる。会話もなく、変にうるさくもないが、それでもいやに居心地が悪かった。というのも、少女が目を覚ました時のことを考えると、どうしたらいいのかわからないがゆえに、なんとなく鬱々としてしまうのである。
二人が早く帰ってくるよう願いつつ、口寂しさを紛らわすためテーブルの上の茶碗に手を伸ばし、
「あ、」
そういえば、女性社員が帰り際に淹れ直してくれたお茶は、さっきすべて飲んでしまったことを思い出した。
静雄は迷った末に、茶碗を片手に立ち上がった。
給湯室に向かい、まだ温かいままの急須の中を覗き込み、ふやけた茶葉を取り出して流しの三角コーナーに捨てた。急須を濯いだ後、棚から茶筒を取り出し、適当に茶葉を入れる。電気ポットのロックを解除して、急須に熱湯を注ぎ、少し時間を置いてから茶碗に注いだ。
熱い茶碗を手にしながら、零さないように気をつけつつ、事務所に戻る。
扉を静かに閉め、一直線にソファに向かうと、テーブルに茶碗を置いてから深々と腰を下ろした。一息ついて茶碗に手を伸ばす。
何気なく顔を上げた先。ソファに横たわったままの少女は、静雄の方をぼんやりと見つめていた。
――息を呑む。
「……あの」
伺うような声に、静雄の身体がビクッと固まった。
困惑して動けない静雄をよそに、少女がのろのろと身体を起こす。
「ここは、どこでしょう。あなたは、どちら様でいらっしゃいますか」
怯えをほんの少し含んでいるせいだろうか、それとも単に寒いせいか、静かな調子で尋ねる声は震えていた。
静雄は生唾をごくりと飲み込み、きょろきょろと辺りを見回した。頼れる人はおらず、自分しかいないことを再確認し、それからすうと息を吸い込んで。
「ここは日本だ。東京の、池袋。わかるか?」
「いけぶくろ――、はい、わかります。そういえば、さっきも、同じようなことを尋ねましたね。すみません」
ほんの少しだけ、ぎこちなく微笑んだ。静雄といえば、そんな顔を向けられ、さらに固まるばかりだった。ようやっとの事で首を振ってみせる。
とりあえず、意識ははっきりしているようだし、見たとこ他に怪我をしていたりとかいう風には見えない。医者に見せる必要はなさそうだ、と静雄は判断した。
次は何を話したらいいのか思考を巡らせ、とりあえず名乗る事にした。
「俺は、平和島静雄だ。平和島、静雄」
「へいわじま、しずお、さん?」
「ああ」
少女がゆっくりと、自分に言い聞かせるように静雄の名前を呟いた後、にこりと笑って「すてきなお名前ですね」と付け足し、
「わたしは、・と申します」
「……?」
「はい」
こくりと頷きながらの声は、わずかに震えていた。
静雄は眉間に皺を寄せ、やや小首を傾げると。
「寒いか?」
が申し訳なさそうに頷く。
「……ちょっと待ってろ」
立ち上がり、給湯室に向かう。食器棚から少し大きめのコップを取り出し、さっきの茶葉で茶を淹れると、事務所に戻る。
「これ、飲めば温かくなると思うからよ」
ソファに向かうなり、いきなりそう言って差し出した。はおずおずとそれを受け取り、両手で包み込むように持つ。
「ありがとうございます」
「いや」
首を振る。
がぎこちない動作で、コップに口をつける。こくりと喉が鳴ってから、小さな声で「おいしい」と呟いた。の表情が少し柔らかくなり、静雄は意味もなくほっとする。
「平和島さんは、あの方たちとは、無関係のかたでしょうか」
「あの方、たち?」
「……無関係、なのですね」
があからさまに胸をなでおろす。そして、見るからに警戒心を解いた。ゆるゆると肩の力を抜いて、コップに口を付ける。
とりあえず、少女の口ぶりから察するに、をスーツケースに詰め込んで運ぶような真似をする馬鹿は“複数いる”らしい事を、静雄は察した。
「どうして、わたしはここに?」
がぐるりと事務所内を見回す。
「あー……っと、その……俺、説明へたくそだし、わかんねぇかもしれねぇけどよ、」
静雄は今までの出来事を手短に、わかりやすいよう気を付けながら頭の中で整理し、適当な説明をした。すると、話を聞き終えたは「まあ」と目を丸くして。
「それでは、わたしは平和島さんに、助けられたということになりますね。ありがとうございます」
「あ、いや、ええと。俺は別に大した事してねぇんだけど……」
頬をかいてしどろもどろに言う。本当に何もしていないのだ。間違えてスーツケースを運んだだけで、結果的にこういう状況になってしまったが、あの時は別に助けるようなつもりはなかったのである。ただ荷物を引きずって運んだだけだ。
それでもは首を振り、「そんなことはありません」と目を細めて微笑んだ。そして、首をほんの少しだけ傾げて。
「平和島さんがいま行ったのが、けんそん、というものですね」
何がおかしいのか、くすくすと笑いはじめる。それもしごく楽しそうに。
その顔をぼけーっとした表情で見ていた静雄だったが、はっと我に返ると、
「はその、日本人じゃない、よな?」
「はい」
「ああ、やっぱりそうか。そうだよなぁ」
ふんふんと頷く静雄に、が不思議そうにきょとんと目を丸くする。しかし、次の瞬間には不安げに顔を曇らせて、
「もしかして、わたしの言葉、何かおかしいところが」
「ああいや、違う。そういう意味で言ったんじゃねぇよ。見たとこ外国人で、俺より一回りも若そうなのに、ずいぶん日本語が上手だなと思ってよ」
さえぎるように静雄が言えば、がぱあっと顔を明るくした。
「そう言ってもらえると、とてもうれしいです。日本語、勉強した甲斐がありました」
「勉強? っつーと、学校でか?」
「いいえ。独学です」
「へえ、すげえな」
静雄が感心すると、は微笑んだ。
「一人で勉強したんだろ? 苦にならなかったのか?」
「いいえ、ぜんぜん。日本が好きで、いつかこの国に来たいと思っていたのです。だから、学ぶのはまったく苦にはならなかったです」
「はー。すげぇ根性だな。俺ならすぐ投げちまいそうだ」
英語すらろくに話せない静雄としては、もう感心するほかない。
「しかし、なんで日本なんか」
「その……ですね」
うつむきがちになりコップを包み込む指先を、ひどく恥ずかしそうにもじもじさせ始める。
「わ、笑いませんか?」
静雄は首をかしげた。
「場合によるな。けど、が努力をつぎ込むくらいなんだ、笑ったりはしねぇと思う」
正直に言えば、はほっとしたように微笑んで。
「――お、お父様から、忍者がいると、聞きまして」
の言葉の意味がよくわからなかった。ゆえに、静雄は頭の中で何度もそれを反芻する。そうして、言葉の意味をようやっと理解したところで、
「はあ」
そんな素っ気無い頷き声を返すほかなかった。どう突っ込んだらいいのかわからなかったのである。
「平和島さんは、忍者を見たことがあるのですか?」
目がキラキラしている。
まずいと思った。どこがどうまずいかはわからないが、とりあえず静雄はまずいと思った。へたな発言をしたらアカンと思った。夢というのは夢のままである事が一番いいのだ。憧れというのは手が届かないから憧れるのだ。それに手が触れてしまったら最後、憧れがただの事象になってしまうのは、静雄自身よくわかっている事だった。
静雄は僅かに視線を斜め上に向け、しばし考え込んだ末、
「いや、生まれてこの方見たことねぇな」
「そうですか……」
がしゅんとする。静雄は内心焦った。選択を誤ったかもしれないと無表情に悩み始める。
「まあでもよ、ほら、なんつーの? 忍者ってその、隠れるの得意だろ? だからさ、俺が見てないだけかもしれねぇし」
静雄は言いながらも、心の中の冷静な自分が「何を言ってるんだ」と呆れた声を出すのがわかった。
それでも、だ。
「そ、そう、ですね。よかったです……」
何がよかったのかはわからないが、それでも「よかった」と言って嬉しそうにが安堵する。それにつられて、静雄もほっと安堵の息を吐いた。
落ち込む顔を見るより、笑った顔を見るほうが気分がいい。それに、笑っているほうが、この少女には似合っている。うん、よかった。実によかった。静雄は心の中でそう締める。
そのまま茶に口をつける。
「や、やっぱり、忍者は術のたぐいを使うとき、……ニンニン! ……とか、言うのでしょうか?」
太ももの上に器用にコップをのせたまま、“ニンニン!”のポーズをしてみせる。
それを見た静雄といえば、
「っ、ゲ、ぐぇほっ! げほっ、ゲほっ!」
思いっきりむせていた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「っ、大丈夫だから、っえほ、こっちこなくてもいい」
むせながら片手で制すと、立ち上がろうとしていたは不安げな表情で姿勢を戻し、ソファに深くもたれかかる。
静雄が落ち着いたころには、があせあせとしながら、不安そうに尋ねてきた。
「やっぱりわたし、なにかおかしいことを、言いましたか?」
「……いや」
割と鋭いなと思いつつも、首を振って顔をそらす。無性に後ろめたい。は不安そうに「そうですか」と呟いて、窓の外に目を向けた。暗い街中に光るネオンをぼんやりと見つめる。
「まさかこんな形で、日本にくることになるとは、思いもしませんでした」
が言いながら苦笑を浮かべた。コップに口をつける。
「なあ、どうして、スーツケースなんかに詰め込まれてたんだ?」
「……わかりません」
首を振る。
「こうなる前で、覚えてることはねぇのか?」
「家に帰る途中、わたしが乗っていた車が事故にあった事は覚えています」
「事故?」
「はい」
こくりと頷く。
「わたしが乗っている車に、真横からピックアップトラックがぶつかってきたのです。それからのことはあまり。気がついたら、真っ暗で、音もぼんやりとしか聞こえなくて、口も不自由で、頭に何かかぶせられているな、とは思いました」
「食事とかは? どれくらいそうしてた?」
「定期的に、強制的に食べさせられました。おそらく、どこかのホテルを転々としていたと思います。でも、何日くらいそうしていたかは、わかりません」
「そうか。悪いな、辛いこと聞いちまってよ」
「いいえ」
苦笑を浮かべる。静雄から見ても無理をしているのがわかった。
ソファのそばに転がったままのスーツケースに視線をやり、静雄は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「このこと、ニュースにはなっているのでしょうか」
に問われ、静雄はむうと考え込んだ。
「いや、どうだろうな。悪い、俺ニュースとか見ないタチだから、時事に詳しくないんだ。でも、そういう話題がのぼったりしてねぇから、まだニュースにはなってねぇんじゃないかと思う」
「そうですか。でも、たぶんニュースにはならないとおもいます」
「どうして?」
「海外の誘拐の話題が、おおっぴらに取り上げられることは、あまりないです。少なくとも、わたしの国では、そうでした。せいぜい、インターネットのニュースサイトで配信されるくらいでしょうか」
「まあそりゃあ、一般人の誘拐の話とかは、解決してからじゃないと、聞かねぇな」
静雄は首の後ろに手を回して、人差し指で皮膚を引っかきながら、あーと小さくぼやいた。
「胸糞わりぃ。とりあえず、警察に行くのが一番いいか」
「しょうじきなところ、わかりません。わたしは、わたし自身が・であるという証拠、つまり身分を明かすものをもっていないので」
「そうか……」
与太話として処理され門前払いを食らうオチが、静雄には容易に想像できた。失踪届けなどが出ていないならなおさらかもしれない。
しかし、警察に顔を出すとなると、静雄はなんとなく億劫な気持ちになってしまう。別にを連れて行き、事情を説明するだけなのだが、問題は静雄自身の評判だ。何度因縁をつけられそうになったか、恐らく両手では足りない数だ。そんな人間が寝巻きの少女を連れていったらどういう目で見られるか。そもそもどうやって事情を説明したら良いのか。
静雄が無表情に悶々と考え込んでいた時。
唐突に、のおなかが“ぐう”と鳴った。
が顔を真っ赤にして片手でおなかを押さえる仕草をして、伺うように静雄を見る。恥ずかしそうな、申し訳そうな、そんな顔だった。
「腹、へってんのか」
「ごめんなさい、はしたなかったですね。……安心したら、急におなかが」
それだけ言って、しゅんと身体を縮みこませる。
年頃ともいえる少女が、盛大な腹の音を初対面の異性に聞かせてしまったのだ、恥ずかしがるのもわからなくはない。
「とりあえずよ、俺の上司と同僚が飯買いに行ってるから、帰ってきたら一緒に食おうぜ」
まあ、口にあわねえかもしんねえけどよ、と付け足すと、がおずおずと口を開いた。
「いいのですか?」
「いいに決まってんだろ。そん時に、今後どうするか、みんなで話せば良いだろ」
の顔が、見るからにぱあっと明るくなる。
「ありがとうございます。平和島さんには、お世話になってばかりです。本当に、ありがとうございます」
「いや、ほんとに大した事はしてねぇから……」
面と向かって、まっすぐに礼を言われてしまい、静雄はしどろもどろにそう返すのみだった。
2012/04/02