音楽

 見慣れた廊下を、台車を押しながら歩く。台車の上には薬剤の入った段ボール箱が3つ積まれていて、進むたびにゴロゴロと重そうな音が辺りに響き渡る。これを医務室まで運ぶ道のりを頭の中に描きながらふんふんと鼻歌まじりに歩みを進めていると、唐突に肩を掴まれた。そのまま強く引っ張られて、思わずビクッと体が震える。
「きゃあああっ!? ……って、エルキドゥさん!?」
 エルキドゥさんは私の肩を掴んだまま、不機嫌そうに何か喋っている。声が聞こえない。なんでだろうと怪訝に思ったその直後にハッとした。右耳の無線イヤホンを外すと、エルキドゥさんの声が明瞭な音となって耳に飛び込んできた。
「さっきから何度も呼んだのに、どうして無視するんだい?」
 表情に違わず不機嫌そうな声だった。視線もどこかジトっとしたものを含んでいる。
「す、すみません! 音楽を聞いてて気付きませんでした。……何かご用ですか?」
「特に用事はないよ。……それより、音楽?」
「あっ、これですこれ。イヤホン!」
 手の平の上にあるころんと丸っこい形をしたそれを見せると、エルキドゥさんは不思議そうに首を傾けた。イヤホンに対する興味が勝ったらしく、さっきの不機嫌そうな気配はどこへやら、しげしげと観察を始めている。
「これは……電気信号を音として変換し、発音させる機械だね。そして耳にはめこんで使うものだ」
「もしかして、使ったことあります?」
「知識があるだけで、使ったことは一度もないよ」
 いまだにしげしげと眺めて続けている。興味津々そうだった。
「試しに付けてみます?」
「……いいの?」
「はい、全然いいですよ」
「それなら」
 エルキドゥさんが小さく頷いたので、私はイヤホンを乗せた手を差し出した。しかしエルキドゥさんはイヤホンを受け取らず、わずか前のめりになるよう身を屈めるだけで、手に取ろうともしない。首をひねってエルキドゥさんと目を合わせると、悪戯をしている最中の子供みたいな笑顔を返してきた。
 つけろ、という事なんだろうか? 緊張しながら手を伸ばす。向かって左側、エルキドゥさんの髪をかきあげると、くすぐったいと声が上がった。思わず手を引っ込めそうになる。でもエルキドゥさんは嫌がるふうでもないから、気にしないように努めて右耳にイヤホンを差し込んだ。かきあげた髪を元に戻す。
 表情を伺うと、エルキドゥさんは困惑まじりに目を丸くしていた。
「ど、どうかしましたか?」
「音が暴力的だなと思って」
「メタルですから!」
 正式名称はヘヴィメタル。音が激しいので、人によって好き嫌いがはっきりと別れるジャンルだ。エルキドゥさんにとってこの曲はどう感じるのだろう? 表情から窺い知ることはできなかったけれど、イヤホンに不慣れと思われるエルキドゥさんには今の音量が大きすぎる事はわかった。すぐさまポケットの中の端末に手を伸ばし、側面のスイッチを操作して音量を下げる。途端にエルキドゥさんの表情がいつもの落ち着いたものに元に戻ったけれど、やっぱり困惑するような空気をにじませている。
「君は……こんな音楽を聞くのかい?」
「こんな音楽って……いえ、今日はたまたまですよ。これはカルデアの職員用サーバー内で共有された曲からランダムで再生してるんです。娯楽が少ないから皆でシェアしようって」
「そうか」
 事の発端は、音楽データを持つ人にいちいち会いに行って貸し借りをするのが面倒くさい、みたいな感じだと聞いている。どうせなら職員用サーバーのシェアリングを有効活用した結果、この闇鍋のようなプレイリストが出来上がってしまった。
 私も最初はこういうハードな曲に拒否感があったけれど、今やこうして平気で聞けるようになってしまった。慣れって怖い。
「この曲、たまに妙な空白があるね」
「空白? ……ああ、両耳にイヤホンを付けないと、そう感じるかもしれません」
 ステレオ音源は両耳で聞くのを前提としているから、片耳だけで聞くと音が飛んでしまうような違和感が生じる。多分エルキドゥさんはその事を言っているんだろう。私は左耳のイヤホンも外して、さっきと同じようにエルキドゥさんの片耳に差し込んだ。
「……なるほどね」
 エルキドゥさんはぽつりと呟いて目を閉じ、しばらく聞き入っている様子だった。それから左耳のイヤホンだけ外して私に返してくれる。もう片方は付けたままだ。
「あの、右のほうは?」
「もう少し聞きたいな」
「このイヤホン、電波が届く距離は結構短いので……」
「なら、近くにいるよ」
 エルキドゥさんはそう言って、あろうことか台車に積んであるダンボールの上に腰をおろしてしまった。咄嗟に手を伸ばす。
「駄目です降りてください! 荷物が潰れちゃ――……あれっ?」
 エルキドゥさんをどかそうと押したら、スッと簡単にずれてしまった。違和感に一瞬硬直してから、エルキドゥさんの対面に回った。おそるおそるエルキドゥさんの脇の下に手を差し込んでみる。べつだん目立った抵抗はない。そのまま持ち上げてみると、案の定、軽々と抱き上げることが出来た。びっくりする私とは対称的に、エルキドゥさんは面白がるように微笑んでいる。その瞳が金色に光っているから、違和感はさらに増していく。
 軽い。私がポケットに入れている端末とほぼ同じくらいの軽さだ。おそらくエルキドゥさんは変容という能力を使って、自分の体重をここまで軽くしたんだろう。この体積でここまで軽く出来る事にびっくりしつつ、自分より背の高い人を持ち上げているという光景に目眩を覚えた。でもこの奇妙な状況は案外面白いなと考えてしまったら、変な発想が芽生えてきた。
 片手をエルキドゥさんの膝裏に回して、横抱きにしてみる。いわゆるお姫様抱っこの体制だ。エルキドゥさんを見ると、顔をこわばらせて硬直している。その驚きが手に取るようにわかって、自然と口元が緩んだ。不意打ちが成功して、勝った気分に浸れる。
 その場でくるっと一回転を試みると、難なくできた。調子に乗ってジャンプもしてみると、エルキドゥさんは振り落とされる事を危惧してか、私の上着をぎゅっと握りしめてきた。
 エルキドゥさんを見下ろすと、エルキドゥさんも見上げてくる。そのまましばし見つめ合う。何か言われるかと思ったけれど、エルキドゥさんは無言のまま、借りてきた猫みたいに大人しくしていた。騒いでくれればしてやったりな気分になれるのに、ここまで無反応だとちょっとつまらない。
 こうして自分より背の高い人を抱っこするのは、これが最初で最後だろうなあなんて物思いにふけっていると、腕の中のエルキドゥさんがふっと小さく笑った。
「ふふ、このまま移動してみるかい?」
 言われるがまま想像を膨らませてみるけれど、へんてこな光景しか思い浮かばない。
「……遠慮しておきます」
 床にそっと下ろすと、エルキドゥさんは何故か残念そうに肩をすくめて、再度段ボール箱の上に腰をすえてしまった。胡座までかいている。
「これくらいの重さなら、この箱も耐えきれるだろう?」
「余裕で耐えますが……でも、その台車は荷物を載せるもので人を乗せるものじゃないですよ」
「兵器は広義の荷に含まれると思う」
「エルキドゥさんは兵器でも、自律行動可能な兵器ですよね? 運搬は必要ないはずです」
「そうだね。でもこうしてに運んでもらえると嬉しいかな」
「……その言い方は、ちょっとずるいですよ」
「ふふふ」
 こうなったらいくら説得しても効き目がない事はわかりきっているので、受け入れるしかない。おまけに、嬉しいなんて言われたら尚更。
 小さく溜息を吐いてハンドルを握る。前方を見据えると、エルキドゥさんの後頭部が視界の半分以上を占めていて、なんだか脱力しそうになった。
「あの、エルキドゥさんが座っているせいで前が見えないんですが」
「僕が見てるから大丈夫だよ」
 そういう問題じゃない。でも、私が身体を横に傾けさえすれば前方は確認できるわけで……まあいっか。細かいことは気にしない。
「髪、タイヤに巻き込まれないように気をつけてくださいね」
「うん」
 エルキドゥさんは素直に頷き、長髪をまとめて片側に流し、毛先を足の間へと収めている。これだけ長いといろいろ大変だろうなあと思いながら視線をスライドさせると、エルキドゥさんのうなじが目に止まった。
 よくよく考えるといつも髪を下ろしっぱなしだから、こうして目にする事は初めてだ。前から見ても後ろから見ても美人さんなんだと一人納得して、それから妙な艶めかしさにどきどきしてきて、慌てて視線をそらした。
 台車を押して足を踏み出す。片側から聞こえる音楽に耳を傾けていると、いつもの落ち着きを取り戻す事ができた。正面に視線を戻せばエルキドゥさんの後ろ姿が飛び込んでくるけれど、さっきのどきどきがぶり返す事はなくて、正直ホッとしてしまった。
 医務室の前までやってくると、台車ごと足を止めた。流石にエルキドゥさんも邪魔になると察したのか、すぐにぴょんと飛び降りてくれる。手伝おうとするエルキドゥさんを止めようと思ったけれど、結局その好意に甘えることにした。
 エルキドゥさんと一緒に室内へダンボールを運ぶ。医療スタッフの人と荷物に不備がないか確認して、二言三言会話をして医務室を後にした。
「これからどうするんだい?」
「この台車を倉庫に戻します。そうしたら昼食です」
「そうか。なら、このままついていくよ」
 エルキドゥさんはそう言って、空になった台車の上にまた座り込んでしまった。さっきの忠告を守って、きちんと髪もまとめている。もしかすると台車に乗って移動するのが気に入ったのかもしれないけれど、これは人を載せて運ぶものではない。本来は危険な行為だ。
 どうしたものかと考えていると、エルキドゥさんがハンドルに背中を預けて私を見上げてきた。催促するようなその眼差しに対して、うまく説得できそうな言葉が私には見つからない。
 結局、そのまま台車を押して歩くほかなかった。特に会話もないまま、音楽に耳を傾ける。ポップスにロックにジャズと様々なものがランダムに流れ出す。エルキドゥさんは聞き入っている様子だったけれど、次の曲に切り替わった途端にピクッと肩を震わせた。
「この音楽もすごい感じがするね」
「パンクですね。アナーキーな感じがひとしおですよ」
「好みなのかい?」
「いいえ、そんなには。……んー、でもやっぱり、半分ずつでパンクはちょっと物足りないですね。迫力も半分になっちゃうというか……」
「迫力……わかるような気がするな。僕はさっきから、中途半端な間隔で弦……だろうか、そんな音と人の金切り声しか聞こえない」
 弦、という言い方に一瞬笑いそうになってしまった。エルキドゥさんはきっとギターの事を指しているんだろう。
「こっちはノイズの中にドラムが激しいですよ。ドゥンタタタって。イヤホン、交換してみますか?」
 私がそう提案してみると、エルキドゥさんは腕を組んで考え込むような素振りを見せる。胡座をかいた上でその姿勢は、女の人みたいな顔とは真逆の仕草に見えて、どこかちぐはぐな印象を受ける。そこがエルキドゥさんらしいといえばらしいなと眺めていると、エルキドゥさんは考え終わったのか腕をほどいた。
「ううん、遠慮しておく。それより、僕が聞くことのできない音をが口に出して言えばいいと思うんだ」
「えっ?」
 エルキドゥさんの発想はいつも予想の斜め上をすっ飛んでいくのを、私はすっかり忘れていた。
がドラム? をやって。僕は弦をやってみるから」
「……えぇ……?」
「ほら早く」
 困惑が先立って思考がまとまらない。でも今やらなければ、エルキドゥさんに延々と催促される未来が容易に想像できた。
 とりあえず、こほんと一つ咳払いした後、聞こえる音に集中した。ドラムの音を逃さないように拾い上げる。
「ドンタタドンタタドゥダダダダダッ」
「…………ふっ」
「ひっ、人にやらせといてなんですかその『ふっ』は!」
「っ……あははははっ!」
「わ、笑わないでくださいよー!!」
 倉庫に台車を片付け終わると、まっすぐ食堂へ向かった。
 カウンター席に座って食事を受け取る。今日のお昼はきのことお魚のキッシュと野菜たっぷりのトマトスープだった。美味しい食事を前にしながら、悲しいことにさっきのやり取りがのせいで眉間に力が入ったまま皺が取れない。
 結局、エルキドゥさんは弦をやると言ったのにやってくれなかった。ずるい。馬鹿正直にやった私は一体なんだったのか。ずるい。
「いい加減に機嫌を直してよ」
「……私だけにやらせたの、一生恨みますからね」
「あの音をどう表現したらいいのかわからなかったんだよ。それに、が躊躇せず口にしたのを見たらおかしかっただろう? 僕がやったらきっとも声を出して笑うかと思うと、恥ずかしくてできない」
「くっ……このっこのっ」
「いたた、ごめんね」
 握り拳を作ってエルキドゥさんの太ももの辺りをぺちぺちと加減して殴ってみるけれど、エルキドゥさんは痛がるふりを楽しそうに演じるだけだった。その顔を見ていると、なぜか結局『まあいっか』と思ってしまう。それにエルキドゥさんの太ももを叩くという恐れ多いことをしてしまったし、むくれるのはもうやめにした。
「……そういえば、エルキドゥさんが生きていた時って、何か音楽を嗜んだりしていたんですか?」
「うん。宴のときは何かしら即興で演奏をしていたね。とてもいい音楽だったよ。ただ、あの時の譜は現代に伝わっていないだろうね。誰かが粘土板に残したとしても、戦火に巻き込まれて消失しているだろう。惜しいことにね」
 少し遠くを見て語るエルキドゥさんの眼差しはひどく懐かしむようなものを感じさせて、とてもいい曲だったという事が私にも伝わってきた。
「そうなんですか……古代の音楽かあ、聞いてみたかったなあ……」
 そう言ってお茶に口をつける私に対して、エルキドゥさんはふっと目を細めて微笑んだ。
「聞いてみるかい?」
「えっ?」
「一応、僕も歌えるんだ」
 歌える? 歌えるって、何を?
 エルキドゥさんの顔を見つめること数秒。ようやっと言葉を飲み込んだ私は、こくこくと頷いた。
「聞いてみたいです! すっごく聞いてみたい!」
「そうか。……それなら」
 エルキドゥさんがゆったりとした動作で、軽く両手を広げた。途端に瞳の色が金に変わる。特異な事が起きる前兆に多少の不安を覚えたけれど、それよりもエルキドゥさんが歌ってくれるという高揚のほうが大きくて、心拍数が跳ね上がる。
 一呼吸の間を置いて、エルキドゥさんが発声した。
 古典音楽とも違う異郷の旋律。エルキドゥさんの声は言葉として聞き取れなくて、私の知らない言語で何かを言葉を紡ぎながら歌っているのか、それともただの音階に声を乗せているだけなのか判別がつかなかった。空気が……というよりもこの空間そのものが振動しているような感覚に襲われて、頭がぐわんぐわんしてきた。頬がピリピリと引きつって……頬だけじゃなくて全身がビリビリしてくる。辺りに視線を巡らせると、食器もかすかにカタカタと音を立てて震えていた。
 なんだか、私が気軽に聞いてはいけないような気さえしてくる。エルキドゥさんが歌っているのに、どうしてかわからないけれど、不安と怖気が足元から這い上がってきてしまう。
 ――怖い。
 目をつむった瞬間、後頭部に衝撃が走った。慌てて振り返ると、エミヤさんが真後ろに立っていた。彼は私を一瞥すると、今度はエルキドゥさんの後頭部に手刀を下ろした。途端にエルキドゥさんの目の色が戻って、歌が途切れる。エルキドゥさんも振り返って、エミヤさんを見るなりぱちくりと目を瞬かせている。
「食堂では静かに頼むぞ」
「……は、はい」
「ごめんね。声音は抑えたつもりだったのだけれど」
「そういう歌は然るべき場所で歌うべきだ」
 エミヤさんは意味深な言葉を残して、キッチンへと戻っていった。
「しかるべき?」
「今僕が歌い上げたのは開戦の歌なんだ。つまり、戦場で歌えということさ」
「かいせんのうた……戦場……」
 復唱すると、エルキドゥさんがこくりと頷いた。道理で心が締め付けられるような感じがしたのかとすぐに納得できた。
 戦地に赴く人々を煽動するための曲であり、娯楽を目的とした曲じゃない。私が恐怖を感じたのは、戦場とは無縁の人間だからだろう。きっと戦士であれば、エルキドゥさんの歌を聞いて高揚感が増すのかもしれない。でも私は武器を持って戦うという経験をしたことがないし、それで他人を傷つけて血を見るのはとても怖い。
 そういう世界にエルキドゥさんは住んでいた人なんだなと改めて実感した。現代では宗教派閥のいざこざから武装闘争を展開し続け、日々争いが絶えない地域だ。エルキドゥさんのいた戦場も、ああいう感じなんだろうか? 古代の人々の生活はよくわからないけれど、生き延びるために豊かな土地を巡って小競り合いが絶えないのはよくある昔話だ。
「で、僕の歌はどうだった?」
「うーん……」
 さっきのエルキドゥさんの歌を思い出した途端、背筋がぞくりとした。正直に怖いと言ったら、エルキドゥさんは落ち込んでしまうかもしれない。
「リリックにウェイトが効いてました」
「……おかしいな、旋律で鼓舞させるためのものだから、歌詞はないのだけれど」
「あとはそうですね……古代の文化をバックグラウンドにした曲調は私が今まで聞いた現代音楽や民族音楽よりも烈々たる情緒を感じさせてエルキドゥさんが生きていた当時のミュージックシーンを垣間見る事が」
「えいっ」
 私の言葉を遮るかのように、エルキドゥさんの手刀が私の額に落ちてきた。ものすごく手加減してくれたようで痛みは感じなかったけれど、それでもびっくりして肩をすくめてしまう。
「……ごめんなさい」
「謝るくらいなら適当な事を言わないでくれるかい?」
「はい」
「で、正直な感想は?」
「よくわからなかったです。あと、怖かったです……ほんのちょっとだけ」
「それでいいよ」
 エルキドゥさんはふわっと笑って、私の額を撫で始めた。さっき叩いたお詫びのつもりなのかもしれない。
「この歌はには不向きだと思う。分からない方が良いのかもしれないね」
「でも、エルキドゥさんの歌なら、最後までちゃんと知っておきたいです」
「また歌ったら怒られてしまうよ?」
「鼻歌とかじゃだめですか? ふんふんふ~ん、って。これくらいの声なら咎められないはずです」
「……わかったよ」
 目の色を変えること無く、両手を広げることもせず、エルキドゥさんは同じメロディを鼻歌で歌い出した。さっき感じた息の詰まるような感覚はなくて、足元から這い上ってくる怖気もない。とても暗い感じの重厚なオーケストラの曲を鼻歌で明るく歌い上げるような場違いさはあるけれど、それが私にとってはすごく親しみやすかった。
 目を閉じて聞き入っていると、あっという間にエルキドゥさんは歌い上げてしまった。
「どうかな?」
「さっきと違って、鼻歌だと楽しい感じがしました」
「……楽しい……?」
「どうにかして覚えたくなってきました。出だしはふ~んふふ~でいいですか?」
「ええと……うん。そうだね」
「その次はふふ~んふ~んふ~……でしたっけ?」
「……。もう一度始めから歌おうか?」
「お願いします!」

 レイシフトからの帰還後、疲労困窮のあまりくたくたの状態で俯いて歩いている立香だったが、隣を歩くエルキドゥが立ち止まったのを切欠に立香も歩みを止めた。のろのろと顔を上げて隣のエルキドゥの顔を伺う。その視線は遠くを見ていて、立香もつられるように視線の先に目を向けた。
 技師班員と思しきスタッフが、大窓の掃除をしていた。いつものエルキドゥなら気にも留めずに素通りするだろう人間だ。しかしこうして感知して足を止めるという事は、あれが誰なのか立香にはすぐに思い当たった。足を踏み出せば、エルキドゥも一拍の間を置いてついてくる。
 果たして掃除をしていたのは、予想通りだった。長い柄のついたガラス用ワイパーと霧吹きを片手に、手慣れた様子でせっせと大窓のガラスをピカピカにしている。何か嬉しいことでもあったのか鼻歌交じりだ。そして作業に集中しているのか、遠巻きに眺める立香とエルキドゥの存在に気付く様子がまるでない。
さん、機嫌が良さそうだね」
「……そうだね」
「さっきから何を歌ってるんだろう。即興かな」
「開戦の歌だよ。昨日僕が教えたのさ」
「な……なんでそんな曲を教えちゃったの!?」
「音楽の話になって、僕の時代の音楽が聞きたいと言うから実演したんだ。そうしたらが覚えたいって言うものだから、つい……」
 ついって。立香は突っ込みたかったが、エルキドゥが目を細めて微笑むものだから、そんな気力はすぐに失せてしまった。
「……不思議だな。今から死地に向かうための音楽なのに、が歌うとどこか楽しい所に向かう音楽のような気がしてくるよ。僕が歌うのとは大違いだね」
「俺はエルキドゥの歌を聞いた事がないから何とも言えないけど、まあ楽しそうではあるね」
 立香が言い終わると、エルキドゥは同調するようにこくんと頷いた。あとでマスターにも歌ってあげるよ、と優しい言葉を残して、エルキドゥは作業に勤しむ彼女の名前を呼んだ。