君の声をきかせて

 待機室に足を踏み入れた瞬間、達成感と疲労から溜息が漏れた。のろのろとした動作で端末で時間を確認すると、すでに日付が変わっていて、さらに溜息が漏れる。今日一日で、何度溜息をついたかわからない。
 簡単な作業の予定だったのに、その作業に使うための機械が故障するというトラブルに見舞われた。機械のカバーをあけて内部を確認してみるけれど、どこにも異常は見あたらない。しかしエンジンが入らない。それでも四苦八苦していると、かろうじてエンジンが入るも唐突に切れたりという状態が続き、振り回されっぱなしで終わった。
 機械が不安定な原因は機嫌が悪いか、もしくは経年劣化だろうという事に落ち着いた。つまり原因不明。お手上げである。
「先輩は夕飯どうします?」
「部屋で食うわ……んじゃ、おつかれ」
「はい、おつかれさまです」
 とぼとぼと歩く先輩の背中を見送ったあと、心残りを確かめるべく私は食堂へ足を向けた。
 急ぎ足で向かった食堂区画は案の定、節電によって薄暗かった。周囲を見回してみるけれど特に人の姿は見当たらない。誰もいない事に対する焦燥感に襲われる。しかし幸いなことに、キッチンの奥からほんのりとオレンジ色の明かりが漏れていた。
 誰かいるみたいだ。暖色の明かりに誘われるように足を踏み出したところで、何かが肩に触れた。何気なく振り返る。
 すぐ真後ろに、誰かが立っていた。
 誰かの影が視界を埋め尽くすほどの至近距離。
 絹糸と見紛う髪の毛の合間から、瞳がこちらを覗きこんでいる。
「っきゃああああああああっ!?」
、僕だよ僕。落ち着いて」
 穏やかな声にはっと我に返る。
 果たしてそこにいたのは、私の探し人であるエルキドゥさんだった。
 エルキドゥさんは怖がる私に申し訳無さそうな苦笑を浮かべて、
「ちょっと近すぎたかな、ごめんね」
 と呟いて身体を離した。相変わらず独特な調子のおかげで、私の内側に湧いた怖気が一瞬にしてかき消えた。そうすると、一人で勝手に怖がって、正体を確かめて安心した私がひどく滑稽に思えて、恥ずかしいうえに情けないという惨めさがわだかまりのように残る。それでも高鳴る心臓を落ち着かせるために深呼吸すると、エルキドゥさんの苦笑は柔らかい笑みに変わっていた。
「案外怖がりなほうなのかい?」
「今のは怖がりとか関係なく誰だって驚くと思いますよ」
 いきなり真後ろに気配なく立たれて、驚かない人がいるのだろうか。いや、いない。
「それに、エルキドゥさんっておばけみたいな格好してますし」
「……おばけ?」
「はい。長い髪に白い服って、フィクションに出てくる幽霊の特徴そのままですから」
 もしエルキドゥさんが古びた洋館の窓際なんかに佇んでいたらどうだろう。ちょっと想像してみる。
 鬱蒼とした曇り空を背景に、蔦がはう洋館のひび割れた窓にぼんやり浮かび上がるエルキドゥさん。きっと震え上がることは必至だ。
 想像に身震いする私をよそに、エルキドゥさんは困惑した様子で自分の姿を見下ろしている。
「……僕には、幽霊の素質がある……?」
 自己の概念が揺らいでいた。内心焦る。
 さっきの発言を今すぐに否定しなければ、話がこじれるのは明白だ。私が口を開こうとしたその瞬間、エルキドゥさんがパッと跳ねるように顔を上げた。廊下へ顔を向ける。その瞳は、ずっと遠くを見つめている。
「どうかしました?」
「今、何かの気配を感じたんだ……ほら、あそこ。影が見える」
 エルキドゥさんはそう言って指をさす。それにつられて私も廊下に顔を向けた。特に何も見えない。誰かの姿があるわけでもない。でも、エルキドゥさんのそういった能力は凄まじいものだとわかっているから、困惑が膨らんでいく。エルキドゥさんには見えるけれど私には見えない何かがいるとは、正直考えたくはない。
「ええと、何も見えませんけど……?」
「おや、おかしいな……なら、あっちから響いてくる音も聞こえないかい?」
「音?」
 耳をすませるけれど、何も聞こえない。しんと静まり返っている。そのせいで妙に不安をかきたてられてしまい、なんとなくエルキドゥさんのそばに寄ってしまう。そのままエルキドゥさんの白い袖をおそるおそるつまんだけれど、エルキドゥさんは咎めなかった。
「どんな音ですか?」
「ずるずるって、何かを引き摺るような音だ。……ほら、あそこにまた影が」
「ひっ!」
 喉の奥から勝手に小さな悲鳴がこぼれ、その声に自分でびっくりしてぴょんと肩を跳ねさせてしまう。情けないやら悲しいやらで、なにかに弁明したい気持ちをぐっと堪える。
 と、エルキドゥさんの口元から、かすかに笑うような吐息が漏れた。何でこのタイミングで笑うのかとエルキドゥさんを見た途端、跳ねるように顔を背けてしまう。あまりにも露骨な態度に、眉をひそめる。
「……エルキドゥさん、もしかして怖がらせようとしてませんか?」
 しばらくの間を置いて、
「ふふ、ばれてしまったね。うん、今のは全部嘘だよ」
 エルキドゥさんは私にいたずらっぽく微笑んで、廊下の向こうを指し示していた手をおろした。
「もっ……もーーっ!」
 怒って詰め寄る私を、エルキドゥさんはどうどうとなだめる。
が怖がりじゃないのか試したかったんだ。あとは幽霊呼ばわりしてくれたお返しだよ」
「それはお返しではなく仕返しですよね?」
「ふふ。怖がらせてごめんね」
 なだめるように頭を撫でられた。指が髪をかきわけるたびに、胸中に不思議と穏やかなものが生まれる。さっきまで感じていた不安も恐怖も、そしてエルキドゥさんに対する不満もどこかにいってしまった。そんな自分の単純な一面に呆れつつ、私はエルキドゥさんの手を振り払う。
「も、もういいですって……それはそうと、もしかしてエルキドゥさん、ずっと待っててくれてました?」
「うん」
 あっさり頷くものだから、申し訳無さでいっぱいになる。
「ご、ごめんなさいっ。こんな時間まで遅れてしまって本当に……」
「ううん、大丈夫だよ。いつもの時間に来なかった時点で何かあったんだろうとは思っていたから……それより、夕飯はどうするんだい? こんな時間になってしまったけれど」
「……たべたいです」
「だろうと思った。のぶんの軽食を作っておいてもらったよ」
「やったー!」
 諸手を挙げて喜んだ。
 カウンター席に移動する。キッチンの奥には誰かいるみたいで、かすかに物音が聞こえた。
 エルキドゥさんは私を椅子に座らせると、すぐにラップにくるまれたサンドイッチと、湯気の立つマグカップを持ってきてくれた。マグカップの中身のスープは夕食の残り物らしい。取り分けてくれていたのがありがたい。
 空腹のあまり夢中になって食べる私を、エルキドゥさんは穏やかな表情で見つめている。
「とりあえず大事がなくて何よりだよ。心配していたから」
「すみません……エルキドゥさんに連絡が取れたらよかったんですけど、手段がなくて」
 一応、館内放送を使えば一方通行で連絡は取れる。でも、緊急とは程遠い個人の私用連絡のために館内放送という大仰な手段を使うのはあまりにも場違いだし、迷惑がすぎる。
「連絡か……。マスターを経由すれば何とかなりそうだけれど」
「藤丸くんをメッセンジャーにするのはあまりにも失礼ですし恐れ多いのでご遠慮願いたいです」
「なら、僕が端末に変容してみようか?」
「それもそれでどうかと思いますよ。誰かに持っていかれちゃうかもしれないですし」
「……なら、お手上げだね」
 エルキドゥさんはそう言って、マグカップの白湯に口をつけた。表情を見ればやや思案げにしている。
 私も黙々とサンドイッチを食べながら、思案を巡らせる。エルキドゥさんと簡単に連絡が取れる手段。
「手っ取り早いのは、エルキドゥさんが端末を持つことですね」
「端末……僕が?」
「はい。これとおんなじの」
 これ、と言ったあたりでポケットから端末を取り出して示すと、エルキドゥさんは目を丸くした。私と端末を交互に見やってから視線を斜め上に向け、しばし考え込んでいる。
「まあ……あるに越したことはないね」
 乗り気になってくれたようだった。
「端末の予備があるかはわからないので、明日確認してみましょう」

 そして翌日。
「というわけで、余っている端末があるならばお借りしたいです!」
 私はエルキドゥさんを引き連れてダストンさんの研究室を訪ねていた。むろん、このためにダストンさんの研究室にきたわけではない。課題提出のついでである。
 ダストンさんにびしっとレポートを差し出しながら打診する私の後ろで、エルキドゥさんは静かに佇んでいる――ように見えて、その実はソワソワと落ち着かない気配を隠しきれていない。
「何が『というわけ』なのかさっぱりわからんが……余っている端末なぁ」
 ダストンさんは私とエルキドゥさんの顔を見比べながらレポートを受け取ると、顎を指でなぞりはじめた。考え込んでいる。
「探せばあるかもしれんな……よし、管理担当に聞いてくるか」
 脇を通り過ぎようとするダストンさんをあわてて引き止めた。
「まっ、待ってください。私が行きます!」
 するとダストンさんは、ふんと鼻で笑って、
「下っ端のお前が素直に予備端末を貸してもらえると? 馬鹿も休み休み言え」
「ぐっ……」
 もっともすぎて息が詰まってしまった。
 カルデアで職員が使用する端末は市販品ではない。あらゆる情報の流出や盗聴を防ぐために、カルデア内のネットワークでしか使えない特注品である。それを未成年の、しかも見習いの私みたいなのが余分に借りるなんてのはダストンさんの言う通り分不相応だ。
「そういうわけだ。二人共、適当に楽にしていてくれ」
 ダストンさんは私達に声をかけると、あっという間もなく研究室を出ていってしまった。
 どうして端末が余分に必要なのか詳細な説明を求められると思っていたから、予想外にあっさりと事が進んでしまい拍子抜けしてしまう。エルキドゥさんと顔を見合わせれば、エルキドゥさんも緊張の糸がほどけたのか、さっきまでのソワソワした気配がなくなっていた。
「どうしようか?」
「……ここに突っ立ってても仕方ないですし、座って待ちましょう」
 椅子を二つ持ってきて、エルキドゥさんを座らせた。ダストンさんの研究室はまだ慣れるのに時間を要するみたいで、エルキドゥさんはこじんまりと肩をすぼめつつも視線はどこか忙しない。興味を引くものが多いけれど、がまんして座っているといったふうだ。エルキドゥさんは普段大人びているように見えて、意外と好奇心旺盛な子供のような仕草を見せてくるのがちょっと面白くて可愛い。
 しかし、どうにも手持ちぶさたな感じが否めない。そう意識すると、今度は口も寂しくなってくる。
「なにか飲みますか? といっても、コーヒーしか無いと思いますけど」
「うん。飲みたいな。砂糖はふたつがいい」
「わかりました。それじゃあ淹れてきますね」
 私はそう言って席を立ち、給湯スペースへ移動する。備え付けの棚をあさって、コーヒーが入っているだろう筒を取り出した。蓋を開ければ、インスタントコーヒーとは違う香ばしい香りが鼻先をくすぐる。
 コーヒーを抽出している間に、なにか食べられるものはないか探してみるものの、めぼしいものは特に無かった。そんな事をしているうちにコーヒーが淹れ終わる。2つのマグカップに砂糖を2ついれて、コーヒを注いで持っていく。
 エルキドゥさんは白い指先でくるむようにカップを持つ。上品とまではいかないけれど、それでも品の感じられる動作で口をつけた。その一連の流れを見守ってから、私も口をつける。
「おいしい」
「えへへ、そうですね。おいしいです」
 会話はそれっきり。いつもは思いついたようにさえずるエルキドゥさんが大人しいのは、きっとここがダストンさんの私的な空間に近い場所だからだろう。アウェイな認識が抜けないのかもしれない。
 静かだけれど、気まずいわけでもない。何か喋る事はないかと話題を探す気苦労も感じない。たまに目があえば微笑みあうだけのひどく穏やかな時間。たまにはこういうのもいいなあと浸っていると、やがてダストンさんが研究室に戻ってきた。
 ダストンさんはコーヒーを淹れたことに気づいたのかすんと小さく鼻を鳴らし、こちらにやってくる。片手には端末が入っていると思しき箱があった。
「ほれ」
 ダストンさんが手渡してくるので、両手で受け取った。
「わっ、さすがダストンさん!」
「一応、端末の所有者は俺になっている。だから壊してくれるなよ、俺の不手際に加算されるからな」
「それは……エルキドゥさん次第ですね」
 私とダストンさんの視線が、エルキドゥさんに集中する。
「絶対に壊さない。大事に扱うと誓うよ」
「その言葉信じるぞ。……んじゃあ、設定は任せた」
 ダストンさんはそう言って私の肩を軽く叩くと、「コーヒーコーヒー」と小さく呟きながらまるで引き寄せられるように給湯スペースへ向かっていった。
 課題を見てもらっている間、エルキドゥさんと二人で端末の初期設定を手短にすませる。
「これで、エルキドゥさんといつでも連絡がとれますね」
「いつでも……」
 エルキドゥさんは噛みしめるように呟いて、端末を両手で大事そうに持ち直した。何か一大事でも成し遂げたかのような満足げな顔を私に向ける。
「つまりが部屋に戻って、夜が深まった頃に連絡をしてもいいという事かい?」
「エルキドゥさん、その頃の私は多分ぐっすり寝てますよ」
「いつでもって言ったのに……」
「使い所は大事です。ここぞという時に使ってください」
「……わかったよ」
 エルキドゥさんはしぶしぶ納得してくれた様子だけれど、手中にある端末を見下ろす眼差しは好奇心でいっぱいだ。今すぐにも使ってみたい、という空気が滲んでいる。エルキドゥさんが抱えているだろう気持ちがよくわかってしまうから、放っておくことはできなかった。
「それじゃあ、試しに使ってみましょう!」
「……ここぞという時はどうしたの?」
「練習ですよ練習。取り方がわからないとどうにもならないじゃないですか」
「それもそうだね」
「私、今から廊下に出てエルキドゥさんに電話をかけますので! あ、取り方は多分感覚でわかると思います」
 困惑気味な表情を浮かべるエルキドゥさんを残して、私は研究室を飛び出した。廊下に出て研究室から少し離れた場所まで移動し、登録したばかりのエルキドゥさんの端末に電話をかける。
 5コール目にさしかかったところで、ようやっと出てくれた。
「もしもし、です。聞こえてますか?」
『うん、聞こえているよ』
「よかった、これで電話のとり方はばっちりですね! じゃあ次は私に電話をかけてみてください!」
『さすがにそれは感覚ではわからないな。どうやるんだい?』
「……ええと……うんと……」
 あらためて説明するとなると難しい。うまく言葉が思いつかなくて、しどろもどろになってしまう。
「その……すみません、ダストンさんに聞いてみてください」
『そうだね。そうするよ』
 通話が切れる。エルキドゥさんは切り方もマスターしたみたいだ。
 しばらくその場で待ちぼうけをしていると、端末から着信音が鳴り響いた。すぐに取る。
「もしもし、どなたですか?」
 着信時、画面に名前が表示されたのにわざとらしく聞いてみると、
『あっ……僕だよ僕』
 戸惑いがちなエルキドゥさんの声が返ってきた。
「僕さんですか? 知らない人ですねぇ……」
『お願いだから意地悪しないでくれるかい?』
「あはは、ごめんなさい」
 笑い混じりに謝る私を、エルキドゥさんは咎めなかった。
「エルキドゥさん、ちゃんと電話かけられましたね。えらい!」
『懇切丁寧に教えてもらったからね。それに操作は思っていたよりシンプルで理解しやすかった』
「通話するまでの操作が面倒だったら通信機器として本末転倒ですよ」
『確かにそうだね』
 エルキドゥさんが小さく笑う声が聞こえる。それにつられて頬がほころんだ。
「ふふ、なんか変な感じです」
『変?』
「いつも使ってる端末からエルキドゥさんの声が聞こえる。なんというか、違和感がすごいです」
『そうかい? なら、その違和感に早く慣れて欲しいな』
「善処します」
『いい返事だね。僕も操作に慣れるよう善処するよ』
 エルキドゥさんの言葉はいつもの調子なようでいて、心なしか嬉しそうなものを含んでいるように聞こえるのは、きっと気のせいじゃないと思いたい。
 なんとなく、思いつきでマイクがあると思しき小さな溝の部分を指で撫で擦ってみた。かすかにスリスリと音がするけれど、電話越しのエルキドゥさんからすればきっと物凄い音で聞こえているんだろうなと想像してしまう。
『……この音……、一体何をしてるんだい?』
 案の定、怪訝をはらむ声で聞いてきた。
「マイクのあたりを指で撫でてます」
『どうしてまた』
「こうしてエルキドゥさんの頭を撫でているつもりです」
『…………うん?』
「えらい!」
『……、…………』
 息を呑むような音がして、エルキドゥさんの反応が途絶えた。
 無反応がしばらく続いたあと、
『……はやく戻っておいで』
 呆れ気味に諭すような声がする。途端に今までの自分の行動を振り返ってしまい、じわじわと恥ずかしくなってきた。なんて馬鹿な事をしたんだろうと思うけれど、後の祭りだ。
「あはは……そうですね。それじゃ、通話切ります」
『うん』
 通話を切って、小走りで研究室に戻った。
 扉のロックを開け、私を出迎えたダストンさんの目つきはひどく胡乱だ。
「一応言っておくが、これは遊ぶための道具じゃないんだぞ?」
「はい、わかってます」
 ダストンさんがお叱りモードに突入しそうな気配を感じ取ったのか、
「本来の用途はここにいる職員のものだと理解しているよ。無闇には使わないさ」
 エルキドゥさんが席に座ったまま口を挟んでくる。エルキドゥさんの表情はいたって真面目だ。ダストンさんは納得したのか、それ以上は追求してこなかった。
 課題の採点が終わり、ダストンさんから新たな課題を受け取って研究室を離れようとしたところで、エルキドゥさんが自分の服をじっと見下ろしているのに気がついた。
「どうかしました?」
「僕の服には小物を入れるような袋がついていないからどうしたものかと思ってね」
 小物を入れるような袋とはポケットの事だろうか? エルキドゥさんの服をあらためて見てみる。
 一枚の大きな真っ白い布を人間の形に合うように重ねて縫い合わせたような大雑把な服だ。意匠を凝らすとは程遠い作りだから、袖と胴の境界が曖昧だし、くびれもない。もちろんポケットらしいものはない。
「いつでも連絡を取れるのは便利だけど、持ち歩くのに片手が塞がるのは少々不便だ」
「んんと、鞄とか使います?」
「鞄か……」
 否定も肯定もしない曖昧な返事がかえってくる。エルキドゥさんの気が進まないのだけはひしひしと伝わってきた。
 どうしたものかと悩んでいると、ダストンさんが小さな溜息をついた。
「少し待っていろ」
 そう言ってデスクの方に向かったかと思うと、壁際の棚を漁って戻ってきた。
「これでも使え」
 エルキドゥさんに向かって差し出したその手には、首から提げるタイプのスマホケースがある。エルキドゥさんは目をしばたたかせて、わずかに首を傾げた。
「いいのかい?」
「棚の奥で埃を被ってるよりはマシだろう」
「そうか、ありがとう」
 エルキドゥさんはいそいそとケースを受け取ると、探り探り確かめるようにして端末を収納する。なんだか微笑ましいその姿を見つつ、私はダストンさんの近くへすすっと移動する。
「ダストンさん、あんなの持ってたんですね」
「買ったはいいが使う機会がまるで無かったからな」
 小声でやり取りをしているうちに、エルキドゥさんはストラップの長さを調節して首にかけていた。エルキドゥさんの胸元で揺れるケースが蛍光灯の光を反射する。
「どうかな?」
 尋ねるエルキドゥさんの表情は、心なしかどやっと自慢げに見える。それに合わせてどこからともなくファンファーレじみた怪音が聞こえるが、きっと私の幻聴だ。
「似合ってますよ。首は痛くないですか?」
「大丈夫、痛くないよ。……うん、これなら両手が自由に使える。いいね」
 そう言ってエルキドゥさんは示すように両手を軽く持ち上げた。途端にダストンさんの表情が不安げなものに変わる。
「まさかレイシフトにも持っていくつもりか?」
「ううん、流石に置いていくさ。これは大事なものだからね」
 エルキドゥさんが首を振って穏やかに否定すると、ダストンさんの表情から不安の色が消え去った。
 ダストンさんから新しい課題を受け取り、エルキドゥさんと二人で今日のお礼を述べてから研究室を後にした。お互いの片手の五本指を噛みあわせるように手をつないで、二人並んで歩く。
「これを使う時が楽しみだな」
 そう呟いたエルキドゥさんは、どこかご満悦そうだ。
「ふふ、そうですね。いつになるかはわからないですけれど」
「なら、日付が変わる頃に使ってみようか?」
「エルキドゥさん、使い所使い所」
「むぅ……つまらないなー」
 打って変わって不満げに。手のひらを返すような表情の変化に、思わず笑ってしまう。
「案外、使う機会は近い内に訪れそうな気がしますけどね」
「根拠は?」
「カンです!」
「……。まあ、頼りにしておくよ」

 背後から飛びかかってくる“何か”の気配を感じ取ったエルキドゥは、振り返ることもせず俊敏にその場にしゃがみこむと地面に手をついた。四方から銀色の鎖が飛び出してきて、襲いかかってきた敵を雁字搦めにする。そのまま鎖で締め付け引きちぎろうと思ったが、死に際に苦しむのはよくない。ゆえに心臓の場所を的確に感知し、新たな鎖を射出して先端の楔で貫いた。一撃でとどめを刺す。
 一体倒してもまた一体と飛びかかってくる。
 周囲を見渡す。敵の数が減っている気配を感じない。
 きりがない。だからこそ、きりをつけなければならない。
 エルキドゥが疾走すると同時に、無数の敵が追いかけてくる。真横から飛び出してきた敵影に驚くこともせず、素早く身を伏せて回避行動を取る。攻撃することがかなわなかった敵の後ろ姿はあまりにも滑稽だ。その背中に瞳をすがめ、距離を測って鎖を射出する。的確に心臓を穿ち、ときには抉る。
 言葉もなく、つとめて冷静に兵器としての機能を発揮するエルキドゥの胸元にあの端末はぶら下がっていない。レイシフト前にダ・ヴィンチに預けたのである。
 端末を借りて数日もたたないうちに、使う機会が訪れたのはなんというべきか。あてにできないと思っていた彼女のカンが当たったのは、喜ばしいことには違いなかった。そして不確定要素に対する姿勢を改めなければいけないという自戒の念も芽生える。これがエルキドゥにとっての成長なのかはわからないが、少なくともある種の変化をもたらしたのは確かだ。
 そんな事象の発端である彼女に連絡を入れたことをふいに思い返す。
「今からレイシフトに向かうんだ。場合によっては遅くなるかもしれない。その時夕飯は一人で……」
『待ってます!』
 遮るように言われ、一瞬怯んだ。
「一人で先に……」
『一人で、先に、待ってます!』
 これはただの音だ。彼女の喉にある声帯が振動する事によって発せられる音にすぎない。
 でも、その音が紡ぐ言の葉は有無を言わせぬ圧力をもっていて、エルキドゥの内側に存在する何かを強く穿った。
「……わかったよ。要件はそれだけだから」
『はいっ。行ってらっしゃい、くれぐれも気をつけて!』
「うん。…………行ってきます」
 言葉を返すのに、少しばかり反応が遅れてしまった。
 なにせその言葉は、ほぼ使っていないものだからだ。記憶領域の奥底に沈み、埃をかぶって眠っていたと錯覚を覚えるほどである。おまけに『行ってきます』という返し方はこの場合正しいのかという躊躇が生まれてしまう。通話を終えて苦笑を浮かべたのは言うまでもない。
「エルキドゥ!」
 耳慣れた声に意識を引き戻され、エルキドゥは跳ねるように顔を上げた。
 逡巡する間もなく、両足で大地に噛みつき、関節をたわませてばねのように飛び上がる。そのまま鳥のように空中を飛び、嫌なにおいのする空気をかき分けるようにして突き進む。さきほどの声の主を遠目に見つけると、その位置めがけて急降下した。着地の衝撃は大きく、それに伴い轟音が発生する。その激しい衝撃を、エルキドゥの身体はしなやかに受け止めた。
 エルキドゥの着地点の5メートル前方。土埃がすさぶ中、金色の鎧を纏う青年の姿があった。
 片手にぶら下げた装飾過多の斧から血がしたたっている。そんな彼の傍らには、憎々しげに目を見開いた首が落ちていた。
 ギルガメッシュは突然のエルキドゥの来訪に片眉をつりあげている。やや意外そうにも見えるし、困惑しているようにも見えた。
「呼んだかい?」
「呼んどらんぞ」
 戦闘中だというのに、二人して顔を見合わせる。両者とも今にも首を傾げそうな、緊迫感とは無縁の空気が漂った。
「今しがた、僕の名前を叫んだだろう?」
「ああ……あれを使ったまでよ」
 ギルガメッシュが顎で示した先、空中からのびる鎖が首のない死体を雁字搦めに捉えていた。やがて鎖は粒子をともない消失する。宝物庫に戻ったのだろう。そして支えを失った骸が地に伏せる。
「……ややこしいな。僕の鎖とはいえ、僕の名前をつけるのはおかしいと思うのだけれどね」
「我の勝手だ。いちいち気にするな」
 ギルガメッシュはそう言って、斧を振り血を払う。
「そうか。なら僕も鎖の一本に『ギルガメッシュ』と名を付けようかな」
「ややこしくなるからやめろ」
 間を置いて。
「……そうやって自分の事を棚に上げるのはギルの悪い癖だよ」
「ああ言えばこう言う。おまえの悪い癖だ」
「君が大きな矛盾を抱えている事を指摘したまでだよ」
「ふん……それを突き通すもまた王の特権よ」
「君にとってはそうかもしれないね。でも周りはそうじゃない。君は誰からも『尊敬される王』だろう? そういう言動は出来得る事ならつつしむべきだよ」
 エルキドゥが“尊敬される王”のあたりを強調するように言う。しかしエルキドゥの生前におけるギルガメッシュといえば、民から暴君と呼ばれ恐れられていた。
 つまり――嫌味である。
「……おまえはどうにもあれだな。重箱の隅を刃先でほじくり回す癖がある。我の小姑か何かか?」
「そんなつもりはないさ。でも、君の指摘はおかしいね。君は生涯独り身だから姑や小姑はいないはずだ。ゆえに小姑のなんたるかを知らないはずだよ」
「たわけ。口答えも大概にしろ」
「僕の言動を口答えと感じるということは、図星かい?」
 ギルガメッシュの口元はひきつり、エルキドゥの眉間に皺が寄っていた。両者とも余裕の無さを垣間見せている。きっかけはどうしようもなくささやかなものであったが、互いの撃鉄を言葉で刺激した結果、両者の不満のボルテージが高まっていく。
 口論が幕を開けた。
 もちろん、向かってくる敵を千切っては投げしながら。
 そんな二人の様子を、遠目に見つめるサーヴァントの姿があった。色白の痩躯は、まるで骨と皮しかないような独特な風貌をしている。カルナだ。
「マスター、あちらで諍いが勃発しているようだが」
 カルナの言葉に、立香は顔を上げた。彼が示す先を見つめ、派手に吹き上がる爆炎のようなものを視界に認めると、
「余裕がある証拠だ、負ける気がしないよ」
 そう言って、何事もなかったかのように顔を元の位置へ戻した。
「それは建前だな。本音は」
「面倒だから放っておこう。それよりマシュ、近くにいる敵は?」
『3時の方向。数は不明』
 その場にいる全員が、3時の方向を見やる。無数の気配が近付いて来るのを感じ取った。
「うーん、これは長引きそうだね……」
 場にいるうちの一人であるマーリンが苦笑を浮かべつつ、頬を指先でかいた。その隣に佇む甲冑の騎士が、己が握る剣の腹を軽く肩当てに叩きつける。まるで自分の苛立ちを表すかのようにガンガンと煩いが、誰もが指摘せず黙っていた。言えば面倒になるだろう事が簡単に予想できたからだ。
「しょうがねぇ、やるしかないだろ」
 左右から角が生えた特徴的な兜の中から声がする。言動は男のそれだが、声はまさしく女だ。モードレッドのその声には苛立ちがこもっている反面、やる気にあふれているようにも受け取れる。
「どれどれ。私から二人に祝ぎでも紡いでおこうか」
 マーリンが言うと、カルナが表情を引き締めた。
「デバフか」
「バフだよ!?」
「戦いの前に辛気臭え話聞かせんな」
「いいから黙って聞いていなさい!」
 散々な言われようにマーリンは憤慨する。そんな彼から支援を受けた二人は、すぐに飛び出していった。
 立香はマーリンとともに後方支援に徹する。四騎のサーヴァントへ目配りしながら、危うい場面があればガンドを打つ。魔力が足りないよう見受ければ、優先して魔力を送り込む。そして立香の傍らにいるマーリンはマスターの防衛を最優先事項としながら、幻術を用いて敵を撹乱する。
 よっぽど苦労する場面はないが、あまりにも数が多い。カルデアと戦況のやり取りをしながらなんとかかんとか微少特異点の修正が終え、帰還するのに予定よりも数時間の遅れを取った。
「今日は、お疲れ様でした」
 疲労困窮ながら、サーヴァントたちにねぎらいの言葉をかける立香だったが、
「あまりにも指揮力不足だ。改善しろ」
「はい……精進します……」
 ギルガメッシュの言葉にしゅんと肩をすぼめる立香を見て、カルナとモードレッドは眉をひそめる。
「状況が状況だけに仕方ねえだろ。マスターはよくやってる」
「甘やかすな。碌な事にならん」
「ほう、民に甘やかされた王は言うことが違うな。やはり経験則の差ゆえか」
「……貴様」
「あの……みんな……落ち着いて……」
 剣呑な空気に耐えきれなかったのか、立香はハラハラしながら場をなだめようとしている。その隣でマーリンは我関せずと言った様子で大あくびをしていた。
 そんな彼らをエルキドゥは穏やかに眺めたあと、くるりと身体を反転させて足を踏み出した。少し離れた場所に佇むダ・ヴィンチのもとへと歩み寄る。
 ダ・ヴィンチはすぐに察したようで、ふっと笑みを浮かべながら預かっていた端末を差し出した。
「用件はこれだろう?」
「うん。預かってくれてありがとう、助かったよ」
「なに、これくらい造作もない……おっと?」
 エルキドゥが手を伸ばして受け取ろうとした瞬間、横から伸びた手が端末をひょいと取り上げた。
 ギルガメッシュだった。端末をひっくりかえして見聞している。
 先程までの諍いはどうしたんだろうとエルキドゥは視線だけでギルガメッシュがいた場所を見れば、誰もいない。どうやらサーヴァント同士のいざこざはすぐに片がついたらしく、室内に残っているのはこの場にいる三人だけだ。
 軽い嫌がらせを受けながらも表情を崩さないエルキドゥとは対象的に、ダ・ヴィンチは肩をすくめて呆れている。
「いくら王とて、友人の私物を横取りするのは感心しないよ」
「少し黙っていろ。……おまえ、どこで手に入れた?」
「職員の一人に無理を言って貸してもらったのさ」
「ほう? おまえが交渉をか?」
「僕がそういった事に不向きなのは君だって理解しているだろう? 人任せの産物さ。それよりも返してくれるかい? 大事なものなんだ」
 ギルガメッシュは何も言わず、エルキドゥへ端末を放るように渡した。難なく受け取る。
 エルキドゥは乱暴な扱いを咎めることもせず、端末のスリープを解除して画面を見る。不在着信の通知が表示され、ハッとした。そんなエルキドゥの機微を怪訝に思ったらしくギルガメッシュが画面を覗き込もうとするので、エルキドゥは端末を見られまいと胸元にぴったりくっつけるように隠しながら数歩距離を置く。追いかけては来なかった。性格に難はあれど、嫌だと示せばそれを汲んでくれるくらいの気遣いはあるのだ。
「そういえば、不在着信があったよ。折返し連絡してあげたらどうだい?」
「うん、そうするよ」
 ダ・ヴィンチの言葉に頷くと、エルキドゥは出入り口まで跳躍する。そのまま部屋を飛び出した。
 廊下に出て離れた場所までやって来ると、エルキドゥはようやく端末を操作する。手順を思い返しながら、それでもスマートとは程遠い手つきで電話をかけた。
 コール音のあと、
『もっ、もしもし?』
 聞こえた声は、少し興奮しているのかうわずっていた。
、僕だよ僕」
『さては僕僕詐欺ですね?』
「……なるほど、今一部の地域で流行しているという『オレオレ詐欺』をもじった言い回しだね」
『真面目に返されるとかえって返答に困るんですが』
「なら冗談は程々にしてくれるかい? 今ちょうどカルデアに帰還したんだ。、夕飯は?」
『食べてません』
 予想通りの返答になんともいえない気持ちを覚えつつ、耳を澄ませる。かすかな人のざわめきにまじって、食器がぶつかるような音がする。彼女がどこにいるかは明らかだった。
「どうやら食堂にいるようだけれど」
『はい。お茶を飲みながらエルキドゥさんが来るのを待ってました』
「……先に食べていてくれてもよかったのに」
『待つって言いましたから!』
 自信満々な声。えへんと胸を張りそうなほどの勢いが込められているから、エルキドゥは返答に渋った。
 空腹状態を我慢して待つという行動はあまりにも非合理的だ。しかし彼女はその非合理を当たり前に良しとしている。
 何故、と瞬時に湧いた疑問は、すぐに解消した。
 一秒でも長く一緒にいたい。エルキドゥが常日頃、思考の片隅に忍ばせているものだ。
 今の彼女はきっと、それと同じものを抱えているのではないだろうか? 無論、エルキドゥは感情の機微に長けているわけでもなく、また高等魔術師のように心を読むすべは持ち合わせていないから、これはエルキドゥにとってもっとも都合のよい希望的観測でしか無い。
 でも、もしそうだとしたら――。
 じんわりと、空洞に何かが広がっていくような錯覚に見舞われる。まるで干からびてひび割れたところにぬるま湯を流し込まれるような不思議な感覚。それは心地が良い。あまりにも心地が良いから、かえって恐ろしくも思える。相反する2つの感情の同居の複雑さを噛み締めながら、エルキドゥは小さく身じろぎした。
 端末の下半分に添えていた手を少し離して、人差し指を通話口に触れさせる。マイクがあるだろう小さな溝をゆっくりなぞって、往復させる。あの時のザラザラとした、なんともいえない怪音を思い返しながら。
『……あ、あの、エルキドゥさん?』
 呆れ気味なようでいて、どこか戸惑いと羞恥を感じるような声色だった。
「なんだい?」
 エルキドゥは気にせずに撫で続ける。
『その……するのはいいけど、されるのはちょっと……』
 戸惑いを含んでまごついた声は、だんだん尻すぼみに小さくなる。その声はエルキドゥが触れた際に恥ずかしがって発する声と同じ類いのものだから、不思議と本当に撫でている気にさせられた。錯覚だとわかっていながらも、エルキドゥは自然と頬が緩むのをやめられない。
は嬉しくはないかい?」
『……なんともいえません』
「そうか。僕はにしてもらえて嬉しかったんだけれどね」
『う、うそだー。ぜったいうそだー』
 いつもの丁寧な言葉はどこへやら、発音もぎくしゃくしている。彼女の他人に対する接し方の不文律が崩れるほどの動揺が伝わってくる。エルキドゥにはそれがおかしくて、つい笑ってしまう。
「嘘ではないよ。そんな風に思っていたとは、心外だな」
『だ、だってあの時のエルキドゥさん、声がもう引いてましたもん』
「初めての事象の連続に対処を迷ったんだ。嬉しかったのは確かなことだよ」
 エルキドゥがそう言うと、は黙り込んでしまった。
 無反応が継続する。これでは埒が明かない。エルキドゥが水を向けようか迷い始めたところで――ザラザラとした音が聞こえた。
 エルキドゥは、また笑ってしまった。不快な音に違いないが、その発生理由を知った今となっては、ただただ嬉しい。
 音に身を委ねているうちに、うっかり手を止めると、
『あっ……』
 追いすがるような声がする。
 エルキドゥは一瞬目を見開くも、すぐ合点がいった。また撫で始めると、今度は「ぐぬぬ」と唸るような声が聞こえる。肩を震わせて笑うのを止められない。
「されるのは嫌ではなかったのかい?」
『嫌とは一言も言ってないですよ』
「なら嬉しい?」
『…………うれしいです』
 観念したような声に、勝手に瞼を支える力が緩んだ。瞳を細める。
「うん、僕も嬉しいよ。するのもいいし、されるのもいいね」
 こうして同じ時間を共有する事で、エルキドゥは新たに気付いた事がある。
 この子は、自分を笑わせるのが得意だ。その才能はきっと誰にも引けを取らない。嬉しい発見だった。
『そんな事より、おなかぺこぺこです……。もう少しかかりそうですか?』
「いや、もう終わったよ。そうか、話が過ぎてしまったね。今すぐ飛んで行くから」
『飛ぶってそんな大げさな。それじゃあ、待ってます』
「うん、すぐに着くと思う。は食事の用意をして待っていて」
『はいっ』
 明るい返事を最後に通話を終えると、エルキドゥはストラップを首にかけた。髪を通すのは面倒だからそのままにしておく。
 飛ぶことが大げさだと彼女は笑ったが、それも仕方ないとエルキドゥは思う。彼女は兵器としての能力をほとんど知らないのだから、飛行能力が備わっている事もきっと知らないはずだ。
 もしその姿を見せたらどんな反応を示すだろう。エルキドゥの乏しいリソースでは、うまく想像できなかった。だからこそ、興味が止まない。彼女は喜怒哀楽のどれを見せてくれるのか。
 カルデアの廊下は広い。だから愛馬に乗って駆けたり、戦闘用の馬車や牛車に乗ってやんちゃ仕放題のサーヴァントもたまにいる。そんな状況下なら、エルキドゥがちょっとくらい飛行しても許されるだろう。
 魔力の奔流に、エルキドゥの髪がふわりと広がる。廊下の先を見据える瞳は金色に輝いている。
 エルキドゥの足が廊下を蹴った瞬間、その体は文字通り宙を飛んだ。