お泊まりエルキドゥ
※登場するサーヴァント:ダ・ヴィンチ
※カルデアの設備を捏造しています
夕飯後のティータイムのことである。※カルデアの設備を捏造しています
「の部屋で寝泊まりがしてみたいのだけれど」
エルキドゥさんの口から爆弾めいた発言が投下され、私は思わず面食らってしまった。
「……ねとまり?」
首を傾げながら尋ねると、エルキドゥさんは首を縦に振った。
「率直に言うと、と眠りを共にしたい」
「ともに……いっしょに、ねる?」
「うん、そう」
エルキドゥさんは相槌を打つと、瞼をほんの少しだけ落として微笑んだ。対する私はうまく言葉を飲み込めず、だんまりするばかりだった。
私の部屋で一緒に寝るということは、あの狭っ苦しい部屋に招き入れて、あのお一人様用の狭いベッドで並んで寝るという意味に違いない。
つまり、お泊まりデートのお誘い――というにはちょっと齟齬があるけれど――みたいなものである。
一瞬にしてボッと顔が熱くなる反面、冷や汗がダラダラと止まらない。嬉しい気持ちはもちろんあるけれど、それよりも羞恥とか不安とか心配事の方がそれを遥かに上回ってしまった。
まず倫理的にどうなんだろう? よろしくない気がする。とはいえ、エルキドゥさんの言い方から察するに男女間における深い意味はなさそうだけれど、……いやでも恋人なのに深い意味がないってのもそれはそれでどうなんだろう?
これ以上考えたら頭がおかしくなりそうだったので、一旦思考を放棄し、不行儀な可能性を頭の片隅に放り投げた。一度静かに深呼吸をして、できるだけ取り乱さないようにと自己暗示しながら口を開く。
「その、理由をお聞かせ願えますか?」
私がこわごわと尋ねると、
「前にも言ったけれど、僕の心は不完全だからね。と同じ時間を共有する機会を増やして、君と僕の差異を見つけ次第調整し、出来ることならアップデートを行いたいんだ」
「つまり、今の状況では足りませんか?」
「うん、足りないね」
即答するエルキドゥさんから視線をそらし、とりあえず紅茶に口をつける。程よく温くて、味にしても強い香りが無く、飲みやすくておいしい。と、あからさまに現実逃避していれば、
「嫌かい?」
エルキドゥさんが眉を下げて、ちょっと困った顔になった。
「もちろん、が嫌がる事をするつもりは毛頭ないし、妙な考えを起こすつもりもないよ。……駄目かな?」
首をわずかに傾げて、控えめに尋ねてくる。エルキドゥさんのこういう一面を見るたびに思うのだけれど、このずるいそぶりはどこで学んで身につけてくるんだろう。それとも、見様見真似でいつの間にか覚えてしまったんだろうか?
なんにせよ、私がエルキドゥさんに逆らうすべは無かった。
「私が、エルキドゥさんに出来ることは少ないから、出来る限り力になりたいです」
「……本当?」
「はい」
途端に、エルキドゥさんの表情が嬉しそうにぱああっと輝いた。合わせて後光のようなものが背後から見えるけれど、きっと気のせいだ。
「ただ、現実問題として、サーヴァントの方が職員寮に立ち入るのはもちろん、寝泊まりするにも手続きが必要かと思いまして……」
「手続き……そういえば、そんな話を聞かされた気がするな」
カルデアのセキュリティが厳重なのは周知の事実だ。おまけに内部犯による爆破テロが発生した現状、職員用のプライベートな空間にサーヴァントが立ち入るには相応の手続きが必要になる。
「それに、エルキドゥさんってパジャマとか持ってますか?」
「ぱじゃま?」
エルキドゥさんはつたない口調で呟くと、視線を斜め上に向けつつ首をこてんと傾げた。その可愛さに胸を打たれていると、やがてエルキドゥさんの傾いた首が元の方向へ戻った。理解したらしい。
「ああ、寝間着のことか。持っていないよ」
「なら、だめですね」
「どうして?」
「宗教上の理由なんですが、私服のままベッドに入るのが許せないんです。それで寝るだなんて言語道断です」
エルキドゥさんはしばらくぽかんとしていたけれど、くすくすと笑い始めた。
「聖杯の知識に『眠る際は寝間着の着用を義務付ける』という宗教はないんだけれどな。は随分おかしな宗教に入信しているんだね?」
訳知り顔で尋ねてくる。きっと、宗教上の理由がでたらめだと見抜いているのだ。
「ぜんぜんおかしくないです。外の汚れがついたままの服でベッドに入るほうがおかしいですよ」
「きれい好きなんだね。わかったよ、寝間着は僕のほうでなんとかする。それじゃ、許可をもらいに行こうか」
「今からですか!?」
「善は急げって言うだろう?」
席を立ち、片付けを済ませて食堂区画を出たところで、エルキドゥさんがぴたっと立ち止まった。
「ところで、誰に貰いに行けばいいんだろう?」
「うーん……」
考える。思い当たる節といえば、あの人しかいない。
エルキドゥさんを連れて向かった先は、ダ・ヴィンチさんの工房だった。
到着してから不在の可能性が脳裏をよぎったけれど、幸いなことにダ・ヴィンチさんは工房の中にいらっしゃった。突然の来訪に驚いた様子だったけれど、私達の顔ぶれに何かを察したのかニヤッと笑い、招き入れてくれた。
工房の中は滅多に足を踏み入れることがないので、失礼だとわかっていながら視線をさまよわせ、珍しい物を探してしまう。そんな私と違ってエルキドゥさんはキョロキョロと見回すことはせず、終始落ち着いた様子だった。もしかすると、藤丸くんと一緒に訪ねる機会があったから工房の風景に慣れているのかもしれない。
部屋の隅にある応接スペースの椅子に案内され、腰を下ろすと、
「さて、用件は何かな?」
ダ・ヴィンチさんが間髪入れずに尋ねてきたので、かくかくしかじかと手短に説明した。
「うーん、易易と許可は出せないかな」
その返答はほとんど予想通りで、私は苦い笑みを浮かべるほかない。隣に座るエルキドゥさんを見れば、納得がいかないといった様子で不満げに眉をひそめていた。
「何故かな?」
「君達の要望はいわば『特例扱い』になる。これを容認すると前例になってしまうからね。他のサーヴァントから今回のケースを引き合いに自分もと要求されたら、断り辛くなってしまうだろう?」
ダ・ヴィンチさんから諭すような正論が飛んできて、エルキドゥさんは黙りこくっているけれど、顔つきは諦めとは程遠いものだった。それ見てしまうと私も、はいそうですと大人しく納得し、すごすごと引き下がり難いものがある。
「エルキドゥさんは、感情のアップデートがしたいとおっしゃっていました。その目的のため、という名目では駄目でしょうか?」
「うん、目的がしっかりしているなら別にいいよ。ただね、そのアップデートをして何になるのかな?」
穏やかな声に一瞬、思考が真っ白になった。
何になるんだろう? 自問する。これは、当人のエルキドゥさんじゃないとわからない。しかしエルキドゥさんは終始眉をひそめているし、それを横目に見た私は、ダ・ヴィンチさんに対してなんと言ったらいいかわからず口を閉ざす。
すると、ダ・ヴィンチさんが気まずさが漂う空気を変えるかのように微笑んだ。
「別に意地悪を言っているわけじゃないよ。ただ、自身を人にいいように扱われる兵器と定義しているエルキドゥ君が感情のアップデートをすると、かえって弊害が生じるんじゃないかなと思ってね」
かと思えば、何かを見定めるように見つめてくる。
「感情が豊かになるということは、共感性に富むということだ。敵に対していらぬ同情が生じるおそれもあるだろう?」
ダ・ヴィンチさんの言い方は穏やかだけれど、なんだか鋭利な刃物の切っ先を向けてくるような、そんなおっかなさを彷彿とさせた。
「ありえないよ」
エルキドゥさんが瞬時に、きっぱりと否定する。
「僕はマスターのために力を振るう兵器だ。たとえ敵に命乞いをされても、僕はそれを惨めに思いながらも力を発揮するだろう。マスターが止めない限りはね」
「うん、だがそれは現状でも出来ていることだろう? 君にとって、本当に必要な事なのかな? アップデートをしたその先に何があると?」
「それは、やってみないとわからないさ」
「しかしね、結果につながらない努力は努力じゃない。ましてや結果がわからないことに対して努力するというのはね……」
「それも理解しているよ。でも、ゆくあてもない旅路の先に何か宝物があると信じられなければ、振り返った道筋はひとたび滑稽に見えてくるものさ」
エルキドゥさんはそう言うと、どこか遠くに思いを馳せ、懐かしむように目を細める。けれどそれは一瞬のことで、すぐに真剣な表情へ戻ると穏やかな口調で言葉を続けた。
「意識の有無に関わらず、すべての事象には必ず目的が存在する。肝要なのはどこへ向かうかだ。これは僕が多くの旅路を重ねた結果に導き出した答えだよ」
滔々と話すエルキドゥさんの横顔を見つめる。真剣な眼差しは終始ダ・ヴィンチさんに向けられていた。きっとエルキドゥさんは今、エルキドゥさんにとって最も大切なものをダ・ヴィンチさんに伝えようとしているのだろう。その言葉は聞いているだけの私にも強く訴えかけるようななにかがあって――エルキドゥさんは一見、少年少女と見紛うような面立ちをしているけれど、それでもやっぱり私より歳上で、私とはまったく違う道を歩んだ人なんだと思わせられる。
「とはいえ、正直に言えば君を素直に納得させられそうな利口な理屈は持ち得ていないし、大層な理由もない。これはきっと僕の好奇心を満たしたいだけだ。でも、何かの切欠になりそうな予感はあるんだよ」
「ほう、君の部屋に行くことが、かい?」
「うん。別に君に共感してもらおうとは思っていないし、むしろ共感されたらかえって困るかな。僕が抱えているこの衝動は、僕一人だけがわかっていればいい。まあ、も理解してくれる事が理想だけれどね」
エルキドゥさんはそう言うと、何故か私に向かって微笑んだ。いきなりの事に私はびっくりして、慌てて顔をそらす。意味深な仕草に果たしてどういう意味が込められているのかわからないけれど、ただ一つだけ言えることは、対面に座るダ・ヴィンチさんは呆れ眼から飛んでくる視線が生暖かくて辛いという事だった。
やがてエルキドゥさんは、ダ・ヴィンチさんの方へ顔を向け直す。
「とりあえず、現時点の僕にとって確かなことは、君の言う無駄な努力とやらは、今こうして椅子に座って君とくだらない議論を重ねるよりよっぽどマシという事さ」
呼吸するような気軽さをもってさらりと毒を吐くのは、エルキドゥさんの悪いところだと思う。冷や汗がぶりかえしてきて内心おろおろする私だけれど、ダ・ヴィンチさんは苦笑を浮かべて、それから平気だよ、と目配せしてきた。
「エルキドゥ君の要望は大体わかった。君、君から何か意見はないかな?」
「意見、ですか」
「職員寮にサーヴァントを招き入れるリスクはあまりにも大きいからね。エルキドゥ君であれば、職員20名足らずの寝首をかくのは朝飯前に容易いだろうし」
「そんなことはしないよ」
「わかってるさ」
間髪入れずに反応するエルキドゥさんを、ダ・ヴィンチさんがどうどうとなだめる。
「君達の要望は、他の職員にとって安全が確約された場所に核爆弾を持ち込むようなものだからね。批判を浴びても仕方のない事だ。それでも要求を飲もうと思った理由が聞きたい」
ダ・ヴィンチさんの顔をじっと見つめて、考える。
「エルキドゥさんは今、自己に誤謬を見つけた状態です。その修正を図るためにマスターである藤丸くんではなく、私に協力を求めてきてくれました。私の助力で改善できるのであれば、拒否する理由にはなりません」
私がそう言うと、ダ・ヴィンチさんはふっと目を細めて、
「そこに個人的な感情は含まれているのかな?」
「もちろんです。好きだからこそ力になりたい、当然だと思います」
内心胸を張る思いで言い切ってから、どっと不安がおそってきた。こんなのでよかったんだろうか?
「なるほど。わかったよ」
でも、私の不安を他所にダ・ヴィンチさんは鷹揚に頷いて席を立った。机に向かい、がさごそと何か物を探って、すぐに戻ってくる。
ダ・ヴィンチさんはエルキドゥさんの傍らに立つと、何も言わずに右手を差し出した。その手中には、IDカードが入ったパスケースがある。エルキドゥさんはダ・ヴィンチさんの顔とパスケースを交互に一度見比べて、おずおずと受け取った。
「割とすぐに用意できるものなんだね」
「そうでもないよ。君の分はまあ、虫の知らせみたいなものを感じて、あらかじめ用意してたからね。ほら、今の子って結構大胆だし?」
何故か私に向けてニヤッと笑うものだから、ぶんぶん首を横に振って誤解ですとアピールした。そんな私を置いてけぼりにして、二人は穏やかに言葉を交わし合う。
「なら、あんな試すような真似をするより、すぐに了承してくれてもよかったんじゃないかな」
「最初は否定的であった、というポーズは大事だからね」
「……なんだか納得がいかないな」
「んん~? 文句があるなら取り上げるよ~?」
エルキドゥさんは何も言わず、パスケースを胸元にぎゅっと抱えて警戒体制に入っていた。
「冗談だよ。絶対になくさないように頼むね」
「うん」
ダ・ヴィンチさんが笑うと、エルキドゥさんは瞬時に警戒を解いた。
「ああ、君にもうひとつ聞きたいことがあった。寝間着が入り用になってしまったんだけど、ここにそういったものはあるかい?」
「寝間着? ……何故?」
ダ・ヴィンチさんが不思議そうに首を傾げている。
「の宗教上の理由だよ。寝る際は寝間着を着用しないと駄目らしい」
「へんてこな宗教だねえ。もしかして君、空飛ぶスパゲティとか崇めちゃうタイプ?」
ダ・ヴィンチさんはくつくつ笑いながら、部屋の壁際に積み重ねられた段ボール箱を見聞し始めた。
「ち、違います。私服でベッドに入るのが許せないだけです。皺になっちゃいますし」
「まあ、わからなくもないけどね……」
慌てて否定する私に、ダ・ヴィンチさんは苦笑を浮かべてから、
「ところでエルキドゥ君って、女性用? 男性用?」
ビニール袋で包装された青色のパジャマシャツを両手にそれぞれ持って見せつけてきた。休暇中の職員が寮内を出歩くときに必ず身につけなければいけないものだ。しかし動ける職員が少ない今となっては、出番がほとんどない代物である。
「どちらでもいいよ。頓着はしていない」
「そのどっちでもいいってのが一番困るんだよね~。んじゃこれにしようか」
手にしていた服を元に戻したかと思えば、別の場所から引っ張り出したものをエルキドゥさんに向かって放り投げた。エルキドゥさんが静かに受け止めたそれは、グレーのスウェットだった。
「これは君のポッケから天引きしておこうか」
一瞬ギクッとする私の隣で、エルキドゥさんがふるふると首を横に振る。
「いや、僕が払うよ」
「君が? 持ってるの?」
「うん、わけあってね。自分のものは自分で払うべきだろう?」
「ま、そうだね。……んじゃ、今日はもう遅いし、明日にでも持ってきてくれたまえ」
とてもよくしてくれたダ・ヴィンチさんに二人でお礼を言い、工房を出た。
ドアがしまったのを確認し、歩き出そうとしたところで、
「それじゃ、部屋に案内してくれるかい?」
エルキドゥさんの口から本日二度目の爆弾が投下された。
「ええっ!? 今日泊まるんですかっ!?」
「うん。鉄は熱いうちに打たないとね」
そう言ったエルキドゥさんは、自分の思い通りに事が運ぶものと信じて疑わない顔をしていた。とすると、もし私が拒否したら物凄くふてくされそうな姿が容易に想像できてしまい、なんともいえない気持ちになった。
これはもう、腹をくくるしかないみたいだ。
「わかりました。もうビシバシいきますからね、覚悟してくださいよ」
「ふふ。僕はこれから一体何をされるんだろう?」
エルキドゥさんはそう言ってくすっと笑うとパジャマを小脇に抱え直し、空いたほうの手をするりと絡めてきた。途端に全身がくすぐったい感触に見舞われ、振り払うようにふんと鼻息一つもらして、その手を握り返す。虚勢を張ったけれど、実を言うと内心ドキドキしっぱなしだった。
歩き出す。しばらく進んでから、ふとエルキドゥさんを見上げれば、ちょうど視線がかちあった。微笑まれるので慌てて視線をそらすものの、若干の居た堪れなさにエルキドゥさんの手をにぎにぎすると、数秒の間をおいてにぎにぎと握り返された。
とりあえず、部屋についたらまずどうすればいいんだろう?
お客様をもてなすようなテーブルも椅子もなくて、本当にただ寝泊まりするだけの質素な部屋だ。掃除はこの前したばかりだから大丈夫だろうけれど、床にゴミが落ちていなければいいと願うしか無い。ベッドのシーツも取り替えなきゃいけないし、シャワーにしたっていつ浴びるのが最適なんだろうか。その間、エルキドゥさんにはどうして貰ったら退屈させないだろうか――なんて、いろいろ考えているうちに、職員寮区画前まで来てしまった。
思い返せば思考にふけっている間、会話らしい会話がひとつもできなかった。エルキドゥさんにしても今日みたいに寡黙なのは珍しい。いつもはお喋りなのに、と思いながら見上げると、エルキドゥさんが待ち伏せするようにこちらを伺っていた。目が合うとエルキドゥさんはにこっと微笑んで、それからゲートに取り付けられたセンサーを見上げた。
「本当に入っても大丈夫かな?」
「大丈夫ですよ。もし駄目でも、警報が鳴るくらいです」
「それは大丈夫とは言わないと思うよ……」
エルキドゥさんは心無しか不安そうだった。
人知の及ばない存在であるエルキドゥさんが、たかがセンサーに尻込みしているという可愛い状況に思わず笑ってしまいそうになる。それをなんとかこらえて、エルキドゥさんの手を引っ張った。私が足を踏み出せば、エルキドゥさんもおずおずと足を踏み出す。
ゆっくりと、一緒に区画の敷居をまたいだ。
「ほら、大丈夫でした!」
「……うん」
二人で顔を見合わせて、奇妙な達成感を分かち合う。
そのまま手を引いて歩き出せば、エルキドゥさんは引かれるがまま大人しくついてきた。それでも時々、何かに気を取られてきょろきょろと視線を彷徨わせるから、足取りはいつにも増してスローペースだ。
「の部屋はどこかな?」
「道なりにまっすぐ、もう少し先ですね」
「、あそこの部屋は? 機械がたくさんあるけれど」
「共有のランドリールームです。自分の洗濯はあそこでするんです」
「そうなんだ。……あそこは、談話室かな」
「はい。ゲーム機とか色々ありますけど、時間の都合で使用する人はあんまりいませんね」
興味津々。いろんなものに目移りするエルキドゥさんの質問に答えていくうちに、部屋の前まで来てしまった。
緊張からゴクリと生唾を飲み込みつつ、繋いだ手を解いた。
ドアノブの脇のパネルに広げた右手をぴったりと乗せて、ドアに埋め込まれたパネルに顔を近づける。指紋、掌形、虹彩による三重認証の末、ドアのロックが外れる音がしたかと思うと、横開きの自動ドアが開いた。それに連動して部屋の明かりがつくようになっている。いつ見ても最先端を感じる便利な仕組みだけれど、今となってはそれが憎かった。部屋の中が丸見えだから、正直物凄く恥ずかしい。
「その、いきなりの事で準備とか出来ませんでしたから、細かいことが気になっても目をつぶってくださいね」
「うん」
私が部屋の中に足を踏み入れても、エルキドゥさんは足を踏み出す事無く、廊下に佇むばかりだ。怪訝に思って見つめると、躊躇いがちにそわそわしている。
「……本当に、入ってもいいかな?」
そう尋ねてくるエルキドゥさんは、なんだか緊張しているみたいだった。
「どうぞ。早くしないと、ドアがしまって鍵が掛かっちゃいますよ?」
軽くおどかしてみると、目を丸くしてあたふたしはじめる。
やがて踏ん切りがついたのか、垣根を飛び越えるみたいに勢いを付けて、ぴょんと部屋の中に飛び込んできた。
「その……お邪魔します」
大げさな仕草とは裏腹に言動は控えめで、不一致なところが笑いを誘う。
「ふふ、お邪魔じゃないですよ。いらっしゃいませ、エルキドゥさん」
笑顔で出迎える。でもやっぱり緊張は解けないのか、エルキドゥさんは着地点に立ちっぱなしだった。その表情はどこかぼうっとしているけれど、身体は少しそわそわしていて、いつにも増して変な感じだ。しばらくは直りそうにないので、まずは自分のやる事を済ませたほうがよさそうな気がした。
上着をハンガーにかけて、靴を脱いでスリッパに履き替える。予備のスリッパをもう一つ出して、
「エルキドゥさん、よかったらこれ履いてください」
「……うん」
エルキドゥさんに促すと、ようやく動いてくれた。のろのろとした動作で、スリッパに足を通している。それでもぼんやり突っ立ったままだから、思わず苦笑するほかない。
「緊張してます?」
「そうかもしれない。思考が少し鈍っている気がする」
「それじゃあ、今からリラックスできるおまじないをします。じっとしててくださいね」
「……えっ」
エルキドゥさんが珍しく調子外れな声を上げたけれど、構わず正面から抱きしめた。
背中に手を回して、上から下へと優しく撫で付ける。こうして緊張が解れてくれればいいなと願いを込めつつ、畳み掛けるように「りらっくすー、りらっくすー」と唱えれば、
「……っ」
エルキドゥさんが小さく吹き出す声が聞こえたけれど、気にせず続ける。攻撃の手は緩めてはいけないのである。
エルキドゥさんはしばらく肩を震わせていたけれど、だんだんと力が抜けていくのがわかった。ひとしきり撫でると、エルキドゥさんは空いたほうの片腕を私の背中に回して、抱きしめ返してくる。
「じっとしててくださいって言ったのに……」
「おかげさまで弛緩したからね。なら、じっとする必要はないだろう?」
「それはよろしゅうございました」
おどけて言えば、エルキドゥさんはふっと微笑を浮かべると、僅かに首を傾げた。
「は、緊張している人に対して、誰にでもこうするのかい?」
「す、するわけないじゃないですか! してたら頭がおかしい人ですよ。エルキドゥさんだけ特別です」
エルキドゥさんは何も言わず、けれど嬉しそうに微笑んで、私の肩口に顔を埋めてきた。そのままぎゅうぎゅう抱きしめられる。少し苦しい。
そうして満足してくれたのか、エルキドゥさんが腕の力を緩めるので、それを合図に体を離した。二人して顔を見合わせ、奇妙な照れくささに笑い合う。
「私、今からシャワー浴びてきますので、エルキドゥさんは適当にくつろいでいてください」
といっても、くつろげそうな場所は限られているのだけれど。
「シャワー?」
「はい、急いで済ませてきますので……あっ、エルキドゥさんも浴びますか?」
尋ねると、エルキドゥさんは視線を斜め上に向けて、いつもの考え込む仕草を見せる。
「が洗ってくれるなら、浴びようかな」
帝王級の爆弾めいた発言が投下され、一瞬、思考が止まった。
「駄目です。絶対に駄目です!」
ぶんぶん首を振って拒否する。一瞬の隙を見せたら最後、そこに付け込まれて丸め込まれるのが簡単に予想できてしまった。
頑なな姿勢を保ち続けていると、エルキドゥさんはみるみるうちに不満げな表情になった。
「こういう場合は、なんと言えばいいんだろうね……のけち?」
「けちじゃないです!」
「……まあ、仕方ないか」
エルキドゥさんは諦めたのか、それともはなから冗談のつもりだったのか、それっぽく肩を竦めるといつもの表情に戻っていた。ゆるりと部屋を見回したかと思いきや一直線にデスクチェアに向かい、机の上にスウェットを置いて椅子に腰を下ろした。テーブルの上に立ててある本の背表紙を、じーっと見つめている。
「あっ、部屋にある本は自由に読んでかまいませんので」
私が言うと、エルキドゥさんはゆるゆると首を左右に振った。
「ううん、一旦霊体化するよ。が汚れを落とすなら僕もそうするべきだろうから」
「はい、わかりました」
頷いて、シャワーを浴びるための準備を整える。着替えを用意したところで、ふと気付いた。
霊体化というものはオバケみたいな状態だから壁もすり抜けられるらしいと、いつだったか聞いた覚えがある。つまり、洗面所のドアに鍵をかけても入ってこられるかもしれない。
エルキドゥさんを横目に見る。多分、そういう事をする人ではないと信じたい。タオルやら着替えを重ねたものを胸に抱え、エルキドゥさんのそばに近寄る。
「それじゃ、浴びてきます」
「うん」
エルキドゥさんは素直に頷いたかと思うと、何か言いたげにそわそわしはじめる。首を傾げて促すと、言いにくそうに視線を彷徨わせ、
「……できれば、早く戻ってきて欲しいかな」
ぽそぽそと吐露してくれた。
「はいっ、大急ぎで浴びてきますね!」
洗面所に入る際、視界の隅にきらめく粒子を纏って消滅するエルキドゥさんの姿が見えた。幻想的な光景に思わず動きを止め、見入ってしまう。エルキドゥさんが消えたのを見送ると後ろ手にドアを締め、鍵をかけようと手を伸ばしてすぐに引っ込めた。
急いで服を脱ぎ捨てシャワーを浴びた。体を拭いて着替えを済ませ、ドライヤーで髪を乾かす。洗濯かごに洗い物を突っ込んで、諸々の後始末をすませてからドアを開ける。
部屋の中を覗き込むけれど、誰もいない。キョロキョロと見回していると、エルキドゥさんが椅子に座った姿勢のまま、ふわっと戻ってきた。
「終わったかい?」
「はい。おまたせしました」
換気扇のタイマーをかけ、洗面所のドアを締める。
「それじゃあ、僕も着替えるよ」
「はい」
エルキドゥさんがいそいそと包装袋からスウェットを取り出し始める。畳まれた服を広げ、首元のタグに付けられた値札に気付くと不思議そうに見分したのち、括り付けている紐に人差し指を引っ掛けた。何をするんだろうと思った次の瞬間、指先に音もなく光が走り、見事紐は断ち切れていた。すごい。
「あっ、そのゴミください。捨てます」
「うん。ありがとう」
不要になった包装袋と値札を受け取り、部屋の隅のゴミ箱へ。
振り返ると、エルキドゥさんがちょうど上着を脱いでいるところだった。驚きのあまり言葉を失う。
エルキドゥさんが白い服から首を引っこ抜いた瞬間、長い髪がふわりと広がって、そのまましぼんでいく。真っ直ぐな長髪に乱れた様子はないけれど、それでもエルキドゥさんは何か引っかかることがあるようで、ふるふると首を左右に振って髪を整えていた。
上半身裸なのにエルキドゥさんは堂々としていて、恥ずかしがる素振りはひとつも見せない。色素の薄い素肌は眩く絵になるような美しさがあって、一瞬見惚れそうになるけれど、すぐに現実に引き戻された。
「わああーっ!? 駄目っ、ここで着替えちゃ駄目ですっ!」
目のやり場に困りつつ何とか声を絞り出すと、エルキドゥさんは心底不思議そうに首を傾げた。
「どうして?」
「人前、それも異性の前で着替えるのは恥ずかしいです、着替えるなら洗面所でお願いします!」
「ああ……僕に性別はないから、大丈夫だよ」
エルキドゥさんはおろしたてのスウェットに袖を通しながら、とても気軽に言う。
「性別がないのが性別みたいなものですよっ」
「なるほど、その発想は無かったな……まあ、僕は気にしていないから、も気にしないで」
晴れ晴れとした様子で、そのままパンツの腰紐の結び目を解きはじめた。
「無理ですー!」
大慌てでくるりと背を向ける。背後から布擦れの音が聞こえてきて、羞恥から思わず頬がひきつった。視界から強制的に排除したせいで、かえってそちらに集中してしまうような気がしてならない。
このままだと耐えきれない。何か別のことをして気を紛らわせるほかない。私はそう考え、壁際を伝うように横歩きで移動し、クローゼットへ向かった。新しいシーツや枕のカバーなどなど、入り用になるものを取り出して、エルキドゥさんの着替えが終わるのをじっと待つ。
「、着替え終わったよ」
エルキドゥさんが声をかけてくるので、警戒しつつ渋々と振り返った。
ごく普通のスウェットだ。ほどほどに余裕があって、袖も余っていないし、エルキドゥさんにぴったりの大きさだ。そんな格好をするエルキドゥさんを見て、どうしてか言葉に詰まった。まるでフォーマルな格好で農作業に従事する人を眺めるような、へんてこな違和感が拭いきれない。
「どうかな?」
「似合ってますけど……なんだか、変な感じがします」
「ふふ、そうだね。僕も変な感じがするよ」
エルキドゥさんはそう言ってはにかむと、自分の体を見下ろして確かめるように触り始めた。
多分、私の言う変な感じと、エルキドゥさんの言う変な感じは意味合いが違う。でもこれ以上は触れずに黙っていたほうが身のため人のためだ。違和感は思考の隅に追いやった。
「サイズ、合いませんでしたか?」
「ううん、そういうわけじゃないよ。大きさはちょうどいいくらいだ。ただ、寝間着に身を包む日が来るとは思っても見なかったから……」
嬉しそうにエルキドゥさんが言う。その顔を見ていると、つられてこっちも嬉しくなった。自然と勝手に顔がほころぶのを感じつつ、ふとした拍子にエルキドゥさんの足元に視線を向ける。
白い服が、くちゃ~っと散らかっていた。
「脱いだ服、散らかしっぱなし……!」
全身に衝撃が走る。
「駄目かな」
「減点1です」
「……」
エルキドゥさんは何も言わず、身を屈めて服を拾い上げると、それをくるくる丸めて椅子の上にそっと置いた。
これで完成らしく、どう? といった様子で誇らしげに私を見てくる。
「減点2! このままじゃ査定マイナスです」
エルキドゥさんが、ちょっと苦い顔をする。
「……プラスにするには?」
「畳みましょう。それが嫌なら、これを使って下さい」
クローゼットからハンガーを取り出して手渡すと、エルキドゥさんは丸めた服にそそくさと向き合った。しかし、どうしたらいいのかわからないようで、慣れない手付きでもたもたしている。
そういえば、エルキドゥさんは衣服をどう扱っていたんだろう? 昔は洗濯機なんてものは無いからきっと川で洗濯物を洗っていたはずだ。でも、エルキドゥさんが自分で洗濯をして干す姿はどうにもピンと来なかった。誰かにやってもらっていたと考えれば、こうして四苦八苦しているのもすんなり納得できる。
というわけで、助言することにした。
「あの、エルキドゥさん。そうやってかけたらパンツに皺ができちゃうかもしれないので、二つ折りにしてからかけてください」
「……こう?」
「はい。その上から上着をかぶせて……」
「こうだね」
最後に、エルキドゥさんがいつも身につけている、謎めいた金具のついた黒い紐を引っ掛ける。
「そうしたら、ドアの脇にあるフックにかけて下さい」
「わかったよ」
エルキドゥさんがいそいそとした足取りで玄関に向かうのを尻目に、私はベッドへ向かった。
寝具のカバーを全て取り外し、それを抱えて脱衣所へ。洗濯かごの中へ放り込むとすぐ部屋に戻り、新しいカバーに取り替える。
服をかけ終えたエルキドゥさんは椅子に座り、私の動作を物珍しげに眺めていた。
「わざわざ取り替えなくてもいいのに」
「いやです。洗いたてのほうが寝心地がいいのは分かり切っていますし、エルキドゥさんがいるなら尚更取り替えないと」
じーっと見つめていたエルキドゥさんだったけれど、やがて微笑に移り変わった。まるで楽しむかのように眺められる。ただシーツを取り替えているだけなのに、何が面白いんだろう?
「どうかしました?」
私が戸惑いがちに尋ねると、
「何でも無いよ。ただ、営巣しているみたいだなと思って」
エルキドゥさんは楽しそうに言う。
一旦手を止めて、言葉の意味を計ろうとしたけれど、すぐにやめた。意味深な発言に聞こえるけれど、案外裏がなかったりするものだ。手を動かして、枕にカバーをかぶせる。
「寝床の手入れが入念なのは、人も動物も変わらないね」
「綺麗じゃないと、おちおち眠れないですもん」
枕を軽く叩いてふくらませる。
部屋に一つしか無い枕は、二人で使うには心許ない大きさだ。この枕はエルキドゥさんに使ってもらうことにして、私はクッションを枕代わりにする事にした。
ベッドの隅に置いてあるクッションを手繰り寄せると、
「そっちに行っても大丈夫かい?」
エルキドゥさんがそう尋ねてきた。
ベッドをぐるりと見回し、めぼしい粗がないことを確認してから、
「はい。一通り終わりましたので」
そう了承すると、エルキドゥさんが席を立った。ベッドの縁に腰を下ろしたかと思えば、スリッパを脱いでベッドに上がってくる。膝立ちになってにじり寄ってくるので身構えると、案の定、私の方へ倒れ込んできた。
体をそらしてひょいと避け、そのままベッドから下りる。エルキドゥさんを振り返ると、うつ伏せになりながらも私の方に顔を向け、何か物言いたげな視線を飛ばしてきた。
「けち」
「けちじゃないですよ。歯磨きしてきますね」
エルキドゥさんの背中を軽く叩いて、洗面所へ移動する。
いつもと同じように歯磨きを終えて部屋に戻ると、エルキドゥさんはさっきと打って変わって起き上がり、ヘッドボードの棚を覗き込んでいる最中だった。端末用のワイヤレス充電器に触れたり、陶土で作られた芳香剤に顔を近づけたりしている。
そんな可愛い仕草を眺めながら、冷蔵庫を開けて水が入ったペットボトルを取り出した。コップに注ぐと、エルキドゥさんの顔がこちらを向く。
「エルキドゥさんも飲みますか?」
「うん、もらおうかな」
あいにくコップは一つしかない。急いで飲み終えたあと、コップの口周りを拭いてから水を注ぐ。それをエルキドゥさんのほうまで持っていくと、ごくごくと飲み始めた。いつもと違う飲み干しっぷりに驚きつつ、空になったコップを受け取って片付ける。
さて、と一息ついて、いざベッドへ。
幸い、落ち着いているけれど、緊張していないと言ったら嘘になる。というか、この状況で平常心を保てる人がいるのなら知りたい。
有事の際、エルキドゥさんが呼ばれる事を考慮し、私が壁際で眠る事にした。むろん、私も設備に急を要するトラブルが発生し、連絡が来たらすぐ現場へ急行しなければいけないけれど、あいにくそういった機会は近頃は滅多に無かった。
布団の中に潜り込む。枕代わりのクッションに頭を預ける私と反対に、エルキドゥさんは戸惑うように枕とクッションを見比べて、いいの? と不安げに尋ねるような眼差しを向けてきた。
返事のかわりに掛け布団を持ち上げてマットをぽふぽふ叩くと、一拍の間をおいておずおずと隣に潜り込んできた。枕に頭をあずけるエルキドゥさんは神妙な面持ちをしていて少し面白い。これから寝ようとする人の表情じゃないなと思ってから、ふと疑問が湧いてきた。
「ひとつ気になったんですが、エルキドゥさんって、眠るんですか?」
尋ねると、エルキドゥさんはふっと笑う。
「真似事ができるだけだ。生き物のように睡眠は取らないよ」
「……それってつまり、ずっと起きてるってことですか?」
「そうなるね。でも、の寝顔を見ていれば退屈はしないと思うよ」
「絶対退屈ですよねそれ……。もし暇だと思ったら、私に構わず明かりをつけて本とか読んでくださいね。部屋のものは、自由に使ってかまいませんから」
「……うん。考えておくよ」
大丈夫かなと不安を覚えつつ、ヘッドボードの上にあるリモコンに手を伸ばす。
「電気、消しても大丈夫ですか?」
「うん」
リモコンを操作して消灯する。一気に部屋が暗闇に包まれた。
「それじゃあ、おやすみなさい、エルキドゥさん」
「うん。おやすみ、」
目を閉じる。しかし、すぐには眠れそうになかった。
というのも、同じベッドに少し距離を置いて寝ているものだから、隙間風が入ってくるのが気になって仕方ない。おまけに、下手に弾力性のあるクッションを枕にしてしまったせいで、頭のおさまりがひどく悪いのだ。ひとたび気を抜けば、ずるりと転げ落ちそうな危うさがある。
どこかしっくりくるいい場所はないものかと頭の位置をずらしていると、茫洋とした暗闇の中、エルキドゥさんが身動ぎするのが見えた。
「こら。寝ないと駄目だよ」
「その、頭のおさまりが悪くて……ちょっとだけ待って下さい」
四苦八苦していると、エルキドゥさんが溜息を吐く。負い目をちくりと刺激され、たまらず謝罪を述べようかと思った瞬間、強引に腕を引っ張られた。
「わひゃっ!?」
身を任せると、私の頭は枕の片側へ軟着陸した。硬直する私をよそに、エルキドゥさんはクッションを取り上げた。軽く放り投げる。数秒ののち、足元の方からぽふっと軽い音が聞こえてきた。
「ごめんね、次からは僕の部屋にある枕も持ってくるよ」
お互い顔を見合わせるように横向きに寝転がって、一つの枕を共有しているこの状況。
近い。ものすごく近い。
目を閉じなければいけないのに、自分の意志に反して勝手に視線を彷徨わせ、暗闇の中にいるエルキドゥさんの輪郭を探してしまう。
「ああ、は夜目が効かないんだったね」
「で、でも、ぼんやりとは見えますよ?」
「ふふ、ぼんやりね」
エルキドゥさんがくすっと笑ったかと思えば、手を伸ばして頬に触れてきた。反射的に肩を竦める。それでもエルキドゥさんは躊躇う事無く、指の背を使って撫でてきた。
優しく触れられるたびに、じわじわと熱を帯びていくのがわかる。それは全身に広がっていき、寒気を誘う隙間風もいつしか気にならなくなってしまった。
ひとしきり撫でてエルキドゥさんは満足したのか、やがて布団の中に手を引っ込めた。
しかし、じーっと見られているような気がしてたまらない。
実際、エルキドゥさんが目を開けているかどうかは不明瞭だけれど、気にしたら最後止まらなくなってしまった。瞼を閉じるけれど、もやもやとした思考が続く。この状況で眠るのは、なかなか難易度が高い。
「眠れないかい?」
見透かされていた。観念して瞼を開ける。
「やっぱり、いつもと違うから緊張してるかもしれません。そのうち落ち着くと思います」
私がそう言うと、エルキドゥさんは何も言わずに片腕を背中に回してきた。合わせて距離を詰めてくるから、心臓が跳ね上がった。自然と呼吸を潜めてしまう。
と、背中にぴったりくっつけた手の平を、ゆっくり上下にさすってきた。
「こうすれば、リラックスできるかな」
初めての事なのに、どうしてか既視感に見舞われた。なんでだろうと考えた途端、すぐ思い当たる節にぶつかる。エルキドゥさんがこの部屋に入ってから行った、あのおまじないだ。
理解したら、緊張の糸がぷつんと切れたような気がした。喉につっかえていた息を吐いて、ゆっくりと呼吸をする。エルキドゥさんの手付きは優しくて、とてもあたたかかった。
「エルキドゥさん、掛け声が足りないですよ」
「……それはちょっと恥ずかしいから、に任せるよ」
人前で服を脱ぐのは恥ずかしくないのに、あの掛け声は恥ずかしいらしい。
ちぐはぐさに、自然と頬が緩んでしまう。
「あ……今、笑ったね」
「笑ってないです」
「嘘は駄目だよ。僕の目は暗がりでもよく見えるからね」
「じゃあ、笑いました」
「じゃあって……、まあいいか」
エルキドゥさんが呆れたようにこぼすけれど、次の瞬間にはくすくすと笑い合っていた。ひとときの穏やかな楽しさを共有して、どちらからともなく黙り込む。
エルキドゥさんは相変わらず背中を撫で続けているし、それどころか更に身を寄せてくる始末だった。もしかして、寝るまでこのままなのかな? と一抹の不安がよぎったけれど、まあいいかとそれを打ち消して、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
鼻先に、洗濯したばかりのシーツや新品のスウェットの匂いに紛れて、親しみ慣れたエルキドゥさんの香りがした。反射的にいい匂いだと感じると、無条件に安心してしまう。悲しいかな日頃の賜物だった。そうすると、エルキドゥさんから与えられる安心感にとっぷりと浸かってしまって、とろんとした眠気が襲ってきた。
横になっているのに、穏やかな浮遊感に包まれる。眠気が訪れた時に、無理して起きていると生じる錯覚めいたものだ。まだ起きていたいような、眠ってしまいたいような曖昧な感覚の中、ゆっくりと瞬きを繰り返す。
「、眠そうだね」
「……はい」
背中を撫でていた手が移動して、ちょいちょいと肩をつっついてきた。無理に起こそうとしているわけじゃ無さそうだけれど、かまって欲しいという控えめな意志は伝わってくる。
可愛い煩わしさに自然と頬を緩めると、つっつく手が止まった。
「」
「なんですか?」
「その……、何か忘れ物をしていないかい?」
まごまごと言いづらそうに、エルキドゥさんが尋ねてくる。
「忘れ物?」
復唱しながら記憶を掘り返す。その間、エルキドゥさんは大人しいように見えて、そわそわと落ち着かない気配を滲ませている。
おかげで、すぐに気付いた。
いつもなら、職員寮区画の入口前で行う行為。もはや日課になりつつあったそれを、今日はしていない。
瞼をしっかり開けてエルキドゥさんを見つめる。そわそわした気配は相変わらずだった。
暗闇の中、上体を起こして顔を近づけると、エルキドゥさんが頭を持ち上げる気配がした。
唇の先にそっと、柔らかいものが触れる。本当に触れるだけで、あっという間に離れていく。
ぎこちない動作で枕に顔をうずめなおすと、エルキドゥさんが殊更に寄り添ってきた。おでこに何かがこつんと当たって、擦り付けられる。多分きっと、エルキドゥさんの額だ。前髪同士が混ざり合っている感触を残して、すぐに離れてしまう。
「本当の事を言うと、アップデートは建前だ」
エルキドゥさんのぽそぽそとした小声はいつにも増して恥ずかしそうで、微風にすら掻き消されてしまいそうなほど頼りなかった。それでも私の耳に届いたのは、とても近い距離にいるからだ。
「本音は、二人きりで過ごす時間が欲しかったんだ」
包み隠さずな言葉を聞き終え、私は何も言わずに手探りでエルキドゥさんの手を探すと、すぐに見つけた。手繰り寄せるようにきゅっと握りしめると、ゆるゆると握り返される。
「エルキドゥさん」
「……なに?」
「実をいうと、私もです」
視界は頼りないけれど、私の勘を頼りに顔を近づけ、おそるおそる口づけた。顔を離すと、エルキドゥさんが追いかけるように鼻先をこすり合わせてくる。
目を閉じて、何度か口づけた。触れ合うだけの穏やかな行為を積み重ねてゆくと、エルキドゥさんは繋いでいた手をじれったそうに解く。あっと思って離れてゆく手を追いかけようとした瞬間、エルキドゥさんが上体を起こして覆いかぶさってきた。
まず驚いて、次に状況を理解した途端、全身が強ばった。そのまま身をよじって逃げ出したくなるのをぐっと堪える。何をするつもりなんだろう、だなんて内心首を傾げたくなるけれど、理解できないほど子供じゃない。謎の緊張感に耐え切れず息を呑む。エルキドゥさんが小さく身動ぎするたび、それにしっかり反応してしまって、身体をわななかせてしまう。
一拍の間をおいて、私の頭に何かがあてがわれた。
ぎゅっと目をつぶって身構えると、なでり、なでり――やさしい感触はまさしくエルキドゥさんの手の平だった。撫でる手つきが丁寧に磨くみたいで少しおかしいけれど、全身を包んでいる警戒心を手放すにはちょうどいい切欠だった。
恐る恐る緊張を解くと、今度は私の鼻先に、エルキドゥさんの鼻先がくっつけられた。何かの合図めいたその刺激に誘発されるように顎を持ち上げれば、エルキドゥさんが間髪入れずに唇を重ねてきた。
さらりと乾いているけれど、柔らかい感触。あっという間に離れたかと思えば、今度は斜めに合わせてくる。控えめに触れ合うキスだけれど、あまりにも心地よくて体から力が抜け落ちていく。
唇をうっすら開けば、タイミングを見計らっていたかのように優しく食まれた。一瞬ビックリして、負けじとちゅっと吸い付けば、エルキドゥさんはなんの躊躇いもなく、むしろ嬉しそうにちゅっちゅっと押し返してくる。
互いに唇を押し付けあって、吸い上げて、いたずらに甘く食みあって――そうしているうちに、いつしか唇がしっとり湿っていることに気付いた。別に舌で舐めたわけでもないし、唾液をこぼしたわけでもないのに。まさか私の吐息によるものか、と思った瞬間、唇に僅かな空気の流れが掠めた。
エルキドゥさんが、ほのかな吐息を漏らしている。珍しい行動に驚いたけれど、その呼気はやや熱っぽいものを含んでいると気付いたら、途端に恥ずかしさを煽られた。きっとエルキドゥさんが感じる私の吐息も、こういう風に感じるのかもしれない。
「、もっと」
唇が触れ合うくらいの距離を保ちながら、エルキドゥさんが消え入りそうな声で言う。
「はい」
このまま続けてしまったらどうなるのか。ささやかな不安と戸惑いはあるけれど、不思議と危ない感じはしなかった。
お互い湿った唇を、無我夢中で触れ合わせる。合間に呼吸をするたび、エルキドゥさんの熱っぽい吐息が唇をくすぐって、そのまま流れ込んでくるような気がした。吸い込んだ吐息は肺に広がって、全身をじわじわと侵食するように満たしていき、包み込まれる。
暗闇の中、エルキドゥさんの存在を唇を通して感じ取っていくうちに、だんだん頭の仲がエルキドゥさんでいっぱいになって、くらくらしてきた。ぼんやりした思考の中、溺れるように唇を押し付け合い、ちゅっちゅっと吸い付いては食みあって――エルキドゥさんがひときわ強く唇を押し付けたかと思うと、体ごと離れていく。
直後、ぽひゅっと変な排気音がした。熱を帯びた風が顔をなでていく。
エルキドゥさんは身動きもせずじっとしていたけれど、やがて緩慢な動きでのろのろと定位置に戻っていった。
視界は相変わらず覚束なくて、エルキドゥさんの表情はわからない。だから、なんとなく手を伸ばして、エルキドゥさんの頬に触れた。
案の定、いつもより熱を帯びていた。というか熱い。
「っふ……あはは、あっついです」
「そ、そのうち元に戻るから……」
エルキドゥさんがもごもごと喋るから、笑いがこみ上げてきてしまう。
頬が熱いとなれば、体温もそうに違いない。エルキドゥさんの方に体を寄せると、案の定ぽかぽかと暖かかった。おそるおそる足をくっつけてみると、エルキドゥさんは一瞬ビクッと身体を震わせたけれど、やがておずおずと足を絡めてくれた。私とエルキドゥさんの温度の差に、自然と頬が緩む。
「えへへ、あったかいです」
「……が冷たいんだよ」
「人間湯たんぽですね。これは一家に一台ほしくなっちゃいますねぇ」
「量産型の僕はあまり想像したくないな……」
くすくす笑うと、ふいに隙間風が潜り込んできた。撫でるような寒気にふるりと体が震える。
「もう少し寄ってもいいですか?」
「うん。おいで」
了承を合図にいそいそと近づけば、エルキドゥさんは私を出迎えるように片腕を回してくれた。そのお礼に、エルキドゥさんの空いた片手を探り取って、両手で包み込むように握りしめる。
大切な、そして大好きな人の手は、触っているだけで嬉しくなってしまうのが不思議だ。優しく握り返してくれるエルキドゥさんもそう思っていてくれたら嬉しいな、なんて事を考えながらなでなですると、呼応するかのようににぎにぎされる。
「えへへー」
「……ふふ」
くすくす笑い合って、なでなでにぎにぎ。続けているうちにさっきまでの興奮は静まって、かわりにとろとろとした眠気が訪れた。
「手、つないだまま寝てもいいですか?」
「かまわないよ」
「ありがとうございます。それじゃ、今度こそ本当におやすみなさい」
「うん、おやすみ」
瞼を閉じる。
こんこんと湧き出す眠気に包まれていると、エルキドゥさんが身動ぎしておでこにキスしてきた。一連の動作を本能で理解できるけれど、思考がぼんやりしていて瞼を開ける気力すら無かった。それでも嬉しさを伝えるために手を握ると、今度は布団を首まですっぽりかけ直してくれる。
更に手を強く握る。でも握っているつもりだけれど、指先の感覚は痺れるように曖昧で、握っているのかどうかすらもあやふやだった。
眠気はどんどん抗いがたくなる。あったかくて安心できる温もりが、がらんどうを侵食するように、どんどん広がって――。
――けたたましいアラームの音で目が覚めた。
暗い中、いつものように手を伸ばそうとするより先に、勝手に音が止まった。おかしいな、と思って手を彷徨わせると、そもそも充電器の上に端末がない。困惑のあまり固まっていると、
「おはよう、」
その声にハッとした。手探りで照明のリモコンを手に取り、明かりをつけてようやく理解する。
「……おはようございます」
布団をゆっくりどけて身体を起こすと、隣で横になっていたエルキドゥさんが私の端末を充電器の上に戻して、同じように身体を起こした。
おもむろにあぐらをかいて、座っている私と向かい合うような形になる。
「よく眠れたかい?」
「ふぁい」
はい、と言ったつもりだったのに、こみ上げるあくびを堪えきれず変な声が出てしまった。
「ふふ、良い返事だね」
寝起き特有のぼやけた視界でも、エルキドゥさんが嬉しそうに微笑んでいるのがわかった。なんだかよくわからないけれど、楽しそうで良かった。
「」
「んー……なんですか?」
「目やにがついてるよ」
硬直した。
「……し、失礼な。一流の女子に目やにというものは存在しません」
「なら、は一流じゃないという事になるね?」
「……」
言い返せない。
おまけにみっともない所を見られてしまって、じわじわと恥ずかしくなってきてしまった。このままどこかに逃げ出したい衝動に駆られる。もしやり直せるなら時間を巻き戻したい。
そんな私の胸中を知ってか知らずか、エルキドゥさんはにこにこしたまま、あぐらをかいたその膝を軽くぽんぽんと叩いた。
「おいで。取ってあげるよ」
そう言うエルキドゥさんの表情はあまりにも無邪気で、かえって居た堪れない気持ちになる。というか、意味がわからない。膝の上に乗れば目やにを取ってくれると? 無理です。
「顔、洗ってきます……」
私がそう言うと、エルキドゥさんは表情を一転させ、何故か私の進行を阻害してきた。ベッドの上で一悶着の末、エルキドゥさんをなんとか押しのけ、逃げるように洗面所へ向かう。
洗顔と歯磨きを済ませて部屋に戻ると、エルキドゥさんは変わらずベッドの上に座り込んでいた。昨夜私が枕にしようとしていたクッションを膝の上にのせて、弾力を確かめるようにもふもふと一人相撲を繰り広げている。
それを横目に見つつ、私はクローゼットから制服を取り出し、エルキドゥさんに向き合った。いつもはここで着替えているけれど、今日はエルキドゥさんがいる。着替えにくいのである。
「あの、エルキドゥさん」
「なんだい?」
エルキドゥさんは手を止めて、機嫌の良さそうな顔を私に向けてきた。
「その、着替えたいので、背中を向いてほしいです」
「僕のことは気にしなくていいよ」
「無理です。気になります」
私がそう言うと、エルキドゥさんは身体を少し横に傾けてうーんと考え込み、
「なら、が僕に背中を向けばいいと思う。そうしたらきっと、僕の視線も気にならないはずだ」
「いや、気になりますってば。せめて目をつむって下さい」
「断るよ」
エルキドゥさんの素早い返答に、思わず溜息が漏れた。
無言のまま机の上に着替えを置き、再度エルキドゥさんに向き合う。着替えないの? と言わんばかりに首を傾げているその身体めがけて、
「ぬわーっ!」
と奇声を発しながら飛びかかった。
「うわっ!?」
エルキドゥさんにしては珍しく大きな声を出して驚いていた。意表を突けた事に小さな喜びを覚えつつ、かけ布団を手繰り寄せてエルキドゥさんに覆いかぶせる。そのままくるくる丸めて、ひたすらもみくちゃにした。
「このーっ! この、このっ!」
「……っ、ふふっ、あははっ」
何がおかしいのやら、エルキドゥさんが体を震わせて笑い出す。
ひとしきり懲らしめてから体を離すと、布団の中からエルキドゥさんが顔を覗かせるので、もう一度丁寧にくるみなおした。布団の端から緑色の髪がはみ出してるし、傍から見ると不思議な生き物みたいだ。
「後生ですから、私が良いって言うまで、そうしてて欲しいです」
「……仕方ないな、わかったよ」
不思議な生き物になったエルキドゥさんが、ころんと寝返りをうった。私がベッドから降りても、エルキドゥさんはそのままだ。内心感謝しながら手早く着替えを済ませると、頃合いを計ったようにそろりと顔を覗かせる。
「終わったかい?」
「はい。ご協力ありがとうございました」
私がお礼を述べると、エルキドゥさんが布団から這いずり出てきた。
「さて、僕も着替えようかな」
「あ、今持ってきますね」
言うが早いか、壁際にかけてあるエルキドゥさんの服を取りに行き、ベッドへと持っていく。
「それじゃ私、髪纏めてきます。着替え終わったら声をかけて下さい」
「うん」
エルキドゥさんがしっかり頷いたのを見届け、私は再度洗面所へと足を運んだ。
寝癖を直して適当に髪をまとめると手持ち無沙汰になってしまい、バスタブのふちに腰を下ろした。エルキドゥさんの合図をぼーっと待つ。少ししてから、コンコンとドアを軽くノックする音が響いた。
「、終わったよ」
ドア越しに声をかけられ、腰を持ち上げる。
おそるおそるドアを開くと、あの白い服に身を包んだエルキドゥさんが佇んでいた。いつも通りに文句なしの出で立ちかと思いきや、軽く髪が乱れているのに気付いた。といってもエルキドゥさんの髪はすとんと落ちるようなストレートだし、手櫛を通せばすぐに直るだろう。
そんな事をぼんやり考えていると、
「あの寝間着はどうしたらいいかな」
エルキドゥさんがそう言ってベッドの方を顎で示すので、髪の事は一旦思考の隅に置いやった。ベッドの方を見れば案の定、脱ぎたてのスウェットが散らかしてある。
「畳みましょうか」
私がそう言った途端、エルキドゥさんは眉をひそめて難色を示した。あからさまに嫌がる顔ににっこり笑って手をのばし、前髪をくすぐるように撫でると、だんだんふてくされた顔に変化していく。ちょっと面白い。
「そんな顔しないで下さい。私もお手伝いしますから」
背中をぐいぐい押してベッドに戻る。
エルキドゥさんに服の畳み方を指示しながら、エルキドゥさんの髪の乱れを手櫛で直す。相変わらずさらさらで柔らかい髪の毛は、手櫛を通しても絡まる気配を微塵もみせなかった。
エルキドゥさんの髪を直し終わる頃には、エルキドゥさんもちょうどスウェットを畳み終わっていた。綺麗に重ねたスウェットをぼんやりと見つめ、それから私に顔を向けると小さな苦笑を浮かべる。
「どうかしました?」
「部屋に持ち帰っても、きっと着ないだろうと思って」
なら、これを機会に着てみたらどうでしょうか、という言葉は飲み込んだ。本人にその気がないのに、無理に薦めても良い事なんて一つもない。
「でしたら、私が預かっておきましょうか?」
「いいのかい?」
「はい。クローゼットに空きはありますし……」
一旦言葉を区切って、こほんと咳払いをはさみ、
「それにその、多分、また入り用になりそうな気がするので」
スマートに平静を装ったつもりだったのに、初っ端から口ごもってしまうし、最後の方に至っては尻すぼみになってしまって最悪だった。
エルキドゥさんを見れば目をまんまるにして私を凝視したのち、ふわっと微笑みを浮かべた。
「また、来てもいいのかな?」
「も、もちろんです。でも、できたら事前に連絡をいただけると、こちらとしては助かります」
「わかった。それじゃあ、これはにお願いするよ」
エルキドゥさんのスウェットを、クローゼットの空いた引き出しの中へとしまい込む。次の出番はいつになるのやらと思うけれど、案外近い内に訪れる予感はした。
二人で部屋の入口へ。エルキドゥさんが脱いだスリッパを棚にしまい、私も靴に履き替える。一度部屋を見回して目ぼしい異常がないことを確認し、エルキドゥさんに向き合う。
「忘れ物、ありませんか?」
「ないかな……いや、あるかな」
「どっちですか!」
「ほら、」
エルキドゥさんは小さく笑うと、両手を広げて重ねて催促してくる。
それを見た私と言えば、悲しいかな迷わず飛び込んでしまうのだった。エルキドゥさんの教育の賜物だなと思いながら、ぎゅうぎゅうと抱きしめ合う。
それから、ちょっと背伸びをして、おとがいを持ち上げて唇を交わせた。数秒間ののち、顔を離して、お互いに微笑み合う。
「ほら、出ましょう。朝ごはん無くなっちゃいます」
「そんなすぐには無くならないと思うけれどね」
呆れたように言うエルキドゥさんが言う。私は気にせずパネルを操作してドアを開けると、エルキドゥさんの背中を押して廊下に出た。
「いってきます」
私が誰もいない部屋の中に声をかけると、エルキドゥさんは不思議そうに小首をかしげてから、
「……いってきます」
私に倣うようにして小さな声を発した。
「これでいいかい?」
「はい。100点です!」
「なら、査定はプラスかな」
「……もしかして、気にしてました?」
「ほんの少しね」
ドアが閉まると同時に鍵がかかる音がする。室内の消灯もきっと済んでいるはずだ。
廊下を見回して誰もいないのを確認すると、どちらともなく手を握り、顔を見合わせてにんまり笑って歩き出した。