夏のあしおと

 昼食を食べ終え、エルキドゥさんと廊下を移動中のことである。後方からどしっ、どしっ、と不可思議な音が聞こえてきた。
「のわあああぁあああッ!?」
 誰ともわからない悲鳴とともに、一定間隔で響く音はだんだんとこちらへ近づいてくる。何事かと振り返ろうとした途端、エルキドゥさんに手首を掴まれ壁際に引き寄せられた。
 驚いて肩をすくめると、何かが勢いよく通り過ぎていくのが視界に映った。慌てて視線だけで追いかける。
 廊下を疾駆していたのは、まさしく狼だった。
 白くて、普通の狼より一回りほど大きい。その背中には藤丸くんが振り落とされまいとしがみついていて、何故かアロハシャツを羽織っている。
 非現実的な光景に呆然としていると、今度はガチャガチャと慌ただしい音が聞こえてきた。次はなんだろうと音の発生源に目を向けて、文字通り硬直した。
 人だ。しかし、首から上がない。それでも両腕をめいっぱい振ってせわしなく走っている。
 そもそも、頭部がないのにどうやって動いているんだろう? 不思議な原理で動いているその人はやがてエルキドゥさんの前まで来ると、何故かそこで急ブレーキでも踏まれたかのように立ち止まった。
 厳かで奇抜な空気が、場に漂う。どう反応したらいいものかとおそるおそるエルキドゥさんを見れば、いつもどおりの穏やかな表情だった。べつだん驚いたりするような素振りを見せない。その仕草から、この方とは既知の間柄なのだとうかがい知ることが出来た。
「やあ」
 エルキドゥさんの軽い挨拶に応じるかのように、ガッチャガッチャとその場で足踏みを二回。首がないから挨拶代わりのつもりなんだろうか? なんて考えているうちに、首なしの人はまた慌ただしく駆け抜けていってしまった。どうやら藤丸くんを乗せた狼を追いかけているみたいだ。とてつもなくヘンテコな状況だけれど、細かいことは気にしないほうが懸命だ。
「お知り合いですか?」
「そんなところかな」
 あっさりと認めるものだから、まず驚きが先行して、次に感心の気持ちが湧いてきた。
「エルキドゥさんって存外、不思議な人脈を持っていますね」
「そうでもないさ。それに知り合いと言っても、彼らとは目的を共にする朋輩といったところで込み入った話はしない。もっとも、話をするにしても僕が一方的に語りかけるだけになってしまう」
「そ、そうなんですか」
 文字通りの顔見知りらしい。納得がいったところで、二人一緒に足を踏み出す。
「藤丸くん、すごく夏っぽい服装でしたね」
「ああ、ここ最近のレイシフト先は熱帯性気候の土地だからほとんどあの礼装だね」
「なるほど」
 語ったエルキドゥさんの表情は、いつもより優しさが2割増しだ。
 近頃は出番に恵まれ性能を発揮する機会が増えたとの事で、このように機嫌がいいのである。今日も午後からはレイシフトに同行するのだと昼食時にお話してくれた。危険を伴う場所に行くにも関わらずエルキドゥさんは嬉しそうだから、私も不安そっちのけで嬉しくなってしまう。
「この時期に暑い所に行くのは、ちょっとうらやましいです」
 本当なら藤丸くんの状況をうらやましがってはいけないのだけれど、小さな引け目を覚えつつも正直な本心を口に出せば、
「うらやましい?」
 エルキドゥさんがキョトンと目を丸くして復唱する。
「その、暦の上では夏ですけど、ここだと寒くて夏らしさを満喫したくてもできませんから」
 窓の外の雪を見つめてからエルキドゥさんに向けて苦笑すると、エルキドゥさんは不思議そうに首を傾げた。
「夏らしさ?」
「んんと……海に行ったり、プールで遊んだりとか」
「それは……いわゆる水遊びという奴かな? ささやかなものであれば、浴室でできそうだけれど」
「そう思って以前、浴槽に水を溜めて浸かってみたんです」
 ちなみに、エルキドゥさんと仲良くなるずっと前の話である。
「実行に移す所がらしいね。どうだったんだい?」
「私が求めていた夏っぽさとはあまりにもかけ離れていて、切なかったです」
「……だろうね」
 浴槽にちんまりと座って冷水に浸かる虚しさは想像を絶するものだった。遠い目をして思いを馳せていると、エルキドゥさんがふっと笑う。
「なら、シミュレーターを利用してみるのはどうだろう?」
 その単語で、先日のシミュレーター内での出来事を否応なしに思い出してしまった。
「うーん……使い勝手がわからないので、なんとも」
が理想とする環境を伝えてくれれば、僕が構築するよ」
「……いえ、この前みたいに酔うかもしれませんから、遠慮させてください。それに、あの設備は私が使うためのものではないですし、やっぱりこういうのは実際に体感しないと意味がないような気がするので」
「そうか……。まあ、シミュレーターは虚構に過ぎない。実体と大違いなのは僕にも分かるし、そこに価値を見出すのであれば無理して勧めるのはいささか不憫だね」
「いつかエルキドゥさんと夏の実体に触れたいですねぇ……」
「おかしいな、夏は可視化できないから触れることもかなわないのだけれど」
「もののたとえですよ」
 適当なお喋りを交えながらしばらく歩いて、分かれ道にたどり着く。
「それじゃあ、戻ります」
「うん、頑張ってね」
「はい! エルキドゥさんも」
 どちらからともなくひっついて、ぎゅーっと抱きしめ合う。人の気配は感じないし、エルキドゥさんもきっとそれをわかっているから、こうして応じてくれている。肩口に頬を擦り付けると、呼応するかのように後頭部を撫でられた。嬉しくてさらに密着すると、エルキドゥさんがくすぐったそうに、くすくすと笑い出す。
「僕としては寒帯気候の夏は歓迎かな。熱帯における人や動物の体温上昇は著しいから、こうして密着すると不快感を引き起こすだろうし」
「でしたら、エルキドゥさんが今とは真逆にひんやりしてくれればいいんですよ」
「……ああ、そうか。そうだね」
「触れるタイプのクーラーって考えると、真夏じゃ都合が良すぎて離れがたくなってしまいますねぇ」
「僕としては光栄だよ」
 ひとしきり笑い合って、それから頬に軽く口付けると、エルキドゥさんはやっぱりいつもより2割増しに優しげな表情を浮かべて、頬に二度口づけてきた。これに応戦してしまうと埒が明かなくなるのは明白だったので、唇に触れるだけのキスを送って離れる。
「えへへ。それじゃ、いってきますね」
「うん。いってらっしゃい」

 レイシフト先の地にて、戦闘も一段落ついた休憩中のことである。
「マスター、夏らしい事とはなんだろう」
 エルキドゥのその声はさながら独り言めいた呟きのように聞こえるが、明確な質問であった。
 対する立香はサーヴァントの協力により集めた素材の貝殻をせっせと袋につめる作業を止め、きょときょと、と目をしばたたかせる。何を言っているんだろう、という疑問が立香の中で先立ったが、そんな事を気にするよりもエルキドゥの疑問に答えたほうがいいと瞬時に判断した。
「海で泳いだり、山でキャンプしたり。あとバーベキューとか」
「できればカルデア内で出来そうな事がいいのだけれど……」
「えぇ? どうしてまた」
 立香とてエルキドゥの性格を完全に理解しているわけではない。実際、エルキドゥは多くを語る事は好まず、ひいては本心をあけすけに晒しだすこともしない。ほとんど無関心を装うエルキドゥがそういった事を矢庭に口に出すのは珍しく、不審に思ってさすがに尋ね返せば、
が夏らしさを満喫したいと言っていたのさ。だから何か出来ることはないかなと思って」
 エルキドゥのその言葉を聞いて、立香はすぐに納得した。ささやかな不信感をすぐに放逐する。
「ああ、なるほどね。……うーん、カルデアで出来そうな事か。なんだろう……」
 口に出してみるけれど、うまく思いつかない。入手もたやすい家庭用の花火ならよさそうだが、仮にも建物の中で花火に火を付けて遊ぶのはモラル的にどうなのかという疑問が生じる。
 うーん、と立香が唸る対面で、エルキドゥはいじらしくもマスターの返答をただ黙って待ち続けている。
 そんな二人の方へ、サクサクと砂浜を踏みしめ近寄ってくる影があった。
 ナーサリーである。彼女は立香の隣にしゃがみこむと、乱雑に置かれた貝殻の山から一つを手に取り、渦巻の入り口の部分をおもむろに立香の耳へとあてがった。
「こうして貝殻を耳に当てると、波の音が聞こえるのよ」
「……そうなのかい?」
「ああ、うん。そういう話は聞いたことがあるよ。ちょっと迷信っぽいけどね」
 どこでそれを知ったのか立香は覚えていないが、物心ついてしばらくした頃にはいつの間にか覚えていた言葉だった。情報源は絵本かテレビの子供向け番組か定かではないが、立香の友人の誰もが知っていることだったし、少なくとも現代人にはおいては眉唾ながらに普遍的な価値観なのかもしれない。
 そんな普遍は知り得ないと言わんばかりに、エルキドゥはナーサリーと立香の顔を見比べる。やがておずおずと手を伸ばし貝殻をひとつ拾い上げると、先程のナーサリーに倣うように自分の耳にあてがった。
 この貝殻は長い時をかけて生き延びた軟体動物が身にまとったなれはてだ。それゆえ特殊な音が聞こえるらしいとエルキドゥは前情報で聞いてはいるものの――。
「よくわからないな……」
 確かに、ざあざあと潮流の流れのような音が聞こえはする。しかしエルキドゥが記憶する潮騒の周波数と比較すると、似て非なるものだ。先程貝殻を押し付けられた立香も迷信だと口にしていたし、つまり“そういう事”なのだろうと勝手に推測する。
「もう! あなたは少し情緒をたしなむべきだわ」
 エルキドゥの態度が不満だったのか、ナーサリーはふくれっ面を見せるが、それを推し量ることが出来ないエルキドゥはただ不思議そうに首を傾げてみせるのみだった。
 この状況をどうしたものかと苦笑を浮かべる立香の眼前に、飲み物が入っているだろう水筒が差し出された。びっくりして顔を持ち上げる。水筒を差し出したのはモリアーティだった。
 猛暑と呼べる気候の中、流石に上着を脱いでこそいるが、それでもいつものスーツを着崩す事なく、また涼やかな表情も崩さない。
「飲みなさい。日射病は怖いよ」
「うん。ありがとう」
 こういった気温下では、水筒に直に口をつけるのはご法度だ。唇が注ぎ口に触れないよう、口腔内へ注ぎ込むようにして、立香はごくごくと水を飲む。
 モリアーティは立香がきちんと水を飲んでいるのを目視で確認すると、ナーサリーへと顔を向けた。
「エルキドゥ嬢にシュールレアリスムを説くのは早いのではないかね? そもマスターも理解できているかどうかも定かではない事象だ」
「それくらいの事、マスターはわかっているはずだわ。ね、マスター?」
「えっ? うんっ、はいっ」
 いきなりの事にむせそうになりながらも立香は慌てて水を飲むのをやめ、衝動に任せて勢いよく返事をした。
「ほら、自信たっぷりのいいお返事だわ!」
「白目向いてる! どこからどう見ても自信無さそうだよ!」
 声を荒げるモリアーティを、エルキドゥはぼんやりと無表情に見つめ、やがて表情を和らげた。
「シュールレアリスム……主義のひとつだね」
「そう、超現実主義ともいう。自分の五感で感じ取ったものを無意識のうちに収めるということだ。ゆえに、貝殻を通して聞き取った音を無意識の枠に落とし込むと、波の音のように聞こえる。ま、世界に数多ある人間の世迷い言のひとつさ」
「僕にとっては視界に映る風景が現実であり、それ以外の何物でもないと思うけれど、人は不思議なことを考えるものだね。木々や動物なんてこれっぽっちも考えていないだろうに」
「人間ってのは新しくひらめいちゃったモノは定義せざるをえない生き物だからネ」
 モリアーティはそう言って目を細める。
「たとえばエルキドゥ嬢、冬は誰が作ったと思うかね?」
「冬とは太陽の高度が低くなると発生する現象だろう? 誰が作ったかなんておかしな話だと思うけれど……しいていうなら太陽かな」
「ブッブーはずれー。正解は北風でしたー!」
「……何故?」
 納得がいかない様子でエルキドゥが尋ねると、ナーサリーが身を乗り出して口を開いた。
「ぴゅうぴゅう吹き荒ぶ北風は冷たいでしょう? 冷たい北風が寒いところで冬を作って、風に乗せて運んでくるのよ!」
「うむ。よき模範解答だ、ナーサリー嬢」
「ふふ!」
 自信満々に微笑むナーサリーとは対照的に、エルキドゥは呆れ眼になった。
「ま、このように理解できる者は迎合し、できないものは嘲笑して終わる世界だ。合理を求める性格であればあるほど、理解するのは難しいだろうネ」
 そんなやり取りを耳にしながら立香は水を飲み終えると、水筒の蓋をしめ、
「詳しいね」
 と感嘆の声を漏らした。
「私は悪の頂点と呼ばれる事がほとんどだが、元大学教授という肩書を持つことは忘れないでくれたまえよ諸君。とはいえ、私の言う事なぞ序の口にすぎないがね」
 謙虚な言動とは裏腹に、モリアーティは不敵にふふんと微笑を浮かべている。エルキドゥはそんな彼を数秒の間見つめ、やがて貝殻に視線を落とした。
 無意識下において何かしらの目的を家に秘めるのはままある事だ。しかし認識を無意識下に落とし込み、ありのままに受け止めるという事はエルキドゥにとっていまいち理解ができない。もう少し感情的になればこの不条理を理解できるかもしれないが、不完全な心にはとてつもなく難しいのだ。
 とすれば、なら理解できるだろうか?
 そんな考えがふっと脳裏をよぎった瞬間、エルキドゥは視線を持ち上げ、そのまま立香へと向ける。
「マスター。この貝殻、ひとつだけ貰えないだろうか」
「え? うん、別にいいよ」
 立香はそう言って、袋に詰めようと手に取ったばかりの貝殻をエルキドゥの方へ軽く放り投げた。エルキドゥは難なく手で受け止める。
「もしかして、さんにあげるの?」
「うん。喜んでくれるかはわからないけれどね」
 エルキドゥは曖昧に笑って、ゆとりなさそうに手元の貝殻を撫で始める。
さんなら喜ぶと思うよ」
「ええ、私もそう思うわ」
「そうだといいけれどね」
 二人の微笑ましげな視線に気圧されたのかエルキドゥがそわそわしはじめると、二人はことさら深い笑みを浮かべた。にやにやと表現するのがぴったりの笑顔である。
 そんな空気の中、モリアーティだけが不思議そうに首を傾け、指で顎をなぞり始めた。
「近頃のエルキドゥ嬢からたまーに輻射されるこの桃色オーラはなんなのかね?」
「きっと乙女心ね!」
「乙女心!?」
 モリアーティがぎょっとしながら復唱する。
「あら? 乙女心は誰にだって備わっているものよ、別に不思議でも何でも無いわ。アラフィフおじさまにだって、相応の乙女心が備わっているはずよ」
「アラフィフの乙女心って字面がもうすでに嫌なんだけど……」
「ふふ。乙女心は複雑だけれど千変万化。いまは一つの色でも、いつか七色の輝きを放つの」
「えっ、エルキドゥ嬢って最終的にはレインボーに光りだすの? どんな化学反応? やだ、こわい」
「光らないよ。ナーサリー、君も適当な事を言わないでくれるかい?」
「うふふ、ごめんなさい」
 そう言って、悪戯が成功した子供のようにくすくすと微笑んでいる。口だけの謝罪という事は明白だが、エルキドゥはナーサリーを咎める気にはならなかった。
 立香は貝殻を袋に詰め終え、帰還しようとしてからふとある事に気付いてきょろきょろとあたりを見回した。レイシフト時に連れてきたサーヴァントは4騎だが、場にいる面子を見ると数が合わない。
「ところで、メフィストフェレスは?」
 その問いかけに真っ先に応じたのはエルキドゥだった。
「彼かい? 彼ならさっき森の方へ戻っていったよ」
「は? なにゆえ?」
「わからない。でも、巨木の枝にぶら下がった蔦を見ていたく興奮していた様子だった」
 穏やかに語り終えると、今度はナーサリーが口を開く。
「念願のターザンごっこが出来ますよー、って意気込んでたわ」
「いやはや、困ったちゃんだねぇ」
 ナーサリーがにこにこしながら喋る傍ら、モリアーティはさもありなんと肩をすくめてみせた。
「あーもう……」
 立香は片手で顔を覆った。

 はぐれたサーヴァントの探索騒動の末にようやくカルデアに帰還すると、エルキドゥは感じ取った気配におや? と目を丸くした。ナーサリーのお茶会に招待されるもやんわりと辞退し、貝殻を片手に食堂へと足を運ぶ。
 案の定、カウンター席にが座っていた。
 壁掛け時計を確認すると午後の三時半、つまり休憩に適した時間帯だ。一服でもしているのかもしれないと予想を立てつつ、これ幸いと近寄った。後ろ手に貝殻を隠し持ちながら。

「んんっ!」
 声をかけると、跳ねるように振り返る。口元はスプーンを咥えていて、手元には小ぶりな器があった。その中には白くきめ細やかな不定形の塊が盛られていて、淡い象牙色を帯びた果肉がちらほらと混ぜこんである。器の外側には薄い膜のような霜と水滴が付着していることから、エルキドゥは冷菓と推測した。
「休憩中かな。何を食べているんだい?」
「アイスです。なんと、エミヤさんが作ってくださいました!」
「……が頼んだの?」
「いいえ。職員の誰かがリクエストしたみたいです。夏っぽいものが食べたいと」
 にこにこと上機嫌には言う。
 エルキドゥは返答の代わりに首を縦に振って頷くと、一度周囲に目を配った。
 食堂内でまばらに座っている数名の職員も、と同じものを食べている。どうやら間食として多量に用意したようだ。一個人に向けて作ったものではないと納得がいくと、エルキドゥは再度に視線を向ける。
「隣いいかい?」
「はい。あっ、エルキドゥさんも食べますか?」
「んんと……そうだね。食べてみようかな」
 左手に貝殻を隠し持ったまま椅子に腰を下ろすと、エルキドゥは首を伸ばしてカウンターの奥にあるキッチンを覗き込んだ。
 この間食は職員優先に配給されるものだろうし、サーヴァントが貰えるかどうかはわからない。それに、座ったばかりなのにまた立つのは二度手間だ。どうしようか迷っていると、エルキドゥの眼前に何かが突き出された
 あまりに近すぎてピントが合わない。少し身を引いてようやく、その正体を確かめる事ができた。
 一口分のアイスを掬ったスプーンだ。
「ペスカヨーグルト味って言ってました。すっごく美味しいですよ」
 エルキドゥにとってあまり聞かない言葉を語るその表情はにこにこと無邪気だ。一切の外連味を感じさせない。ともすると、が迷いなく差し出してきたこのスプーンにも、別段深い意味はないのだろう。
 エルキドゥは表情を変えず、の顔とスプーンを交互に見比べる。目の前の状況に素直に身を委ねるにはいささかの躊躇があった。ここは遠慮して譲るべきなのだろうと思う反面、しかしどうにも遠慮し難いという奇妙な感覚も芽生えてくる。
 どうするべきか迷った末、意を決して口を開けようとした瞬間、何故かスプーンがひょいと引っ込んだ。
「ご、ごめんなさいっ。その、ついうっかりで……」
 照れくさそうに肩をすぼめ、アイスを自分の口に運んでしまう。その表情に偽りめいたものは感じられない。つまり、ささやかな善意による行動だ。そう気付いたエルキドゥは少しだけ口元を緩めるものの、胸中に落胆と似たような感情が広がった。
 一口分のアイスが無くなり、きれいになったスプーンを見つめていると、ふいに、友人が愛玩用として飼っていたネコ科の獣の事を思い出した。
 躾を仕込まれ従順に手懐けられたその獣は、お預けを食らうとわかりやすくがっかりした態度を見せるものだから、友人は悪趣味にもその挙動を弄び楽しんでいた。たとえエルキドゥが「はしたないよ」と窘めようともだ。
 あの時、おあずけをくらった獣の胸中はまさにこんな感じだったのかもしれない。エルキドゥはぼうっと遠い目をしながら考える。
「今エルキドゥさんのぶん、もらってきますね」
 そう言ってが席を立とうとするので、エルキドゥはすぐに袖を掴んで引き止めた。
「ううん、いいよ」
「で、でも……」
 掴んだ袖をくいくいと引いて言葉を遮ると、
「一口でいいから」
 そう言って、エルキドゥは口を開いた。
 内心は柄にもない事をしていると身悶えしたい気持ちで一杯になりつつも、それを必死にひた隠す。
 対すると言えば目を丸くしてから、やや恥ずかしそうに目を伏せておどおどと視線を彷徨わせる。
 もしかすると応じてくれないのかもしれない。エルキドゥがそんな懸念を抱き始めた頃になってようやく、が身じろぎをした。ゆっくりぎこちない動作でアイスを掬い取ったスプーンを、エルキドゥの口元へ差し出してくる。
 胸中に満たされる安堵を噛みしめるよりも、エルキドゥは反射的にスプーンを口に含んだ。さっきみたいに逃げられたらたまらなかったからだ。
 遠慮がちにスプーンが引き抜かれると、口の中に置き去りにされた冷たく柔らかな塊が舌の上で溶け出した。独特な甘酸っぱさを味わい飲み込むと、弾力性の有る果肉が口の中に残った。噛んで風味を味わい、ようやく聞き慣れない単語と実体との合点がいった。
「桃だね」
「はい。相性抜群で美味しいですよね」
「そうだね」
 さっきの気恥ずかしそうな態度はどこへやら、はアイスを口に運んでもごもごと頬を動かしている。活発に行き来するスプーンから察するに、色気より食い気という事らしい。なんともいえない感慨が芽生えるも、まあいいかとエルキドゥは微笑んだ。
 今が頃合いかもしれない。そう思ってエルキドゥは左手に隠し持っていた貝殻をテーブルの上に乗せると、の視線が即座に貝殻に向けられた。
「わっ、きれいな貝殻……」
 反応は期待通りに良好で、エルキドゥは内心ほっと胸を撫で下ろす。
「今日のレイシフトで手に入れたんだ。よかったら貰ってくれないかな」
「いいんですか?」
「うん。これで少しでも夏らしさを感じてくれればと思ったんだ。でも、厨房の彼に先を越されてしまったね」
 ややばつが悪そうに目を細めて微笑むエルキドゥとは裏腹に、は目を輝かせてスプーンを置き、貝殻を手に取った。その貝殻はの手にはいささか大きく、うっかり落とさないようにと慎重に触って確かめている。その表情はやはり嬉しそうで、見ているほうも嬉しくなるものだった。
「なんでも、貝殻に耳を当てると波の音が聞こえるらしいよ」
「ああ、そんな話ありますねぇ」
 はうんうんと頷いて、自分の耳に貝殻を当てた。目を閉じて聞き入っている。
「どうかな?」
「ごーって音は聞こえるんですが、これが波の音かと言われると……あはは、正直よくわからないです」
「そうか。僕もわからなかったから少し安心したよ」
 エルキドゥが正直に言うと、は耳から貝殻を離した。
 そのまま卓上に置くかと思いきや、両手で大切そうに包み込む。
「ありがとうございます。一生大切にしますね」
 満面の笑み。それがエルキドゥには照れくさくて仕方がない。一瞬、脳裏を自爆という単語がよぎる程だ。
「たかが貝殻だけれど」
「されど貝殻ですよ。エルキドゥさんがくれたものなら尚更です」
 にこにこしながらは言う。
「例えばの話ですが、私の寿命が80歳までと過程します」
「ずいぶん唐突だね。それで?」
「私が夏を迎えられるのは残り約60年、つまりあと60回とちょっと……っていうと、なんだか呆気なく感じませんか?」
「……うん。そうだね」
「そのうちの1回をエルキドゥさんと過ごせた事、とても誇らしく思います」
 そう言って、はまたアイスを口に運び始めた。おいしそうに食べている。
 エルキドゥはそれをぼんやりと見つめ、やがてふっと目を細めた。
、もう一口欲しい」
 そう言って、あーと口を開ける。羞恥はあるが、さっきより随分とやわらいでいた。
「んんと、やっぱり貰ってきましょうか?」
「ううん。から貰うのがいい」
「……エルキドゥさんて、案外、わがままですよね」
「うん。昔よく言われたよ」
 鷹揚に頷くエルキドゥを見つめるは呆れ眼だが、やがて苦笑を浮かべるとアイスにスプーンを突き立てすくい取った。察したエルキドゥが口を開くと、はその中へスプーンを滑り込ませた。