あいまいもこもこ

 わざと照明を暗くした談話室はさながら暗室のようで、見慣れているはずなのにいつもと違う場所に来たみたいで少し居心地が悪い。部屋に漂う暖気が、何故かひんやりとしているように感じられる。私が今ちょうど腰を下ろしているまふっとしたソファも、なんだか別のものみたいだった。
 向かって正面の壁に取り付けられた大型のモニター。ちょうどその真ん前に藤丸くんとマシュさんが座っていて、そこから左右に広がるようにしてサーヴァントの人たちが座っている。名前も知らないその方々の殆どが、遠目に見ても子供だとわかるような風体をしているけれど、私よりはずっと歳上だ。そう自分に言い聞かせないと、うっかり惑わされそうになる。
 今日のお昼のことだ。藤丸くんに映画鑑賞会に誘われた。エルキドゥさんも来ると聞かされ、私は驚きつつも二つ返事で了承した。みんなで映画を見るだなんて久しぶりの事だったし、藤丸くんのお誘いを断る理由もなかった。
 と、部屋中に不穏な効果音が鳴り響いた。なにやらすごいスピーカーを使っているようで、立体的な音が部屋中に反響して気持ち悪い。モニターを見れば、怯える人の姿が映っており、その後ろにふっと青白い顔が浮かび上がった。
 誰かが悲鳴をあげると、連鎖反応のようにきゃーきゃー騒ぎ出す。私はそれを眺めながら、すぐ近くのテーブルに広げられたお菓子を手にとった。
 とうもろこし粉を主原料にした、円錐形をへちゃっと押しつぶしたようなスナック菓子だ。
「あまり怖がらないんだね」
 隣に座るエルキドゥさんが小声で話しかけてきた。その声はとても残念そうだった。
「実はこの映画、前に見たことがあるんです。なのでこれから先の展開もわかってるので……」
 私もひそひそ声で返しながら、スナック菓子を指先にはめてゆく。
 映画に誘われた時は嬉しかった。でも、一度見たホラー映画をまた見るのは、なかなかつらいものがある。ああして一緒に騒ぐことができたらきっといい思い出になっただろう事が悔やまれて仕方ない。
「残念だな。この前みたいにが恐怖に怯える所が見たかったのに」
「その発想は悪趣味ですよ」
が今取っている行動よりは悪趣味じゃないと思うけれどね」
「むっ、これは古くから伝わる由緒正しい伝統的な食べ方です」
 5本の指にしっかりはめ終えてからわきわきと手を動かして見せると、エルキドゥさんはふっと鼻で笑った。
「騙されないよ。まず聖杯からの知識には存在しないし、君がそういう顔をしているときは決まって適当なでたらめを言っているときだからね」
 得意げな顔をするエルキドゥさんに対してうまい反論が見つからない。そもそも、そういう顔ってどういう顔なんだろう? そんな疑問が芽生えたけれど、小指にはめたお菓子を口に運ぶ事でやり過ごした。
 ともあれ、そういった機微をすぐに感じ取ってもらえるほど、いつの間にか深い付き合いになっていたみたいだ。そう考えたら、じわじわと感動がこみあげてきた。思えば、エルキドゥさんと出会った頃はわからない事だらけだったような気がする。でも、きっとそれはエルキドゥさんだって同じだ。
 過去に思いを馳せていると、藤丸くんが立ち上がるのが視界に映った。身をかがめた状態でこちらへ近寄ってくる。
「ごめん、少しもらうね」
「あっ、どうぞどうぞ」
 小声のやり取りの後に、藤丸くんはしゃがんだままお菓子を手にとった。おもむろに指先にはめていく。
 その姿を見ていると、なんともいえない親近感のようなものが湧き上がる。やっぱりそうするよねと安心を覚えながら、ふと隣のエルキドゥさんを見れば、目をまんまるにしていた。
「マスター……それは?」
「ああ、これ? この形のお菓子ってさ、こうしないとなんか落ち着かないんだ。さんもやってるからいいかなって」
 照れくさそうに笑う藤丸くんとは対象的に、エルキドゥさんはとてつもない衝撃が走ったような顔になっている。身動きひとつすら取らないエルキドゥさんの異変に気づくこと無く、藤丸くんは両手にお菓子を装着して、ほくほく顔で自分の席へと戻っていった。
 その後姿を見送ってから再度エルキドゥさんを見ると、今度はあからさまにしょんぼりしていた。
「そ、そんなに落ち込まなくても……」
「見当が外れてしまった。それに、の情報を疑ってしまった。……ごめんね?」
「あ、謝らないでください。実際、伝統的な食べ方でもなんでもないですし。……でもこの食べ方、万国共通なんですね、新発見です」
 小声でまくしたてると、エルキドゥさんはぱちぱちと目を瞬かせ、徐々に眉間にシワを寄せてゆく。
 まずい、と直感するけれど、時既に遅し。
「えいえいっ」
「わー、ごめんなさいごめんなさいっ」
 ぺしぺし叩かれる。もちろん痛くはない。ちゃんと手加減をしてくれている。
 わざとらしいじゃれあいも、静かな部屋の中ではすぐに落ち着いた。映像が流れ続けるモニターに目を向ける。不思議なもので、たった一度見ただけなのに、この先はこういう展開になって、と勝手に記憶を掘り起こしてしまう自分がいる。別に思い出したくなんてないのに、と考えてしまうから、集中なんてできるわけもない。
 結局、視線を手元に落とす。次はどの指にはめたお菓子を食べようか迷っていると、片方の袖をくいくいと引っ張られた。つられて顔をそちらに向けると、エルキドゥさんは袖を引っ張るのをやめる代わりに、小さく口を開けている最中だった。
 一瞬首を傾げそうになったけれど、すぐに察した。どの指にするか数秒迷った果てに薬指を差し出すと、エルキドゥさんがぱくっと食らいついた。そのままお菓子をくわえて持っていってしまう。こころなしか嬉しそうな表情を浮かべるエルキドゥさんにつられて頬が緩むのを感じながら、私も中指にはめたお菓子を口に運んだ。
 ぽりぽりと咀嚼する音が重なる。ホラー映画にはあまりにも不釣り合いなそれをかき消すように、前方からまた悲鳴が上がった。
 映像を見れば、エレベーターの下降に合わせ、小窓に幽霊の顔がつきまとう場面が流れていた。恐怖映画には必ずある、視聴者を怖がらせる大きなポイントのひとつだ。案の定藤丸くんの周りはきゃーきゃー大騒ぎになっていて、なんだか微笑ましい。
 でも悲しいかな、隣のエルキドゥさんは身じろぎ一つせず、まるで無反応だった。
「エルキドゥさんは怖くないんですか? 今のシーン、私、初めて見たときはすごく怖かったんですけど」
「怖くないよ」
「鋼で出来たメンタルですねぇ……」
「粘土だけれどね。正直な話をすると、何を怖がったらいいのかわからないんだ」
 さり気なく顔を伺えば、エルキドゥさんもこちらに顔を向けていた。
「映像をありのままに受け止められたら、皆と同じように怯える事ができると思う。きっと理屈を考えてしまうのがよくないのかもしれないね」
「理屈ですか?」
「うん。たとえば今の場面にしても、昇降機が階層に着くたびに頃合いよく窓から顔をのぞかせているだろう? もしかすると、この幽霊はホール近くの階段をとてつもない速さで駆け下りているのかと考えてしまうと、かえって健気に思えてしまう」
 エレベーターの動きに合わせ、近くの階段を猛スピードで駆け下りる子供の幽霊。
 想像して、笑いそうになったのをなんとかこらえた。
「さ、流石に床をすり抜けていると思いますよ」
「たとえすり抜けていても、僕からすれば健気な印象は変わらないさ。実の親の呪いに引きずられあんな姿になっても、無邪気さを損なっていない。……生きていた頃は年相応に天真爛漫だったのかな」
 エルキドゥさんはそう言って、正面のモニターの方へ顔を戻した。そのガラス玉のような瞳に、映像から発する明滅がちかちかと写り込んでいる。その姿はモニターを通してどこか遠い景色を眺めているようにも見えて、すぐ近くにいるのに遠い所にいるかのような錯覚に見舞われた。
「それに、どうしても僕の認識に落とし込んで比較してしまう。たとえば僕が霊体化しあの幽霊のように機敏に動いたとしても、ほとんどの人間は気づかないはずだ」
 その発言で、遠ざかった距離が瞬時に戻ったような気がして、どうしてかほっと胸をなでおろしてしまう。
 確かにエルキドゥさんの言う通り、霊体化したサーヴァントに素で気付ける人はほぼほぼいないはずだ。実際私だって気付かなかったし、これから先も気付く自信はない。
「かといって生身の状態で素早く階段を駆け下り、いちいち昇降機の前に出ていくのも、それはそれで滑稽な気がしてならないね」
 エルキドゥさんが口にしたその光景。エレベーターに乗った藤丸くん(被害者)を、よーいどんの合図で必死に追いかけるエルキドゥさん。階段をひとっ飛びで駆け下り、エレベータの前にいちいち出ていく。おかしい光景は不思議と簡単に想像できてしまって、思わず吹き出してしまった。
 慌ててごまかすように咳払いをはさみ、
「滑稽かどうかは、やってみないとわかりませんよ」
「そんな面白がるような表情で言われても説得力に欠けるよ。やらないからね」
「……残念」
 口寂しくなってきて、親指にはめたお菓子を口に運ぶ。
「エルキドゥさんのそういうところ、見習いたいです」
「そうかな。やはりこういった娯楽を楽しむには不必要な機能だと思うけれど」
「その不必要な機能は、思考が一辺倒になりがちな学者にとって、喉から手が出るほど欲しい機能ですよ」
「そうなのかい?」
 頷いて、エルキドゥさんの方へ顔を向ける。
「同じ研究をしていると思考が似通ってしまって、観測結果も同一になり、気づかなければいけない事に気づけず堂々巡りをするだけ……とダストンさんが言っていました。エルキドゥさんが不必要だと思う機能は、誰かにとっての利点です。逆もまた同じ」
 ぱちぱちと瞬きを繰り返していたエルキドゥさんだったけれど、やがてふっと目を細めて微笑んだ。
「相反するものがなければ両極として成り立たない、摂理だね。人はそうやって互いを補い合うことで環境を形成していくものだ。欲がすぎれば無い物ねだりにもなってしまうけれどね」
「どうして今の話からそんな壮大な感じになっちゃうんですか?」
「じゃあ小さくしよう。つまり、の欠点を挙げていけば僕の利点につながるという事だね?」
「……おかしいですね、私に欠点はないはずです」
「その自信はどこからくるのかな」
「うーん……あっちのほうですね」
 適当な方向を指差した途端、エルキドゥさんの手が伸びてきて、人差し指の先にあるお菓子を摘み取られてしまった。そのまま自分の口に放り込み、ぽりぽりと音を立てて咀嚼し始める。
 テーブルの上にまだたくさん残っているお菓子を指差して無言で抗議をしてみるけれど、エルキドゥさんは満足そうに微笑むばかりで埒が明かない。
 結局、反論する言葉も、それを探す気力すらも失い、私は顔をそらした。テーブルの上にある布巾で手を拭いて、ソファに深く座り直す。
 また悲鳴が聞こえてきた。前方を見ると、恐怖でぎゅうぎゅう寄り添って、とまり木に一列に並ぶ小鳥みたいになっている藤丸くんたちの姿がある。怖がっているところ申し訳ないけれど、傍から見ればとても微笑ましい。
「今のも怖くないんだね」
「昔はあんなふうに怖がってた覚えがあるんですけれど……」
「慣れというものだろうか」
「それもありますが……思うに、隣にエルキドゥさんがいるから怖くないような気がします」
「えっ」
「こうしておしゃべりに意識が向いちゃって映画に集中できないです。あとエルキドゥさんって一緒にいると謎の安心感? みたいなものがありますし」
 エルキドゥさんの片腕を引き寄せて、ぎゅっと握る。
「私の苦手なところを、今エルキドゥさんが補ってくれています」
「これは……喜んでいいのかな」
「もちろん」
 頷くと、エルキドゥさんは返事の代わりに、手を握り返してきた。

 照明を落とした室内。最後の一節を読み解いたエルキドゥはゆっくりと本を閉じ、しかし話の余韻に浸るわけでもなく、隣で眠るを見下ろした。
 すや、すや、と穏やかで規則正しい寝息を立てている。揺さぶったらきっと目を覚ますだろうが、エルキドゥは見つめるだけで何もしなかった。むやみに安眠を妨げるのは忍びない。
 本を読む時は明かりをつけてとに言われてはいるが、エルキドゥは暗がりで文字を読み解いても人間のように視力が落ちたりはしない。それを何度も説明しても人間のように扱われるのが兵器のエルキドゥにはいまいち理解できないが、しかし自分をいたわってくれている事は理解できた。
 嬉しい。そう思うと意識は惑乱する。いつしか片手を伸ばしかけている事に気づき、エルキドゥはハッとした。
 夜が明ければ人は勝手に目を覚ます。言葉をかわすのはが目を覚ましてからでいい。エルキドゥは自分にそう言い聞かせるも、伸ばした手で頬をかすめるように撫で、別の本を手に取り読書に集中する。
「う……」
 半分ほど読み終えたところで、小さなうめき声が聞こえてきた。エルキドゥはぴくりと体を震わせて反応し、すぐに音の発生源へ視線をずらす。
 の表情はさっきとは打って変わっていた。眉間に皺が寄っており、額が汗ばんでいる。いかにも苦しそうにしながら、もがくように手をさまよわせ、シーツを固く握りしめる。
「……ぅ……うぅっ!」
 異変。どこに異常が発生したのか検知するため、エルキドゥはすぐに思考を切り替えた。瞳が金色に染まったところで、
「……っは!!」
 がガバっと飛び起きた。
 肩で息をしながら忙しなくきょろきょろと周囲を見回し、隣のエルキドゥと顔を見合わせると、やがて膝を抱えて安堵の溜息を吐き出した。そのまま深呼吸を繰り返している。
 エルキドゥはわけがわからないまま本を枕元の近くに置くと、サイドテーブルの上にある照明を灯し、の方へ身を寄せた。手をのばして背中を撫でると、じっとりと汗ばんでいた。
「どうかした?」
「へ、変な夢を見てしまって……」
「夢?」
 はこくりと頷くと、抱えていた足をじわじわと伸ばし、顔を持ち上げる。その表情はどこか気まずそうだった。
「いいよ。話して?」
 エルキドゥが促しても、は口を閉ざしたままだった。エルキドゥは何も言わずに背中を撫で続けると、は気まずそうにあちらへそちらへ視線をさまよわせる。
「その……笑わないですか?」
「笑わないさ」
 しばらく撫で続けると、やがてが口を開いた。
「……エルキドゥさんが膝に乗りたいって言ってきたので、いいですよって了承したら、エルキドゥさんが大きいエルキドゥさんに変身して、そのまま押しつぶされる夢でした」
「……」
 なんともいえない脱力感がエルキドゥを襲った。この子は何を言ってるんだろう、僕は君にとってどういう印象なんだろう、といろいろな疑問が湧き出てきたが、
「ほ、本当に、死ぬかと思いました……こわかった……」
 その言葉で思考は一転する。
 すぐに掛け布団を退けて膝立ちになると、エルキドゥはそのまま主人公の膝の上にまたがって腰を下ろした。わっ、と小さな悲鳴とともに身をよじって逃げようとするの身体にしがみつく。
 エルキドゥの体はシャムハトを基礎にしているが、部位ごとに戦闘に適した形状に特化させているため、女性とは違う作りをもっている。それゆえ生じる体格差はの膝上ではあまりにも収まりが悪い。それでもエルキドゥは気にすること無く、緊張で強張ったの背中をゆっくりと撫で擦る。
「重いかい?」
「……お、重くないです」
「うん。押しつぶしたりしないよ。大丈夫だから」
 しばらく背中をさすり続けると、肩にかかるの呼吸が少しずつ穏やかなものへと変化していった。
「あ、ありがとうございます。落ち着きました」
「それならよかった。君に怯えられるのは、たまらなく嫌だからね」
「うっ……すみません……」
 気まずそうに謝罪を述べ、エルキドゥを気遣うように背中に手を回す。そのままぎゅっと力を込めるものだから、エルキドゥも応えないわけにはいかなかった。抱きしめ返しても抵抗がないのをいいことに、背中をいっそう丸めて肩に顔を埋める。
「あの、エルキドゥさん」
「なんだい?」
「もう大丈夫ですから……その……」
「もうちょっとこうしたいかな」
 ううう、とのかすかな唸り声を合図に、エルキドゥはかすかに微笑んだ。困らせているという自覚はあるが、しかし嬉しい感情のほうが優先されてしまうので仕方がないという事にする。そのまま寄りかかって更に身体を密着させようとすると、
「その……エルキドゥさん、トイレ」
 小さな声が聞こえ、エルキドゥは顔を持ち上げた。ぱちぱち、とゆっくりまばたきをする。
「……僕はトイレじゃないよ?」
 互いに顔を見合わせて、数秒の沈黙。
「トイレに、行きたいですっ!」
「うわっ」
 突き飛ばすようにごろんとひっくり返される。エルキドゥが慌てて上体を起こしたときには、はすでにベッドから飛び降りていた。
 エルキドゥはその背中を見送りながら、奇妙なところですばしっこさを発揮するものだなと感心しつつ、やれやれと肩をすくめて定位置へ戻った。