私がこの雛見沢に引っ越してきたのは、最近の話だ。
なんでこんな山奥にある辺鄙な村に越してこなければならなくなったのだろうか、その理由は至極簡単。私の弟が喘息をこじらせてしまい、それが本当につらそうだったから、空気の綺麗な雛見沢村で療養するという医者の提案を、私とお父さんは迷うことなく受け入れたのだ。
そんな弟が喘息になってしまった原因となる重度のヘビースモーカーだったお母さんは、一昨年に肺がんで亡くなった。38歳だった。この一家の収入の7割以上はお母さんの給料によるものだったから、お母さんが死んだときは弟はもちろんお父さんも泣いていた。私は泣かなかった。なぜなら、お父さんの給料だけで暮らしていけるのかがとても不安だったのだ。
予想通り、お父さんの給料では到底暮らしていけなくて、バイトすることも考えたけれど、お母さんが死んだときに貰った保険金というものがあったおかげで、今こうして何不自由なく暮らせている。不満は、ない。
でも、時々死んだお母さんが夢に出てきたとき、私は決まって必ず言うことがある。
なんで私と喘息もちの弟と、売れない小説家の情けない役立たずなお父さんを残して先に逝ってしまったんだろう、って。
放課後、特にたいして用事もなかったから、私は帰ることにした。
カバンの中に筆記用具と読みかけの文庫本を入れて、教室から出たときだった。
「またねー」
唯一ひとりだけ残っていたクラスメイトがはにかむような笑顔を向けて手を振ってくる。私も手を振り替えして、木造校舎の廊下を歩き始めた。
最初は都会から来た人間だからと蔑まれることを覚悟していたけれども、クラスメイトはみんないい人ばかりで、一ヶ月たった今では前の学校以上にクラスになじめていた。仲のいい子もたくさんできた。毎日が、以前に比べて倍以上に楽しかったから、クラスメイトが妙なかげりを背負っているのは、大して気にならなかった。
でも、村に越してきてから、気になることといえば一つだけある。家の近所にある電話ボックスの上に、ちょこんと座っている少年だ。登下校のとき必ずその前を通るから、初日から普通に視界に入ってきてしまった。その時少年は朝方の群青色の空をぼんやり見つめて足をぷらぷら動かしていたから、害のない浮遊霊だなとあまり気にしなかった。
けれども、私が引っ越してきてから一ヶ月たった今でも彼はそこにいて、何をするでもなくただぼんやり空を見つめている。だから自縛霊だと気づいたのはつい最近の話だ。とりあえず弟とお父さんには電話ボックスの上に幽霊がいるから近づかないで、と言っておいた。二人は何も言わず了承してくれた。
しばらく歩いて、問題の電話ボックスの前にたどり着いた。私は一つ息をはいて、電話ボックスの上に座る少年を見上げた。少年は私に目をくれることもなく、カラスの飛んでいる茜色の空をぼんやり眺めている。
「ねえ」
声をかけてみる。だが反応はない。
「ねえってば」
再度声をかけてみると、やっと反応があった。少年はゆっくりとした動作で、こちらを振り返って私のほうを見下ろした。始めてみるその少年の首元は血で真っ赤で、口から一筋血が流れていた。もの凄く痛そうで顔をしかめたくなったけれど、そんな彼の顔は喉もとの傷の痛みに耐えるような表情ではなく、むしろ少しだけ寂しそうだった。
少年は私の顔を見てから、きょろきょろと辺りを見回して、誰かを探すような素振りを見せる。その動作に、ちょっと苦笑した。少年はきっと、私が少年に声をかけていることをわかっていないのだ。
「きみだよ、きみ」
少年を指差すと、少年はやや瞬きしてから自分を指差した。視線で問いかけてくるから、こくんと頷くと、少年ははじめて口を開いた。
「見えるの…か?」
その声はなんというか、声変わりの最中とでもいうような声で、私と年齢が近いことを確信した。服装からして、学生。たぶん私の学校に通っていた子だろうと思う。どんな理由で死んだにせよ、ここにとどまっているのはよくない。
「あのね、えーと、…なんの未練があるかわかんないけど、さっさと成仏しちゃったほうが楽だと思うの。いいお坊さん紹介してあげるから」
言うと、彼はきょとんと目を見開いてから、悲しそうに笑った。
「おりてこない? ちょっとお話しようよ」
言うと、彼は目を閉じてふるふると首を振った後、小さく笑ってくれた。
「…ごめん。離れられないんだ、ここから」
彼の声にちょっと咳が混じりこんで、それから少年は血を吐きながら少しだけむせた。喉の傷は相当深いようで、気管が傷つけられているんだなとぼんやり思った。
「離れられないんじゃなくて、きみが離れようとしないの! とりあえず、そこから降りることはできるよね?」
無人の電話ボックスにこうやって話しかけているのを見られたらきっと変人だと勘違いされるだろう。きょろきょろと辺りをうかがいながら人がいないことを確認して、電話ボックスの傍に近寄った。両手を真っ直ぐ伸ばすと、かろうじて少年の足を掠める程度だった。ちょいちょい、と手を動かしながら、視線で少年に訴えた。手を握れ、と。
彼はしばし戸惑う視線を私に向けてから、身をかがめて恐る恐る私の手に触れたが、私の手に冷たい温度を残して、彼の手は通り抜けていく。どうやら、“触る”ことができないみたいだ。
「えーと、触れるって心の奥底から思ってみて。絶対触れるから」
ほら早く、と言いながらぴょんと小さくジャンプして、少年の行動を促す。やっぱり彼は戸惑う様子を見せてから、意を決したような表情で私の手に触れた。冷たい感覚が手に残る。それがなくならないうちにその手を握ってあげると、少年が目を見開いた。
手を掴んだまま後ずさりして思いっきり引っ張ると、少年が電話ボックスから地面に着地した。彼が踏みつけた雑草は、ピクリとも動かないどころか、直立不動のまんまである。そんな不思議な光景はもう何度も目にしたせいか、驚くことはそんなになくなった。
少年の冷たい手をぎゅーっとにぎると、少年は驚きの表情を顔に貼り付けたまま私を見る。
「久しぶりに人の手を触ってみてどうですか?」
悪戯っぽく笑いながら私が訪ねると、彼はぽかんとした表情のままで、私の両手を見つめた。
「……――あった、かい」
ぽつんと小さく、子供みたいな言い方で呟いた。なんだかおかしくって私はちょっと笑ってしまった。どうやら“触る”という、第一段階はクリアしたようだ。次は“離れる”ということを教えなければならないみたいだ。
「じゃあ今度は、電話ボックスから離れたいって思ってみて。私に憑くんだ、でもいいから」
両手をぎゅーっと握って、少しだけ後ずさりする。少年は戸惑う素振りを見せたが、目を閉じて私の手を強く握って、ゆっくり歩き出した。私も彼が電話ボックスから離れられるよう必死にお願いしつつ後ずさりながら引っ張ってあげる。ある程度のところまで来るとローファーの靴底が砂で滑って、そこからうまく引っ張れなくなる。まるで綱引きのときの気分だ。思いっきり体重をかけてもびくともしない。
「頑張って! もう少しだから!」
体重をかけて、思いっきり引っ張る。足が砂で滑るから、何度も何度も体勢を立て直しながら、少年の手を握って、この電話ボックスから彼が離れられるようにとたくさん願った。
…と、いきなり体が軽くなる。
「うわっ!」
地面に倒れる、と思った瞬間に腕を引っ張られた。少年のほうに倒れこむような形で、なんとか私は転ばずに済んだ。少年の透ける身体ごしに電話ボックスを見ると、さっきよりも距離が開いていた。第二段階クリアのようである。身体を離しながらそろそろと少年を見上げると、彼は照れくさそうに笑っていた。
「なんか、あそこから離れることができたなんて、夢みたいだ」
嬉しそうな少年の声につられて私も笑ってしまう。
「このこと、ちゃんと覚えとくと役に立つよ。たぶん」
言いながら私は少年の両手をそっと離した。冷たい温度が離れていって、余韻だけが手の中に残った。少年を見上げると、いきなり両手を開放されたからか、戸惑いがちな視線を私に向けている。なんとなく、寂しそうな表情に戻ったような気がしたから右手で手を繋ぐと、少年がきょとんと私を見てからまた照れくさそうに笑った。
さて、と私は一息ついた。これから先、お坊さんにお祓いをしてもらおうと思ったけれど、なんだか少し気が引けた。とりあえずは自己紹介だろう、と私は一つこほんと咳払いをする。
「私の名前、。あなたの名前は?」
まあ、忘れちゃってるなら別にいいけど、と付け足していうと、少年はわずかに苦笑した。
「前原圭一」
あっさりと言うので、逆にこっちが驚いてしまった。幽霊というのは大抵、月日がたてば自分の目的――怨み嫉みしか記憶に残らなくなるのに、この少年は自分の名前を覚えているのだ。どうやら彼が亡くなってから、そんなに月日は経っていないのだろうか、あるいは彼が普通の幽霊とは違うのか、なんにせよ、呼び名があることに私はほっとして、あらためて少年――圭一を見上げた。やっぱり、喉もとの血が気になってしまう。
「喉の傷、隠せる?」
聞くと、圭一は私をぽかんと見返してから、繋いでいないほうの手で喉元を覆った。そしてゆっくり手を離した頃には、傷がきちんとふさがっていた。どうやら幽霊の仕組みを理解したらしい。私がよし、と小さく呟くと、彼は少しだけ驚きつつ、喉を触っていた。さて、と私が小さく呟くと、圭一はきょとんとした顔で私を見返した。
「自分で成仏できそう? できなかったら私、明日お寺に行くけど」
本題に入った途端、彼はやっぱり寂しそうな顔をした。
「……やり残したこと、あるの?」
自分で成仏できない幽霊は大抵、生きていた頃にやり残したことがある、というのが幽霊の基本みたいなものだ。だから私はとりあえず、このことは必ず聞くようにしていた。圭一の顔を伺うと、彼は悲しそうに眉尻をさげて、悔しそうに唇を噛んでいる。
「よかったら言ってみて。解決できるかもしれないから」
すると、圭一は俯いて、私の手をぎゅっと握った。握り返すと、圭一は私に真っ直ぐな視線を向ける。
「俺を殺そうとした奴らを、つかまえてほしい」
思わず、私は目を見開いた。こんなのどかな村で、そんな殺伐としたことがあったのだろうかと少しだけ不安になった。どうやら、この幽霊は一筋縄じゃあ成仏できないみたいだ。
だんだんと太陽が沈んできたのがわかる。そろそろと辺りを見回せば、私の学年より上の先輩が、道の向こうからとぼとぼ歩いてくるのが見えた。圭一もそれに気づいたのか、心配そうな面持ちでぎゅっと手を握ってくる。私は苦笑してその手を握り返した。ずーっと握っていたせいだろうか、心持なんだかあったかく感じられるのは多分気のせいだろう。
「とりあえず、私の家にきてもらうけど、いい?」
圭一をここに置くわけにもいかないから小さく呟くと、彼はきょとんとかすかに目を見開いてから、こくんと頷いた。
「手、はなさないでね」
圭一がまたこくんと頷く。私は踵を返して家のほうに足を踏み出すと、隣に圭一が並んだ。二人で歩いているのに、地面にのびている影は一つだけだ。
とぼとぼ、ゆっくり、といった感じで歩き続けると、ふと唐突に圭一が口を開いた。
「はなんで、俺のことを成仏させようと思ったんだ?」
質問の内容も唐突だったから、思わず私は小さく噴出した。小さく笑いながら圭一を見ると、むっとしたような顔をしている。ごめんごめん、と小さく誤ると圭一は私から視線をそらした。どうやら機嫌を損ねたようだ。
「人って、死んだら幽霊になって、成仏して、またこの世に生まれてくるんだって」
小さく呟くと、圭一がこっちを見たのがわかった。
「ちっちゃいころね、…幼稚園くらいのときかな、川で亡くなったっていう同い年の男の子を成仏させて、その数年後――小学校4年生のときに、こっちで新しく生まれてきたその子に会ったの。わざわざありがとう、って言ってくれて、なんか自分がいいことしたのかなって嬉しくて。まあ後で幽霊とかかわるなって近所のお寺の住職さんに言われたんだけどね。それから結構、幽霊にかまうようになったんだけどね」
思い返してから、私は圭一の顔を伺って、悪戯っぽく笑って見せた。
「きみが成仏したら、そうだな…私の子供になって生まれてきてよ」
すると圭一は、ぽかんと私を見つめてから、
「考えとく」
視線をそらしつつ、ぶっきらぼうに呟いた。
06/09/10