――……お前らってさー、いっつも一緒にいるよな。
――そうかなぁ? ……そうなの麓介ちゃん?
――……俺に聞くなよ。
――もしかしてお前ら、好きなんだろ。
――……んなわけねーだろ。
――好きって、……何を?
――……いや、だから、お互いに。
――ああー! うん! 麓介ちゃんのことは好きだよ。
――ばっか、お前、何言って……!
――だって嫌いだったら友達になろうと思わないでしょ。っておかーさんが。
――……。
――へー。は麓介が好きなわけか。へー。
――い、今のこいつのは明らかにそういう意味じゃねーだろ! にやにやすんな! つーかお前なあ、ちったあ空気読めよ! 何でいっつも空気読めねーんだよ!
――あいたっ! ……うー……何もぶたなくても……。
――で、麓介はどうなんだよ?
――何で俺に聞くんだよ!
――だってお前答えてねーじゃん。
――んな事どうでもいいだろ!
――何でそんなムキになるんだよ。あやしいなあー。
――あやしいなあー。
――あやしくねえ! つーか何でお前も便乗してんだよ! もう黙ってろお前!
――あいたっ! ……うー……2度もぶたれた……。
――で、麓介はどうなんだよ。
――どうでもいいだろそんな事。
――お前、いっつもはぐらかすよなあ。
――はぐらかしてなんかねーよ。
――そういうのがあやしいんだよ。
――あやしくねーよ!
――だーかーらー、そういうムキになるのがあやしいって言ってんだよ。で、好きなんだろ?
――は? なわけねーだろ!
――じゃー何で一緒にいんの?
――それはこいつが付き纏ってくるからだ! 俺だってメーワクしてんだよ!
――ふーん。で、好きなの? 嫌いなの?
――しつけーなあ! そんなの決まってんだろ! 俺はこいつの事なんか嫌いだよ! 大っ嫌いだ!
目が覚めた。
嫌な夢を見た。
(くそ)
内心悪態をつきつつ布団をはねのけ身体を起こし、ねとつくような熱さを振り払う。四つん這いになってベッドの上を進み、ベッドを仕切るカーテンに指をかけ少しずらし、保健室の壁に掛けてある時計を見る。ああもう昼休みか、と思った瞬間に、昼休みを告げるチャイムが流れていた。
「藤くん、もうお昼ですよ」
「……ああ」
机の前でプリントの整理をしているらしいハデスに声をかけられ、藤はおざなりに返事を返したあと、ぼさぼさの頭を指で掻きながらベッドの上に戻った。
枕元に散乱した漫画本を適当に片付け、菓子の包み紙をベッドの下のくずかごに入れる。一通り綺麗になったベッドを見て藤は満足げにうなずいた後、床に置いた上履きを履き、カーテンを開けようと手をかけたが、控えめなノックの音が聞こえてきて、藤は慌てて手を引っ込めた。
「し、失礼しまーす」
怖々とした声とともに、誰かが保健室の中に入ってくる気配を感じた。藤が恐る恐るカーテンの隙間から覗き込むと、2人の女子がびくびくしながら保健室のソファに近寄っているところが見えた。口元のあたりをティッシュで覆っている女子が、もう片方の女子の肩に手をまわして支えてもらっている。足元もなんだか危うい。今にも転びそうだ。
「やあいらっしゃい。どうしたの?」
「た、体育のバスケの試合中に、ボールにつまずいて、転んじゃって、左の足首をひねったみたいで」
細々としたくぐもった声が聞こえる。
「……あと、転んだときに床に鼻をぶつけたら、その、鼻血が止まらなくなってしまって」
なかなかに悲惨である。
その一連の光景を想像した藤は、ベッドの上で笑いをこらえるのに必死になっていた。
「それは……大変だったね。とりあえず靴脱いで、あと学年、クラスと名前を教えてくれるかな」
言いながらハデスは保健室に備え付けの冷蔵庫に向かい、冷凍室から小さめの保冷剤を2つ取り出した。
「に、2年C組の、です」
「下の名前は?」
ハデスがにっこりと笑いながら――本人はそのつもりなのだろうが末恐ろしい顔だ――そう問いかける。保冷剤を手馴れた手つきでくるくるとタオルでくるみ、ソファに座る女子の傍にしゃがみ込んだ。
「あ、ごめんなさい。です」
藤の笑いが止まった。気付かれないようにカーテンを開けて覗きこむ。ソファに座って恥ずかしそうに鼻をティッシュで押さえている女子は、小学生だった頃の面影がまだ残っていた。
――藤がと知り合ったのは、歳を数えるのにまだ片手で足りる程の時だった。
公園でブランコの取り合いをした時、藤がを突き飛ばし怪我をさせてしまったという、今になって思えば非常にしょーもないきっかけで仲良くなった。藤は幼稚園、は保育園に通ってはいたため接点はなかったが、家から近くて遊具がたくさんある公園はそこにしかなかったため、幼稚園が休みの日は決まってその公園に向かい、一緒になってよく遊んだのだ。一緒に遊ぼうなんて約束は全くしなかったのだが、休みの日に公園に行くのが不思議と互いに一種の決まりごとになっていたと思う。
そのせいで、小学生になってからも一緒にいるのは変わらずだったが、3年生になった頃から一緒にいるとクラスメイトによくからかわれるようになり(男女2人でいるとよくあるやつだ)、おまけに“あの一件”以来会話する事もなくなってしまい、中学にあがって初めて別々のクラスになり、顔を合わせる事が珍しくなり、たとえ会ったとしても碌な会話も交わさず、自然と疎遠になってしまった。
「これで足を冷やしなさい。こっちは鼻用ね」
「え!? は、鼻血って、ティッシュを丸めて突っ込んだら止まるんじゃないんですか?」
「んなわけないでしょー!?」
「で、でも、鼻血が出た時ってみんなティッシュ丸めて突っ込んでるよ?」
「そりゃーその場しのぎに決まってるでしょ! ……で、ですよね先生?」
「うん。むしろティッシュを鼻に詰めてしまうと、鼻の血管を傷つけてしまう事もあるからね。あまりオススメはしないよ」
「そ、そうだったんですか……。どうしよう……今までティッシュを無理矢理鼻に突っ込んでました……」
「もういい! ティッシュから離れろ! とりあえずは足を冷やせ!」
なんだかとんちんかんな、相変わらずな会話のやり取りに、奇妙な懐かしさが藤の中にこみあげてくる。
(……あほくせ)
それをなんとか振り払い、藤は上履きを履いたままベッドの上に横になった。
「さん、少し前かがみになって。でないと血が喉に流れ込んでしまうよ」
「で、でも、そうすると垂れちゃいます」
「ちょっと待ってて。洗面器を取ってくるから」
ハデスは急ぎ足でベッドの傍の棚に向かい、棚の上から小さな洗面器を持ってきた。
「これを膝に置いて。鼻を冷やしながら圧迫しなさい」
「美紗子ちゃん、圧迫って?」
「鼻をつまむの」
言われたはふむふむと頷いて小鼻をつまんで圧迫した。
ぽたっと音を立てて、の鼻から血がプラスチック製の洗面器の上に落ちる。
「と、止まらない……どうして……」
「そんなすぐに止まるわけないでしょ! このあほたれ!」
ぺちっと頭を叩かれ、はしゅんとうなだれた。
しかし鼻血は止まりそうになく、ぽたりぽたりと洗面器の上に雫が落ちる。
「……なーんか、もうちょっとかかりそうね」
「ご、ごめんね美紗子ちゃん。先に教室に戻ってて」
「いいよ別に。あの、ハデス先生、ここでお昼ご飯食べてもいいですか?」
「え!? いいの!?」
聞かれたハデスの顔がぱあっと明るくなった。のだが、元の顔立ちのせいで怖さが尚更ひきたってしまう。美紗子と呼ばれた女子の顔が若干ひきつったが、さして気にした様子なく会話を続ける。
「え、むしろこっちがいいんですか?」
「どうぞ。保健室は生徒の憩いの場だからね」
「い、憩いの……?」
「でも、A組の男子もここでお昼ご飯を食べてるけど、いいかな?」
「あー多分大丈夫です。A組の人全然知らないけど。もいいよね?」
「う、うん」
が控えめにうなずくと、美紗子はにっと笑って、弁当を取りに教室に戻ってしまった。は無言のまま、保冷剤を右足首にあてつつ、鼻にも保冷剤をあてて鼻を圧迫している。しかし鼻血は止まることなく、洗面器に赤い面積をじわりじわりと広げていく。
「さん、姿勢、つらそうだね」
ハデスがぽつりとつぶやくと、があははと笑って見せた。しかし目は笑っていない。目は口ほどにものを言う。
「鼻血が止まった後に足首を冷やしたほうがいいね。湿布を貼ってしまおう」
「は、はい……」
がほっとしたように返事をすると、ハデスは救急箱から鋏と湿布と包帯を持ってきた。足首の腫れあがった個所に湿布をはり、てきぱきと包帯を巻いていく。
「ハーデスせんせー!」
ノックもなしにいきなり保健室の扉が開いた。ハデスが手を止めて顔を挙げ、が大きく肩を震わせて振り返る。
「ああ、美作くんにアシタバくんに本好くん、いらっしゃい」
「おう。先生、藤は?」
言いながら、どかどかと保健室に入り込んでくる。見れば美作の両手にはそれぞれ弁当箱を提げていた。
「藤くんかい? あれ? さっき起きたはずだけど」
「まだベッドにいんのかよ。しゃーねーなぁ」
美作がどかどかとカーテンで仕切られたベッドの方へ向かう。美作がカーテンをわしづかみ、勢いよくカーテンを引っ張る。のだが、内側で逆に引っ張られているせいでうまく引く事が出来なかった。藤がカーテンを開けられまいと必死になっているのだ。
「おい藤! おめー何やってんだよ、手ぇ離せ!」
「おめーが離せ!」
「じゃあさっさと出てこいよ」
なんとなくこのままベッドでやり過ごそうかと思っていたのだが、どうにも逃げられそうにない。そう判断した藤は仕方なくカーテンを開け、ベッドから飛び降りた。渋々といった感じて踵の潰れた上履きを履く。
「ほれ、弁当持ってきてやったぞ」
美作が弁当を差し出してくるので、藤は礼も言わずに弁当を受け取った。そしてソファの方に顔を向ければ、が必死に縮こまって俯いていた。小刻みに震えているあたり、の方も藤の事に気付いたに違いない。
ぽたりと鼻血が洗面器に垂れる。洗面器の中を見れば中にはうっすらと血が張っていた。
「……だ、大丈夫?」
アシタバがおずおずとに尋ねると、はぶんぶんと思いっきり頷いた。
「さん、頭を動かしちゃだめだよ。安静にしていないと」
「ご、ごめんなさい」
包帯をテープで止めながらハデスが窘めると、が消え入りそうな声で呟いた。
「うわ、捻挫に鼻血か。すげーな」
美作がぼそっと呟きながら、我先にとの向かいに座った。がちらりと美作を上目に見れば、美作はすでにテーブルに弁当を広げていた。
「ご、ごめんなさい。ご飯前に見苦しいもの見せて……」
「いやいいよ。ほらお前らも早く食おうぜ。ところできみ、大丈夫? ティッシュある? なくなったらこのテーブルのティッシュ使うといいよ。名前何て言うの? クラスは? 学年は?」
興味がある女子にはとことん積極的な美作である。
アシタバが呆れ気味にため息を吐きながら美作の隣に座り、続いて本好がアシタバの隣に座った。となると、空いている席はの隣か、間をはさんだソファの端しかない。
藤は仕方なくぐるりとソファを周り、本好の向かいに腰を下ろした。ちらりと横目でを見ればじっと洗面器を見つめている。
こんこん、と控えめなノックが響き、男子の視線が保健室のドアに集中した。
「失礼しまーす」
美紗子が弁当を抱えて入ってきた。そしてソファを見るなり足を止めたが、A組の連中だろうと適当に結論付けて足を進め、ソファの背もたれに手をかけて、ひょいと軽くまたいでみせる。
「てめっ、あぶねーだろ!」
危うく膝蹴りを喰らいそうになった藤が怒鳴ると、美紗子はテーブルに二つの弁当を置いてから藤の方に顔を向け、まじまじと眺めてから、目を輝かせて口元に手を当てて身を引いた。
「も、もしかしなくても藤麓介君?」
尋ねられる。返答によっては今にも黄色い声が飛びそうだ。
藤がげんなりしながら頷くと、案の定、黄色い悲鳴が耳を劈いた。
* * *
「私は2年C組の菅浦美紗子。で、こっちは同じクラスの。よろしくね。美作くんに、明日葉くんに、本好くんに、藤くん」
確認するようにそれぞれ指さしながら名前を呼んだ後、美紗子が向かいに座る三人組にニッと笑いかけた。
そんな美紗子を、藤は茶を飲みながらじっと眺める。C組の委員長をやっているとも言っていたし、委員長に適材適所な、人見知りもしない気さくなタイプのようだ。
そんな美紗子とは対照的に、は緊張しているのか具合が悪いのか縮こまっていた。相変わらず鼻血は止まりそうにない。昼食を食べ終わっていないのはもう一人だけだ。
「美作くんたちはいっつもここでご飯食べてるの? 勇者だねぇ」
「でも案外いいもんだぜ、保健室ってのも」
最初はビビってたくせに何を言ってんだか、と藤は内心ぼやいた。を見れば、今まさに鼻血が垂れて、洗面器にぴちゃんと音を立てた瞬間だった。
洗面器に張った血の量は、どう見ても普通の鼻血の量ではない。
「先生」
藤がハデスに声をかけると、自分のテーブルで昼飯を食べていたハデスが椅子を回転させて振り返った。
「こいつの鼻血、止まりそうにねーんだけど、マジで大丈夫なのか?」
顎での方を示すと、がこれ見よがしにビクッと大きく肩を震わせた。
「うーん、鼻血出してからもう20分以上経つよねえ。、大丈夫?」
「だ、大ひょ」
ガチっと音がした。
「大丈夫だよ」
「……あんた今舌噛んだでしょ。しかも涙目になってるし」
が悔しそうにうーっと唸り声をあげた。鼻血が洗面器に落ちて、洗面器に溜まった血が波打つ。
「洗面器の中すげーな。そんなに鼻血出した奴初めて見たよ」
美作が感慨深げに言うと、
「私もこんなに鼻血が出たのは初めての経験というか、なんというか……」
も感慨深げにつぶやいた。冗談を言う余裕はあるらしい。
ハデスが席を立ちソファの方に近寄り、洗面器の中を覗き込んだ。洗面器を傾けると、たまった血が片側に寄り、そのせいで水音をたてた。
「……さん、今日は早退しましょう」
「へ? どうしてですか?」
「さんが保健室に来て24分経ちましたけど、一向に止まる気配がない。こうなると耳鼻科のお医者さんに診てもらうしかないですよ」
「ええっ! 鼻血ごときでお医者さんー!?」
が驚いた。
「でもこのままの状態が続けば貧血になってしまうからね。菅浦さん、さんの荷物、持ってきてもらえるかな?」
「は、はい。わかりました」
美紗子が空になった弁当を持ち、来た時と同様ソファをまたいで飛び越えた。藤はというと、とっさに身をかがめたおかげで、頭をけられる事はなかった。
「し、失礼しましたっ」
美紗子は頭を下げた後、小走りで保健室を出て行ってしまった。
「君たちももうすぐで授業だから、早く戻りなさい」
「はーい。行こうぜお前ら」
のろのろと美作が立ち上がると、アシタバも本好もつられて立ち上がった。
「藤くんはどうするの?」
アシタバに尋ねられ、藤は考え込む。
「次の授業は?」
「音楽だけど」
「パス」
即答だった。
手をひらひら振って授業に行かない事を示すと、美作が「やっぱりなー」と呟きながら、2人を連れてぞろぞろと出ていってしまった。と思ったら美作が戻ってきて、お大事になー! と叫んで行ってしまった。興味のある女子にはとことん優しい美作である。
「僕はタクシーの手配をしてくるから、さん、安静にしててね」
「は、はい」
ハデスが保健室を出ていくと、保健室は一気に静かになった。それと同時に気まずさが湧きあがってくる。藤が小指で耳をほじりながら立ち上がると、の身体が大きく震えた。こうもあからさまに態度に出されると嫌になってくる。
(……もう寝よ)
藤は自分専用のベッドに向かい、腰をおろして上履きを脱ぎすて、カーテンを閉める。昨日買ってきた週刊漫画雑誌を手に取り、表紙をめくって読み始める。
のだが、集中できない。雑誌を枕元に押しやり、ポケットから携帯を取り出して、適当にゲームでもやろうかと弄り始める。
「っ、げほっ、ごほっ!」
せき込む声が聞こえて、藤は身体を起こした。カーテンを開けての方を見れば、洗面器に顔を向けてむせていた。
口元を押さえている指の間から血が垂れる。
「っ、」
藤はベッドから飛び降り、かかとを潰して上履きを履いて、のそばに駆け寄った。テーブルの上のティッシュ箱に手を伸ばし、数枚手にとっての口元に添え、汚れた手を無理矢理引きはがすと、の口から唾液交じりの血が垂れた。
「お、おいっ、大丈夫かよ!?」
がむせながら何度も頷くが、どう見ても大丈夫そうには見えない。
自分にできる事はなんだ? と必死に思案を巡らせ、藤はの背中に手を伸ばし、ひたすら撫でてやった。
しばらくそうしてやるとは落ち着いたようで、時折軽くせき込みながら、口元をティッシュでぬぐった。
「ご、ごめんなさい。時計見ようとして顔をあげたら、鼻血が喉の方に逆流して……」
そんな間抜けな事を呟きながら、涙でぬれた目を何度も瞬かせる。
見かねた藤が箱ごとティッシュを渡すと、はティッシュを一枚手に取り目に押しつけた。
「吐血したかと思ったぞ」
「ごめんなさい……」
はーとため息を吐きながら、気が抜けたように藤が床に座り込む。伺うようにを上目で覗き込めば、目をぬぐったティッシュで鼻をかんでいた。そうして、鼻をかんだまま藤の方に顔を向ける。
「あ、ありがとう、ろく……」
言いかけてぴたりと止まった後。
「――ええと、……藤……さん?」
日本一高い山のイントネーションで言われた。
「同年代でさんづけはねーだろ。ていうか“ふじさん”はやめろ。おれは山じゃねえ」
「ごごごごごめんなさい。……じゃあええと、……藤くん?」
“藤くん”という呼び方を確かめるようにが聞いてくる。
あのきっかけで出来た溝と、2年近くのブランクは藤が思っていたよりあまりにも大きなものだったようだ。もう修復は不可能なのだと実感してしまう。
恐らくこれから先、は以前のように「麓介ちゃん」と呼んではくれないだろう。
「……それでいーんだよ。ったく、めんどくせえ」
そう返すと、がほんの少しだけ微笑んだ。
「はいこれ。鞄と制服。あと数学の先生からノート預かってきた」
「ありがとう美紗子ちゃん」
ハデスと美紗子が戻ってきた途端、はほっとしたような表情を浮かべ、藤の方を見る事はなくなった。それが藤にとってはなんとなく気に食わなかったが、口で言ったらどうなるかわからないので黙っている事にした。
「それじゃあ行きましょうか、さん」
ハデスは洗面器に溜まった血液を流しに捨て、空になったそれをに渡した。
「は、はい」
制服に着替える事なく、ジャージ姿のまま鞄を肩に提げ、洗面器片手に立ち上がる。と、鼻血が一筋伝い始めるので、美紗子が慌てての鼻の下にティッシュを押しつけた。
どこからどう見ても間抜けな、変な格好だった。
「それじゃあ藤くん、留守番頼みます」
「はいはい」
おざなりに返事をすると、ハデスはを引き連れて保健室を出て行ってしまった。
「うわっ、次の授業始まっちゃってる! 私も急がないと! それじゃあね藤くん!」
美紗子も後を追うように、慌てて保健室を出て行った。
室内がシンと静まりかえる。まるで台風が去った後のようだ。
「……寝るか」
藤はぽつりとつぶやき、重たい腰を持ちあげ、うーんと背伸びをした後、とぼとぼと歩きだす。
と、何かを踏んだ。ずるりと足が滑って転びそうになる。
「うわっ、何だ?」
なんとか体制をたてなおし、足をあげれば、そこにはノートが落ちていた。藤が思いっきり踏みつけたせいで、見事に足形が残っている。
「やべ……」
拾いあげる。表紙には数学と書かれていた。嫌な予感がして視線を下げれば、2-C、の文字。
「……普通、ノート忘れるかあ?」
表紙にくっきり写り込んだ足形を手の甲で叩きながらベッドに向かい腰を下ろす。上履きを脱ぎ捨てカーテンを閉めると、藤はノートの表紙をめくりながらベッドに横になった。
ノートに書き込まれた丸っこい文字は、藤にとっては読みやすいものだった。
2010/04/05