※百合・ネットスラング注意


 は困っていた。
 目の前にあるベッドの上、膨らむ布団はプルプルと小刻みに震えている。おそらくこの布団の中にいる人物、相方の双葉杏は隠れているつもりなのだろう。布団の端から柔らかな金色、というよりはミルクティーの色に近い髪の毛がはみ出ていても、お尻のほうに(多分だが)いっつも握り締めているピンクのウサギのぬいぐるみの顔が覗いていても、杏はちゃんと隠れているつもりなのだろう。
 布団に手をかけると、どこからともなくボソボソと声が聞こえてきた。は布団に耳を近づける。働きたくないでござる働きたくないでござる働きたくないでござる働いちゃ駄目だ働いちゃ駄目だ我は週休八日制度を所望する。魔法の呪文が聞こえてきて、は盛大にため息をついて片手で顔を覆った。一週間は七日しかないのに、何故に八日? それだけ休みたいのか? たぶんそう問いかけても、杏は答えてくれないだろう。
 ――半年前の四月下旬。桜の散る頃になって、は念願のアイドルデビューが決まった。
 海外にいる両親に自分の姿を見てもらいたいからという、たったそれだけの理由でアイドル養成学校に通う事を決め、夢を達成するためには我武者羅にレッスンに励んだ。ボーカル、ダンス、ビジュアルレッスンの殆どがきついものばかりで、ぽつりぽつりと脱落者が出たが、はめげなかった。ただひたすらに努力した。それが功を奏したのか、見学に来ていた有名な765プロのお眼鏡に適い、別のアイドル候補生と組んでデビューすることになったのだ。それこそは文字通り諸手を挙げ、黄色い悲鳴を上げて祖母と喜び合ったものだ。
 同い年の候補生だというその子は、やや癖があると聞いていた。だから不安でたまらなかったのだが、君とならすぐに仲良くなれるだろう、と担当である新米プロデューサーにそう言われ、胸を高鳴らせながら初めてその少女と対面したのは、朗報があってから数日後の事だった。半年前の出来事だが、それでもの脳裏にはその光景が鮮やかにはっきりと残っている。
「双葉杏だよ。よろしくね」
 そう、にこやかに微笑みながらの挨拶は、同姓のから見ても非常に可愛いと思えるもので、思わずあたふたしながら挨拶を仕返した。
 双葉杏と名乗った少女は、と同い年でありながらも、まるで小学生かと見紛うような体系で、それでも他者とは比較できない可愛さを兼ね備えていた。仕草のひとつひとつが愛らしく、憂いを帯びた視線が彼女の不思議さを引き立てていた。まるで妖精のようだと、は恥ずかしながらそう思ったのである。
 友好の証として手を差し出すと、戸惑いがちに握り返してくれた杏は少し不安げな表情で、これから先アイドルとして活動する不安や期待などを孕んだものだと思い、は「これから一緒にがんばろう」と声をかけたのだ。
 しかし、今思うと、それはのまったくの勘違いであったといっても過言ではないだろう。その時はうまくいくと思っていたのも、おそらく勘違いだったのかもしれない。
 ――双葉杏は、ガンジーが助走して殴りつけるレベルの、Sランクの『めんどくさがり屋』であった。それはもう、めんどくさがり屋をこじらせ、熟成させたようなものであった。店先で売られていたら10万円以上の値打ちはするだろうめんどくさがり屋であった。
 いつだったか、彼女と某タリーズなんちゃらでケーキを食べたとき、自分がどうしてアイドルになりたいかを恥ずかしながら打ち明けると、杏が申し訳なさそうに「私は将来、働きたくないのだ」と呟いた声は、今でも鮮明に思い出せる。
 そんなめんどくさがりでも、モンスターハンターは嬉々としてやるし、マリオカートなんかは熱帯(ネット対戦の略称だと杏から聞いた)のチーター(ゲーム改造を趣味とする馬鹿の事だと杏が言っていた)のスタート同時の落雷にもめげずにポイントを稼ぎまくり、ウイイレはランキング上位に載るほどのゲーマーであった。恐らく、本当に興味があることにしか本気を出せないのだろう。
 基本的に何をやらせてもそこそこにこなすのに、どうしてこうも偏ってしまうのか。天は二物を与えずとはよく言ったものだ。杏は才能はあるが、その使い方をわかろうとしないし、そもそもそういう努力すらしない。
「杏、今日お休みじゃないんだよ?」
 まるで子供に言い聞かせるような感じで、布団を揺さぶって見るが、プルプルとした震えは収まるどころか増すばかりだ。
「具合悪い?」
 聞いてみるが返事はなく。ため息をついて布団の端を引っ張れば、布団の中で引っ張り返してくるものだから相当なものだ。よりも一回りも身体が小さいというのに、この力はどこから出てくるのだろう。めんどくさがりの申し子が成せる業なのか。
 埒が明かないと思ったは、とりあえず布団からベッドから離れた。いつも杏が使用しているボストンバッグに、勝手にタオルやら何やらを詰め込み始める。
「杏、タンス開けちゃうからね」
 一応断りを入れて、衣装ダンスの一段目をあけた。白やらピンクやらキュートな下着がずらっと並んでいる。最初見たときはなんだか妙な罪悪感で胸がいっぱいになったものだが、もう今となっては手馴れたものだ。汗をかいたときの替え用の下着上下を手に取り、小さなポーチに入れてボストンバッグにしまう。次は二段目を開けて、見るも無残にぐちゃぐちゃに詰め込まれたTシャツやらカットソーの中から適当に一つ選び、綺麗に畳み直してボストンバッグに詰め込む。
 こういうのは本当はプロデューサーがやるべき事なんだろうと思うのだが、杏が部屋にプロデューサーをあげるの嫌がり、いつの日からかこうやって、がやるのが当たり前になっていた。
 部屋の中をキョロキョロと見回し、くちゃっと丸め込まれたミニスカートを拾い上げ、軽くはたいて埃を払い落とすと、これもまた畳んでボストンバッグの中に詰め込む。最後に、壁にかかっていたトレーニングウェアをハンガーからはずして、ベッドのヘッドボードにかけた。
「杏」
 再度名前を呼びながら揺さぶってみるが、効果はない。
「も~」
 思わずうなってしまう。
 今までのパターンだと、これから出てくるのに一時間は要するはず、だ。だが最近は結構時間が引き延びてきて、昨日なんか二時間もかかってしまった。
 どうやって引きずりだそうか悶々と考えていると、廊下のほうからスリッパの音が聞こえてきた。その足音はこの部屋のドアの前で止まる。「ちゃん、よかったら朝ごはん食べていって」杏の母親の声が聞こえてきた。は「はい」とその声に返事をし「いつもありがとうございます」と付け足した。布団を振り返り、足を踏み出してドアノブに手をかける。
 と、ポケットの中に詰め込んだ携帯がピリピリと電子音を奏で始めた。取り出して画面を確認すると、プロデューサーからの電話であった。あわてて通話ボタンを押し、スピーカーを耳に当てる。もしもし、です。そう出ると、プロデューサーから「そっち、どう?」とまるでげっそりとしたような声が返ってきた。
 はちらりと丸くなった布団に視線を向け、
「わかりません。多分、昨日みたいに時間かかるかもしれないです」
『そうか。そうだよなぁ……日を増すごとに記録更新してるもんなぁ……』
 泣きそうな声で言うものだから、は思わず噴出した。プロデューサーの表情がすぐに想像できる。眉根を下げて、口をへの字にしているのだろう。
「とりあえず、粘れるだけ粘ってみますけど……」
『や、いいよ。は時間通りにこっちに来て。杏は置いてっていいから』
「え!? 置いてくって……」
の代わりに俺が杏を連れてくから。はレッスンに励め』
「待ってください。レッスンに励めって、杏は……?」
『別に一緒じゃなくてもできるだろ?』
「一人でやれ、ということですか」
『ああそうだ。正直に言うけどな、時間が惜しいんだ。お前には杏に時間を費やすより、特訓に費やしてほしい』
 返す言葉がなく、は黙り込んだ。ふと携帯を持つ手に力をこめすぎていた事に気づき、深呼吸の後に力を抜く。
 杏はなんでもそつなくこなす。飲み込みが早く、たとえレッスンで「ぐえー疲れたーもう帰りたい」なんて言いながらぜえはあと息を荒げても、休憩を挟めばすぐに呼吸は元通りになる。本気を出さずに、すべて難なく覚えてしまう。しかしは真逆だ。努力家と講師によく言われたが、そのくらいの努力を重ねなければダンスにしろ歌唱にしろ、うまくできないのだ。プロデューサーはそういう事をわかっているのだろう。だからこうして、電話をしてくれている。
「……そう、ですね。わかりま」
 した、と言おうとした瞬間、の頭にぽこんと何かがぶつかった。衝撃でよろめき、気づいたときには携帯を床に落としていた。足元に転がる携帯の傍には、憎めない表情の、少し汚れたピンクのウサギが転がっている。
 しゃがみこんで携帯を拾い上げ、ついでにウサギのぬいぐるみを抱き上げた。携帯の画面を見れば、待ち受け画面に戻っている。落とした時に誤って通話終了ボタンを押してしまったのかもしれない。かけ直そうかと思ったが、どの道また連絡は来るだろうし、とは携帯をポケットにしまった。溜息をついてベッドのほうに視線を向ければ、慌てた杏が布団の中にサッと隠れるのが見えた。
 は何か言おうと思ったが、小刻みにプルプル震える布団を見て、口を閉ざした。その代わりにウサギのぬいぐるみを下から優しく放り投げてベッドの上に乗せると、ドアノブに手をかける。
 部屋を出て、後ろ手にドアを閉めると、すぐに盛大な物音と、アヒルのような「ぐぇ」っという声が聞こえてきた。恐る恐るドアを開けて部屋の中を覗き込む。
 布団に包まったままの杏が、ベッドから転げ落ちていた。床に頬をくっつけながら、助けを求めるような視線をこちらに向ける。
 すぐにベッドの傍に駆け寄ると、布団の中からもぞもぞと手が出てきた。
「……手、引っ張ってぇ」
 弱弱しい声が聞こえてきたものだから、は小さく笑って、一回り小さな手のひらに自分の手を重ねた。ずるずると引きずり、起こすのを手伝う。およそどこで買ったのか皆目検討のつかない白い奇抜なデザインのTシャツに少し埃がついていたので、適当に叩き落としながら「部屋、掃除機かけたほうがいいんじゃないかな」と言えば、杏が拗ねたように口を尖らせた。強制すれば杏はさらに拗ね、口を利いてくれなくなるとわかっていたので、はそれ以上は何も言わなかった。
 ベッドのヘッドボードにかけたジャージを手に取り杏に渡すと、杏はそれを受け取りながらももじもじと身体を揺さぶって。
「さ、さっきの電話、どういう用件だったの?」
「時間通りに来て、一人でレッスンしろって」
「え?」
 杏がぽかんと間抜けな表情になる。
 しばらくして。
「あ、ああ。そうだよね、うん。そ、そうだよね!」
 安心したように杏がへにゃっと笑顔を浮かべる。
「とりあえず、着替えよ? ほら、ばんざいして、ばんざーい」
「ひひひ一人で着替えくらいできるよっ!」
 顔を真っ赤にした杏に背中を押され、そのまま部屋から追い出されてしまった。本当に着替えているのか、ドアの向こうに尋ねようかと思ったのだが、は迷った末に1階へ降りることにした。
 リビングに向かうと、食卓テーブルの上に器が乗っていた。チョコレート色のクッキーのようなものが器いっぱいに盛られている。コーンシリアルのてんこ盛りは、さすがに何度も見たから慣れてきた。
「ご飯、いただきます」
「はい、たくさん食べてね」
 スーツ姿の杏の母親が、インスタントコーヒーを入れながらそう返してきた。
 テーブルの上の牛乳パックに手を伸ばし、シリアルがひたひたになるまで注ぐ。スプーンですくってシリアルを口に運ぶと、なんとも言いがたい味が口の中に広がった。
ちゃん、家の鍵、テーブルの上に置いとくって、あの子に伝えてもらっても?」
「いいですよ」
「いつもごめんなさいね」
「いえ、こちらこそ。ご飯ご馳走になって、すみません」
「いいのよこれくらい。それじゃあ、行ってきます」
「はい、いってらっしゃい。お仕事頑張ってください」
 会釈すると、「ちゃんもね」と綺麗な微笑みを浮かべながら手を振ってきたので、は迷った末に手を振り返した。リビングのドアが閉まり、玄関のほうでヒールをはく音がする。ガチャリと玄関のドアが開くのと同時に、階段のほうからドタバタと足音が聞こえてきた。玄関のドアが閉まるのと同じくして、杏がリビングに飛び込んでくる。手にはが用意したボストンバッグが提げられていた。
「私も、ご飯食べるっ」
 ソファに乱暴にボストンバッグを投げると、ばたばたと慌しくの向かい側に座った。コーンシリアルの箱を手繰り寄せ、空の器にこれでもかと盛り付ける。
「杏、これ、お母さんが家の鍵って」
 テーブルの上に置かれた鍵を示すと、杏は牛乳を注ぎながらこっちに視線をよこし、二度うなずいて見せた。
「よかった、今日は時間通りに間に合いそう」
 時計を見上げながら、ひたひたになったシリアルを口に運ぶ。もにょもにょとした食感を味わっていると、
「ね、ねえ、その、今日はちゃんと起きたし、帰りにその……一緒にご飯食べよ」
 もじもじと杏が何か申し出てきた。何をそこまで恥ずかしがるのかわからず、は苦笑を浮かべる。最初の頃は「帰りたい」だの呟くばかりで、レッスンが終わればいの一番に飛び出して帰るのに、最近はこうやって、時々一緒に夕飯を共にするようになった。
「うん。今日のレッスン、ちゃんとできたらね。私が」
 私が、を強調して言えば、杏の顔が歪んだ。はーっと盛大にため息をついて、暗い表情になる。
「ほんと仕事ばっかだよね……楽しい?」
「楽しいかどうかはともかく、夢だもの」
「夢かぁ……」
 しばらく無言になる。ひたひたになったシリアルを口に運びながら、テレビつけようか、とは杏に尋ねたが、杏は器の中のシリアルをぐるりぐるりとかき混ぜながら、口を尖らせたり引き結んだりしていて、まったく反応を示さない。
 失礼ながら、杏は見たとこ夢がなさそうだと、は常々思っていた。恐らく夢について思いを馳せているのだろう。地雷を踏んだかもしれないと思いつつ、テーブルの上のリモコンに手を伸ばす。折りたたまれた新聞を開き、テレビ欄を眺め、とりあえずスイッチを押す。
「わ、私は、とずっと一緒にいるのが、ゆ、夢かなあ! なんちゃって……」
『ごめんなさい~! 12位はおとめ座のあなたです~。今日はもう絶不調~。下手な発言をすると人間関係を拗らせる事があるかも?』
 テレビから爆音が響いた。慌ててリモコンを操作し、テレビの音量を下げる。
「ご、ごめん杏、聞こえなかった」
 ラッキーアイテムは、コーンシリアルだよ! それじゃ、がんばってねー!
 テレビから流れる陽気なその声とともに、杏はテーブルに突っ伏して、くそーと悔しそうに唸り声を上げた。

2012/01/16