学校での補習のせいで、いつもより帰りが遅くなってしまったから、いつもはあまり通らない裏路地を通ったことが、はじまりだった。

「あの…大丈夫?」
 地面にうつ伏せに倒れている少年に、は恐る恐る声をかけたが、反応は無い。しゃがみこんで肩を叩いてみても、少しだけうめく程度で、起き上がる気配は全く感じられなかった。まあ、死んでいないだけありがたいだろう。
 …しかしまあ、よく見ると派手な身なりの少年だ。セットが大変そうな髪は見事な金髪で、首もとの赤いマフラーのようなものが白いTシャツによく映えていた。一昔前の少女漫画の登場人物がつけていたような真っ赤な仮面は以外にも似合っていた。きっと顔立ちがいいからだろう。
「えと、おきてますかー?」
 失礼とは思ったけれど、は彼のほっぺたをぺちぺちと叩いた。小さなうめき声が少年の口から漏れて、指貫手袋をはめた手のひらがぎゅうっと握り締められる。
「…ぅ、あ…?」
 少しだけ、目が開いた。街灯の光をあびて赤い瞳がきらきらと光る。数回、少年はゆっくり瞬きをしてから、手に力を込めてそろそろと上体を起こした。は少しだけ後ずさりして、少年の様子を伺う。焦点の合わない眼でぼーっと辺りを見回している姿が、なおさらを不安にさせた。
「…その、大丈夫ですか?」
 一拍おいてから、少年がこちらを見る。状況がよく理解できていないらしい彼は数回瞬きしてみせると、焦点の合わない瞳にいきなり光が宿る。きょろきょろと慌しく上下左右を見回したあと、少年はを見た。
「アレ? 俺……」
「えと、ここで倒れてたんです。……おぼえてないんですか?」
 言うと、少年はうーんと首をかしげて腕を組む。右前腕のところで血が垂れているのには今更気がついた。そしてよくよく見れば、少年はかすり傷だらけだった。
「あっ、腕、怪我してる…」
 のか細い呟きに、少年はぱちくりと瞬きをしてから自分の腕を見た。
「…ホンマや」
 垂れる血を指先ですくいとって、ぺろりと舐める。痛々しい傷口に触れる指先に、は眉を顰めた。そして自分のカバンからハンカチを取り出した。
「だめですよ、傷口に触っちゃ…! 応急処置をしますから、じっとしててください」
「え!? いやいやいやいや! ええってアカンって!!」
「アカンも何も、ほっといたら化膿しちゃいますよ!」
 は渋る彼の手を強引にとって、長く折りたたんだハンカチを傷口にあてた。そして腕の周りをぐるりと一周させて、痛みを感じない程度にきつく結んだ。保健委員の仕事が始めて校外で役に立ったと、は内心小さく笑った。
「おうちに帰ったら、ちゃんと消毒したほうがいいですよ」
 は言いながら少年を見上げて、はにかむように微笑んだ。少年はややあってから、ハンカチの結び目を手持ち無沙汰に指先で弄びながら、ゆっくり小さく頷いた。彼の頬が心なしか少しだけ赤く見えるのは、きっと気のせいだろう。
「あ、人差し指も怪我してます」
 まっててください、とはまたカバンをごそごそあさり始めて、キャラクターがプリントされた絆創膏を取り出した。外側の紙とビニールをはがして、絆創膏を少年の人差し指の傷口にあて、撫でるように絆創膏を貼り付ける。
「…あんがと」
「どういたしまして」
 か細い声に、はふるふると首を振って、またはにかむように微笑んだ。
 そんなを見て、少年もつられて小さく笑った。鋭い犬歯がちらりと顔を覗かせる。さながらまるで吸血鬼のようだと、は密かにそんなことを考えた。
「でも、なんでこんなところで怪我なんか…。人に殴られたり、とかじゃないですよね?」
「おう。ちーとばかし隣のアパートの屋根からポロッと落ちただけや、そない心配せんでも大丈夫」
「え!?」
 は叫んで、隣のアパートを見上げた。築14、5年といったところだろうか、壁の造りが普通とは違ってレンガ造りというとこを除いては、4階建ての普通のアパートだ。少年はその4階建てのアパートの屋根の上から落ちてきたのだという。普通の人間が落ちたら骨折なり大怪我しているだろうあの高さから、彼は落ちたらしい。
「――嘘ですよね…?」
「いやホンマやって」
「…普通に考えたら骨折する高さですよ?」
「俺、常人より身体が丈夫にできとるからな、こんくらいどうってことない」
 そういって、少年はにかっと笑った。犬歯がきらりと光る。
「…ほんとうに、大丈夫ですか?」
 伺うようにが少年を見上げると、少年は呆れたように笑って見せた。
「だから大丈夫やって。せやからそんな心配せんでもええ」
「でも…」
 言いかけて、は俯いて口を閉じた。このままじゃ会話のループになりそうだったからだ。
 が少年を見上げると、にへらと表情を崩して笑う。元気そうだしまあいいか、とは息を吐いた。
 これ以上ここに居たら、ただでさえ補習で帰りが遅いのに、もっと遅くなって両親を心配させるだけだ。
「――じゃあ、私はもう行きますね」
 本当はここで気の利いた言葉をかけるべきなんだろうけれど、にはそれが全く思いつかなかった。
 は立ち上がってカバンをかかえる。それにつられてか少年も立ち上がった。自然と向かい合うような形になる。
 そうなって、は初めて気がついた。少年が、自分よりも背が高いことに。
 しゃがんでいたときは、少年が座っていたからまったく気がつかなかったが、予想よりもはるかに高い。彼の顔を見るためには顔を上向かなければならないほどだ。
「…それじゃあ」
 はぺこりと小さく頭を下げると、少年もまた頭を下げた。
 は足を伸ばして、一歩踏み出した。いつもより速い足並みで少年の隣を通り抜けて、小さく安堵の息を吐く。やっと帰路につけることで、少しだけほっとしていた。
「あの!」
 いきなり声をかけられたものだから、はびくりと肩を震わせた。おどおどと振り返ると、少年が電灯の下でを見ていた。
「名前、なんていうん?」
 に聞こえるように、少年が大きめの声で言った。
 今は夜だ。そんな声を出したら近所迷惑になるということを彼はわかっているのだろうかと、は苦笑する。
 名乗るべきか少しだけ躊躇したあと、はどうにでもなれ、と口を開いた。
ー」
 言うと、少年はにかっと笑った。それはもう、嬉しそうに。
ちゃん、ハンカチあんがとなー! 絶対お礼するから!」
 ハンカチが結んである手でぶんぶん腕を振るから、も小さく手を振った。
 それから正面を向いて歩き出し、気になったから後ろを振り返ってみるが、電灯の下にはもう誰もいなかった。
「…そういえば、名前、聞いてないや」
 は小さくぽつんと呟いてから、またあえるだろうという証拠もない確信を信じて、裏路地を小走りで駆け出した。

06/11/12