ココが出かけてからしばらくして降り出した霧雨程度の雨は、やがてぽつぽつと小雨になってきて、僕がきりのいいところまで本を読み終えたころには土砂降りという表現がふさわしいくらい激しいものとなっていた。
ばらばらと地面に叩きつけられるような音を立てて落ちる雫はみるみるうちに庭先に水たまりを作ってしまった。ココが喜んで飛び込んでいきそうなくらい大きな水たまりを窓ガラス越しに見てから、どんよりした曇空を見上げる。ココが出かけてからかれこれ3時間は経っている。晴れている日なら別にたいして心配はしないのだが、こうも雨が強いと話は別だ。
ココはライトのところに行ってくる――つまりはワカバの家に行く、と言っていたが、さっき電話したら『1時間前には家を出たわよ』との返事が返ってきた。ココはどっかで寄り道でもしているんだろう。以前ココが雨の日に遊びに出て、偶然道端で見つけた大きいカタツムリを大変気に入りそのまま後をつけて行って、探しに出た僕が見つけた時はもう暗い時間だった、という事があったばかりだ。やっぱり、捜しにいくべきなんだろうか。そう思ったところで玄関のドアが開く音がした。僕は用意していたタオルとココの着替えを手にしてそっちに向かう。
「ただい、まー」
能天気な声に僕は安堵した。ココがずぶ濡れで玄関先に立っている。びしょ濡れのまま家に上がろうとするのを、僕はあわてて止めた。
「まってまって。身体拭いてから」
「なん、でー?」
「床がびしょびしょになっちゃうだろ?」
「あー、なる、ほどー」
しゃがみ込んで着替えを側に置き、タオルを広げてココを拭こうとしたところで、
「まってくだ、さーい」
「ん?」
くるりと方向転換して、ぱたぱたと外に出て行ってしまった。のもつかの間、すぐに戻ってきた。どっから持ってきたのか、黒く細長い腕をずるずる引っ張って、そのまま玄関に放置する。一瞬マネキンか何かと思ったが、呼吸に合わせて体が上下するそれは人形でもなんでもない、まぎれもない人だ。その人は雨に打たれたせいか全身ずぶ濡れで、赤いほっぺたに茶色い髪が張り付いていた。
「これ、いき、だおれ、…ですかー?」
行き倒れとかどこで覚えたんだとか気になったけどココのことは後にして、濡れて張り付いた前髪をかき分けて額に掌を押し付けた。その人の額は僕の手が冷たいと思えるくらい熱かった。
僕が触れたせいか、その人は小さく身じろぎしてゆるく目を開く。僕が慌てて手を離すと虚ろそうに目を開けたその人は少しだけ口をぱくぱくさせてから、また眼を閉じてぐったりしてしまった。
「ビョーキ、なのー?」
「うん、そうみたいだ。ココ、自分で身体拭ける?」
「ふくー」
「終わったら、それに着替えてね」
「あーい」
僕が指さした場所に畳まれている服を見てから気の抜けるような返事を出すココの頭をなでて、僕は倒れているその人を抱きあげた。見た目女性だから軽いと思ったのだが、思ったより重くて驚いた。が、持てないってわけでもない。というか、髪や衣服が雨に濡れているんだから、そのせいで重いのかもしれない。
リビングに戻り女性をソファに寝かせた後で、バスタオルくらい敷けばよかったかなと思いつつも、まずは着替えさせるべきだと僕は階段を上がって自分の部屋へと行く。窓ガラスにばたばたと叩きつけられる雨の音がリビングよりも大きくて一瞬びくりとなったが、下の階から「セーロー?」というココの声が聞こえて、僕はクローゼットから手頃なシャツとタオルとズボンを取り出して部屋を出る。下の階に下りるとココがソファの周りをうろうろいったりきたりしていた。僕の姿を見るなりこっちに走ってきて、体当たりするように足に抱きついてくる。
「ビョーキって、いたいいたい、ですかー?」
「風邪だから痛くはないとは思うけど…苦しいだろうね」
「くるしーの、やー!」
ココなりに彼女を気遣っているんだろう。僕の足から離れてまたソファの周りをうろうろし始めた。僕もソファに横たわる彼女の側に行き、再度額に手を当てる。かなり熱い。濡れた髪を拭きながら医者を呼ぶべきなのだろうかと迷っていると、ぐったりしている彼女に手を引っ張られた。驚いて息をのむ。体を動かすくらいの気力はあるらしく、彼女が上体を起こそうとするので、慌てて制止した。
「…い、いしゃは、よばないで、ください」
かすれて途切れ途切れな声が妙に痛々しかった。
「こんなに熱があるんじゃ、医者を呼んで薬を貰わないと…」
「わたし…そんなにおかね、もってません…っ」
言って、彼女は糸が切れた人形のようにソファに倒れこんでしまった。気絶してしまったようだ。僕は肺にこれでもかと溜め込んでいた空気を吐き出して、どうしたものかと頭をかいた。
「セロー?」
「ん?」
「こまった、こまった、ですかー?」
「…うーん、そうだね」
掴まれたままの腕を解く際に、彼女の腕にはめられている銀製のバングルがするりと下がった。横向きのまま寝させておくのもあれだろうと思い、あおむけに寝かせる。ソファの背もたれに挟まれた左腕が窮屈そうだったから、僕が握ったままの右手と一緒に彼女のおなかの上に乗せた。
一瞬だけ、きらりと、左手の薬指が光る。何だろうと思って見てみると、そこには何の宝石もはめられていないシンプルなシルバーリングがはめられていた。まさかなあと思いつつ彼女の顔を見る。外見で判断するなら、歳はワカバと大して差はないだろう。
なんというべきか、女性――しかも既婚者の人の服を着替えさせるのはかなり抵抗がある。が、かといって濡れた服のままで放置しておくのもどうかと思うわけで。まあ、家の中で唯一女性のココに着替えを手伝ってもらって、僕の部屋のベッドに運んで、それから医者を呼ぼう。
町医者の先生の話によるとやっぱり風邪、だそうだ。しかし熱は普通の風邪ではありえないくらい高いらしく、3日間は絶対安静と念を押されてしまった。先生いわく、「これで医者を呼んでなかったらきっと死んでいただろう」って深刻そうな顔で言うくらいひどいものらしい。おかげで風邪にしては少し高めな医療費を請求されたが、昨日銀行からお金を引き出してきたばかりだったので支払う分には困らなかった。
「本当に、ありがとうございました」
玄関先で帰り支度をする先生に頭を下げると、先生はにこりと笑顔を見せてくれた。
「いえいえ。それでは、お大事に」
黒い傘を開いて、雨の中を歩き出すその姿が見えなくなるまで僕とココは先生を見送ってから、一息ついてドアを閉め――ようとして、やめた。ドアの傍に大きなリュックが落ちていたからだ。
泥水に汚れた、赤茶色のリュック。多分、彼女のものだろう。手を伸ばして拾い上げると、手にじっとりと水に濡れた布の感触が伝わった。服を汚さないようにそれを持って、家の中へ入るとココがドアを閉めてくれた。
玄関の隅にリュックを置いて、腕を組む。勝手にリュックの中身を出すのはプライバシーの侵害にあたってしまうだろうし、彼女だってそれを望まないはずだ。しかし泥水に濡れたリュックに入れたまま、というのもどうかと思う。
「困ったなあ…」
頬を掻いてから、手が汚れている事に今さら気づき、ほっぺたについているだろう茶色い線を想像し、僕は苦笑するしかなかった。
「困った? 誰が?」
「誰がってそりゃあ…」
ふと、思う。
「あれ? ココ、今喋った?」
「んーん」
ココがぎゅっと目を瞑って、ふるふると首を振る。じゃあ、誰が喋ったんだろうと、恐る恐るリュックを見れば、リュックがもぞもぞと動き始める。驚きのあまり後ずさりして息を呑んでしばらくそれを見守っていると、リュックの口からすっぽーん、という効果音つきで何かが飛び出してきた。勢いのあまりに僕たちの足元でずさーっとこけたそれは、両手で顔面を覆って、ゆっくり立ち上がる。
「いっててて…」
それが頭を揺らすたびに、泥水に汚れた銀髪がふるふると震える。
「うわあ…汚れてら…」
自分の服を見下ろしてから、自分の背中を追いかけてくるくると回りだす――
「…人形」
背中に、申し訳程度に生えた羽が、何よりの証拠だ。
「リルー? いないのー?」
きょろきょろとあたりを見回してから、人形は僕の足をじっと見つめてからはっとした様子で僕を見上げて。
「あ、あんた、誰!?」
「…それは、こっちのセリフかな」
「だ、ねー」
ココが両手を広げて、人形の真似をするようにぐるぐる回り始めた。
枕元で心配そうに彼女の顔を覗き込んでいる人形は、自ら名前をクリスと名乗った。クリスはリルと各地で二人旅をしていると教えてくれたっきり、自分たちのことを全くいわなくなった。
僕といえば、そんなクリスのことを、部屋の椅子に腰掛けて見守っている。ココ以外の人形に会ったのはものすごく久しぶり…いや、会うといっても見かけるのがものすごく久しぶりという意味で、こうやって話すことは小さい頃レインさんのとこの人形と話したっきりだったから、ココとは違う存在の人形が興味深かった。
「セロ、リルは大丈夫なのか?」
僕の名前を呼び捨てにするくらい態度がふてぶてしいが、人形と認識しているので特に気にはならない。
「さっき医者に見せたよ。大丈夫だと思う」
リルが少しだけ小さく唸って、首を動かしてこちら側に顔を向けた。その拍子に額に乗っていたタオルが落ちる。それを直すべく僕が立ち上がると、クリスが僕のほうを見た。
「どうした?」
ベッドの傍まで来ると、物怖じしたのか、クリスがどいてくれた。
「タオル、落ちちゃったからね」
タオルを取って、机の上においてある氷水の入った洗面器にそれを浸してから絞り、またリルの額の上にそれを置いた。
眉尻を下げて心配そうな面持ちのクリスに笑いかけると、クリスは今以上にしょんぼりしてベッドに腰掛けた。かなり心配しているようだ。
リルに視線を戻すと、リルが小さく身じろぎしてうっすら目を開けた。ゆるく瞬きしながら、首を動かして部屋の全景を見たあと、熱でぽーっとしている顔を僕に向けた。
「ここ…どこ?」
「ココ、は、ここにいる、よー?」
「いや…ココは呼ばれてないと思うよ、多分」
「んぁー、そうな、の?」
ココの勘違いに吹き出しそうになるのを何とかこらえて、彼女を見る。
「僕の部屋です。汚くてすみません」
「あ、いえ……こちらこそベッドを占領してしまって…」
「いいんです。ベッドで寝ることなんて稀ですから」
稀、というわけではないが、最近よくリビングのソファで寝てしまっていて、ベッドを使う機会があまりないというのは事実。
「気分はどうですか?」
「ええと…ぼーっとします」
「ああ、いや、そういうことじゃなくて。すみません。聞き方が悪かったですね。頭痛とか吐き気とかはありますか?」
聞きなおすと彼女はやや間をおいてから「ああ」と納得したようにうなずいて、しばし考え込んだあとに。
「頭は痛いです。吐き気はないですね。喉は痛くありません。それと、体を動かすと痛い気がします」
「食欲は?」
聞いた途端、くーっと腹の虫が鳴く音がした。いつもの流れでココを見たけれど、ココは自分じゃないと首をぶんぶん振った。
「すみません、少しだけあります」
あは、と恥ずかしそうに笑う彼女。どうやら彼女のおなかが鳴ったらしい。
「スープは食べれそうですか?」
「はい」
リルは素直に頷いた後、あははと笑いながら、布団を口元まで引っ張って顔半分を隠してしまう。顔がさっきよりも赤い。どうやら人前でお腹が鳴ってしまったのが恥ずかしかったみたいだ。そう考えると何でか口元が緩んでしまう。なんといか、ワカバとは違ったタイプの女性で、斬新といえば、ものすごく斬新だ。
っていうか初対面なのに何考えてるんだよ僕。
「もうすぐお昼だし、ご飯にしましょう。今持ってきますから」
「面目ないです…」
かあああーといった感じで今以上に顔を真っ赤にして、布団で顔全体を隠してしまう。
…恥ずかしがり屋、というやつなのだろうか。
「リルー、よかたーあ!!」
クリスが拙く喋り、布団にボディプレスしようと飛び上がるので、慌ててそれを抱きとめた。
どうやらこの人形も、ココ並みにいたずらっ子気質を備えているようだ。
2008/05/23
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