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 真夜中の屋上に、ぽつんと“それ”は立っていた。
「こんばんは、ミハルくん」
 柵にもたれかかるようにして立っている名前は、ニコニコと笑いながら目の前に立つ少年にそう告げた。少年より一つ年上の名前は、少年の名前を呼ぶとき“壬晴”ではなく“ミハル”とそう呼んだ。これが彼女のクセであり、特徴でもあった。
「なんのよう? こんな夜中に呼び出して」
 少年――壬晴は酷く不機嫌そうにそう告げた。まあ、不機嫌になるのは当然のことだろう。深夜の丑三つ時に、いきなり彼女の式神とやらに叩き起こされ、はてまた自分の通う中学の屋上まで来い、と言われたのだから。しかも「来なかったらどうなるかわかってるよね?」という脅しにも似た言葉のオプションをつけて、だ。
 しかし目の前に立つ名前はいつもと変わらず飄々とした態度でニコニコと笑っていた。さも悪気はありませんといわんばかりに。
「とくに用はないんだけどね。暇だったから」
 壬晴はいっそう、顔をしかめて見せた。そしてくるりと踵を返す。屋上の入り口の重たいドアに手を伸ばしたところで、慌てた様子の名前が壬晴の左腕を掴んでいた。
「嘘! 冗談! ちゃんとした用事あるから!」
 名前がさっきまでいた場所からここまでざっと8メートルくらいはある。壬晴が踵を返して手を伸ばしたその一瞬の間に彼女はこの距離を移動したのだ。やはりこんなのでも忍者だなあ、と壬晴はある意味感心してしまう。彼女は壬晴と同じ、変な力の持ち主なのだと実感させられた。
「まあその。とりあえずこっちに」
 名前は壬晴をそろそろと屋上の中央へ引き連れる。
「絶っ対、ここから動かないでね」
 そう念を押すように言われ、壬晴は渋々うなずく。すると名前はにこりと笑ってから、ぱたぱたと小走りでさっきいた場所に戻っていった。
「何か願い事あったら、ちゃんと考えててねー。一つでもたくさんでもいいから」
 のんきにそういって、名前は親指を口にくわえた。対する壬晴は訝しげな視線を名前に向けてから、小さくため息を吐いて願い事、と小さく呟いた。とくにたいして、思いつくことがない。しいていえば、身体の中にある森羅万象の力が消え去ってほしいということぐらいだ。あとは…皆が普通に幸せでいればそれでいいかな、と考えかけたところで、名前が壬晴に声をかけた。
「いい? いくよー?」
 しゃがみこんだ彼女は血まみれに近い親指を屋上の床近くに固定させて、そう告げた。壬晴は顔をしかめる。どうにも血は苦手だった。
 それを悟ったのか、名前は苦笑する。そして小さく「大丈夫だよ」と笑った。幼い子供をあやすような口調で。
 屋上のコンクリートに、名前の指が触れた。瞬間、名前の周りが光って、風がうなり声を上げる。下から吹き上げる突風に促されるように壬晴は空を見上げた。雲がどんどん流れて消えていく。あたりの林の木がざわざわと騒いで、木の葉を舞い上がらせた。
 そうしているうち、いきなり風がぴたりと止む。草木が死んだように動かなくなった。そんな中で、黒い空だけがぐにゃぐにゃと歪み曲がって、暴れるように動いている。星の形なんて到底見えなくて、なんだか雲行きの怪しい風景に壬晴は目の前の名前を見た。名前はゆっくりと立ち上がって、空を見上げる。彼女の頭の上に、ぽっかり満月が浮かんでいた。
「ミハルくん、願い事ちゃんと考えてなよ」
 柔らかく微笑みながら名前は言って、両手を広げた。途端に空にたくさんの星々が輝きだす。
 そして、動いた。空に浮かんでいた星が、彼女を中心にして落ちていく。流星群というやつなのか、でもそんなちっぽけな言葉では収まりきらなかった。
 光が流れ落ちて、地面に触れると、まぶしい光をはなって、跡形もなく消えていく。壬晴が無意識に手を伸ばすと、そのてのひらに光が落ちてくる。暖かな光を帯びたそれはややあってはじける様に空中に霧散して消えた。
 目の前の名前を見れば、気持ちよさそうに目を閉じて手を広げたまま、満月の下に立っていた。
 正直、きれいだった。壬晴には彼女がこの世の者ではないように思えた。この光のように、そのうち消えてしまうのではないかと思わせるくらい、儚く美しい神聖なものに思えた。
 ふいに、脳裏に宵風の姿がよぎった。彼は、能力を使うたびに寿命を削っていく。彼女もまた似たようなタイプの能力の持ち主だった。天体を操り、未来を予知する――。もしかしたら、今この瞬間の、まるで幻想的なこの景色は、彼女の能力によって作られているのではないのだろうか。
 とりあえず、彼女が消えないように、と願ってから、皆がしあわせになれますようにと、壬晴は空を見上げて、落ちてくる最後の光に願いを託した。


「…けっきょく、自分の命削って、何がしたかったの」
 ぐったりと横になっている名前に、自分のジャケットをかけて、柵にもたれかかった。さっき買ってきた缶コーヒー片手に名前を見下ろすと、にへらと名前は力なく笑った。ジュースを飲む気力はあるのだろうかと小さく考えながら、横になっている名前にスポーツドリンクの缶を渡すと、起き上がってそれを手にした。そして一気に飲み干す。あまりの飲みっぷりに、正直呆れた。
「いや、とくに何もないんだけどね。10月10日だったから」
 どういう理由だよ、と壬晴は呟いてから空を見上げた。そして、コーヒーを飲もうとしたところで小さく「あ」と呟いて固まってから、ややあって名前を見下ろす。
「ほんとは12時きっかりがよかったんだけどね。いかんせん人目あるとやばいからさ」
 あはは、と名前は笑う。
「しかし思えば結構ロマンチストだね。流星群のプレゼントなんてさ」
 見上げてくる名前は柔らかく微笑んでいた。

「誕生日おめでと」

2006/06/08