喉の奥が焼けるようにひりひり痛んで、は思わずむせ返るようにしてベッドの下のバケツに嘔吐した。胃液か薬か解らないその緑色の液体は、もうバケツの半分まで溜まってしまっていた。バケツの中のものを捨てなければ、と思うけれど、身体がだるくて動かなかった。ぜえはあ、と息をしながら、部屋の中央にあるテーブルの上にある風邪薬を睨み見た。どうやらこれもダメだったらしい。次からは買わないようにしようとは思ってから、またバケツの中に胃の中の物を嘔吐した。



 10月10日から一日経った10月11日。昨日久しぶりに能力を使ったせいかの体調は激変し、熱は出るわ食べたら吐くわ鼻水はでるわで見事な風邪を引いてしまったので、市販の薬を買ってきて飲んでみたら、この様になってしまった。は小さい頃から市販の薬に対して免疫があるというか、アレルギーがあるというか、服用すればもれなく倍以上の副作用が発生していた。とはいっても全ての薬に副作用があるわけではなかったので、は今まで飲んだことの無いこの薬を購入してみたわけなのだが。失敗した、と後悔してももう遅い。あと半日はこの状態だろう。
 ティッシュで口の周りを拭いて丸めてゴミ箱に投げ捨てて、羽毛布団を深くかぶって寝返りを打った。静まり返った部屋にチクタクと時計の音が響いている。吐き疲れたせいか、瞼がゆるゆると下がってきた。だがきりきりと胃が痛み出して、一気に眠気から引き戻される。その繰り返しに、はもう疲れているのかすらわからないほどだった。額の脂汗をパジャマの袖で拭うと、ひんやりとした空気が額を撫でて気持ちよかった。と思いかけてから、なぜ風が入ってくるんだとはぴたりと固まってから背後を振り返った。
 黒ずくめの青年がベランダから部屋の中に入ろうとしていた。目深にかぶったキャスケットの奥で、見えずらい彼の瞳が少しだけ嫌そうに歪むのが見えた。手袋をした片方の手で、宵風は口と鼻を覆う。
「くさ…」
「……聞こえてるってば」
 くぐもったような宵風の声に、は苦笑混じりに呟いた。相当デリカシーの無いことを言い放った宵風にいつもなら反論しただろうが、胃液の臭いは相当なものだと自身解っていたし、第一宵風に反論する気力もなかった。
 瞬間、腹が膨れる。喉をせりあがってくる異物に、思わずは目を見開いた。慌ててバケツに顔を寄せると、それと同時に口の中に酸の味が広がった。口を大きく開けてそれを吐き出したあと、はまたむせ返った。苦しさから目尻に涙が溢れる。布団からいきなり出たせいか、寒くて背筋を悪寒が駆け巡った。それに反応したのか、胃液がまた昇ってきて、そしてまた、バケツの中に嘔吐した。
 けほけほ、と咳き込む。その振動で目尻に溢れた涙がバケツの中に吸い込まれるように落ちていった。息を落ち着かせるように静かに呼吸をしていると、そろそろと戸惑いがちに背中を撫でられた。いつの間にか宵風が傍に立っていて、背中をさすっていた。骨ばった冷たい手がパジャマ越しに触れてくる。どうやら手袋をはずしているらしい。
「……大丈夫?」
 うなずくが、その直後にむせ返ってしまった。背中にある手がそろそろと上下に移動する。
「…バケツ、かえたほうがいい?」
 は静かに頷くと、宵風はかぶっていたキャスケットをテーブルの上において、小走りで部屋から出て行った。ややあってから、吐瀉物の溜まったバケツと色違いのバケツと、白いタオル数枚を片手に宵風が戻ってくる。宵風は部屋中の窓を全部開けて、それから新しいバケツをベッドの横に移動させて、吐瀉物の溜まったバケツを持ってまた部屋を出て行った。階下のトイレで水の流れる音がして、それからまたしばらくおいて、氷水を入れた洗面器を抱えた宵風が戻ってきた。宵風はベッドの脇の勉強机にそれを置いて、白いタオルを浸した。冷たさで真っ赤になった指でタオルを絞って、の前髪を梳くように掻き分けて、そっとそれをのせる。熱った肌に触れる冷たいタオルが気持ちよくて、は思わず目を細めた。
「ありがと」
 鼻をすすって、布団を整えながら呟く。宵風が無言でティッシュを差し出してきたので、は無言でそれを受け取って鼻をかいだ。それをゴミ箱に投げて、あらためて宵風を見上げた。いつものごとく、顔色は悪い。どこかに座るように促すと、彼はおとなしくベッドに腰掛けた。
「めずらしいね、わざわざここまで来るなんて」
 鼻をすすりながら言うと、宵風はティッシュを箱ごと投げてよこした。いきなりのことに身体が追いつかず、ティッシュはの鼻っ面に直撃した。角が当たったわけではなかったから、さして痛みはない。は鈍い動作でティッシュ箱を枕の傍に置いて、宵風を見た。珍しく、彼の蒼い目に光が宿っている――のは多分、キャスケットのつばの影がないことと、窓から差し込む日光のせいだろう。眉が微かに寄せられていて、睨むような視線に射抜かれた。
 明らかに、怒っている、気がする。
「…怒ってる?」
 問うと、宵風は顔を背けた。
「怒ってない」
 相変わらずの態度に、は溜息を吐いた。額のタオルが冷たくなくなってきたので、手にとってひっくり返す。そんなに冷たくなくて、内心がっかりした。タオルの上に熱を持つ右手の甲をのせてしばらくしてから離す。改めて自分の手の甲を見ると、人差し指と中指の間に走る血管の途中に内出血を起こしているのが見受けられた。
 ここ最近、自身知らないうちに、内出血をしている箇所が増えてきていた。多分、あと一年しないうちに、多分病院送りになる。そうして、5年か10年後には、苦しみながら死ぬのだ。そう考えて、は自嘲した。自業自得だと言い聞かせて、目を閉じる。
 ベッドのスプリングが軋んだ。宵風がベッドから立ったのか、とぼんやり考えていると、額に乗せられていたタオルの感覚が無くなった。ややあって水の音がしてから、冷たいタオルをのせられる。そっと目を開けて宵風の姿を探すと、宵風がまたさっき座っていた場所に腰をおろしていた。
「宵風」
 声をかけると、少しだけ顔がこちらに向く。は視線を天井に移した。
「正直な話、昨日の夜の流星群、見た?」
「見た。…というか、テレビでも結構、話題になってる」
「…………うそっ!?」
 思わずは勢いよく上体を起こした。それに宵風がびくりを身体を強張らせてから、こちらを見てぽつんと呟く。
「ほんと」
 は一層顔を青ざめさせて、頭を抱えた。なるほど規模が大きかったから体調もこんなに悪くなるわけだ、と一人納得して、宵風を見る。やっぱり、少しだけ、怒っているような顔に見えるし、彼の背負っているオーラが黒いものに感じられた。は俯きがちにボソボソと言い訳を述べた後ごめん、と呟くと、宵風は盛大に溜息を吐いた。
「怒ってないってば」
「だって宵風、なんか怖い」
 布団を掴みながら言うと、宵風が呆れたような視線を送ってくる。
「…確かに、怒ってたかもしれないけど、今はそうじゃないから」
 心持ち優しげな声に、は目を見開いてから、ほんの少しだけ笑った。そして、ぼんやりと窓の外を眺めて、多分宵風が聞きたかったことを、小さく呟いた。
「宵風の未来は、視なかった。――視得なかったよ、わたしの未来も、ミハルくんの未来も」
 解りきっていたことだった。わたしはどうしてか、道で通り過ぎていく人たちの未来は視得るのに、言葉を交わした人たちの未来は全くといっていいほど、視得なかった。どうやら、関心の無い人間にだけこの禁術は働くらしい。そう気づいたのは最近のことだが。
「そう、か」
 宵風がさもありなん、という風に呟いたから、は必然的に目を伏せた。申し訳なさでいっぱいになってくる。膝を立てて布団の上からそれを抱えて、そろそろと口を開いた。
「ごめん」
 宵風は何も言わなかった。ただ、少しだけ目を見開いてから数回瞬きして、それから目を伏せて溜息を吐いた。手を伸ばしてくるから気羅を打ち込まれるのかと条件反射で身をすくめるが、わしゃわしゃと、ぎこちなく頭を撫でられるだけだった。その行動に、今度はこっちが目を見開く番だった。
「なんにせよ、が死んでなくて、よかった」
 ぽかん、と口を開いたまま、は宵風を見つめた。宵風は怪訝そうに首をかしげて見せる。途端にざわわ、と背筋を悪寒が這い上がってきて、は宵風の手を払って熱くなったほっぺたを手で覆い隠した。宵風が人の心配をするなんてありえない、と何度も何度も心の中で呟く。
「宵風、きみ絶対拾い食いとかしたでしょ…」
「するわけないよ。じゃあるまいし」
 馬鹿じゃないの、と語尾にそう付け足して、宵風はそっぽを向いた。自分自身馬鹿なことを聞いたと後悔しつつ、だよねぇとは呟いてから、ベッドに勢いよく背中を預けた。途端に何かがせりあがって来たから、は慌ててバケツのほうに顔を寄せた。口を大きく開けて、胃の中のもの全てをバケツの中に吐き出した。びちゃびちゃ、と水の音を聞きながら、は苦しさからまた瞳を潤ませた。軽く咳き込むと、宵風が背中を撫でてくる。その動きにあわせてまた何かがせりあがってきて、はもういちど、バケツの中に嘔吐した。数回むせてから、宵風が差し出してきたティッシュ数枚を受け取って口を拭く。吐き気がすっきりなくなっていて、変わりに瞼が酷く重たくなってくる。ゆっくり瞬きしながらベッドによこになると、宵風が珍しく気を利かせて布団をかけてくれた。
「多分これで最後だと思う」
「そう。これ、片付ける?」
 宵風はぽつんと呟いて、バケツを指す。
「ううん、起きたら自分でするから」
「…じゃあが眠ったら片付ける」
 なんだそれは、と苦笑したけれど反論する気にはならなかった。宵風はバケツをベッドから離れた場所に移動して、さっきと同じようにベッドに腰掛けた。そして布団からはみ出たの手をきゅうっと握る。指先に広がっている内出血が、の目を引いた。
「…何?」
「安心する?」
「ちょっと視界には痛々しいけど、……まあ、安心する」
 ごろりと寝返りを打って、宵風の冷たい手を両手で包み込むと、宵風がかすかに目を見開いた。
「あったかい?」
「…と思う。……多分」
 多分ってなんだ、とは小さく笑ったけれど、なんとなくわかってしまった。彼は五感が正常に働かないのだ。自分の熱が伝わるように痛くない程度にぎゅーっと握ると、宵風が握り返してきた。なんだか幸せを感じた。

「ん?」
「ありがと」
「ん。……それじゃ、おやすみ」
 目を閉じると、髪をそろそろと撫でられた。ひどく心地がよかった。そういえば、宵風に聞きたい事があったと、思い返す。聞こうと思ったけれど、聞かなくてもいいかと自己完結したあとに少しだけ自嘲した。彼はきっと、流れ星に願いを込めるような人じゃない。

2006/11/01