※毎度の事ですが固定ヒロイン。オリキャラがでしゃばってます。
 バカップル系に耐性ない人は注意。


 ぴんぽんぴんぽんぴんぽん、とやかましいインターホンの音。
 たてつづけに、どんどんどんと扉を叩く、近所迷惑な騒音。
ちゃん? おきてるー? 朝ごはんの時間だよー』
 そうだ。うん。この声は間違いない。隣の部屋の文子先輩だ。
 手を伸ばして枕元に置いた携帯の画面を覗き込む。10時半だった。携帯を投げるように置いて寝返りを打つ。
 …なぜか見慣れた顔があった。
 ベランダを見れば窓が開いていて、春先の冷たい風がひゅうひゅうと入り込み、遮光カーテンが煽られてひらひらとはためいていた。
『入っちゃうよー? いいー? いいよねー?』
 がばっと飛び起きる。
「ああああ開けないでください!」
 慌ててベッドから飛び出し、短い廊下を全力疾走し、ドアにへばりついた。レバーをがっちり握って、片手でなんとかガードアームをかける。安堵した瞬間に、思いっきりレバーを押し下げられドアを開けられた。がちん、とガードアームが鈍い音を立てる。慌てて閉めようとするとドアの隙間に足を差し込まれた。まるでどこぞの悪徳な新聞勧誘だ。
「おはようちゃん今日もいい天気だね」
「は、はい。そうですね」
 ドアを開けたことにより風の通り道ができたせいで、追い風が容赦なく吹いてくる。
「ねえちゃん、どうしてちゃんとドア開けてくれないの?」
 先輩の笑顔が怖い。
「いっいやその、なんというか寝起きだから人様に見せる格好ではないので」
「そうだよね、一応女の子だもんね」
「…一応は余計です」
「朝ごはんできてるんだけど…」
「あの、今日は自分で作ろうかと…」
「あ・さ・ご・は・ん・で・き・て・る・ん・だ・け・ど・な!」
 容赦ない笑顔と華麗なスタッカート。これで怯まない人はいないだろう。
「さ、3分で準備させてください」
 先輩が油断しているスキにドアを閉めて鍵をかける。
ちゃん!? こら開けなさい!』
 レバーががちゃがちゃ引き下げられて、ドアをガンガンと音がするくらい引かれて、ドンドンと拳で叩かれる。先輩はきっといい借金取りになれるだろう。
 部屋に戻って、ベランダに揃えて置かれた靴を取り、窓を閉める。ベッドのそばによって布団を剥ぎ取ると、黒い塊が不満そうに唸って寝返りを打った。そうして寒そうに縮こまる。
「こら宵風、起きろ」
 揺さぶると、『さむい』と、それだけが返ってきた。仕方なく布団をかけてやる。部屋のドアのそばに宵風の靴を置いて、ぱぱっとジャージに着替える。
 ドアの前でスリッパ代わりのサンダルを履いて、魚眼レンズを覗き込む。
 先輩の姿は無い。
 鍵を開けて、ガードアームをはずして、レバーを下げて、ドアを開ける。
「突入ー!」
 ドアを引っ張られて、先輩が乗り込んできた。あっと言うまもなく先輩は部屋の奥へ。何もできずにそのまま硬直していると、後ろから肩をつつかれた。
「…はよ」
 眠たげな目。寮の中で唯一の男子だ。ちなみに名前は友厚。“ともちゃん”という愛称で寮内の女生徒(主に先輩)に弄られまくっている不憫なヤツだ。彼も先輩に無理やり起こされたに違いない。
「おはよ…」
 直後に、悲鳴が聞こえた。


「だからなんにもないですってば…」
 食堂にきてからずっと納豆を練り続ける先輩に何度も話しかけたが、ぜんぜん話を聞いてくれない。
「昨日私と遊んだあとに、一発しっぽりいっちゃったわけね」
「人の部屋のゴミ箱あさっといてそれはないでしょう」
 ちなみに昨日先輩と遊んだっていうのはサターンボンバーマンの事だ。
「つか知り合い?」
 今の今までもくもくとご飯を食べていた友厚が聞いてくる。
「知り合いといえば、知り合いというか」
 寮の中では一番まともな存在の友厚に言うと、はあ、と気の抜けた返事が返ってきた。
「まー、どうでもいいや」
 呟いて食事に戻る友厚。意図して詮索しないでくれたのかよくわからないが、とりあえずここは感謝すべきだろう。週明けに学食で何かジュースでもおごらなくては。
「あ~あ、新学期早々問題が…」
 寮長ということもあってか、頭を抱え始める先輩。そりゃそうだよなあ、部外者連れ込んでたらそりゃ問題だよなあ、と半ば他人事のように考える自分。
「どーせ、言う気ないだろ」
 ぼそっと、友厚の言葉。確かに先輩は生徒内の問題はあまり先生には報告しない。そんな先輩の人情があるから寮での生活はかなり自由だし、だからこそ先輩は学内でも人気だ。何より才色兼備だし。
 …とはいったが、素直に尊敬できるかと聞かれれば、うなずくことはできないけれども。


 朝食を食べ終え、食堂に先輩を一人残し部屋に戻る。部屋の隅の膨らんだベッドを無言で見つめ、布団を剥ぎ取ってやろうと手を伸ばしたが、思いとどまった。いつもならこんくらい近づけば宵風はぱっと起きるのに、今日はなぜか起きない。ということはよっぽど疲れているんだろう。
 彼が何をしているのかは知らないが、けれども多分血なまぐさそうな事をやっているのは予想できる。
 彼はどのくらい人を殺したのだろう。その数はきっと両手で数えるには足らないはずだ。人を殺す瞬間、彼は何を考え何を思うのだろうか。自分は人を殺した事がないので、殺した瞬間にどう思うのか全く予想できない。
 というか人殺しなんてしたくない。
 考えれば考えるほどはまっていきそうで、ぶるりと身体を震わせてベランダに出た。
 身を乗り出してグラウンドを眺める。9時少し前という時間のせいか、部活でグラウンドを使う生徒がちらほらと見受けられた。あと10分もすれば校庭を走り回る運動部の掛け声で煩くなるのだろう。
ちゃーん」
 隣から声が聞こえた。ベランダを部屋ごとに仕切る隔板がノックされる。恐る恐る近寄ると、にゅっと先輩の顔が出てきた。思わず後ずさる。
 いつの間に部屋に戻ってきたんだ、とか、私と友厚が部屋に戻るまでの短時間であの量の飯を食べたのか、とかいろいろ疑問に思ったが、先輩は何でもできる人なのであえて口にはしない。
「こらこら逃げるな」
 にこにこ笑顔で言われれば逆らえる事などできるわけがなく。
「…なんですか?」
 危ないと思いつつも、結局近寄ってしまう。
「そんな警戒しなくてもー…。ね、あの子もう起きた?」
 あの子、というのが誰をさしているのか全く分からない。首を傾げて見せると、だぁーかぁーらぁー! とじれったそうに先輩。
「あの男の子!」
 ああ、と納得。しかし宵風が“男の子”という外見なのか少々疑問に思う。あの身長で男の子は無いだろう男の子は。
「まだ寝てます、けど」
「あっそうよかった! 実はちゃんに相談があるんだけど…」
 伏し目がちになって、それから上目遣いにこっちを見てくる。
「さっきトイレに行ったらその……アレになっちゃってて」
「わかりましたわかりましたちょっと待っててください」
 急いで部屋に戻る。クローゼットの中のプラスチック製の安物チェストの引き出しに手をかけてから、現物を渡すのはどうかと思い、勉強机の上に置かれた鞄からポーチを取り出す。ベランダに出ると困ったように先輩が笑った。
「はい先輩…」
「ありがとう! 実はこの前切れてから買ってなかったの!」
「それ先月も聞きました。ってか今日中にでも買ってきてください必ず」
「はぁい」
 ちろっと舌を出して部屋の中に引っ込む先輩を見送り、溜息吐いてからグラウンドを眺める。部活動が本格的に開始していた。グラウンドを走っている野球部の声が聞こえてくる。野球部顧問が『ちんたら走るな!』と濁声で叫んでいる。数学教師の癖によく運動部の顧問ができるものだとつくづく思う。
 そうして思い出した。数学の宿題が出ていたことに。
「そうだ宿題やらないと…」
 部屋に戻って机に座る。課題として出されていたプリントを鞄から出して広げる。
「……」
 横に並ぶ数字とかっことルートの文字。
 正直、数学は苦手だ。




 いつも不思議だった。なんで自分は時々変な幻覚を見るのか。
 しかも決まってその幻覚と言うのは誰かが死ぬ幻覚だ。車に轢かれて死ぬ、運悪く病気にかかり死ぬ、人に刺されて死ぬ云々。そういった幻覚は子供ながら非常に怖いものであり、よくお父さんに相談していた。
は、人が死ぬのは嫌なのか?」
 確か、小学校で同じクラスの女の子が、道路に出たボールを追いかけて車に轢かれて死んでしまう、という幻覚を見たとお父さんに報告したときだった。
「すごくイヤ」
 顔をしかめながら言う私にお父さんは、
「だよなあ」
 しみじみとそう言った。
「じゃあ、それを変えてみようとか、思わないのか?」
 悪戯っぽく、お父さんが言う。
「思う。思うけど、変えれない」
 そう。そうなのだ。私は動物や人が死ぬのを止めれるのではないのかと、運命に抗えるのではないかと何度も試した。試したけれどやっぱりダメだったのだ。
 自分が見る幻覚には私の存在がないから、私がそこにいれば運命は少しくらい変わるのかと思ったが、それでもちょっとした隙を突かれるみたいに、あれよあれよというまに幻覚どおりに事は進んでしまう。それが腹立たしくもあり、悔しくもある。
「でもな、努力しだいじゃ変えれるんだ」
「どりょく?」
「そう、努力。人間は努力が大切なんだ。、ちょっとついてきな」
 立ち上がるお父さんに、言われるがままついていくと、家の敷地内の隅っこにある、古びた蔵の前につれてこられた。お父さんは無言で蔵の戸をあけ、入り口にある脚立を使い、棚のてっぺんにある箱から丸い棒を私に投げてよこした。
「…まきもの?」
「そう。お前が幻覚を見るチカラの事がいっぱい書いてある、簡単に言えば説明書みたいなものだ。それをがんばって読んで理解すれば、お前は思うが侭に運命を変えることができる…つってもある程度の話な」
 よく意味が分からないがとりあえず頷いておく。
「運命を変えるって事は、お前の命を削るという事になる。自分の寿命が縮んでも、人を助けたいと思うか?」
 じゅみょうがちぢむ、ということは、早く死ぬという事だ。これは理解できる。つまりお父さんが言いたいのは、死ぬと定められた人の運命を無理に変えてしまえば、そのぶんのリスクが自分に返ってくるということだ。
「思うなら、俺も協力するぞ」
 にかっと笑う。私はしばらく考えてから、
「がんばる」
 そう告げた。お父さんが近寄ってきて、頭をぐりぐりとなでまわす。
「ほんとーに、お前はいい子だよ、」
 、という声とともに。

 …ぐらぐらと揺さぶられて。

、起きて」
 ぐらぐら、肩を揺さぶられる。
「お腹すいた」
 稚児のような言葉に、一気に現実に引き戻された。あれれ? と身体を起こすと、無表情ながらも不満そうなオーラを放つ宵風が視界に入る。
「…起きた?」
 どうやら宿題をやりながら寝てしまったらしい。手にはきっちりシャーペンを握っていて、机に伏せて眠ったせいかプリントの上にはヨダレのあとが残っている。その横には眠気と奮闘しながら書かれただろう解読不能な文字。
 壁の時計を見れば3時半。どれだけ眠っていたのだろう。思わずあーあ、といいたくなる。
「おなかすいた」
 宵風の2度目の催促に、気づけば溜息をこぼしていた。
「…冷蔵庫になんか入ってるかも」
 台所の横の小さな冷蔵庫を指差す。
「見た。お茶しかなかった」
 立ち上がる。早足で冷蔵庫の前に立ち、しゃがみ込んで扉を開ける。宵風の言ったとおり、ポットに入ったお茶しかなかった。
「あー…」
 そういえば昨日の夕飯で冷蔵庫にある食材全てを使い切ったことを思い出し、頭を抱えた。そんな事にも気づかなかったのは、自分がうっかりしているというわけではなく、寝起きのせいだと信じたい。
 気づけばいつのまにか宵風が隣にしゃがんでいて、じーっと無言で見つめてくる。
「お・な・か・す・い・た」
 脅しにもとれる宵風の物言いに、なぜかデジャヴを感じた。思わず顔を覆う。
「あのさ」
「…何?」
「宵風さ、朝起きてたでしょ」
「……少しだけ」
 つまり、朝の先輩のやり取りを聞かれていたということだ。いや聞かれて何かまずい事でもあるのかと聞かれれば別にまずくはないのだが、
「お、な、か、す」
「さ、3分ではちょっと無理かなあ…?」
 こういうぶつ切りの言い方をされると、どうにも逆らえないのだ。


 …さて。
 食材が無い、となると料理などできるわけがない。ので仕方なく、買い物に行く事に決めた。
 正直宵風にご飯を作ってあげるのは面倒だし、ここから近い壬晴の家でお好み焼きでもご馳走になれよ、と言いたかったがどのみち買出しには行かなければならないので、ついでだからいいじゃないかと自分でなんとか納得する。学校の近くにスーパーがあるので、そこに向かうべく部屋を出ようとすると、宵風に引き止められた。
「僕も行く」
 宵風の発言にぶっ飛びそうになったが、なんとか平静を保った。
 宵風をつれてスーパーに行くなど、想像するだけでぞっとする。学校を出るには必然的に校門を通らなければならないわけで、もしもそこで先生に見つかったらどうなるのか…考えただけでも恐ろしい。
「いや、一人で行くから」
「僕も行く」
「ほらあの、宵風の手を煩わせるのもあれだし、ね!」
「…僕も行く」
「…ね?」
「……ぼ、く、も、い、く」
「……うん」
 どうやら宵風は変な知恵を身につけたようだ。くっ、と苦虫をつぶしたように吐き捨てて、私はサンダルを履いて廊下に出た。いそいそと靴を履いて宵風もついてくる。
 扉を閉める。鍵はかけない。というか、盗まれるものなど無いので、かける意味が無い。
 足を踏み出したが、宵風はきょろきょろとせわしなくあたりを見回すだけで、一向についてこない。廊下のどこが珍しいんだと呆れたが、そういえば宵風はいつもベランダから出入りしている事を思い出す。
「よいて」
 行くよ、と手招きすると、宵風は無表情でじっとこっちを見てから、とことこという足取りでついてきた。
 最初のころはこういった宵風の不可解な行動に対し、好奇心旺盛な子供の相手をしているようで面倒くさいと思っていたが、付き合っていくうちにもう何も思わなくなった。…慣れって恐ろしい。
 階段を降りて、玄関に出る。棚からスニーカーを出して履きかえる。寮の受付の小窓をのぞいてみたが、管理室には誰もいなかった。今日は運がいいらしい。
 校舎のそばを、並んで歩く。途中、部活動中の生徒とすれ違ったが、生徒は宵風を一瞥しただけで興味なさそうに去っていった。
 そうだよなあ。フツーの人の、他人への関心って、こんなもんだよなあと、ちょっとほっとした。
 それから職員玄関前の校門を出るまで、あの生徒以外には誰にも会わなかった。


 スーパーまでの道のりをとぼとぼ歩く。
 宵風は必要最低限の会話だけしかしない性質だし、私も話し手か聞き手かと区別するなら後者なわけで。宵風もどちらかといえば聞き手なわけだから、こういう場合は必然的に自分が話し手に回らなければ無いのはわかっているのだが…、宵風相手だとそこまでする必要性を全く感じない。
 よって話しかけない。そして無言、というこの状況。
 けれども居心地が悪いというわけではない。
 なんなんだろうなあ、と宵風を見上げれば、視線を感じたのか宵風も見下ろしてきた。
「…何?」
 無表情ながらも、煮え切らないといった感じで聞いてくる。
「別に、」
 なんでもない、とゆっくり首を振る。
「そう」
 ふっ、と小さく息を吐いたかと思うと、興味なさそうに前を向く。いつもどおりの、何を考えているか分からないその整った横顔を見てから、私も視線を戻した。




「あのさあ宵風」
「……」
「ねえ…聞いてる?」
 スーパーの店内に入ってから、宵風はふらふらとお菓子コーナーに行ってしまい、一人で食料品を買わなければならず、青果コーナーでグレープフルーツを買うかオレンジを買うか悩んでいたときだった。
 気づけば片手に下げたかごの中にはスナックお菓子やらいろんなものが紛れ込んでいて。
 宵風が今まさに煎餅の袋を買い物カゴに突っ込もうとしていたものだから、慌ててその腕を掴んだ。
 その無表情には多分悪意というものは全く無いのだろうけど。
「…これは、買いすぎ」
 何度か目をしばたかせてから、宵風は首をかしげて。
「そう?」
 と聞いてくる。ここで突っ込んでは負けなのだ。と自分に言い聞かせて、湧き上がってくる衝動を堪える。
「うん。それに、お金そんなに持ってない」
 宵風は不意を突かれたような、きょとんとした顔をしてから、かごの中を覗き込んで。
 煎餅を投げ入れた。
「こんのばかたれっ」
 もう突っ込まずにはいられなかった。叫んだノリで頭を軽くはたいてから、はっとしてあたりを見回す。
 不振そうに見てくる近所のおばさまたちの視線が、痛い。
 恥ずかしさで自分の顔が熱くなっていくのがわかる。
 気を取り直すためひとつ咳払いしたあと、さも不満そうな宵風と対峙する。
「とりあえず、」
 宵風の眼前に、2本指を立てた右手を突き出して。
「200円までなら許す」
 きっぱり言い切ると、宵風は何か言いたそうな顔をしてから、ふうとひとつ息を吐いて、ふらふらとお菓子コーナーへ飛んでいってしまった。
 ついでだからカゴの中のお菓子も持っていって欲しかったなあと思うが、宵風の後姿は棚の間に隠れてしまった。ああ、無情。


 肉やら魚など、目的の品をカゴの中に突っ込んだあと、とぼとぼとお菓子コーナーに向かえば、どのお菓子を買うか迷っているのか宵風がしゃがみこんでいた。
 近づいて、宵風の隣にカゴを置く。
「決まった?」
「まだ」
 宵風の片手には柿の種、もう片手には白い風船。
 …なんていうか、その、選択が古い。しかもどっちもぎりぎり200円クラスのお菓子だ。だからこそ迷っているのかもしれない。
 宵風がお菓子と睨めっこしている間に、私は私でカゴの中の不要物をせっせと返却する。
 いらないお菓子全てを返却し終わっても、宵風はまだしゃがみこんで悩んでいた。
「…何を悩んでんだか」
 宵風に聞こえない程度の声音で呟き、やれやれと一息つく。宵風のそばに戻っていって、隣にしゃがみこむ。
「やだやだやだあああ」
 遠くでそんなわめき声が聞こえて、びっくりしてそっちを見れば、わめいている子供がいた。その隣には困ったような顔をしている綺麗な女の人。…母親なのだろうか。
 お菓子コーナー、困っている母親、わめき散らす子供。とくれば、大方、子供がお菓子を強請って母親に叱られ、だだをこね始めた、といった感じだろう。周りを見れば子供を迷惑そうに見る客もいる。必死に子供を叱りつけている母親が気の毒で仕方ない。
 宵風を見れば、無表情で子供をじっと見ている。それから、視線を私に移して、これでもかというほど見つめてくる。
 宵風の両手にはそれぞれお菓子があって。
 …嫌な予感がした。
「あのさ宵風…」
「お菓子」
 妙な気迫に気おされそうになる。
「いやあのね、お菓子を食べたいのはわかるけども」
「…お菓子」
「あの子みたいに駄々こねても買いませんよ」
 無表情が少しだけ形を変える。眉間に皺が寄って、ややあってから宵風はぷいっとそっぽを向いてしまった。すねた子供のように俯く。その動作は天然で無意識にやってるのか、それとも芝居なのか判断ができない。
 こういう場合はどうするべきか。
 突き放して、それなりに応じてやるのが自分のサイフにも優しいとはわかっている。
 …わかっているのだけれど。
「お菓子…」
 垂れ下がっていく頭に比例して、伏せがちになっていく瞳。今にも消えてなくなりそうな声。
「やだやだやだああああ」
 子供の駄々をこねる声。
 …眩暈がした。
 身体全体を、何かにグッと掴まれる。強い力で引っ張られ、みるみるうちに景色が遠のく。こうなったら抗うことはできない。目を閉じる。
 間延びする子供の泣き声。ぐらぐらとゆれる足元。無重力の中に浮いている感覚。
 …どうしてこういうときに限って、幻覚が見えてしまうのだろうか。
 目を開ければ、スーパーの入り口の近くの国道沿いに私はいた。
 夕暮れ時、すぐ目の前の横断歩道には、大人と子供。多分、スーパーにいたあの親子だ。
 信号が青に変わる。二人が歩き出す。視界の隅に大型車が飛び込んでくる。
 ……目を背けた。
 両手で顔を覆って、深呼吸する。大丈夫、大丈夫、と自分に何度も言い聞かせる。
、」
 優しく腕を掴まれて。
 途方も無い、およそ人間のものではない力に引っ張られる。あっというまに景色がかすんで、地面に倒れている親子も点になっていき。
「…?」
 はっと身体を大きく震わせれば、スーパーのお菓子コーナーに戻っていた。
 静かに息を飲む。
「どうかした?」
 宵風の声に、首を振る事でなんとか答えた。ひとつ深呼吸のあと、腕を掴む宵風の手を振り払って立ち上がる。ちゃんと地に足がついているのを確認して、安堵する。
 大丈夫、ここは現実だ。怖くない。
、これ」
 宵風が白い風船を差し出してくる。
「…ああ、……うん」
 結局そっちにしたのか。そんな心の声は、口から出さずにあえて呑み込んでおく。
 宵風からお菓子を受け取って、かごの中へ。
「これ、返してくる」
 見せ付けるように柿の種を私に示した後、くるりと方向転換する。のを、コートの裾をつかんで止める。
「待って」
 何? というふうな視線。
「私の分のお菓子、買ってない」
 だからそれをわたしてください、と手を差し出すと、宵風は私の顔と手を見比べて。
「…」
 うれしそうに、少しだけ口元をゆるめた。宵風のこういう顔はなかなかレアなので、たかがお菓子で見れたということに驚きつつも、宵風から柿の種を受け取る。

 ――大丈夫。ここは現実で、幻覚の世界じゃない。




 レジで会計を終えて、スーパーを出る。
 向こう一週間は持つだろう、ってくらい食品を買ったので、重たい袋が二つ。
 ダメもとで袋の片方を宵風に渡してみたら、すんなりと持ってくれた。今日明日にでも何か悪い事が起きるのではないかと思う。

 国道沿いの、あの横断歩道に差し掛かる。運がいいのか悪いのか、青い信号はちかちかと点滅して、赤へと変わった。
 夕暮れの空をぼんやり仰ぎ見る。
 ――どうしろっていうのか、全く。
 右手の中指でジャージ越しに太ももを二回トントンとつっついて、しゃがみこむ。アスファルトを右手の指先で撫でて立ち上がる。
「…?」
 一瞬だけ、ぐらっと視界がぶれたが、目を閉じて一息ついたあと、目蓋を開ければいつもどおりの景色。
 隣を見上げれば、怪訝そうにもとれる宵風の無表情。
「なんでもない。ちょっと眩暈しただけ」
 口元が引きつっていないか心配だったが、大丈夫、うまく笑えている。
「……そう?」
 ゆっくり頷くと、宵風は視線を信号に戻した。いきなりしゃがみこむのは明らかに不自然極まりないものだったとは思うが、もしかしてばれてはいないよなあ、と宵風の顔を盗み見れば、眉間に皺が寄っていて。
 …いやまさか、そんなばかな、と心の中で呟いて視線を信号に戻す。
 信号が青に変わったとたん、手を掴まれる。
「ちょっ…と、…うわ」
 反論する余裕すら与えてくれないほど、大きな歩幅で歩く目の前のひと。
「よいてっ」
 半ば引きずられているような感じで歩きながら――いやむしろ現在進行形で走りながら名前を呼ぶが、宵風は見向きもしない。
「は、はやいってばあ…」
 宵風の早歩きにあわせれるほど、自分の足は長くないわけで。
 学校前の路地――桜並木に差し掛かったところで、宵風の歩調はやっとゆっくりになった。
「い、いきなりどーしたの」
 なんとかそれだけを言って、宵風の手を振り払う。
 ぜえはあ呼吸を整えている私とは対照的に、宵風は息を乱さずいつもどおりなのが悔しい。
「…さくら」
「ん?」
 突拍子もなく話を変えるなあと半ば呆れつつも、宵風を見上げ、宵風の見上げる先――桜の木を見上げる。
 淡い桃色の花をつけた枝がそよ風でゆらゆらと揺れて、ひらひらと花びらを地面に落とす。
「咲いてたんだ」
「ああ…うん」
 小高い丘の上に存在するこの学園は、道なりに桜が植えてある。花見をするには格好の場所で、夜になれば近くの公園で酒盛りが行われていたりするのだ。
 見慣れた風景だったから桜が咲いていようが別になんとも思わなかったので、宵風がそう言うと今さら春だなあと実感してしまう。
「気づかなかった」
「そりゃあ、桜は正門前にしかないからね…」
 ベランダから入ってくれば気づかないのは当たり前だ。
「てか、さっき通ったじゃん」
「ぼーっとしてて、気づかなかった」
「…あ、そ」
 宵風がぼーっとしているのはいつもの事だし、特に気にはならなかった。むしろ彼らしいといえば彼らしいというか。
 無表情で桜の花を見上げる宵風はなかなか絵になるけれども、流石に私も昼飯を食べていないのでお腹がすいてきた。それに今の時間は、部活が終わってさあ帰ろうという生徒が出始める時間帯だ。
 正直言うと、あまり見られたくはない。さっさと寮に戻りたい。
 いつまで待ってればいいんだろうと、俯いて足元の石ころを蹴って遊んでいると、手のひらに何かが触れて、
「何やってんの。早く行こ」
 引っ張られる。なんだか怒る気力が湧かないので、すいませんね、とそれだけ告げて、宵風の手を振り払う。
 歩き出すと、宵風が後ろから追いかけてきて、なぜかまた手を握る。
「あのさ、これ」
 繋いだ手を指し示すと、
「…?」
 宵風は小首を傾げてみせた。女々しい仕草なのに、なぜかサマになっているあたりがほんとにすごい。
 言っても無駄そうなので、無言で振り払うと、すぐさま手を握ってくる。
「いや、あの、…何で?」
「…何が?」
「何がって…何が?」
「??」
 振り払っては握られ、握られては振り払い…そんなやり取りを繰り返し、ふと気付けば既に校門をくぐり抜けていた。
「…?」
 前からの怪訝そうな声に顔を上げれば、そこには自転車を押して歩くクラスメイトもとい友人の姿。
「…やーちゃん」
 見られたくない人に見られてしまった、とのた打ち回りたくなる。やーちゃんもとい八重ちゃんは私と宵風を交互に見比べたあと、じーっと、ある一点を凝視して。
「あー、うん。…ごめん。お邪魔デスネ」
 『それじゃーばいばい』と微笑んで手を振り、自転車にのって、すいーっと桜並木へ。
「…誰?」
「友達…」
 なんだかもう…穴があったら入りたい。
 とぼとぼと宵風と手を繋いだまま寮に戻れば、
「――、さん?」
 受付の小窓から女性の声。『あっやべっ』と思わず口に出てしまい、時既に遅し。
「あのー…そちらは?」
 女性の声、もとい、3月からアルバイトで入ってきた、管理のお手伝いさんが聞いてくる。
「…えー、と」
「お客さんが来るときはちゃんと用紙に記入してくれないと困るんですよ」
「…すみません」
 頭を下げる。玄関の隅に袋を置くと、その傍に宵風も袋を置いた。お手伝いさんが差し出してくる面会用の書類とボールペンを受け取り、泣く泣く記入する。
「まだ?」
 宵風が私のジャージの裾を丸めた手で引っ張って催促してくる。
「…だったら宵風が書いてください…」
「……じゃあ、待ってる」
 名前の記入欄に宵風、と書く。なんかペンネームみたいだ。
 歳? 宵風の歳っていくつだ? 16~20歳? …間を取って18ってことで。

 宵風がちょいちょい、とジャージの裾を強く引っ張ってくる。
「んー?」
「歳、違う。じゅうろく」
「あー、うん」
 18に線を引いて、16に訂正。
 えーと、次は…住所? 知らないので住所不定。
 連絡先など知らないので未記入。
 職業は――無職でいいや。
 出来上がった書類にざっと目を通す。……ホームレス?
「できました」
 書類を差し出す。お手伝いさんは書類に目を通して、わなわなと震えだす。
さん…もしかしてふざけてる?」
「…すみません、本当にすみません」
 そうですよねふざけいらっしゃいますよねこんな書類。お手伝いさんから新たにまっさらな書類を受け取る。
 名前は…適当に自分の苗字とくっつけよう。歳は16。住所と連絡先は自分の家のを書いて…職業どうしよう。
 故郷の風景を思い出す。家の周りには、田んぼ、山、田んぼ、海。…とにもかくにも自然豊かな田舎なのだ。
 あー、農家でいいや。
「すみません、できました」
「…」
 書類を差し出すと、お手伝いさんは不備が無いか上から下まで食い入るように見て、怪訝そうに私を見上げて一言、
「…お兄さんとか?」
「え、いや…」
 お手伝いさんは私の頭と宵風の頭――というか、身長を見比べて。
「なわけないよねえ…」
「…親戚です」
 どうせ背丈の低い遺伝子ですよ、とは言えるわけがなく。
「こういう書類は、前日に提出してもらわないと困ります」
「…すみません。以後気をつけます」
 頭を下げると同時に、寮の入り口が音を立てて開いた。
?」
 顔を上げると、学校の教師。もとい担任。名を七橋といふ。…いや別に混乱してこんな語尾になったわけでは。
「こんにちは」
 ぺこっと頭を下げて言うと、担任は『おう』と返して、寮の受付にでっかい茶封筒を渡した。そしてくるりとこちらを向く。じーっと、隅っこに追いやられたスーパーの袋を見て。
「…買い物帰りか?」
「そんなところでふ」
 あへ、と力ない笑顔を浮かべてみる。担任は宵風に目もくれず、ふうんと呟いて。
「お前さあ、草食だよな?」
「…一応肉食のつもりですけど」
「まーいいからちょっとこっちこい。いいものやるから」
 先生についていくと、ジャージを掴んだまま宵風もぱたぱたとついてくる。
 つれてこられた先は、職員玄関前の、ちょっとした駐車スペース。よくここにタクシーとかが停まっていたりするが、そこに停まっているのは外車もとい黒いディスカバリー。…先生の車だ。
 先生は助手席のドアを開けて、小さなビニール袋を差し出す。中には緑色の、くるんと丸まったうずまきがわんさか。
「こごみ?」
 こごみは愛称みたいなもので、正式名称はクサソテツ、の若芽だ。グロテスクな見た目だが立派な山菜である。
「おー、よくしってんなあ」
 にかっと担任がまぶしい笑顔を浮かべる。
「うちの山でめーっちゃくちゃ採れてさ、先生方に配り終わってもまだ余っちゃって。お前寮じゃ自炊組だろ? だから食うんじゃないかと思ってさ」
 袋の中を覗き込む。独特の青臭さが鼻をつく。
「…ありがとうございます」
 一方的な好意だったけど、正直嬉しかった。
「…嬉しそうだなあ。こごみ好きなのか?」
 黙って頷く。好物を目の前に出されたせいで、頭の中ではおひたしにしようかてんぷらにして食べようか、いろんな案がぐるぐる回っていて。
「…草好きそうな顔してるもんなあ」
「どういう意味ですかそれ」
「仕方ねえなあ、これもやるよ」
 開けっ放しの助手席からまたビニール袋を出して渡してくる。中にはしどけとあざみとうるいのオンパレード。
「んじゃな」
 ぼすぼす、と頭を軽く叩かれる。担任は助手席のドアを閉めたあと、運転席に向かう。かと思いきや踵を返してわざわざ戻ってきて。
「そういやそっち、誰だ?」
 宵風を顎で示す。
「あー…」
 宵風を見上げると、宵風もこっちを見下ろしてくる。
「…親戚です」
「嘘はよくねェぞ」
 一刀両断された。




 部屋に戻ると、当たり前のように先輩と友厚が。
「出てってください」
「いけず!」
 どっから出したのやら、うーっとハンカチを噛み締める先輩。
 …私にプライベートというものはないのだろうか。
「友厚も…」
 出てって、と言おうとしたが、手首に巻かれているビニール紐。それは先輩の手につながっていて。沈んだ面持ちをしているあたりで、まあ何かしらあるとは思ったけれど。
「それなんてプレイ?」
「ちげえよ…」
 ごつんとテーブルに頭を乗っけてうなだれ始める。不憫な子だ。
「…先輩も、飽きないですね」
「だーってともちゃんかわいいもん」
 ねーともたん? うるせーよ先輩。きーっかわいくないー! 傍から見ればほほえましい会話が繰り広げられる。
 とりあえず勉強机の引き出しからハサミを出して、友厚の手首の紐を切って結び目を解く。手首には痛々しい紐のあとが残っていて。
「…なんか勘違いされそうだ」
 友厚がぶつくさと呟く。何も言わず苦笑を浮かべた。
 すると、ちょいちょい、と裾を引っ張られる。
「…ごはん」
「あ、ごめん。今から作るね」
 無表情がちょっとだけ緩む。その顔につられて微笑んでから、床に座っている二人に目を向ければ、ぽかんとしたまま固まっている。
「…こんつわ」
 ぺこり、と友厚が先手切って頭を下げると、宵風は一瞬だけ面食らったような顔をして。
「こんにちは」
 挨拶は棒読みこそすれ、つられてぺこりと頭を下げたあたりは上出来だ。なんというか、宵風が初対面の人と真面目に挨拶を交わしているのはとても珍しい事だと思う。
 しかしこの中で唯一の年長者は、挨拶するどころか、
「そっその子! まだ帰ってないの!?」
 宵風に指差して、わなわなと震える。
「あー、ダメ…ですか?」
「ダメも何も、面会は6時まで!」
 なんか病院の看護婦さんみたいな物言いだ。
「でも、6時までには時間があるし…」
「そ、それはそうだけど。こちとらちゃんにご飯をねだろうと待ってたのに」
「出てってください」
 ぴしゃりと言い放ち、台所の前へ。律儀に宵風もついてくる。
「…座っててもいいよ?」
 ふるふると左右に首を振って。
「手伝う」
 今、彼がなんと言ったのか一瞬理解できなかった。手伝う、と聞こえた気がしないでもない。顎に手を当てて視線を斜め下に逸らしてから、もう一度宵風を見上げれば、いつもの無表情だってのに、なかなかどうして、やる気があるように見える。
「…ん、ありがと」
 わずかに頷くと、宵風の雰囲気が若干柔らかくなった、ように感じる。
 しかし手伝うとはいっても、何をさせるべきなのか。
 包丁を持たせたら血を見る羽目になりそうだし。
「ヤカンにお湯沸かしてくれる?」
 結局はお茶汲み係ということで落ち着かせた。

 春休みにテレビでやっていた、きのこストロガノフを作ってみる事にした。
 米を3合とぐ。4人分だから2合でいいのだが、宵風は人一倍食べるので一応多めに。
 フライパンに牛肉の細切れと細く切った玉ねぎを入れて、しゃもじで炒め――ようとしたが、宵風に任せた。ちゃんとできるか心配だったが、適当に炒めているので特に心配はいらないみたいだ。
 ふと、料理をする子供を心配する母親の気持ちとは、こんなものなのだろうか、と思ってしまう。
 そういえば自分も小さい頃はよくにんじんの皮むきとかをしたものだ。傍でお母さんがそわそわしていたのを思い出して、少しだけ笑ってしまう。
 ブナシメジの根元を切って、ばらばらにほぐす。マッシュルームを適当な大きさに切って、一緒にフライパンの中へ。
「ごはんー! ごはんーまだあー?」
 ばんばんと机を叩く先輩。
 無視しよう。
 トマトにぶすっとフォークをさして、沸騰したヤカンのお湯の中へくぐらせる。それも3個分。
 そのあと水で洗って、皮をむいて、1センチ四方のサイコロ切りに。
「宵風、袋から生クリーム出してくれる?」
「ん」
 とてとて、がさごそ、とてとて。
「…ん」
 差し出された生クリームを受け取る。
「ありがと」
 口をあけて、フライパンの中へ投入。
 じゅわーっといい音がした。
 固形コンソメを二個とトマトを加え、蓋をする。沸騰したヤカンにウーロン茶のパックを入れる。
「できたの?」
「あと10分くらいかな? それにまだ味付けしてないしね」
「…そう」
 静かに、ゆっくり肩をすくめる宵風。
 しょぼん。擬音をつけるならこんな感じかもしれない。
 苦笑して、今日買った食品を冷蔵庫につめこんでいく。
 つめこみ終ってから思ったこと。買いすぎた。
「ごはん…」
 呟いて、壁にもたれ掛かってずるずるとしゃがみ、膝を抱えて座り込む宵風。
 思えば宵風は今日半日以上を寝て過ごしたとはいえ、朝からご飯を食べていない事になる。空腹の度合いは自分の比ではないのだろう。
 袋から最後に取り出したお菓子を冷蔵庫の上に置こうとして、やめた。白い風船の封を開けて、一袋取り出して開ける。さらさらとした手触りの白い煎餅から、甘い香りが漂ってくる。
 夕飯前にお菓子はないだろうに、と思うけれど、とりあえずおつまみ程度と言うことで。
「宵風」
 名前を呼んで彼の前にしゃがみこみ、口の前にそれ差し出すと、宵風はしばらくしてから口を開けて、ぱくっとかじりつく…かと思いきや、手で受け取ってぱかっと二枚にわけてしまう。
「ん」
 その片方を差し出してくる。唇に触れるか触れないかぐらいの距離にある白い煎餅と宵風を見比べて。
 戸惑っている私がじれったいのか、唇に煎餅をちょんちょんとくっつけて。
「…あーん」
 あーんってなんだあーんって。こんなの寮に来てから一度もされた事…そういえばこの前先輩にされたっけ。恥ずかしさもあって戸惑っていたが、先輩に『あーん』されたことを思い出すと、別にどうってことない行為だと自分の中で結論付けて。
 ぱくっとかじりつく。
「おいしい?」
 口の中に広がるミルクの香りと、もたっとした、けれどくせのない柔らかな甘さ。白い風船なんてお菓子は小さい頃はよく食べてたけど、小学校にあがってからは見向きもしなくなって…なんだか数年ぶりに食べた気がする。
 わずかに頷くと、宵風も片方の煎餅にかじりついて、もそもそと口を動かす。
「あー、ずるい!」
 先輩が横から体当たりするように抱きついてくる。このスキンシップの激しさ、どうにかしてほしい。
「わたしもたーべーるー!」
 ばんばんと床を叩く先輩に免じて、仕方なく一袋あげた。
 部屋の奥でテレビを食い入るように見ている友厚の後姿が少し気になる。
「友厚も食べる?」
「甘いの苦手」
 即答された。
ちゃんもう一個! もう一個ちょうだい!」
 ごろにゃーんとしつこくまとわりついてくる先輩をひっぺがして。
「あの、二人とも」
「「ん?」」
「もうちょっとでごはんできるから、食器持ってきてね?」
 言うなり、わーっと部屋から飛び出していく二人。
 それをぽかんと見送った宵風は、不安そうに私を見上げて。
「僕の食器は?」
「ちゃんとあるから」
 …暇だしコンソメスープでも作ろう。




 お皿に盛り付けて、お椀にスープを盛って、円卓を囲んで『いただきます』をしてから数秒後。

「んー?」
「お茶」
「んー」
 宵風専用のマグカップに、ヤカンからお茶を注ぐ。火傷はしない熱さだろうけど、もわもわと湯気の立つコップをじーっと見て、宵風は恐る恐る口をつけた。熱くないと分かったとたん、ごくごくと一気に飲み干してしまう。

「んー?」
「おかわり」
「んー」
 ヤカンを持ち上げて、マグカップにどぼどぼと注ぐ。

「んー」
「これ、なんて名前?」
 中央のお皿にこんもりと盛られたこごみを箸でつまんで口に運んで、もぐもぐと。
 これをもらったとき一緒にいたのになあと思うが、それを指摘する気力はもう枯れ果ててしまっていた。
「こごみ。おいし?」
「ん…」
 醤油をかけただけの味付けだったけれど、宵風はわずかに頷いて、カレーライス的な盛り付け方のきのこストロガノフをがつがつと食べ始める。多分この中で一番食が進んでいるのは彼だろう。
 正直、見ていて飽きない。
ちゃんちゃん」
 向かいからにこにこ顔の先輩の声。
「私にもお茶注いでほしいなっ」
「…自分で注いでください」
 ヤカンを差し出すと、先輩はくきーっと奇声を発しながらのけぞって。
「何この態度の差!? ひどいよちゃん!」
 床に寝転がって、しくしくと泣き出す。いや、泣き真似をし始める。
 確かに今のはひどかったかもしれない。膝立ちになってヤカンを持ち、向かい側の先輩のコップにお茶を注ぐ。
「そうやって甘やかすから先輩が調子に乗るんだよ」
「んー、それはわかってるんだけどね……友厚も飲む?」
「…さんきゅ」
 友厚のコップにお茶を注いで。
 それっきり、無言の食卓になる。
 いつもならキーキーと喚きだす先輩も、それに対し間髪入れず突っ込む友厚も珍しく静かだ。
 多分、宵風がいるせいだろう。
 人見知りとは縁遠そうな性格の二人だが、やっぱり見知らぬ部外者には警戒心を抱くらしい。宵風がとっつきづらい性格だから、という理由もあるのかもしれないけれど。…付き合いがそれなりにある自分でさえ、宵風の突拍子ない行動には時々戸惑うわけで。
 そもそも宵風から友好的な雰囲気が出ていないのが、こういった状況を生み出しているのだろうか。宵風も多分警戒心が強いほうだと思うし。
 考えれば考えるほど頭がこんがらがってくる。
 ――ちょいちょい。袖を引っ張られる。
「わっ!」
 いきなりの事だったから、脊髄反射でびくっと飛び上がってしまう。
「……」
 二人ぶんの視線が集まる。それから逃れるように視線を落として俯き、掴まれたジャージを見てから顔を上げる。
 どことなく、心配そうな宵風の顔。
「…どうかした?」
 自分でも落ち着かない様子だと思いつつ、姿勢を正して首をかしげると。
「ぼーっとしてたから」
 宵風はそれだけ言って、しばらくしてから食事を再開する。
 がつがつとご飯を食べる宵風を見て、正直驚いた。なんでこういうことには、すぐ気がつくのだろうか。本当に、よくわからない存在だ。時々、自分の考えている事全てが彼には垂れ流しになっているのではないかと、不安になる。
 ――不安になったところで、一心にご飯をがっついている姿を見ると、それはないなと安心できるけど。

「ん?」
「ついてる」
 『ごはんつぶ』と言いながら、ほっぺたを掠める手袋の質感。ひょいぱくっという効果音が今にも流れそうなほど、素早い動作だった。
「うわぁ…」
 友厚がげんなりとした声で呟く。先輩も呆然と宵風を見ているし。
 …穴があったら入りたい。




 食事を終えて皆で一息つくと、宵風は欠伸をかみ殺して無言でベッドの中に潜り込んでしまった。一瞬みんなでぽかんとして、顔を見合わせたけれど、結局はいつもどおりの流れに乗って。
 現代文の宿題がある事をふとしたきっかけで思い出し、みんなで円卓を囲みシャーペンを手に取ってから1時間半は軽く経過。私たちの宿題につき合わされている先輩はすっかりだれてしまって、床にごろんと横になっている。
「なあ、これなんて読むの?」
 漢字ばかりがずらっと並んだプリントのある一箇所をシャーペンで示す友厚。
「したせわ?」
 一見賢そうに見える友厚だが、漢字はからっきしだめなのだ。
「げせわ、と読みます」
「…意味は?」
「世間の噂話とか、下品な話とか、そういう意味だったような」
「…へえ、先輩にぴったりだな」
「ちょっと何よそれえ!?」
 がばっと起き上がってから、むすっとした顔のまま、私のほうへ倒れこんでくる。肩に寄りかかられたが、そこまで嫌な気はしないというか。…慣れたのかもしれない。
「先輩、眠いなら部屋に戻ってください」
「やだー今日はちゃんの部屋で寝るー」
 ぶーと口を尖らせて、ごろごろと甘えてくる。
「私にかまうなら、友厚に構ってください」
「いや俺に振るなって」
「ともたんは柔らかくないからやだー」
「…左様でございますか」
 ふう、と一息。というかこの人、こんな事してもまるで抵抗がないのだろうか。まさか真性なのでは…。
「別にレズじゃないもん」
「…ですよね」
 簡単に心を読まれてしまった。もしかしなくても考えている事が顔に出ているのでは。ほっぺたを両手で包み込む。指先の冷たい温度が、熱を帯びたほっぺたに染み込むように伝わって気持ちいい。
ちゃんはわかりやすいもんねー」
 あやすように言われる。
「…ねえ友厚」
「んんー?」
「私ってわかりやすい顔してる?」
「…かなり」
 あの友厚に言われてしまうとは、参った。
 だから、ジャンケンで連敗とかしてしまうのだろうか。

「…うるさい」

 がばっという音とともに毛布がはねのけられて、不機嫌そうなオーラを出す宵風がベッドから降りてきた。
 先ほどの落ち着いた空気を纏わせたのはどこへやら。ぶすっとした顔で、どすどすと私の前までやってくると、
「かえる」
「えっ?」
「か・え・る」
「あ、うん…」
 珍しくも今日は記憶力が人並みなのか、朝の一件を覚えていたらしくぶつ切りで言葉を復唱する宵風。しかもそれにこれ以上ないというぐらいの不機嫌オーラが加わって、さらに逆らえなくなる。いや別に引き止める気は毛頭ないが。
 宵風はどかどかと足音を立てて部屋を横切り、カーテンを開けて窓の鍵をはずして、ベランダに出て靴を履く。それをぽかんと黙って見つめていたが、慌てて立ち上がり窓際へ向かう。後ろのほうで、どたばたと二人が慌て始める音が聞こえたが、見向きする暇はなかった。
「もう真っ暗だから、気をつけてね」
 ひらひら、と手を振ると、宵風はこっちに背を向けたまま、首を少しだけ動かして振り返る。じーっと、睨むように見られている気がして、身体が縮み上がりそうになったのは多分気のせいではないはずだ。
「春だけど、夜はまだ寒いから、風邪ひかないようにね」
 宵風の気迫に気圧され、結局、上辺だけの挨拶のような言葉しか出なかった。
「…それじゃ、またね」
 言い終わると、宵風は顔を前に向けてベランダの手すりに手をかける。
 のだが。
「あっ! 流れ星!」
 先輩が宵風を押しのけてベランダの中央へ。
 確かに、真っ暗な空には周りの星々よりひときわ輝く一筋の流れ星が。

 …まずい。非常にまずい。

「あの、先輩…?」
「あ、あっちにも!」
 『すごいすごいまた流れ星!』と騒ぎだす先輩。
「連続で流れ星か…すっげえ確立」
 背後でぼそっと友厚が呟く。確かに普通ならばすごい確立だろう。
 しかし今日は術を使った。それも二人分。
 ぎぎぎ、と音が鳴りそうな感じで首を動かして宵風を見れば、空をじっと見つめてから、顔をこっちに向けて。
 これでもかというほど、睨みつけてくる。
 …怒っているのだろうか。
 なんにせよ、宵風が珍しく、非常に末恐ろしい面相をしているという事実に、背筋が震え上がった。
 様々な怒声を浴びせられるのも怖いが、無言で睨まれるというのも相応に怖い。こういうときは鞭や牙を引っ込めて、飴やらお菓子を上手に与えて機嫌をとらないと、やばい。後々口を聞いてくれなくなる。
「よ、よいて?」
 言うなり宵風はずかずかとこっちに歩み寄ってきて。
「使ったの?」
 単刀直入に、ずばっと言い放つ。
 ああ、すぐ部屋の中に引っ込めばよかった…と後悔するも、時既に遅し。
「つ…使ってない」
 首を振る。宵風の眉間に皺がよる。
 どうせわかりやすい性格だから、嘘などついてもばれるとわかっていたのに、口をついて出た言葉は、真実とはかけ離れた真逆のものだった。
 宵風はややあってから視線を斜め下にそらして、口元に手を当てて考えるような仕草をしてから。
「信号のとこ?」
 ばっちり言い当てられてしまった。
 抜けているように見えるくせに、どうしてこう鋭いのか。
「…え、何? どしたの?」
 部屋にあがってきた先輩は心配そうに私と宵風を交互に見て。
 問い詰めようとする、宵風のきつい視線。
 もはや何も言うまい。
 無言のまま、やり過ごすこと、およそ1分。
 ようやく諦めたのか、宵風がふうと息を吐いて肩をすくめた。つられて私も一息つくと、先輩や友厚も張り詰めたものが一気に切れたのが、ぐったりと脱力する。
「それじゃ、またね」
 ベランダにいる宵風に笑いかけると、宵風はキャスケットのつばに手をかけ、帽子をかぶりなおして、サッシに手をかける。
 がらがらがら、と窓がゆっくり閉じて。
「まだ、ここにいる」
 ズコーっと先輩。
「もう9時! 9時よ!? 消灯まであと1時間しかないってのに……ばれたら一大事じゃない!」
 叫んでぴょんぴょんと跳ねるように地団駄を踏む先輩。流石先輩、流石寮長、というべきか、やっぱりそういうことには厳しいらしい。
「どうすんの!? とばっちりが私にきたらどうすんのよ!?」
 前言撤回。この人は自分の身を案じているだけだ。寮長や先輩という箔が付いても、やっぱり素直に尊敬できない。
「…宵風」
 もう彼の意思がまるでわからない。何を考えて、どうしてここに残るといったのか、まったく予想がつかない。宵風は自分の意思はめったな事じゃ曲げないし、こうと決めたら必ず実行する。だから、いつもならこんなふうに自分の意思を曲げる事は全くない…というか、ありえないのに。
 とりあえず言える事。自分は今、ひどく混乱している。
「ここにいるって、何時まで?」
 無性に気まずい空気の中、まず思いついたことを聞いてみる。
「わからない」
「わからないって…」
 こっちにも、こっちの都合があるってのに。宵風はそれを分かって言っているのだろうか?
 いや、絶対にわかっていない。
「宵風、あのね、……むごっ」
 口を手袋で覆われた。
 黙れ、と視線で訴えかけられたような気がしたので、渋々口を閉じる。
 そのままの状態で部屋の中を見渡せば、いつの間にか先輩と友厚はいなくなっていて。
 部屋の入り口のほうで、ぱたん、と静かにドアの閉じる音が聞こえる。
 あの二人…逃げたな。
 しばらくして宵風が手を離せば、部屋の中には重苦しい静寂が立ち込めていて。
「…宵風」
 もうどうしたらいいのかわからず、名前を呼ぶと、宵風はじーっと、私を窺うように見てくる。
 困ったような、戸惑ったような、それでいて優しそうな。なんとも表現しにくいその眼差し。
 …もしかしなくても、宵風も困っているのだろうか。
 でも、なぜに?
「…」
 かすかに息を呑む音が聞こえて、一瞬のあとに、宵風は視線を斜め下に向けて。
「…ぃ、…ら」
 うまく聞き取れなかった、小さな呟き。
 宵風の口の動きを思い出し、真似したあと。いやまさか、とその言葉を否定することで終わった。
 感情がない、などと自分から言っているくせに、時たま気が向いたらここにくるのは何故なのか。自分が作ったご飯を美味しいといって食べてくれるのは何故なのか。
 どうして、今さら、気づいてしまったのだろう。
 ――『心配、だから』
 気づきたくは、なかったのに。




 ぶー、ぶー。携帯のバイブレータの音がした。シャーペンを持つ手を休め、傍に置いた携帯を手に取る。
 メールが一通。先輩からだ。
『もうしっぽりいっちゃったのかな?(*`ェ`*)』
 携帯をベッドの上に投げつけて、宿題を再開。ふと、漢字の読み書きのプリントに『げせわな質問をする』、という問題を見つけて、友厚との会話を思い出した。友厚の言うとおり、この単語は先輩にぴったりだ。
 ぶー、ぶー。またバイブレータが鳴り出す。無視し続けると、ほどなくして、隣の部屋の窓が開く音が聞こえた。
 仕方なく、ベランダに足を運ぶ。
「電話したのに出ないってどーいうことよ?」
 隔板から、ちょこっと出た先輩の横顔がすごく不満そうで、思わず笑ってしまう。
「ベランダに『出た』じゃないですか。それにもうすぐ消灯時間ですよ」
 どうせ電話で呼び出されたところで、結局はここで会話する羽目になるのはいつもの事だ。
ちゃんお風呂あがり? いいにおいするー」
 どう返すべきか迷った挙句スルーして、『さっさと寝ましょうね』と言えば、先輩はぷくーっと頬を膨らませて。
「それはこっちのセリフだよー。まだいるのあの子?」
 あの子、とは宵風のことだろう。
「…うーん、それなんですけど、なんか泊まってくみたいで」
 先輩の笑顔が、無表情に変わる。それからまたぷくっと頬を膨らませて。
「ちょっとぉ、シャレになんないじゃないのよー」
「先生にバレたら、連帯責任でお願いします」
 ぷくーっと膨らんだ先輩のほっぺたから、ぷしゅーっと空気が抜けていって。
「もうもう! なんでこんなふうにっちゃうのよー」
 ぺちぺちと、ベランダの柵を叩き始める。
「安息の地がほしーいっ」
「寮にいる時点で無理じゃないですか?」
「そんな事ないもん無理じゃないもん」
 自分に言い聞かせるように、ふんっと意気込む先輩。絶対、頭の中では寮生を素直に言う事を聞く配下に仕立て上げる算段を考えているに違いない。
「…先輩」
 隔板に近寄る。
「今日だけ、大目に見てください」
 一生のお願いなので、と付け足すと、先輩は目を見開いてから、うーっと頭を抱え込んで。
「ずるい。ちゃんずるい。一生のお願いとか、ずるい」
「すみません」
「そんな事微塵も思ってないくせにー」
 先輩は嫌そうな雰囲気を出していても、結局は放っとけない、いわばおひとよしさんなのだ。それを逆手にとってしまったという罪悪感に捕らわれ、仕方なく苦笑する私に、先輩はジト目を向けてくる。
「へんな事聞くけどさあ」
「はい」
「よいて君、だっけ? つき合ってるの?」
 傍目でそういう風に見られていたらしい。自分からすればまるでありえない事なので、思わず噴出してしまった。
 むっとした様子で、先輩が眉を寄せる。
「すみませ…っ、なんか考えたらおかしくて」
 笑いが収まってきたところで、一度だけ咳払いしたあと。
「私と宵風は、別にそういうわけじゃないですよ」
「…えー、うそでしょお?」
「先輩に嘘ついてどーすんですか。何の得にもなりませんて」
「だよねえ…それにちゃん、嘘つけないしね…」
 いちいち余計なお世話だ。と思いつつも、それを否定できない自分がいる。
 どうせ、もう定着したこの性格を変える事はできないのだし、わかりやすい性格で何が悪いと先輩を見れば。
「ごめんごめん。…でもさあ、なんかやっぱ、こう、違うんだよね」
 突拍子もない事を言い出した。
「何が違うんですか?」
ちゃんが、だよ。よいて君といる時と、私たちといる時で比べると、なんか違うんだよねえ」
 …まあ確かに、宵風を甘やかしているような気がしないでもない。
「いや、甘やかす云々の問題じゃなくて…」
 読心術でも持ってるのだろうかこの人は。とりあえず、考えてる事がもろに顔に出ていたらしいので、静かにほっぺたを手で覆った。
「なんとゆーか…こう、安心しきってるよね」
 どういう意味かさっぱりわからない。
ちゃんってさ、警戒心なくなると、無口になるじゃない。返事も『んー』とか『あー』とかになってさ」
 …どういう意味か、ほんとにさっぱり分からない。むしろ、自分の知らなかった一面を指摘され、困惑する。
「なんか、相手にまかせっきりになって、無防備になるっていうか。私が『ひざまくらしてー』って甘えても、『んー』って言って、嫌がらずにしてくれるじゃない?」
「んん?」
 そんな事したっけ? 必死に思い返すが、先輩に膝枕した覚えなどない。よくある先輩お得意の記憶の捏造なんじゃないかと思うが、一心に真面目に語るその顔を見ていると、逆にしたかもしれないと不安になってくる。
ちゃんがその“まかせっきり状態”に変化するまで、私の場合一時間ちかくはかかるけど、よいて君と一緒だとなんかそんなに時間がかからないというか」
「んんん?」
 理解不能すぎて、頭を抱える。
「よいて君も満更じゃなさそうだし、」
 むしろ、認めたくないのかもしれない。
「なんか信頼しきってるよね」
 そういう、関係を。
「私としてはそういうの、嫉妬しちゃうんだけどな」
 にこーっと、先輩。
 正直、からかって言ってるのか、それとも本心から言ってるのか、判断がつかない。
「…どっちに?」
「よいて君に」
「……呼んだ?」
 やっぱこんな見た目でも、隠の世に身をおいているせいか、気配を消す事に関しては人並み以上らしい。
 声に振り返ると、相変わらず何を考えているのか分からない涼しい顔をした宵風がいた。
 髪の毛から落ちた雫が、ぽたりとジャージに染み込んでいく。友厚に借りたジャージだが、二人の身長差は10センチ程度だし、宵風にはぴったりだった。
 …なぜ、首にタオルを巻いているのかはおいといて。
「おわった?」
「見て分かるだろ」
 裸足でベランダにおりてくる。彼は先輩を視界に捕らえたとたん、びくりと固まって。
 しばらくしてから、ぺこりと頭を下げた。
「うわさをすればなんとやら、ってやつかなあ」
 くすくす、と先輩は笑って。
「それじゃあもう寝るね。ちゃんも早く寝るように」
「ん、おやすみなさい」
 言うと、先輩は少しだけ不機嫌そうな面持ちに。
「それだけえ? おやすみのちゅーは?」
 …この人、ほんとに大丈夫なんだろうか。
「先輩、さすがに引くんですけど…」
「ちぇー、冗談なのに」
 猫なで声を上げて子供みたいにぶうと口を尖らせる先輩のおでこを無言で小突いて、反撃される前に一歩後退する。すると先輩は『もー』と不満そうに唸って。
「それじゃおやすみ。…よいて君もね」
 ばいばい、と手を振って、引っ込んでしまう。隣で窓が開く音がしたので、私も宵風の背中を押して部屋の中に引っ込んだ。
 宵風を床に座らせて、クローゼットから乾いたタオルを出す。
「髪、乾かさないとね」
 宵風に言い聞かせるように呟いて、わしゃわしゃと、宵風の髪の毛をタオル越しにかき乱す。そのたびに、ふわりと女物のシャンプーの香りが漂う。友厚にシャンプー一式を借りればよかったかなと思うが、宵風の顔をうかがえば別にさして不満そうではないので、まあいっかと結論付ける。
「ドライヤーかけるよ」
「…うん」
 こくんと頷く。やけに素直だ。
 ドライヤーのスイッチを入れて、髪を乾かす。黙って目を閉じている宵風は、なんだか聞き分けのいい子供のようで、それが少しおかしい。
 しかし、宵風の黒髪をなでていると、なんだかほわほわした気持ちになってくる。手触りが妙に気持ちがいいというか、なんというか。まるで大人しい犬を撫でているようなこの感覚。
 ふと、自分の口元が緩んでいるのに気づき、何をやっているのだろうかと自己嫌悪。
 そうしているうち、あっという間に宵風の髪は乾いてしまった。ドライヤーのスイッチを切って、コンセントを抜きながら宵風の頭をぽんぽんと叩く。
「はい完成」
「ありがとう」
 言いながら宵風はベッドに潜り込む。行動の早さに思わず苦笑した。
 ドライヤーをクローゼットの中にしまって、電気を消す。
 ベッドのそばに寄れば、ベッドの壁側に一人ぶんのスペースが開いていた。
 …そこに寝ろ、という事なのだろうか。…まあいいけど。
 ベッドにのぼって、宵風の身体の上をまたがり、壁際のほうに潜り込む。
「おやすみ」
 宵風の頭の上に手を置くと、宵風が小さく震えて、暗がりの中じっと見上げてくる。そのままの状態でゆっくりなでなで、――宵風は呆れたように溜息ひとつ吐いて、しかし、珍しく口元を綻ばせた。
「…あは、にやけてる」
 からかうように言ってみると、宵風は眉間に皺を寄せてとても嫌そうな顔をした後、寝返りを打ち、こっちに背中を向ける。
「…おやすみ」
 もう一度呟いて、枕元に携帯を置いて布団の中へ。
 宵風に背中を向けて、目を閉じる。
 今日は疲れた。

 ふと疑問がわきあがる。
 …スーパーにいたあの親子は、ちゃんと助かっただろうか。
 ちゃんと星は流れていたし、明日になればわかることだ。それに今まで失敗した事などないし、きっと大丈夫だろう。いやでも、もしもの場合があったら、術の使い損ではないだろうか。そんな“もしも”を考えたところで、もう使ってしまったのだから後戻りはできないのはわかっている。わかっているけれど――。
 くぁ、と欠伸をひとつしたあと、身体を丸める。いつもの癖で、顔の真横に手をもってきて。
 ――あと、どれくらい、こうやって生活できるのだろうか。
 そんな、途方もない事を考える。
 考えたところで、自分の未来が分かるわけじゃないから、考えるのを諦めるのだけれど。
 …もぞもぞ。
 布の音が聞こえた。
 宵風が動いたのかな、とぼんやりした思考の中で考え、さらに身体を丸める。
 ふにょ、とほっぺたにマシュマロみたいなのが触れた。一拍ほどの間をおいて、それから二度三度と、呼吸するようにまた触れる。
「ん…」
 呟いて、くすぐったさから逃れるように、布団に顔をうずめる。
 ――うずめてから、何事かと目を開けた。
 首だけ動かしてそっちを見れば、間近に宵風の顔がある。
「…ぅぇ?」
 驚きのあまり身体がビクッとなった。
 『何してるの?』と聞きたかったが、言葉が出てこない。むしろ答えを聞きたくないのかもしれない。宵風が何をしたのか知らないほうが幸せなんじゃないかとさえ思えてくる。
「…ええと」
 しばし無言のあと。
「眠れない?」
「…」
 聞いてみるが、宵風は黙ったままで。
「むしろ狭かったりする?」
「…」
「私、床で寝ようか?」
「…それは、だめ」
 私が床で寝るのは宵風にとってだめらしい。
 宵風の何かいいたそうな、けれど言えなくて不満そうな、もやもやーっとした雰囲気に少々たじろいでしまう。
「…どうかしたの?」
 やっとの事で声を振り絞ると、宵風はさらに負のオーラを発して、ぼそっと。
「むかつく」
 溜息混じりに呟いて、ころんと横になる宵風。
「…え? な、なに?」
 あからさまに拗ねた様子の背中に話しかけてみるが、無反応。身体を起こして宵風の肩に触れてみるが、とたんに身体を丸めて『触るな』というアピールをされてしまう。
 明らかな拒絶に、仕方なく手を引っ込める。
 何か、宵風の嫌がることをしてしまっただろうか。思いつくことといえば、さっき頭をなでたことくらいだ。いやでもまさかあれでこんなに不機嫌になるとは思うわけがなく。むしろ先輩だって頭を撫でれば尻尾を振って喜ぶし――でも、先輩と宵風は性別はもちろん思考回路も全く違う。やっぱり頭をなでたのはまずかっただろうか。
 もしかしなくても、スーパーの親子の件だろうか。原因としてはそれが一番、ありえそうな気がする。
 頭を抱えて、うーんと唸る。唸っても仕方がないので、横になる。
 目を瞑る。
 もぞもぞ、と布が動いて。
 いきなり、ほっぺたをつねられた。
「っ! …もー、なんなのー?」
 つねられた箇所を手で押さえ込み、いつの間に身体を起こした宵風に『文句があるならはっきりしろー!』と目で訴える。いやむしろ、睨みつけるというのに近いかも。
 すると宵風はばつが悪そうに、あからさまに視線をそらして、こっちに背中を向けて横になる。その丸まった背中から、不満そうな空気が伝わってくる。
 一体全体なんなんだ、とわざとらしく一息ついてみれば。
「からかわれてるのかとおもった」
 ぼそっと、一言。
「…ぁえ?」
 自分でも変な声を出してしまったと思う。
「私が? からかうって誰を?」
「僕を」
「…はあ?」
 全くもって、わけがわからない。
「反撃しても、やり過ごされるから、いらっとした」
「…ええと、」
 反撃? やり過ごす? 一体何の話だ。
 とりあえず言えるのは、私が何かしらいちいち宵風を不快にさせていたらしいということだ。
 正直な話、全く身に覚えがないのだけれど。
「ご、ごめん」
「自分でもわかってないくせに謝られるのもむかつく」
「…すみません」
 あーもうなんなんだ? 宵風は今更お年頃なのか? などと考えながら頭を抱えて、うわーっとのけぞる。
 のけぞってそのままベッドに沈み込み、布団をかぶる。
「でも、ほんっとに、わかんないんだってば。…気づかず宵風に不快な思いさせてたっていうなら、素直に謝ります」
 天井を眺めながら言ったあと、宵風と仲良くなれたのかもしれないと自惚れて馴れ馴れしくしてしまったのが彼にとってはイヤだったのかなあとか、考える。思えば宵風はこういう馴れ合いを嫌うタイプだ。自分から無感情だと豪語するあたり、多分、人との関わりを持つのが根本的に気に食わないんだろう。
 宵風には先輩たちと同じように接してきたが、彼にとってはそれですらかなりの負担だったのかもしれない。
 やっぱり、距離を置いて、宵風を腫れ物のように扱うべきなのだろうか。むしろ、もう関わらないほうがよかったり?
 気まずい空気と、部屋が真っ暗なせいもあってか、考えはどんどんマイナスのほうへ。
、」
 名前を呼ばれて、身体が震えた。
 いつの間にか宵風が寝返りを打って、こっちに顔を向けている。それに気づかないほど、思考に没頭していたようだ。
「う、その、なに?」
 聞いてみると、やや下に視線をそらす宵風。
といるのは、嫌いじゃない」
 さりげなく爆弾を投下しましたこの人。
「いきなりなにを…」
 言ってから、頬を手で包み込む。『ちゃんはわかりやすい性格だから』という先輩の言葉が、頭の中で反響し響きあう。
「…顔に出てましたか」
「うん」
 この宵風にすら考えている事を読み取られるほど、私は本っ当にわかりやすい性格をしているらしい。少しショックだ。
「でも、こどもあつかいは、しないでほしい」
 宵風の、珍しく手袋をはめていない手が、きゅっとシーツを握った。さっきよりも俯きがちになるので、どんな表情をしてるのかわからない。
「…ああ、そういうこと」
「うん」
 宵風を目下に見ているというわけではないが、でも、子ども扱いをしているような自覚はあった。
「でも、宵風のこと、同年代に見れないんですが」
「……」
 無言の圧力。
「…どりょくします」
 宵風の雰囲気が、ふにゃりと和らいで、やっと機嫌が直ったのだとほっとする。

 パジャマの袖を引っ張られる。
 ――というか、こういう風なことするから、同年代として見れないのを彼はわかってるのだろうか。
「今日ので何人目?」
「なにが…って、ああ」
 質問の意味を瞬時に理解し、考える。
 あのスーパーの親子二人ぶんを加えると――
「63人目かな」
「…そう」
 もしかして宵風、これを一番聞きたかったのではないかな、とか思ってみたり。
 …ありえないな。
「あと、どのくらい?」
「わかりませんて、そんな事」
 適当に流して、寝返りを打つ。不満げな空気から逃げるように、布団に顔をうずめて。
「もー、ねむいんだってば」
 きっともうすぐで、ここにいられなくなるんだろうなあと、不吉な事を考える。
 お父さんは32歳でいなくなってしまったが、ひいおばあちゃんは19歳でいなくなってしまったと聞く。その前のひいひいおじいさんは、22歳。そのもっと前のひいひいひいおじいさんは、16歳だったらしい。その差はかなりあるけれど、私がお父さんのように30歳を超えるまで生きていられる自信がない。明日にでもぽっくりいってしまうのではないかと思う。
 今を失うのが怖いけど、仕方ないといえば仕方ないというか。
 考えたところで、くるものはくるし、それに抗うすべを、私は知らないわけで。
 かといっていろんな人を助けた事を後悔しているかと聞かれれば、後悔などするわけない、と胸を張って言える。
 眠いのに、ぼんやりと思考に溺れてしまう。なんだかとても中途半端だ。
 ふにょ、とほっぺたにまたあの感触。
「んー?」
 首を動かしてから、ビクッと固まった。
「…なっ、ちょ、なにを…」
「なにって、おやす「お願いだから黙ってくださいっ!」
 ベランダでの先輩との会話が、頭の中でフラッシュバックする。
 確かにあの時、宵風は私のそばにいて。
 ――『それだけえ? おやすみのちゅーは?』
 もしかしなくても、これが原因か?
 とりあえず宵風の言葉を聴かないようにと、耳をふさぎ、わーわーと叫んで、じたばた。
 こういうのは海外では当たり前の事だろうが、ここは日本で私は根っからの日本人。そんな耐性などついてるわけがない。
「なんで余計な事を覚えちゃうかなあ…」
 困ったように、間近にいる宵風を見れば、してやったり!といったような自信に満ち溢れていた。
「何でそんなに嬉しそうなの…」
「仕返しできたから」
 …仕返しって、なんの?
 そんな疑問を抱える私をよそに、宵風は布団の中に潜り込んでこっちに背中を向けてしまう。
 一体彼が何を思ってこんな事をしたのか、さっぱりわからない。
 溜息ひとつのあと、脱力して、ぐったりと横たわる。
 もういい。こういうのはさっさと忘れて寝てしまうのが一番だ。できるだけ壁際によって、身体を丸める。
 宵風と私の身体の間に隙間ができてすーすーしたが、この際気にしないことにした。
 しばらくそのまま、うつらうつらと船を漕ぎ出せば、
「さむい」
 私の首にこつんと、おでこをくっつけてくる。
 それに伴うように、ふわりと甘い花のようなシャンプーの香り。これが男物のシャンプーの香りだったらどうなっていただろうとちょっと考えてしまう。
「くすぐったいー。はなれてー」
「だってさむい」
 お腹に手を回されて、引き寄せられる。
「もう…」
 眠いのにー、とお腹にのっかった手を引き剥がすために右手を重ねれば、それに指を絡めてくる。その指を解くと、今度は握ってくる。
「もうもう!」
 ――くそう、引き剥がせない。
「もうもうもう」
「…牛のまね?」
「ちがいます…」
 はああと盛大に息を吐いた瞬間、枕元でぶーぶー、とバイブレータが鳴り出した。
「っ、」
 宵風が息を呑んで、握ってる手に一瞬だけ力をこめた。いきなりバイブレータが鳴ったから驚いたようだ。
「宵風、手離して」
 しぶしぶ、といった感じで離してくれる。
 携帯を手にとって開く。メールが一通。先輩からだった。
『声響くから静かにね(^ω^#)』
 直後に、またバイブレータが鳴りだす。通話ボタンを押して耳に当てる。
「なんですか…?」
「このうわきものっ!」
 ぷちっと切れる。
 …なんというか、その、先輩とつきあった覚えはないんですが。
 携帯を閉じて、定位置に戻す。

「んー?」
「て」
「んー」
 手を重ねると、やんわり握ってくる。
 握り返すと、首におでこをこすりつけてくる。
「だからくすぐったいってばー」
 言った直後に、隣の部屋からどぉんと壁を叩かれた。

2008/05/19