差し込む光のまぶしさに耐えきれず、うっすらと目を開けた。
 明るい自分の部屋。どこからか聞こえてくるチュンチュンという雀の声。朝だ。昨晩寝る前にカーテンを閉めたはずだが、こんなにも朝日が差し込んでくるところをみるとどうやら閉め忘れていたらしい。おかげでいつもより早く目が覚めてしまったと思う。枕元の目覚まし時計に手を伸ばしで時刻を見れば、朝の5時ちょっと前だ。やっぱり1時間以上も目覚めが早い。
(眠い……)
 昨日の数学の授業の最後、おれのクラスを担当している数学教師が「明日学力テストするからな」なんて宣告をしたので、夜更かしとまではいかないがいつもより晩くまで起きて勉強をしていた。だからいつも以上に眠気がひどい。ただでさえ隣に寝ているニャンコ先生のいびきがうるさかったりでよく眠れないというのに。だからといって勉強しなければよかったなんて気持ちは起きてはこない。
 二度寝してしまおう。そう決めて寝返りを打ったところで、畳の上を何かがスルスルと移動する音が聞こえた。音はちょうどおれの頭上のあたりで止まり、次に布が擦れるような音が聞こえた。
(なんだ……?)
 ぼうっとする頭で考えるが、上手く思考が纏まらない。うとうとしていると、そっと額に何かが触れた。手だ。それも恐ろしく冷たい。自分の手とはまるで違う柔らかな感触が、するりと撫で上げてくる。ひやりとするのに、何故か暖かく感じる。
(……塔子さんか?)
 親代わりとして自分を引き取ってくれた塔子さんを思い浮かべる。塔子さんの手はいつも水仕事をしているせいで冷たいが、けれども柔らかくて暖かい。あまりの心地よさに目を閉じて、布団をかけなおし身体を丸め、寝直す準備に入る。相変わらず、手はおれの頭を撫でたままだ。
(でも、何で塔子さんが、部屋に……)
 そうして気づいた。今は朝の5時前だという事を。思わずハッとして目を開けた。この時間帯はまだ藤原夫妻は寝ている時間だ。心臓がバクバクと脈打ち始める。こいつは誰だ?という疑問が頭の中でグルグルと回り始める。眠気が吹き飛び、意識がはっきりしてくると、柔らかな声が耳に届いた。
「……夏目様、もう朝ですよ。起きてください」
 その声は明らかにニャンコ先生の声でも塔子さんの声でも滋さんの声でもない。それをきっかけにおれは勢いよく身体を跳ね起こした。隣を見ればつるんとふくよかな腹をさらけ出したニャンコ先生が、スピースピーと呼吸しながら鼻ちょうちんを垂らしていた。まだ寝ている。となればニャンコ先生が変化してあんな事をしたわけではない。
(友人帳がらみの妖怪か――?)
 警戒しながら振り返る。
 ちょうどおれの枕の上に位置するそこには、ちょこんと正座して、きょとんと目を見開いている黒髪の女性がいた。いや、女性というのは見た目がそれなだけであって、恐らくは妖怪の類なのだと思う。現に女性は窓から差し込む朝日を受けているにもかかわらず、あるべきもの――影が伸びていない。
 ごくりと唾を飲み込む。
「誰だ、お前」
 冷たく言い放つと、妖怪はほんの少し悲しそうに眉を下げた後、居住まいを正して、微笑を浮かべた。柔らかなその表情は、やけに寂しげだった。
「影女でございます」


 とりあえず、畳に直に座らせるのは辛いのではないかと座布団を勧め、そこに座るよう促すと、影女は素直にその上に座った。変に意地のある妖怪ではなさそうだ。
「影女とは、これまた珍妙な……」
 その影女の周りを、明らかに珍妙な見た目であるニャンコ先生がぐるぐると回っている。そんなニャンコ先生が気になって仕方ないのか、影女はもじもじしながらおっかなびっくりといった感じで、ニャンコ先生の動きを目で追っていた。その姿を見てなんとなく、木の周りをグルグル回りはじめた虎が回りすぎてバターだかハチミツだかになるという、昔読んだ絵本の内容を思い出した。
「先生、影女って一体何だ? 悪い妖怪か?」
 今しがたまでおれとニャンコ先生が寝ていた布団を畳みながら聞けば、ニャンコ先生の動きがぴたりと止まった。
「ん? ああ、別に害は無いぞ。影女ってのは、妻の役目を果たしてくれる妖でな」
「なんだその、妻の役目を果たすってのは」
「文字通りだ。いいか夏目、これを聞いてもショックを受けるなよ」
 畳んだ布団を持ち上げながら、ニャンコ先生の言葉に耳を傾ける。何やら嫌な予感がしてならない。
「影女というのは、もう明らかに女運の無い男の家や部屋に居つく妖なんだ。そして新妻よろしくいろいろ世話を焼いてくれる。一人身の男の寂しさが具現化してしまったというのが影女の始まりとも聞くな」
 思わずボスっと、部屋の隅に置いたばかりの布団に勢いよく顔をうずめてしまった。
「つまりその、所謂“モテない”男の元に現れる妖だ」
 ニャンコ先生が気まずそうに、ぽつりとつぶやく。
 そうして暫く、無言になる。
「お前、顔はジャニーズ系なのにな、うん。なんというべきか、その。ご愁傷さまだ」
 憐みの眼差しが背中に突き刺さるのがわかる。ゆっくり振り返ればニャンコ先生は短い前足をこすり合わせて、おれに向かって「南無南無」と呟いていた。
「う、うるさいぞニャンコ先生!」
 反論するが、見つめてくるニャンコ先生の眼差しは生温かい。それが尚更癪に障る。
「まあそう気を落とすな! 影女は理想を具現化した姿、つまりこれがお前の理想の女性像なんだ! 影女は何事にも主人を第一に考え、主人に絶対服従。たとえ主人に燃えたぎる火の中に入れ、あぶく沸き立つ熱湯の中に入れ、と命令されても喜んで従う無害な妖なのだ! よかったな夏目!」
 おれを励ますためなのか、それともこの状況を楽しんでいるのか、ニャンコ先生の口調は明るい。
「よくないだろーがっ!!」
 思わず声を張り上げた途端、影女がビクッと大きく身体を震わせた。おれを見上げる彼女の顔には、明らかに怯えが見て取れる。
「す、すまない」
 慌てて謝れば、影女はふるふるっと首を振った後、ほっとしたように微笑んだ。
 あらためて、座布団に正座している影女を見下ろす。胸に届くか届かないかくらいの長さの真っ直ぐな黒髪と、それを強調するような肌の白さが、なんとなく“影女”っぽいと思う。服装は今まで見た妖とは違い和服ではなく、最近の流行に則った一般的な服だ。おまけにエプロンなんかもつけている。ニャンコ先生が理想の女性像などと言っていたが、正直そんな風には全然見えないし思えない。
 そもそもなぜ、こんな妖怪がおれのところに現れたのだろうか。名前を取られたので返してほしいと切羽詰まってるふうでもないし。
「なあ影女。お前、どうしてこの家に来たんだ?」
 できれば元いた場所に帰ってほしいんだが、と続けると、影女は苦笑した。
「私たち影女というものは“寂しい”という情により生まれます。だからこそ影女は自分の意思で生まれてはきませんし、元いた場所なんてものもありません」
 つまり。
「……おれに原因がある、って事か」
 影女が気まずそうに無言になる。無言は肯定とみなすべきだろう。
 ともかく、影女の言う事を信じれば、影女を生みだした原因はおれにあるようだ。しかし自分がいつ寂しいと思ったのか、それがまるでわからない。影女を生みだすほどにまで自分は常日頃寂しいと思っていたのがどうにも意外だった。まるで自分の信じたくない一面を無理やり見せつけられたような感じだ。
(なんか、微妙だな……)
 本当に、まったくもって微妙過ぎる。
「あの、夏目様」
 おずおずと、影女が口を開いた。
「私たち影女は、主人が消えろと望んでもすぐに消える事はできないのです。主人の寂しさが薄れれば、自ずと消えていきます。ですから……」
 ――私が消えるまでほんの少しの間ですので、堪えてくださいませ。悲しそうに眼を伏せながら、影女がそう言った。
 消えるという事は、恐らく死ぬという事。
(……最悪だ)
 影女が最悪なのではない。自分が最悪なのだ。
 影女は主人の命令に絶対服従だとニャンコ先生は言っていた。実際に見た事は無いが、火の中に飛び込めと言われれば喜んで飛び込むくらいなのだから、影女はいわば忠誠心の塊のようなものなんだろう。主人がすべて。主人が世界の中心。そんな影女の主人(多分)である自分といえば、彼女を疎ましがる言動を取った。
「ごめん」
 自然と、そんな言葉が口からこぼれ出ていた。影女の方に近づいて、恐る恐る頭を撫でる。影女の見た目は明らかに自分より年上の女性だったので、頭を撫でるという行為はどうかと思ったが、影女が嬉しそうに笑うのを見れば余計な心配だったようだ。いいえ、気にしていません、と影女が緩く首を振ると、黒髪がさらさらと揺れた。
「影女は疎まれるのが役目なのですよ」
「うんうん、そうして男は必死になって女を作り、そうして影女はいなくなる。というのがセオリーだな」
 ニャンコ先生の言葉に影女が苦笑して頷いた。つまり影女は主人の自立を促す妖怪らしい。
 階下からどっと、笑い声が聞こえてきた。テレビの音だ。藤原夫妻が起きたらしい。ちらりと時計を見れば、いつの間にか、もう学校に行く支度をしなければならない時間になっていた。影女は聞けばそう悪い妖怪には思えないし、見るからに無害そうなので、おれが家にいない間は自由にさせても構わなさそうだ。
「影女、悪いけど話は後だ。おれはこれから学校に行かなきゃならない」
「存じております。帰宅は午後4時以降、で合っていますか?」
 度肝を抜かれた。影女が挙げた4時という時刻はホームルームが終わる時間と一致していたからだ。うちの学校では掃除はホームルーム前に済ますので、ホームルームが終われば部活に所属していない生徒は何かしら用がない場合まっすぐ家に帰ることになる。おれの事だ。
「おれ、そんな事教えたか?」
 おれの記憶には無いが、寝ぼけてうっかりそんな事を口走ったのかと一瞬疑ってしまう。しかし影女はふるふると首を振って見せた。
「いいえ。ですが夏目様のことはなんとなくわかってしまうのです。現に私、夏目様の名前、伺ってませんでしょう? 夏目貴志様、ですよね?」
 あっと口から言葉が漏れた。情けなくもいまさら気づいたからだ。彼女があまりにも自然に、おれのことを夏目様と呼ぶものだから今の今まで気付かなかった。
「何ならお誕生日から好きな食べ物まで挙げて差し上げましょうか?」
「いやいい。そうか、何でも知ってるのか」
 影女とはそういうもの。そう割り切るのは簡単だけれど。
「何だか、怖いな」
 感慨深げに呟けば、影女がふふっと微笑んだ。それも可笑しそうに、笑いを堪えるように口元に手を当てて。
「……冗談、だったか?」
 聞いてみると、影女がこくりと頷いた。
「はい。流石にそこまでは存じておりません。先ほどの帰宅時刻は私の勘で言ってみただけです。影女が主人の事でわかるのはせいぜい、名前と誕生日くらいなものですよ」
 すみません、怖がらせるつもりは無かったのですが。と申し訳なさそうに言うので、おれは慌てて首を振った。
 しかしこうやって話してるとキリがない。床に転がったままの枕を拾い上げ、畳んだ布団の上に投げる。
「とりあえず、顔洗ってご飯食べてくるよ」
 最初声をかけようかどうか迷ったが、影女から「はい、いってらっしゃいませ」と笑顔で返されると、声をかけてよかったと思った。そう思った事で、自分がこの状況に早くもなじんでいる事に気づかされた。何だか複雑だ。
 ごっはん~ごっはん~、なんて鼻歌を歌っているニャンコ先生とともに廊下に出る。階下から漂ってきた朝食の匂いが鼻腔を擽った。階段を降りている最中に、影女はご飯を食べるのか、なんて疑問がわきあがってきた。1階に降りて、塔子さんがいるリビングに顔を出す。ニャンコ先生はおれの足下を素通りして、いつも朝ご飯を食べる定位置にどかっと座り込んだ。
「おはようございます」
「おはよう夏目君」
 食卓テーブルを拭いていた塔子さんに声をかけると、塔子さんは顔を上げてこっちに微笑みかけてきた。
 洗面所に向かい、顔を洗う。洗いながら先ほど湧きあがった疑問について考える。
(ニャンコ先生も他の妖怪も何かしら飲み食いしてたし、影女もそうなのかもしれない)
 タオルで顔を拭いて、そのままリビングに行き食卓に着くのがいつも通りなのだが、影女の事が気になったので、2階の自分の部屋に戻る事にした。
「おかえりなさいませ」
 部屋に入った途端、影女が嬉しそうに声をかけてきた。部屋を出てきたときと全然変わらない体制でそこにいる。
「……えと、ただいま」
 戸惑いながらそう言えば、それがよほど嬉しかったのか、影女はパアッと顔を明るくして「はい!」とおれに笑いかけてきた。
 ふと、彼女はよく笑う事に気付いた。しかも、こんな自分から見ても可愛いと思ってしまうので、なかなか性質が悪い笑顔だ。
「それはそうと影女、きみ、ご飯は食べたりするのか? 食べるのであれば用意するけど」
 用意すると簡単に言ってしまったが、恐らく塔子さんにばれないように彼女に食事を与えるのは恐ろしく難しい所業だろう。かといってもうひとり分多く作ってもらうのも異常だ。何かいい方法はないものかと考えていると、影女がうーんと考え込みだした。
「美味しいと感じこそすれ、私たちには空腹という概念がありません。ですので、食べても食べなくても、そんなに差はありませんが……」
 影女が再度うーんと考え込む。
「夏目様のご飯は、この家のご主人の奥様が作っておられるんですよね?」
「え? うん」
「でしたら、ご遠慮させていただきます」
 あまりにもきっぱり言われるので、呆れを通り越して苦笑がこみあげてきた。
「そうか。塔子さんの料理、美味しいんだけどな」
 食べたくないのであれば、無理して食べさせる必要は無い。しかし人が作る料理を嫌がるって事は、もしかして主人が作った料理しか食べないとか、そういうオチじゃないだろうか。だったらあまりにも嫌過ぎる。
「あの、夏目様。何か勘違いしておられるようですが、塔子様が作る料理を食べたくないというわけではないですよ?」
 影女が苦笑を浮かべた。
「その、私の分のご飯を多く作らせてしまうのも家計の負担になるでしょうし、かといって私が皆様と同じ食卓でご飯を食べれば、たとえ私の姿が夫妻の目に映らなくても、私の口に運ばれるご飯は目に映りますので、異様な光景になります。別の部屋で食べるにしても、それでは夏目様の手を煩わせる事になってしまいますから……」
 影女の声色から、真剣に考えた結果、遠慮という形を取ったのだ言う事が伺い取れる。しかも、自分の親代わりである人たちに迷惑にならないように、という大前提を置いて、だ。
(……ニャンコ先生、頼むからこの姿勢を見習ってくれ)
 恐らく下のリビングで飯をむさぼり食ってるだろう、遠慮知らずのニャンコ先生の姿を想像しながら、そんな事を思った。
「……それじゃあ、もう少ししたら戻ってくるから」
「はい、いってらっしゃいませ」
 影女の言葉を聞きながら部屋を出た。階段を降りながら、「いってらっしゃい」という言葉をこの短時間でどれだけ耳にしただろうかとぼんやり考える。おそらく、ここまでたくさん言われたのは初めてかもしれない。


 朝食を食べ歯を磨き終わり、部屋に戻る最中、ニャンコ先生がこんな事を聞いてきた。
「夏目、“あれ”の名前、聞いたのか?」
 あれとは恐らく影女の事だろう。いや、と首を振ると、ニャンコ先生は一拍の間足を止め、そうか、と呟いてとおれの後ろについてきた。
「先生、影女には名前があるのか?」
「そう思っただけだ。影女はごまんといるからな。皆が皆“影女”と名乗るのでは区別がつかないだろう?」
 確かにそうだ。けれども人の家に憑くのだから外出する機会はないだろうし、たとえそういう機会があったとしても他の家の影女同士が出会うという事が想像できない。というか絶対にあり得ないと断言できる。
「おかえりなさいませ」
 部屋に入ると、影女が予想通りの声をかけてきた。嬉しそうに微笑む影女に苦笑しながらただいまと返事をして、影女の行動に目を思わず見張った。壁の梁におれの制服を着せてあるハンガーを掛けていたからだ。
「影女、それ」
「学校に行くという事は制服に着替えるのではないかと思いまして。ご迷惑でしたか?」
「……あ、いや。ちょっと吃驚して。ありがとう」
 まさかそこまでしてくれる妖怪とは思わなかった。おれがぎこちなく礼を述べれば、影女はまた屈託ない笑顔を浮かべて見せる。本当に性質が悪い。
 影女はおれの制服を一通り出し終えると、また座布団の上にちょこんと正座した。その膝の上にニャンコ先生がどかっと座る。
「おいニャンコ先生」
 いきなり失礼だろと窘めたが、ニャンコ先生は素知らぬ顔だ。
「夏目は私の下僕で、影女は夏目の下僕だ。つまり影女は間接的に私の下僕になる。主人の恩人の椅子になるため膝を貸すのは、下僕として当然の事だろう」
「意味がわからんぞ先生」
 おれが先生の下僕かどうかはさておき、影女の膝の上でふてぶてしく座りこんでいる先生に思わずため息が口から漏れた。先生は本当に遠慮知らずだ。恐らく殊勝な心がけとか、そういった類の言葉は先生の辞書にはないのだろう。すまないな、と先生の無礼を影女に謝ったが、影女は首を振ってただ微笑むだけだ。
 怒ったりとかしないのだろうか、この妖怪は。
 ――……しないだろうな、多分。
「なあ影女、お前、名前はあるのか?」
「名前、ですか?」
「ああ。さっきニャンコ先生と話したんだ。きみに名前があるんじゃないかって」
 パジャマのボタンをはずしながら聞けば、聞かれた影女はきょとんと目を丸くし、それから顎に手を当てて首をかしげ、何やら考え込み始めた。ニャンコ先生も影女の名前が気になるのか、耳を傾けている。
「もしかして名前、ないのか?」
 手を止めるて訝るおれの顔を影女がじっと見つめてくる。すると影女はまさに今閃いちゃいました風な顔をしてポンと両手を合わせた。
「そうですね、なんてどうでしょう?」
 にこにこーっと、影女が笑う。明らかに誤魔化し笑いだ。
「ないんだな?」
「……はい。ご期待に添えず、すみません」
 謝る事のほどでもないんだけどなあと思いつつ、さっきの影女の言葉を反芻した。
、か)
 影女を見下ろす。なかなかどうして、という名前がしっくりきた。
「よし、じゃあこれからきみはだ」
「え? 本当にそれでよろしいんですか?」
「よろしいも何も、きみが自分で決めたんだろう……?」
 呆れから自然と口元が緩んだ。乾いた笑い声が次いで出る。
「その……このような分際の私が自分で名を付け、それを夏目様に呼んでもらうというのが、なんだかおこがましいような気がしまして」
「何でそこまで卑屈になるかな……」
「卑屈とかそういう問題ではありません。夏目様、名は体を表すという言葉をご存知ですか?」
 何やら難しい言葉が出てきた。その言葉の意味を足りない頭で考える。
「……その物の名前はその実態を表している、だっけ?」
「はい、仰るとおりです。だからこそ、影女の私には影女たる名前が相応しいのです」
 正直に言おう。の言葉の意味がおれにはさっぱりわからない。それに彼女が自らと名乗ったのが妙にしっくり来てしまい、自分の中で定着しつつあるから、今さら別の名前を出されてもそれはそれで困る。
 うーんと言いあぐねてしまうおれに痺れを切らしたのか、ニャンコ先生がの膝の上からぴょんと飛び下りた。
「夏目、影女が言いたい事はつまりだな」
 一拍の間のあと。
「下僕――いわば奴隷の分際で自ら名を付けるというのがおこがましい、って事だ」
 下僕とか奴隷という物言いに何か引っかかるものがあったが、突っ込めば話が途切れると思ったのでスルーした。
「ニャンコ様の仰る通りです。夏目様は私の“旦那様”や“主人”でもありますが、それと同時に“親”でもあるのです。生まれたばかりの子が自ら名を名乗る、だなんて、おかしいとは思いませんか?」
「それは自分で何も決める事が出来ない赤ん坊の話だろ? でもは普通に喋れるし自我を持ってるじゃないか。……つーか、“旦那様”ってのはなんだ、“旦那様”ってのは」
「夏目様の事です」
 それはわかっている。でも何で旦那様なんだ。そう口にしたいが奇妙な脱力感にとらわれ言葉が出てこない。
「まあという名前が嫌なら、夏目の主人である私、がお前に名を付けてやろう」
 夏目の主人である私、のあたりを強調しながらニャンコ先生がしゃしゃり出てきた。
「げぼく2号! ……なんてのはどうだ?」
 ――スルーしよう。
「ともかく、きみがと名乗った以上、だ」
「ですが、」
「じゃあしもべ2号!」
「言い方を変えよう。おれはきみにと名乗ってほしい。がいいんだ」
「おいシカトかこら」
 ニャンコ先生が何か喚いているが気にせずに膝を折って、と目線の高さを合わせる。あ……とが小さな声をあげた。目を丸くするの顔をじっと見つめれば、の頬にほんのり朱色が差し込んだ。
(なぜ、照れる……?)
 口角がひくつくのを必死に押さえながら、の返答を黙って待つ。は俯きがちになって思案げな表情を浮かべていたが、しばらくすると顔を上げてまっすぐにおれの目を見て、こくりと小さく頷いてくれた。
「それでは夏目様、これからは影女あらため、と名乗らせていただきます」
「うん、よろしくな、
「はい」
 がはにかむように微笑む。その笑顔につられて頬が緩んだ。
「くそう、夏目め、ただでは済まさんからな!」
 おれに無視されたのが余程癪に障ったのか、ぷりぷり怒りながらニャンコ先生がの膝の上に飛び乗る。
「おいニャンコ、さっきからに失礼だって言ってるだろ」
「ふん、別にこやつは構わなさそうだぞ? というか夏目、先生をつけろ先生を」
 このやろうめ、と嘆きだす先生を無視してパジャマを脱ぐ。を見れば、膝の上に寝転がるニャンコ先生を微笑ましそうに見つめながら、指でニャンコ先生の喉を撫でていた。ニャンコ先生の言うとおりさして気にしていなさそうだ。ニャンコ先生が気持ちよさそうにごろごろ喉を鳴らすのを聞きながら脱いだパジャマを畳みつつ、朝の空気の独特の冷たさに鳥肌を立て身震いし、そうしてふとあることに気付いた。
 おれは今、上半身裸である。
「わっ……」
 おれが声を上げたせいで、ニャンコ先生にかまっていたが顔を上げてしまった。思わず固まるおれを、がじーっと見上げてくる。
 冷や汗が頬を伝う。それに比例するように、顔がだんだん熱くなってくる。
「……お着替え、手伝いましょうか?」
 しかしは首をかしげながら、何だかずれた発言をした。
「それはいいっ! というか、あっち向けあっち!!」
 壁際のほうを指さすが、は本当に何も分からないといった様子だ。けれども切羽詰まったようなおれの剣幕に押されたのか、は戸惑いがちに「わかりました」と言っておれのほうに背中を向けるように座る位置を変えてくれた。ホッとため息を吐く。
「うぶだな」
 ニャンコ先生がボソッと呟く。
「煩いぞ先生」
 初心で何が悪い。心の中で悪態を吐いた。


 なんとか着替えを済ませ、鞄に荷物を詰め込み、玄関に向かう。
「それじゃあいってらっしゃい」
 塔子さんがこうやって見送ってくれるのはいつもの事だが、塔子さんの隣にはの姿がある。
「いってらっしゃいませ夏目様。お気をつけて」
 の声にうっかり反応しそうになって、慌てて口を閉じた。もしも反応してしまえば塔子さんに変な目で見られてしまう。おれが返事をしないことにが不思議そうに首をかしげたが、ややあってから塔子さんの方を見て、そうして苦笑を浮かべた。それっきりは無言になる。
 何だか申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら靴を履き終え、鞄を手に提げ、玄関の引き戸を開けた。
「じゃあいってきます」
 塔子さんが手を振ってくるので振り返す。戸を閉めながらに視線を向ければ、が目を細めて優しげに微笑んでくれた。
 家の敷地から道路に出るると、家の塀の上にニャンコ先生が座っていた。いつの間に外に出ていたのだろうか。まあニャンコ先生が忽然といなくなったりするのはいつもの事だし、気にしたところで仕方がないのだが。
「何やってんだニャンコ先生」
 声をかけるとニャンコ先生は見た目の割に身軽に塀から飛び降りて、おれのとなりに並んだ。
「一応忠告しとくぞ」
「何をだ」
 ニャンコ先生が珍しく神妙なので首をかしげた。
「あまり“あれ”に情をうつすな」
 目を細めてニャンコ先生が言う。見送ってくれたの姿が脳裏をよぎった。
「……わかってるよ」
「本当にわかっとるのか?」
「わかってるさ」
 おれの寂しさが埋まればは消える。だからの寿命は恐らくかなり短い。その間に情が移ってしまえばいずれ訪れる別れが辛くなる。ニャンコ先生はそれを懸念してくれているのだろう。おまけに、いくら友好的で無害そうとはいえ、は妖怪だ。
「そうか。だったらいいんだがな」
 何やら含みのある物言いだ。
「しかし……」
 そうしてボソボソと独り言を始める。
「はっきり言えよニャンコ先生」
「うーん、私の思い違いだったらいいんだがな」
 なんて事をぼやきながら、まっすぐにおれを見上げてくる。
「影女というものは一人身の男の家にしか出ない。この意味がわかるか?」
 おれが自然と足をとめると、ニャンコ先生も足をとめた。ニャンコ先生を見下ろせば、ニャンコ先生はおれを見上げてくる。
「一人暮らしではないお前のもとに影女が出るというのは、異常なのだよ」
 歩き出すニャンコ先生の後ろ姿を眺めながら、何度か瞬きを繰り返した。
(…異常?)
 どうやら影女とは一人身の男――まだ籍を入れていない、もしくは彼女がいない一人暮らしの男の家に現れるようだ。そういう大事な事は朝のときに言えよ。と思ったが、とりあえず置いておく事にする。
 おれには彼女がいないが、一人で暮らしているわけではない。だから影女が現れるのはニャンコ先生曰く異常。……確かに、おれは誰かに常に側にいてほしいと思うほどまで、寂しいとは感じてはいない。藤原夫妻はともかく、口うるさいニャンコ先生だっているし。
 ニャンコ先生の後を追いかけ、隣に並んで歩く。
「まあ、影女は無害なのが“当たり前”だ。だから気にする必要はあるまい」
 ニャンコ先生が語尾を明るくして言うが、その言い方はまるで自分自身に言い聞かせるかのようだ。
「ただし、何かしらの妖怪が影女になりすましている、という可能性は捨てきれないな」
 気をつけろよ夏目、とニャンコ先生がつづけた。ニャンコ先生の言葉に素直に頷き、鞄をもちなおした。友人帳はいつも持ち歩いているから、奪われる心配は無い。
「でも、なんか無害そうだけどな」
 の顔を思い浮かべながらボソッとつぶやく。
「そうやって油断するから、妖につけ込まれるのだ」
 ぐうの音も出なかった。身に覚えがありすぎたからだ。
「心配するに越したことは無いぞ夏目。私もこれから散歩しようかと思っていたが気が変わった。今日はあれを監視しよう」
 ニャンコ先生は今日一日中の監視をするつもりのようだ。
「ありがとな先生」
 礼を述べれば、ニャンコ先生が立ち止まって身震いをはじめた。
「お前に素直に礼を言われると気持ち悪いな」
「そうか。じゃあもう先生には礼を言わない事にするよ」
「何を言うか。目上の者を敬え、称え、崇めよと習わなかったのか」
「目上の者を敬えとは習ったが、称え崇めよとは習ってないな」
 まったく、と思わず口にしてしまう。ニャンコ先生はいつもこうだ。素直にありがとうと言えば気持ち悪いと返ってくるし、かといって何も言わなければ礼の一つくらいよこせとわめきだす。変なところで天邪鬼なのだ。
 しかしニャンコ先生はいつまでついてくるのだろうか。猫に話しかけてるおれは傍から見れば異常だ。これから人通りも多くなってくるし、正直もうついてきてほしくない。無視しようと一瞬思ったが、無視できないのがおれの性分なのだから仕方ない。
「しかしまあ、意外だな」
 ニャンコ先生がぽつりとこぼす。
「年上が趣味だったとはなあ」
 何のことを言ってるんだとおれは眉を寄せながらニャンコ先生を見下ろす。目を細めにやにやとおれを見上げてくるニャンコ先生の顔は相変わらずぶさいくだ。その顔をじっと見つめながらニャンコ先生がニヤニヤと笑う原因を考えるが、すぐに思い当たる節を見つけ、視線をニャンコ先生から逸らして正面に戻した。
「間違っても人妻には手を出すんじゃないぞ夏目」
「んな事あるわけないだろ先生。妄想も大概にしろ」
 ニャンコ先生を横目で見下ろせば、ニャンコ先生がちぇっと呟いて跳ねるように踵を返した。
「つまらん。帰る」
「そうか。じゃあな」
 振り返りもせず言えば、
「くそーっ! 夏目のもやしっ子ー!」
 なんて雄たけびが聞こえてきた。もやしじゃねえ、と心の中で反論する。
 しかし、おれもニャンコ先生も互いに素直じゃないというか。思えば田沼や北本や西村にこんな風に接した事がない。これもニャンコ先生が可愛くないからなせる技なのだろう。来た道を振り返れば、道路の真ん中にちょこんとニャンコ先生が座っていた。まさかニャンコ先生がいるとは思わなかったので、固まってしまう。
「バーカ! アーホ! もやしー! しらすぼしー!」
 そこにこの追撃である。ニャンコ先生はおれより長く生きてるというのに、もはやただの子供だ。呆れて声も出ない。
「じゃあなー先生」
 ここでニャンコ先生を貶せば同レベルになり下がってしまうので、笑って手を振ってやる。それが尚更癪に障ったのか、ニャンコ先生はプイッとそっぽを向いて、尻尾を左右に揺らしながらのしのしと来た道を戻り始めた。
 だめだ。本当に可愛くない。

2009/11/16