※百合注意
「なっつめくーん!」
廊下で田沼と話しているとき、後ろから大声で名前を呼ばれた。その声はすごく聞き覚えがあって、無条件に反応してしまったおれの身体は恐怖でぴしっと固まった。田沼が怪訝そうにおれを見てくるが、おれは何も言えずに苦いものを口元に浮かべながらただ笑うだけだった。
背中にどすんと突進され、前のめりになったおれの首にがばっと腕が巻きついてくる。
「ぐぇっ」
苦しさのあまりアヒルのような声を出してしまった。
「お昼だよー。今日も一緒に食べようよー」
うりうりーと首を絞めてくる声の主は、おれとは違うクラスの同級生だ。という。元気溌剌という言葉を文字通り表したような人柄で、運動神経もよく成績はトップ。男子からも女子からも人気があり、教師たちの人望は厚く、常にクラスの中心にいるような人物だ。とおれは思っている。
「は、はなせよっ」
首元に巻きつく腕を振り払うと、楽しそうな笑い声を上げながらがぱっと後ろへ飛びのいた。その彼女の傍には、おずおずと頼りない空気をまとった少女がいる。黒目がちな大きな瞳に、ゆるく巻いた髪。文字通り可愛い子だ。その少女はけたけた馬鹿みたいに笑っているを不安そうに見上げたあと、ちらっとおれを見て…
――ものすごい形相で睨みつけてきた。
「…何か、あったのか?」
田沼が小さな声で話しかけてくる。
おれは何も言えずに、相変わらず苦笑する事でそれに応えた。
こうなった原因、事の発端は一週間前の放課後。
目の前のと隣の少女――おれと同じクラスの百瀬さくらが教室でキスをしていたのを目撃し、おれが驚きのあまり悲鳴をあげたのがきっかけだった。
いわく「可愛いおにゃのこは全人類の宝」らしい。一重の子も二重の子も髪が長い子も短い子も痩せている子も太っている子も宝、と豪語するだが、その中でも、自分が一番大事にしたいのが百瀬さくらだそうだ。
と百瀬は、オブラートに包んで言えば“女の子が好きな人”だ。包まないではっきり言ってしまえば同性愛者、つまりレズビアンとなる。2人は一般的には迫害対象となる性癖を持っているため、それを隠しながら学校生活を送っていたのだが、運悪くおれに見つかった。
「さくらちゃんはねえ、顔良し性格良し感度良しですくすくエロく育ってるからもう文句なしなの」
が言いながら、自分で作ったという、お世辞にも美味しそうとは言えない不細工なおにぎりを頬張った。そのの隣、にひっつくように座っている百瀬は煙を噴出しそうなくらい顔を真っ赤にして俯いてしまった。
おれたちは中庭の地面に向かい合って座るようにして昼飯を食べている。前まではありえなかった光景だが、今となってはおれの日常と化してしまっている。
「なあ、」
「何? 夏目君」
言いながらは勝手におれの弁当からたこさんウィンナーを取り上げる。文句を言おうかと思った矢先、ウィンナーの代わりとしてなのかが今しがた箸で半分こにしたコロッケをそっと置いた。溜息を吐いて、口を開く。
「おれはお前らの事言いふらしたりなんかしないよ」
「うん、だろうね」
「…だったら、こうやって一緒に弁当食うの、やめないか?」
もともとはおれの口封じのために毎日おれを見かけるたびにが声をかけてきた結果、なんでかこうやって一緒に飯を食う事になったのだ。こっちは別にと百瀬がそういう関係だってはなから言いふらすつもりなんかないし、ましてや関わりたくない。いつまでこいういのを続けなければならないんだろうと思う。
「いやー、夏目君の顔をおかずにしてお弁当を食べるのが楽しみになっちゃってさあ」
でへでへと酔っ払いオヤジみたいな顔をしてそんな事を平然と言ってのけるに、おれは開いた口がふさがらなかった。
「おまえ…」
「ああ勘違いしないで。私は男の子よりも断っ然女の子のほうが好きなの。でもさあ、夏目君て顔綺麗じゃない? しかも嫌がる顔がまたまた可愛くて…」
うっとりとした顔で語り始めるを見て、背筋を悪寒が駆け抜けた。しかも何故か百瀬がおれのことを睨んでくるので、寒気が倍増する。正直怖い。すごい怖い。人間怖い。
それから百瀬はのほうを見て、おれに向けた顔とは打って変わってぷくっと頬を膨らませた、男の保護欲をそそるような顔をして、でれでれしているのわき腹を肘で小突いた。
「ごめんごめん」
が笑って、百瀬のほうに寄りかかって、肩に頭を乗っけた。百瀬が満足そうに微笑む。
くそう。はおれの顔を拝むのが楽しいからおれがこの場にいてもいいだろうけど、おれはこのバカップルを拝みながらご飯なんて食べたくない。盛大に溜息を吐いてふと校舎を見上げると、廊下の窓際に立っておれたちを見下ろす男子生徒の姿があった。そいつの顔をもっと見ようと目を細めると、そいつはふいっと顔をそらしてそこからいなくなってしまった。
こいつらが付き合っているのって、案外、いろんな人にばれているのではないかと思う。
次の日は、朝から土砂降りだった。
その土砂降りの中、朝っぱらからが校庭の隅に生えている木の下にしゃがみこんで何かをしていた。何で遠目から見てだってわかったのかというと、ビニール傘ごしに見えた頭がなんとなくっぽかったからだ。ぶっちゃけると勘だった。
「、何してるんだ?」
聞くと、が傘ごしにおれを見上げてきた。その顔は元気がない。すごく不安そうだ。
「な…夏目くーん」
うえええーと今にも泣き出しそうな声を上げながら、は立ち上がって大事そうに包んだ両手をそっと開いた。奇妙なトゲトゲがタオルハンカチに包まれての手にのっかっている。と思ったら、ちゅん、と泣き声が聞こえた。トゲトゲはもぞもぞと動いている。
「…ヒナ?」
見たところ、羽が生えきっていないスズメのヒナのようだ。
「うん。巣から落ちたみたいで」
言って、が真上の木を指さした。目を凝らしてみると、枝が入り交じった、結構奥まったところに巣のようなものが見える。に視線を戻すと彼女は不安そうに手の中のヒナを見ていた。
足場がないとあの巣には手が届かないだろう。かといって木に登るのも無理そうだ。
「、ちょっとここで待ってて」
言って、小走りで校舎に向かう。確か生徒用玄関に脚立が置かれていたはずだ。
玄関に飛び込んで閉じた傘を傘たてに差し込み、隅に立て置かれた脚立を見つけ、それを肩に抱えてがいた場所に戻ると、は吃驚した顔でおれを見ていた。
「うわっ、どこから持ってきたの?」
「玄関」
言いながらに鞄を預ける。脚立を組み立てるおれが濡れないようにが傘をさしてくれた。脚立を組み立て終わり、からヒナをハンカチごと受け取る。脚立に上ろうとするとが傘を閉じて脚立を支えてくれた。脚立の鉄片まで上って巣を見上げる。手を伸ばせば届きそうだ。
「大丈夫?」
「なんとか」
それだけ告げて、おれはハンカチからヒナを取り上げそっと右手に乗せ、身を乗り出すようにして右手を伸ばした。枯れ草でできた巣からヒナの鳴き声が聞こえる。背伸びして巣の中を覗き込み、他のヒナの上に置かないように、慎重にヒナを巣に返した。
手からヒナの重みがなくなると、自然と安堵の息が漏れる。脚立を降りると、が不安そうにおれを見てくる。
「大丈夫だと思う。…多分」
「多分って何だよう多分って」
は拗ねたように言った後、にかっと笑いながら「ありがとう」とおれに言ってきた。首を振って脚立をたたんでいる最中、がおれに傘をさしてくれた。脚立を肩に抱え、から鞄を受け取ろうとすると、
「玄関まで持ってくよ」
その申し出はありがたかったので、素直に受け入れた。
と傘を共有しながら、玄関までの道のりをとぼとぼと歩く。
「なあ、」
「何?」
周りに人がいないのを確認して、に声をかけた。今から話す内容は流石に人には聞かせられないからだ。
「なんでは、そういう嗜好になったんだ?」
そういう嗜好ってのは、――つまり、そういうことだ。結構曖昧な問いかけになってしまったせいでおれの真意が理解できないのか、はぽかんとした顔をしてから、やっと意味を察したのかははっと笑い飛ばした。
「そうだなあ。話すと長くなるんだけども」
にやーっと、が笑う。何でかおれの身体に寒気が走った。
「…やっぱり、いい。聞きたくない」
身体を震わせながら言うと、は面白そうに笑った。
「こっちに引っ越す前、家の近所に幼馴染のお姉さんがいたの」
いい、と言っているのに、が自慢げに話してくる。耳をふさぎたくとも、脚立を抱えているせいで片方の耳はふさげない。
というか、引っ越す前ってなんだ。
「ってこの町の人じゃないのか?」
「違うよー。生まれたのは別のとこ。んーと、お父さんの方のおじいちゃんちがこの町にあってね、高校に合格したとき“家から通うの大変だから”って私だけおじいちゃんちに引っ越したんだ」
「へえ、そうなのか」
少し意外だった。
「うん。話戻すね。…で、そのお姉さんがすっごい綺麗でね、母性本能の塊とでも言うべきか、もう性格からスタイルまで何もかもが完璧で。…ああ、この人みたいになりたいなあと思っているうちに、好きになっちゃってたんだよ」
あはー、と照れたように笑っている…ようだが、やっぱり酔っ払いオヤジの笑い顔にしか見えない。
「告白したらやんわり断られたけどね」
そりゃそうだろう、と思ったけど口には出さなかった。
「その人とはまだ付き合いがあるのか?」
「あるよー。めでたく入籍したっていうからこの前会いに行った」
「そっか、めでたいな」
それだけ呟いたが、心の中では意外だと思った。普通同姓に告白されたら、告白されたほうは距離を置くものなんじゃないだろうか。つまり、の言うそのお姉さんとやらは、それを許容できるくらい心が広いのだろうか。
玄関について、脚立を元の場所に戻していると、
「夏目君ー!」
なんていう怒りに満ちた叫び声とともに背中を何かで叩かれた。ぼごん、と結構酷い音がしたが、大して痛くはなかった。振り返ると百瀬が鞄を両手で構えてわなわなと震えていた。どうやら鞄で叩かれたらしい。
「こら、暴力はだめ」
が子供を叱るような口調で百瀬に言うと、百瀬はしゅんと俯いてしまった。
百瀬ってもしかしなくても、好きな人とそうじゃない人に対する態度の差が激しいんじゃないかと思う。現におれがそうだ。なんで会って早々鞄で殴られなくちゃいけないんだ。まさかおれとが玄関で仲良く並んで立ってるのを見て一緒に登校したのかと勘違いでもしたのだろうか。考えてからないないと思ったが、嫉妬深そうな百瀬の事を考えればさもありなんという感じだ。
そんな百瀬をたった一言で抑えれるは、多分百瀬に信頼されているのだと思う。逆もまた然りだ。なんだかんだでいいコンビなんだなあと目の前の2人を見ながらそんな事を考えた。
その日の帰り、朝のスズメのヒナが気になって例の木へ行くと、地面にまたヒナが落ちていた。雨に打たれて水を含んだ土に横たわっているヒナはぴくりとも動かなかった。しゃがみこんで触るが反応はない。ヒナは死んでいた。
あの後自分から落ちたのだろうか。それとも親に間引きされたヒナだったのだろうか。後者だったら悲しいなと思いながら、園芸部のスコップを借りて、木の根元にヒナの亡骸を埋めた。近くに転がっている丸い滑らかな石をその上に置いて、傍に生えていたタンポポを供えた。
次の日。休み時間にに話しかけられ、ついでだからヒナのことを話した。
「死んだ」と言った次の瞬間にはは驚いた顔をしたが、ヒナを埋めた事を最後に言うと、は悲しそうに眉を下げて「そっか」と呟くだけだった。
昼休みも相変わらず一緒にご飯を食べたが、だけ浮かない顔をしていた。百瀬が困り果てて「どうしよう」とおれに話題をふったが、おれはすぐに答えられずに思案めいて辺りを見回した。コンクリートの壁を見上げ、2階の廊下側の窓を見て息を呑んだ。一昨日覗き見していただろう男子生徒が、また同じ場所に立っておれたちを見下ろしていた。
目を凝らす。2階にいるということは、下級生という確率は低いはずだ。しかし男子生徒の顔はおれには見覚えがない。どうやら違うクラスのようだ。そんな彼はある一点を睨むように見ていて、視線をたどるとにたどり着いた。は相変わらず落ち込んでいる。また男子生徒を見上げると、相変わらず睨んでいる。
何かいいようのない不快感が腹の底からこみ上げてきた。
「夏目君、どうしたの?」
百瀬が言いながら窓際を見上げると、彼は慌てて窓際から離れていった。
「…? 何かいた?」
「いや…なんでもない」
落ち込んだと、それを睨む男子生徒。
おれの勘違いだろうとは思うけれど、なんだか少し、気味が悪かった。
2009/04/16