その日は朝から曇り空で、昼を過ぎると霙雨がぱたりぱたりと降り落ちていた。
「あらまあ」
夜のことだった。ごつごつした狭く入り組んだ小路の奥まった場所にある、川伝いの荒れ果てる寸前ともいえる屋敷の塀前で、赤い傘を差した女が独り呟いてそっとしゃがみ込んだ。提げていた風呂敷を膝の上に置き、右手の提灯を左手に渡してすっと右腕を伸ばした。白く滑らかな細い腕が着物の袖から伸び、女の指先はこの身に沁みるほどの寒さからか薄らと赤く染まっていた。
「もし」
塀に寄りかかって座っている男がいた。いや男と言うにはまだあどけない顔立ちをしている。青年といったところだろうか、彼の濃紺の着物は霙雨に打たれ濡れそぼっており、血泥に汚れていた。男は目を閉じたままぴくりとも動かない。肩に女の手が触れても、死んだように其処にいた。
辺りに人影はない。灯りは女が持っている提灯の灯りだけだ。小路の先の大通りのほうからガス灯の明かりがほのかに届き、さざめく声が聞こえるような気がする。
「もし、そこのお方」
女がやや乱暴に肩を揺さぶると、やっと青年が目を開けた。うつろな目で女を見つめる。その目の色は、左右ともに違う色をしていたので、女は息を呑んで青年の肩から手を離した。青年は何度か瞬きをして身体を起こした。
「こんな所で何をなさってるんです。危なっかしい」
女が呆れたように呟くが、青年は聞いていないのか辺りを見回すだけだった。乱れた前髪を掻き上げて、青年が立ち上がる。それに釣られて、女もすくっと立ち上がった。
「あの、無理しなさらないほうが」
女が青年に声をかけるのとほぼ同時に、青年は前につんのめって女のほうへ倒れた。女が慌てて青年を抱きとめると、地面に風呂敷の包みと提灯が落ちた。
「…言わんこっちゃないですよ」
はァ、と溜息をついて、女は青年の片腕を自分の首に回した。そのまま支えながら、半ば青年を引きずるように歩き、すぐそばの荒れ果てた屋敷の門をくぐった。支えながら引き戸に手をかけると、戸はすんなりと開け放たれた。鍵を掛けていなかったのだ。
「こんな家でも雨宿りくらいにはなるから、あがりなさいな。礼はいらないですよ」
青年は返事をしないが、小さく頷いたように見えた。
外に散らかしたままの提灯と風呂敷を玄関に置き、行灯の蝋燭に火を灯した女は、安堵の息を吐いて、座敷に寝頃がせたまま放っときっ放しの青年に歩み寄った。息はあるが、時折苦しそうに呻くので、医者を呼ぼうかと声をかけたが、青年は黙ったまま首を振った。女は襖の縁に寄りかかり、じいっと青年を見下ろしている。この青年をどうしたらいいのか分からない様子だった。
「…全く」
軽やかな足取りで座敷を後にし、ややあって男物の着物と手拭いを二つほど抱えて戻ってきた。寝転がせた青年の頬を優しくはたき、身体を起こすよう促すと、青年は渋々と身体を起こした。女が青年の着物を抑えている帯を掴んだが、青年は抵抗しなかった。
「脱がせるからね」
青年がゆるく頷く。帯を解き襟を下げると、青痣ばかりの胸板が露になった。何かで切られたのか切り傷から血がにじんでいる。
「…痛まないの?」
赤い指先が青年の傷口を撫でると、青年が眉を寄せて身体を震わせた。
「痛むなら痛むと言ったらどうなの。その口は飾り?」
怒気を孕んだ言葉に気圧されたのか、青年が観念したように息を吐いた。閉じたままだった唇をゆるく開く。
「痛みます。すごく」
「そう」
女がにっこり微笑んで青年の着物を脱がし、自分が持ってきた着物を青年に羽織らせた。帯を結んでやり、持ってきた手拭いで濡れた青年の髪を拭き始めた。腰まで届くほどの後ろ毛を吹き終わり、ふうと一息つく。
「どんのくらい悪い事をしたら、こんな目にあうのかしら」
と呟いて、新しい手拭いで青年の顔を拭いた。しかし腫れた頬を避けながら。
「あなた、女みたいに髪が長いのね。それにまあ、香水の良い匂いもするし」
そう女がからかうように言うと、青年は眉を寄せて俯いて見せた。その際に横に流していた前髪がぱらぱらと落ちてくる。顔全てを覆い隠してしまうほど長い前髪を耳に掛けてやりながら、女はじいと顔を見つめて、小首をかしげて見せる。
「…男娼の方?」
聞かれた青年が、びくりと身体を震わせた。顔をしかめて、女から顔をそらした。
「なるほど、たしかに綺麗な顔してるものね」
女は納得納得、と独り呟きながら、汚れた手拭いと着物をまとめて抱え上げ、近くの籠の中に突っ込んだ。
「何処に住んでいるの? 家には帰れそう?」
青年のほうに戻りながら、女は青年に問うたが、青年はだんまりしたままだ。
「そのお口はお飾りかな」
青年の前にしゃがみ込み、人差し指の腹でちょんと男の下唇をつつくと、青年が口を開いた。
「とある女性の方の家にて、お世話になっていました」
女は目を丸くした。
「もしかしなくてもあなた、若い燕とかいう奴だったりするのかしら」
「…恐らくは、そういう類に入るでしょう」
気まずそうに青年が言うので、女は噴出した。
「なるほど。大方、その人の旦那さまにばれて追い出されたのでしょう?」
それが図星だったのか、何も言わず青年は目をそらした。
「まあ、深追いはしないよ。悪かったね」
青年の頭を一撫でして立ち上がり、行灯を片手に持ち、青年の肩を何度か叩いた。
「おいで。布団に案内するから」
にっこり笑われて、青年は渋々といった感じで立ち上がった。のだが安定せず、ふらりふらりと左右に揺れている。女が青年の腕を取って自分の首に回してやると、先ほどと同じように青年は女の身体にもたれかかるようになる。
「すみません」
「ううん、いいの」
それだけ言って、おぼつかない足取りの青年を支えながら襖を空けた先、床に敷かれた煎餅布団まで来ると、青年をその上に座らせた。朝から敷いたままになっている、女が毎日使っていた布団だったが、押入れに詰め込まれたままたっぷり湿気を含んだ布団よりはいくらかましだろう。行灯を布団のそばに置き、掛け布団をめくって青年を寝かせ、布団を掛けてやると、青年は申し訳なさそうに頭を下げた。
「そういえば貴方」
押入れから新しく布団を出す最中、女が青年に声をかけた。もう寝付いてしまったかしら、という疑問が膨れ上がったが、小さな返事が聞こえてすぐにそれはかき消された。
「名は? それくらいあるんでしょう?」
青年の隣に布団を並べるように敷き始めると、青年がか細い声を上げた。
「僕の名は、骸といいます。六道、骸」
はてと首をかしげながら、女は骸と名乗った青年を見た。顔立ちは少女よりは美しく憂いがあり、どうやら躾も行き届いているのか妙に礼儀正しい。そんな、どこの家に婿に出しても恥ずかしくないようなこの青年の名が、死体を指す言葉の骸。
「源氏名?」
そう疑うのは、大しておかしくはないはずだ。第一子供の名前に死体という意味の名前をつけるなど、親は気が触れているに違いない。
「違います」
きっぱりと言われた女は、不思議なこともあるものだなと、布団に枕をおいた。
「貴女の名前はなんというんですか」
行灯を手繰り寄せて、蝋燭の火を吹き消す。一気に部屋の中が暗くなった。
「。」
六道骸が目を覚ましたのは、正午過ぎのことだった。
身体を起こせば、節々がキリキリと痛み、肌は着物と擦れあい鈍痛を伴った。見慣れぬ室内の情景に首をかしげ、どうしてここにいるのだろうと考えをめぐらせ、昨晩のことを思い出した。隣を見れば敷かれていた布団は跡形もなく無くなっていた。どうやらが仕舞ったようだ。
骸は布団から出て立ち上がり、布団を仕舞おうか迷ってそのままにしたまま、部屋の襖の前までやってくる。記憶が違わなければ確かここは昨日つれてこられた座敷だっただろう。襖を開ければ案の定、昨日の座敷がそこにあった。しかしそこはシンと静まり返っていて、目的の人物はいなかった。は何処にいるのだろう、と骸はとりあえず近くの障子の引き戸をあけてみる。どうやら廊下のようで、骸は敷居を跨いで部屋を出て、後ろ手に座敷の襖を閉めた。
寒々しい廊下に骸のヒタヒタという足音が響く。開け放たれた部屋があったのでそこを覗くと、がいた。
日当たりのいい、庭に面した部屋だった。その中央に置かれた洋風の木製椅子に腰掛け、どうやら絵を描いていた。どうやら、というのは、ただ単に骸がそういう知識を持ちえていなかったからだ。
部屋にはたくさんの、様々な大きさのカンバスが壁に立てかけられていて、その全てに絵が描かれていた。それは風景画であったり、動物の絵だったり、花の絵だったりと様々だ。骸が部屋の入り口に立っているというのに、はひたすらに木炭でカンバスに絵を描いている。しばらくずっと彼女が絵を描くことに集中しているのを見て、声をかけるのは邪魔だろうと判断し骸が踵を返そうとしたのと、が一息ついて手を下ろし、ふと部屋の入り口を見たのは偶然にも一緒の時の事だった。骸と目が合うと、はにっこりと人のいい笑顔を浮かべてみせる。
「やっと起きたね。腹は空いてない?」
言われて骸は、自分の腹が空腹による痛みを訴え始めているのに気がついた。右手で腹を押さえながら、
「背と腹がくっつきそうです」
と言うと、が笑いながらイーゼルの上に木炭を置いた。
「それじゃあ飯にしようか」
ふふ、とさもおかしそうに笑いながら立ち上がり、部屋を出て骸をおいて歩いていってしまうので、骸はあわててその後ろをつけた。草履を履いて台所に下りて行ってしまうので、骸は余分にあった草履を履いて台所に下りようとしたが。
「客人の、しかも男の人が台所に入るなど、言語道断です」
そう窘められ、渋々骸は座敷に戻った。座敷を改めてみれば壁に掛け軸がかかっているほかは、あまり散らかっていない。廊下に出て、真向かいのふすまを開けると、そこは茶の間として使っているのか円卓がぽつりと置かれていた。
2009/04/16