※グロ注意
じりじりと焼けつくような日差しに照らされ、コンクリートで舗装された地面がゆらゆらと熱気を立てている。この道路は歩行者が通る事などまったく想定していないのか、歩道なんてものはない。道路の両側には広大な農地が延々と広がっている。時折、せいた自動車が横を追い抜き、延々と続く道路の向こうへ消えていく。それをぼんやりと眺めながら、フランは盛大にため息を吐いた。大して変わらない景色と、追い越していく自動車を見送るのはもううんざりといった様子だ。
「まだですかー?」
「あと少しだ」
運転席に座りハンドルを握るスクアーロにそう尋ねたが、返ってきたのはたった一言、それだけだった。10分ほど前にも同じような問いかけをフランはしたが、その時は「まだだ」という返答だったので、おそらくもうすぐで到着するのだろう。
とはいえ今から向かう訪問先――都会から30マイルもかけ離れた辺鄙な場所に建つ家など、程度は知れたようなものだ。スクアーロいわく「無礼は承知しねえぞ」とのことだが、窓の外に広がる農地を見ていると、およそフランが敬意を払えるような、ひとかどの人間が住んでいるとは到底思えなかった。それでもこんな辺鄙な場所に自宅を構え、多角経営に手腕を伸ばし、フォーブスの世界長者番付のベスト100に入るか入らないか、という人が住んでいるのだから世も末である。
なぜこんな金持ちの、マフィアとは縁遠そうな表世界の人間の家に行く事になったのかというと、20年ほど前、その金持ちが起業するに当たってボンゴレファミリーが資金提供をしたのだという。彼はその資金を元手にペットフード、文房具、医療用具、パイプ、ねじ、といろんな方面で会社を設立し、失敗はあれどそれを上回る成功により、今や世界に名をはせる大企業となった。
資金提供をしたボンゴレ側も、まさかここまで会社が大きくなるとは思わなかったようで、今ではむしろボンゴレが援助される立場になってしまい、かいつまんで言えば、長期休暇をとったにも関わらず、一度バカンスに行ったきり自宅で過ごしているらしいその金持ちの家に向かい、「援助ありがとうございます今後もお金くれると嬉しいです」的な挨拶をしにいくとの事だそうだ。なんともまあ面倒臭い。
車のラジオから流れる音楽を聴きながら、フランは何をするでもなく、つまらなそうに窓の外を眺める。畑に植えられた小麦は、ここ1週間ずっと晴れ続きの天候のせいか、どれも首をもたげるようにして元気がなさそうに萎れていた。風が吹くたび、やる気なさそうにゆらゆら揺れる。
と、いきなり車が傾いた。窓の外に映る景色が変わる。フランが顔をフロントガラスに向けると、車はちょうど道路の右側から一直線に伸びる、舗装されていない脇道に入ったところだった。
砂利の上をごとごとと音を立ててゆっくり進む。時折タイヤで石が跳ね、車のどこかにぶつかる音がした。
前方に簡素な煉瓦造りの門が見えた。門の扉は開いている。
車はどんどん進み、門をくぐったその先には、よく手入れされた庭木が道なりに林立していた。庭木は途中から左右に広がり、敷地を囲むようにぐるりと一周している。
田舎に立つ家なのだから大草原の小さな家よろしく、カントリーミュージックの似合う平平凡凡な家なのだろうとフランは思っていたが、それは甘い考えだったようだ。片手で日差しを遮りながら見上げた先にある一軒家は、一見コテージのような造りだが、見るからにお金がかかっていそうだった。富豪というものはどこに行っても富豪なのだ。
道の脇の庭木の影の下、来客用の駐車スペースを見つけ、スクアーロは乱暴にハンドルを切り、車をそこに停めた。
「行くぞ」
キーを抜き、スクアーロが車から降りるので、フランも慌てて車から降りた。小走りでスクアーロの背中を追いかける。
煉瓦が敷き詰められた道を進み、小さな川をまたいだレトロな小橋を渡り、その途中、よちよち歩きのアヒルとすれ違った。こんな乾燥していそうな土地に水鳥とは珍しい、とフランは思ったが、小川が流れていたのを思い出す。
「近くに湖でもあるんですかね?」
左右に揺れるアヒルの尾羽を振り返りながらスクアーロに聞いてみる。
「裏手に池があるらしいぞ」
はあ、とフランは間抜けな返事をして、正面にそびえたつ屋敷を見据えた。
コテージ風の屋敷は二階建てだった。ポーチにはブランコが吊り下げられていて、そよ風に揺れている。その屋敷の脇には芝生が広がっていて、その向こうには広い花壇があり、たくさんの花々やラベンダーが植えられていた。その花壇の傍には、葡萄の木があり、車庫のほうに蔦を張らせていた。車庫の中には黒塗りの高級車が停めてある。
スクアーロがポーチにあがるので、フランもそれに続いた。スクアーロが乱暴にドアをノックするのを隣で見ながら、フランはすんすんと鼻を鳴らした。ラベンダーの香りに混じって、変な臭いが鼻をつく。
しばらく待つが、返事はない。
「いねーみてぇだなあ」
参ったなあと言った感じで、盛大にため息を吐くスクアーロを見上げてから、フランはドアノブに手をかける。ゆっくり押してみると、蝶番のきしむ音とともに、ドアが数センチだけ開いた。
「鍵、かかってないみたいですね」
とは言いながらも、フランは眉間に皺をよせてドアの隙間を見つめていた。スクアーロの顔を伺えば、彼もまた眉間に皺を寄せている。
こんな真昼間だというのに、まるで生活の音が聞こえないのは異様だ。まあ今日は家族でどこかに出かける予定があり、その際に鍵をかけ忘れた、というのなら納得がいくのだが、生憎車庫には車があるし、今日2人が家に訪問するのは連絡済みのはずだ。
「すみません、開けますよー」
無人の家に話しかけ、遠慮がちにフランがドアを押しあけると、ドアの向こうからむわっとした空気が這い出てきた。それに乗ってひどい臭気が、熱気とともに2人をつつみこむ。
途端、フランは目を見開き、口元を片手で覆いながら半歩ほど後ずさった。こみあげてくる嘔吐感に堪え切れず、その場でごほごほとむせ始める。スクアーロも同様に片手で口元を覆って、不快そうに顔をしかめた。
ひどい腐敗臭だった。それも鼻が麻痺しそうなほど、だ。それをグッとこらえ、ずかずかと無遠慮に家の中に入り込んだ。
手当たり次第に窓を開けながら室内を眺める。いかにも高そうな家具が綺麗に配置されていたが、全て荒らされていた。床には割れたグラスやプレートの欠片、書類が散乱している。フランも鼻をつまみながらとことこと家の中に入り、スクアーロのそばにやってきて、ぐるりと室内を見渡した。
「強盗でしょうか?」
「どうだかな」
スクアーロが足を進めると、フランもついてきた。あまりにも臭いが酷いので、家の窓を開けつつ奥に進むが、進めば進むほど臭いはひどくなる。
ふいに、黒く太ったハエが、スクアーロの耳元を掠め飛んで行った。
二階へあがる階段のそば、オープンキッチンの床に、皮膚が変色し、ところどころ融解し、膨張した死体があった。そのいたるところに黒いハエが群がっていて、死体から出た赤茶色い液体がフローリングの溝をつたい、廊下に流れ出ていた。
フランもスクアーロもその光景に言葉を失い、茫然とその死体を見つめていたが、先に我に返ったのはスクアーロだった。
「今すぐ警察に連絡しろ」
「……、わかりましたー」
こういう事は警察に任せるほかない。フランが上着のポケットから携帯を取り出し、ボタンを押して右耳に携帯を当てた。通話のあいだ、フランは自分の身体に群がるハエを鬱陶しそうに手で払う。
警察への連絡が終わると、フランはやれやれと肩をすくめながら携帯をポケットにしまい、改めて死体を眺めた。
ここ1週間ずっと快晴で気温も高かったため、腐敗が進むのは仕方ない事だ。
「俺は1階を見て回るから、テメーは2階行け」
「了解でーす」
フランは身体に群がるハエを払いながら、死体が転がっている床を極力見ないようにして、階段を上った。
2階へ上がっても淀んだ空気は変わらなかった。外の空気を取り込むため、廊下の窓に近寄り開けようとしたが、やけに景色が鮮明な事に気付き、フランははっとして窓に手を伸ばした。窓にはガラスがなかった。それどころか、よくよく見れば窓枠すらない。
恐る恐る窓から首を出し下を覗き込むと、地面にはうつぶせになって倒れている人間がいた。その周りにひん曲がった窓枠と、割れたガラスが散乱している。恐らくここから無理矢理突き落とされたのだろう。1階の死体と同じように腐っているだろうそれを、カラスが遠巻きに眺めている。
フランは首を引っ込め、廊下を進み、まずは手始めに階段のすぐそばにある部屋へ入った。
部屋の中を見る限り書斎のようだが、ひどく荒れ放題で、調べるも何もあったもんじゃないという状態だった。幸いなことに部屋に死体はなかった。奥へ進むにも本が散乱していて足場がなく、フランは仕方なく引き返すことにした。
今度は隣の部屋のドアの前に立つが、フランはドアを開けるのを嫌そうに渋った。なぜならドアの下の隙間から、得体のしれない半透明な赤茶色の液体が流れ出ていたからである。悪臭ただようそれを嫌そうに見つめ、フランは顔をしかめながらドアノブをひねり、ドアを押し開けた。
5センチほど開けたところで、ゴン、とドアに何かがぶつかった。いや、ゴンという軽い音ではなく、ゴチュッという感じの音を立てて、何かにぶつかった。
開けたドアのわずかな隙間に顔を近づけ、恐る恐る中を覗き込むと、人間と思わしき物が床に転がっているのが見えた。
フランは無言でドアを閉め、隣のドア――一番奥の部屋に向かった。
ドアの前で深呼吸したあと、男は度胸だと自分に言い聞かせ、思いっきりドアを開け放つ。そこには想像していたものとはかけ離れた光景が広がっていた。
ピンクのカーテン、机の上に置かれたかわいらしい小物。床に敷かれた白いラグの上、大きな丸いクッションが置かれている。一目で女の子の部屋だとわかった。そんな女の子の部屋の隅に配置されたベッドの上で、身をすくめながら泣き腫らした目を見開き、フランを凝視する少女がいた。
「うわっ!」
まさか人がいるとは思わず、フランは声をあげた。
見れば少女にはハエはたかっていないし、およそ腐っているようにも見えない。ちゃんと生きているようだ。
「……あ、あのう」
フランが恐る恐る声をかけると、少女の肩が大きく震えた。肩にかかったブロンドが流れ落ちる。少女ははらはらとこぼれ落ちる涙を指でぬぐいながら立ち上がり、フランの方に足音もなく駆け寄った。
――そう、足音もなく。
『わ、私のこと、見えるんですかっ?』
しゃくりあげながらの少女の声は柔らかく反響し、フランの耳ではなく、脳に直接届いた。
こういう不思議な声を聞くのは、フランには身に覚えがあった。己の師匠、六道骸と幻術を通して会話するとき、確かこういった感じで脳に直接語りかけてきたはずだ。
フランは改めて少女を凝視する。この少女が幻術を使っている感じはまったくしないし、およそ幻術を使う訓練を受けたようにも思えない。
『おねが……しま……っ、け、警察に、連絡して……っ』
しゃくりあげているせいで言葉になっていなかったが、意味は汲み取れた。
「さっき連絡を取りました。もうすぐで来ると思います」
『そ、ですか……ありがと、ござ……ま……』
フランの言葉を聞いて安心したのか、少女はずるずると床にへたり込み、本格的に泣きだしてしまった。フランは慌てて少女のそばにしゃがみこむ。嗚咽で震える少女の背中を撫でようと手を伸ばしたが、フランの手は少女の身体をすり抜け、何にも触れることなく空をさまよった。
「……え゛」
フランは呟いて手を引っ込め、自分の手と少女の背中を見比べた。よくよく見ればこの少女、若干、透けているように見えなくもない。もう一度少女の背中に手を伸ばすと、やはりフランの手は少女の身体をすり抜けた。
いくら幻術使いといえど、こういった状況は初めてだった。フランは目の前の光景が信じられず、何度も目を瞬かせる。手をひっこめた後、自分の頬をつねってみたが、とても痛かった。夢ではない。
「う゛おぉぉい、フラン」
スクアーロの声が聞こえ、フランは立ち上がり廊下を覗き込んだ。スクアーロが小走りでこちらにやってくる。
「どうだぁ?」
「……ええと、隣の部屋と、そこの窓の下でも死んでました」
廊下のあの窓枠の無い窓を指差すと、スクアーロはそちらを振り返って一瞥したあと、フンと鼻を鳴らした。
「1階の客間で1人死んでたぜぇ。計4人か。とりあえずさっさとこの家出るぞ」
「わかりましたー」
歩きだすスクアーロの背中を追いかけようとして固まり、泣きじゃくる少女を見下ろす。
「ちょっ、た、隊長、待ってください」
慌ててスクアーロを引きとめる。
「この子、どーすんですか?」
「あ゛ぁ?」
スクアーロが怪訝そうに首をかしげる。
「いやだから、この子。置いてっちゃアレでしょう」
言いながらフランが少女を指さすと、スクアーロが眉を寄せ、フランの指さす先を見た後、ハッと渇いた笑いを零した。
「何もいねぇだろーが。馬鹿かぁ?」
泣きじゃくる少女をなんとかなだめた後、フランは少女を連れてスクアーロとともに屋敷を出て、車に戻った。
スクアーロは最初、フランが冗談を言っているのではないかと疑いこそしたものの、フランが至って真面目に少女の存在を主張するので、姿の見えない少女の存在を信じたようだった。
「名前、教えてくれますか?」
フランが隣のシートに座っている少女にできるだけ優しく声をかけると、しばらく間をおいて。
『ナマエです。ナマエ・ミョウジ』
ぐすっと鼻をすすりながら、少女がそう答えた。鼻をかむためにティッシュをあげたいところだが、彼女はあらゆるものを透き抜ける。恐らくティッシュを差し出しても無意味に終わるだろう。
「隊長、彼女の名前、ナマエ・ミョウジっていうみたいですけど」
運転席に座っているスクアーロにそう告げると、スクアーロが驚いた様子で振り返った。
「……本気で言ってんのか?」
「本気も何も、彼女がそう言ってるんでー」
スクアーロがフランの隣を見たが、彼の目には誰も座っていないシートが映るだけだ。
「ナマエ・ミョウジっつーとここの1人娘だ。次、何があったか聞き出せ」
フランは素直にうなずき、ナマエに尋ねようとしたが、スクアーロの声は彼女の耳に届いているようで、フランが問いかける前に、とつとつとした口調で、事件のあった日付から語り始めた。
その日は今日からおよそ2週間前の事だった。
『その日の夜遅く、父のもとに来客が来るとのことで、私は2階の部屋に戻って、そのままベッドに入って寝たんです。それで、次の日の朝になったら、身体がこうなってて、父も母も、マルコさんもニコラさんも死んでて』
遺体発見時の事を思い出したのか、ナマエの身体が小刻みに震えだした。口元を両手で覆う。彼女の青い瞳が潤み始める。ナマエが俯いて静かに瞼を閉じると同時、涙がこぼれ落ちた。雫は音を立てずナマエの寝間着に落ち、小さな染み作る。
今になって気付いた。彼女はとびきりの美人だった。簡単に手折る事の出来る小さな花のような、そんな薄幸そうな弱弱しさを感じさせる雰囲気が、尚更それに拍車をかけている。
「無理して喋らなくてもいいですよ」
『すみませ……っ』
泣きだす彼女をフランは尻目に見ながら、ナマエが話した事をかいつまんでスクアーロに告げた。
「それで、マルコさんとニコラさんっていうのは?」
自然と、ナマエを気遣うような声色になった。この様子じゃ返答はないかもしれないとフランは思ったが、意外にもナマエは目をこすって涙をぬぐった後に口を開いた。
『マルコさんは父の秘書で、ニコラさんは家政婦さんで、2人とも住み込みで働いていました』
こんな状況下でも、問いかけられた事にはちゃんと答える。そんな気丈さが彼女にはある。
フランはその事もスクアーロに告げると、彼は眉間に皺を寄せた。恐らく彼は今までのナマエのの発言から何かしら疑問を覚えたのかもしれない。かくいうフランも、ナマエの一連の発言から、少しひっかかったことがあった。
屋敷にあった死体の数は4人。屋敷にいた人間の数は5人。
「……そうなると、死体が足りねえな」
スクアーロがぽつりと呟いた。ナマエはもう死んでいると仮定し、死んだ人間に含めると、死体の数が合わないのである。
とはいえ家の中を十分に見回っていないし、そういう事は警察が来れば追々わかる事だろう。
「この2週間、誰か家に訪ねてきたりとかは?」
フランの言葉に、ナマエは弱弱しく首を振った。
『……多分、いないと思います』
「多分?」
何故憶測で話すのか疑問に思った末、つい言葉に出してしまっていた。
『最初は、部屋の外に出たりしていたんです。でも、皆の身体を見たくなくて、それからはずっと、部屋に籠ってました』
言葉の後半は嗚咽交じりだったため、聞きとるのが難しかった。意味をようやっと理解したころには、まずい事を聞いてしまった、とフランは柄にもなく思ってしまった。
彼女は両親や住み込みの使用人が日に日に腐り落ちていく過程を見てしまったのだろう。死体慣れしていない一般人の、年端もいかない少女がそんなものを目にしたら、部屋に引きこもるのは仕方のない事だ。
「……とりあえずこの2週間、家に訪ねてくる人はいなかったみたいですよ」
「そぉか」
めんどくせー事になっちまったなあ、とスクアーロがぼやきながら、ドアを開けて車を降りてしまった。フランが窓越しにスクアーロを見上げれば、彼は上着の胸ポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつけ、煙草をふかしている。
ナマエを見れば、相変わらず泣いてはいるものの、それでも徐々に落ち着いてきたようで、目をこする回数も減ってきた。少しほっとした。
流石にナマエばかり見るのも失礼だと思い、フランは窓の外に顔を向けた。空は相変わらず雲ひとつなく、いい天気だった。燻った煙草の煙が空に立ち上るのをぼうっと眺めていると、隣の方からかすかに動く気配を感じた。ちたりとナマエを見れば、彼女は赤く腫れた目をこすりながら、シートに背中を預けていた。しかしフランの視線に気づくと、慌てて身体を起こす。
『す、すみません。その、安心したら、眠くなってしまって』
幽霊でも眠るらしい。フランは無言でシート中央のアームレストを静かに下げた。
「そうやって寝るより、横になった方が寝やすいと思いますけど」
言いながら、ここに頭を乗せるようにアームレストを軽くたたいて促すと、ナマエはおっかなびっくりといった表情で目を瞬かせた。しばらくしてから恐る恐る横になり、そこに頭を乗せる。
「寒かったりとかは?」
ナマエの恰好は薄手のワンピースのような寝間着のみだ。いくら暖かいとはいえ、この時期にそんな薄着では寒いだろう。
『……少し、寒いです』
控えめな言葉が返ってくる。フランがコートを脱ぎ、ダメもとでナマエにかけてやると、やっぱりというか、コートはナマエの身体をすり抜けた。
「すみません、ミーにはどうしようもできないです」
ナマエがゆるく首を振る。フランはコートを引き寄せ、それを着直した。
『こちらこそ、ごめん……なさ……』
ナマエが呟くものの、最後の方は言葉になっていなかった。もう眠ってしまったらしい。余程疲れていたのだろう。顔の横で両手を丸め、穏やかそうな寝顔を浮かべるナマエの顔を眺めてから、ふと思いついたようにフランははっとして、長指で車の窓ガラスを軽くノックした。すると運転席のドアが開いてスクアーロが顔を出す。
「何だ?」
「この事、警察に言ったほうがいいですかねー?」
一応ナマエは貴重な証人でもある。とはいえ幽霊だが。
「変に場を混乱させるような事は言わないほうがいいだろ。ま、そのうち犯人も捕まるだろうし、全部任せときゃいいんだよ」
「……まあ、捕まればいいんですけどねー」
スクアーロが車のドアを閉めると、ナマエがかすかに身じろぎした。前髪が流れ落ち、額があらわになる。
ナマエの額には1センチほどの円形に沿って、火傷の痕が残っていた。
それから警察が来たのは、通報から20分後の事だった。
最初にやってきたのはパトロールカー1台のみだった。恐らく近辺を巡回していたのだろう。未舗装の道を走ってきたパトロールカーはスクアーロの車の隣に停まる。車のドアが開き、がっしりとした体躯の若い警官が降りてきた。警官はスクアーロに話しかけると、スクアーロは屋敷の状況を事細かに伝えた。
屋敷の詳細を聞いた警官は屋敷内に足を踏み込んだが、しばらくしてから、口元を押さえ前かがみになって戻ってきた。それから車の中に戻り、無線で何かしら報告をした後、運転席に座ったまま顔を覆って動かなくなってしまった。そんな警官の様子をフランが車の中で眺めているうちに、また警察車両がやってきたのを封切りに、何台もの車がやってきて、1時間後には系5台もの警察車両が駐車場に並んでいた。
車の中で座って待つのも退屈だったので、フランが車から降りると、車にもたれかかっていたスクアーロが一度だけフランに視線をよこした。フランもスクアーロと同じように車にもたれかかり、屋敷の方を眺める。屋敷のほうは今や“KEEP OUT”と印刷された黄色いテープが張り巡らされている。もう一度あの屋敷に入れさせてくれと言っても絶対無理だろう。
ふいに屋敷のドアから若い刑事が飛び出してきた。ポーチへあがるための階段を飛び越え、そのまま一直線に走り、庭木までくると、幹に手を当てて、勢いよく身をかがめた。嘔吐する。
フランは見なかった事にした。無言で顔をそらし、車の中を覗き込む。ナマエはあれから昏々と眠り続けていた。起きるそぶりはまるで見せない。
「いやー、見苦しいもの見せて申し訳ないね」
トレンチコートを羽織った、やや年のいった刑事が嘔吐する刑事を顎で示しながら、ちっとも申し訳なさそうに言った。スクアーロが「いや」と首を振ると、刑事は上着のポケットから名刺ケースを取り出し、スクアーロに名刺を差し出した。アルカンジェロ・ベルトリーノという名前の隣に、小さく警部補と書かれている。スクアーロがその名刺を受取ると、ベルトリーノ警部補は名刺ケースをしまい、かわりに小さな手帳を取り出した。
「お二方、名前は?」
正直に名前を答えるべきだろうか、フランはスクアーロを伺った。視線に気づいたスクアーロがフランを横目で見おろした後、
「スペルビ・スクアーロだ」
ベルトリーノ警部補に素直に自分の名前を告げていた。つまり普通にしていろ、という事らしい。スクアーロが名乗りをあげるのに次いで、フランも自分の名前を告げると、ベルトリーノ警部補は手帳にペンを走らせながら、ふと手を止め、怪訝そうにフランの顔を――性格には、フランのかぶっているふざけた帽子を伺った。
「えーと、……坊や、ファミリーネームは?」
フランが「えっ」と言葉を発するのに重ねて、スクアーロが「弟だ」とベルトリーノ警部補に告げた。ベルトリーノ警部補は2人の顔を見比べて若干訝ったものの、納得したように一度だけ頷いた。
「で、ミスター・スクアーロ。今日はどんな用でミョウジ家に?」
マフィアの事も全て話すのだろうかとフランはスクアーロを見上げたが、スクアーロは「以前から世話になっていて、挨拶に来ただけだ」といった、重要な事をかなり省いた内容をベルトリーノ警部補に告げた。
「ミスター・ミョウジとの面識は?」
「何度か」
ベルトリーノ警部補はふんふんと頷いてみせる。それからスクアーロをじっと見た。睨んでいるといっても過言ではないような気がする。
「屋敷内に入った後、結構動き回ったようだが」
「……生存者がいるか確かめただけだ」
スクアーロの返答が気に食わなかったのか、ベルトリーノ警部補はじろじろとスクアーロを上から下まで見た後、スクアーロに連絡先を聞いた。スクアーロが素直に応じると、ベルトリーノ警部補は眉間に皺を寄せた。
職業、家柄、腐乱死体は平気だったのか、というような問いかけがいくつもなされたが、スクアーロは冷静に答えていった。その2人のやり取りを聞きながら、フランは小さくため息を吐いた。
――絶対に疑われている。
そもそもスクアーロは目つきが悪い。おまけに何を答えるのにもポーカーフェイスの無表情だから、ベルトリーノ警部補だって疑うのは仕方ないだろう。彼の最たる悪役のような雰囲気も、なおさらそれに拍車をかけているような気がする。
ベルトリーノ警部補が手帳を閉じ胸ポケットにしまったのは、聴取開始からきっかり30分経ったときだった。
「後日また話を聞かせてもらいますんで、そのつもりで」
「もう帰ってもいいのか?」
「ここにいても邪魔なだけだ」
そう言って背を向けるベルトリーノ警部補をじっと見た後、スクアーロは車の中に乗り込んだ。フランも車の中に乗り込む。若干乱暴にドアを閉めたが、ナマエが寝ている事に気づきはっとして彼女の方を見た。ナマエは未だにぐっすりと眠っている。
「……やばくないですかー?」
車のエンジンをかけるスクアーロの後頭部にそう話しかけると、スクアーロが舌打ちをした。
「嘘吐いたってしゃあねえだろうが」
「そりゃそうですけどー。絶対疑ってますよあれは」
スクアーロも警部補とのやりとりで薄々それを感じとったのだろう。スクアーロはむっつりと黙りこんでしまい、会話はそこで終わってしまった。
敷地を出て、土の道をごとごとと走り、道路に出ると車のスピードがぐんと上がった。来た時と同じ田舎のつまらない風景が窓に映る。フランは盛大にため息をついて、ナマエの顔を伺った。相変わらず死んだように眠っている。
「そういや彼女、連れてきちゃいましたけど、よかったんですか?」
「置いてきた方がよかったか?」
「いいえ」
あの殺人現場となった屋敷で1人で過ごすよりは、アジトに連れ帰った方が彼女としても有意義かもしれない。とはいえ彼女の意思も聞かず連れてきてしまったのには若干の申し訳なさを覚えた。
考えてるうちに大きな欠伸が出た。涙でうるんだ目をこする。今日は怒涛の1日だったといえるだろう。なんだかどっと疲れたような気がする。
「フラン、疲れたなら寝ててもいいぞ」
「すみません、そうします」
フランはそう言って窓の方にもたれかかった。目を閉じる。自分でも思っていた以上に疲れていたようで、フランはすぐに眠りに落ちてしまった。
2011/--/-- 時期不明