・臨也と一緒に車内練炭自殺を観察するだけの話
・グロ、失禁描写あり(失禁するのはモブです)
・夢主の頭おかしい上に、死んだ人の財布から金取る究極のクズ
以上の点が許せる方のみどうぞ。読んでからの苦情は受け付けません。














 嘘つきは泥棒の始まり、などと言いますが、泥棒は嘘つきの始まりでもあると、私は思うのです。
 ほのかに橙色に光る街頭の下、そこに私達――いえ、今では私だけですが――が乗る車が一台、路肩に停まっています。黒いRV車です。恐らく、私の年収では手が届かない類の車だと思いますが、その持ち主の男性はいまや運転席で息絶えています。穏やかな寝顔のような表情ですが、こう見えて彼は死んでいるのです。現に今、首を触って見ますが、少し日焼けした首筋の脈はまったく反応を示しません。口元に手を当ててみても、呼吸はしていません。
 助手席に座る女性も、眠ったように死んでいます。後部座席、私の隣に座る男性もです。
 外の風がびゅうびゅうとうるさいのに、この車内だけがひどく静かで、たおやかな死の気配に満ちています。まるで、世界からここだけが切り離されているかのようにすら、思えてしまうほどです。
 足元には、すこしだけ仄かに暖かさを放つ七輪が、ひとつだけ置かれています。道すがら、ホームセンターで購入したものです。中には燃え尽きた練炭が残されています。この、私が持つには十分に軽い七輪が、3人の命を、いとも簡単に容易く奪ってしまったのです。そう思うと、なかなかに感慨深いものがありました。
 私の上着のポケットには、運転席の男性から渡された睡眠薬が、いまだ手付かずのまま残っています。死ぬときの苦しみを軽減するための睡眠薬です。練炭自殺にはつきもののこれですが、私は飲むフリをしただけで、体内へ摂取することはありませんでした。彼らがこの睡眠薬を摂取し眠りについた後、私は静かに車を降り、外から彼らがゆるやかに死んでいく様を眺めていたのです。
 その時の心境たるや、言葉に表せないほど甘美なものでした。ゆるやかに、時間の流れに合わせて進み行く死。
 その死という概念を目の当たりにして初めて、私は生という実感を得るようになってしまいました。
 そんな、非常に特殊な性癖とでもいうのでしょうか、それが生まれたきっかけは、ごく些細なものでした。私は過去に、今と同じように、車内での練炭から発生される一酸化炭素による集団自殺に参加したことがあるのです。あの時の私は何故自殺しようと思ったのか、今この場所に立っている私となっては、その心境は理解不能なものでした。
 あの頃の私は、言いようのないただ冷たく静かな孤独感と、将来への漠然とした不安が抱えきれないほど大きなものになり、これから先、普通の人のように生きようとすら思えなかったのです。ひたすら、死というものに落ちようと、そればかりを考えていました。楽になりたい一心の行動からくるものだったと思います。
 しかし今になって思うと、恐らく鬱病とか、そういったものだったのでしょう。ですがメンタルクリニックなどの病院に行こう、という発想が全く起きなかったのが不思議でした。精神を病んだ人は家族や友人に病院に無理やり連れて行ってもらって初めて、鬱病だと診断されるのだと小耳に挟んだことがありますが、おそらく過去の私はこういう状況にあったのでしょう。ですが無理やり病院に連れて行ってくれるような家族はおろか、友人すら私にはいません。
 初めての集団自殺の際、目的地に着いてすぐに、私は即効性の睡眠薬を渡されました。それを飲むように言われ、私は何も思わずにそれを口に運びました。そして隣に座っていた方が、練炭に火をつけました。窓を完全に閉めたか確認するように言われ、一度車のドアを開けて、再度また閉めたのを覚えています。
 そうして、車内にいる人たちと取り留めのない会話をしながら、緩やかに訪れるだろう死を待っていたのです。さながら水面に浮かびながらも、ゆっくり落ちていくように。赤ちゃんが揺り篭に揺られて眠りにつくようにまどろみながらも、意識は常に暗いところを目指しました。暗く暗く、深い穴の先に、まばゆい光が待っている、そんなイメージを抱いていたのです。
 そうして車内の会話も途切れかかったころ、私は言いようのない吐き気を覚え、耐え切れずに車内を飛び出しました。嘔吐しながらも、最初は死への恐怖からくる衝動的なものだと思っていたのですが、徐々に胃が薬を拒絶しているのではないかと思い当たったのです。
 思えば私は小さな頃から、風邪薬などの薬品が効きにくい体質だったのです。腹痛のときに胃薬を飲んでも、全く効きませんでしたし、むしろ悪化する一方でしたから、漢方ばかりを口にしていました。それが災いしたのでしょう。人工的な睡眠薬を摂取しても、吐き気を催すだけで、眠りにつくことはできませんでした。
 そして私はなすすべもなく、一人取り残され、目の前の暗がりの中、車内に満ちていく死というものを、じっと見つめていました。すこやかに、愛でるように死に向かうその姿は、ある種の神々しさすら感じられました。
 寂寞とした空間から切り離され、ただひたすら、死を見つめているうちに、何故か私の胸のうちに、暖かな灯が燈るのを感じました。冷たかった指先がいつしか熱くなり、血の気のなかった頬は火照り――私はその瞬間、確かに“生”という実感を得ていたのです。徐々に心臓が高鳴り、高揚感が私を包みます。
 ――ああ、生きている。
 私にはもう、それしか考えられませんでした。
 どのくらい経ったのかわかりませんが、かなり時間が経過した頃でしょうか。私は静かに車のドアを開けました。恐らく車内の人は死んでいたでしょうが、今にも目を開けそうなほど穏やかな顔つきだったので、乱暴にドアを開けるなんて発想はまるでなかったのです。人生の中で死体に気を使ったのは、あれが初めてのことでした。
 車内の空気を吸わないよう、10分ほどドアを開け放っている間、眠ったようにシートにもたれかかる死体を見つめていました。今にも動き出しそうな彼らを見るたびに、口の中に唾液が充満し、それを何度も飲み込んだのを覚えています。ある種の興奮状態にあったのでしょう。自分でもわかるほどソワソワしながら、車内の換気を十分にし終わると、私は車の中に乗り込みました。全員が失禁していたせいでシートが僅かに濡れていましたが、私は構わずそこに膝を突きました。
 死後硬直、というものがあるのでしょうが、死んだばかりの遺体はとても暖かかいものでした。恐る恐る手を伸ばして触れた頬も、唇も、首筋も、手の甲も、まるで血が通ったように温かかったのです。それでも生白く、まるで死に化粧をしたかのようで、いやに気持ちが悪かったのを覚えています。
 その後の私はどうしたかというと、ええ、もちろん、あれしかありませんでした。
 全員の懐に手を差し込み、財布を引き抜いたのです。自殺するためにこの車の中にいるのでしょうに、皆さんは不思議と、財布に5万円前後の大金を入れていました。
 今から死に向かう人が、何故か財布に大金を詰め込んでいるんです。恐らく万が一のために、帰宅するためのお金を用意していたのだと思います。それが私には、ひどく無様で、滑稽に思えたのです。なぜ、死ぬ人が先の心配をしているのか、可笑しくてたまりませんでした。
 いいえ、可笑しかった理由はそれだけではないのです。そのときは確か12万7千円でしたか――そのくらいの大金がいとも簡単に手に入ったのが、可笑しくて可笑しくてたまりませんでした。死体の懐から財布を奪う、その行動に、私はまったく罪の意識というものを覚えなかったのです。
 むしろ、死に行く姿を眺めてあげた。つまらない人生、つまらない理由で死にたいとのたまったこの可哀相な人たちを、ただ眺めてあげたのです。このくらいの報酬は、妥当だと思います。――ええ、妥当なはずです。当然の権利であるべきでしょう。
 彼らから奪った金で心持重くなった財布を上着の胸ポケットにしまい、私はその場を後にしました。
 あれからというもの、私は死にたくもないのに集団自殺に参加するようになりました。
 目当ては金と、生への実感を得るためです。
 おかげで、死にたい理由をペラペラと、嘘八百を重ねて語るようになりました。皆が皆、私の嘘八百に頷き、共感してくれる様といったらもう、心の中で変に笑いが止まらなくなるほどです。偽りの言葉に、まじめに同情してくれる彼らは、きっととても優しいのだと思います。
 それでも共感してくれない人も中にはいますが、表情が硬いせいだと気づき、日頃から表情筋を意識し、鏡に向かって練習をしているうちに、演技もうまくなりました。悲しい表情をしながら、時には目じりに涙を浮かべながら話すと、彼らは貰い泣きをしてくれたりします。
 その誰もが、私の言葉はまったくの出鱈目ではなく、嘘偽りのない真実だと思っているのでしょう。それは自分と私が同属だからだと思っているからこそなのでしょうが、私は彼らとはまったくの別物だと信じて疑いません。でなければ、彼らも私と同じ、嘘つきであるという事になってしまいます。
 先も言いましたが、私は泥棒から始まった嘘つきです。恐らくいつしか罰が当たるのだろうと思いますが、それがいまだに訪れることはありません。
 警察に捕まる日がくると思いたいですが、その兆しは未だに現れることがないのです。毎朝、インターフォンの音で目が覚めるのを、首を長くして待っています。
 きっと、警察がきたら、私は驚愕で表情を青くするでしょう。手にかけられた手錠の冷たさに唇を震わせ、足元から這い上がる恐怖が徐々に身体を蝕んでいくでしょう。想像するだけで身が弥立つのです。現実でそれが起こったらどうなるのでしょうか。
 恐らく、私は新たな生への実感を得られるに違いありません。

 ――そんな、淡い期待を胸に抱きながら参加した次の集団自殺のメンバーの顔ぶれは、非常に珍しい人が紛れ込んでいました。
 珍しい、というのは、人となりとでもいうのでしょうか。明らかに雰囲気が自殺する人のものではなかったのです。見るからに上等な服に身を包んでいます。傍から見ても暗い雰囲気を放つ集団自殺のメンバーから浮いているのは明らかでした。最初はお洒落が好きな人なのだと思っていましたが、すぐにそれは違うな、と私は気づいたのです。
 私も自殺する気は毛頭ありませんが、それでも彼――奈倉と名乗ったこの人は、不思議とどこからしら“ぶれ”があると思いました。理由はよくわかりません。それでも仕草や言葉遣いの一つ一つが、でしょうか、妙に気に食わないのです。死とは対照的な位置にいる生の匂いを、不思議と感じ取ってしまうのです。そうして、まるで胸焼けしたような気持ち悪さを覚える。これを同属嫌悪と言わずして何と言うのでしょうか。
 後部座席の右側に座る私の隣に奈倉さんと、その左側に座る女性の二人の顔が、車の窓ガラスに映りこみます。奈倉さんの表情は、隣の女性と比べて生気に満ち溢れていました。女性なんか、今にも消えてなくなりそうなほど、穏やかな顔をしているのに、です。この差はいったいなんなんでしょうか。
 彼はなんの目的で、この車に乗り込んでいるのでしょう。もし、私と同じ目的だとしたら、かなりややこしい事になるに違いないでしょう。金の奪い合いになるかもしれません。もしそうなった時の事を踏まえ、逃げる段取りを頭の中で組み立ててみますが、どうにも集中できませんでした。内心舌打ちをする思いでいっぱいです。
「ネクロさん」
 ふと奈倉さんに名前を呼ばれ、私は視線だけを彼に向けました。
 ネクロ、とは今回の集団自殺での私のハンドルネームです。毎回同じ名前だとさすがに誰かが気づくだろうと思い、適当に開いた辞書のページにあった単語『ネクロフィリア』からとったものでした。死体愛好趣味の人を総じてこう呼ぶのだと辞書に書いてあり、なんて私にぴったりだろうと思い、頭三文字を取ってつけたのです。ネクロという名前をつけた当初の高揚感と、今の気持ちは、雲泥の差がありました。
「なんでしょうか?」
「さっきから、顔色が悪いような気がして。もしかして気分が悪いんじゃないかな?」
 私は迷った末に、
「いいえ」
 苦笑しながら答えました。
 正直、奈倉さんに尋ねられたとき、今の気持ちを読まれたんじゃないかと焦りました。人の感情を読むなんて、そんな事はあり得ないはずなのに、的確なタイミングだったので、驚いてしまったのです。おまけに、私の気分が悪くなった原因の人に尋ねられるなんて思いもしない事でした。それでも、そんな驚きは一切表情に出さないように勤めました。
 奈倉さんはじっと私の顔を見つめた後、運転席のほうに視線を向けます。
「次、那須高原サービスエリアですよね。ついでですし、少し休みませんか?」
 運転席の男性から「ええっ」と不満そうな声があがりました。無理もありません。目的地は栃木県の那須高原です。なぜここに決まったのか理由はよくわかりませんが、この運転席の男性が那須高原がいいと申し出たので、そこに決まったのです。恐らくこの男性の思い出深い地なのでしょう。まあ、私にとっては頗るどうでもいいのですが――奈倉さんが今しがた言った那須高原サービスエリアにスマートインターチェンジがあるので、そこで降りる予定だったのです。このタイミングで小休止を取るなんて、この人たちからすればとんでもないことでしょう。私ですら、とんでもないと思うのですから。
 少し身体を傾けて、バックミラーに映りこむ運転席の男性の顔を覗き込みます。その表情たるや、口にするのも恐ろしいほど、不満をあらわにしたものでした。奈倉さんは空気が読めない――というわけではないのでしょうが、こうやって彼らの不満を煽るのを少し楽しんでいる節が見られました。
 思えば高速に乗ってから、どうして自殺しようと思ったか、なんてネットで何回も語ったことが話題にあがりましたが、奈倉さんだけが「そんなの語ったってどうせ死ぬんだし、仕方ないじゃない?」と答えなかったのです。そのときの奈倉さんは目を少し細め、にやっと笑っているように私には見えました。
 しばらくの間車内は無言でしたが、奈倉さんの空気に負けたとでも言えばいいのでしょうか、運転席の男性が渋々了承しました。私は慌てて寄らなくてもいいと申し出たのですが、奈倉さんがそれをかたくなに拒むのです。気を使ってもらうのは悪い気がしませんが、それでも奈倉さんに気を使ってもらうのは本当に面倒臭いと思ったのです。それでも「いい」と申し出ると、奈倉さんが「俺も気分が悪いから休みたいんだ」と申し出たのです。にこにこ顔で言われたので、不信感がつのりましたが、それでも気分が悪いのなら仕方ないでしょう。やがて折れたのは私のほうでした。
 那須高原サービスエリアに着くと、私は挨拶もそこそこに、半ば車を飛び降りるように脱出しました。駐車場の空気は、車内の空気とは打って変わって清清しいものでした。まるで身も心も洗われるようです。肺に新鮮な空気を送ることを意識しつつ、私は喫煙所に向かいました。煙草を吸えば、いくらかは落ち着くと思ったのです。落ち着かなければ、ゆっくり思考はできません。
 喫煙所の灰皿のすぐそばにあるベンチに腰を下ろし、上着のポケットから煙草を取り出しました。煙草を口に銜えライターを取り出し、火をつけました。
「へえ、ネクロさん、煙草吸うんだ」
 意外な展開に、煙草を落としそうになりました。
 ベンチの横に奈倉さんが立っています。彼は私の慌てた反応が面白かったのか、少しだけ可笑しそうに笑いましたが、見ててあまりいい気のする表情ではありません。ニヤニヤと笑うその冷ややかな表情から視線をそらし、煙を吐き出します。
「奈倉さんは吸うんですか?」
「俺は吸わないよ。身体に悪いしね」
「じゃあ、ここにいたら駄目でしょう? 中に入ったらどうですか」
「一人で入ってもつまらないでしょ」
 そう言って、無遠慮に私の隣に腰を下ろしました。足を組む仕草が様になっています。これだけ人目を引く容姿をしているのですから、言い寄ってくる女性も少なくはないでしょう。やはりこんな人が、自殺するなんて私には思えませんでした。
「銘柄は?」
 そう言われ、渋々ポケットから煙草を取り出します。鮮やかな青緑色の箱を捉えたとたん、奈倉さんの表情が一瞬だけゆがみました。心底嫌なものでも見たかのような、まるで汚物を見るような視線ではありました。
「どうかしました?」
 気になって尋ねてみると、
「ネクロさん、趣味悪いね」
 肩をすくめて、奈倉さんが吐き捨てます。私の趣味が悪いのは自分でもわかっていたので、無言のまま煙草――アメスピメンソールライトをポケットにしまいます。煙草の灰が落ちそうになったので、ベンチから立ち上がり、煙草の灰を灰皿へ落とします。そうしてベンチに戻ろうかと思いましたが、奈倉さんがいたのでやめる事にしました。
 戻るとまた何か会話をしなければならなさそうでしたし、奈倉さんは非喫煙者なのでその傍で吸うのはどうかと思ったからです。とはいえ、普通は非喫煙者はこんな場所に近寄らないのですが。
 しばらくそのまま灰皿の傍で煙草を吸っていると、奈倉さんがベンチから立ち上がりました。どこかに行くのかと思いましたが、真っ先にこっちに向かってきます。
「ネクロさん、喉渇かない?」
「はい?」
 驚愕するあまり、思わず聞き返してしまいました。
「何か飲み物買ってこようかなと思って。ネクロさんも飲みたいなら」
「いりません」
「あ、そう」
 奈倉さんの言葉をさえぎるように言ったのが可笑しかったのか、奈倉さんはおどけたように笑って自販機のほうへ向かっていきます。その背中を見つめながら、私は信じられないなと思いました。
 練炭自殺に限らず、自殺後は筋肉が緩む訳ですから、自然と体内に溜まった汚物が垂れ流し状態になる――汚い話ですが、失禁と排便をします。自殺後に失禁も排便もしない死体など、私は見たことがありません。自殺する人は事前にそういう事を調べ、知識としてわかっていますから、普通は飲み物なんか口にしません。食べ物も口にしないという、用意周到な方も中にはいました。それでも、人生最後だからと、高価な飲み物や食べ物を口にする人もごく稀にいます。
 それでも死ぬ直前となると、自然と誰しもが、何も口にしないものでした。真に死と向き合うと、必ずしも、とまでは行きませんが、食欲などの欲が一切なくなるのだと、誰かが言っていたのを思い出しました。
 何故奈倉さんは飲み物なんか買ったのでしょうか? ――やはり、彼に死ぬ気はないのかもしれません。私には、それ以外の理由は思いつきませんでした。
 それじゃあ何故、私に飲み物を勧めたのでしょうか? 考えてから、急に背中が冷やりとしました。煙草を吸い込んで落ち着こうと思ったのですが、どうにもうまくいきません。唾を飲み込むと、ごくりと喉が鳴りました。
 私に死ぬ気がないと気付かれているのではないか。そういった不安が湧き上がってきます。見たところ、賢そうな人です。いい意味ではなく、悪い意味で、ですが。私ですら奈倉さんの違和感に気付いたのです、彼が私への違和感に気付かないわけがありません。
 意識した途端、徐々にそわそわして落ち着かなくなってきて、気付くと煙草は終わりに近くなっていました。ため息とともに、灰皿の淵に煙草を押し付け火を消すと、奈倉さんがこっちにちょうど戻ってきました。手には紙コップのコーヒーがあります。紙コップに口をつける奈倉さんの表情からは、感情というものが一切読み取れませんでした。
 半分不安になり、もう半分で警戒しつつ、私はベンチに戻りました。腰を下ろすと、当たり前のように奈倉さんも隣に腰を下ろします。何か言われるかと思いましたが、奈倉さんは何も言わずに、煙草を吸う人を見つめながらぼーっとしています。
 どことない気まずさから逃れようと、煙草をもう一本吸おうかと思いましたが、やめました。こんなに気まずいのであれば、ひとまずこの場を去ってしまえばいいのです。車の中にいる人達も、きっと待ちくたびれているでしょう。
 ゆっくり立ち上がり、背伸びをしてから「もう戻りますね」と奈倉さんに声をかけると、
「もうすぐで飲み終わるから、ちょっと待って」
 そう言われてしまうと、待つほかはありませんでした。仕方なくサービスエリアに入ってくる車を眺めていると、思いのほか呆気なく、奈倉さんは立ち上がりました。
「さーて、戻りましょうか」
 足を踏み出す奈倉さんの後ろ姿を見つめ、私も彼の後ろを追うように足を踏み出しました。歩きながらも物珍しい車に目移りしているうちに、奈倉さんは紙コップをゴミ箱に捨てたようでした。
 そうして車に戻り、サービスエリア内にあるスマートインターチェンジをくぐり、ようやっと高速を降りました。一般道に出た車は、比較的スムーズに目的地へと進みます。その間、会話らしい会話は一切ありませんでした。
 雑然と並ぶ木々が増え、歩道らしい歩道がなくなり、山道に向かう道路で、車はゆっくりと路肩に停まりました。
「それじゃあ、これを」
 運転席の男性が、睡眠薬を手渡してくれました。透明なプラスチックを押し、カプセルを3つ取ると、奈倉さんに渡します。奈倉さんも同じように睡眠薬を3つ取って、隣の席の女性へ手渡しました。
 窓がきっちりしまっているのを確認すると、運転席の男性がマッチを差し出してくれました。ここ最近は、私がもっぱら七輪の練炭に火を起こす役割を自主的に担うようになりました。自分が火をつけた練炭が煙を起こし、人を死に追いやるというその事実が、私にとってはたまらなくいいのです。
 皆が睡眠薬を飲むのに合わせ、私も睡眠薬を飲みます。いえ、飲むフリをします。皆が飲み終わったのを確認し、一息ついてからしばらくして、わたしはマッチに火をつけ、七輪の中にそれを落としました。小さな火は着火剤に燃え移り、練炭を包み込みます。しばらくすると、ゆるく煙が湧き上がってきました。七輪の奥には、かすかな火がくすぶるように燃えています。
 この火が、この煙が、彼らの命を奪うのです。
 ――ああ、なんで素晴らしい事でしょう!
 無意識に緩んだ頬を引き締めながら、前かがみになった体制から、シートの背もたれに背中を預ける格好へと移行しました。これからが辛抱のときなのです。10分以上は、この独特の煙のにおいが充満する車内にいなければなりません。その間、呼吸は静かに、間隔をあけて行います。この時の苦しさが、たまらなく甘美なもので、愛おしさすら覚えるほどです。
 死と向かい合わせになっているこの現実。下手をすれば私も死んでしまうだろうこの状況下、生というものを実感する以外に、何があるのでしょうか。確かに、恐怖も不安も苦痛もあります。それでも、そんな些細な感情は、生の実感へは到底及ばないのです。
 足元の七輪の中、くすぶってぱちんと跳ねる音を聞きながら、静まり返った空間の中、聴覚にだけ意識を集中させます。目を閉じると、視覚が遮断されるせいでしょうか、聴覚がいつにもまして敏感になったように思えるのです。
 静かな車内、不規則な呼吸音が、段々と穏やかなものになっていくのが耳を通してわかります。時間にしておよそ何分経ったでしょうか。即効性の睡眠薬というのは効きが早いもので、皆がすぐに眠りに落ちてしまったのがわかりました。
 ゆっくりと目を開け、二度瞬きをし、視線だけで車内を見回します。バックミラーに映る運転席の男性はぴくりとも動かず、助手席に座る男性もそうです。隣に視線を向ければ、奈倉さんが窮屈そうにシートの背もたれに背中を預けているのが見えました。寝ているかどうかはわかりませんが、一定の間隔で上下する胸を見ていると、私には寝ているように思えました。
 静かに身体を起こすと、その音だけがいやに車内に響き渡ります。ですが、誰も身動きをする人はいません。奈倉さんの左隣にいる女性も、すうすう、と微かな寝息をたてています。
 七輪から立ち上る煙はピークに達していました。煙たい車内にいるのはもう限界でしょう。左手の袖口を口元にあてがい、静かに車のドアを開けます。シートの上、自分の身体を静かに移動させ、汚れたコンクリートの上に右足をつきました。僅かなドアの隙間から、外へと身を滑らせます。
 外の空気はなんとも清清しく思えました。まあ煙たい車内の中にずっといたのです、いくら汚れた都会の空気でも、美味しく感じられるでしょう。
 左足もコンクリートにつき、私は一息つく心持でした。ゆっくりと右手を引き抜こうとすると、いきなり袖口が何かに引っかかり、引っ張ることができなくなりました。私は首を傾げながら、車内を覗き込みます。
 私の上着の袖を、誰かが掴んでいました。
 たどるように視線を奥に向けると、――奈倉さんでした。彼は目を開けてこちらを見ています。
「ネクロさん、一人だけずるいなあ。俺も外に出してよ」
 奈倉さんの口から出た言葉に、何の反応も示すことができませんでした。絶句するというのは、こういう事を言うのでしょう。ややあってから奈倉さんが「ネクロさーん?」とおどけたように言いながら私の袖口を引っ張るので、それでようやっとハッとして意識を取り戻すことができました。
 ドアを閉めようにも、右手の袖を捕まれている為、それは不可能でした。私は仕方なく、少しだけドアを開けます。すると奈倉さんは少しだけ微笑んで、静かにシートの上を移動しました。隙間から足を出し、車外へと滑るように出てきます。
 そうして窓ガラスの中を確認し、静かに、けれども確実にドアを閉めたのでした。閉じ込められた空間の中を、さも楽しそうに見つめ、奈倉さんは車にもたれかかって、にやにやとした笑顔を私へ向けてきました。私はただ、そんな君の悪い笑顔を浮かべる奈倉さんを見据える事しかできませんでした。
 私の予想は、的中したのです。私は死ぬ気が毛頭なかったのですが、彼もまた同じだったのでしょう。最初に感じた同属嫌悪にも似た感情は、気のせいでも、間違いでもなかったのです。
「さーて、ネクロさん、これからどうするの?」
 警戒をあらわにする私のことなど気にせず、奈倉さんは飄々とした態度で、私にそう尋ねてきました。正直に答えたらいいものかわからず、ただ黙り込んでいると、奈倉さんはさも楽しそうに口の端を吊り上げます。
「これでみーんな、死んじゃったわけじゃない? こういうのってさぁ、自殺幇助っていうんだよねえ?」
 それはあなたも同じことでしょう、と私は思いましたが、口にはしませんでした。したらどうなるか、恐ろしかったのです。何か言葉を言えば最後、すぐに足元を掬い取られ、そのまま崩れ落ちていく自分の姿が容易く想像できました。後ろめたさもあったのですが、何よりも奈倉という青年が恐ろしくてたまらなかったのです。
「でもさ、練炭に火つけたの、ネクロさんだし、自殺教唆にもなりえそうじゃない? あとは同意殺人とか? 全部かね合わせたら、懲役、どれくらいになるんだろうねえ」
 自分のことを棚にあげて、奈倉さんは余裕綽々に語ります。その口調はまるで脅すような物言いで、私は身体の奥から徐々に冷えていくのがわかりました。冷や汗も出ず、手はさらさらに乾き、口の中は唾液の分泌量が少なくなり、少しねばついています。
 これが生きた心地がしない恐怖というものなのでしょう。恐らくそういう物だと私は思います。けれども、その反面、私は生への実感を得ているのも確かなことなのでした。だからでしょうか、ある種の絶望的位置にいたにせよ、あまり悲観的にはならなかったのです。
「なんか妙にこなれてたけどさぁ、ネクロさん、これが初めてじゃないでしょ? 何回やったの?」
 答えようか迷いましたが、しばらくして私は口を開きました。
「両手では数え切れないほどです」
 こんな状況下なのです、震えた声が出るのかと思ったのですが、意外にも普通の時の声が出て、少しほっとしました。何故かはわかりませんが、漠然と、奈倉さんに弱みを見せたら負けると、そう思ってしまったのです。自分でも変なプライドだとは思いますが、彼に隙を見せたらどうなるか、それが恐ろしくてたまりませんでした。
 奈倉さんが、へえ、と感心したような声を上げますが、実際のところどういう心境でそんな声をあげたのか、私には見当がつきませんでした。他人に心底から素直に感心するような心得を、彼が持っているようには思えなかったからです。
「こうやって人が死ぬのを見て、恐ろしくなかったのかな?」
「いいえ」
 素直に答えると、奈倉さんが頬を緩めます。
「じゃあ、楽しかった」
「いいえ」
「……悲しかった?」
「いいえ」
 奈倉さんの表情が、ほんの少しだけ曇るのがわかりました。私から視線をそらし、考えるような素振りを見せます。その間、私も奈倉さんから視線をそらし、車の中の人達を見つめていました。シートにもたれかかる姿は、私の目にはまばゆく映ります。
「なんだか、俺に対して、随分と事務的な態度じゃない?」
「そうでしょうか」
 しばらくして問いかけられた言葉に、私は奈倉さんの顔を見上げながら、そう返すことしかしませんでした。いや、できなかったというのが正しいでしょうか。これ以上ないくらい、正直に答えているつもりなのです。これ以外になんと答えたらいいのでしょう。私には皆目検討がつきません。
 しかし、私の態度が気に食わなかったらしく、奈倉さんは薄気味悪そうなものでも見るかのような目つきで私を上から下の隅々まで見た後に、
「それ、素なの?」
 それ、とはどういう事なのか、意図をはかりかねましたが、ややあって私の根底にあるもの――たとえば、意識とか、態度とかいうものについて聞かれているのだと気付き、迷った末に「はい」と返事をしました。
 するとどうでしょう、奈倉さんは一層顔をしかめてみせました。奈倉さんの端正な顔がいびつに歪みましたが、なかなかどうして、様になっていました。恐らく奈倉さんの容姿は、天性のものなのだと思います。
「ネクロさん、なーんか人間ぽくないねぇ。気持ち悪い」
 まるで潰れたゴキブリに対しての物言いのようでしたが、私は正論だと思い、静かに頷きました。
「そうですね、……そうだと思います」
 言いながら再度、私は視線を車の中へ向けました。濁った煙が充満し、少し曇ったように見える車内は、酷く静かでした。物音一つしません。中の様子がもっと知りたくて、私は奈倉さんの正面から運転席のほうへと移動しました。運転席の男性は、目を閉じてシートにもたれかかっています。死んだように眠っているのか、眠ったように死んでいるのか、その曖昧さが私の目には酷く美しく見えたのでした。
 こんな、どうしようもない癖がある私を、気持ち悪いと称さずになんと称すのでしょう。不心得者でありながら、慢性的な嘘つきであるこの私は、自己中心的な理由で死体を冒涜する、ただの外道でしかないのです。
 地獄の釜に放り投げられ、業火で焼かれるべき私ですが、とうとこの時になって、ようやっと罰せられるときがきたのだと思います。この、奈倉という男によって、文字通りの裁きが下るのだと、この時の私は信じて疑いませんでした。
 車内の中は正常な時間から切り離されたかのように時が止まっていました。それが連鎖したとでもいうのでしょうか、車通りのないこの山道で、ただじっと車内を見つめていると、私の時間も止まったかのような錯覚すら覚えます。かろうじて聞こえてくる鳥の声や風の音が、私を現実につなぎとめてくれている唯一のものでした。――まあ、奈倉さんが微かに身じろぎする物音も、それに含まれるでしょうけれど。
 しばらくして、奈倉さんが口を開きました。
「で、ネクロさん、これからどうするの?」
 そういえば、これからどうするかの問いに、答えていませんでした。さっきは全く答える気が起きなかったのですが、死体を愛でるのがこれで終わりになるのだと思ってしまうと、どうしてか自然と私の口はゆるく開いたのです。
「家に帰ります」
「……ハハ、帰るって。こんな山の中、どうやって」
 ネクロさんが仰々しく辺りを見回すので、私もそれにつられて辺りを見回しました。鬱蒼とした、という表現がよく似合った場所だといえます。
「徒歩です。街中に行けばバスがありますから」
「ネクロさん、街中まで何キロあると思ってる?」
「さあ? 大体の距離はわかりませんが、それでも3時間くらい歩けばバス停なりにつくでしょう?」
 言葉とともに口から吐いた息が、窓ガラスを曇らせます。死体を白く覆い隠すそれを慌てて手でふき取ると、鮮明に、運転席の穏やかな顔が映りました。たったそれだけの事で、無性に安堵してしまう自分がいるのでした。
「……無用心だなあ。よくもまあ、今まで捕まらなかったねえ」
「はい。不思議と捕まらなかったんです。でも、多分今日で最後になると思います」
「うん? どうして?」
「奈倉さんという、イレギュラーがいたからです。奈倉さんはこの先、警察に通報するんでしょう?」
 車の窓を数回、ノックしてみます。ですが、車内にいる人はぐったりしたまま、反応を示しません。もう頃合でしょう。車のドアを開けるため、奈倉さんにそこから退くように指示しようと彼を見上げれば、彼は口元を押さえて肩を震わせていました。ぎゅっと目を閉じて、堪えるように笑っています。
「冗談じゃない。俺が通報するなんて、何でそんな事しなきゃいけないのさ!」
 くつくつと奈倉さんは笑います。
「君は恐らく捕まりたいのかな? だったら、尚更通報なんてしてやらないさ! 何で俺がそこまで親切にしてやらないといけないのかなあ」
 奈倉さんの言葉は、尤もだと思いました。それと同時に、この人は本当にぶれているのだと、そう思ってしまったのです。普通の人というレールの上から外れてしまった私が言える立場ではないのですが、もし正常な論理間や道徳心を持っているのであれば、まずは警察なり救急車を呼ぶのが筋ではないのでしょうか。
「そうですね。正論だと思います。とりあえず奈倉さん、そこから退いてくれませんか? 車のドアを開けたいんです」
 それだけを告げると、奈倉さんは眉間に皺を寄せつつ、ゆっくりとその場から移動してくれました。奈倉さんに「ありがとうございます」と告げてすぐに、私は後部座席のドアをほんの少しだけ開けました。濁った空気が外に出てきます。それに目を丸くした奈倉さんは、少しあわてた様子で今いる場所からもっと遠いところへ避難していました。
 運転席のドアも開け、私は奈倉さんとは反対方向へ避難します。一息ついたところで、完全に空気を入れ替えるまで時間がかかるので、私は煙草を吸って暇をつぶすことにしました。ポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつけます。
 あいにく、この道路には歩道なんてものはないですから、椅子代わりになる縁石なんてものはありません。なので地べたに座るほかないのですが、生憎そこまでして座りたいものではありませんでした。できるだけ楽な姿勢で立ったまま、煙草を思いっきり吸います。
 この時だけは、退屈で仕方がありません。退屈で退屈で、時間の経過の緩やかさに恨みすら覚えるほどです。一本目の煙草を吸い終わり、道路に落として、靴の裏で踏みつけます。そうしてもう二本目に手を出して、車の傍まで近寄りました。
 後部座席の足元にある練炭は、いい具合に火が起こっていて、仄かな暖かさを放っていました。車内の空気は大分よくなったようで、顔をもぐりこませて呼吸しても、さして苦しいとか、気分が悪くなるとかは起こりませんでした。
 車のドアを開け放ったまま、車内へと身を滑り込ませます。鼻の中にこびりついて取れないような匂いが、僅かに感じられました。公園のトイレの臭い、とでもいえばいいのでしょうか。嗅いでいていい気のするものではありませんが、これが私にとっての死の臭いでした。
 まず後部座席の女性へ手を伸ばします。薄くファンデーションが塗られた頬を撫で、時には押してみたりします。それでも彼女はぴくりとも動きません。もはやこれは人ではないのです。人の形の入れ物に、肉や血液が詰まっているだけの物でしかないのです。それに触れる私の指にはちゃんと血が通っていますし、自分の意のまま、思い通りに動くのです。
「ああ、なるほど」
 ふいに、声がしました。見れば、いつの間にか奈倉さんが後部座席のドアに手をかけて、車内を覗き込んでいたのです。
「ネクロさんって、なるほどね。そういう意味のハンドルネームか。ネクロフィリアだっけ、死体愛好者っていうの?」
「はい」
 せっかく話しかけてくれたのです、返事をしなければ可哀想だと思い、私は一言だけ彼に返しました。
「しかしよくもまあ、こんな臭い車の中に平気な顔して入れるねえ! ほんっと気持ち悪いなあ!」
 そう言う奈倉さんの言葉は跳ね上がり、楽しそうな調子ではありました。こんな光景を見て楽しくなってくれるのなら、何よりです。
 しばらくそのまま、女性の死体を思う存分触っていると、唐突に、ティロン、とどこからか電子音が響きました。何の音だろうと死体を見回し、そうして奈倉さんが発信源だと気付き、私は振り返りました。そこには、奈倉さんが携帯を構えて、ニヤニヤと薄気味の悪い笑顔を浮かべています。
 その瞬間、また電子音が響きました。奈倉さんの手にある携帯から、です。
「撮ったんですか?」
「うん。こんな気持ち悪い光景、滅多に見れないからね」
 そうして再度、電子音が響きます。現実感のない光景に、現実感のあるもの――たとえば、今奈倉さんが手にしている携帯の電信などです――を持ち込まれるのは、私は好きではありません。文句を言おうかと思ったのですが、奈倉さんは文句を素直に聞き入れるような性格には思えず、やめてくださいという言葉すら、私は飲み込んでしまいました。そもそもそんな事を言える立場ではないのです。半ば諦めの境地に私はありました。
 できるだけ奈倉さんを気にしないよう、死体に触り続けましたが、そのたびに電子音が響きます。そのたびに苛立ちが募っていくのがわかりました。ただ静かに、私の生への実感を得たいのですが、どうにもそれは叶いそうにありません。小さく嘆息して、私は3つの死体の懐から、財布を取り出しました。素早く金を引き抜き、できるだけ指紋をふき取った上でもとの場所に財布を戻します。
 金額を数えると、ざっと8万はありました。それを私の財布の中にしまうと、奈倉さんが微かに笑い声を上げました。
「はは、どうしようもない下種だ」
 そんなことは百も承知でした。
 下種。劣等。劣悪。愚者。それが私なのでしょう。自分を卑下するのはよくないことだ、なんていうのは自己啓発においてよく耳にする言葉ですが、私としては卑下してもいいのではないのかと思うのです。自分を劣等と認めてこそ、今の私はいるのですから。
 この、私を作り上げた美しいものたちから離れるのが、正直なところ名残惜しいです。眠る女性の頬を撫で、前髪をかきあげます。
 死は誰にでも平等に与えられ、かくも儚く美しいものです。
 生きとし生けるもの、すべての終着点。究極の美です。
 それに包まれた死体に、私は顔を近づけました。
 唇に伝わるのは、ひやりとした冷たさと、まだ柔らかな感触です。
 顔を離し、頭をなで、抱きしめます。
「さようなら」
 車を降り、ドアを閉めました。私が触れた箇所を袖口でぬぐってから一息ついて、傍に立つ奈倉さんを見上げます。
 彼は子供のような、心底不思議そうな表情で、私を見下ろしていました。
 てっきり、気持ち悪いとかの罵声が飛んでくるかと思ったのですが、奈倉さんはだんまりを決め込んだままでした。呆然としている、といったほうがいいかもしれません。
 声をかけようか迷った末、私は結局声をかけることをしませんでした。
 何も言わずに、来るまで来た道を引き返すと、しばらくしてから足音が追いかけてくるのが聞こえてきます。
「ネクロさん」
 少し大きめな声で名前を呼ばれましたが、聞こえないフリをしました。それでも再度また名前を呼ばれるのですから、結局、私は立ち止まってしまいました。振り返ると、奈倉さんがこっちに小走りでやってくるのが見えました。
「奈倉さん、なんでしょうか」
「奈倉じゃない。臨也だ。折原臨也」
「……本名ですか?」
「うん。よかったらネクロさんも名前教えてよ」
「私はといいます」
さんね。帰り道わかんないから、俺も連れてってよ」
「いいですよ、折原さん」

2012?/--/-- 時期不明
ここまで読んだあなたに謝りたい。ほんとごめん…。