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注意
・レイライン2EP5終了後と仮定。ゆえに本編の激しいネタバレがあります
・夢主がなんかすごい特殊能力持ちのうえ、性格というか人格がそこそこにひどいです
・人によってはかなり色濃い百合になります
名前(ナマエ) 左の括弧内がフリガナになっていないとおかしな事になります
以上、許容できる方のみどうぞ
 その瞬間は、何か特別な――
「あっ……と、……すみません」
 鼻、というには狭いが、顔面全てというには広すぎる箇所に硬い衝撃。それに怯んでたたらを踏み、よろめいた拍子に掴まれた右腕を振り払う。したたかに打ち付けた鼻を押さえつつ、涙が滲む目を見せまいと俯きながら、巣鴨名前は目の前の青年にどうにかこうにか謝罪を述べた。
 いや、青年と呼べるかどうかも定かではないこの、男と女の中間点に位置するような曖昧な外見。10人中10人が美人だと口にするような美貌を称えた目の前の人物は、無表情ながらも僅かに眉をひそめ、まるで叩き落とすかのように振り払われた己の右腕と俯きがちの少女を見比べる。
「……いえ、こちらの不注意でした。申し訳ありません。お怪我は」
「平気です、気にしないでください」
 無表情ながらも、焦りの混じった気遣いの声を遮るように、名前が早口でまくし立てる。そんな名前の態度が気に障ったのかどうか……はよくわからないが、青年――ルイはことさら眉をひそめた。かといって何を言うわけでもなく、ただ一言「失礼」と呟いてその場にしゃがみこむ。先ほど手を振り払われた拍子に名前の小脇から零れ落ちた袋が、ちょうどルイの足元に転がっていたからだ。ルイはそれを拾い上げ、すっと立ち上がった。袋が破けていないかを確認する際、袋の口からほのかに甘い匂いが漂ってくる。ルイはすんと一つ鼻を鳴らしてから僅かに目を細め、口を開く。
「気にするな、と言われましても。……鼻、大丈夫でしょうか」
 その言葉のあとに、取ってつけたように「落し物です」と名前に袋を差し出した。名前がぎこちない動作で左手を伸ばし、袋を受け取る。
「えと、ありがとうございます。……鼻は、大丈夫です。大丈夫ですから、ええ。大丈夫」
 その言い方がまるで自分に言い聞かせるような類のそれで、ルイは無表情ながらも不安げな気配を色濃くする。ルイにしては珍しく、心の底から心配している気配を見せているのだが、あいにく名前は俯いたままなのでそれが彼女には伝わらない。
「肘がぶつかったときに、変な音がしましたけれど……」
 名前はぎくりと身体をこわばらせた。確かにルイの言うとおり、肘鉄を食らった際、めきょっとか、そういう風な“怪しい音”がしたのである。
「……だ、大丈夫ですよ。ほんとに」
 平静を取り繕うほかない。それでもルイは、彼にしては珍しく狼狽した様子で、また彼にしては珍しく心配そうな眼差しを名前に向けるのだった。
 そも事の発端は、偶然に偶然が重なった、まことに不幸なタイミングの一致であった。
 書棚をうろうろしながら、図書館の奥にある一室へ向かう最中の名前と、その目当ての部屋の近くにいたルイ。書棚から魔道書を手に取り、己の知的好奇心を満たしている最中の事、義眼をはめた眼帯で覆われた右手への注意が疎かになっていたせいで、あろうことか棚から本を引き抜く際、通りがかった名前の顔面に肘鉄を食らわせてしまったのである。
 ただの一学生の名前にとって、魔術の本国の名家のもと、心身ともにびしばしと鍛えられたルイの、それでも本気を出していない肘鉄は、非常に有効な一撃となった。現に名前は激痛に視界を潤ませ、それを相手に悟られまいと必死になっている。
 名前は自然と出た鼻水をすすりながら、指先で鈍痛を訴える鼻骨を撫でつつ、そろりと顔を上げてルイの表情を伺う。自分の主に毒舌を振りまくルイの態度を目にしていたせいで、少しばかりの怖気が足元をのぼってくるが、名前の意に反してルイの表情は穏やかであった。内心胸を撫で下ろす思いで口を開く。
「あの、……ルイ、さん。……ええと、こんにちは。今日はずっとここにいたんですか?」
「はい。暇でしたので。それはそうと鼻の具合は」
「あ、いえっ、それはもういいですからっ。ほんとに。大丈夫ですから。ほら……」
 名前が鼻を押さえていた手をそろそろと下ろしながら顔をあげれば、ルイと見詰め合うような形になる。思いのほか近い。どこに目を向けたらいいのかわからず、名前はルイの眼帯をじっと見つめたのち、ゆっくりと、顔を明後日の方向へ向けた。それがルイにどう思われるか、覚悟の上での事だった。およそ相手に『何かあるのではないか?』と疑問や嫌悪を抱かせる仕草を向けられたルイだったが、ふう、と一息ついて呆れ気味に一言。
「……赤くなっていますが」
「そ、そりゃあ……ぶつけましたから。でも、しばらくすれば、ひけると思います」
「それでは何か、冷やすものでも……」
「だだだ大丈夫ですからっ! ほんとに!!」
 叫んでから、はっとして口を押さえる。図書室において大声を出すという事はめいめい禁止されているからだ。それでも咎める声――というよりも存在が近づいてこないのを確認し、名前は安堵の息をついた。ほっとしながらも一歩半ほど後ろに下がり、ルイと距離をおいてから改めて彼の顔を見据える。
「……ところで、特査分室に誰か来てたりは……?」
 ルイの後方、数メートル先にある扉を指差す。
「……トクサブンシツ、ですか。……申し訳ありません。ご覧の通り読書に没頭していて、誰が通ったかは存じ上げません」
 言いながら、本棚の中間の出っ張り、物を置くのに適したささやかなスペースに積み上げられた分厚い書物を視線で示す。
「そうですか……。誰も来てないのかな」
 ドアを見つめ、寂しげに目を細める。図書室と特査分室を隔てるこのドアは薄く、音が漏れやすいのが特徴だ。息を潜め耳をそばだててみるが、なるほど確かに分室から騒がしい声は聞こえてこない。ともすればルイの言うとおり、誰も来てはいないのだろう。
 あの事件の後――夜の世界が消え、20年前の火事の行方不明者であった烏丸小太郎がいなくなってからの事。特査の班長である鹿ケ谷憂緒とメンバーの一人である久我満流は、あまりこの部屋に顔を出さなくなってしまった。二人が何を思って顔を出さなくなったかは概ね理解できるので、名前もあまり触れられずに居る。現状、こうやって分室に顔を出すのはせいぜい名前と、村雲姉弟のみだった。
 ドアを見つめながらぼんやりと思考する名前が気にかかったのか、ルイはやや首を傾げてみせる。その仕草で名前はハッと我に返った。へこっと頭を下げる。
「ありがとうございます、教えてくれて……」
「いえ、私はただ、ありのままを述べただけでございます」
「それでも助かりました。え、ええと……読書の邪魔をしてごめんなさい。それでは」
 名前は再度ルイに頭を下げて、足早にその場を後にする。
「ルイ!? 今大きな声が聞こえたけれど何か……あら?」
 ……後にしようとしたのだが、近くに居たのだろう、アーデルハイトが書架の隙間からひょっこりと顔を出した。名前とルイという、ほぼ接点のない組み合わせに、ルイを最もよく知るアーデルハイトが何を思ったのか――。鼻っ面を赤くした名前と、いつもに比べてやや申し訳なさそうな空気を纏うルイ。アーデルハイトは二人を交互に見比べた後、つかつかとした足取りで歩み寄ってくる。
「……ナマエ? ……何かあったのかしら?」
 ひどく不安そうな眼差しに射抜かれ、名前は内心うっと詰まる。慌てて口を開き――
「あ、いえ、特になにもありません」
「先ほど、私が彼女に肘打ちを食らわせてしまいました」
 ほぼ同時の発言であった。それに名前は目を見開き、なんともいえぬ表情でルイを見上げる。その視線に気付いたルイが、「何か?」と尋ねるような視線を名前に向ける。なんともいえぬ威圧感。有無を言わせぬ謎の強制力。ルイの気迫におされ、名前は気まずげに明後日の方向を向くこととなる。
「……はい?」
 そんな、二人の重なった言葉と、奇妙な仕草を目の当たりにしたアーデルハイトはきょとんと、そう表現するに相応しい顔つきになるのだった。
「ええと、ルイ。よく聞こえなかったわ。もう一度言って頂戴」
「ですから、肘打ちです。肘鉄と言ったほうがよろしいでしょうか? 私の右肘でうっかり彼女の顔を打ちました」
「あらそうなの……って、……ええ!? 肘鉄!? ちょ、ちょっと、ナマエ!? 大丈夫なの!?」
「あ、いや、大丈夫ですから……」
「何故逃げようとするの! いいから黙って見せて御覧なさい!」
 後ずさりする名前であったが、アーデルハイトに両頬を掴まれ、ひくりと肩を震わせる。逃げようにも両頬を捕まれてはそれも適わない。抵抗するにしても、アーデルハイトの目は心配そのものの色を宿しており、致し方なしと判断した名前は、ただ黙ってされるがまま、じっとその場に立ち竦むほかなかった。
「鼻が真っ赤じゃない! 何か、冷やすもの……!」
「も、もう痛くないですから! 大丈夫ですから、ほんとに……」
「そうだわ! 分室! 確か、水道があったわね! ハンカチでも濡らせば……」
「いや、ですからほんとに大丈夫ですから……! そこまでしなくてもいいです!」
 どこからともなく取り出したハンカチを手に分室へ向かおうとするアーデルハイト。それを行かせてはなるまいと名前はアーデルハイトの腰にしがみつく。そこから始まる口論めいたやり取りを呆然と見つめているルイだったが、ふと背後にほのかな気配を感じ、首だけで振り返る。
 見た目は人でありながら、その本質は少女の胸に抱えた本だという。この大図書館の管理者であるリトが僅かに首をかしげながら、不思議そうな眼差しを名前とアーデルハイトに向けていた。
「……図書室での大声は禁止よ」
 小動物めいた姿と仕草に反して、少女の口から出た声は抑揚がなく、落ち着きはらっている。物静か。リトの態度は誰に対しても等しく平等で、リトを見た生徒は全く同じ印象を抱くほかない。しかしルイはそれに付け加え、もう一つ、別の印象を抱いていた。
 ――ホムンクルス。リトは紛う事なく、完全たる人造人間だった。ホムンクルスは大抵主人の命令に忠実で、だからこそ融通の利かない生き物だ。いや生き物と呼ぶより、人形と呼んだほうが相応しいだろう。己の管理する図書室で騒ぎが聞こえ、定められたルールに従い、注意を促しに来たのだ。
「う……ごめんリト。静かにする」
「ええ。そうしてもらえると嬉しいわ」
 こくり。小さく頷いて、リトはとことこと立ち去っていく。それを切欠に名前はアーデルハイトから離れ、対するアーデルハイトはこほんと小さく咳き込んだ後、それでもなお納得がいかない様子の目つきで名前を見つめる。
「本当に、大丈夫なのね」
「はい」
 小声で尋ねられ、名前も小声で返事をする。
「……ルイは謝ったのかしら?」
「はい、ちょうどさっき……」
 言いながらルイの方に視線を向け、――彼の左目がこちらを見ていることに気付き、名前はさっと視線をそらした。その仕草にアーデルハイトは不審がることなく、きょろきょろと書架の合間を見渡し、そして一言。
「……もしかしなくとも、あなた一人? コガとウシオは?」
「残念ながら一人です。二人に声をかけてみようとは思ったんだけれど、見つからなくて……こっちに来てるかなと思って来て見たんですが、……無駄足だったみたいです」
 誰も居ない分室の中を思い浮かべ、名前はほのかに苦笑した。
「それでは、もう帰ってしまうの?」
「ええと、……そうですね、はい。一人で分室にいても、仕方がないので。今のところ、遺品による騒動は収まっているみたいですから、さして依頼もありませんし」
「そうね……」
 名前の言葉に同調するアーデルハイトの顔は、少し寂しそうだった。その顔を名前はぼんやりと眺め、抱えた袋を見下ろし、意を決して口を開く。
「あ、あの、アーデルハイトさん。今、おなか空いてませんか? 今日調理実習でこれ作ったんですけど、一人じゃ多くて食べきれないんです」
 紙袋の口を開けて示せば、アーデルハイトが怪訝そうに中を覗き込む。袋の中には丁寧にラップに包まれた焼き菓子が折り重なるように詰め込まれていた。
「あら、ええと、……マフィン?」
「はい。私、甘いものはあまり得意なほうではなくて……」
「……え、ええと、いいのかしら?」
 アーデルハイトは甘い香りに食欲を刺激されたのか、うずうずしながら迷う素振りをみせる。
「いいとは、何が?」
「……だってこれ、コガやウシオにあげるつもりだったのでしょう? 探していたとさっき言ってたじゃない」
「はじめはそのつもりだったんですが、あの二人どうにも見つからないし、別に、食べてもらえればそれでいいというか。……あー……いや、今の言い方だとアーデルハイトさんにまるで残飯処理を押し付けるみたいになっちゃいますね、すみません」
「いえ、私は別にかまわないわ。むしろ、頂けるのならとても嬉しいけれど。……こ、ここで食べてちゃってもいいのかしら?」
 もはや食べる気満々らしいアーデルハイトに、名前はほっと表情を和らげる。
「あ、いえ、分室の方で。図書室は基本飲食禁止ですから」
「そ、そうね、大事な本があるものね……。でも、特査の主がいないのに、あの部屋を使っていいものなのかしら。名前はともかく、私はまったくの部外者なのよ?」
「うーん、下手に弄らなければ、憂緒も別に怒りはしないと思いますよ? むしろ、まったくの部外者ってほうに、怒るかもしれません」
 名前の苦笑に、不安そうでありながらもアーデルハイトはほっとした様子で息を吐く。そうしてからはっと思い出したように身体を震わせ、僅かに後方を振り返る。そんなアーデルハイトにつられ、名前も僅かに身体を傾けた。彼女の肩越しに、読書に熱中する執事の姿が目に入る。
「……ルイも、いいかしら?」
 尋ねる声は、何故か気遣うようなものを孕んでいた。
「はい。ルイさんがよければ、全然かまいませんよ」
 額に焦りが滲むのを感じつつも、名前は笑顔でそう返すほかなかった。


 3人揃って分室に入り、まずアーデルハイトをソファに座らせた。ルイにも座るよう促したのだが、ルイは首を振り、使用人ですからの一点張りで直立不動を維持している。どのみち主人は逆であるのに、やはり家柄とはこうもさせるものなのかと名前は思ったのだが、口にはしなかった。
 ともかく客を招いた以上、用意すべきものは全て名前が用意しなくてはならない。紅茶を入れる心得など皆無ではあるが、それでも笑顔で「お茶を淹れてきますね」と応接スペースから離れ、部屋の隅に位置する給湯室に足を踏み入れる。棚からいつも使用しているティーポットなどを取り出し、やかんに水を汲んでコンロにかける。湯がわくまでの間どうしたらいいのかわからず、そっと部屋の中を覗き込み――
「手伝いましょう」
「ひいっ!!」
 いきなり目の前にぬっと現れた黒い壁に、名前は悲鳴を上げて後ずさる。悲鳴をあげてから慌てて口をおさえ、ブリキのおもちゃほどのぎこちない動作で顔を上げ、ルイの顔を恐る恐る見据えた。いつもの無表情でありながら、僅かに目を見開いている。
「……ああ、驚かせてしまいましたか。申し訳ございません」
「あ、い、いえ。こちらこそ変な声を出してしまって、すみません」
 へこへこと頭を下げる名前を見下ろすルイは、やはり無表情のそれだった。
 狭い空間に二人で並ぶ。ルイはいつもながらの直立不動で、何を考えているのかわからない無表情だった。そんな彼にどう話を振ったらいいのかわからず、名前はただひたすら、コンロの火を見つめるばかりだ。
 そうこうしているうちに、やかんが小さな音を立て始める。水の中で泡が立ち、その音による振動でやかんが僅かに震えだす。ルイがティーポットの蓋を取り、中に茶葉を数杯いれたところで、名前はコンロの火を止めた。やかんの持ち手に触るも、指全体に伝わる熱さに驚き、反射的に手を引っ込める。
「……私がやりましょうか?」
 見かねた様子のルイが、そう申し出てきた。
「お、お願いします……」
 ルイがやかんを手に取り、湯を注ぐのを、名前は何も言わずにじっと眺め――
「……てぶくろ」
 ぽつりと一言呟いてから、ハッとする。無意識のうちの事だった。慌てて口を覆うも、時既に遅し。
「はい?」
 ルイの不思議そうな声に、名前は渋々口を開く。
「……あの、さっき、図書室でぶつかったとき、ルイさん、手袋してませんでしたよね? でも、今はしてるんだなと思って。……ええと、すみません、特に意味のないただの独り言です……」
 言いながら、名前は備え付けの小さな砂時計をひっくり返す。名前の言葉はひどく拙いものではあったが、ルイにはちゃんと意味が通じたようで、すぐに「ああ」と納得するような声が上がった。
「たまに、ページが捲り難い本があるんですよ。そういう時は外すんです」
「ああ、なるほど……」
 一人頷き、名前は砂時計を見つめる。この小さな砂時計は名前が初めて特査分室の給湯室に足を踏み入れたとき、既にあったものだ。恐らく憂緒が持ち込んだものだろうと、名前は勝手に推測している。特査のメンバーの中でも憂緒はとりわけそういったものにうるさい。紅茶の味はもちろん、お気に入りのケーキ屋はどこで、マカロンはどこのお店がおいしいだとか。この砂時計が落ちる時間が、美味しい紅茶を淹れる目安になるそうだが、実のところ、名前は紅茶の味などわからないので、どうともいえないのだが。
「……ナマエ
 名前を呼ばれ、はっとして顔を上げた。さきほどの声の発生源は明らかに、言うまでもなく隣に立つルイであった。
「少し、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「……ええと、はい。どうぞ」
 頷くと、ルイはしばしの間、思案げに眉をひそめる。ただの質問に何故そんな顔をするのか、と名前が不思議に思っていると、
名前は、私達の事が苦手なのでしょうか」
「……はい?」
 瞬きを何度か繰り返し、首をかしげながら尋ねると、ルイは更に思案するように表情を曇らせる。
「……苦手、いや、……嫌い。嫌悪している。……といえば伝わりますか?」
「あ、いや、……ちょ、ちょっと待ってください。いきなり何を……」
「気分を害するようでしたら、お答えしなくとも結構です」
 真顔で告げられ、名前はたじろいだ。何がどうしてそうなったのか、皆目見当が付かなかったからである。
「ええと、別にアーデルハイトさんの事も、ルイさんの事も嫌いではありません。というか、質問に質問で返す事になりますが、どうしてそんな事を私に……」
「フラウが『ナマエの態度は、特査のメンバーに対する時と私達への時とでは明らかな隔たりがある』と夜な夜な愚痴愚痴呟いておりましたので。……まあ、私も多少そういったものを感じる時がしばしばありましたが……」
 受け取る側によってやや演技くさいと感じられる物言いのあとに、一拍の間を置いて。
「――たとえば、そう、さっきの図書室での事とか」
 ルイの静かな眼差しに、名前はうっと言葉を詰まらせた。どう答えるべきか、というふうに視線をあちらそちらに向け、見るからに焦りを滲ませる。
「……とりあえず、嫌い、というわけではないのですね」
「は、はぃ……」
 しゅんと肩をすぼめつつ、名前はコクコクと頷く。
「そうですか! それはよかった! フラウが安心します!」
 ルイのその言い方は、かなりわざとらしかった。
「もしや、フラウがあなたに粗相でもしてしまったのかと内心冷や冷やしていたんですよ。……いや、もしかして私があなたの気分を害するような事でもしてしまったでしょうか? だからフラウへの態度がぎこちなくなってしまった?」
 嘘も方便といったところか。その気もないくせに、ルイはべらべらと口上をまくし立てる。
「いえ、ですからっ、お二方に非はないんです! 寧ろ、こちら側の問題によるもので……」
「……ほう? こちら側の問題、ですか。一体どういう意味でしょう?」
「あ、いや……その……」
 蛇ににらまれた蛙のごとく、名前がたじろぐ。墓穴を掘ったと後悔すると同時に、ルイに言葉では適わないだろうという直感がいまさら芽生える。
ナマエ側の問題というと、やはり、個人的な感情が起因になっているという事でよろしいでしょうか?」
「いえ、だから、そういうのではなくて」
「そういうの、とは、どういうものでしょうか? 曖昧な言葉で答えられても、私には全くわかりませんが。是非とも“そういうの”についてご教授願いたいものですね」
「……っ、あの、ですから、その……」
「ん? 何故言い渋るのです? 個人的な感情以外に明確な理由があるならば今口に出せば済むことではないですか? ……とすれば、やはり、明確な理由は存在せず、個人的感情が起因になっているとしか考えられませんね。ナマエはわたしたちの事が嫌いであったと」
「いえ、ですから……!」
「……はあ……。なんとも悲しい事です。私はたとえナマエに嫌われても耐えることはできますが、このことをフラウに伝えるのが私はひどく恐ろしい。フラウは昔から泣き虫で、何かあるとすぐ一晩中枕を濡らす始末でしてね……。今まで友だちと思っていた人に、実は友だちとは思われていなかったという事実はフラウにとっては重くのしかかるでしょう。ああおいたわしい……」
「で、ですから違うんですってば! 話を聞いてください!」
 名前の言葉に、ルイはすっと目を細める。
「ほう? ではお前の言うとおり話を聞いてやろう。何が違うというんだ? 今すぐこの場で言ってみろ」
「いいいいいきなり口調変えるのやめてくださいよ!? 心臓に悪いです!」
「つべこべうるさい。ほら、早く言……」
 言いかけたルイだったが、途中で口を閉ざしてしまった。そのままルイは名前から視線をそらす。近場に合ったトレイの上にティーポットを載せるので、名前はあわてて砂時計の方を見た。見ればもう砂時計の砂は全て下に落ちていた。
「あちらで注ぎますので、ナマエはそこのシュガーポットをお願いします。……話の続きも、あちらでしましょう」
 ティーカップやらスプーンやら、必要なものをひょいひょいとトレイの上に載せ、ルイはすたすたと給湯室を後にする。名前は唖然とその後姿を見送り、ひとつとり残される形となったシュガーポットを手に取り、慌ててルイの後を追った。

 「お茶を淹れてきますね」と自らすすんで言ったにもかかわらず、応接スペースに戻ってから、名前はソファに腰掛け、身体を小さくしつつも、ルイの手つきをぼんやりと眺めていた。名前がルイに追いついた後「私がやりますから」と申し出たのだが、ルイは首を振って名前にソファに座るように促す。聞く耳は恐らく持ってくれないだろうと判断した名前は、渋々ソファに腰掛ける事となったのである。
 ルイと名前の奇妙な空気に、アーデルハイトは怪訝がるわけでも、ルイに何かしたのかと突っかかるわけでもなく、ただただ労わるような眼差しを名前に向ける。アーデルハイトはひとり蚊帳の外にいたわけではない。戸のない給湯室から漏れる声に耳をそばだて、ただルイが行動を起こすのをじっと待っていたのだ。
 三人分のカップに紅茶を注ぎ終えたルイは、アーデルハイトの隣に腰を下ろし、足を組みかえる。それが尚更、名前の恐怖心をあおった。名前の身体がことさら小さくなる。
「それでは、お前が言う理由とやらを今ここで説明して貰おうか」
 先ほどまでの敬語はどこへやら。ルイの態度はいかにも尊大で、ヴァインベルガー家当主の貫禄をかもし出している。ごく普通の一般学生である名前が、この傲慢な態度に逆らう術など持ち合わせていなかった。
「ま、まってルイ。お話の前に、ナマエの作ったマフィンを……」
「馬鹿かお前は。物を食わせたらそっちに気取られ食い物ごと言葉を飲み込まれてしまうだろうが。……と、いうわけで、ナマエ。お前が物を食うのは話が終わってからだ」
 対面からひょいとソーサーごと紅茶を取り上げられ、名前は更に身体をすぼめる。そんな光景を見つめるアーデルハイトは、まるでいつもルイにあしらわれている自分の姿を重ね、今にも泣きそうな表情になる。
「……アーデルハイト、お前、まさか名前に感情移入するだなんて事はしていないだろうな」
 ルイの問いかけにアーデルハイトは無言のまま、紅茶に口を付けた。助け舟がぶくぶく沈んでいく光景を、名前はぼんやりと連想する。どうしてこうなったのか。名前は今までの行動を思い返し、半ば図書室に来なければよかった、と思うところまで来ていたが、現実逃避しても仕方なしと姿勢を正し、一つ深呼吸してみせる。
「お、お話する前にひとつ、お二人に質問してもいいですか?」
「……ふむ。『質問に質問で返す事になりますが』とさっき申し訳なさそうに言っていたのは、はて、どこのどいつだっただろうか……いまいち思い出せん」
 その言いぶりから察するに、ちゃんと覚えているのではないのだろうか。そう口に出したくなる気持ちを、名前はぐっとこらえてみせた。
「すみません、どうしても聞きたいんです。よろしいですか?」
「わっ、私は構いませんよ! る、ルイも、それでいいわよね?」
 黙り込んでいたアーデルハイトが、ここぞとばかりに声をあげる。
「……ああ」
 執事の格好をしながらも、傍若無人な態度を見せるルイと、お嬢さまらしい格好でありながら、執事の機嫌を伺うアーデルハイト。二人に出会った当初は、まさかその立場が“逆”であるとは思いもよらなかった。ヴァインベルガー家の真の当主であるルイと、その隠れ蓑であるアーデルハイト。確かに、執事の方がやや傍若無人であると名前は常々思っていたが、まさかそういった事情があるとは思いも付かなかったのである。ともすれば、そういった気配を全く察知させない二人は、上手く調和が取れているのだろう。
「して、聞きたい事とはなんだ」
「上手く言えないんですが……その……」
「別に上手く言おうだとかそういう事は一切気にしなくて言い。お前が気にする事は唯一つ、“俺達にわかる日本語で言え”、それだけだ」
 名前が口を引き結ぶ。逃げたい気持ちをぐっとこらえつつ、恐る恐る口を開く。
「……ええと。私は、あなた方二人に、何かしましたか?」
「何かとは?」
「気に障るような事でもしたのかと」
「……これは驚いた。自覚がないのか」
 肩を震わせ、くつくつとルイが笑う。
「トクサのメンバーと俺達とでは隔たりがあるとさっきも言ったろう。他の生徒にしろ、お前、“余計な接触を避ける”きらいがあるだろう?」
 図星を思いっきり突かれ、名前はぎくりと身体をこわばらせる。
 ――先の図書室での一件。ルイが手袋をはめていない手で名前の手に触れたとき、名前はルイの手を叩き落としてしまった。ルイはその時さして気にした様子なく振舞ってはいたが、実のところ心のうちでは何か思わしくない事を考えていたに違いない。ルイの、名前に対する疑惑が確信に昇華した瞬間、名前は間抜けよろしく涙目で鼻っ面を押さえていたわけだ。
「そもそもトクサのメンバーはほぼ訳有りのようだからな、しかしどうしてかお前の素性はわからない。トクサの活動を見てきたが、お前はかのカラスマと同じくさして役に立っているか疑問に残る。というわけで、本人のそ知らぬところで探りをきかせるよりも、ならばいっそのこと本人に聞いたほうが手っ取り早いのではないか、と思ったわけだ。さあ言え」
「ルイ、もう少し言い方ってものがあるでしょう。……その、ナマエ、ごめんなさい。こうなった切欠は私にあるのよ。私からも説明させてちょうだい」
 転覆した助け舟が、波に乗ってそろそろと近寄ってくる。そんな空気だった。
「ねえ、ナマエ。……ホムンクルス……いえ、モモカに、渡り廊下で音叉を使われた事を覚えている? あの、私達から偽の呼び出しを受けた朝の事よ」
「え、……あ、はい」
 名前は眉を寄せながらも、記憶を引きずり出す。
「とはいえ、聖護院先輩が音叉を床についた時までしか覚えてないのですが」
「それよ。そこが私達にはちょっと引っかかったの。あの時、ナマエはあの二人の魔女と同じくらい、昏倒していたでしょう?」
「え、えと……そうだったんですか? 全く覚えていなくて……」
「ラ・グエスティアの効果は、使用者の魔力ではなく、一人ひとりの魔力に大きく左右されるの。魔力が全くなかったコガはぴんぴんしてて、魔女の二人は気絶していたわ。あなたも同様に」
「う、……ええと、すみません。まったく覚えてないです。記憶があるのは、礼拝堂で目を覚ましてからで……」
「そう、そこよ。礼拝堂で目を覚ます、そこがポイントなの。あの音叉は魔力が高いほど効果が強いのよ。あの時音叉の波動を喰らった中、ナマエ一人があそこまで昏倒するなんて……どう考えてもおかしいわ」
 アーデルハイトは名前から視線を逸らし、しばし考え込む素振りを見せ、そうして顔を上げた。意を決した、というような表情で、名前を見据える。
ナマエ、あなた、……魔女ではないの?」
「……いや、いやいやいやっ! ちょ、ちょっと待ってください。……ええと、お二方は私が魔女であると疑っているんですか?」
 ルイとアーデルハイトは顔を見合わせ、
「ええ」
「ああ」
 ほぼ同じタイミングで頷いて見せた。
「無駄に魔力を持ち合わせていながら魔女ではないなんて、宝の持ち腐れにも程があるだろう」
「……あ、すみません、宝の持ち腐れで……」
「……つまり、ナマエは、魔女ではないの?」
「そうです」
 こくこくと頷いて肯定する。
「正直、魔女とか、さっぱりわからないです。春霞や鍔姫先輩は凄いとは思いますが、凄いなって、そう思うくらいの知識しかなくて……」
「お前の感想や見解なんぞ俺からすれば頗るどうでもいい。聞かれた事以外の事は口にするな」
「……す、すみません」
 名前がしゅんと項垂れた。
「ちょ、ちょっとルイ……」
 アーデルハイトがたしなめるものの、ルイはアーデルハイトに疎ましげな視線を向けるのみで、目ぼしい効果はなかった。
「まあいい、お前が宝の持ち腐れという事はよーくわかった。それでは何故、人との接触をあからさまに避ける?」
「…………えっと……」
 黙り込む。やや俯きがちになり、しばし考え込んだ末。
「……き、……気持ち悪いから?」
 名前は首を傾げつつ、ぎこちない引き笑いを浮かべてみせた。
「……わかりやすい嘘とは、どうしてこうも滑稽に映るのだろうな」
 ハッと鼻で笑われ、名前は尚更肩をすぼめる。見かねたアーデルハイトが身を乗り出すようにして、じっと、これでもかと真摯な眼差しを名前に向ける。
ナマエ、どうしても言いたくない? そうであれば、無理にとは言わないわ。けれど、少なくとも私もルイも、大したことでは驚かない。それが魔力に関するものであれば、尚更よ。私達は、古くからの魔女の家系ですもの」
「お前は分家だがな」
「ルイ、ちょっと黙っていてちょうだい。あなたが口を挟むと碌な事にならないわ」
「ja」
 ルイはふっと口元だけ微笑んで、目をとじる。そしてそのままソファの背もたれに寄りかかった。当分は口を開かない、というポーズなのだろう。そんなルイを名前は怯えがちに見つめ、深呼吸を挟んでから、ようやっと落ち着きを取り戻した様子でアーデルハイトに向き直った。
「ええと、いくつか質問しても?」
「構わないわ」
「どうしてそこまで私に興味を? ここまでするメリットは?」
 アーデルハイトが目を見開く。
「あなた方にとって私が有益な情報を持っているとは、到底思えなくて」
「……あ、あのね、ナマエ。隣にいるルイはどうかは知らないけれど、私はそういうつもりで言ったわけじゃないのよ。メリットとか、そういう事ではなくて……」
 アーデルハイトの肩が、ふるふると震えだす。
「……純粋にナマエの事を知りたかったのよ……。コガともウシオとも、アオイもツバキもシズカもカスミも、もちろんコタロウも含めてよ? 経緯はどうあれ、仲良くなれたと、私は思っているの。これからもずっと、末永く仲良くしたいと思っているのよ。でも、ナマエだけはどうにも、私達に対してぎこちなく思えて……それでも他のメンバーとは普通に話しているし、……ウシオに聞いてみても『私がお伝えすべき事ではありません。気になるのでしたら本人に聞いてみてください』の一点張りで……だから、だからね……」
 うっと、名前は言葉を詰まらせる。なぜならアーデルハイトの双眸に涙がたまっていくからだ。
「も、もういいです! ごめんなさい! 変な事を聞いてごめんなさい!」
「……ああフラウ、おいたわしい。友達だと思っていたのは自分だけだった、と夜な夜な恐れていたことが現実となってしまったな」
「う、ううううるさいわよルイ! う、うぅうぅ~……」
「る、ルイさん! 変な事言って煽らないでください! ええと、ええと……違うんですアーデルハイトさん。あの、その、お願いですから泣かないでください」

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