・首に纏わる抗争とかいろいろ終わってから(=数年後)の話です
・女々しい臨也と、うずくまって貝になってる静雄みたいな感じです。話の傾向は重め。
・トムさんの未来とか、臨也の子供時代とか、臨也の父親とかいろいろ捏造しています。
・オリキャラが出しゃばります。二人がすごく仲いいです。
以上、許容できる猛者のみどうぞ。
まだそれ着てるの、と無遠慮に部屋に上がってからの第一声は、呆れを孕んだ調子のものだった。さっき布団から出たばかりの、文字通りの寝起きで、頭が上手く回らないせいか、臨也のその言葉が何を指しているのかいまいちよく理解できず、静雄はそれ、と呟きながら自分が身に着けている服を見下ろす。くたびれたTシャツに、緑色のジャージ。どちらも高校の時のものだった。なんとなく着ると落ち着くので、部屋着にしていた。Tシャツのほうは何回も何回も洗濯機で洗ったせいか襟は擦り切れそうになっていて、ジャージのほうはというと、右ひざの辺りに穴が開いていた。もう捨て時だと静雄はわかっていたのだが、それでもどうしてか捨てるのにためらいが生じ、そのままずるずると未だにこうやって着続けている。
「シズちゃんさあ、今何歳?」
「……手前と同じだろが」
静雄が言うと、臨也は笑って肩をすくめて見せた。
そう、同じだ。目の前にいる折原臨也とは、高校時代からの付き合いだ。喧嘩というよりも殺し合いという言葉を使ったほうがしっくりくるような事ばかりを続けて早十年。どちらが先に音を上げたのか、いや、もしかしたら――もしかしなくとも、ほぼ同時に音をあげたのかもしれない。いつしか静雄からはそういった感情は薄れていき、臨也もまた似たように静雄への接し方を少しずつ変化させていった。お互いに棘を少しずつ削ぎ落とし、見事に丸くなってしまった。それでも、旧知の間柄である新羅に、二人とも丸くなったねえ、としみじみ言われて初めて、二人ともこの状態に気がつく有様ではあった。
あそこまで剥きだしにしていた敵意はどこへいったのか。静雄に対する臨也の悪行は水に流して無かった事に出来るほど軽いものではなかったはずだ。それでも、何が切欠になったのか静雄にはまるで見当がつかないが、そんな臨也に対する悪意はいつしかじわじわと融解しはじめ、どこかに流れて溶け込んでしまったのかのように、ゆっくりと消えていってしまった。もう、潮時だったのかも知れない。
なんにせよ、お互い自由な一人暮らし。こうしてたまに臨也が家にやって来ても、適当にやり過ごし、時には一緒に酒を飲む程度の仲にはなっていた。
「部屋着くらい買いなよ。流石に痛いよ、その歳で高校のジャージは」
「うるせぇよ。着心地がいいから仕方ねぇだろが」
「着心地、ねえ」
他にも着心地よさそうな服なんていくらでもありそうなもんだけど、とぶつくさ言いながら、臨也は黒いコートを脱ぐと、その辺に適当に――けれど散らかすでもなく――くしゃっと丸めて置いた。皺になるのも厭わないといった様子で、手に提げていたビニール袋を傍に置きつつ、静雄の対面に腰を下ろす。それに見かねた静雄が、ハンガー出してやるか、と申し出たのだが、臨也といえばゆるく首を振って申し出を拒否した。すぐ出るから必要ないよ、と言って、コタツの中に足を滑り込ませる。
臨也の足が入ってきたと思ったとたん、静雄は咄嗟に自分の足を引っ込めた。なんとなくコタツの中で他人と足先が触れ合うのが嫌だった。別に臨也が相手だからということではなく、子供の時からの癖のようなものだった。それでも、足先が触れ合っても気にはならない例外は、静雄の家族を含めて片手で足りるほどいるのだが。
「すぐ出るって、何しにきたんだよ」
「遊びに――いや、遊びに誘いに来た、かな」
言いながら傍のビニール袋をがさごそと漁り始める。その音のおかげで、冷たい空気が少しだけ暖かくなったような錯覚を覚えた。臨也も静雄も、べつだん大して共通の話題などなく、二人一緒にいてもほぼ無言の有様だった。食事をするにも、箸と食器が触れ合う音しかしない。たまに美味いだの不味いだの小言を言ったり言われたり、汁物を啜る音がするのみだ。
そんな、ほぼ無音の空間が耐え切れなかったのか、いつだったか臨也が勝手に静雄の家にテレビを持ち込んだ。当時にしては一番の最新型であるらしい、42型の薄型テレビであった。静雄自身テレビとは無縁の生活を続けていたので、部屋にテレビを持ち込まれた当初は、そんなに無音が嫌ならそもそも来るんじゃねえよ、などと怒ったが、液晶に映る映像をまるで子供みたいに二人並んで座って一緒に見ているうちに、静雄はごくごく自然にテレビを見れるようになった。テレビのニュースを見てキレる事もなくなった。臨也がもたらした変化に静雄は最初戸惑いを覚えつつも、それでも恥ずかしさやら何やらがごちゃ混ぜになって今にも消えてなくなりたい気持ちをグッと堪え、5分近くかかってようやっと小声で感謝の言葉を述べたのは記憶に新しい。ありがとうな、と静雄自身も弱弱しい声だと思うその声を耳にして、臨也は何かが切れたように爆笑したのだが、恐らくそれをきっかけにしてか、静雄の部屋に臨也の私物が増えていった。静雄の部屋のリビングにでんと置かれた、一人暮らしには少し大きすぎるこのコタツは、臨也が持ち込んだものの一つだった。
臨也はビニール袋から出した物をテーブルに置き、店を開き始めた。プリンが二個に、ポテチが一袋、ビールが二缶、リキュールと缶ジュースが何本か。静雄はからきしビールなどの酒がダメだった。歳を取っても相変わらずの子供舌で、子供向けのジュースに近い味のカクテルや、洋酒しか受け付けない。ともすればこのリキュールは静雄に買ってきたもので、ビールは臨也が飲むために買ってきたのだろう。とはいえ臨也も酒が苦手なのか知らないが、酔う寸前で飲むのをやめる。一缶空ければいいほうだ。なのにビールが二缶である。という事は、だ。
「……お前、今日ここで飯食ってく気か」
「ん? ダメかな」
臨也がけろりとした顔で言う。夜遅くまで居座るつもりらしかった。
「……いや」
いくらダメと言っても臨也は言う事を聞かないのを、静雄はよく知っている。なので、了承するほかなかった。諦めにも似た心境で溜息を吐くと、何故か臨也は頬を緩ませた。
「シズちゃん、どうせ今日暇だろ。遊びに行こうよ」
言いながら、臨也がすっとプリンを押し出した。
「プリン一個。これで手を打とう」
「うるせえな。仕事で疲れてるし、そういう気分じゃねえ」
静雄が言葉を投げ放つ。そんな吐き捨てるようにして出された言葉を、いつにも増して気の抜けたような表情で受け取った臨也は、小さな呼吸とともに、気分ねえ、とぽつり呟いた。
「先週の休みも、先々週も、その前の休みも家から出なかったよね。外に出るのは仕事の時だけ、なんて、そういう生活は体に良くないよ」
「うるせえつってんだろ。俺がいつ外に出ようが俺の勝手だろ。手前は俺の母ちゃんか」
「血縁者ではないね。ほら、プリンもう一個あげるから」
そう言って臨也はまたプリンを静雄のほうへ押し出した。大きいカップのプリンが、二つ並んで静雄の前にある。一瞬だけ、美味そうだと思ってしまい、静雄の心中に妙な嫌悪感が沸きあがった。
「手前、少し勘違いしてねえか? 俺がこんなんでホイホイ釣られると思ってんのか」
「思ってないよ。シズちゃんだってそこまで馬鹿じゃあないしね。でも、シズちゃんは無理強いでなんとかなるタイプだ」
臨也は言い終わるなり、にんまりと笑って見せた。その表情を見ているとどうにも居た堪れなくなり、静雄はさっと顔を逸らす。その仕草が自分でも不自然に思えて、静雄はそれを誤魔化すためにごろりと横になった。傍に置いていたクッションを手繰り寄せ、二つ折りにしたのを枕代わりに、そこに頭を乗せる。小さく溜息を吐くのと同時に、臨也が焦った風にシズちゃーん、と名前を呼んだ。続けて、眠いの? と尋ねてくる。
「……あのよ、お前、他にも遊ぶやついんじゃねえの? そいつらと遊べよ」
「いないよ。だからこうしてシズちゃんのとこに来てるんじゃないか」
「嘘吐くなよ」
「嘘じゃないよ。腹割って話せる仲なんて、シズちゃんの他には新羅とドタチンくらいだ」
臨也はそう言って、またビニール袋を漁り始める。がさがさと、ビニール袋が立てる騒がしい音が、静雄には頼もしく思えた。一人で音のない空間にいるのは居心地がいいのだが、二人でいるとなると、どうにも息苦しい。クッションに顔をうずめたまま、静雄は何か話題を探してみたが、それらしき話題などこれっぽっちも思いつかなかった。口下手よりも酷い性分が、静雄は時々嫌になる。
「シーズちゃん、起きてるー?」
臨也が茶化すように言葉をかけてくるので、起きてるよ、と返事をしようと思ったら、頭にこつんと何かが当たった。ぶつかった何かは、そのまま落ちて、Tシャツの襟元に滑り込んでくる。そのくすぐったさに驚いて体を起こそうとすると、今度はこめかみにまた何かが当たった。服の中に手を突っ込んで、投げられたそれを取り出すと、一口サイズのチョコレートだった。
「手前……」
「あげるよ、それ。好きだろ?」
言いながらまた、今度は静雄の肩にチョコレートが当たった。怒る気力すら沸かない。ありがとよ、と呟きながら床に転がったチョコレートを手繰り寄せると、臨也のほうからどういたしまして、と満足そうな声が聞こえてきた。
両側の持ち手に一本だけ黒い線の引かれた包みを引っ張り、チョコレートを取り出して口に運ぶ。口の中の温度で解けたチョコレートから伝わる甘さが、頭を刺激する。徐々にぼんやりとした思考が冴えて来て、ともすれば、唾液とともにチョコレートを飲み込んでようやっと、腹が空腹を訴えている事に静雄は気がついた。
「腹減った」
「……なんか作ってあげようか」
「いらねえ」
コタツの死角になっているのだ、臨也に見えるわけでもないのに、静雄はうつ伏せになったまま首を振る。その直後に、臨也のほうからかすかに笑う気配がした。臨也は昔から、何をしてもよく笑うタイプの人間ではあったが、それでもこうやって穏やかな笑いを見せるようになったのは、ほんの近頃の事だ。それに気付いてから、静雄はまともに臨也の顔が見れなくなった。自然と顔を背けるようになってしまった。理由は良く分からない。恥ずかしいとかそういう類から来るものでは無い事ははっきり理解しているが、それでもどうしてか顔を背けたくなる何かがあった。
これ、冷蔵庫に入れてくるね。そう言って臨也がコタツから出て、テーブルの上に置かれた缶ビールやプリンを持っていく。冷蔵庫の扉を開ける音がして、静雄はのろのろと体を起こした。目をこすり、少しぴりぴりする後頭部を指で引っかき、またチョコレートを一つ口に運んで立ち上がる。それとほぼ同じくして、臨也がコタツのあるほうへ戻ってきた。
「あれ? トイレ?」
「違ぇよ。顔、洗おうと思って」
「ああそう。……ていうかシズちゃん、冷蔵庫、なんも入ってないんだけど?」
「知ってる」
欠伸をかみ殺しながらのろのろと洗面所に向かった。ぬるま湯で顔を洗って、タオルで顔を拭く。鏡の中に映る自分の、生気のない白い顔が徐々にしかめっ面になっていくのを見て、洗面所をあとにした。部屋に戻ると、臨也が冷蔵庫に缶ジュースを並べていたが、静雄が戻ってきた事に気付くと、静雄の方を見ることなく口を開いた。
「朝何食べる気だったわけ? 生米?」
「そこに炊飯器あんだろ手前の目は節穴か」
ラックの中段に置いてある炊飯器を指差すと、臨也がそうだね、とひどく微笑ましそうに頷いた。
「今日、近くのスーパーで卵とか肉が安いからよ、買出しして、朝飯と昼飯一緒に食おうかなと思ってた」
ふうん、と頷いて静かに冷蔵庫の扉を閉める。
「じゃあ、出かける支度しないと。買い物、付き合ってあげようじゃないか」
「いらねえ」
「まあまあ。そんな冷たい事言わずにさあ」
「いらねえつってんだろ……」
ひたひたと足音を立てながら、ベッドの傍に置いてある箪笥に向かう。適当にジーンズとシャツを出して、その場で着替えようとしてふと、臨也がこっちをじっと見ているのに気がついた。手近にあるティッシュの箱を手に取って掲げ、今にも投げるぞというポーズをして見せれば、「キャーッ」とわざとらしい悲鳴を上げて部屋の奥に引っ込んでいく。その後姿を見て、溜息しか出てこない。
着替え終わり、ジャージを畳む。布団が乱れていたので適当に直して、また洗面所に向かった。髪を適当に整えて歯を磨く。歯を磨いている最中、洗面所にひょっこりと臨也が顔を出した。
「ねえシズちゃん」
「んぁ? なんふぁ?」
口の中が泡まみれなので、変な声しか出なかった。そんな静雄に臨也は目を細めてから、怒らないで聞いて欲しいんだけど、と前置きした上で、臨也にしては珍しく、ひどく言いにくそうに視線をあちこちに彷徨わせたあと、ぽつりと静雄に尋ねたのだった。
「トム、……田中トムさん、だっけ。元気なの?」
静雄の、歯ブラシを動かしていた手が、徐々に止まる。二回瞬きをして臨也の顔を見つめ、そうしてまた歯を磨き始める。臨也から視線を逸らし、鏡の中に映る自分を見つめる。酷く頼りない男だな、と静雄はぼうっと考えたあと、静かに口を濯いだ。洗面所を出る。
「……元気か、元気じゃないかつったら、元気なんじゃねえの」
部屋に備え付けのクローゼットから上着を出して、それを羽織ながら臨也の問いに答えた。静雄からの返答が来たというのに、臨也は腑に落ちないような、釈然としないといった様子で、じっと静雄の顔を見つめている。その視線に耐えかねて、静雄はさっと顔を逸らした。
戸締りを確認したあと、携帯と財布をジーンズのポケットに突っ込んで、床にくしゃくしゃにされっぱなしの臨也のコートを拾った。相変わらず、フードにファーがついたお馴染みのデザインのそれを何回か叩いて埃をはらい、臨也の胸に押し付ける。
「ほら、どっか行くんだろ。つれてけ」
「え? あ、ああ。……えっ!?」
「えっ!? じゃねえよ。お前が言い出したんだろうが」
呆然と静雄を見つめている臨也だったが、しばらくして小さく噴出した。
「シズちゃんはいっつも唐突だなあ。ほんと思考が読めないよ」
「お前ほどじゃねえよ」
先に臨也に靴を履かせて玄関の外に出してから、静雄は自分の靴をゆっくり履いた。その最中、玄関の左側の一番手前に揃えられた靴に目がとまる。仕事でいつも履いている革靴だった。手にとってまじまじと眺めてみる。紐はなんだか擦り切れそうになっていて、靴の裏が少し磨り減っているように思えた。
「遅いよしずちゃん。ただ靴はくだけなのに何やってんの」
そんなに時間はたっていないのに、待ちくたびれたらしい臨也が、玄関のドアを開けてひょっこり覗き込んできた。
「ああいや、靴、修理しねえと駄目かなと思ってよ」
「へえ。見せて」
玄関に入って、手を伸ばしてくるので、静雄はためらいがちに、愛用している靴を渡した。臨也はまず先に靴をひっくり返して靴底を見た後、爪先からかかとの縫い合わせなどをまじまじと検分し、そうして静雄に靴を差し出した。
「いつからだっけ、それ履いてるの」
首をかしげながら問われ、静雄はひいふうみいと指折り年を数え始める。だが、徐々に面倒くさくなって数えるのをやめた。
「今の仕事についてから、だな」
「シズちゃん、靴の寿命は2年だって知ってる? もう流石に買い替え時なんじゃないの?」
「でも、これがなんとなくしっくり来るんだよ。足も痛くなんねえし」
元の位置に靴を戻し、静雄は自然と溜息を吐いた。買い替え時、という言葉が重くのしかかる。寿命だから、とこの靴を手放すのは、静雄にはどうにも躊躇われた。何故ならこの靴は――
「袋」
唐突な臨也の言葉に、静雄はきょとんと目を丸くした。
「ないの? この靴入れれそうなやつ」
あ、ビニール袋はやめてよね。吐き捨てるように言う臨也の態度に困惑しながら、静雄はせっかく履いた靴を脱いで部屋の中へと戻った。台所に向かい、戸棚を開けて、少し小さめの紙袋を取り出す。袋を広げて、この大きさなら入りそうだと確認して、急いで玄関に戻った。臨也に袋を渡せば、身をかがめて靴を取り、袋に丁寧にしまいこむ。
「ついでだから、修理に出してこよう。俺、いいとこ知ってるから」
「俺、明後日から仕事だぞ。それまでに直るのかよ」
「多分、遅くても明日の昼には直るよ。そこ、仕事早いし、腕もいいから」
そう言って、臨也は袋を手に提げたまま外に出て行ってしまった。静雄も慌てて靴をはき、玄関の戸を開けて外に出る。寒い空気が頬を打つ。吸い込んだ空気が肺で暖められ、そうして吐き出した息は白くほのかな靄を作る。そんな、靄の先に見える臨也の顔は、静雄が思わず吹き出しそうになりそうなほど、らしくない表情であった。
「……何で拗ねてんだ?」
「はあ? 拗ねてないよ。何変な勘違いしてるのさ、馬鹿じゃないの」
早口でまくし立てられ、乾いた笑いが込み上げてくる。いつだったか、新羅が臨也の事を女々しい狐などと表現していたが、あながち間違えていないように思う。口先も、手口も、行動も、男らしさとは無縁なのが折原臨也で、静雄はそれが気に食わなかった。今はどうだろうか。一人で勝手に階段を降りていく姿を見ると、女々しいというよりただの子供のように思えた。いつもは割りと落ち着き払った態度を取っているくせに、何か切欠さえあれば早口でまくし立てて自分を取り繕い、詭弁を使って相手に反論の余地を与えずに怒る。実際に、こうやって正々堂々向き合ってみれば、案外、茶目っ気とでもいえばいいのか、そういう面もあるのだと気付いてからは、あまり嫌ではなくなったように思う。
白い吐息が空に昇り、太陽の光を浴びて消えていく。真っ青な空はひどく高く、雲ひとつもない。絶好のお出かけ日和とかいうのはこういう空の事を言うのかもしれないなと考えながら、静かに階段を下りる。
いつだったか、臨也がこうして静雄に友好的に接するようになる前の話だ。
静雄にとって唯一無二の存在である田中トムは、池袋の町からいなくなってしまった。
去年の話だ。夏が終わり、もうすぐで秋がやってくるかという時期に、静雄は前触れもなく唐突にその話を聞かされた。来月で仕事をやめる。要約するとそんな話だった。静雄に気をつかってか、遠まわしな物言いだったのが、いかにもトムらしかった。
「……は? え、なんで……」
「妻の実家の方を手伝う事になってよ」
田中トムが入籍したのは、それより一年も前の話だ。いきなり、この前入籍したんだよ、とトムに告げられ、頭の整理が追いつかないまま過ごしているうちに、妻です、と気まずいのか恥ずかしいのか良く分からない顔で、隣に立つ小柄な女性を紹介されたのが、静雄には今でも鮮明に思い出せた。そのときの静雄は、どう反応したらいいのかわからず、はあ、と頷いて、トムさんにはいつもお世話になっています、と挨拶するほかなかった。トムの隣に立つ、少し丸い印象を受ける女性は、ひどくおっとりとした調子で、言葉を噛み砕くように喋るものだから、静雄もすぐに打ち解けた。女性の実家は都外にあり、先代から燃料屋を営んでいて、それなりの生活をしていると聞いた。子供が出来てもう少ししたら、そっちの手伝いをしなくちゃなんねえ、なんて遠い目をして話すトムの言葉からどうにも現実味が感じられず、静雄はそうっすかと曖昧にしか返せなかったが、今になって振り返れば、あれは一種の現実逃避だったのかもしれないと静雄は思う。ずっとこのままでいるのだろうと思っていたが、所詮は静雄の思い込みに過ぎなかったのだ。女性の父親が倒れて、入院し、燃料屋の仕事もままならなくなった。女性は一人っ子で、家業を継ぐことを余儀なくされ、ともすればトムがその支えになるのも、しごく当たり前の話だった。
何度暴れてもこのまま安定し続けるだろうと思っていた足元がいとも容易く崩れてしまい、落ちるとこまで落ちていくのかと思っていたが、そんな静雄の予想に反して、一人でもこうやってなんとか踏ん張って行けていた。最近新しい部下ができた。高校卒業したての、跳ね返りという言葉がしっくりくるような青年であったが、それでも静雄に懐いてちゃんと仕事の手伝いをしてくれている。ヴァローナと青年のやり取りを眺めながら、時には二人を嗜めながらの静雄の立場は、かつてのトムそのものだった。
「いつだったかさ、電車で会ったんだ」
唐突に話しかけられ、静雄ははっと意識を取り戻した。休日のせいか少し込み合った電車内をぼうっと眺めながら、臨也が静雄に聞こえる程度に呟いた。独り言めいたその意味がわからず、静雄は首を傾げて見せると、臨也は少し笑って、田中トムさんの話だよ、と付け足した。
「ドレッドヘアなんて早々いないだろ? おまけに茶色のスーツで、一目ですぐわかったよ。夜遅くだったし、仕事で疲れてたのかもな。くたびれた感じで立ってた」
くたびれた感じ、という言葉が、静雄には妙にしっくり来てしまった。トムは黙って立っていれば姿勢は正しくすっとしているのだが、ひとたび動いて口を開けば、まさにくたびれた感じの人柄に変貌してしまうのだった。
「あれは確か、先方の都合で池袋で会談を儲けられたときだったかな、珍しく俺はスーツ着てたんだけどね、田中さんの方もすぐ俺のほうに気がついて、なんでか分からないけど俺のほうに来たんだ」
「いつごろの話だ?」
「去年だよ。まだ暑かった時だな。猛暑ざかりっていうのかな? 最高気温36度とか、そんくらいの時」
静雄にとっては、初耳の事だった。
「トムさんと何か話したのか?」
「うん、10分くらいかな、他愛もない雑談……っていえばいいかな。正直なところ、田中さんって結構口は上手い方だろ? 情けないけど俺、相手に優位に立たれないように捲くし立てるので精一杯だったんだ。今思うと滑稽だよ」
臨也が自嘲気味に笑って、肩をすくめる。
「そん時、頼むからあんまり苛めてやるなよ、って言われちゃってね。文字通り面食らったよ。今思うと、田中さんなりにしずちゃんの事を心配してたのかもしれないな。田中さんが仕事止めたのって、秋になってからだろ?」
臨也に問われ、静雄はああ、と頷き返した。頷き返す事しかできなかった。どうにもあの頃を思い返そうとすると、思考に靄がかかってうまく記憶を掘り返す事ができなくなる。もしかしたら思い出したくないのかもしれない、と静雄は漠然と理解していたが、けれども別にそれが生活に支障をきたすわけでもなし、別段困るわけではなかったので、放っておいた。
電車が徐々にスピードを落としていく。その重力にしたがって、座席の一番端に座る静雄のすぐ横に腰を下ろしている臨也の体が、遠慮なくもたれかかってきた。途端に、静雄は逃げるようにもっと端に寄るかのように身じろぎする。その仕草をぼんやりと見つめる臨也は、小さく息を吐いてのんびりと立ち上がった。
「シズちゃん、降りるよ」
「あ? ぁ、ああ」
臨也に促されるまま、静雄ものろのろと立ち上がった。
駅構内から出て、先立って歩く臨也の後ろをついて歩く。会話は特にない。横断歩道を渡って真っ直ぐ道を行き、交差点を左に曲がって、少し細い道を歩く。橋を渡る最中、太陽の光を反射してきらめく川の流れをぼんやり見つめていると、自然と足の進みが遅くなったのか、先を行く臨也にシズちゃんと嗜めるように名前を呼ばれ、静雄ははっとして臨也の方を見た。臨也が呆れともとれる表情を浮かべ、手を伸ばしてくる。静雄の袖口に臨也の指先が触れるか触れないか、といったところで、静雄は反射的に手を引いた。途端に臨也が眉間に皺を寄せる。
「引っ張られるの嫌なら、ちゃんとついてきなよ」
臨也の口ぶりは少し拗ねたものだった。静雄は慌てて臨也の後を追いかける。
「悪い」
「……何が?」
「ちゃんとついてくからよ」
臨也が肩越しに静雄に視線を向け、それからふうん、と頷いて、川に視線を向けた。ぼうっと水面を見つめるその表情は、何を考えているのか静雄にはさっぱりだった。
「目黒川って、どれくらいの深さなのかな」
独り言めいた呟きに釣られて、水面に視線を向ける。さっと見た限りでは光を反射して綺麗だと思った水面だったが、よくよく見れば深いところは淀んでいて汚い印象を受ける。水は濁っていて川底は見えなかった。
「せいぜい2メートルくらいじゃねえか?」
「2メートルって、シズちゃんが完璧に沈んじゃう深さじゃないか」
「……じゃあ、1メートルで」
「そんくらいかなあ」
臨也が納得した風にぼやく。橋を渡って直進するかと思えば、臨也は左に曲がった。こっちだよと振り返る臨也の後に、素直についていく。葉が落ちてすっかり禿げてしまった桜の木を見上げつつ、時折、自転車が風を切って追い越していくのを見送りながら、はあ、と息を吐くと、臨也がちらりとこちらを振り返った。
「どうした?」
「シズちゃんが溜息ついてるから」
「ただの溜息だろ」
今度は臨也が溜息をついた。くだらない会話だった。こうなる前はほとんど、臨也が一方的に言葉を捲くし立て、その挑発に静雄も乗っかっていたが、今はどうだ。静雄ももともと口下手だったし、どうやら臨也も静雄を前にしては口下手にならざるを得なかったようだ。ただでさえ殺し合いの真似事なぞしていたのだ。趣味も間逆で、だからこそ相手の言葉をばっさり否定して会話が終了する事は珍しくもなんともない。時には口喧嘩のような事にまで発展し、そういった失敗を経て、お互いに会話を盛り上げようとはしなくなった。恐らくこの先もきっとそうだろう。お互いに地雷は踏みたくない。
道を右に曲がって、こじんまりとした家が並ぶ狭い通りを歩く。しばらく歩くと広い通りに出た。臨也があそこだ、と反対側の並びを指差すその先に、『最上靴屋』と書かれた小さな看板があった。少し古めかしい、悪く言えば時代遅れなその看板は、正直臨也には到底似合わないものだった。
「お前、マジであそこに行ってんの?」
「マジで行ってるよ。腕は確かだ。ほら、さっさと行こう。早く出せば今日中に終わるかもしれない」
臨也の、振り返りながら投げかけられた言葉に促され、渋々足を進める。と、臨也が歩調を緩めて、静雄の隣に並んだ。靴の入った紙袋を押し付けてくる。目を丸くすると、シズちゃんの靴だろ、と臨也が言うので、静雄は頷いてそれを受け取った。対面にあるので、反対側にわたらなければならず、横断歩道で青信号になるのを、二人横に並んで待つ。
「あの靴屋さ」
「ん?」
「俺の父さんが結構世話になってて、だから、小さい頃からたまに父さんに付いて行ってたんだ」
ぽつりと、消え入りそうな声で臨也が言う。臨也が自分からそういう事を語った事実に、静雄はぎょっとしたのち、横断歩道の赤信号を見つめながら、同じように消え入りそうな声で、初耳だ、と呟いた。
「そりゃそうだよ。この事話したの、シズちゃんが初めてだから」
「はあ。そうか」
「……せっかく俺の事教えてあげたのにさ、何その態度?」
「いや、……どう反応したらいいか、正直わかんねえ」
「少しは喜ぶか悲しむかくらいしてみたら?」
「うわあすげえうれしいなあ」
「……シズちゃんのそういう期待を裏切らないとこ、割と好きだよ」
ふいに、歩行者用信号が青に変わった。歩く紳士のシルエットがパッと表示されると、臨也が小さく呟いた。青だ、行こう、と。
看板は古めかしかったが、建物はそうでもなかった。臨也に話を聞けば、数年前に一度リフォームしたらしい。俺が小さいころは引き戸だったんだよ、と言いながら自動ドアをくぐる臨也の後姿をぼんやり眺める。臨也の小さいころが全く想像できず、モヤモヤと考えながら静雄も後に続いた。こいつも普通の人の子供みたいな時期があったのか、と半ば感慨にもにた心境に浸っていると、頬にあたたかな空気が触れた。続いて、革製品や、ゴム手袋のような匂いがない混ぜになった香りが鼻をつく。どう表現したらいいのかわからない匂いなのだが、これが靴屋の匂いなんだよと言われれば、そのまま納得できるような香りだった。
こんにちはー、と臨也にしては幾分か大きめな声で挨拶するのが、これまた珍しい。颯爽とした足取りで店の奥に向かう臨也の後ろを、店内を見回しながら付いていく。腰までの高さの棚が等間隔にいくつか並べられていて、壁際はそれより少し高めの棚が備え付けられていた。客が歩くスペースはある程度の広さが保たれていて、通路の合間に深い緑色の、座るともふっと音がしそうなチェストが置いてある。棚に並べられた靴は子供用から大人用、男女別にスペースが分けられていて、ほとんどが革製品のものだった。一般的なスニーカーも置いてあるようだが、ほんの一部しかない。ここに来る客は、そういった商品は求めていないのだろう。
「シズちゃん」
ふいに名前を呼ばれて、慌てて臨也の姿を目で探せば、すぐにカウンターのところに立っているのを見つける。手招きされ、誘われるがまま臨也のほうに向かえば、カウンターの奥に初老も過ぎただろう男性が立っているのに気が付いた。多分、この男性が店主なのだろう。ひょろりとした体つきはぶつかったら折れてしまいそうだったが、それでも腕まくりをした袖から伸びる腕には程よく筋肉がついている。眼鏡をかけていて、目じりや口元にある皺が、苦労しているのだと静雄に思わせた。そんな静雄の視線に気付いたのか、男性は眼鏡越しに静雄のほうに視線を向け、柔和な笑みを浮かべた。
最初に言葉を切り出したのは、男性のほうだった。珍しいですね、折原さんが友人を連れているなんて、と柔らかく言う。臨也はただ誤魔化すように笑うだけで、何も言わなかった。今日は、どんなご用件ですか。と尋ねる言葉は相変わらず柔らかく、ゆっくりとした口調だったので、しわがれた声ではあったがとても聞き取りやすかった。
「用事があるのは俺のほうではないんです」
言い終わるなり、臨也が静雄のほうへ視線をよこす。それに釣られてか、男性はゆっくりと顔を上げ、静雄のほうに視線を向けた。その穏やかな眼差しに促され、手に提げていた紙袋から靴を取り出す。
「靴の修理をお願いしたいんです」
と言いながらも、カウンターの上に靴を直に置いていいのか迷っていると、男性がどうぞお気になさらずに置いてください、ここは靴を置くところですから、というので、恐る恐る靴を置いた。男性が静雄の靴に触れる。手に取り、底やつま先を眺める。
「この靴、5年くらいは履いていらっしゃいますか」
「あ、ええと、多分、そのくらいかもしれません」
「以前修理に出した事は?」
「ないです。これが初めてで」
「なるほど。大事に使っているんですね」
褒められたのだろうか。静雄にはいまいちよくわからなかった。
「今はもう、駄目になった靴は買い換える、という風潮がありますでしょう。成長期真っ盛りの子供であれば、私も靴の買い替えを勧めますが、大人になってからは足の大きさもそれほど変わりませんしね……。だからね、こうやって靴を大事に使っている人を見ると、別に私がこの靴を作ったわけでもないのだけれど、それでも嬉しく思うんですよ。それが若い人だと、なおさらね」
靴底の張替えと、傷の補修で、1200円になりますね。男性が靴をカウンターの上にそっと置きながら言う。静雄は財布を取り出し、思ったよりも安い金額に内心驚きつつも、手早く会計を済ませた。レシートは引き換え券代わりになりますので、無くさないようお願いしますと言われたので、静雄はレシートを丁寧に財布にしまいこんだ。そうして店内を見回し、ふとした疑問が口をついて出た。
「この店、いつ頃からやってるんですか」
尋ねてからはっとしたが、男性は嫌がるそぶりも見せずに、淡々と答える。
「もうすぐで40年になりますかね」
「……長いですね」
「はい、長いです。でもこうやって長く続けていると、なかなか面白い事も多々あるんですよ。仕事の都合でたまにしか家に戻れないお客さんがね、子供との接し方がわからないからって、子供を無理やり引き連れてうちに来た事があるんですが、その子供が大人びているというか……こう言うと難なのですが、ひどくすれた子供でしてね。父親を難しい言葉で言い負かすその姿に、私としても驚いたもので、どういう大人になるのか興味深々だったのですが、……いや、こうしてみると、まあ、それなりな成長かと」
「最上さん、やめていただけませんか。プライバシーの侵害ですよ」
男性の言葉を遮るように臨也が言う。不満げな臨也の表情は少し子供じみていた。そんな臨也に対し、最上と呼ばれた男性は肩をすくめ、プライバシーなんて難しい横文字、私にはよくわかりませんよ、と笑ってみせるのみだった。それから静雄の方をゆっくりと見上げ、2時間程度で出来ると思いますよ、と告げる。静雄はわかりました、と頷いて、店内の壁にかけられた時計の時刻を確認した。時計はちょうど11時を指していた。靴の修理が終わるのは1時過ぎだろう。
「シズちゃん、行くよ」
「え? あ、……おう」
頭を下げて店を出る。靴屋の店主は最後まで微笑ましげな顔つきだった。
先を歩く臨也の背中を、静雄は慌てて追いかける。おい、と声をかけてしばらくして、臨也が気だるそうに振り返った。
「何拗ねてんだよ」
「拗ねてないよ」
「そうか」
それでもなお、臨也は歩みを止めない。その後姿を見て、自然と舌打ちをしてしまった。感情が高ぶるとどうしても出てしまう、静雄の悪い癖だった。舌打ちをするのを直そうと心がけていた最中だったので、それがなおさら自分自身への嫌悪感を沸きあがらせる。小走りで追いつき、臨也の腕を掴むと、臨也がはねるように振り返って、ぎょっとした表情で静雄を見上げた。
「おい、手前どこ行くつもりだよ」
「どこって……」
臨也が言いよどむ。らしくないと静雄は率直に思った。
「どこだろう?」
臨也が笑いながら首を傾げる。それを合図に静雄は手を離した。
「行く宛もねぇのにどこいくつもりだったんだよ手前は」
「ごめんごめん。シズちゃんはさ、どっか行きたい所ないの」
「ねえよ。……でも、腹減った」
「あ、シズちゃん朝食べてないんだもんね。すっかり忘れてたよ。どこかでご飯食べようか?」
少し早いけどね、と付け足して苦笑を浮かべる。そうしてきょろきょろと辺りを見回し、目ぼしい店を探し出し始めるので、静雄は慌てて臨也の行動を遮った。なんだか高そうな店ばかりだったからである。
「俺、給料日前だからそんな金ねえよ」
「……奢ろうか?」
「いらねえ」
「んじゃ、少し戻る事になるけど、ファミレスかなあ」
そのくらいなら、と静雄は頷いた。二人して一緒に歩き出す。舗装された道を、横に並んで歩くのだが、何か話さなければいけない衝動に駆られ、話題を探してみたのだが、いまいち臨也が興味を示しそうな話など思いつかなかった。臨也を見下ろしてみれば、臨也もどことなく神妙そうな面持ちで、むすっと考え込む風だった。
「なあ、手前があの靴屋に行ったの、いつぐらいの時なんだ?」
結局、臨也が反応しそうな話題といえば、静雄にはこれしか思いつかなかった。そんな静雄の目論見は見事当たって、臨也にしては珍しく、少し気まずそうな顔を向けてくる。
「小学校にあがったばかりの時かな。それからちょくちょく顔出してた」
「そうか。お前の親父さんの話、初めて聞いたよ」
「話したことないからね」
「少し意外だ。なんか手前って、何かからひょっこり生まれてきたようなイメージがあったからよ、人から産まれた事実をうっかり忘れそうになる」
「シズちゃんさあ、俺の事なんだと思ってるわけ?」
「あ? 臨也は臨也だろ」
臨也の口元がひくひくと引きつった。これ以上機嫌を損ねられたらたまらないと、えー、あー、と唸りながら、別の話題を探す。
「九瑠璃と舞流も、あそこに行った事あるのか?」
「俺の知る限りではない、と思う。俺はろくなところに連れてってもらえなかったけど、あいつらに限っては遊園地とかいろいろ連れてってもらってたからね」
どこか遠くを見ながら話す臨也の口から吐き出された白い靄が、吐き出された言葉とともに空気に溶け込んでいく。
「羨ましかったのか?」
「……なんでそう思うわけ?」
「そんな顔してる」
「はあそう。シズちゃんがそう思うならそう思っとけば?」
どうやら羨ましかったらしい、と静雄は判断した。なんだか少し面白かった。
「俺もこう言っちゃあれだけどよ、時々さ、幽の事が羨ましいって思う時があったぜ」
「……ふうん。例えば?」
「お兄ちゃんなんだから、って我慢を強いられる時とか」
「我慢! はは、シズちゃんには辛かっただろうねえ」
何がおかしいのやら、臨也が肩を震わせて笑い出す。
「後は、幽が散らかした玩具を、お兄ちゃんなんだから片付けてあげなさい、とかな」
「ああうん、俺もあったよ、そういうの。あいつらが散らかしたクレヨンとか、いつも片付けてやってた」
目を細める臨也の表情は、ひどく穏やかだ。
「臨也は親父さんについてって、あの靴屋に行ってたんだろ。楽しかったのか?」
「楽しいわけないだろ。ただ、家にいてもつまんないし、父さんがしつこいからさ」
「あそこに行って、靴の修理頼んで、それで終わりか?」
「いや。修理が終わるまで時間あるから、ご飯食べて、余った時間で本屋に行ったりして、好きな本買ってもらったりしたな」
へえ、と静雄は感心めいた声を上げた。子供の頃の記憶を掘り返せば、あまり父親と二人っきりで出かけたことはなかったように思う。そもそも物心ついた時にはすでに幽という弟がいて、だから、父親と静雄の二人で出かけるなら幽も連れて三人で、というのが当たり前になっていたし、三人で出かけるくらいなら母親も連れて四人で出かけたほうが楽しい、という認識があって、基本的に家族全員で出かけるのが当たり前だった。
「俺、親父と二人っきりで出かけたこと、ねえな」
「出かけるもんじゃないよ。ご飯とかあっちの趣味に合わせなきゃいけないし。海外生活で洋食に飽きてたのか知らないけど、いっつも和定食とか蕎麦とかそういうのだったよ」
「そうか」
「……そういや、ここら辺だったかな。父さんとよく行ってた蕎麦屋」
ぽつりと呟いて、きょろきょろと辺りを見回す。蕎麦屋? と尋ね返せば、臨也はうん、と一つ頷いた。
「汁が文字通りの醤油色でさ、真っ黒だったんだ。最初見た時、醤油の原液に蕎麦が浸ってるのか勘違いしたほどだよ。でも、味は割とよかった。特に鶏蕎麦が美味しかったかな。鶏肉をかなりの時間煮込んでたのか知らないけど、肉が箸で崩れるくらい柔らかくてさ」
はあ、と小さな溜息を吐いた後、今もやってるのかな、と聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟く。臨也にしては珍しく、懐かしむような声だった。
「探すか?」
「は? いいってば」
「ファミレス行ってもせいぜい時間潰せるのは30分かそこらだ。それから他で時間潰すのきついだろ。まあ主に俺がきついんだけどよ。散歩がてら探すのもありじゃねえか」
「……見つからなかったらどうすんのさ」
「そりゃそん時考えればいいだろ?」
何言ってるんだこいつ、といった眼差しを静雄に向けていた臨也だったが、それでもすぐに諦めたように溜息を吐いて、わかったよ、と小さな声で了承した。
靴屋の付近を徘徊すること20分足らずで、それらしい店を見つけることが出来た。それらしい、というのは、臨也の判断だ。二人してとぼとぼゆっくり歩きながら、店の入り口を眺めたりしているうちに、あっと臨也が声を上げて、この店の前で足を止めたのである。濃紺の暖簾に、ガラスの引き戸の入り口をまじまじと見つめ、うーんと唸るそぶりをして見せた後。
「ここだ。……と、思う」
そう曖昧に臨也が言うので、限界まで腹の減った静雄はじゃあここにするか、と促せば、臨也はすぐに頷いた。それでも動こうとしない臨也に見かねて、静雄が先に暖簾をくぐる。静かに引き戸を開けると、ようやっと臨也が足を踏み出した。
店内は少し古びた様相で、それでも昼時のせいか、休日出勤と思しきサラリーマンや、家族連れなどでにぎわっていた。あわただしく動いていた店員が二人に目を留め、何名さまですかと尋ねてくると、二名です、と臨也が先に答えた。店員は頷いてから店内を見回し、一番奥にある空いた席を指で示す。あそこにどうぞ、ご注文がお決まりでしたらおよびください、と飲食店お決まりの言葉を残して厨房へと引っ込んでいってしまう。二人で顔を見合わせ、どちらともなく足を踏み出す。奥の席について上着を脱ぎ、椅子の背もたれにかけてから腰を下ろして一息つくと、臨也がどことなく落ち着かなさそうにそわそわしながら、静雄に向けて苦笑を浮かべた。
「なんだか、変な感じだ。あの頃とさして変わってない」
その言い方がまるで臨也らしくなくて、静雄はそうか、と微笑んだ。机の端に置かれたメニューを取って、臨也に渡す。ぎこちなくそれを受け取った臨也は、厚紙の表紙をめくり、シズちゃんは何頼むの、と尋ねてきた。うーんと唸りながら、静雄は少し身を乗り出してさかさまのメニューを覗き込み、お前と同じのでいいと呟いて、椅子の背もたれに体を預けた。
「へえ、じゃあ一番高いの頼もうかな?」
「好きにしろ」
そう言った割に、水を運んできた店員に対し臨也が頼んだのは、さっき話に出てきた鶏蕎麦だった。
「高いの頼むんじゃねえのかよ」
「頼んで欲しかったわけ? されたら困るくせに何言ってるんだか」
「そうだな。気ぃ使ってくれてありがとよ」
臨也のニヤニヤ顔に悪態を吐きつつ、静雄は水の入ったグラスを手に取る。冷たい水を口に流し込んでから初めて、喉が渇いていたことに気付いた。空腹もあいまって、一気に水を飲み干してしまう。いい飲みっぷりだねえ、と揶揄する臨也を睨み付けてグラスをテーブルに置けば、臨也がそのグラスを横取りして席を立った。おい、と声をかけると、水汲んできてあげるよ、と言葉を残して、カウンター席のほうへ向かう。カウンターテーブルの隅にある、ご自由にどうぞと紙の張られたスペースの上、銀色の大きな盆の上に置かれたポットからグラスに水を注ぐと、臨也はこちらに戻ってきた。静雄の前にグラスを置き、椅子を引いて席に腰を下ろす。
「なんか不思議だ。シズちゃんとここに来る羽目になるとは思わなかった」
「俺もお前が小さいころからお世話になってる靴屋に行く羽目になるとは思わなかったよ。まあ面白い話が聞けたからよかったけどな。手前の子供の頃がちゃんと人だったってわかってホッとしたよ」
「そこ、うるさいよ」
くだらない話をしているうちに、店員が蕎麦を運んできた。湯気の立つ器を見て、静雄は思わずおおと感嘆の声を上げてしまう。唐草模様が刻まれた器には例の真っ黒い汁が並々と注がれ、そこにやや白めの蕎麦が沈んでいた。いや、汁が黒いので蕎麦が白く感じるのかもしれない。中央には申し訳程度に刻みねぎが乗せられていて、脇には油揚げが一枚と、一口大の鶏肉がふた切れ乗っかっていた。
「いやー、手前の言うとおり真っ黒だな。すげえしょっぱそう」
「あはは。全然変わってない」
どちらともなく割り箸を手に取る。先に割り箸を割ったのは静雄のほうだった。パチンという音を立てていびつな形に割れた箸を見てむうと唸る静雄に対し、臨也はにやりと笑って見せる。のだが、臨也が割った箸も、静雄とどっこいどっこいにいびつな形をしていた。
「引き分けだな」
「えっ、これ勝負だったの?」
「おう」
「なら早く言ってよ」
早く言えばどうなるんだよ、と静雄は思ったが、口には出さなかった。
蕎麦の味は、端的に言えばうまかった。うまい、としか言えないほどうまかったのである。臨也の言うとおり肉は柔らかかったし、黒い汁は見た目の割にちょうどいい塩梅で、麺の湯で加減も食感も最高だった。
「鶏蕎麦二つで、しめて1200円になります」
レジの前に立つ店員の言葉を聞きながら、納得の値段だと静雄は頷いた。600円なら寧ろこの味なら優しい値段である。財布を出して金を出そうとすると、臨也がもう既に1200円を店員に渡していた。あれよあれよという間に会計は終わってしまい、ご馳走様と告げて店を出る。
「シズちゃん、後で600円払ってね」
言わずもがなだった。頷くと、臨也は苦笑を浮かべて、それから携帯を取り出した。時間を確認する。
「さて、あと1時間ちょいだ。どうする?」
「……どうしような」
「何かしたい事とか、行きたいとこは?」
「特にねえよ。臨也は?」
「俺も別に……」
お互いにどうしようもねえな、という意味合いの視線を交錯させ、どちらともなく溜息を吐く。どうしたらいいものかと考え込む静雄の横で、僅かに目を伏せつつ、気まずそうな声で、シズちゃんさ、と呟いた。
「さっき、散歩がてらとか言ってたよね」
「えっ、いつだよ」
「この店に来る前だよ。散歩がてら探すのも、って」
そういえば、そんな事を言った気がしないでもないな、と静雄は頷いた。
「俺もシズちゃんも別に行くあてないし、……散歩。いいんじゃない? 俺、人間観察好きだし。ここら辺けっこう人通り多いからさ」
はあ? と聞き返してから、慌てて口をつぐんだ。臨也なりに、静雄に対して気を使っているらしかった。
「……じゃあ、それで」
じゃあってなんだよ、じゃあって。そう呟く臨也の口ぶりは呆れを孕んだものだった。静雄は苦笑を浮かべてやり過ごすと、臨也が肩をすくめて足を踏み出すので、静雄は何も言わずに臨也の後ろについて歩いた。黒い背中を見つめながら、ふと疑問に思った事をそのまま口に出す。
「なあ、一時間も歩くのきつくねぇか」
「疲れたらどっかで休めばいいじゃん」
正論だった。反論の余地などなく、そうだな、と静雄は返事をするのみだった。
さして会話もないまま、街中をぐるぐると歩き回る。途中、疲れたと申し出る臨也を気遣い、公園で一息ついてから、今日のあたたかさがピークだろうという時間帯に、例の靴屋の前まで戻ってきた。店内に入ると、意外にも客が入っていた。とはいっても男女二人で、見たとこ夫婦のようだ。どちらも結構歳がいっている。そんな二人に目を取られる静雄と違い、臨也は夫婦に目もくれずカウンターのほうへ向かっていく。静雄も慌てて臨也についていった。カウンター奥の作業場を覗き込めば、男性が作業台の前で、静雄のものとは違う革靴にブラシをあてていた。臨也がすみませんと声をかけると、男性はゆっくり顔を上げ、それからこっちを見ておお、と少し驚いたような声をあげると、作業台の隅にある紙袋を手にとって、あたふたとこちらにやってきた。
「はい、こちらになります」
言い終わらないうちに、男性が紙袋から静雄の靴を取り出した。どうやら磨いてくれたのか、靴の表面が艶がかっている。静雄は財布からレシートを取り出し男性に渡すと、男性はレシートを見つめ一つだけしっかり頷くと、レシートを返してきた。これでよろしいでしょうか、と尋ねられたが、静雄としてはよくわからず、臨也いわくこの靴屋は腕は確かだと言っていたので、別に気にするところはないだろうと思い、はいと頷くのみだった。
「この靴、これからも大事になさってくださいね」
「はい、そのつもりです。駄目になっても、多分、捨てないと思います」
男性が目を丸くした。その直後に破顔してみせる。
「本当に大事になさってるんですね。気に入ってるんですか、その靴」
「……ええと」
静雄が思わず言いよどむと、男性はああ、と苦笑を浮かべて、申し訳ありません、と謝った。
「聞きたがりな性分でして、自分でも悪い癖だとは思っているのですが。いきなり尋ねられても、困りますよね」
「ああいえ、ええと、そういう訳じゃないんです」
その、と視線をあちこちに彷徨わせる。
「……そ、その靴、今の会社に勤め始めた頃、上司に選んでもらったんです」
「ほお。そうですか。後輩思いの方だったんですね。今もその上司さんとお仕事を?」
首を振る。去年やめてしまったんです、と静雄が伝えると、そうですか、と男性が少し残念そうに呟いた。
「それからずっと履いてるので、手放す事を考えると、どうにも……」
自分でもなんだかこっぱずかしい事を喋っているな、と静雄は思ったのだが、向かいの男性は目を細めてうんうんと頷くのみだった。肯定されている事が、なおさら静雄の恥ずかしさを煽る。言わなければよかった、と後悔し始める静雄に向けて、穏やかな表情を向けた男性が、私も似たようなものですよ、と静かに切り出した。
「妻に先立たれましてね。だから、思い出の品はどうしても捨てられないんですよ」
言葉を失う。どう反応したらいいのかわからず、口をあの形に開けたままぼうっとしていると、いきなり脇を小突かれた。いや、小突かれたというよりも、思いっきりド突かれた。驚いて隣を見れば、臨也が不機嫌そうな顔をしていた。男性に視線を向ければ、にこやかに笑っている。
「よければまた来て下さいね」
「……あ、はい。この靴がまた駄目になったら、必ず来ます」
静雄が頭を下げるのと同時に、臨也がくるりと身を翻して歩き出してしまう。男性のありがとうございました、という言葉を背中に浴びながら、静雄は紙袋を手に提げ靴屋を出た。左右を見回し、探すまでもなく、静雄は臨也の後姿を見つける。黒い特徴的なコートは見つけやすくて有難い。小走りで後を追いかけると、静雄の足音に気がついた臨也がゆっくりと振り返った。臨也がまとう雰囲気は重たい。静雄はなんだか臨也に睨まれているような気がしてしまい、声をかけることに一瞬ためらいを覚えたが、なんとか口を開いて声をかけた。
「……すねてんのか」
「そう見えるの?」
「みえる」
なんだか臨也の機嫌を取るような、気遣うような声色が自然と出て、それがどうにも居た堪れなくなり、静雄は視線を逸らした。臨也の歩調が少しずつゆっくりになる。しばらくして、臨也が盛大に溜息を吐いた。あーあ、とまるで後悔するような声をあげるので、静雄は内心ぎょっとして臨也の方を見た。その視線に気付いてか、臨也も静雄を見上げる。さっきより幾分か、臨也の雰囲気は柔らかくなっていた。シズちゃん、と呼ぶ声も、心なしか平常時のそれと変わりない。
「今日の夕飯、何食べる? ていうか、何食べたい?」
臨也がどういう意図でそう言ったのかわからず、え、と静雄が聞き返すと、え、じゃないよ、と臨也が言いながら正面に視線を戻した。白い吐息交じりに、夕飯作ってあげようかって言ってんの、と言葉を吐き出した臨也は、上目で静雄を見上げた。その申し出は静雄としては有難かったが、なんだかこのタイミングで言われると、どうにも素直に受け入れがたいものがあった。かといって断ればまた拗ねるだろうし、静雄はうーんと食べたいものについて考える。
「グラタン食べてえ」
しばらく考え込んだ末に思いついたのは、臨也に笑われそうな料理だった。案の定臨也は笑いをかみ殺している。
「ほんと子供舌だねえ」
「うるせえよ」
「まあ、寒い日にはちょうどいいかもね」
臨也が笑う。静雄は反射的に顔を逸らした。
池袋に戻り、買い物を済ませて家に帰る頃には、もう夕方になっていた。臨也がグラタンに海老だの帆立だの魚介類を入れたがり、二人で揉めたのである。そんなもん買う金ねえよ、と金欠という名目の奥の手を切り出した静雄だったが、俺がそのぶん払うからと臨也に一蹴されてしまい、その言葉に流されるままあれよあれよと買うものが増えた。二人して大きいビニール袋を両手に提げるほど大量に買い物をしたおかげか、すっからかんだった冷蔵庫は見事満杯になった。当分は買出しに出なくてもいいだろう。
静雄のエプロンを勝手に身に着けながら、シズちゃんやる事ないんだしシャワー浴びてくれば? と臨也が邪魔臭そうに促すものだから、反抗心を必死に堪えつつもシャワーを浴びた。この時期にシャワーはきついなと思いながら髪を洗い、明日は風呂にしようと決めて風呂場を出る。髪を拭いてドライヤーで乾かしてから洗面所を出れば、臨也の鼻歌がかすかに聞こえてきた。顔をしかめながら部屋に戻ると、やはり臨也が機嫌よさそうに鼻歌を歌っていた。
とりあえず、喉が渇いたのでお茶でも飲もうかと台所に入る。食器棚からコップを出して、冷蔵庫で作り置きしていた麦茶を注いで飲んでいると、臨也に名前を呼ばれた。
「それ飲んでからでいいからさ、海老の殻剥いて」
「……手前で剥けよ」
「嫌だよめんどくさい。手臭くなるし。あ、背ワタも取るの忘れないでね」
臨也の中ではもう静雄が海老の殻を剥く事が確定事項らしい。静雄は顔をしかめながらも流しの前に立って、無言で海老の殻を剥いた。もくもくと作業を続け、最後の一匹の背ワタを取り除くと、臨也がニヤニヤと笑いながらお疲れ様と声をかけてくる。手を洗いながらどういたしまして、と言葉を残し、静雄はコタツのほうに向かった。コタツのスイッチを入れてもぐりこむ。クッションを丸めてから横になり、そこに頭を預けると、すぐに台所のほうから不満そうな声が飛んできた。
「ちょ、まさかシズちゃん寝るつもり!?」
「んなわけねーだろ。疲れたんだよ」
クッションに顔をうずめる。シャワーを浴びる際、お湯の温度を上げたつもりだったが、それでも体は冷えていたようで、コタツの温度がひどく心地よかった。やっぱり明日は風呂に入ろう、と静雄は考えながら、台所から聞こえる音に耳を澄ます。いつも一人の部屋に誰かいるというのは、少し落ち着かなかったが、それでも妙な安心感があった。たとえ相手があのノミ蟲だとしても、だ。
静雄は徐々に耳を澄ますのをやめ、ゆっくりと目を閉じた。しばらくそのままでいると、ふいにぱたぱたとスリッパの音が近づいてくる。コタツテーブルの上に、何かを置く音が聞こえた。そのさいに、カチャカチャと、かすかに金属同士がぶつかるような音を立てる。スプーンだなと、静雄はぼんやり思った。足音の主はしばらくコタツのそばにとどまり、またパタパタと遠ざかっていく。
部屋の蛍光灯の明かりが眩しく感じられ、クッションに顔をうずめる形になる。視界が一気に暗闇に覆われ、ともすれば自然と意識がまどろみに向かうのは当たり前の事だった。部屋の中のあちこちで聞こえる物音や足音を聞きながらうとうとしていると、徐々に起きているのか眠っているのか、その境界が曖昧になってくる。それでもぼんやりと意識を保っていると、ふいに、静雄の肩にあたたかいものが触れた。揺さぶられてから、手だな、と静雄は確信する。起きなくてはと思うのに、敷布団に体が縫い付けられたかのようにうまく動かない。シズちゃん、シズちゃーんと小うるさく名前を連呼する声がして、眉間に皺を寄せると、声はすぐにやんだ。肩を揺さぶられながら、静雄、と落ち着いた声で自分の名前を呼ばれて、ふと心中にじわじわと懐かしさが込み上げてきた。首だけを動かして右を向き、まぶたを開ける。静雄は視界にぼんやりと映りこむ人影を見据えながら、口をついて出たのは、トムさん、と尋ねる声だった。言い終わるなり、人影が僅かに震える。戸惑う気配が肩に置かれた手を通して伝わってくる。何度も瞬きをすれば、靄がかった人影は徐々に鮮明になり、臨也の姿に変わった。臨也の表情は困ったような、驚いたような、どことなく寂しそうな、そんな複雑そうなものを浮かべている。
暫く見詰め合う。気まずかった。
「……ぁ、悪い」
「……いや、……もう出来たんだけど。グラタン焼いていい?」
「ぇ?」
のろのろと体を起こして、部屋にある時計に目を向ける。コタツに入ってから、いつの間にか30分近く経過していた。
「……寝てたのか、俺」
「うん。近づいても全然動かなかったし。疲れた?」
「……すこしな。あ、グラタン焼くんだっけか。俺やるよ」
「いいよ。俺やるから。シズちゃんは座って待ってて」
静雄の肩を二度はたいてから、臨也は台所に戻っていく。座って待ってろ、と言われたにもかかわらず、どうにもその場でただ待っているのが躊躇われて、静雄はのろのろと立ち上がった。とぼとぼと台所に向かうと、臨也が呆れ笑いを浮かべた。どうしたの、と尋ねられ、様子見に来た、とそれだけを答えてから、ラックの最上段に置かれたオーブントースターを覗き込む。顔を近づけると、ほんのりと熱が伝わってきた。
「シズちゃん、なんか飲む?」
俺ビール飲むけど、と臨也が冷蔵庫から缶ビールを取り出しながら言う。静雄はふむ、と考え込み、食器棚からグラスを取り出した。飯だし水割り飲むわ、と言えば、臨也が下の棚からウィスキーを取り出し静雄に差し出してきた。静雄がそれを受け取ろうと手を伸ばすと、臨也が悪戯っぽい笑みを浮かべて手を引っ込める。俺が作ってあげようか、なんて言うので、静雄は迷った末に渋々頷いた。なんだか、断ったらまた機嫌を損ねそうだった。
水割りを飲みながらグラタンが焼きあがるのを待つ間、やはり特に会話らしい会話は二人の間で交わされることはなかった。臨也はグラスに注いだビールを飲みながら、ぼうっとした目つきで、コタツが置かれたスペースをただ無言で見つめている。そんな臨也が少し退屈そうに思えて、テレビでも付けるか、と静雄は申し出たのだが、臨也は静雄に目線をずらして、シズちゃんが見たいなら、とだけ呟いた。静雄としては特に見たい番組などないし、興味もない。それでも臨也がせっかく持ってきたのだ、臨也がいる時に使わなければと思い、静雄はコタツのほうに戻って、テーブルの上にあるリモコンを手に取った。テレビのスイッチを入れれば、とたんに部屋がにぎやかになる。チャンネルをニュースに切り替えて台所に戻ると、オーブンレンジからチーンと音がして、オレンジ色に光っていた内部が一瞬にして暗くなった。静雄は両手にミトンを嵌めると、扉を開けてグラタン皿を取り出す。臨也があらかじめ出していてくれた皿の上に乗せると、静雄は一息ついてミトンをはずした。もってくからな、と臨也に声をかけて、コタツテーブルのほうにグラタンを二つ持っていく。いつも静雄が座って食べる場所と、その対面側に器を乗せた皿を置いて、そのまま自分の特等席に腰を下ろす。テレビをぼうっと見つめていると、一分もしないうちに臨也が持ってきた。味噌汁が入ったお椀を静雄の前と、その向かい側に置く。そうしてテーブルの中央に、未開封の食パンの袋をそっと置いた。
「足りなかったらこれ食べて」
頷いて手を合わせる。どちらともなくいただきますと呟いた声は、見事に重なり合った。
誰かと一緒に食べるご飯というのは、一人で食べるときより腹も心も満たされるらしい。静雄はそんな事を考えつつも、恍惚といえる表情で、コタツテーブルに突っ伏していた。夕食を済ませ、もう茶碗を洗った今では、特にやるべきこともない。酒を飲みながらテレビを見つつ、時折臨也と適当な会話を交わしていたのだが、どうにも酒を飲みすぎたようで、動くのが億劫になる。それは臨也も同じなのか、静雄の向かい側に座る臨也も、静雄と同じようにテーブルに突っ伏していた。夜も深まり、時間の切り替わりとともにテレビにバラエティ番組が流れ出すと、臨也がしずちゃーんと名前を呼んだ。その間延びした声が、臨也にしては珍しく酒に酔っていることを伺わせる。
「タオルとパンツと着替え貸してー」
「あぁ? ……んでだよ」
「これから帰るの面倒くさい」
「うるせえ。用が済んだら帰れ」
「断る」
臨也にきっぱり言われてしまい、静雄には溜息しか出てこない。テレビの中に映る芸人のあわただしい動きを見つめながら、仕方ねえなあとぼやくと、臨也がやったーと言いながら立ち上がった。今さっきまでぐったりしていたのに、と呆れる静雄をよそに、臨也はぱたぱたとベッドの傍にある箪笥へと向かう。
「しずちゃんパンツどこー」
「一段目。手前が着れそうな服は四段目」
静雄が言い終わらないうちに、箪笥の引き出しに取り付けられているローラーがカラカラと音を立てた。もそもそと衣類を漁る音が聞こえる。シズちゃん何これ変なのしかないよ、と困ったような声が聞こえてきたので、うるせえ文句言うなら使うな、と返せば、臨也はそれ以上何も言わず箪笥を漁っているようだった。
「しずちゃんタオルー」
「洗面所にかかってるやつあるから、それ使え」
「え、シズちゃんが使ったの使えって?」
「あのなあ……乾いてるの、洗面所にかかってるから。この前洗濯したやつだから、それ使ってくれ」
了解、と臨也が言葉を残して、洗面所に向かう。扉が閉まる音がすると、静雄の体にどっと疲れが押し寄せてきた。体を起こして、グラスに残った水割りの残りを全部口の中に注ぎ込んだが、氷が解け切ったそれはひどく薄い味しかしなかった。しばらくぼうっとテレビを眺めていたのだが、流石に疲れが溜まっていたのか、どんどん眠気が押し寄せてくる。このまま眠ったら行儀が悪いので、静雄は歯磨きをするためにのろのろとコタツから這い出た。洗面所のほうへ向かい、扉をノックする。すぐに中からどうしたの、と尋ねるような声が聞こえてきて、静雄は僅かに扉を開けた。歯ブラシ取りに来た、と告げると、ああそう、と臨也が素っ気無い返事をよこす。それを合図に静雄は洗面所に入り込んだ。自分の歯ブラシとコップと歯磨き粉を手に洗面所を出て台所へ向かう。コップに水を注ぎ、一度口を濯いで、テレビを見ながら歯を磨いた。
歯磨きを終え、コタツに戻ろうとしたところで、風呂場のドアが閉まる音がかすかに聞こえてくる。臨也がシャワーから上がったらしく、数分もしないうちに洗面所から部屋に戻ってきた。臨也といえば、昔購入して儀心地の悪さに辟易し、そのまま箪笥の肥やしになっていたスウェットを着込んでいる。まだ髪を乾かしていないのか、タオルで髪を拭きながらの登場だった。
「シズちゃんお茶飲んでいい?」
「勝手に飲めよ」
台所でガチャガチャと物音が聞こえてくる。そうしてひたひたと足音を立てて、臨也がコップ片手にコタツのほうにやってきた。
「……シズちゃん、もう寝る?」
唐突に尋ねられ、静雄は首をかしげた。
「あ? なんで?」
「歯磨きしたんでしょ? だから、もう寝るのかなって。……ていうかゴメン、俺の歯ブラシ、なんかないかな?」
「あー……っと、確か買い置きあったはずだけど……」
またコタツから出て、洗面所に向かう。備え付けの棚の一番上を覗き込むと、案の定新品の歯ブラシがあった。それを手に取り、部屋に戻る。臨也のほうに歯ブラシを投げて渡すと、臨也はあたふたしながらも器用にそれをキャッチし、ありがとうと小さく笑った。歯磨き粉とか台所に置いてあるから、と伝えて、静雄はまたコタツにもぐりこむ。
静雄がテレビを見ている間、臨也は髪を乾かし、そうして台所で歯を磨き始めた。それを切欠に、静雄はコタツから出てベッドのある部屋へ向かう。クローゼットから布団を取り出し、匂いをかいで黴臭くないのを確認してから、ベッドの真横の床にそれを敷いた。シーツを取り出して布団にかける。
「ちょ、シズちゃん何やってんの」
歯を磨き終わったらしい臨也が慌てた様子で静雄のほうに近寄った。
「何って、手前の布団敷いてた」
言うなり、臨也はえっと驚いた声を上げて、ベッドの方を見る。その眼差しがなんだか名残惜しそうで、静雄の口元がひくついた。
「まさか臨也くんよお、一緒に寝るとかキモい事言い出さねえだろうなあ?」
「……あはは。まさか。そんな事言うわけないだろ。シズちゃんと一緒に寝るとか気持ち悪い」
妙な間があったが、静雄は気にしないように勤めた。シーツを敷き終わり、クローゼットから枕と布団を出す。ずっとクローゼットに入れていたせいか、枕も布団もすこし湿気を帯びているように思えたが、別に黴臭くはないので気にしないことにした。布団と枕にカバーをかけ、念のため枕にバスタオルを巻く。というのも、臨也はいろいろ過敏なので、いちいち煩く言ってこないための防衛策のようなものだった。
「もう寝る?」
布団を整え終わって一息ついてから、臨也が尋ねてきた。
「ああ。手前は起きてたいなら起きててもいいぞ。寝るとき電気と換気扇止めてくれれば」
「いや、俺も寝るよ。遊びつかれた、って言えばいいのかな」
「そうか」
立ち上がって、コタツのある部屋へ戻る。テレビを消して、台所の電気と換気扇を止めた。部屋の明かりを消し、ベッドのある部屋へ向かう。何故か臨也が布団の上で正座していたが、特に突っ込むこともせず、静雄はベッドの上にあがった。横になり、肩まですっぽり掛け布団をかぶる。枕元にある照明のリモコンを手に取って、臨也の方を見下ろす。臨也も横になっていた。なんだか複雑そうな表情を浮かべている。
「寒いか?」
「いや、あったかいよ。この羽毛布団、もしかして新しい?」
「ああ。幽がうちに泊まったときのやつだ」
「ふうん」
臨也が感心したような声を上げて、僅かに身じろぎする。
「……電気、消していいか?」
「うん」
照明のスイッチをオフにする。途端に部屋が真っ暗になった。
「おやすみ」
「うん、おやすみシズちゃん」
目を閉じる。そういえば臨也が部屋に泊まるのはこれが初めてだという事に気づいた。たとえ臨也でも、部屋で誰かと一緒に眠りを迎えるのは悪くないな、と思いながら、静雄はおだやかな眠りに落ちていった。
今の靴、靴擦れがひどいんすよ。思い切って、といった感じで打ち明ける金髪の青年に、トムは目を丸くして、首をかしげながら靴擦れ? と疑問系になった単語を呟いた。その言葉を聞き取った、静雄に瓜二つの青年は、申しわけない気持ちでいっぱいいっぱいといった様子で、コクコクと頷いてみせる。二人がいる場所は、静雄がいつもトムと昼飯を食べていた馴染みのファーストフード店の二階で、青年の右手にはハンバーガー、テーブルの上に置かれたトレイにはポテトとドリンク――というよりシェイクが入ってるだろうコップが置かれている。
「今の靴って、どんなの履いてたっけか」
「これっす」
身をかがめてテーブル下を覗き込むトムに、青年が慌てた様子で、靴が見えやすいように足を少し前に出した。はあ、なるほどねえ、と何がなるほどなのか、しみじみといったふうにぼやくトムに対し、青年は疑問符を浮かべながらもハンバーガーに齧り付く。
「今までただ立って酒作ってる仕事だったから問題なかったんすけど、歩くと痛いってのに最近気付いて」
「あー、そりゃしゃーねーわ。革靴って選ぶの難しいんだよなー。俺も今の靴に出会うまで苦労したよ」
わざとらしく泣きまねをしながらトムが言う。その演技に青年が頬を緩めると、トムが屈託ない笑みを浮かべた。
そんな二人を上から見下ろしている静雄は、――静雄の意識は、これがすぐに夢だと察した。自分の記憶をただなぞっているだけだ、と漠然と理解する。
「よし、今度靴買いに行くべ」
「……あの、トムさん、給料日前なんすけど」
「あー、そうか。じゃあ俺が買ってやるか? あ、もちろん代金は後で請求すんぞ」
見ているのがどうにもきつくて、静雄は顔をそらした。涙さえ浮かんできそうになる。別にトムは死んでいるわけでもないし、今現在も元気にやっているのだろう。連絡が途絶えてもう数ヶ月。静雄の中には、トムに会いたい、という気持ちだけが募っていった。
青年とトムはくだらない会話を交えながら、トレイにあるものを全て食べ終わると、青年はトムのトレイを自分のに重ね、その上にコップやら紙くずをのせてゴミ捨て場所に向かった。きちんとゴミを分別して捨て、そうして青年がふと顔を上げる。空中に漂う静雄の方を見上げ、まるで昔のノミ蟲のような憎たらしい笑みを浮かべた。まるで自分がする表情とは思えず、静雄は驚きで身動きが取れなかった。しかしそれも一瞬の事で、トムの呼びかけに青年は跳ねるように振り替える。そろそろいくべー、という声に、青年ははいと頷き返す。静雄は動けずにそのまま二人の背中を見送り、いつしか青年の姿があの丸っこい印象を持つ女性の姿に変わったところで、はっと目を開けた。
目覚めて最初に浮かんだのは、巨大な疑問符だった。
「……手前、何やってんだ」
尋ねながらも、静雄は混乱する頭で状況を整理する。目を開けるなり、視界の隅に黒い人影がいて、静雄は幽霊かおばけか何かだと思いビクッと体を震わせたが、すぐに床で寝ていた臨也だと思い至った。何度か瞬きを繰り返し、頭も冴えてきた所で僅かに体を起こす。見れば臨也が布団をめくっていた。どうやら静雄の隣に入るつもりだったらしく、ベッドの上に両手と両膝をついている。
「おい、もう一度聞くぞ。何やってんだ手前」
「……てへっ」
誤魔化すように笑った。
「てへっ、じゃねえよ。今何時だと思って……ちょ、おい!?」
時間を確認しようと携帯を手探りで探そうとすると、臨也が思いっきり静雄の肩を押した。勢いでベッドに押し付けられた格好になり、静雄が怯んだ隙に、臨也が布団の中にもぐりこんでくる。
「いやおいまてノミ蟲、何寝ぼけてんだ! トイレはここじゃねぇぞ?」
「俺別にトイレに用はないよ」
「そうか。じゃあ出てけ」
「嫌だ」
「よし殺す」
握りこぶしを作ると、臨也がビクッと体を震わせた。明らかな怯えからくる震えだと気付くと、静雄は徐々に申しわけなくなってきて、掲げた拳を布団にしまいこむ。とりあえず落ち着こうと深呼吸すれば、苛立ちはおさまった。その代わりに、また疑問符が浮かび上がる。
「もしかして、寒かったか? 毛布あるぞ」
「そういうわけじゃないよ」
「はぁ? んじゃなんでこっちくんだよ」
尋ね返すと、臨也はもぞもぞと身じろぎしながら、何故か静雄のほうによってきた。静雄は思わずひっと小さな悲鳴を上げて、壁際へと逃げる。すると、臨也がはあと盛大に溜息をついた。
「シズちゃんさあ、ふっつーに近づいて触ってくるくせに、近づかれて触られるのは嫌がるよね。なんで?」
「ハア?」
「ねえなんで?」
臨也の言葉の意味がよくわからなかった。壁際にくっつきながらも、静雄はむっつりと口を引き結んで、臨也の言葉を頭の中で反芻する。
「……いや、え? なんで? っつわれても、……いや、意味わかんねえ」
触られるのを嫌がるだなんて、そんな事を意識したことは一度もなかった。現にヴァローナが袖を掴んできても別に振り払いもしないし、トムに頭をなでられたときだってされるがままだった。それでも、いつもどうしていたか全く見当がつかない。それゆえ疑問符をぽこぽこ頭上に浮かべる静雄だったが、ふいに二の腕に臨也の手が触れ、慌てて寝返りを打った。
「ほらね。やっぱ、今まで気付いてなかった?」
静雄の眉間に自然と皺が寄った。
「ロシア娘は……まあいいとして、シズちゃんの大好きなトムさんは良いくせに、なんで俺はダメなわけ?」
「……いや、お前な、大好きなトムさんて語弊が……」
「違うの? ……違わないよね?」
痛いところを思いっきり突かれたような気がして、静雄は言葉が出なかった。顔をしかめてぎゅっと目を瞑り、肺に溜まった息を吐く。
「ふざけた事言ってると腹、グーパンすんぞ」
「すればいいだろ。俺がそんな脅しに簡単に怯むとシズちゃんは本気で思ってんの?」
また痛いところを突かれてしまい、静雄は口を引き結ぶ。そもそも口論に持ち込んだところで臨也に勝てるわけがないのだ。ともすればだんまりを決め込むしかなかった。けれどもそんな静雄に構わず、臨也はべらべらと口上をまくし立てる。
「シズちゃんって昔はさ、都合の良し悪しに関わらず俺に手出してたけど、今はこうやって都合悪くなると貝になるよね。それだったらさあ、暴力に頼ったほうがマシじゃないの」
「……なんだよ手前、殴られてえのか」
「そうだね。殴られたほうがよっぽどマシかも」
「なんだそりゃ……」
マゾか手前は。静雄が呆れた声を出せば、臨也がほのかに笑う。俺どっちでもいけると思うよ、と静雄にとっては大してありがたくもないというか、寧ろあまり聞きたくなかった言葉を呟いた。
「まあ、俺がサドかマゾかなんてどうでもいい。シズちゃんの話だよ。何で俺の事避けようとするかな」
「避けてるつもりはねえよ。とりあえず手前は布団から出てけよ」
「やだよ」
静雄の背中に臨也がにじり寄ってくる。途端に、静雄は勢い良く体を起こした。
「だーっ! くっつくな気持ち悪ぃ!!」
静雄の苛立ちをあらわにした声に臨也は怯みもせず、静雄の足にぴったりと寄り添った。
2011~2?/--/-- 時期不明