・夢主がややクズ&見た目の描写が多々ある
・オリキャラ(妖怪)が出てくる
上記項目に拒否感を覚えた方はブラウザバック推奨。
商店街、と呼ぶにはやや寂しい通りを、片栗粉のような雪を踏みしめながら歩く。肩に提げた通学カバンの中からは、何かを催促するかのようにガサゴソと音がした。恐らく腹が空きすぎて暴れているのだろう。なんだか、その音に急かされているような気がしてしまい、つられて小走りになってしまう。そのまま道なりに進んだところで、ようやっと目当ての店を見つけた。
看板に書かれた“佐々木豆腐店”という明朝体の文字はかすれている。いまどき珍しい専門店だ。カバンの中にいる奴もこれで満足してくれるかもしれないと淡い期待を抱きながら、店の暖簾をくぐった。
ひやりとした湿気が顔を打つ。店の奥から微かにばしゃばしゃと水が跳ねる音が聞こえてくる。足元から這い上がる寒気に身体を震わせながら奥に進み、ガラス張りの商品棚の前に立った。目当ての商品を探すが、加工前の商品はあるのに加工後の“ソレ”が見当たらない。仕方なく、商品棚の後ろでぼんやりと座っている初老に差し掛かった女性に問いかけた。
「すみません、油揚げってありますか?」
問われた女性はきょとんと目を丸くした後「ごめんねぇ」ととても申し訳なさそうに言った。
「さっきちょうど売り切れてしまって」
「あー……、そうなんですか……」
予想はしていたが、この展開には心が折れた。となれば近くのスーパーにいくしかない。
「でも、今作ってる途中だから……もうちょっと待ってもらえれば」
女性が言いかけたところで、奥の部屋からゴム長靴を履いた初老の男性が銀色のバットを抱えてやってきた。恐らくこの女性の夫なのだろうと勝手に推測した。雰囲気がどことなく似ている。長年寄り添いあった夫婦は自然と雰囲気が似るものだ。
男性はこちらに目もくれず、商品棚の中、空になった銀色のバットを軽々と取り上げ、そこに今しがた持ってきたバットをいれた。その中にはキツネ色の厚揚げがたくさん並んでいた。いかにも美味しそうな色合い。これならカバンの中の奴の満足するかもしれない。
180円するそれを2つ買い、礼を言って店を出た。途端に寒気が足元から這い上がり、そのせいで身体が勝手に震える。
キュッキュッと雪を踏みしめながら来た道を戻り、来る途中に見つけた公園に足を踏み入れた。もう日が暮れる前の公園には人気が全くなく、雪に包まれた遊具を見るとうら寂しさすら覚えてしまう。近くのベンチに駆け寄り、積もった雪をどけると、スカートを手で押さえながら、ゆっくりと腰を下ろした。
ふくらはぎがジンジンと熱を帯びる。朝から今までずっと歩きっぱなしだったのだ。ここにきてようやっと疲れが出てきたらしい。
さっき買ってきたばかりの厚揚げが入った袋をひざの上に乗せ、カバンの中から筆箱を取り出した。いつも愛用しているシャーペンを取り出すと、時々手に振動が伝わてきた。シャーペンのキャップをはずして逆さまにしてみると、シャーペンの芯ではなく別のものがぬるりと這い出てきた。
黒い鼻がヒクヒクと動き、橙色の眼を瞬かせ、大きな耳をピンと立てたソレは雪の上に降り立つと、その場で適当に歩き始めた。その動きに合わせてシャーペンから搾り出すように胴体が出てくる。そして最後に尻尾が出たところで、胴の長いその生き物は軽々とベンチにジャンプしてみせた。
見てくれはキツネのようだが、毛並みが文字通りの真っ白で、やたら胴が長いところと、尻尾が二本あるところが普通のキツネとはまったくの別物だということをあらわしていた。一見すればオコジョやイタチのように見えなくもないが、ここまで大きなオコジョやイタチはいないだろう。
「あーもう、早くよこせ!」
太ももの上に前足を乗せながら、キツネが催促を始めた。
「今出すってば。そんなに急かさなくてもいいじゃない」
苦笑を浮かべながら今しがた買ってきた厚揚げのパックを取り出し、輪ゴムを取ってやると、キツネは待ってましたといわんばかりに厚揚げにがっついた。口より大きいソレを銜え、はむはむと食べ始める。
寒さに身を震わせながら、カバンから手帳を取り出し開く。今日も何の収穫もなかったため、今日の日付の欄に小さく罰印を作ろうとしたが、かじかむ手のせいで線がふにゃふにゃになってしまった。
「そもそも、その情報に信憑性はあるのか」
丸呑みは無理だったのだろう。厚揚げを噛み千切りながらキツネが言った。
「ない。……けど、みんな言ってたじゃない。妖を操る台帳があるって。聞いてたでしょ?」
「聞いてたけどよ、んなモン噂話の類に過ぎないじゃんか。実際に見てる奴は誰一人いないし」
そうなのだ。妖を自分の意のままにできる台帳があると、妖たちの間でまことしやかに噂されていたが、その実物を見た妖は誰もいなかった。
「思うんだよ。噂が一人歩きしてんじゃないかって」
「それは……」
反論できない。噂には必ず尾ひれがつく。人間の伝言ゲームがいい例だ。真実をそのまま伝えることなど難しい。
藁にすがる思いでこの村にやってきたのだが、またも収穫がないと思うと堪えた。おまけに転校手続きまで取ったのだ、最低一年はこの村にいないといけない。この情報がガセだった場合、残りの一年をどうやって過ごせばいいのだろう。
寒さで身が凍える。身体をこわばらせる。じわりと視界が滲む。スカートのすそをぎゅっと掴んで、何度も目をしばたかせる。
「でも、このまま黙って、何もしないわけにはいかないよ」
「そ、そういう意味でいったんじゃねえよ! あーくそう! めんどくせえ女だなあ!」
食いかけの厚揚げをパックの上に戻し、キツネが身体をとてとてと這い上がってくる。肩に上ったキツネはそのままぐるりと首を一周し、長い胴体を細い首に絡ませた。触れたところがじわりと暖かくなってくる。
「明日はこの周りで聞き込みをしよう」
「うん」
「お前にはもう時間がねえんだから」
「……、そうだね」
白い吐息とともになんとか言葉を漏らすと、キツネがぎこちなく擦り寄ってきた。
「くすぐったいよ」
基本的には意地の悪いキツネだが、こういう時だけは妙にやさしい。不思議なものだ。
∽
おれたちの学年に転校生が来るらしい。
学校からの帰り道、やけに興奮した西村の口からそんな言葉が出てきた。
「こんな真冬にか。うそだろ」
すかさず北本が突っ込みを入れた。
「それが嘘じゃないらしいんだ。3組の奴が見たんだって! それも女の子!」
「へー。今の時期に転入かあ。珍しい事もあるもんだ」
ごく一般的な会社の転勤時期はだいたい4月か10月と決まっている。普通ならそれに合わせて転校するものだろうに、冬休みを控えた12月も半ばになっての転入は確かに珍しかった。とはいえ、いろんな学校を転々としたおれが言えた事じゃないが。
「何組に入るんだろうなあ。2組に来てほしいな」
「無理だろ。この前夏目がきたばっかりだし、諦めろ」
「……悪かったな、2組に転入してしまって」
冗談交じりの皮肉を言うと、二人がけらけらと笑った。つられて俺も笑う。こんな風に友人と冗談を言い合うことができるようになるなんて、転校してきたころは思ってもみなかった。
この一年を思い返してみるとたくさんの収穫があったと思う。人の友人はもちろん、妖の友人も増えた。今の自分があるのも、藤原家に引き取られたおかげだろう。
「じゃあなー夏目」
「また明日」
「ああ、また明日」
二人とは家の方向が違うので、いつものところで別れた。二人の後姿を見送ってから、一人でとぼとぼと歩き出したところで、空から一つ、また一つと雪が降ってきた。水を含んでいない、細かい軽い雪。空気が冷たい証拠だ。もしかしたら今晩は昨日よりもっと冷えるかもしれない。首に巻いたマフラーで口元を覆い隠す。
商店街近くの公園に差し掛かるころには、雪はちらほらと勢いを増してきた。風がないのが幸いだった。空がどんどん暗くなってきて、自然と足早になる。早く家に帰りたいなあと思いながら何の気なしに公園のほうに視線を向けると、公園の隅のベンチに妙なモノがいた。
ピーコートを羽織った見慣れない制服の女の子が、雪の積もったベンチの端にたった1人で座り、ひざの上に何かを広げていた。遠目ではビニール袋の上に、お惣菜なんかが入ってる透明なパックが乗ってるふうに見える。別にこれだけだったら学校帰りに小腹がすいてスーパーなんかで惣菜でも買ったんだろうなと思って終わっただろう。
女の子の首に、白くフワフワしていて、やたら胴が長い生き物が巻き付いていたのだ。一見キツネのように見えるが、よく見れば耳の大きなイタチにも見えなくもない。おまけにそのキツネだかイタチだかよくわからない生き物は、目の下に赤い隈取があって、尻尾が二股に分かれていた。
あれは妖に違いない。おれの直感がそう告げていた。
女の子はキツネに向かって何かを話しかけていて、それに合わせてキツネの尻尾がゆらゆらと動く。女の子が笑うと、キツネが慌てた風になって、ぷいと顔を背ける。喧嘩しているようにも見えたが、本気で怒っている風には見えないし、どうやらキツネと女の子は仲が良さそうだった。
あの女の子はなんで妖と仲良くしているのだろうか。もしかしなくても妖が見えるのだろうか。次々に疑問がわきあがってくる。
ふいに、女の子の肩に乗っているキツネがこっちを向いた。
「夏目、目を合わせるな」
どこからともなく声がして、おれは慌てて顔を逸らした。足早に歩き出すと、いつの間にか隣にニャンコ先生が並んでいた。公園を離れ、人気の少ない道まできてから、ニャンコ先生に問いかけた。
「ニャンコ先生、目を合わせるなって、どういう意味なんだ?」
「あの白いの、恐らく管狐だ。管狐にしてはやたらでかいが」
「クダギツネ?」
思わず聞き返す。
「竹に住む、おそろしく胴の長い狐だ。人を呪い殺したりする。だから管狐を使役する人間、クダモチには近寄らんほうがいい」
「どうして?」
「あの小娘、恐らくクダ憑きの家系なんだろう。変に親しくしてみろ。呪い殺されるぞ」
にやりと先生が笑いながら、そう言った。よくわからないけど背筋を冷たいものが走る。
後ろを振り返ってみたが、ここからでは公園は見えなかった。
∽
なんともいいようのない気分のまま家に帰ると、部屋に中級が座り込んでいた。
「やー夏目様、今日はおそいお帰りでしたな」
「いやはや、待ちくたびれましたぞ」
中級は手土産にと、いかにも酒が入ってそうなビンと、どこから調達してきたのか、コンビニとかで売ってそうな安っぽいパッケージのスルメやさきいかなどのつまみを差し出してきた。
「出てけ!」
窓をあけて、手土産と一緒に中級を追い出す。
「な、夏目きさまー! このっ……このっ……貴重な酒をーっ!」
ニャンコ先生が窓枠にしがみつき、中級の行く末を見届けてから憤慨しはじめた。憤慨したいのはこっちだ。おれの部屋は酒盛りをする場所じゃない。
妙な脱力感に襲われため息をつき、制服を脱いで適当に部屋着に着替えていると、こりずに中級が部屋に戻ってきた。玄関から入って、階段を上がってきたようだ。こぶしを振り上げ「殴るぞ」というポーズをして見せると、中級が大きな身体をビクッと震わせる。
「す、すみません夏目様、実はおりいった話がございまして」
「……酒盛りは無しだ」
「は、はいい~」
「嫌だ! 酒! 飲む! 酒! 飲むーっ!」
ニャンコ先生がじたばたと暴れながら単語を叫び始めた。かまわずに無視する。
「いったいどんな話だ? つまらない話だったら怒るぞ」
中級は顔を見合わせた後、どうぞどうぞと薦めあう。どうやら先に喋る方を決めかねているらしい。ややあってから、一つ目のほうが口を開いた。
「今日の昼、八ツ原にて、夏目様と同じ年のころの、見慣れない少女がやってまいりまして」
ふいに、公園にいたあの女の子の姿が脳裏をよぎった。
「妖を操る台帳を知らないか、と聞きまわっておりました」
恐らくそれは友人帳のことだろう。冷や汗が頬を伝う。おれの視線が自然と部屋の隅、友人帳をしまっている机の引き出しのほうへ向いた。
「何やら嫌な予感がしまして、夏目様に危害がいくのではないかと思い、私どもは八ツ原の妖に「知らない」と答えるよう教えましたが、そのう……」
中級が口ごもる。人の口に戸は立てられないように、妖の口にも戸は立てられないものだ。
「そうか。わざわざそれを伝えに来てくれたのか。ありがとう」
「そんな、滅相もない!」
中級が首を振るので、今度は頭を下げながら礼を述べた。中級が顔を見合わせたあと、照れたような表情になる。
私どもでもお役に立てれたようでうれしいです。
帰り際にそう言い残して、二人ははらはらと雪が降り積もる闇の中へと去っていってしまった。
「まずいな」
ニャンコ先生がいつになく真面目な声でそう言った。
「……何がだ」
「あいつらが持ってきた酒と、さっきの話だ」
ニャンコ先生のほうを見れば、猪口を片手に、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「……そのお酒、そんなにまずいのか?」
「ああ、酸化して酢になっとるのを水で薄めたような味がする」
どんな味か想像がつかないが、とりあえずとにかくまずいのだろう。ニャンコ先生は苦虫を噛み潰したような顔をして酒をちびちび飲んでいたが、しまいにはぺっぺっと吐き始めた。
「しかし友人帳を探し回ってるとはなあ。私のライバルかもしれんな」
「先生、殴るぞ」
「あー嘘だ嘘。冗談も通じんのかお前は全く。大体なあ――」
ニャンコ先生が何か説教めいた事を言い始めたが、その言葉はおれの耳を素通りしてしまう。
今まで友人帳を狙ってきたのは妖が主だった。人間が友人帳を狙ってくるのは初めての事だった。
自然と身体が震える。自分の心臓の音がやけに煩く感じる。もしかしたら、名取さんやあの的場とか言う人に、友人帳の存在が知られてしまうかもしれない。どちらに知られてもやばいことには違いないが、前者ならまだしも後者に知られたらどんな事に使われるかくらい馬鹿なおれでも想像はつく。
その友人帳を探している少女は妖にとって良い人、悪い人、どちらなのだろうか。おれとしては前者であってほしい。良い人ならば話は通じやすい。
考え込んでいると、ぽむぽむとひざをたたかれた。ニャンコ先生がいつの間にかおれの傍に近寄ってきていた。
「なに、そう案ずるな夏目。私がいるだろう」
先生がにやりと笑ってそう言った。自然と、身体の震えがおさまる。
「……それが不安なんだ」
「ああ゛!? 貴様! もう一回言ってみろ!!」
今は先生の存在が何よりもありがたくて、心強かった。
∽
次の日の朝。塔子さんが茶碗にご飯をよそいながら、不安そうな顔で物騒なことを呟いた。
「昨日、隣町のほうで熊が出たんですって」
「「……く、熊?」」
おれの声と、滋さんの声がちょうどよく重なった。思わず滋さんと顔を見合わせてしまう。
「熊って、あの熊ですか?」
おれが塔子さんの顔をみながら尋ねると、
「そうそう。あの熊」
塔子さんが苦笑を浮かべてそう答えた。
「さっき連絡網が回ってきて。外の放送でも流れていたけど……」
そういえば、顔を洗っているとき外で何か放送があったのを思い出す。よく聞こえなくてあまり気にしなかったが、まさか熊が出たことについての警告だとは思わなかった。
滋さんの顔を見れば相変わらずぽかんとしている。どうやらおれと同じように放送を聞いてなかったみたいだ。
「なんだか少し、怖いわね」
塔子さんは言い終わるなり、ご飯をよそった茶碗を滋さんに差し出した。
滋さんも「熊が出た」という事にどう反応したらいいのかわからないようで、目を何度も瞬かせながら不思議そうな顔で茶碗を受け取る。
「……まさか、なあ。この地域でもそんな事があるとは」
「そうよね。初めてのことじゃないかしら」
確かにテレビで里に熊が降りてきた、なんてのはよくやっている。おれも去年テレビで何度かその放送を見た。でも熊が出る季節は夏から秋にかけてだし、冬に熊が出たなんてあまり聞いたことがない。
「冬眠に失敗したのかもしれないなあ」
「そうねえ……なんでも、熊を見つけたとき、野良猫を食べていたらしいから」
「えっ、猫を!?」
おれが驚いてみせると、塔子さんは頬に手を当ててこくりとうなずいて見せた。
「熊を見つけたのは北山のそばの農道だったんですって。ライトを当てたら逃げてしまったらしいけれど、熊がいた場所に猫の死体があったそうよ」
なんともいえない沈黙が訪れる。
「――今日は、ニャンコは家に入れておいたほうがいいなあ」
「うん、そうしておくわ。とりあえず、山の方には近づかないように、って。だから、滋さんも貴志君も、気をつけてね」
言いながら塔子さんはおれの茶碗にご飯をよそって差し出してくれる。頭を少し下げてそれを受け取ると、足元にいるニャンコ先生を見下ろした。ニャンコ先生は我関せずと言った感じで、器に盛られたご飯をもくもくと食べている。
まあ、ニャンコ先生は熊に襲われても無事だろう。でも、もしおれがその熊に遭遇したらどうなるだろう。嫌でも想像してしまう。どう考えても野生の熊には敵う気がしない。
ご飯を食べ終わった後、学校へ行くための準備をするため、二階の自室に戻った。鞄にノートやらをつめた後、念のため、友人帳がしまってある引き出しに鍵をかけた。それを制服のポケットにしまおうとして、少し考え込む。
「先生、これ、きょう一日預かっててくれないか」
言いながら、机の横に敷いてある座布団の上で丸くなっている先生に鍵を差し出した。
「んにゃ、わかった」
意外にもニャンコ先生はあっさり引き受けてくれた。丸い手で器用に鍵を掴むと、腹の下にそれを滑り込ませる。
「……今日はずっとその体制でいるつもりなのか?」
コートに袖を通しながら聞いてみる。
「ああ。今日は寒そうだしな。それに、外に出たらお前の親がうるさくてかなわん」
言いながらはあ、とニャンコ先生が憂いっぽくため息をつくのを横目に、おれはてきぱきとマフラーを巻いて、カバンを手に取った。
「じゃあ、いってくる」
「気をつけろよ」
手を振る代わりなのか、先生の猫らしからぬしっぽが左右に揺れていた。思わず頬が緩む。
部屋の戸を閉めて階段を下りると、塔子さんがちょうど玄関のほうへ小走りでやってくるところだった。
「貴志くん、気をつけていってらっしゃい」
「はい。いってきます」
いつもよりほんの少しだけぎこちない風に笑う塔子さんに微笑み返し、おれは玄関の戸を閉め、積もった雪を踏みしめながら道路に出た。
塔子さんに笑顔を向けて外に出たものの、脳裏に熊がちらついてしまう。その結果、挙動不審に辺りを見回し、自然とおっかなびっくりな足取りになってしまった。間抜けだとは思うのだが、怖いものは仕方ない。
頬に当たる風は冷たいを通り越して、痛みすら覚える。マフラーに口元をうずめ、白い吐息をマフラーに含ませながら、何度か深呼吸して一息ついた後、学校への道のりをとぼとぼと歩き始めた。
住宅街を歩き、川沿いの道までくると、まばらに学生の姿が見え始める。友人と登校している姿もあれば、一人でとぼとぼと歩いている姿も見受けられる。いつもどおりの調子に少しほっとしてしまう。
橋の上に差し掛かると、ふと前方に見慣れた後姿を見つけた。やや寝癖気味の、うつむきがちな黒い後頭部。
「田沼!」
名前を呼ぶと、田沼は足を止めて、首だけでおれの方を振り返った。思わずぎょっとする。
田沼の顔色はひどいもので、おまけにマスクまでしていた。慌てて田沼の隣に並ぶと、田沼が力なく笑った。
「……おはよう夏目」
意外にも、田沼の声はいつもどおりの調子だった。
「お、おはよう。なんというか、大丈夫か? なんか顔色がすごいぞ」
「熱はないんだけど、昨日から少しだるくて」
「風邪?」
「かもしれない。けど、正直よくわからないんだ。おれはいつも風邪を引くと喉に出るから」
そう言って田沼は怪訝そうに、喉元を右手でマフラー越しに押さえる。
「熱はあるのか?」
「微熱程度だな」
「そうか。あまり、無理するなよ」
「ん」
田沼が小さく頷いた。そうして二人して一緒に歩き始める。
「……そういや、熊が出たんだってな」
「え? ああ、そうらしいな。塔子さんが言ってた」
「そうらしいなって……、朝の放送聞かなかったのか?」
「ちょうど顔洗ってて、あんまりよく聞こえなかったんだ。……田沼の家、裏山に近いけど、大丈夫なのか?」
「多分大丈夫だとは思うけどな。でも、もし夜中に物音がしてはっと起きて、境内を見たら熊がいた! なんて事になった少し怖いなあ」
田沼が目を細める。おそらく笑っているのだろう。
「熊って死んだフリは利かないんだっけか」
「そうそう。でもそういうの、ええと、迷信っていうのか? そういうのが残ってるからきっと助かった人もいるんだろうな」
「なるほど。じゃあ田沼は熊に会ったらそれを実践してくれ。もしかしたら生き証人になれるかもしれない」
「いやいや逃げるし。おれまだ死にたくないよ」
「んー、ニャンコ先生のネコパンチですらちょっと痛いもんなあ。死んだフリしてるときに熊のパンチ喰らったらどうなるんだろう。熊って爪すごいよな」
「やめてくれ夏目。想像させないでくれ」
ブルブルと田沼が震えだす。顔色のせいで寒さに震えているように見えなくもない。
「わ、悪かったよ田沼。ちょっとした冗談だ。そういや田沼は知ってるか? 転校生が来るって」
「へ? そうなのか?」
田沼が目を丸くする。
「昨日の帰り、西村が騒いでたんだ。女の子の転校生がくるって」
「へえ。それで夏目も一緒になって騒いだわけか」
「いやいや」
首を振る。
「学年は?」
田沼が問いかけてきた。
「おれたちと同じ、らしい」
「そうか。何組にはいるんだろうな」
「少なくとも2組ではないと思う。転校生が来たクラスにまた転校生が入るのはおかしいからな」
と、おれが言えば。
「……その理屈でいくと、1組にも来ないだろうな。残るは3組か4組か5組か」
田沼がむうと考え込んだ。
「まあ、転校生がきたところで、話す機会は多分ないかな」
ぽつりと田沼が呟くので、おれはその言葉に同調するようにうんうんと頷いた。そうして無言になってから。
「なんか空しいな」
「言うな夏目」
おれも田沼も、“そういうの”にとことん向いていないのだと再認識せざるを得なかった。
∽
田沼とクラスは別なので、1組の前で田沼と別れた。騒がしい廊下を一人で歩き、たどり着いた教室の中はいつも以上に騒がしかった。
「夏目、おはよう」
「ああ、おはよう」
声をかけてくるクラスメイトに挨拶を返し、コートを脱ぎながら教室の会話に耳をそばだてる。クラスメイトの話題の中心はやっぱりというか、熊についてのものが殆どだった。怖いなあ。帰りに会ったらどうしよう。写真撮りてー。クラスの反応は不安そうな声から、この状況を楽しむ声まで、さまざまだ。
教室の後ろにある、自分の出席番号が振られたフックに、脱いだばかりのコートをマフラーと一緒にかけたあと、おれは窓際の自分の席に移動する。
「おはよう夏目!」
おれに気づいた西村がそう言うなり、おれの前の席の椅子を引いて座った。言っておくがその席は西村の席じゃない。
「おはよう」
おれも挨拶を返し、カバンの中から筆記用具やノートを出して机の中にしまうと、カバンを机の横にかける。
「おい夏目聞いたか? 熊が出たんだってよ! 熊!」
やや興奮気味に西村が言う。
「ああ。朝聞いた。……やっぱり珍しいのか?」
「珍しいも何もこんなの初めてだよ。まっさか熊が出るなんてなあ」
言いながらも西村は、珍しいこの状況に少し楽しんでいるようだった。西村の性格なら無理もない。
「そうだな。おれもビックリしたよ。しかし西村は昨日騒ぎ損だったな。転校生がくるっていう話題は熊に持ってかれたんだから」
言いながら教室の中を見回す。クラスメイトの口から転校生なんて言葉はひとつも出てこない。やっぱり今の状況――山から熊が下りてくるのはよほど異質なのだろう。椅子を引いて腰を下ろし、改めて西村を見れば、ぽかんと間抜けっぽく口を開けていた。
「そうだ転校生! すっかり忘れてた!」
うわーと唸りながら西村が頭を抱えるのとほぼ同時に、チャイムが鳴った。その音をきっかけにして、狙ったように担任が教室に入ってきた。
「ほら、チャイム鳴ったぞー。ホームルーム始めるから早く席につけー」
渋々といった感じで、皆が自分の席に移動し始める。椅子を引く音で余計に教室が騒がしくなった。
「夏目またな」
「ああ」
西村が席を離れると、入れ替わるようにその席の主である男子生徒が座った。おれはその目の前の背中をじっと見つめた後、無意識に視線を窓の外に移した。薄く曇った空からぼんやりと陽光が差している。なんとなく、今日も雪がふりそうな気配を感じた。これからもっと曇るだろう。
「あー、今日は皆さんにお知らせがあります」
やや緊張した声色で、先生が言った。
「先生ー。それって熊のことでしょ?」
教壇の正面の席に座っている生徒が笑いながら言った。
「いや、それもあるんだがな。……まずはじめに、転校生を紹介する!」
少しざわついていた教室が一瞬で静かになった。おれも先生が何を言っているのかよくわからず、慌てて視線を教壇に向ける。先生はクラスの皆の反応が面白いのか、少しにやついていた。
「おーし、入ってきていいぞー」
先生が廊下の外に向かって声をかけると、教室の前のドアが開いた。おれの視線は自然と教壇からそっちへ向いた。
「失礼します」
控えめな声が廊下から聞こえてくるのと同時、女の子が入ってきた。肩にカバンをかけて、右手にコートを下げたその子は、昨日公園で見た女の子とよく似ていた。
――いや、似ているというレベルではなかった。同一人物としか考えられない。けれども昨日彼女にまとわりついていた、ニャンコ先生のいう“クダキツネ”という妖は彼女の傍にはいなかった。
彼女はドアを閉めると、しっかりした足取りで教壇の隣に立った。
「今日からこのクラスで一緒に勉強することになっただ。仲良くしてやってくれ。それじゃあ」
先生がそう促すと、は一度だけ先生を見上げてから、正面を向いて。
「はじめまして。です。よろしくお願いします」
とても簡潔でわかりやすい自己紹介を述べると、は静かに頭を下げた。その途端、教室がにわかにざわめき始める。
無理もないだろう。は誰が見ても、お世辞抜きで美人と答えるだろう容姿の持ち主だった。
なんだか驚くほど容姿が整いすぎていて、逆に作り物めいた不気味さすら感じられる。おまけに、彼女が身に着けている制服がこの学校の指定の制服ではないのが、ざわめきに拍車をかけているように思えた。おそらく転校前の学校の制服を着ているのだろう。容姿に加えてその制服のせいで、彼女の異質さがいっそう引き立っていた。
しかし、たまたま公園で見かけた女の子が、おれと同じ学年の、同じクラスに転入してくる確立ってのは、いったいどのくらいのものなんだろう。少なくとも、そうそう出会える機会ではないとおれは思う。
ふと気になって西村のほうを見れば、案の定目を輝かせていた。とても嬉しそうで何よりだ。
「、黒板に名前書いてくれるか」
「わかりました」
先生に促され、黒板に名前を書き始める。彼女の外見に釣り合った、見やすい綺麗な字だった。
「席は……そうだな。とりあえず、真ん中の一番後ろだな。視力は大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
先生が尋ねると、がそう答えた。その返事には反抗的なソレは一切見られないし、クラスのみんなの好奇な視線に臆する様子もない。
「おい里中、後ろの机と椅子、持ってきてくれ」
「えっ、お、俺!?」
「お前の隣に座るんだからそのくらいいいだろうが。ほら、さっさとしろ」
先生に促され、里中と呼ばれた生徒は渋々といった感じで立ち上がった。里中は後ろに重ねられた机と椅子を一脚ずつ持ってきた。里中の席の隣、中央の列の一番後ろに持ってきた机を適当に並べると、里中は自分の席に着く。
「それじゃ、コートは後ろの開いてるとこにかけていいからな」
「はい」
返事をして、が歩き出す。背筋をまっすぐに伸ばして歩く彼女の姿を、皆が視線で追いかける。先生はそれを咎めようとはしなかった。
「んじゃ次なー。お前らも朝聞いたと思うけど、昨晩11時ごろ、北山そばの農道で熊が出たそうだ」
ようやっと本題が出てきた。の姿を目で追いかけていたクラスメイトの視線が、教壇へと引き寄せられる。
「帰るときは山側の道は通らないように。あと近所に住んでるやつ同士で、できるだけ一緒に帰るようにしろよ。一人だけで絶対に帰るなー。んで、熊が出たのに伴い、今日のクラブ活動はなし!」
クラスの中が、早く帰れるという嬉しそうなどよめきと、部活動がなくなって残念そうなどよめきで煩くなる。
「こらこら静かにしろー。あのなあ、帰宅時間はやまったからって、ゲーセンに寄ったりするんじゃねえぞー!」
先生が叫ぶが、教室内のどよめきは収まることはない。先生が呆れたようにため息をつくと、狙ったようにチャイムが鳴った。
「んじゃホームルーム終わり!」
何だかいつも以上にやる気のないホームルームだった。というか、熊が出たことについての警告が思った以上に軽いものだったのが、おれにとっては意外だった。もっと重たいものを想像していただけに、そのギャップはひとしおだ。
「ねえねえ、さん!」
ふいに、後ろのほうで声が聞こえた。首だけで振り返ると、クラスでずば抜けて明るい女子生徒がに話しかけていた。それに釣られて、他の生徒もちらほら集まってきた。完璧な女子包囲網が完成されると、男子は近づけなくなってしまう。西村を見れば、近寄りがたくなってしまったことに大して、残念そうにくやしがっていた。
どこから来たの? その制服かわいいね。どうして転校してきたの?
そんな質問が次々と浴びせかけられる。おれの席からじゃ、は他の女子の身体の死角に入ってしまっていて、表情をうかがうことはできなかった。
「質問は後にしろー! ほら、職員室行くぞ」
先生が言うと、女子からブーイングが漏れたが、ちらほらとの席から離れていく。残されたといえば、無表情だった。普通なら去っていく女子生徒に対し、申し訳無さそうな表情になったり苦笑を浮かべたりするものだろうに。ともすればはややとっつき難いタイプの生徒なのかもしれない。
先生が教室を出るのを皮切りに、は席を立ち上がると、教室の後ろのドアに向かった。廊下に出てドアを閉め、通り過ぎる先生の後ろについていく。
「いやあ、なんかアレだなあ」
西村がニヤニヤ顔で、いつの間にかおれの席の傍に立っていた。
「夏目が転校してきた時を思い出すなあ」
「……そうか?」
「なんか似てるんだよ、空気が」
「……へえ?」
「なんつーかこう、近寄りがたい雰囲気がある」
「……、そうだな」
西村の言わんとする事はわからなくもない。確かに、今さっきの事もあって、おれはに大して近寄りがたいような、妙な空気を覚えてしまった。
∽
「さん、また明日ねー」
「うん、バイバイ」
放課後の教室にそんな声が響く。意外にも、はクラスメイトの女子とかなり打ち解けていた。
体育の授業中に、クラスでとびきり仲良しだと評判の3人グループが率先して世話を焼いたらしく(西村から聞いたので定かではない)、休み時間から昼休みの、唯一男子が接触できそうな時間の殆どにおいて女子包囲網が結成されてしまい、結果このクラスの男子生徒で会話したのは隣の席の里中ただ一人という状況だった。
熊が出るからという理由で仲良しグループと共に帰ることになったのだろう。教室を出て行くと3人組の背中をぼんやり眺めながら、西村を含めたその他男子が何か恨み言を呟いていた。俺はそいつらの背中になんて言葉をかけたらいいのかわからず、とりあえず帰る支度を始めた。
熊が出るとなった以上、塔子さんが家で一人で待っているのを考えると、すぐに帰らなければいけないような気がした。朝は笑顔で見送ってくれたけれど、会話の節々に所々怖気が含まれていたから、きっと塔子さんは一人で心細いに違いない。
しかし帰り支度が終わっても、西村は呆然と突っ立ったままだった。
「西村、帰ろう」
袖を引っ張ってやると、なんとか意識を取り戻したようで、「あ、ああ」と頷いた後せっせと帰り支度を始めた。少し心配になる。
やや空ろな感じが漂う西村を引っ張りながら、クラスに残っている生徒に挨拶をして昇降口まで向かうと、思ったとおり、北本が玄関で待ちぼうけをしていた。
「遅いぞおまえら」
「ごめん。西村がこんなんになっちゃって」
言いながら、隣に立つ生気の抜けた西村を指差すと、北本は目を丸くして、それから怪訝そうに首を傾げて見せた。
「どうしたんだこれ?」
「その、うちのクラスに転校生が来ただろ? それで……」
「わかった。転校生が来てテンション使い切ったんだな?」
「いや、違うんだ。転校生に近づきたくても、女子のおかげで近づけなくて、その、こんなになった」
「あー……そりゃあ、仕方ねぇなー……」
北本がさもありなん、という感じでうんうんと頷いて見せた。
「西村、しっかりしろ。ほら、靴履け靴!」
北本がぺちぺちと西村の頬を叩くと、西村はコクコクと頷いて、のろのろと上履きを脱ぎ下駄箱に入れた後、靴を履き始めた。西村が靴を履き終わったのを確認し、俺と北本の間に西村を挟み、まるで宇宙人を引きずるかのように西村を連れて外に出た。
頬にふき付ける風は冷たく、時々チリチリとした冷たさが混じる。
「うわー。雪降ってきやがった」
北本が吐き捨てるように呟いて、曇り空を見上げた。おれもわずかに視線をあげる。微かに白い粒のようなものが、風の流れに混ざりこんでいるのが見えた。
「そういや転校生、どうだったんだ? すげー美人だって聞いたけど」
「まだ一言も話してないからわからないけれど、もう打ち解けてはいた」
「あはは。夏目と正反対だな。で、美人かどうか聞いたんだけどなー俺は」
北本がおれに向けてにやにやと意地の悪い笑顔を浮かべる。
「……、ノーコメントで」
やや間をおいて俺がそう言うと、北本は「はぁー」と長いため息を吐いた。
「夏目はいっつもそうだよ。誰それが綺麗だ可愛いって会話してても全然入ってこねーし、色々遠慮しがちで」
「……その話、今関係あるのか?」
「ありまくりだよ。俺ら心配してんだぞ。夏目に彼女ができないんじゃないかって」
ぐうの音も出なかった。
「まあ夏目に彼女ができないうちは、まだ安心できるけどなー」
「なんだよそれ……」
「よくあるだろ? 友達が彼女作ると、ちょっと疎遠になっちゃってさ。俺も欲しいなあってなるあの感じ」
「……そうなのか?」
正直なところ、おれは中学をまともに通っていなかったせいで、異性はおろか同姓の友達も皆無だった。だから、北本が言う『あの感じ』とやらを味わったことがないし、そもそも彼女とかそういうのは、おれにとってはなんだか別次元の事に思えて仕方なかった。
「……はー。これだからイケメンは。実に余裕ですね」
「北本だって余裕だろ……」
「余裕に見えるか?」
「ああ」
頷いてみせると、北本がうーんと唸って。
「まあそうだな。少なくとも西村よりは余裕かもな」
北本が西村を見下ろし、それからおれのほうに顔を向けて悪戯っ子のように笑った。釣られて俺も笑ってしまう。
「確かに。転校生くらいでこうなるのは、少しアレだな」
「西村をこんなにしてしまう転校生か。明日の昼休みにでもお前らのクラス見に行くかなー。やっぱ美人だって騒がれれば、見たくなるのが男の性ってもんだろ」
「言ってろ」
そんなくだらない会話をしているうちに、いつも二人と別れるところまできてしまった。
「それじゃあな夏目、気をつけろよ」
「ああ。北本も西村も、気をつけて」
片手に西村を引きずりながら手を振ってくる北本に手を振り帰し、おれはとぼとぼと一人で歩き始めた。雪は相変わらずの調子で、頬にちくちくと刺さるような冷たさが痛かった。
寒さに目を細めながら、踏みしめられツルツルに固まってしまった雪の上を転ばないように気をつけて歩き、なんとかかんとか家までたどり着く。家に入る前にコートについた雪を手で払い、玄関の引き戸を開けると、外の温度とは真逆の暖かな空気が頬を包み込んだ。
「ただいまー」
そう言いながら靴を脱いで上がると、台所から音を聞きつけて、すぐさま、塔子さんがやってきた。
「貴志くん、お帰りなさい。寒かったでしょう。おやつ作ってあるから、着替えたら台所に来てね」
「はい、わかりました」
おやつという言葉にわくわくしながら、二階へ続く階段を上っていく。マフラーをほどきながら部屋の中に入ると、ニャンコ先生は朝と同じ体制のまま、同じ場所に座っていた。ニャンコ先生が有限実行したことにおれは感心したが、ふとニャンコ先生の様子がおかしいことに気がついた。おれが帰ってきたのに「おかえり」の一言もない。首を傾げながらニャンコ先生を見てみれば、全身の毛を逆立てていた。尻尾を膨らませ、目を見開いてきょろきょろと忙しなくあたりを見回している。
「にゃ、ニャンコ先生?」
先生に向けてただいまの挨拶もせず話しかけると、先生は怒ったような声でこう言った。
「夏目、お前、つけられたな。この家に何か入ってきた」
一瞬、先生が何を言っているのかおれにはさっぱりわからなかった。しかしその意味を理解した瞬間、暖かな気持ちが、一瞬にして冷え切ってしまう。
「何だって!?」
「追い出そうとしているが、どうにもうまくいかん。そもそも、何処にいるのかさえわからん」
慌てて辺りを見回すが、妖らしいものは見当たらない。部屋の引き戸を閉めて先生の傍に近寄るが、相変わらず先生の毛は逆立ったままだった。
「先生、そいつ、ヤバそうなのか」
「ヤバいかヤバくないかと言われれば、ちょーっとヤバいかもしれん」
珍しく弱音を吐く先生に、ごくりと喉がなった。
「強いのか、そいつは」
「強さはわからんが、でも、この私ですらどこにいるのかわからんから、やり手ではあるだろうな。だが、かなり近いぞ。おそらくこの部屋の周りにいる」
瞬きを繰り返し、再度部屋を見回した。相変わらず、変なところは見受けられない。
「そういえば先生、今朝預けた鍵は?」
「無事だ。今でも腹の下にあるぞ」
そう言いながら、先生が少し寝返りを打って、座布団の上に埋まるように置かれた鍵を見せてくれた。ほっと胸を撫で下ろす。
その瞬間だった。いきなりおれの袖から白いものがぬるりと飛び出てきて、その鍵を口に銜えて宙に浮かび上がった。唖然とする先生とおれをよそに、宙に浮かんだ白いのはおれの机に一直線に向かい、引き出しに鍵を差し込んだ。
「とうとう尻尾をあらわしたな貴様ーっ!」
ニャンコ先生がそう叫びながら白いのに突進して行くのを見て、おれはハッと我に返った。ガチャリと鍵が開く音がするのと同時に、白いのがニャンコ先生の方に首を向ける。その妖の顔を見て、思わず目を見開いた。
ニャンコ先生とはまったく違う、賢そうな顔立ち。それは昨日見た、クダギツネとかいうやつだった。
引っかこうとするニャンコ先生の鋭い爪をクダギツネはするりとよけ、長い胴体を先生のボテっとした腹に巻きつけた。ギチギチと音がしそうなほど締め上げながら、引き出しを開け、そこにしまってあった友人帳を銜える。
「っ!? やめろっ!!」
慌てて手を伸ばすが、クダギツネはニャンコ先生を解放すると同時、するりと俺の腕をかいくぐり、窓枠のほうへ着地した。クダギツネは銜えた友人帳を手にすると、ニヤリと気味の悪い笑顔を浮かべておれを見る。するとどうしたことか、窓が勝手に開き、外から冷たい風が入り込んできた。
「友人帳とやらは頂いた!」
そう高らかに宣言して、クダギツネは窓の外に飛び出していった。慌てて窓枠へ向かうが、遠くの空にクダギツネが浮いているのが見えただけだった。
――友人帳を、盗られた。
そう実感したとたん、心臓がバクバクと脈打ち始めた。背筋を悪寒が這い上がってくる。早く取り戻さないと、大変なことになってしまう。窓から離れ、踵を返して部屋の入り口に向かう。慌しく階段を降り、玄関に行って靴を履く。
「た、貴志くん? どうしたの?」
おれが慌しくばたばたと階段を降りてくる音に驚いたのか、塔子さんが台所から顔を出した。エプロンで手を拭きながらおれの方へとやってくる。
塔子さんになんと説明したらいいのか。友人帳を盗られたなど到底言えるわけがない。
「……、が、学校に忘れ物をしてきてしまって。今から取りに行ってきます」
「そうなの? 貴志くん、大丈夫?」
不安げな声に、不安そうな眼差しが向けられる。塔子さんはおそらく、熊のことを心配しているのだろう。おれのことを、この人はこんなにも心配してくれている。そう思ったとたん、嘘をついた罪悪感がのしかかってきて、思わず顔をそらしそうになる。
「……ええ、大丈夫です。それじゃ、いってきます」
おれも熊のことは少し不安だったが、友人帳のことを考えると悠長にはしていられなかった。靴を履きながら塔子さんにそう告げると、塔子さんは何かいいたそうに口をつぐんでから、諦めたようにため息をついた。
「い、いってらっしゃい。気をつけてねー!」
珍しく声を上げる塔子さんに振り返ることもせず、おれは家の外に飛び出した。
薄暗い曇り空を見上げると、白い帯のようなものが空に浮かんでいるのが見えた。二つの尻尾が風にゆらゆらとはためいている。おそらくあれがクダギツネだ。まだそんなに遠くはない位置にいる。
凍った雪道にもかまわず、クダギツネの向かう先へと走り出す。足元に気をつけながら転ばないように走り、時折空を見上げ、クダギツネがどこに向かっていくのかを確認し、道なりに進む。
「夏目!」
いきなり名前を呼ばれて、慌てて振り返るが何もいない。もしやと思い視線を上へ向ければ、白い獣の姿になった先生が宙に浮かんでいた。先生は険しい顔つきでおれを見下ろしている。
「一刻を争う事態だ。私は先に行っているからな」
「ああ!」
律儀にもそれを伝えにきたようだ。おれが了承の返事をするなり、先生は空を蹴って空に飛び出していった。ものすごい速さでクダギツネを追いかける。それをぼーっと突っ立って見ていたが、はっと我に返るとあわててクダギツネの姿を追いかけた。
道なりに進み、途中から農道に外れる。両脇が田んぼの、ろくに雪かきがされていない雪の積もった未舗装の道を進むと、空はどんどん暗くなってきた。
あまり人が寄ることはない川向こうの手前と言われている橋の袂までくると、おれのはるか頭上で、クダギツネに先生が飛び掛るのが見えた。
もんどりうつように二匹の獣は噛み付きあい、鋭い爪を立てあう。クダギツネのほうがニャンコ先生よりも何倍も小さいくせに、先生は苦戦しているように見えた。それも多分、クダギツネが友人帳を手にしているからだろう。
先生の身体にクダギツネの胴が巻きついた。身動きの取れなくなった先生の喉元に、クダギツネが噛みつく。とたんに白い毛並みに赤い色が浮かび上がった。
「先生!」
思わずそう叫んでしまう。先生の唸り声が響いたが、クダギツネはびくともしない。先生が一つ唸り声をあげると、ぽんと煙をたてて先生の姿が招き猫に戻った。クダギツネの胴から落ちるようにするりと抜けると、再度先生は元の姿に戻り、ひるむ様子のクダギツネに頭からかぶりついた。
そのまま二匹は、近くの田んぼの上に落ちる。
「先生っ!」
雪の積もった黒塗りから田んぼの上に降り、稲の株に足をとられそうになりながら、先生の方へ向かった。
遠くから見た先生の目を見ていると、背筋にゾッと怖気が走った。瞳孔は縦長に細くなっている。先生は怒りで我を忘れているのかもしれない。
先生はクダギツネの首を噛み千切るようにギリギリと歯を立てながら、暴れるクダギツネの前足を押さえつける。とたんにボキリと音がした。クダギツネの身体のどこかが折れたのかもしれない。しかし先生はかまわず、ギチギチと音を立ててクダギツネの首を引っ張る。そのたびに雪の上に鮮血が飛び散った。
なんというか、先生の姿はまるでシマウマを捕食するライオンのようだ。
「せ、先生……」
ゆっくり近づき、恐る恐る声をかけると、先生の瞳孔が少し丸みを帯びた。首を僅かに傾けておれの姿を捕らえるなり、何度か瞬きを繰り返し、しまったというような顔になる。そうして先生は、ゆるゆると口を開けた。
先生の鋭い牙の間から血混じりの唾液が零れ落ち、雪の上に染みを作る。牙に引っかかっていたクダギツネの身体がずるりと滑りぬけ、雪の上にぼとりと落ちた。
「……し、死んだのか、これ」
首から上が真っ赤に染まったクダギツネを恐る恐る覗き込む。クダギツネはぐったりと目を閉じて、気を失っているようだった。
「わからん。ちょーっとばかし、その、本気を出してしまったから、……どうだろうな」
ばつが悪そうに先生が言う。それからぺっぺっと血交じりの唾液を雪の上に吐き始めた。それから顔をしかめ、クダギツネに噛み付かれた事によってできた傷をごしごしとぬぐい始める。そのたびに白い毛並みに血がついて広がった。
「だめだ先生。そんなことしちゃ。後で手当てしてやるから」
「むぅ……」
不機嫌そうに唸って、先生はポンと煙を立てて招き猫の姿に戻った。先生の傷はあちこちにあって、舐めれば治りそうなものから、まだ血が出ている傷までさまざまだ。ニャンコ先生がふらふらとおぼつかない足取りでおれのそばにやってくるものだから、不安になる。
「先生、傷、ひどいぞ」
「ええい、私の傷なぞどうでもいい。友人帳をだな!」
「あ、ああ。そうだな」
頷いてしゃがみこみ、クダギツネに手を伸ばした。恐る恐る前足をどけて、友人帳に手を伸ばす。
そのときだった。ポンと軽快な音をたててクダギツネの身体から煙が吹き上がる。おれが驚いて身をすくめるのとほぼ同時に、先生が招き猫の姿のまま俺の前に飛び出してきた。
しばらくして煙が晴れると、クダギツネのいた場所に、枯葉が一枚、落ちていた。呆然とそれを見つめたあと、あわてて友人帳を探すが、どこにも見当たらない。きょろきょろと辺りを見回して、はっとした。
川向こうの橋の先、森へと続く道に、誰かが立っていた。目を凝らしてみると、見慣れない制服にピーコートという出で立ちだった。瞬時にあの転校生、の姿だとはっとする。そんなのそばにクダギツネがふよふよとやってきて、口に銜えた友人帳を差し出した。
おれはあわてて立ち上がると、田んぼから農道へと上がった。舗装されていないせいで、雪がでこぼこに固まって歩きづらくなってしまった道を走りながら、の姿を目でしっかり捉える。
は友人帳の中身をぱらぱらとめくって見たあと、満足そうに小さく頷いてみせた。クダギツネの頭を撫で、そしておれのほうを一瞥してから、僅かに頭を下げる。そうしてはくるりと踵を返し、クダギツネとともに山への道をゆっくり歩き出した。
なぜ、はニャンコ先生がいるにもかかわらず、走って逃げ出すことなく、ゆっくり歩いているのか。少し疑問に思ったが、それ以上に奪われた友人帳のことで頭がいっぱいだった。
凍った橋を渡り、山道を駆け上る。薄暗い杉林の中に伸びる道を駆け上ると、いつの間にか追いついてきたニャンコ先生が隣に並んだ。
「先生、あいつらがどこにいるかわかるか?」
「わからん」
珍しくあせった口調で先生が言う。山の中へと進むにつれ、どんどん辺りは暗くなっていく。
道なりに5分以上走ったが、の姿はどこにも見当たらなかった。途中、雪が積もったまま道が途切れているのをきっかけに、おれとニャンコ先生は引き返すことになった。
暗い中、目を凝らしての足跡を探してみたが、積もった雪の上には、おれとニャンコ先生の足跡しか見当たらなかった。の足跡は、橋から山道にかけて10メートルほどで途切れていた。
なぜがゆっくり歩いていたのか、それをおれは先に考えるべきだった。逃げ切れる自身があるから、そういう事ができたのだ。
雪の上に残った、おれより小さな足跡を指でなぞり、ゆっくり立ち上がる。
「すまない、先生」
「なぜ謝る。謝るのは私だ。私が、油断したせいだ」
「おれだってそうだよ」
しょんぼりと頭を下げる先生の姿を見下ろした。おれはしばらくその哀愁漂う姿を見つめた後、耐え切れず先生のそばにしゃがみこむ。先生の頭を恐る恐る撫でたあと、何も言わない先生の身体を抱き上げた。先生の耳のあたりにに頬を寄せてみる。傷だらけの先生の身体は冷たかった。
「先生、ごめんな」
丸い背中を撫でさすりながら、おれはとぼとぼと歩き出した。先生の小さな前足がおれのコートをぎゅっと掴む。その前足にはクダギツネに噛み付かれた傷跡があった。血は止まっていたが、見るからに痛々しい。
本当はもっとのことを探すべきなんだろうけれど、こうも手がかりがないとどうしたらいいのかわからなかった。何もできないこの状況にじんわりと視界がにじんできてしまい、おれは何度も目を瞬かせた。
「夏目、お前はいったん家に帰れ」
ニャンコ先生がぽつりとそんな事を呟いた。
「か、帰れって……先生は?」
「私はクダギツネとクダモチを探す」
「その身体でか? だめだ先生、一緒に帰ろう」
「だめなわけあるか。お前、事の重大さがわかってないだろう!?」
先生が前足にぐっと力をこめた。おれの腕から逃れるようにもがくので、おれは慌てて逃げられまいとにゃん子先生の身体を抱きしめた。すると先生は離せといわんばかりにおれの顔を睨みあげてくる。
「このままにしておいたら、大変なことになるんだぞ!」
「それくらいわかってるさ。でも、そんな怪我だらけで探しにいかれるほうが、おれにとってはよっぽど困るんだ」
負けじと睨み返したあと。
「頼むよ先生、手当てくらいはさせてくれ。ここで先生と別れたら、心配で家に帰れなくなる」
自然と言葉が喉に引っかかり、、まるで先生に縋りつくみたいな情けない声が出た。そんなおれの言葉を聞いたとたん、先生は目を見開き、おれの顔を凝視した後、ややあってからブルリと毛を逆立てた。
「きききっ、気持ち悪い! なんだかお前気持ち悪いぞ! さ、さてはキツネに化かされたな!」
「とことん失礼だな先生……」
腕の中でギャーと叫びながらじたばた暴れる先生もといデブ猫を抱えなおし、雪道を歩き出す。橋の袂まで来るころには、先生もすっかり大人しくなっていた。その姿はまるで借りてきた猫のように大人しい。まるでいつもの先生じゃないみたいだ。
「先生? やっぱり傷、痛むのか?」
不安になって問いかけてみれば、先生が前足をあげ万歳のポーズをとり、キーとわめきだした。
「んなわけあるか!」
「そうか? なんかいつもより大人しすぎて、気持ち悪いぞ」
「お前に言われとうないわ!」
それから先生は忙しなくあたりを見回し、ブルブルと身体を震わせる。その様子は今まで見たことがなかったので、おれは思わず目を丸くしてしまった。
「先生?」
寒いのだろうかと抱えなおすと、先生はややあってからぽつりと呟いた。
「なんだか、妙なものがいるような気がするのだ」
「妙なもの? ……妖か?」
「気があやふやでわからん……――おそらく、ここよりずっと遠くだ。遠くにいる」
「遠く……」
呟きながら、辺りを見回すが、もう真っ暗でよく見えない。農道に沿ったように立てたれた電柱に取り付けられた電灯が、薄らと街への道を照らしている事しかわからなかった。
「這うように動いているが、こちらには向かってはいないな」
「急いで家に戻ったほうがいいか?」
「……うむ。そうだな」
神妙な表情のまま、ニャンコ先生が頷いた。
201-?/--/-- 時期不明
夏目少年が住んでる町(村?)はド田舎だしクマくらい出るだろうという発想から生まれた。
当初の予定では「呪いをかけられた夢主を夏目少年が命がけで助ける」みたいな話だった。