※俺設定がひしめいています。注意


 父によると、この世界は“人間が利便を求めすぎたために起るべくして起った”のだという。
 現時点では存在しないという生物――確かイヌといっただろうか――の絵を見せながら、新しいオモチャを手に入れて意気揚々な子供といった感じで語る父の言葉を、その当時のわたしは意味がよくわからずただ頷いて聞き流すだけだった。が、今になって思えばそれはこの世界の人たちにとってとても大切な言葉ではないのかと思う。
 過去の人たちは“環境を大切に”というフレーズのもと、リサイクルやら温室効果ガスの排出の規制を行っていたが、それは無意味なものに近かったらしい。人間の二酸化炭素排出量と植物の二酸化炭素吸収量は同じ比ではなかった。植物は生長する際に二酸化炭素を吸収するので、もうある程度成長してしまえば二酸化炭素を吸収しなくなってしまうのだという。だからといってむやみやたらに成長しきった森林を伐採し焼き払い、畑や牧草地として使用し、農作物や牧草の成長により養分を取られやせきった土地を休ませようと見切りをつけ、また森林伐採の繰り返し。
 結果、大気中には二酸化炭素、メタン、フロン、亜酸化窒素などのガスが溜まり気温は上昇。それにより海水が膨張し水蒸気が通常より多く発生し、自然災害は増え温暖化は進み、それに伴う劇的な環境の変化により地球上の生物は絶滅の一途をたどっていったのだが、そういう危機的状況にこそ進化の兆しは表れるのだそうだ。
 今ではそう、ポケモンと呼ばれている未知の生物。なぜ彼らがポケモンと呼ばれるまでに至ったかはわからないが、大方、捕獲器具のモンスターボールに入れられるとポケットに突っ込めるほど小さくなるからそう呼ばれているのかもしれない。地球上にはびこる未知のウィルスに対抗できるほど強い彼らからワクチンを作りだし人間に投与し、そしてそれが次の世代に遺伝子として組み込まれ、人間も静かに進化を遂げて、今この地上で生きていけるようになった、らしい。
 そんな偉大な歴史を、この地上に生きている人のうちどれくらいが知っているのだろう。それはもうほんの一握りと呼べるくらいごく少数なのかもしれない。その中にかろうじてわたしが入っていることだけは確かだ。
 しかし今、その遺伝子の歴史の流れを壊してしまうような実験が、わたしが所属しているこの研究所でおこなわれている。常識として考えればとても重い罪の、全ての法を無視したクローン技術が使われていることを外部に伝える術をわたしは知らない。なぜならもうここ十年ほど、陽の光を浴びれない場所で生活しているからだ。
 忘れもしないわたしの6歳の誕生日。プレゼントにポケモンの卵をもらったその日、家に“シャドー”と名乗る悪党が押し掛けてきて、父と私はオーレ地方へと連れて行かれた。なぜ誘拐されたのかはわからないが、多分父が有能な学者だったからだと思う。シャドーのクローン実験には父の遺伝子学が必要不可欠だったに違いない。わたしがまだ小さい頃は研究所の奥深くの地下室で一緒に暮らしていたが、9歳を過ぎたある日、わたしはスナッチ団のアジトの地下室へと連れて行かれてしまった。
 ここ7年、父と手紙すら交わしていない。父がどうなっているか知りたくても、研究員たちは教えてはくれない。このどうしようもできない状況を悔しく思うが、わたしはただひたすらに、父が無事でいるのを願うことしかできない。




 日々に何か物足りなさを感じた。
 別に、他人のポケモンを奪い取ることに後ろめたさを感じたわけではない。そんなもの、レオはとうの昔に捨てている。ただ自分と相棒2匹が餓死や凍死なんかせず、安定した衣食住を与えてくれるのであれば何だってやると心に決めていたはずだった。なのに、どうしてそう思ってしまったのかレオにはよくわからなかった。単調な日々に飽きてきたのだろうか。もともと淡白で冷めやすいレオにはあり得る話ではあったが、それを理由に考えるとなぜかしっくりこなかった。かといってシャドーがやっていることを許せなくなった、とか変な正義感が芽生えたわけでもない。
 このもやもやをどう言葉にしたらいいのかわからない。むしろ、この感覚は言葉では表せれないものなのではないかと考えると妙にしっくりきた。まあ、なんというべきか、内の自分がここにいてはならないと警報をたてているような、そんな感じだ。もっとほかに居場所があるのかと自分に問いかけてみるが、この古臭い研究所しか帰る場所が思いつかない。考えたってどうしようもないことだ。くだらない。
「なあ、おい」
 延々と続く思考に終止符を打ったのと、ほぼ同じタイミングでそう話しかけられた。自分よりはるか年上のスナッチ団員がレオを見下ろしている。レオ自身の、誰も近づくなといったオーラに怯んでいるのか、少々ばつが悪そうな顔をしながら団員は無言で半透明のビニール袋を差し出した。その袋の中にコンビニで売ってるようなサンドイッチと2リットルのペットボトル飲料が入っているのがうっすら透けて見えた。レオは差し入れなのかと思ったが、自分に対してのものではなかったらしい。
 なぜあたりが騒がしいことに気付かなかったのだろう。レオは席から立ち上がってあたりを見回した。関係者以外立ち入り禁止と書かれたドアの辺りが特に騒がしい。目を凝らしてよく見ると誰かが倒れているようだった。レオは視線だけでビニール袋を掲げる団員に何事かと聞いてみる。
「ポケモンの攻撃を受けて凍傷したらしい」
 はあなるほど、とレオは内心頷いたあと、何故、と疑問に思った。ポケモンはいくら気性が荒くても人間に攻撃は一切しない。例えしたとしても致命傷には至らないはずだ。そんな考えが顔に出ていたらしく、団員はひとつ咳払いしてレオの注意を惹きつけてから、半ば無理やりといった感じでレオにビニール袋を押し付けた。
「あいつが運ぶはずだったんだけど、怪我しちまったから、お前が運べってよ」
 そんなこと誰が命令したんだと反論したくなったが、自分はしがない下っ端で、そんな下っ端の反論など認めてくれはしないと、レオはしぶしぶそれを受け取った。目の前の団員が安堵したように息を吐くのを睨みつけて足を踏み出した。コートの裾が翻る。その音に耳をぴくりと動かした、レオが今まで座っていたテーブルの上に陣取っているエーフィとブラッキーがそろってテーブルから飛び降りレオの後ろへと続いた。
 黄色と黒のテープで縁取られたドアを開ける際、背後からの視線がとても不快だった。
「頑張れよ」
 と声をかけられ、レオは背後の団員たちを睨みつけた後勢いよくドアを閉めた。ドアを閉める音が狭い廊下に妙に大きく響いたせいで、足もとのエーフィとブラッキーがびくりと震えた。小さく泣き声をあげられて擦り寄られてしまい、レオは自分の怒りが静まって行くのを感じた。イライラしては体にもよくないとは思うが、それでもあんなふうに同情が混じった声色で脅えたように言われればこちらとしても不快極まりないわけで。もうさっさと終わらせてしまおうとレオは深呼吸してあたりを見回した。
 まるで隔離病棟のような清潔さがそこにはあった。無機質な白で統一されたそこは妙に落ち着くのだが、ただの白い空間と思えるほど明暗のないその廊下は違和感すら感じさせてくれる。足を踏み出すごとに自分の足音が妙に響いて気持ち悪い。
 さてどうしたものかと、レオははめ込まれたように存在する窓ガラスを覗き込んだ。5センチはあるだろう分厚いその窓ガラスはたぶん防弾ガラスだろう。その奥には動物実験よろしく、じたばた暴れるエイパムに何かの薬物を注射器で投与している白衣を身にまとった研究員とそれを眺めている研究員が2人ほど。注射器の中身が全てエイパムの中に入っていくと、エイパムは白目をむいて泡を吹いてぐったりした。研究員がビニール製の手袋をし始めて、エイパムが横たわっている台の上に置かれているトレイからナイフのようなものを手に取った。あれは人間の手術に使われるメスだろう。何をするんだとレオは気になってそれを見ていたが、エイパムの腹部にメスが沈み込んでいくのを見た瞬間に目をそらした。
 ポケモンの研究と称してそういう事をやっているのは当たり前なんだと、ごく自然に認識はしていたものの、実際に見てみると気持ち悪い以外の何物でもなかった。視線を戻す。メスを握っていた研究員がこちらを見ていた。眼鏡の奥にある狂喜じみた瞳が、にたぁと、ゆっくり細められる。
 …気味が悪い。こいつらは変態なのかとレオはその研究員を睨みつけてから、逃げるようにその場を後にした。

 しばらく進むと、また黄色と黒のテープで縁取られた鉄製のドアがあった。「CAUTION」と赤い文字で描かれたプレートが貼られているここも行き止まりらしい。どうしたものか、とレオは右手に提げたビニール袋を見下ろす。
 “あいつ”に運ぶはずだったんだけど、とあの団員は言っていた。怪我したやつの代わりにお前が“あいつ”に運べとそう言われた。しかしその“あいつ”とやらがどこにいるのか、皆目見当もつかない。T字路のような構造になっている廊下をすべて歩き回ったが、どこもかしこも研究室ばかりで、最後にきた行き止まりのここが一番怪しげなのだが。よく確認もせずこの廊下に入ってきたことをひどく後悔しつつも、レオは戻る気にもなれず、ドアノブに手をかけた。
 ドアノブをまわして、ゆっくり押す。ぎぃ、と重たそうな音をたてて開けられた扉の奥は、廊下とは正反対のまったくの暗闇だった。その奥に浮かぶ赤い瞳が、睨みつけるようにこちらを見ている。レオは息をのんで、ゆっくりと足を踏み出した。
 最初、何が起こったのかわからなかった。いきなり目の前に何かが飛び出てきて、それから何かが凍りつくような鈍い音がした。目の前に頼りなく浮遊する抜け殻のようなそれは、自分が攻撃されていることすらわからないようなくらい落ち着いた動作でレオの方を振り返る。そいつは表情を変えることはなかったのだが、ひどく間抜けな顔をしていた。まったく動かないそれにしばし釘づけになったが、部屋の奥で小さな物音がしてレオは視線をそちらへ向けた。浮遊するポケモンへの攻撃がぴたりと止む。
「…誰?」
 布擦れのあとに、いきなり部屋が明るくなった。突拍子もなく明るくなった部屋にびっくりしてブラッキーとエーフィがレオの足に体をすりよせる。レオもレオでびっくりしたらしく、ぽかんとしたような表情で部屋の中を見ていた。
 閑散とした部屋の隅におかれた、病院に置いてあるような白いベッドからもそもそと這い出てくる少女は、ゆるゆると目をこすって近くに畳まれたカーディガンを羽織い、床に無造作に脱ぎ捨てられた靴を履いてこちらへとやってくる。レオの前に浮遊していたポケモンが掠れたような鳴き声、といえばいいのかわからないが、かすかすの音をたてた後に、ふらふらとおぼつかなさげに少女のもとへと飛んで行った。そのままぽすりと少女の胸元に体当たりして動かなくなる。少女が小さく苦笑してそれを抱えて、レオのほうへと足を踏み出そうとしたとき、部屋の奥から悲しそうな鳴き声が聞こえた。見れば部屋の中央に陣取るソファの陰に、水色の何かが縮こまっている気がする。銀色のひし形のとさかに、赤い眼。ゆるい湾曲を描いた嘴。レオはそんな馬鹿な、と目をみはった。
「気にしないでください。あの子はクローンですから」
 レオはすぐに納得できてしまった。
「ごめんなさい。あなたがあの人の代理なんですね」
 あの人とは、多分怪我をして蹲っていたあいつの事だろう。言われてレオは静かにうなずいた。ゆっくりビニール袋を差し出すと、少女がありがとうと呟く。施設の中にこんな場所があったのかと、なんだか場違いな雰囲気の少女をじーっと見て、なんだか変な夢でも見ているんではないかとレオが思い始めたころに、少女が苦笑しながら言った。
「…ほかに何か用事でも?」
 言われて、レオははっとして首を振った。挨拶もせずにドアを閉めようとした瞬間、足首に何かが巻きついた。見ると、白いねばついたものが巻きついていた。それをたどっていくと、牙と角の生えたでかくて赤い、あまり見たことのないポケモンが、透き通った瞳でレオを見上げていた。
 唐突に引っ張られてバランスを崩し、レオはあわててドアノブに手をかける。その拍子にドアが30センチほど開いた。
「こ、こら! アリアドス!」
 少女がアリアドスに抱きついて無理に引っ張るがそれは逆効果としか思えない。アリアドスと少女の力に情けなくも敵わなかったレオは、そのまま部屋の中に引きずり込まれてしまった。満足そうにアリアドスが目を細める。なんなんだこいつらは、とレオが後ろを振り返った瞬間、ごぉんと鈍い音がして勢いよく扉が閉じた。扉のそばに変なものがいる。まるっこいカラのようなものから前足と両足を突き出している、まるで首をひっこめたカメのようなそれは、のそのそと方向転換して真っ黒い空洞をこちらに向けた。よくよく目を凝らして見れば空洞の中に金色の目がある。ぱちくりと瞬きしているそれは、またのそのそと足を進めて少女とアリアドスのそばにいくと、その場に座り込んだ。
 今までの主人に対する仕打ちが気に食わなかったのか、エーフィとブラッキーが少女たちを威嚇するが、アリアドスに怖い顔をされてしまい、レオの後ろに隠れてしまう。止めと言わんばかりにクモの巣を吹きつけられたレオは動こうにも動けず、かといって怒る気にもなれず、静かな溜息をこぼした。
「ご、ごめんなさい。こんなつもりじゃなかったんです…」
 少女に言われたあと、視線を感じてそちらを見れば、珍しいものでも見るかのようにキルリアがソファの背もたれに寄りかかってこちらを見下ろしていた。
 こっちもこんな風になるつもりじゃなかった、とレオは内心毒づいた。


 少女の手も借りてようやっとクモの巣をはぎ取ったころには、今まで感じたことのないような疲労がレオを襲っていた。
「何か、飲みますか?」
 聞かれて、レオは力なくうなずく。
「ソファに座っててください。今作ってきます」
 言われて、レオはゆっくり立ち上がってソファに腰をおろした。見た目よりもふかふかなソファの座り心地に眠気を刺激されたが、今はそんな場合じゃないと眠気を振り切る。が、振り切れば振り切ったで何もすることがなく、ただぼんやりと、このソファの値段について考えていた時。
「コーヒーは平気な方ですか?」
 声をかけられ、視線をそちらに向けると大きめのマグカップを二つ持った少女がそばに立っていた。レオがうなずくと、少女がはにかむように笑ってテーブルの上にマグカップを置く。ゆらゆらと湯気の立っているマグカップの中にはなみなみとカフェオレが注がれている。飲めない場合の対処法として牛乳を足していたらしい。レオ自身ブラックコーヒーよりはカフェオレのほうが好きだったので、レオは無言でマグカップを手に取り口をつけた。向い側のソファに少女が腰を下ろす。カフェオレに数回息を吹きかけてから、恐る恐るといった感じで口をつけたあと、少しだけ顔をしかめてマグカップをテーブルの上に置いた。猫舌なんだろうか。
「すみません、こんな場所に長居させてしまって」
「…いや」
 確かに長く感じられる時間ではあったが、換算すればそれほど長い時間ってわけでもない。ただ慣れない人といたからそう感じたんだろう。レオは人とのコミュニケーションが得意なほうではない。むしろそれが億劫と思えるほどに毛嫌いしている。それが、彼女の体感時間を長くさせた原因なんだろう。だからといって謝る気は毛頭ないが。
「スナッチ団の方ですよね?」
「見ればわかるだろう」
「あ、いえ、そうなんですけど…それにしてはずいぶんお若いなあと」
 は? とレオは聞き返したくなったがなんとかそれをこらえた。
「そういうお前はどうなんだ」
「え?」
「見た目、僕とそこそこ同じくらいだろう」
「あ、……そうですね」
 いまさら気付いたといったような感じでつぶやいた後、少女がかすかに苦笑した。もしもこれと同じような会話をスナッチ団員としていたら、自分からもう会話を打ち切っていただろう。しかし少女の穏和そうな顔と、ぽつぽつとしたゆっくりとしたしゃべり方が、レオにそんな気を感じさせないでいる。不思議だと思うと同時、シャドーには似ても似つかないと思えた。なぜ彼女がシャドーに入ったのか気になったのだが、そんなことは自分には関係ないと疑問を打ち消す。
「そういえば、自己紹介がまだでした。わたし、といいます。ここでは主にクローン技術の研究に携わってます。…えーと、あなたは?」
「レオだ」
 それだけ呟いたが、にとっては十分だったらしい。
「レオさんですか。どうぞよろしくです」
 ほのぼのと笑って、それから放置していたマグカップに手を伸ばした。数回息を吹きかけた後、すするように飲み始める。どうやら本当に猫舌らしい。
「レオさんはどうしてシャドーに?」
 聞かれて、レオは口ごもった。入団した理由や目的といえば衣食住がほしかった、ただそれだけだ。これは正当な理由になるだろうか、と迷った末、どうしてもそれを言葉にできずにコーヒーに口をつけると、が少しだけ困ったように笑った。
「まあ、入団の理由なんて、人それぞれですよね」
 言って、コーヒーをすする。
「おまえはどうなんだ」
「え?」
「なぜ、シャドーに入った」
 一瞬だけ戸惑う様子を見せた彼女だったが、何やら言いにくそうに視線をそらした後、仕方ないかといった感じでレオに向けて微笑んだ。
「父がシャドーの研究員だったので、自然と。…でも、父と会わなくなってもう7年になりますが」
 それからは何か話題を探そうとしているのか必死にあちらそちらに視線をやる。が、レオにはさっきの発言が腑に落ちなかった。
「7年? 父親と7年も会ってないのか?」
「え、はい」
「入団したのはいつだ?」
「9歳の時です」
「……おまえ、歳は?」
「17、ですけど」
「……8年以上も前からシャドーはあったのか?」
「ええ、おそらくは」
 は苦笑し、ソファの後ろに未だ縮こまったままの青い鳥を振り返った。視線を感じたのか鳥はのろのろした動作で顔をのぞかせる。赤い瞳がゆっくり瞬きをしてレオを見つめ、それから困惑したようにの方へと向けられた。鳥はすくっと立ち上がって首をのばし、の耳をついばむ。がくすぐったそうに身をよじった。
「かなりの期間――8年以上もの年月がなければ、フリーザーの遺伝子なんかはそうそう手に入らないと思いますよ」
「…そう、だな」
 レオはにじゃれつくフリーザーを見ながら納得し、カップに口をつけた。
 12畳ほどのこの室内にはテーブル、ソファ、本棚、ベッド、テレビ、エアコン、そして隣室にキッチン、あと一つの扉――はたぶんシャワートイレだろう――と、生活するには困らない程度の設備が整っている。彼女はきっとここで暮らしているんだろう。おまけに食料を上から運んでいるとみると、彼女はきっと一切外に出れない環境下で生活しているようだ。
 そんな生活を、何年も続けているんだろうとふと疑問に思う。あるのが当たり前だと思っている砂漠の乾いた風や太陽の強い日差しを、彼女はどのくらいの間感じていないのだろうか。想像してみたが、自分の想像力が乏しくてその像を抱くことはできなかったが、そんな生活をしていたら退屈すぎるだろうということは想像できた。
 ビー。いきなり重たいブザーが鳴った。
「…?」
 レオが怪訝そうに天井を見上げる。音の発生源だろうスピーカーが壁に取り付けられているのを見つけ、レオは今の音は何だとに聞こうと思ったが、が悲しそうに微笑むので口を閉ざした。
「すみません。ここに他の人が入っていいのは、10分だけなんです」
 つまり以外の誰かがこの部屋に入って10分もすればブザーが鳴る、という仕組みのようだ。しかしどうやってブザーが鳴るよう仕組んでいるのか、とレオが部屋の中を見回していると、リルがくすっと笑った。
「この部屋温度感知センサーがついてるんです。人間と思われる熱源が部屋に入ってくると、自動的にカウントが始まるんですよ」
 なるほど、とレオは心の中で呟いてから、残りのカフェオレをすべて飲み干して席を立った。部屋の隅に縮こまっているアリアドスが立ち上がったが、さっきのようにクモの巣を飛ばしてくることはしなかった。むしろ、歩き出すレオの後ろをちょこちょこついてくる。
「ごめんなさい、私以外の人が珍しいみたいで、いっつもこうなんです」
 が申し訳なさそうに言うので、鬱陶しいと思っていた気持がなくなってしまった。ドアノブに手をかけると、が微笑んでぺこりと頭を下げる。浮遊して飛んでくるヌケニンを追いかけるようにエーフィとブラッキーが走ってきて、レオの足にまとわりついた。
「今日はありがとうございました」
「ああ」
 別に思っていたより大したことはなかったから、それだけ返事をしてレオはゆっくりドアを開けた。その隙間からエーフィーとブラッキーがするっと出ていく。自分も部屋から廊下側へ出て、をちらりと見てからドアを閉めた。
 この廊下が嫌なのか今すぐにでもここから出たいといった感じで走り出す二匹の後姿を見ながらレオも小走りで廊下を進んでいくと、白衣を身にまとった男が前方から歩いてくるのに気がついた。レオはゆっくり減速し、その人の傍を静かに歩いて、振り返る。男が慈しむように腕の中に抱いていたエイパムはぐったりしたまま、ぴくりとも動かなかった。
 あのポケモンはもしかして死んでしまったんだろうか。毎日毎日、研究員の都合で殺されていくポケモンは一体何匹に及ぶんだろう。そんなにポケモンの命は軽いものなのだろうか、とレオは妙な憤りを感じたが、自分が何か行動を起こしたところでどうにかなるわけでもないんだと、諦めたように息を吐いて、レオは2匹を追いかけた。




 ドアが開いた瞬間、冷凍ビームが炸裂するのを学習している彼は、青白い光が向かってくるのをぎりぎりで、ドアを使ってはじき返した。
ー! フリーザーなんとかしてくれ!」
「うわあ、ごめんなさい!」
 はそう言ってヌケニンにドアの方に行くように命じ、フリーザーに半ば体当たりするように抱きついて、なんとか止めようと試行錯誤をしている。レオが来た時よりも険しい顔で攻撃を続けるフリーザーは、しばらくすると疲れたのか、口から氷の光線を吐くのをやめた。それをドアの隙間から確認してから、恐る恐るといった感じで男が入ってくる。男は申し訳なさそうな顔をしたままのほうへ歩いて行き、腕の中のエイパムを差し出した。
「ごめん、こいつの看病頼みたい」
「はい、わかりました」
 は嫌がる風を全く見せずに、差し出されたエイパムを受け取り、デスクの横に置かれた保育器のような機械の中にそっと寝かせて、透明なガラスの蓋を閉めた。エイパムがうっすら目を開けて無理したように笑うので、もつられて寂しそうな笑顔を見せた。
「最後まで生きてたの、こいつだけだったんだ」
「そうですか…」
「他のやつは…傷は俺が縫って塞いだけど…出血が多くて」
 保育器のそば、の隣にやってきた男が、透明な蓋を撫でる。中にいるエイパムの尻尾がゆらゆら動き、弱弱しく鳴いてガラス越しに男の手に触れる。すると男は目を見開いてから、くしゃっと泣きそうな顔をして笑った。はその場から離れ、冷蔵庫に入っている透明なパックを取り出すと、保育器の頭の方にあるフックにそれをつるしてキッチンのほうへ行き、銀色の大きなボウルを持ってきた。アルコールのにおいがする溶液で浸されたボウルの中から透明なチューブを出してガーゼで拭き、それをパックに取り付ける。チューブの先端の銀色の針に触らないようチューブを持ち、保育器の蓋を開けてエイパムの腕に触れた。デスクの上にある容器からアルコールがしみこんだコットンを取り出し、エイパムの腕を確認するように触ってからある一部分を擦るように拭いて、そこに銀色の針を差し込んだ。デスクの上に無造作に置かれた医療用テープを、針を差し込んだ箇所に張り付け、チューブも一部分エイパムの腕に張り付けてから腕の下に支えをおきチューブを側面の溝にはめこんで蓋をした。
「…あとでポケモン用のブドウ糖点滴を持ってきてくれると助かります」
「ああ、わかった」
「そんなに落ち込まないでください。この子はきっと助かります」
 が慰めるように男の背を叩いて、ソファに座るように促した。男がぐったりと崩れるようにソファに座りこむと、は苦笑してキッチンへ向かい、お茶が入ったボトルとタンブラー2つを持ってきて向かい合うように座り、お茶をタンブラーに注ぎ始めた。
「…盗聴器は仕掛けられてないよな?」
「はい。キルリアが反応しないから、多分大丈夫だと思います」
「まー、ばれたらばれたでそん時だ。せいぜい暴れてやろうぜ」
「暴れるのはあなたじゃなくて、あなたのポケモンたちですよ」
 が呆れたように溜息を吐くのを見て、男が苦笑した。
「いや、予定変更。ポケモンたちだけじゃ研究員に睡眠薬注射されて終わっちまう」
「…じゃあ、どうするんですか?」
 男が口元をゆるめて、にやりと楽しそうに笑った。
「火薬だよ火薬。この施設全体を爆破させるんだ」

07/11/14