※1:オリキャラがでしゃばってます。
※2:人体欠損系が苦手な方はご注意ください。
※3:原作と比較すると時系列があやふやなので、一種のパロディと考えて下さるとありがたいです。
少女は人を殺す事が仕事だった。
殺す事をやめれば楽になれると内心わかっていたが、やめてしまえば自分自身の存在意義はなくなり、組織には不要とみなされ海に沈められると分かっていたので、少女は人を殺し続けた。
たくさんの人を殺した。たくさんたくさん殺し続けた。
そうして気づけば少女の足元にはたくさんの屍が積み重なっていた。
それでも気にせず殺し続けていたら、いつしか足元の死体の数の分だけ少女に危険が付きまとうようになった。殺せば殺した分だけ追っ手が増えていくのだ。考えればすぐに分かる事だ。
それでもなお、少女は人を殺すのをやめることができなかった。
「あー、畜生…」
数年前の放火により全焼し、放棄され、もはや廃墟と呼べるビルのとある一室。煤けて真っ黒になった壁にもたれかかった男が一人、悔しそうに吐き捨てた。名をライモンドという。ライモンドはこれでも一応ミルフィオーレファミリーに属するマフィア。…の下っ端だ。
ライモンドが身につけているスーツは所々裂けており、また焦げて穴が開いてしまった箇所もある。左足の太腿からは血が垂れていて、床に点々と赤黒いシミを作った。ライモンドはスーツの袖を引き裂いて、止血のために左足の太ももにきつく結びつけた。手持ちのリボルバーに弾を再装填し、念のための痛み止めとして口の中で弄ぶ様に転がしていた麻薬のカプセルを乱暴に噛み砕いて飲み込んだ。
隣の少女を見やる。相変わらず表情を崩すことはない。男と同じように、ドアだったであろう場所の傍に身を隠しながら、じっと外の様子を伺っている。こういう状況になっても、彼女はいつも無表情だ。ライモンドはそれに呆れたが、少女の口元が少しだけきつく引き結ばれている事に気がついて、よくわからないが安堵の息を吐いてしまった。
今日の仕事は簡単なものだった。中東から仕入れた阿片を金と交換するだけだった。ライモンドは数人の部下を連れてイタリアのとある辺境の港町に向かい、バイヤーと取引を開始した。しかしどこぞの同業者がそれを嗅ぎ付け、阿片と金を奪い取りにかかってきた。多勢に無勢の状況で敵うわけがなく、ライモンドはバイヤーに金も渡さず阿片を持ち逃げ近くのビルに身を潜め、この状況をどう打開しようかと考えている間に廃墟は戦場と化し、そうして今に至る。味方の中で生き残ったのはライモンドと少女だけだ。部下は皆頭を銃でぶち抜かれて死んでしまった。正直な話、ここまで相手が強いとは予想していなかった。
つまり、ライモンドは油断していた。今の今まで任務を失敗した経験がなかったから。
自分の死体が警察に渡れば身元がばれ、組織に莫大な迷惑がかかるのをライモンドは知っていた。だから日頃、指先をヤスリで削って指紋を取り除き、任務の前には必ずカプセル型の小型爆弾を飲むようにしていた。その爆弾はリモコン式のスイッチを押すと爆発する仕組みになっている。爆弾の威力はかなり強く、汽車に轢かれたあとの死体よりも細かくバラバラに砕いてくれる。なんでそんなのを知っているのかと言うと、今さっき部下の死体で確認したからだ。
上着のポケットに入っているリモコンを取る。
「」
少女の名前を小声で呼んで彼女の意識をこちらに向け、手元のリモコンを投げて渡した。は無表情のまま、空中に弧を描いて飛んでくるリモコンを視認すると、酷く細い、黒光りする手を伸ばした。それに伴い機械の駆動音が狭い室内に静かに響く。器用にキャッチして、手元のリモコンを食い入るように見つめた。前髪に覆われたの目が何度か瞬く。
「俺が死んだらそれ、押してくれ」
は瞬きを繰り返しながらライモンドを見て、ゆるく首を振った。いつもは無機質なのに、こういうところだけは強情だ。
「大丈夫。ライのこと、ちゃんと守る」
が言い終わると同時に、からん、と部屋に何かが飛び込んできた。鉄の音を響かせて床に転がるそれを視界に捉え、ライモンドは息を呑んだ。
手榴弾だった。恐らくロシア製の。
ライモンドは目を見張って思わず頭を抱えるようにして身を丸くしたが、は違った。自ら手榴弾へと飛び込み、それを拾い上げ、部屋の外へと思いっきり投げた。からん、とまた鉄の音が響いた直後に、爆音が轟いた。
激しい振動ともに爆風が室内に入り込んでくる。とたんに砂埃が部屋の中に立ち込め、舞い上がる煤のせいで視界が黒く濁った。目を擦れば目にゴミが入るので、ライモンドは何度も瞬きをしながら室内を見渡した。近くにがいた。ライモンドに覆いかぶさるようにしている。どうやら爆風からかばってくれたらしい。
「平気?」
に聞かれて、ライモンドは呆けたように頷いた。
「…お前は?」
「大丈夫」
は律儀に答えたあと、ライモンドからさっと身体を離して、部屋の外を覗き込んだ。覗きながらも、ウエストポーチから予備の弾を取り出し、両腕に装備されているマシンガンに再装填している。すぐに部屋の外に飛び出せるようにが膝立ちになると、黒光りする足から微かに鉄どうしが擦れる音とモーターの駆動音が響き、ライモンドの耳に届いた。
はサイバネティック・オーガニズム――所謂“サイボーグ”と呼ばれる人種だった。いつどこで手足をなくしたのかは知らないが、それを補うためなのか両腕と両足は見たままの通り機械だ。どうして彼女がこんな身体を持つようになったのかライモンドは知らない。一度にそれを聞いてみたことがあるが、彼女は俯きがちになって何も話さなかった。
の手足のメンテナンスを昔からしているらしい、もういつどこでぽっくり逝ってもおかしくないような見た目をしている、ケンゾウという名前の技術職の爺さんはの事を沢山知っているようだったが、彼は基本的に人と接するのを好まないのかライモンドには3つの事だけしか教えてくれなかった。
1つめ。は常に情緒不安定であり、かなりデリケートな人間であるという事。
2つめ。は感情を表立たせないが、人並みの感情を持っているという事。
3つめ。と接するときは、が“女の子”だということを認識し、ちゃんと目線をあわせて話してやる事。
正直まるで役に立たない情報だとライモンドは最初は思っていたのだが、こんな機械人間と半年もの間大した不満も抱かず一緒にいれたのは多分この3つを守っていたからだろう。おかげでも最近やっと懐いてくれる様になった。
…懐いてくれるようになったというのに、このザマだ。足に怪我をしてしまい、痛みはどうにか麻薬で抑えれるものの、視界がぶれてしまって満足に動けない。の足手まといになってしまっている。いっそのこと自分が囮になって彼女だけを逃がしたほうが最良なのではとさえ考えてしまう。
「ライ」
咄嗟に名前を呼ばれて、ライモンドははっと顔をあげた。じっと、食い入るようにがライモンドを見つめる。
「変なことは、考えちゃだめ。生きぬく事だけ考えないと」
真摯な眼差しに射抜かれる。何もかも見透かされているのではないのかという感覚に陥った。彼女は無機質だというのに、こういうことには、本当に敏感だ。それがライモンドには笑いさえこみ上げてくる。
「…悪ぃ」
首の後ろを掻きながら謝ると、が目を細めた。こういうときではなく、普通に日常の中でその笑顔を見たかったものだと内心嘆く。
はライモンドの顔を見て満足したのか、ウエストポーチからごそごそと何かを取り出してライモンドに見せた。黒光りする、でこぼこした表面の、見覚えのあるそれ。
「お返し、してみる?」
どうにでもなればいい、といった心持だったので、ライモンドはすぐに頷いた。はそれに返事をするかのように手榴弾のピンをはずす。の腕が動き、ヒュンと風を切った。
1秒ほどしたあとに、からん、とどこかにぶつかる音がした。
それの直後に、小さな、本当に小さな、男たちのざわめき。
ライモンドが耳をふさいだ瞬間、ドン、と床が揺れた。砂埃が立ち上る。ライモンドは静かに噎せ返りながら部屋の外の景色を伺えば、もともと脆かった外壁が見事に吹き飛んでしまっていた。剥き出しのコンクリートには赤いペンキをぶちまけたかのように、血のりがべっとりとついていた。どうやら運よく何人か殺したようだった。顔を引っ込めてを見れば、しごく真面目な顔であたりに視線を配っている。
「…なあ、他にどこに敵がいるとか、わかるか?」
ダメもとで聞いてみた。
「…ごめんなさい」
がふるふると首を振って答えた。流石にそういう、熱源探知とかの機能はついていないらしい。当たり前だろうなあ、とライモンドは自嘲した。
…こうして、ずっと同じ部屋にいるのも、埒が明かないだろう。もしも敵が救援を呼んだらそれこそやばい。
「――逃げる、か」
ライモンドが部屋の剥き出しの窓に視線を向けると、がこくんと頷いた。
4階の高さから飛び降りれば普通の人間は運悪ければ死ぬし、運がよければ大怪我で住む。そんなのは誰でも分かる事だ。スーツケースを手に提げベランダに出て地面を見下ろし、敵がいないのを確認する。も同じように下を覗き込んで、ライモンドを見上げた。早く命令してくださいといわんばかりに。
「頼む」
いわれてが頷き、軽々とライを抱き上げた。こういう立場になると、ライモンドはいつも情けなくて穴があったら入りたくなってしまう。何故成人して数年も経った大の男が、未成年の少女にお姫様抱っこされねばならないのか。自問したところで無意味だ。
「いくよ」
が軽くジャンプすると、ライモンドは顔に風を感じた。浮遊感が身体を包む。舌を噛まないように歯を食いしばってスーツケースをぎゅっと抱きしめ、次に来る衝撃に備えて身を強張らせた。
が着地すると、レンガが敷き詰められた地面がの足型の形に沿って砕けた。地面に下ろされ、ライモンドはほっと胸をなでおろした。立ち上がってあたりに気を配る。
「ライ、こっち」
に手を引かれ足を踏み出したところで、地面に銃弾が当たった。見上げれば先ほど飛び降りたビルのベランダに、スーツを着込んだ数人の男が銃を構えて立っていた。やばい、と思った瞬間には右足を打ち抜かれた。衝撃に耐え切れず、ライモンドが地面に転がると、は振り返ってライモンドを庇うように立ちふさがった。
飛んでくる銃弾を奇跡的に両腕と両足ではじき返すと、ベランダの男たちが目を見開いて眉を寄せた。何事かをわめいているようだったが、ライモンドにはまるで聞こえなかった。出血が多すぎたのか意識がかすむ。途切れ途切れの意識の中、最後の力を振り絞ってを見上げれば、マシンガン機能のついた右腕をベランダの男たちに構えていた。その後姿はとても凛々しくて、ライモンドには何故か、何処の誰よりもかっこよく見えた。
(――なんつーかこれ、普通立場逆じゃね?)
なんて事を考えながら、飛んでくる銃弾をが両手両足を使ってはじき返し、それが運悪くとの神経をつなぐ線を焼き切ってしまった音と、の右腕から発射されるマシンガンの音を耳に捉えることなく、ライモンドは意識を手放した。
先日、ホワイトスペルの技術者ケンゾウが老衰したことを聞かされたスパナは、大して興味なさそうに頷いた。
そもそもケンゾウはミルフィオーレファミリーの中で誰とも話さずひたすら研究室に引きこもり、人との係わり合いを避けていた。だからスパナは一度しか面識がない。よってまるで興味のない人物の死を告げられたところで、はあそうなのご愁傷様、としか頷けなかった。
「それでだ、スパナ」
こほん、と正一がスパナの気を引くために咳き込むと、床に敷いた座布団に座り、作業机の上で何かしらの機械を弄くりまわしていたスパナは首を動かして目線を彼に向けることで答えた。
「ケンゾウが常日頃メンテナンスをしていた“モノ”があるんだけれど、メンテナンスをする人がいなくなって困ってしまった人がいるんだよ。その担当を引き受けてもらいたいんだけれど…」
ブラックスペルとホワイトスペルという派閥で分かれたこのミルフィオーレファミリーは、表ではいくら仲良しこよしをアピールしていても、裏ではそうもいかない。いくら正一の頼みだからといっても、スパナにとって大して興味を惹かなさそうなホワイトスペルのメカのメンテナンスなどご免被るのだ。
「いやだ」
スパナが答えると、正一ががっくり肩を落とした。
「めんどくさい。ウチには関係ない。正一がやればいい」
子供のような文句を言いながらスパナが眉をひそめた。
「でもなあ、僕はご覧の通り忙しいわけで…。ケンゾウが心底入れ込んでたモノなんだ。見てみるだけでもしてみないか?」
ぴくりと、スパナが動いた。
あの偏屈爺が心底入れ込んでいたメカと言われれば、スパナの心の内に自然と興味がわいてきた。家庭の事も顧みず、機械弄りをするための資金源がほしくて日本を出てマフィアに入り、年老いたケンゾウが残りの生涯を費やした機械。どれくらい大きいものだろうか。ケンゾウは日本人だから、当然そのメカも日本のアニメに出てくるロボのように変形もするに違いない。空を飛ぶヘリコプターから陸軍用兵器に変形したらと考えると、スパナは武者震いが止まらなくなった。
今更だが、スパナは生粋のメカオタクだった。
「見る。見てみたい」
立ち上がりながらのスパナの言葉に、正一は安堵の息を吐いた。
「で、どこにあるの」
目を爛々と輝かせながら大股で歩き始めるスパナの腕を、正一が慌てて掴んだ。のだが、引き止めることができず、ずるずると引きずられるような形になっている。
「もう連れて来てあるんだ。だから…、頼むからちょっと落ち着いてくれっ」
なんとかスパナを落ち着かせ、正一は部屋の入り口へと向かった。ドアを開けると、廊下の壁にもたれかかっているスーツの男がいた。彼は吸っていたタバコを携帯灰皿に押し込み、足元の大きな箱を重たそうに持ち上げ、正一とともによたよたと部屋の中に入ってきた。流石にこっちの作業机まで運ばせるのは悪いなあと、スパナは小走りでそちらに向かう。男が床に箱を置くと、中で機械がこすれあう音がした。スパナは舌でキャンディを弄びながら、甘味が溶けこんだ唾液を飲み込む。ごくんと喉が鳴った。
「スパナ、彼はライモンド。ライモンド・マッコイ。ホワイトスペルに所属してる。僕の部下だ」
ライモンドがスパナの前に右腕をすっと差し出した。握手を求めているようだ。スパナが無意識に右手を出すが、手袋をつけたままでは失礼だと慌てたように手を引っ込めて手袋をはずし、素手でライモンドの手を握り返した。するとライモンドは人懐っこそうな笑顔をスパナに向けた。
「初めまして。俺はライモンド。気軽にライって呼んでくれ。…君がスパナか、思ってたより若くて吃驚したよ。会えて光栄だ」
初対面同士の挨拶によくある、いわばありがちなパターンの挨拶だったが、スパナはそれを違和感なくすんなりと受け入れる事ができた。そう思わせたのはきっと、今の言葉の全てがライモンドの本心からくるものだったのだろう。
「それで、唐突だけど本題に入ってもいいかな」
スパナが頷くと、ライモンドは先ほど持ってきたばかりの箱の蓋に手をかけた。
「彼女を直してほしい。期間は2週間。なんで2週間っていうと、2週間後に大事な任務があるんだ」
「彼女?」
スパナが聞き返すよりも早く、ライモンドは箱を開けた。
スパナが息を呑んで、半歩ぶん身を引く。
箱の中には手足のない少女が収まっていた。そうして空いたスペースに、少女のものと思われる、折りたたんだ手足が仕舞われている。
少女が身体を小さく震わせて、ゆっくり顔をあげた。乱雑に切り揃われた長い前髪の間に覗く黒目がちな大きな瞳がスパナを捉える。一度見たら、絶対に忘れそうにないくらい強い力のある瞳だった。スパナがこれは夢ではないのかと何度か瞬きすると少女は不安そうに眉を下げて、さっきの眼差しとは打って変わっておびえたように瞳を揺らめかせて、スパナからふいっと顔をそらしてしまった。
巨大なスケールのメカを妄想し、さんざん期待していたスパナの理想ががらがらと音を立てて崩れていく。けれども少女の手足がメカっぽい事に少し安堵しつつも、少女から自己紹介もなんにも無しというこの状況にどう反応したら良いのかわからず、スパナは正一に視線を向けた。
「人じゃないかこれ」
スパナの口から不満そうに零された言葉に、正一は正論だといわんばかりに大きく頷いた。
「うん、人だよ」
「正一は、モノって言った」
不服そうに申し立てるスパナの言葉に、すぐさまライモンドが反応した。
「…正一さん」
睨み見るようにして名前を呼ぶ言葉には、静かな怒気が含まれていた。
「ごめん、彼女を“モノ”呼ばわりしたのは本当に申し訳ないと思ってる。でもそうしないとスパナが診てくれないんだよ…」
ライモンドはそれに納得したのか、けれども不服そうな面持ちで、
「そうですか」
とだけ呟いた。そうして至極真面目な眼差しをスパナに向ける。人を射殺せそうな目をする男だとスパナは思った。感情をはっきりと視線でぶつけてくる。熱血漢とでもいうのだろうか、スパナとは正反対の男だった。
――この男は、すこし苦手だ。スパナは内心独りごちた。
「で、の手足直してほしいんだが、直せるのか? 直せないのか?」
ライモンドのはっきりとした物言いが、スパナの癪に触った。
「…直せるも直せないも何も、設計図がないとウチにはわからん」
スパナに言われて初めてその存在に気づいたのか、ライモンドは目を丸くした。困ったように首の後ろを掻きながら、ライモンドは箱のそば、少女の対面側にしゃがみこんだ。すると少女がそっと顔をあげる。
「、ケンゾウさんは手足の設計図、どこにしまってるんだ?」
スパナにとってはあまり聞きなれない“”というフレーズを、スパナはこの少女の名前だと認識した。
「パソコンのそばの、棚にしまってあるフロッピーディスクだと思う。分割して保存してあるはず、たぶん」
曖昧に答えるにそっか、と呟き、ライモンドが手を伸ばしての頭を撫でた。一見乱暴な手つきのようだが微妙に手加減をしていて、まるで犬を撫でいるような優しい手つきだった。
「今時フロッピーて…アナログなじーさんだな」
「デジタルにはついていけないって、ぼやいてた」
の言葉にライモンドは苦笑し、ややあって溜息をこぼした。
スパナの部屋には一般的なOSを搭載したパソコンがない事を知ったライモンドが仕方なく、ケンゾウの研究室からおよそ40を軽く超えそうな数のフロッピーディスクとノートパソコンに外付けのフロッピーディスクドライブを持って戻ってきたのは、彼が部屋を出てからきっかり十分後のことだった。
ライモンドとスパナはすぐさま作業机近くのコンセントにそれぞれのプラグを差し込み、ノートパソコンとドライブを繋げて電源を入れた。黒い画面のバックライトが点灯し、画面がぱっと明るくなった。4等分されて、それぞれ赤、緑、青、黄で塗り分けられた旗の画像が表示される。その下にはよく見るOSの文字と、そのバージョンが示されていた。十年以上前のものだった。
「…ウィンミー」
スパナが呆れたように呟く。
「…古すぎだろおい」
ライモンドが鼻で笑った。しばらくそうして待っていると、デスクトップが表示された。デスクトップの背景は単色設定にしているのか真っ黒だった。デスクトップアイコンは殆ど消されていてマイコンピュータのアイコンしか無く、とてもシンプルだった。
スパナがフロッピーディスクの一枚を取り、ドライブに差し込む。フロッピーディスク内にはバックアップとしてか分割圧縮されたファイルが保存されていた。とりあえずデスクトップにフォルダを作ってそこにコピーし、フロッピーディスクの山を横目で見た。
「ウチはこれから設計図取り出すけど、ライはどうする?」
聞かれたライモンドはきょとんとしてから、顎に手をあてて考え込み、
「付き合うよ」
と答えた。
それからはほぼ無言で、スパナはフロッピーディスクのデータを着々とコピーしていた。ライモンドといえば箱に入れっぱなしだったを箱の底に敷いた分厚い毛布ごと抱き上げてスパナの横に寝かせた。そうしていったん部屋を出て行き、しばらくして、白い半透明のシリコン素材で覆われた義手と義足を抱えて戻ってきた。
「なんだそれ」
スパナが問いかけると「見たまんまだよ」とライモンドは答えた。
「、つけるぞ」
「うん」
大人しくがうなずくと、ライモンドが手際よく手足をつけていく。最初に右手をつけ、最後に右足をつけると、が盛大に息を吐いた。手を動かして身体を起こす。は毛布の上に座りなおして、何度か手を握って開いて見せた。
酷く精巧な義手だなあ、とスパナは感慨深そうにうなずいて、
「…まてまてまて」
スパナが静かな声でつっこんだ。義手は普通見かけ倒しのものだから、今がしてみせたように動く義手をスパナは知らなかった。
「なんだそれ。ウチ、聞いてないぞ」
自分の意思に従って動く義手などもはや義手ではない。不満げに言いながらも、スパナはデータをコピーする手を止めはしなかった。
「…ああ、そういや説明してなかったな」
今更気付いたと言わんばかりに目を丸めてライモンドが言うので、スパナはこくこくと頷いて見せた。
「は半機械人間なんだよ」
スパナの身体に衝撃が走った。
それはもう、ビリビリと強いのが。
「そそそそ、それっていわゆる」
「サイボーグだな」
しれっと言ってのけるライモンドを凝視し、スパナがのけぞった。いや後ろ側に倒れた。床に転がったまましばらく静止して、それから身体を起こした。
「これまた随分とオーバーだな…」
「だって、人間と機械の融合だぞ? ウチ、そんなの初めて見た!」
そう言って、きらきらした眼差しをに向けた。といえば不安そうに眉を下げて、スパナの視線から逃れるようにライモンドの背中に隠れた。の身体つきは華奢なので、文字通り本当に隠れてしまって姿が見えなくなる。しばらくするとはライモンドの肩にそれぞれ手をおいて、顔を出した。そおっとスパナの様子をうかがっている。スパナが困惑した様子でぽかんとしていると、
「は人見知り激しいんだよ。馴れるのに最低半年くらいはかかる」
ライモンドが苦笑交じりに言った。
「…そうなのか?」
スパナが首をかしげれば、
「ああ。最初の頃は殴られたこともあるぞ」
ライモンドが軽く笑いながら肩をすくめて言った。するとが脅えたように背中に引っこんでいってしまう。なんだか子供っぽい仕草だった。
「…歳は?」
スパナが聞けば、ライモンドはうーんと考え込んで。
「見た目、成人してなさそうだけどなあ」
つまり、ライモンドはに関してあまり知らないらしい。
スパナはなんとなくポケットから棒付きキャンディを二つ取り出し、それを握った手をライモンドに差し出した。ライモンドが手を伸ばすので、その上に落とす。
「くれるのか」
「うん」
赤い半透明のキャンディをじっと見て、ライモンドはありがとうとスパナに告げた。
「」
ライモンドが背後のを振り返りながら名前を呼ぶと、小さな返事が聞こえた。
「これ、目の前のおにーさんがくれたんだ」
どうやらライモンドはスパナに気を使っているらしい。が早くスパナになじめるように気遣っているのか、「おにーさん」という言葉を強調して言いスパナを指さした。
「あ――」
の声が詰まった。おずおずと伺うような視線を向けられ、スパナはなんだかこそばゆくなってきて視線をパソコンの画面に戻した。
「ありがとう、は?」
優しい声色だったが、有無を言わせない物言いだった。
それも、小さな子供に対するような。
「――ありがとう」
言い終ると、よしよしとライモンドがの頭をなでた。はくすぐったそうに目を細めながら、キャンディの包装をピリピリと破いて、キャンディを口に銜えた。銜えてからすぐに、おいしい、とぽつり言葉が漏れる。スパナが横目で見ればはからころと口の中でキャンディを弄びながら、ライモンドの背中にもたれかかってそのままずるずるとしゃがみこんでいた。
フロッピーディスクに保存されていたデータをすべて読みとりパソコンにコピーし終わったころには、はライモンドの背中にもたれかかって寝息を立てていた。ほんの数ミリしか上下しない肩と、息を吸って吐く音がひどく弱々しくて、それが生きていないように見えて、スパナは最初スリープモードに入ったのかと勘違いしたほどだった。
シリコン樹脂におおわれたの両手両足は、中の機械がうっすらと透けて見える。触ってみようかとスパナが手を伸ばしたが、が起きるのではないかと不安になり、おずおずと手をひっこめた。
「ちょっと思ったんだけど、この手足ではだめなのか?」
スパナがの手足を指さしながらライモンドに聞いてみた。
明らかに完成度の高いその手足は、ケンゾウという技術者がいかに天才であり、尊敬できる存在であるかを表しているかのようだった。精巧で華奢な、関節のいたるところの細部までの繊細な作りが、とてもに似合っていた。ケンゾウはの事を本当に理解したうえで、これを作ったのではないかとさえ思えてくる。
「だめだ。それは日常生活用なんだ。ケンゾウさん曰く」
ライモンドがそっけなく答えるので、スパナは納得してこれ以上意見を出すことはしなかった。どうやら見たところ無駄に防水加工もしてあるようだし、ケンゾウがこれを日常用だと定めたならば、これは日常でしか使ってはいけないのだろう。
「…設計書、取り出したのか?」
「うん。今印刷する」
そうか、とライモンドはうなずいたあと。
「できそうか?」
首を動かしてスパナを横目で見ながら、至極真面目な顔つきで問いかけた。
「ウチ、医療関係かじったことないから、の神経を義手に接続する仕組みが少し難しい」
スパナが答えると、ライモンドは肩を落とした。
「でも、やってみる」
一見するとボンヤリ風のスパナが、何故かライモンドの目には頼もしく映った。
「…ほんとにか?」
「ああ」
素直に頷くスパナをライモンドが凝視する。スパナが手袋をはずした右手を差し出した。さっきとは逆の立場だなあとスパナは場違いな事を考える。
「引き受けさせてもらうよ」
これを引き受けることにより、ケンゾウの技術を生で体験できて、自分のスキルアップになるだろうとスパナは考えた。加えて半サイボーグ人間との接触もできる。
「それに、すごく面白そうだ」
スパナが言いながら口元を緩めると、ライモンドがスパナの握手に応じた。
「…じゃあ、よろしく頼む」
二人の間に契約が成立した。
当のは外野よろしく、すーすーと静かな寝息を立てていた。
、と名前を呼ばれた気がして、はうっすらと目を開けた。
見慣れた天井が視界に映る。ケンゾウの研究室だった。ケンゾウの研究室の隅に追いやられるようにしてある古びた、やや湿気を含んだベッドの上では寝ていた。傍にはケンゾウが立っている。いつもの仏頂面でを覗き込んでいた。
「…おじーちゃん」
日頃口にしていたケンゾウを呼ぶ時の声が、自然との口からもれた。
「起きろ」
言いながら肩を揺さぶってくるので、は蛍光灯のまぶしさに目を細めて、掛け布団を手繰り寄せて頭の上にかけた。
「…や、」
ずっと眠っていたくて、起きることを拒否するために身体を丸めると、ケンゾウから困ったような気配が感じられた。布団をはさんだ身体の上に手を置かれて、何度か叩かれる。その際に布団からぽすぽすと空気の抜ける音が聞こえた。
「起きてくれ。じゃないと困る」
珍しく、本当に困ったように言われる。
ふつうなら、ケンゾウはここであきらめるのに。そう考えてははっとした。毛布の中でごしごしと目をこすって、そっと毛布から顔を出すと、薄くぼやけた視界に映ったのは見慣れたケンゾウの顔ではく、今日初めて顔を合わせたスパナだった。
「…っ」
は息を呑み、目線だけ動かして辺りを見回したが、頼りになるライモンドの姿はない。困惑した顔でスパナを見上げると、対する彼も困惑したような顔のままを見下ろしてきた。
気まずい沈黙の後、スパナが何か言おうと口を開いた途端、は脅えたように震えて毛布にくるまってしまった。スパナが茫然と目の前の丸っこい毛布の塊を見て、ぽりぽりと頬っぺたをかいた。
スパナはただ単にを部屋の隅に移そうとしただけだった。作業場のそばで寝られては邪魔で邪魔で仕方ないのだ。だから最初は、眠っているを抱えて運んでしまえばいいと頭の中でそう考えていたが、いざ毛布にくるまって寝息を立てるを目の前にして、それはどうなのかと渋ってしまった。理由はよくわからない。とりあえず起こした方がいいと思ったから、スパナは起こしてしまった。
スパナは再度、毛布にくるまっているを揺さぶってみたが、はびくともしない。それどころか手をのばしてスパナの腕を思いっきり叩き返した。の手はいくらシリコンに覆われているからといっても、シリコンの下は人の骨より倍も硬い鉄の塊だ。右腕の骨にひびが入るんじゃないかというくらいの激痛に見舞われ目じりに涙を浮かべつつ、とりあえず何かいい方法はないものかとスパナは辺りを見回した。のだが、自分がいる場所から手をのばして届く範囲内には工具しかなく、大して使えそうなものは見つからない。
ドアに目をやるが、ライモンドはほんの10分ほど前に部屋を出て行ってしまった。多分今日はもう戻ってこないだろう。
が眠ってしまった後、ケンゾウの設計図を参考に故障した義手と義足を直すということで両者の意見がまとまった。その後ライモンドはスパナの研究室に長居するべきではないとそう判断し、を連れて帰ろうとしたが、スパナはそれを引きとめた。スパナは自分に神経接続ができるほどのスキルがあるのかをすぐに確かめたかった。だから直し次第すぐに繋ぐつもりでいたので、をここに泊めてもらう様に頼むと、ライモンドは不承不承といった感じでうなずいてくれた。
そうしてライモンドはの寝泊りに必要なもの――つまりはの私物を詰め込んだボストンバッグを持ってきた。
スパナは重たい腰を持ち上げ、そのバッグの前に向かった。ファスナーを開けて中を物色する。部屋着のつもりなのかどこぞの安そうなジャージ上下に、インナーとして着るのか黒いタンクトップが乱雑に詰め込まれていた。奥の方にまるまったタオルを見つけたので広げてみれば小さくたたまれた下着が入っていた。スパナは軽い眩暈を覚えて、すぐさまバッグの中にそれを戻した。
を見れば、未だに毛布にくるまって丸くなっている。スパナはうーんうーんと唸り、考えても仕方ないと結論付けて元の場所に戻った。丸まった毛布を指先でつつくが反応はない。毛布をつまんで引っ張ってみると、逆に手繰り寄せられた。
「おーい」
声をかけてみるが、反応は無い。予想できていたことなのでスパナはふうとため息を吐いて、仕方なく座布団に座ると、スパナの腰に毛布に包まれたの身体が当たった。
やはり近くて邪魔だ。スパナが押しのけようかと手を伸ばしたが、逆にがもそもそと芋虫のように身体を動かしてスパナから離れていってしまった。
次の日の朝、ライモンドが大量の菓子パンとミネラルウォーターを持ってスパナがいる研究室に訪れた。夜通し設計図を眺めていたスパナは欠伸交じりに背伸びをして席を立ち、部屋の隅に置いてある円卓を部屋の中央に持ってきた。テーブルの上に菓子パンをてんこもりに並べて、ライモンドが寝転がったままのを起こすために声をかければ、は素直に飛び起きた。それがスパナにとっては少し不満だったが、は他人に慣れるのにずいぶん時間がかかるようだから仕方ないと自分に言い聞かせ、3人で円卓を囲んで朝食を摂りはじめた。
3人ともしばらく無言だったが、スパナがあっと何かを思い出したように顔をあげてライモンドを見た。
「そういえば、は日本人なのか?」
まったくもって出し抜けに言われ、ライモンドは口の中のパンを飲み込んでぽかんとしてみせた。しばらくじっと、目の前のスパナを凝視する。彼はライモンドの返答をじっと待ちながらパンをもくもくと食べていたが、反応のないライモンドに対しやや困った風に眉を下げて無言で首をかしげて見せた。ライモンドが苦笑する。
「おまえ、よくわかったなあ」
意外だと言わんばかりに呟いて、ライモンドは隣に座るを横目で見た。は目の前の菓子パンにひたすらがっついている。相当腹がすいていたのだろう。パンくずがこぼれおちようがお構いなしに、ひたすら食べまくっている。後で散らかしたパンくずを掃除しなければと考えながら、ライモンドは視線をスパナに戻した。
「俺が知ってる限りじゃ、日本人だってすぐに言い当てたの、お前だけだよ」
ははっと笑ってみせる。
ライモンドの経験上では、は黄色人種だからよく中国人や韓国人に間違えられやすかった。名前を聞いてやっと気づくのがほとんどだ。そんなライモンドもを見て最初は中国人だと思っていたくらいだ。白人にとって、それくらい黄色人種は区別しにくい。だが逆もしかりで、黄色人種は白人の見分けがつかないみたいだ。ケンゾウがいい例だ。彼はいつまでたってもアメリカ人とイタリア人を見分ける事ができなかった。
スパナはそうか、と興味があるのかないのか判断しにくい――いわば無表情で頷いて、ミネラルウォーターのペットボトルに口をつけた。ごくんとのどが鳴る。
「でも、ウチ日本好きだから」
ライモンドが目を見開いた。ライモンドからすれば、どこからどう見ても彼が親日感情を抱いている風には見えなかった。意外だった。
「…だからわかったってか」
「うん。からショーユのにおいがした」
どうやらスパナは見かけによらず鼻はいいらしい。
確かに日本人からは醤油の匂いがする。けれども嗅覚が敏感な人じゃなければ気づかない程度の匂いだ。ライモンドの嗅覚も人並み以上なほうだったので、ケンゾウの部屋に行きたての頃は、ケンゾウからほのかに漂う醤油独特のしょっぱい匂いを嗅ぎ、嫌悪を抱いていたものだ。まあ、ケンゾウの加齢臭と勘違いしていたのもあるけれど。
「ソイソースなあ…あれは嫌いだ。ただしょっぱいだけだし。それに腐ってるんだろあれ」
「腐ってるんじゃなくて醗酵してるんだ。ウチは好きだな、ショーユ」
ソイソースと言わずにショーユと言っているあたり、スパナは日本かぶれだ。
「テリヤキソースなら俺は好きだぞ」
ライモンドがえへんと胸を張って言えば、
「じゃあ、ウチと趣味が違う。決裂だ」
スパナはちぎったパンを口に運んで右手をのばし、向かい側に座るライモンドと自分の間に線を引いて見せた。明らかに大の大人がする事ではない事をやってのけてしまうスパナに、ライモンドが苦笑してみせた。
「なんだよ決裂って。俺と戦争でもするつもりか」
「うん。戦争だ。ものすごく小さな」
もぐもぐと口を動かして、スパナが次の袋に手を伸ばす。クリームパンと書かれた袋をスパナが掴むのとほぼ同時に、がその袋のはしっこを摘んだ。スパナが目を丸くしてを凝視すると、はびくっとなって、慌てて右手を引っ込めてしまった。じーっと、何かを訴えかけるような眼差しで、スパナをうかがっている。
スパナは戸惑いがちに自分の掴んだパンとを見比べて、そっと手を離した。歳下の女の子の方を優先させなければ面子が立たない気がしたからだ。手を引っ込めての様子を伺えば、は大きな円い黒目を瞬かせながら、じーっとスパナを上目使いに見て、ひったくるようにパンを奪った。パンを袋から出してはぐはぐとかじりつく。忙しないその様子はなんだか栗鼠を彷彿させた。
「…なんかなあ」
スパナがため息交じりにぼやく。言葉では到底言い表せないような脱力感がのしかかってくる。
この先、と接することが多くなるだろうことを考えれば、今の状況はかなりまずいのではないかと思える。警戒され、言葉を交わしてもらえない。基本的なコミュニケーションが取れなければ、互いの意思の疎通ができず、それは直す側と直される側の両者にとって大きな壁となる。正直なところスパナはの意見を尊重し、それに見合っての手足を修理しようと思っていた。の手足を直す事を任されたのはいいが、こんな調子じゃスパナの作業に若干ブレが出るし、たとえスパナが手足を直したところで素直にそれをつけてくれそうにない。
「いや、これでもいい傾向だと思うぞ」
スパナの心情を察したのかライモンドが慌てたように言ったが、スパナはうーんと微妙そうに唸って、パンの山から適当に苺のジャムパンを取った。今度はの手が伸びてくることはなかった。
朝食を摂り終わり、ライモンドが「用事があるからと」研究室を出ていくと、残されたはスパナに警戒のまなざしを送りながら毛布にくるまって部屋の隅へ移動してしまった。そしてさっきからずっとスパナの行動を監視している。
観察される側になっているスパナは、作業机の前の座布団に座りながら、背中にびしびしと突き刺さるの視線を気にしないよう必死につとめた。けれども気になって仕方なくなって振り返ってみれば、の長い前髪の間からのぞく黒い眼差しがまるで日本のホラー映画に出てくるおばけのように見えて、それがひどく不気味でスパナは視線を作業机の上に戻した。
子供は甘いものが好きだから飴をやれば懐いてくれるのではないかと思ったが、餌を与えられて警戒を解くほどはそんな生易しい子供には見えない。背中に感じるプレッシャーに自然と身体を小さくしながら、スパナはとりあえず作業に集中することに決めた。
そばに持ってきた、の手足が入った箱から故障した手足すべてを取り出して、作業机の上に並べる。それはの日常生活用とは違って、骨組の鉄をガードする装甲が取り付けておらず、回路も関節のサーボモーターも全てがむき出しになっていた。右腕と左腕にはそれぞれマシンガンが装着されている。マシンガンを装着すると重くなるから、軽量化するために余分なパーツをはじいたのかもしれない。故障原因として見られる問題箇所を見つけては、印刷したばかりの設計図の図面に鉛筆で適当に丸をつけていく。
そうして気づいた。ケンゾウはスパナが知りえない、正一も多分知らないような技術をたくさん持っていた。流石にあの歳でミルフィオーレファミリーに入れるだけはある。図面を見てひたすら感心しながら、スパナは少しばかり後悔にとらわれた。もう少しケンゾウと交流を持っていればよかったなあと思った。
だんだんと構造が理解できるようになってきた。骨組の殆どが強度の形状記憶合金でできていた。たとえ高い地点から飛び降りようが人を殴り飛ばそうが、結合部であるの生身に怪我を負わせないために、衝撃の負荷が間接にかかるように、関節の周りが柔軟な構造になっていた。しかしそのせいでサーボモーターが壊れないようにその周りだけは鋼でできている。組み立てに関してだが、やはりケンゾウは昔の人で、ところどころが誤魔化されていて稚拙だった。けれども完成度はかなり高い。スパナの全ての技術をもってすれば、多分この手足は修復可能だ。かなりの期間をもらえれば、これよりもっといいものが作れるかもしれない。
スパナが気づいた改良すべき点を図面に赤鉛筆で書きこみ、作業するのに邪魔なものをすべて台の上から退けた。
「…よし、やるぞ」
スパナは意気込んで、ゴーグルをかけた。
あれからスパナは寝ず食わずの生活で、手足の修理に没頭していた。
ライモンドといえばを心配してなのか、食料を持ってスパナの研究室に何度か訪れたが、スパナに話しかけても何も反応が返ってこないことで何かを察したのか、ライモンドはだけに構う様になった。決まっていつもライモンドは「スパナを邪魔しちゃダメだぞ」とに話しかけた。
あれほど睨むような視線をスパナに向けていたも思うところがあったのか、いつしかスパナをそういう風に見なくなった。スパナの研究室に慣れてきたのか徐々に行動範囲を広げ、バスルームに入って一人でシャワーを浴びることもできるようになった。けれどもライモンドが持ってきた菓子パンや弁当を食べるときは決まっていつも同じ場所で食べて、じーっとスパナの背中を見つめていた。ひどく興味深そうに。
けれども流石に4日目に入ると、スパナを観察するのも飽きてきたのか、はその場に毛布を置いて立ち上がった。ライモンドが持ってきたビニール袋から8個入りバターロールの袋とオレンジジュースの入ったペットボトルを取り出して、ぱたぱたという足取りでスパナの方に向かう。
「…おなか、すかないの?」
スパナは最初その声を聞いた時、疲労と寝不足によりとうとう幻聴が聞こえはじめたのだと思った。ふうと息を吐いて、凝ってしまった肩を抑えて首を回すとゴキゴキといい音がした。
図面を見下ろし、60パーセントは修復したなと感慨深げに頷いて、スパナは無意識に顔をあげて後ろを振り返る。その方向にはが立っていて、はきょとんとした顔でスパナをじっと見つめていた。
スパナはの顔を凝視して、一分ほどたってから「わっ」と身を引いた。何度も何度も瞬きして、スパナは目の前のを信じられないような目で見続ける。対するはスパナの挙動不審な態度に小首を傾げて、パンの袋をスパナの座布団の前に置いた。スパナがきょとんとする。
「…め」
が呟く。スパナがびくっと身体を震わせながら、「め?」と復唱してスパナが言うと、はシリコンの指先で自分の前髪をかき分け、あらわになった右目の下に人差し指を置いて、
「…くま、できてるよ」
心なしか心配そうに言われて、スパナはやっと腑に落ちたような顔をして、ああ、とやる気なさそうに頷いた。4日も作業机の前に座りっぱなしで寝ていないのだ。隈ができるのは当然だろう。
「寝てないからな。隈ができるのは仕方無い」
疲労からか視界がぶれて、の姿が霞んで見えた。スパナはゴーグルを引き上げて、手袋をはめた手で目を擦った。まだ視界が霞んだままだ。何度も何度もこすっていると、目の前のが立ち上がる音がした。かすかな機械音を鳴らして、スパナの頭に手を置いた。恐る恐るといった感じの手つきで、そろそろと撫でられる。
スパナが目を丸くした。まさか大人になって頭を撫でられるとは思わなかったからだ。しかも、自分より年下の女の子に。
「休んだ方がいいよ、きっと」
スパナが顔を上げて、上目遣いの三白眼でを見る。やはり視界がぼやけていてがどういった顔をしているのかわからなかったが、の空気が少し柔らかくなったように感じられた。
「でも、ウチ――」
ぽすぽすと頭を叩くように撫でられ、スパナは言いかけた言葉を飲み込んだ。
「身体、こわしちゃうよ」
ひたすら頭を撫でまわされ、スパナは渋々頷いた。が満足そうに目を細めてしゃがみ込み、スパナの口からもう飴がなくなってしまった棒を引き抜き、近くのゴミ箱にそっといれた。
がバターロールの入った袋を慎重に開ける。バターロールをひとつ手渡され、受け取ったスパナはゆっくりとした動作でパンをちぎり、それを口に運んだ。しかし口の中がぱさついて、パンをうまく飲み込めなかった。今更になって自分の身体がかなり疲労していたことに気づき、スパナは内心自分に呆れた。
「のむ?」
がスパナに蓋をはずしたオレンジジュースのペットボトルを差し出すと、スパナは頷いてそれを受け取った。口の中に流し込むと、口内が潤って、やっとパンを飲み込むことができた。
パンを口に運び、ジュースで流し込む。スパナがその動作を繰り返している間、はずっとそばに座り込んでバターロールにかじりつきながらスパナを見つめていた。
バターロールを3個も食べれば、縮んだ胃が膨れて満腹になった。そうしたことで、唐突にスパナを眠気が襲った。前後に首を揺らしながらふらふらしていると、いつの間にかが枕と毛布を持ってきて、それを床に置いた。
「こっち」
袖をひかれてスパナがゆっくり体を横たえると、枕に頭がちょうどよく納まった。すぐさま身体の上にが毛布をかける。スパナはありがとう、と言おうとして口を開こうとしたが、口を開くのも億劫になってしまって、考えるのも面倒に合ってきて目を閉じた。
「――おやすみなさい」
静かな、ひどく眠気を誘う優しい言い方だった。
そうしてスパナの意識はぷつりと途絶えた。
ライモンドは自分の手に提げられたビニール袋を見ながら嘆息して見せた。ビニール袋の中にはの朝昼夕3食分の食料と飲料水が入っていた。
がスパナの研究室に寝泊りするようになってから5日も経った。その5日の間、ライモンドは暇を見つけてはスパナの研究室に入り浸り、部屋の隅にうずくまっているの世話を焼いていた。どう考えてもスパナがに食べ物を用意するとは思えなかったからだ。
自分でも過保護だと思う。思うのだがやめられない。多分の事が心配でたまらないのだと思う。ただでさえケンゾウが亡くなったばっかりだっていうのに、人見知りの激しい感受性の強い子が、今まで一度も会ったことのない人の、しかも男の部屋で寝泊まりを強要されているのだ。の心労は計り知れないと思う。そんな事を考えている自分の過保護さも到底計り知れないものだ、とライモンドは苦笑した。
スパナの研究室のドアをノックもせずに開ける。相変わらず部屋の電気はつけっぱなしだった。ライモンドは部屋の中を一瞥し、そうして目を丸くした。
いやそんなまさかばかな、と内心取り乱しながら作業机の方へ向かう。スパナがの毛布を体にかけて横になり大口開けてくかーくかーと寝息を立てている傍で、が身体に何もかけずスパナに寄り添うように小さく丸くなって眠っていた。
「…っ、けほ、」
小さくせき込んで、が身震いした。
ライモンドはとりあえず作業机の近くにビニール袋を置いて、の傍にしゃがみこんだ。前髪をかき分けて額に手をあててみる。熱はないが、ひどく冷たい。順に頬、首筋を触って、ライモンドは小さく舌打ちをした。
内心申し訳ないと思いながら、スパナの身体にかけられた毛布をはぎ取って、の身体に巻きつける。スパナの体温で暖められていた毛布だったが、すぐに冷たくなってしまった。ライモンドは眉間を寄せてを抱きしめる。毛布越しに背中を何度もこすってやると、が熱を求めるようにライモンドに寄りかかった。
「――んぁ」
間抜けな声を出して、スパナが身体を起こした。ひどく眠たそうに瞬きをして宙を見つめながら大きく欠伸をしてみせる。それから寝惚け眼をこすりつつ、きょろきょろとあたりを見回して、ライモンドを眠たそうにじーっと見つめてから、はっとしたように目を見開いた。どうやら覚醒したようだ。
「おはよう」
ライモンドがスパナを見ずに言うと、
「あ、…うん、お、はよう」
何やらあたふたしながらスパナが答えた。どうやらライモンドとの体制に戸惑っているらしい。
「おい何勝手に勘違いしてんだよ。つーかお前、もう一枚毛布とかなかったのか? ないならないで、半分ずつわけるとかしろよ…」
呆れたようにぶつくさと文句を零すライモンドに、スパナはきょとんとしたまま首をかしげた。
「半分ずつわけるっても、がウチにかけてくれたんだ。…なんだ? どうかしたのか?」
さすがのスパナも言いながら異変に気づいたのか、しごく真面目な顔つきになった。
「あ、いや。多分こうしてれば大丈夫だ」
なんだか言いにくそうにライモンドが言うので、スパナはふむと頷いて、ライモンドの腕の中で寝息を立てているを見下ろした。は時折小さくせき込んで、毛布から手を出してライモンドのシャツをきゅっと握った。
「…風邪ひいたのか?」
「ちがうちがう」
苦笑してライモンドが首を振る。
「ちょっと言い難いんだけどな…ってほら、手足ないだろ。だから血液循環が悪くて体温調節がうまくできないんだ」
スパナは2、3度瞬きをしてライモンドの顔を見、を見下ろした。なるほど確かに寒そうにしているように見えなくもない。スパナはぽかんと開けたままの口を閉じて、気まずそうに首の後ろを右手でかいた。
「あー……悪い」
どうやらスパナはに自分の事を顧みないほど心配されていたらしい事を今更理解し、自分の不甲斐無さに情けなくてたまらなくなった。
「謝るなら俺じゃなくてに謝れよ」
「うん」
「お礼も言っとけよ」
「…うん」
申し訳なさでいっぱいいっぱいで、スパナは頷くことしかできなかった。
「…とりあえず、シャワーあびてこいよお前」
「きたねーぞ」とオブラートに包まれずに言われ、スパナは苦笑して立ち上がった。確かに風呂にはもう5日も入っていない。もはや自嘲しかこみあげてこなかった。
スパナがタオルで乱暴に髪を拭きながらバスルームから戻ってくると、作業机のそばでライモンドがどこからかカセットコンロを引っ張ってきてお湯を沸かしていた。ガスの火をじっと見つめているライモンドの背中に、毛布にくるまったが寄りかかって座っている。どうやらもう大丈夫みたいだ。
は切り分けたセロリが盛りつけられた皿を手にもっていて、セロリをフォークにぷつりと刺しては何もつけずにかじりついていた。顔を見れば美味しくなさそうに無表情だ。マヨネーズくらいつければいいのにとスパナは考えながら近づくと、足音に気づいてライモンドが顔をあげた。
「この部屋、ポットと茶葉あるか?」
言われてスパナは頭にタオルをかけたまま、顎に手をあてて考え込むしぐさをし、
「――、ある」
スパナはのたのたととろい小走りで部屋の隅の棚に向かって、ごそごそと何かを引っ張り出して戻ってきた。ライモンドのそばにしゃがみこみ、ころっとした丸い形のガラス製のティーポットと、四角いよくありがちなアルミの缶と、ライモンドにとって全くなじみのない模様の円筒状の缶をそっと床に置く。ライモンドは首をかしげた。
「紅茶と――…なんだそれ」
素っ頓狂にライモンドが言うので、がぴくりと身体を震わせて顔をあげた。今まさに口に運ぼうとしていたセロリを口からはなして、円筒の方の缶をしげしげと眺める。それからきょとんとした様子でスパナを見上げた。無垢な眼差しを向けられ、スパナはなんだかむず痒くなって視線をあらぬ方へそらした。今朝の件のことで後ろめたかったのだ。
「緑茶」
ぽつりとがつぶやくので、ライモンドが今度は首を反対に傾げる。
「……日本のお茶か?」
「うん」
ライモンドの問いかけに頷いた後、はじーっと、ただひたすら緑茶の缶を見つめていた。ものほしそうに見つめているくせに、口からは「飲みたい」などという言葉は一切出てこない。
「あー…ええと、スパナ。俺緑茶淹れたことないんだが…」
ライモンドが言いあぐねると、スパナは緑茶の缶を手に取った。それにつられての視線がゆっくり上がる。
「うん、いいよ。ウチが淹れる」
缶の蓋を取ると、緑茶独特の青臭さがほのかに漂ってきた。缶の中に入れっぱなしだったティースプーンで茶葉をすくい、ポットの中の茶漉しに移していると、
「ぅげっ…」
ライモンドが顔をしかめて口元を手で覆っていた。
「なんだそれっ…うあ臭っ!」
緑茶の香りから逃げるように顔をそらす。スパナが目を丸くして茶葉の缶を見下ろし、ああ、と何か納得したようにうなずいた。
「飲むの、はじめてか」
「初めても何も、見るのも嗅ぐのも初めてだっ」
顔をしかめるライモンドを見て、スパナがゆるく開けた口から吐息のような笑い声をもらした。コンロにかけられた古そうなケトルの蓋がかたかた鳴り始めたので、スパナはコンロの火を止めてポットに湯を注いだ。湯気とともに独特の香りが立ち上ると、ライモンドはのけぞった。
「…草刈りした後の気分だ」
ライモンドがげんなりと呟きながら、持ってきたビニール袋の中からステンレスカップを3つ取り出した。
「草刈りかあ。ウチやったことない」
「――確かにそんな顔してるよ」
皮肉な物言いだったがスパナは気にした様子なく、薄い黄緑色に染まったティーポットの湯を見ていた。ブランジャーを上下にゆっくり動かし、しばらくしてからまたゆっくり押し下げた。ポットを手に持ち、カップにそれぞれ注ぐ。
「」
ライモンドがそのうちのカップを一つ手に取りに差し出すと、は慌てた様子でフォークと皿を床に置いて、両手でカップを大事そうに受け取った。湯気が立ち上るカップの中を覗き込み、用心深くふーふーと息を吹きかけている。
「青臭ぇ」
ライモンドが呟くと、
「それが緑茶だ」
知ったように言いながらスパナがカップに口をつけた。ライモンドも恐る恐るカップに口をつけて飲み、
「…ぐ」
顔をしかめた。右手で口を覆って、カップを床に置く。
「無理。だめだ。俺には向かない」
そうまくし立ててビニール袋からクランベリージュースのペットボトルを取り出し口の中に流し込んでいた。
「残念だな。おいしいのに」
と言いながらも、スパナは全く残念そうに見えない。といえばやっとカップに口をつけて、こくんと一口飲みほして、
「――おいしい」
ぽつりと子供のように呟いていた。の目が心なしか輝いているように見える。
「よかったなスパナ、日本人のお墨付きだぞ」
「ああ、うん」
何かほかに言うべきだったのかも知れないが、スパナはその場をやり過ごす、曖昧な返事しかできなかった。
仕事があるとライモンドが部屋を出て行ってから、スパナは茶が淹れたままになっているポットやら飲み終わった後のカップを作業机のそばに寄せて、生乾き状態の髪をドライヤーで乾かしたあと、ひたすらの手足の修復にいそしんでいた。
その姿は昨日と大して変わらないが、は違った。スパナの斜め後ろに座って、毛布にくるまって、スパナが作業している姿をじっと見つめていた。
最初はスパナも気が落ち着かず、に離れるよう「しっしっ」と近寄る野良犬を追い払うふうに手ではらってみたが、はきょとんとしたままその場に座っていた。小首を傾げて、何をされているのかわからないといった様子だったので、スパナは諦めて作業に没頭するよう努めた。
そうしているうちに、無垢な視線に見つめられるのに慣れてしまった。慣れとは怖いものだと今更ながら思う。
しかしまあ、なんというか。こっちから寄れば脅えて逃げるくせに、興味をそそられれば自ら近寄ってくるなんて、まるで野生の小動物だ。現に今スパナがの方に振り返ってみれば、びくっとなってかちこちに固まってしまった。人慣れしていないにも程がある。ここまで挙動不審だと何かの病気なのではと考えてしまう。まあこんな歳で――とはいってもスパナの予想ではあるが――マフィアに所属して人を殺して平気そうにふるまっているくらいだから、何らかの病気にはかかっているだろう。
口の中のキャンディがなくなってしまったので不必要な棒をゴミ箱に投げ入れ、懐のポケットからキャンディを取り出して口に銜えた。舌先でキャンディを弄びながら、回路を半田付けしていると、布がこすれる音がした。が立ち上がったのだろう。スパナは気になったが半田付けしている最中によそ見などできるわけがなく、今は手元に集中することだけを考えた。
そろそろとした足取りがスパナの後方へ移動し、そうして音が止んだ。スパナが半田付けを終えて振り返ると、スパナの後ろでが横になって丸くなっていた。スパナの後ろといっても、一メートルほど離れた距離だ。何がしたいのかさっぱりわからず、スパナはがしがしと頭をかいたのち、気にしても仕方ないと割り切った。
――そういえば、とスパナはふと思い返す。毛布をかけてもらった礼を言っていない。
「なあ」
声をかけると、がもぞもぞと動いて、前髪の間から真っ黒い目をのぞかせた。
「昨日、ありがとうな」
の頭が動いた。頷いたようだった。
そうしてじーっと、何か言いたそうな、ものほしそうな眼差しで見上げてくるので、スパナが試しにポケットから飴を取り出して、自分ととの間の床に置いてみると、しばらくしてが手をのばしておずおずと飴を手に取った。包装をやぶいて、そっと口に銜える。餌付けに成功したことに内心感激しながら、スパナは無表情で作業机に視線を戻した。
「…無理」
がぽつりとつぶやいたので、スパナは振り返った。はもぞもぞと動いて、頭に毛布をかけている最中だった。何が無理なんだ飴が無理なのか? とスパナが困惑したようにを凝視していると、
「無理しちゃ、だめだよ」
そうして、動かなくなる。スパナがおっかなびっくり「うん」と返しても、は何の反応も示さなかった。眠ってしまったようだった。
次の日から、はなぜかスパナの傍、それも背中側にいるようになった。
その心境の変化がスパナにはまるで理解できなかったし、ライモンドも同じように理解できなかったようだった。
「なじむのに半年かかるんじゃないのか?」
『今さっき彼女に会ってきたんだ』と嬉しそうにのろけながら深夜おそくに様子を見にやってきてくれたライモンドに半ば呆れながらコーヒーを振舞いつつ、スパナのそばで丸くなって眠っているを見下ろしながら聞けば、首をかきながら困惑したようにライモンドがうなずいた。
「でも、俺の場合だからなあ。もしかしたらスパナは好みの顔だったのかもな」
「…いや」
首を振る。それはありえないと、スパナは断言できた。は基本的に他人に興味がないように思えたからだ。目の前に世界一の美男美女がいようが、世界一の不細工がいようが、お構いなしに自分のやりたい事に専念するタイプだと思った。
そんなスパナの心境を察したのか、ライモンドは苦笑した。
「…まあ、そうだな、有り得ないな」
軽く笑いながらコーヒーをのむライモンドを見て、今更さっきの発言がライモンドなりの冗談だとわかった。そもそも半年もとの付き合いがあるのだし、そういう事を一番理解しているのは俄然ライモンドのが上だ。一人でそんな事を考えていると、ライモンドが座っているスパナの姿を上から下まで見て、うーんと唸って、
「ああ――」
ライモンドが何かを察したように頷いた。スパナが首をかしげると、ライモンドがつぶやいた。
「きっと、あれだな。はおまえのこと、ケンゾウさんと重ねてるのかも知れない」
ライモンドに言われた後、一拍置いて、鈍器で殴られたような衝撃がスパナの心に響いた。
「そうだ。うん。…ケンゾウさん、いっつも背中でしか話してくれなかったからな」
スパナもそういう気あるし、と続けて、ライモンドがカップに口をつけた。スパナは黙って作業机に目線を落として、同じようにカップに口つけた。どうやら懐いてくれたと思っていたのは勘違いだったらしい事を付きつけられた気がして、スパナは気が沈んだ。
「…落ち込んでるのか?」
「いや」
認めたら負けな気がしたので首を振ると、ライモンドが笑った。心底可笑しいといった感じの笑い方だった。からかわれている風にもとれてしまい、スパナは眉間を寄せると、ライモンドが慌てたようにごめん、と言い、
「でも、六日でこの距離は、正直羨ましいけどなあ」
ぽつんと呟いて、ライモンドが首を擦っていた手をはなす。すると蚊に刺されたような痕がのぞき見えた。しかしさして気にした様子なく、その手でスパナとの距離を示すように手を振って見せる。スパナの座っている座布団の端との毛布の距離は拳ひとつくらいしかない。スパナはそれを横目で見やり、そうして肩をすくめて見せた。
「でも、ウチはケンゾウじゃない」
ケンゾウだと思われても困る。そういうニュアンス交じりの、拗ねたようなぼやきだった。ライモンドはため息交じりに苦笑して、を見る。は小さくむずがって、シリコンの指で毛布を握って、ゆっくりと確かめるように口を動かして言葉を紡いだが、しかしの口からは「おじーちゃん」なんて言葉はもれてこなかった。
作業開始からちょうど一週間経った今日。神経接続のための回路を直し終わり、スパナの目についた部分を改善し、ようやく修復が終わった。
だが見た目は完成したように見えても、との神経接続がうまくできなければ失敗だ。作業机の上に並べた手足を見おろし、スパナは後ろを振り返った。すぐ近くにが横になっていた。ちゃっかり枕をしいて横になっているあたり、やっと寛ぐようになったみたいだ。
はシャワーを浴びる以外、大抵作業机の周りに居座っているので、どうやらここら辺一体は彼女の縄張りになってしまったらしい。そしてそれがスパナは彼女の近くにいてもいい存在、と認められた証拠だった。
作業机の上のデジタル時計を見れば、昼の1時をさしたころだった。研究室には窓らしい窓はないから日光が差し込まず、体内時計の感覚があいまいになってくる。だからは寝てばっかりなのかもしれない。
手袋をはめたままの手で毛布ごしにの肩に手を置いた。揺さぶろうとすると、の目がぱちりと開く。いきなり目が開いたものだからスパナは思わずびくっとなって、のけぞりながら手を離した。は横にはなっていたが、けれども起きていたらしい。のろのろと身体を起こして、じーっとスパナを見上げる。「何か用?」と聞かれている気がしなくもない。
「修理が終わったから、テストしてほしい」
スパナが言うと、は素直に頷いて見せた。
毛布を畳んでそれをクッション代わりにして座り、は右手で左手の義手をどこかしらいじり、かちりと簡単にはずしてみせた。ゆっくり息を吐きながらシリコン素材の義手を床に置いてスパナに右手を差し出すので、スパナはあわてて修復したばかりの左腕を渡した。義手をつける時も、かちりと音がした。
がじーっと左腕を見つめる。ひじを曲げて、指を握っては開きを繰り返し、
「大丈夫そう」
スパナに告げた。
それからは全ての腕を付けかえて、立ち上がってジャンプしたり、軽く走ったりしてみせてくれた。
「直ったね」
自分のことなのに他人事のように言われ、スパナは無表情でうなずいた。
「変なところとかないか?」
スパナの問いかけにふるふると首を振る。その動きに合わせて、ざっくばらんに切りそろえてある長い前髪が揺れ、肩にひっかかっていた髪がさらさらと零れ落ちる。
スパナは右手にはめた手袋を口でくわえてはずし、その手で前髪をひと房つまみあげた。前髪に隠れていた上目遣いの黒い瞳がはっきり見えるようになる。
「髪、邪魔じゃないのか」
手袋を膝の上に置けば、がまた首を振って。
「…へいき」
言いながらも小さくため息をこぼす。――つまりは、邪魔だけど生活する分には平気、という事なのだろう。
スパナは左手の手袋も外しての前髪に恐る恐る触った。がさして抵抗を見せないことに安堵しながら、前髪を中央から左右に流してみる。
一気に印象が変わった。
大人っぽくなったというべきか、どうにも言葉にできなくてスパナは息をのんだ。前髪に隠れていた両目がじっと見上げてくるから、その透き通った眼差しがひどくいたいけで、いたたまれなくなって前髪を戻してやった。思いのほかは目千両だった。
「…ええと」
スパナが戸惑いがちに言いあぐねていると、は目線を自分の手足に落とした。両手で何度かぐーぱーを繰り返した後、またスパナを見上げて。
「――直してくれて、ありがとう」
そう言った。
唐突にスパナの身体に虚脱感が襲いかかってくる。思えば神経接続の練習のためにこうやってをこの部屋に置いて手足の修理していたのだ。練習のつもりで修理していたが、元の手足が完璧に直ってしまえば、はもうここにいる必要はない。
2週間も期間があると最初から告げられていた。あんなに急ぐ必要はなかったのだ。
多分おそらく、心の奥ではを少し疎ましい存在だと思っていたのかもしれない。とっつきずらくて、何を考えているのかわからないところが、人間ではないように思えて不気味だった。だから早く終わってしまえばいいと急いてしまった。
まいったな、と内心呟いて頭をかきながら頷くと、が少しだけ首を傾げてから、やんわりと目を細めた。口角が少しだけ上がる。
これが、がスパナに向けた初めての笑顔だった。
完璧に修復されたの手足を見てライモンドは酷く驚き、ひとしきり目を凝らしてよく見たあと、ふうと鼻で息をして肩をすくめて見せた。さも意外だと言わんばかりに。
「すごいな、完璧じゃないか」
この手足が完璧に直ったかどうかはまだわからないが、ライモンドが言うのだからきっとそうなのだろう。それに心なしかが満足そうに見えるので多分そうに違いない。
「まだ不具合があるかもしれない」
スパナが言えば、ライモンドが首を傾げた。
「不具合、ねえ。はテストのあと何も言ってこなかったんだろ?」
スパナはうーんと自分の記憶をたどる。
「――ありがとう、って言われた」
「じゃあ大丈夫だ」
にかっと子供のように笑ってライモンドが言う。大丈夫ならそれでいいのだけれど、とスパナがほんの少し不安そうに見た。いくら神経接続がうまくできたとはいえ、まだちゃんとしたテストもしていない。もしも使用中に不具合が出たらどうするのだろうか。考えてもきりのないことだとスパナはそう割り切って、はあとため息をついた。
ライモンドがボストンバッグにの衣類をつめている間、は直したばかりの手足をつけて、部屋の中を歩き回っている。これが彼女なりのテストの仕方なのだろうか。まあ実際に動かして見た方が解りやすいのだろうけど。
荷物をバッグに詰め終ったライモンドが、立ち上がって背伸びをして腰を叩いた。そんな歳でもないだろうに。
「なあスパナ、折り入って頼みたい事があるんだが」
ライモンドに言われて、スパナが少しだけ目を丸くした。
「ウチにか?」
「ああ。多分お前にしかできないことだ、と思う」
言い渋っているふうにうーんと唸るライモンドに対し、スパナが話を促すように首をかしげると、ライモンドはあらたまったようにこほんとせき込んで、
「ケンゾウさんが亡くなって、もうのメンテナンスをしてくれる人は、このファミリーの中でほんの片手で数えるくらいしかいないんだ。そんな中でお前はたった一週間であの手足を直してくれた。それにだって懐いてる」
「はあ、…で?」
スパナは別に長ったらしい前口上など聞きたくなかった。早く結論を言ってほしかったのでそっけなく先を促すように聞き返せば、ライモンドはやっぱり迷ったように唸ってから、横目で歩き回るを見て、腹を据えたのか顔を引き締めて。
「これからものメンテナンスを頼みたい」
ライモンドの言い回しから、スパナにはなんとなく予想はできていた事だった。
「いいよ」
悩む必要がなかったからスパナは二つ返事で了承した。するとライモンドが心底驚いたような顔をした。
「えっ!? いいのか!?」
あっけなく了承されたのが意外だったのか、ライモンドが慌て始めた。
「うん」
スパナが頷けば、ライモンドがあたふたとし始める。
「だ、だってお前、俺ももホワイトスペルだぞ?」
「知ってる。…それとも、ウチじゃ不服か?」
「いや、不服も何も――」
ライモンドがを見た。相変わらず、こちらに背を向けて歩いている。
「が指名したんだ、お前がいいって」
今度はスパナが驚く番だった。驚いた顔のままを見れば、視線に気づいたのかが振り返った。立ち止まって二人のほうに身体を向けて、それからぱたぱたと小走りで駆け寄ってくる。突進するようにライモンドの腰に抱きつくと、ライモンドが「うわっ」と傾き、倒れないように両足に力を込めて踏ん張っていた。はそのままライモンドの背中に回って、伺う様にスパナを見上げてくる。
「じゃあ、これからも宜しく頼むよ」
ライモンドに言われてスパナは目線をライモンドに戻した。
「うん」
頷いて、スパナは視線をに向けた。しばらく見つめあうが、は大して何も行動を起こしてくれなかった。そんなスパナとを見比べて、ライモンドはあっと何か大事なことに気づいたように声を上げた。
「そうだスパナ、お前にいいこと教えてやるよ!」
「いいこと?」
やけにテンションが高くなったライモンドを不審がって、スパナが露骨に嫌そうな顔をしてみせる。
「そう身構えるなって。すっごい前にさ、ケンゾウさんから教えてもらったんだ。と仲良くする方法」
スパナは最初何を言ってるのかわからなくてぼんやりとした眼差しでライモンドを見ていたが、言葉の意味を理解すると一気に口の中が乾いた。
「そんなの、あるのか」
スパナが茫然とつぶやけば、ライモンドがさもおかしそうに、
「ああ。俺はこれを常に心がけてるつもりだぞ」
じゃあなんで早く教えてくれなかったんだ、とスパナは思ったが、それは心の中だけに留めておいた。
「3つあるんだ。今から言うから、耳の穴かっぽじってよく聞けよ?」
スパナがうなずく。
「1つめ。は常に情緒不安定で、普通の人よりデリケートな人間らしい」
が情緒不安定でデリケート、というのはなんとなくスパナにはわかる気がした。
「2つめ。は感情が乏しいように見えるけど、人並みの感情を持ってる」
スパナがふんふんと頷いてを見る。はさっきからただひたすらに、じーっとスパナを見続けている。
スパナがふと思いついたように、ポケットからキャンディを取り出して差し出すと、が恐る恐るライモンドの背中から出てきて、そっと手を伸ばした。機械がむき出しになっている手で、おずおずとスパナの手にあるキャンディを掴む。スパナが手を離せば、がゆっくりと手をひっこめた。手渡しができたことに感動し内心うわーと叫んでいたが、スパナはそれを表立たせず、相変わらずぼんやりと無表情だった。
「そして3つめ。と話す時は“女の子”だって意識して、ちゃんと目線をあわせて話してやる事…って聞いてんのかお前」
「…え? 聞いてる」
しれっと言ってのけるスパナに呆れた眼差しを向け、そうしてがっくりと肩を落とした。ぶつぶつと怨念めいた愚痴をこぼし始めるので、スパナは思わず苦笑した。
「ん――」
ふいに、が右手を差し出してきた。
スパナは少しだけ腰をかがめて手を伸ばすと、人差し指にの手が触れた。
無機質で温度のない手が、スパナの人差し指をゆっくりと握る。それは、触れるか触れないかぐらいの弱い力だった。
もしかしなくても力を加減してくれているのかもしれない。スパナが残りの自由な指での手を握ってやると、が目を丸くしてからきょとんとしたようにスパナを見上げて、唇をきゅっと引き結んでなんだか真面目な顔をした。目線を下げて掌を見つめて、ほんの少しだけ、スパナの指を握る手に力を込めた。
なんだか、ETの気分だ。そんな事を考えながらスパナが手を握り返すと、が目を細めて優しくスパナの手を振り払った。が手をひっこめるので、スパナも同じように手を引っ込めて身体を伸ばす。ライモンドを見ればニヤニヤと笑っていた。
「…なんだ」
「いやあ、微笑ましいなあと」
よほど和んだのか、ニヤニヤ顔のまま呟いた。
ボストンバッグを肩に抱えたライモンドが研究室のドアを引いて通路に出ると、はスパナとライモンドの顔を何度か見比べてから通路に出た。ライモンドの隣に並んで、ドアを開けたまま立っているスパナの奥、研究室の風景を名残惜しそうに眺めていた。
「ありがとう。世話になった」
「いや、こっちこそ」
スパナが答えると、ライモンドが笑った。そうしてを見下ろす。の肩に手を置くとの身体が震えあがって、吃驚した面持ちでライモンドを見上げた。
「行くぞ」
しばらくしてやっと、がゆっくりうなずいた。
がスパナを見上げて、ゆるく口を開けて、ややあって何も言わずに視線を戻した。ライモンドが歩きだすので、その背中を追いかけ始める。歩きながらも、スパナのほうを振り返って、
「またね」
ひらひらと手を振った。スパナが目を丸くして、戸惑いがちに手を振り返すと、は満足したように目を細めて手をおろして、小走りでライモンドの隣に並んで行ってしまった。つきあたりの角を曲がって、二人の姿が見えなくなると、スパナは部屋のドアを閉めて室内を見渡した。
「…部屋に戻るか」
独りごちて、スパナは散らかしたままの作業机の周りを適当に片づけ始めた。
大体片づけ終わったことを確認し、スパナは自分の私物を持って研究室を後にした。ドアに鍵をかけ、誰もいない通路を歩きながら、部屋に戻ったらすぐにベッドに潜って眠ろうと、そう漠然と考えた。眠って眠って眠りまくって一日を潰そうと思った。とりあえず酷く眠くて仕方無かった。
あれから4日経った。
スパナはちゃんと自室で眠るようになり、また彼本来の仕事に戻って、一日の大半をドックで過ごした。モスカの戦闘シミュレートを繰り返し、欠陥が見られればそこを修復し、そうしてまたシミュレート、という流れを繰り返していた。
基地内を歩き回るにしても自室と作業場であるドックと食堂くらいしか行き来が無かったので、スパナはもうライモンドとに会うなんてことはないだろうと思っていた。
そういう時に限って人というものはばったり会ってしまうのだ。
「おー、数日ぶり」
声が聞こえたのでそちらを見れば、ライモンドが廊下の壁に寄りかかってタバコをふかしていた。隣にはいなかった。どうやら一人だけのようだった。
「うん」
スパナは頷きながら、自分の間の悪さに少しだけ嫌になった。運悪くその時スパナはモスカに必要な部品を運んでいる最中だったので、だから早く会話を切り上げなければならなかった。適当に二言三言会話して、去り際に「は元気か?」と聞いてみた。
「ん? 元気だぞ。相変わらず」
ライモンドが苦笑しながら言う。
つまりは、無表情で何を考えているのかわからない、相変わらずの様子らしい。そう取ったスパナは「そうか」と笑って、ライモンドに別れを告げた。
それが、5日前の出来事だった。
今日、スパナは朝の8時からずっとモスカとパソコンの画面に向き合っていた。が、昼を過ぎた頃になるとぐうとお腹が鳴り始めた。時計を見ればもうすぐで2時を回ろうとしている。どうにも集中力が切れてしまったので、スパナは昼食をとるため工場を抜け出して食堂に向かった。
時間が時間なので食堂内は空いていたが、ちらほらと人が見受けられた。
適当にミートローフを頼んで皿を受取り、空いているテーブルの席に座った。正面の壁にかかった46インチの液晶テレビに映るニュースをぼーっと見ながら、ミートローフをフォークで切り分けた。
『先日、ミラノ市内の中国人による暴動事件ですが――』
テレビ画面にぱっと、ミラノ市内の中央通りに手ひっくり返った車や、車の上に乗って赤い国旗を振り回す人が映った。スパナは物騒だなあと他人事のように考えながら、ミートローフを口に運んだ。ミラノのチャイナタウンに住む中国人が暴動を起こすというニュースは、スパナがまだ未成年だったころにもあった出来事だった。
歴史ってのは繰り返すもんだなあとパンをちぎって口に運んでいると、向かいのテーブルに二人組の男が座った。片方はひどく疲れたように椅子の背もたれに背中を預けていて、もう一人はしゃきっと背筋を伸ばしてパスタを食べていた。見た感じどちらもホワイトスペルのようだった。
二人はぐだぐだと会話を始める。おかげでニュースの音声が聞き取りづらくなった。スパナが不快そうに顔をしかめ、さっさと食べてしまおうと大きく切ったミートローフを口に運んだ瞬間だった。
「…そういやあれ、どうすんだよ。失敗したんだろ」
妙に引っ掛かる言葉が聞こえてきた。スパナがもごもごと口を動かしながら飲み込み、耳を傾ける。
「ああ、金も全部取られたらしい。そもそも、阿片の売買はリスク高いんだよ。中東のやつら、血の気多いし」
「原理主義者はこええもんな」
ゲラゲラと下品な笑い声をあげたあと、
「しかしまあ、惜しい人を亡くしたよなあ」
スパナの手が止まった。いやな予感しかしなかった。口の中が乾いてつばを飲み込むと、ごくんとのどが鳴った。
「ライモンド、まだ若かったのにな――」
言葉の意味がよくわからなかった。顔の熱が一気に引けていくのを感じる。けれども手足も背中も暑くて、変な汗が背中を伝った。
頭が真っ白になるって言うのはまさにこの事を言うのだろうと、スパナはぼんやり思った。
食堂の件で全く集中できずに作業を進めていたが、やっとのことで一段落ついたので、区切りのいいところでスパナは仕事を切り上げた。パソコンの電源を落としたあと、ドアの傍の照明装置に向かう。何個もあるレバーをゆっくり下げながら徐々に暗くなる室内を眺めていると、いきなり両開き式の自動ドアが開いた。白い制服に身を包んだ青年が一人入ってくる。
正一だった。
正一はきょろきょろ室内を見渡して、スパナの姿を見つけてびくっとなって、それからスパナの方に近寄ってきた。
「いたなら声くらいかけてくれよー…」
正一ははあっと盛大に溜息をついて、項垂れたようにぽつりと呟いた。
「ちょっとびっくりしてたから、声かけれなかった」
スパナが素直にそう言うと、正一が乾いた笑みを浮かべた。右手で顔を覆って、はあとまたため息をついて見せる。なんだか疲れているように見えた。
心なしか正一の息が整っていない気がする。どうせ大方広い基地内を走り回っていたのだろうとスパナは思い、最後の照明を落とした。室内が一気に暗くなり、自動ドアの上にある予備照明の明かりだけがひと際目立って明るく光る。正一を見れば暗くなった室内をきょろきょろ見て、いなさそうだなあ、とぽつんと呟き、
「スパナ、ここに誰か来なかったか」
そう聞いてきた。スパナは頭上にハテナマークを浮かべてから、何も言わずに首を振った。足を踏み出して正一のそばを通り過ぎ、自動ドアに近づくとドアが静かに開いた。廊下を照らしている白い光が暗いドックの室内に入り込む。
「ほんとーに、だれも、来てないのか?」
前二つの言葉を強調するように正一が言うが、スパナはさっきと変わらず首を振ることで答えた。正一はスパナの真顔を凝視して、諦めたようにがくっと肩を落とした。そうして喚きながら頭をかきむしり始める。本当に疲れているようだ。
「どうかしたのか」
スパナが何気なしに聞きながら廊下に出ると、正一もそのあとに続いた。センサー内に人がいないことを察知した自動ドアが、静かに閉まる。
「いないんだ」
正一がまたため息をついた。スパナは哀れみの眼差しをスパナに向けながら、苦労性っぽいなあと思いつつ、
「誰が」
右手で肩を抑えて首を鳴らせば、
「その、ちゃんが」
正一が情けない声でつぶやいた。
正一の話によると、いなくなったのは今日の朝から、という事だった。
ケンゾウの死後も相変わらずはケンゾウの研究室兼自室で寝泊りをしていたが、今朝正一が心配して様子を見に行ったらがいなくなっていたそうだ。慌ててライモンドの部屋を見に行ってみたがやっぱりいなくて、食堂も、ありとあらゆる場所を探したらしいが、結局今になっても見つかっていないとの事。
スパナはそれをぼんやり顔のまま聞き終えて、落ち込んだ様子の正一の顔を見下ろした。
「…ライモンド、死んだって聞いたけど、ほんとか?」
スパナはとりあえず真偽を確かめるべくそう尋ねれば、正一が一層落ち込んだ顔になって、小さく頷いた。
「一昨日の任務で、部下をかばって」
なるほどライモンドらしい最期だ、とスパナは思った。ライモンドの事はよくわからないが、彼はきっと自分より他人を優先するタイプだというのはなんとなくわかっていた。
「じゃあ、それが原因か」
スパナは言いながら、の手足を修復し終わった日の、とライモンドが並んで歩く後姿を思い返していた。
「多分。…いや、ほかにもあるかも」
正一の言葉がぼそぼそと尻すぼみになっていく。いつもキビキビしている正一がこんなにもうなだれているのを見ると、どうにもキャラが違う様に思えた。いやむしろ、それくらい任務が失敗したことが堪えているのだろう。
「ほか?」
スパナが促すように聞けば、正一は言いにくそうにあちこちに視線を泳がせて、
「バカな部下が、遺体の処理を、ちゃんに押しつけてしまったらしくて」
あー…と、スパナの口からそんな声が漏れた。
は明らかにライモンドを好いていた。そんな、好いている人の遺体の処理などできるだろうか。スパナは想像してみたが、未知の領域だったので、考えるのを拒否した。
「…というわけだから、見かけたら教えてほしい」
T字路に差し掛かったところで、正一が言った。
「わかった」
素直に頷くスパナに礼を述べて、正一は右へ曲がって走りだした。もしかしなくとも正一は朝から一日中ずっとああやって走り回っていたのかもしれない。ともすればあの疲れた表情にも納得がいく。さぞかし大変だったろうなあと思いながら、スパナは左に曲がった。その先にあるエレベーターのボタンを押し、ドアを開けて中に入る。
自室のある階のボタンを押してドアを閉める。エレベーターが上昇し始めてやっと、ライモンドが死んだという実感を得ることができた。スパナは小さくため息をつく。いい人ほど早死にするというのは案外本当なのかも知れない。ライモンドには確か彼女がいたはずだ。可哀そうだなあと思う。
チーンと音を立ててドアが開いた。スパナはエレベーターから出て歩きだす。
……のだが、視界の隅に、まるっこい何かが映り込んで、ぴたりと足を止めた。エレベーターの真向かいに位置する階段に足を向け、手すりに手を置いて壁にもたれかかり、盛大に溜息を吐いた。右手で顔を覆う。
音に気付いたのか、階段の踊り場の隅っこにうずくまっている塊がもぞもぞと動いた。
顔をあげてスパナをとらえる。前髪の間から真っ黒い瞳が覗き見えた。
「――、」
スパナが呆れた声で言いながら手招きすると、がパッと立ちあがって足を踏み出す。徐々に小走りになりながら階段を駆け上がって、スパナのほうに腕をのばして腰にしがみついた。スパナは衝撃で突き倒されそうになり、両足で踏ん張りながら手すりを掴んでなんとか堪えた。
「…何してるんだ」
スパナが呆れたように聞くと、がスパナのツナギをぎゅっと握りしめた。スパナの脇腹にの額がぐっと押しつけられる。まるで縋りつくように抱きつかれる。
スパナは正一に連絡を取るべく、携帯を取り出そうと懐のポケットに右手を潜らせたが、一旦止めて思案を巡らせ、携帯を取り出さずに右手をおろした。
頭を何度か叩くように撫でてやると、の腕に一層力がこもった。力加減を知らないのか、ぎりぎりと締め付けられる。正直痛かった。
スパナはをなんとか身体から引き剥がし、彼女が逃げないように手を引いて――とはいっても逃げるそぶりはまるで見せなかったが――自室に向かった。
部屋の照明を点けて、改めてを見下ろす。はぼんやりと焦点の合わない眼差しで虚空を見つめていた。
直感的にヤバいと思った。
しかも身体の大きさにまるで見合っていないパーカーを着こんでフードをかぶっているので、ヤバさが一層引き立った。まるで今のは包丁を持って夜中の街をうろついていそうな風体だ。
フードをおろしてやろうと縁を掴めば、糊で固めたように硬い感触がスパナの指先に伝わった。フードを下ろすと、赤黒い塊がぱらぱらと床に落ちた。
スパナが息をのむ。
慌てて部屋のバスルームにを押しこんだ。
パーカーを脱がせば下に着ている白いキャミソールが半分以上どす黒く染まっていて、の肌は耳の下から肩にかけて血糊がくっついたまま固まっていた。
「け、怪我したのか?」
スパナがあたふたと聞けば、がゆっくり首を振った。嘘ではなさそうなので、スパナはそれを信じることにする。部屋に戻って、クローゼットからバスタオルと厚手で無地のTシャツを出して、バスルームに戻った。はトイレの便器の蓋の上に座って、ぼーっと鏡を見つめている。
「」
スパナが肩をつつくと、そっと顔をあげた。前髪が目に覆いかぶさっていて邪魔そうなので耳にかけてやろうと前髪に触れると、毛先に何か付着しているのかぱりぱりに固まっていた。指の腹で毛先を擦り合わせて付着物を取ってみる。やっぱりというか、血糊だった。
おそらくは任務の際に返り血を浴びたようだ。けれどもその日のうちにシャワーを浴びなかったため、だから乾いた血液がはりついてしまっている。
「シャワー浴びろ。これ、タオルと着替え」
重ねて差し出すと、がこくんとうなずいて、小さな手で受け取った。
「シャンプーとかは、そこらへんの使え。脱いだ服は隅のカゴに入れといて。洗濯するから」
はまたこくんと頷いて便器から降りた。スパナがいるにも関わらず服を脱ぎだそうとするので、スパナは慌ててバスルームから飛び出た。乱暴にドアを閉めて、近くの壁に寄りかかってずるずるとしゃがみ込み、盛大に溜息を吐いた。
懐のポケットから携帯を取り出して開き、やっぱり正一に連絡を取ろうかと思ったが、さんざん迷って、やっぱりやめておく事にした。画面に表示される時計を見ると、ちょうど7時を回ったところだ。携帯を閉じて懐にしまい、床に腰を下ろす。膝を折って腕で抱える、俗にいう体育座りの体勢のままじっとしていると、バスルームから水音が聞こえてきた。
このままじっと待っているのも流石にどうかと思ったので立ち上がる。スパナが脱いでそのまま散らかしっぱなしの服を拾い上げ、適当に畳んでベッドの上に寄せ、床にちらばった血の塊を小型の掃除機で吸い上げた。
そうして20分ほど経つと、バスルームからが出てきた。はスパナから渡されたTシャツを着ていたが、もともとスパナが着てもゆったりしたものだったので、の身体には大きすぎてワンピースになっていた。
スパナは部屋の中央の円卓のそばに座布団を敷いて胡坐をかいて座っていた。スパナは茶を飲みながら視線をのほうにずらして、左手でちょいちょいと手まねきした。するとはぱたぱたとスパナに駆け寄って隣に座りこみ、胡坐をかいたスパナの左足に手をのせて、太腿に倒れこむようにして額を押し付けてきた。
とうとう泣きだしたのかと思ったスパナが慌てての前髪をひと房つまみ上げてみるが、はじっとスパナの太腿にしがみついたまま――というか、ぴったりとくっついて寄り添って、スパナをおずおずと見上げてきた。泣いているわけではなかったのでスパナが内心胸をなでおろすと、は目線を下げた。どこを見るでもなく、じっと虚空ばかりを見つめている。そうして目頭を太腿に押し付けた。
その姿はなんだか、飼い主を亡くして落ち込んでしまって元気のない犬のようだとスパナは思った。
なんとなく頭をなでてやろうかと左手をの頭に置こうとしたが、しばらくスパナは考え込んだ後、左手を引っ込めた。スパナの太腿に顔を押し付けて蹲っているは何だか儚くて今にも消えてしまいそうで、触れたら最後壊れてしまうと、スパナは直感的に思った。
スパナはテーブルに右肘をついて、掌に顔をのせて、を無表情に見下ろした。
憶測なのだけれども、きっとは普通の人よりも何倍も寂しがりで、寄り添うための他人の体温が無ければ生きることができないのだろう。
頼られたところで与えてやれるものなど何もないのに、は何を期待してここにいるのだろうとぼんやり考える。要は、誰でもいいから人の傍にいれればいいのではないだろうか、と考えたあとスパナは自嘲気味に口元をゆるめて嘆息した。なんだか酷く意地汚い事を考えてしまって自己嫌悪に陥る。そもそもはそこまでずる賢そうに見えないから、そういった下心はないだろう。それだけは断言できる。
不意に、懐のポケットが震えだした。バイブレータの音にがびくっと身体を大きく震わせる。スパナは無言で携帯を取り出し、開いて通話ボタンを押しながら耳にあてた。
『僕だけど、見つかった?』
声からして正一だった。慌てたようにまくし立ててくる。スパナはを見下ろして思案を巡らせ、
「――、いや」
嘘をついた。正一相手の嘘だったので、思ったより罪悪感は湧いてこなかった。
『…ちょっと間があったな。…うん、わかった。君は今部屋にいるんだろ? 今からそっちに行くから』
すぐにばれてしまった。
どうにもスパナは嘘をついてもすぐにばれる性質だった。
「あー…」
スパナが言いあぐねていると、ぷつっと通話が切れた。つーつーと機械音が聞こえてきたので、スパナは携帯を閉じて円卓の上に置いて、がっくりとうなだれた。を見れば相変わらずスパナの太腿に顔をうずめている。
「ごめん」
スパナは咄嗟に謝ってしまった。理由はよくわからない。しかしはややあってゆっくりと首を振ってくれた。
10分もしないうちに、いきなり正一がノックもなしに部屋に押し入ってきた。酷く疲れた様子で、肩で息をしていた。
「お茶、飲む?」
事を穏便に済ませようと思った末に口から出た言葉だったが、正一の琴線に触ってしまったのか、彼は口角をひくつかせた。スパナが喉の奥からひっと情けない声を出して身体をビクッと震わせると、が訝しげに顔をあげた。正一の姿を視界に捉えたとたん、はスパナに寄り添ってスパナの左腕にしがみついた。
「やっと見つけた…」
まるで親の仇でも見つけたような口ぶりで近寄ってくる。正一がややうつむきがちになり、そのせいでメガネがうまい具合に光を反射して、メガネの奥が見えないくらい真っ白く光った。
「こ、怖いよ正一」
スパナが言いながらほんの少し後ずさった。釣られても後ずさる。
正一はつかつかとの方に歩み寄って、立膝をついてしゃがみ込んだ。の肩を掴んでこちらを向かせようとすると、がビクッと震えて一層強くスパナの左腕にしがみつく。
「ほら、帰ろう」
正一にしては珍しく、気遣った優しい言い方だった。
しかし、がどこに帰るというのか、スパナには皆目見当がつかなかった。逃げ出さないようにケンゾウの研究室にでも閉じ込めておくつもりなのだろうか。誰もいない、きっと機械だらけのただっ広い部屋に。想像してスパナは眉を潜めた。
「…や、」
は首を振り、拒否反応を示して、正一の手を払いのけた。口をきゅっと引き結び、正一を見上げるその顔は今にも泣きそうだった。今にも霞んで消えてしまいそうだ。
「困ったな…。君からも何か言ってくれよ」
「え」
いきなり振られてスパナは素っ頓狂な声を上げた。そうして恐る恐るを見下ろす。は視線から逃れるように、スパナの腕に顔をうずめてしまった。
正一の空気と、の空気がスパナに重くのしかかってくる。スパナはうーんと唸りながら必死に思案を巡らせたが、どうにもいい答えは見つからなかった。
3人が一様に黙りこくっていたが、沈黙を破ったのは正一だった。
「仕方ない、か。無理にでも連れて帰らせてもらうよ」
誰に確認を取ったつもりだったのか正一が言って、の腕を掴んだ。
「や、やだ……っ」
の口から珍しく、焦ったような言葉が出た。抵抗するためにじたばたと暴れ出すが、正一に視線で凄まれてぴくりと固まった。今まさに正一を殴ろうとしていた手をそっとおろす。どうやら、上司に暴力を振るっては絶対にいけない、という分別はあるらしい。
正一が立ち上がると、もゆっくりと、とても嫌そうに立ち上がった。
スパナの袖を掴んだ手を見下ろして、スパナの顔を見つめた。悲しそうに眉を下げて、静かに瞼を落とす。スパナは戸惑いがちな視線で正一の背中とを見比べて、なんだか居た堪れない気持ちになりながら、シリコンの指を掴んだ。袖を掴んだ指を一本ずつゆっくりと解いていくと、の口が少しだけ開いた。
スパナ、とかすれた、つたない響きが聞こえた。
スパナは目を丸くして手を止めた。
――今、は自分の名前を呼ばなかっただろうか。
スパナは恐る恐るシリコンの指先から手を離して、そっとの頭に移動させた。前髪を撫でて、耳にかけてやる。の黒目がちな瞳は濡れていて、まっすぐにスパナを見据えていた。
「…スパナ?」
怪訝そうに正一が問いかけてくる。けれどもその言葉はスパナの耳を素通りしてしまった。それくらい、スパナにとっては衝撃が強かった。
「その、は、」
スパナがぎこちない声を出した。をまっすぐに見上げる。
「――は、どうしたいんだ?」
単純で素朴な疑問だった。今までの事柄を思い返せば、の意思は尊重されずに、の意見は端からないものとして扱かわれていたとスパナは思ったからだ。
のつぶらな瞳が何度か瞬きを繰り返すと、目じりから涙がこぼれおちた。慌ててスパナが手をのばして指で拭ってやると、は目を閉じたまま、スパナの折り返したツナギの袖をきゅっと掴んで俯いた。
の態度からして答えなどとうにわかっているくせに、直に本人に聞いてしまうあたり、自分は少し意地悪なのかもしれないとスパナはぼんやり考える。
しばらく無言のままの動向を見守っていると、やがてはスパナの袖から手を離して、足を踏み出した。スパナが胡坐を崩すと足の間にが座り込んで、スパナの身体にしがみついた。
スパナがの背中に手をまわして何度か叩いてやると、はびくりと身をすくませた。しかし背中を撫でられていくうちに少しずつ力が抜け落ち、はスパナの胸に顔をうずめて泣き出した。
嗚咽に交じって、スパナ、とつたない声が聞こえる。初めてに名前を呼ばれて、内心嬉しいと思いながらも、それが表に出ないよう必死に無表情になるようつとめる。恐る恐るの頭を撫で始めれば、子供のように声をあげて泣き出してしまった。
あー、壊れた。とぼんやり思いながら、
「…と、いうわけ、らしい」
若干鈍ったぎこちない口調でスパナが正一を見上げながら言えば、正一は怒りに身体を震わせる。…かと思いきや、脱力したように、盛大に溜息をついて、
「僕の努力は一体何だったんだ…」
寂しそうにぽつりと呟いた。
夕食はキッチンに放置されていた、賞味期限間近の食パンで済ませた。
ただのパンにバターとジャムをつけただけの質素な夕食だったが、は嬉しそうな顔をしてはぐはぐとかじりつき、パンを4枚も平らげた。
スパナは食後すぐにシャワーを浴びた。いつものように髪と身体を洗って、バスタオルで髪を拭きながら部屋に戻れば、は円卓に突っ伏すような体制になってすうすうと寝息を立てていた。バスタオルごしに濡れた頭をかき乱しながらスパナが近寄っても、は目を覚まさなかった。
規則正しい寝息に合わせて、小さな肩が上下する。
スパナが部屋の照明を見上げ、眩しいのではなかろうかと一段階ぶん暗くしてやれば、の顔がさっきよりも柔らかくなったように思えた。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して水分補給し、バスルームに戻ってドライヤーで髪を乾かし、ついでに歯磨きを済ませ、そうしてまた部屋に戻ってもは寝相を崩すことはない。の隣に座りこんで前髪を摘み上げても、まるで反応しなかった。
穏やかな寝顔はまさに天使のそれだが、閉じた目の下に微かに隈ができている。相当疲れていたのだろう。スパナが悪戯にの頬をふにふにとつつくが、は身じろぎすらしなかった。熟睡しているようだ。
円卓の上に置きっぱなしの携帯を開き、画面を見ればもう9時過ぎだった。
さすがにこのまま寝かせておくのもあれだろうと思ったので、スパナはの肩にそっと手をかけた。
「起きろ」
ゆさゆさと揺さぶる。
「…ん」
吐息交じりの声のあと、がゆっくり目を開けた。わずかに顔をあげて、寝惚け眼でスパナを見る。ひどく眠たそうに、何度か瞬きして、
「んー…」
にこー、とスパナに微笑みかけた。
そしてゆるみきった顔のままもぞもぞと動いて腕に顔をうずめて、再び眠りについてしまう。やがて規則正しい小さな寝息が聞こえてきた。
スパナはそっと肩から手を離して、両手で顔面を覆った。目を閉じて静かに息を吐く。
何度か深呼吸して平常心を保ち、やっと落ち着いたところで、スパナは両手を顔から離した。
流石にこの体制のまま寝かせるわけにもいかないだろうと思い、スパナはを抱き上げてベッドに横たえた。布団をかけてやると、は身じろぎして猫のように丸くなる。自分はどこに寝ようかとスパナは部屋を見渡したが、あいにく人が寝れそうなソファなど必要ないだろうと置いていなかった。床に寝るにしても予備の毛布などはない。
部屋の照明を消して、唯一の光源となった円卓の上の携帯を手に取りベッドに向かう。を壁際にぐいぐいと押しやって、スパナが靴を脱いでベッドにもぐりこんだ。できるだけ彼方から離れてに背中を向けて横になり、枕を引きよせてそこに頭をうずめた。
枕元に携帯を置いて、目を閉じる。それぞれ端に寄った同士が一枚の布団を共有しているのだから、当然二人の間に隙間ができる。そこに冷たい空気が入り込んできて、スパナの背中を撫でるように寒気が這いあがってくる。寒さに身体を震わせながら、けれどもスパナは決しての方に近寄ろうとはしなかった。
スパナはまるで知らない部屋の入口でぽつねんと立っていた。
薄暗い、むき出しのコンクリートの壁がやけに冷たい印象を与える部屋だった。床もフローリングとかではなくただタイルを打ちつけたような床で、尚更さみしい印象を与えた。
部屋の中を見渡せばスパナの部屋以上に散らかっていて、ところどころにガラクタの山ができていた。床には小さなネジがちらほらと転がっている。部屋の奥に古そうなベッドが置いてあり、その隣にはずらっと本棚が並んでいた。
右奥の方に光源が見えるのでそっちに歩き出す。ガラクタの山をよけながら近づけば、毛布にくるまったがちょこんと座っていた。はじっと、ある一点を見つめているので、スパナがそちらに視線をずらせば、白髪頭のツナギ姿の男が作業机に向き合って何かを作っていた。
恐る恐る近づいてみると、調子のいいかすれた歌が聞こえてくる。
体育座りをしているのとなりに並んで腰をおろし、同じように体育座りすると、目の前の爺さんが何を歌っているのかはっきりわかった。
「デイジー・ベル」
ぽつりとつぶやけば、
「…しってるの?」
がスパナを見上げながら聞いてきた。
「コンピュータが初めて歌った歌だ」
名前は知らないが、イギリスだかのソングライターが作った歌だ。半世紀前にどっかの技術者がコンピュータにプログラムして歌わせた。なぜこの曲を技術者が選んだのかという理由はさっぱり知らないが、まあこれはぼちぼち有名な話だ。
「どういう歌?」
が首をかしげながら聞いてくるので、スパナが曖昧にんーと唸って、
「ひっくるめて言えば、恋の歌だな」
「恋?」
が目を丸くして聞き返してくるので、
「うん、恋」
スパナが頷けば、が首をかしげながら目の前の爺さんを見つめた。さも意外そうに。
しばらくそのままじっと座っていたが、べつだん状況は変わらなかった。はじっと座りこんだままだし、目の前の爺さんは同じ歌ばかり歌い続けている。歳老いた男が臭い恋の歌を口ずさんでいるのは、ギャップがありすぎる組み合わせで、いささか笑えた。
を横目で見れば、むき出しになった機械の指でしきりに目をこすっていた。どうやら戦闘用の手足をつけているらしい。が手を下ろすと、小さな機械音が聞こえる。膝を抱え直して、それから視線に気づいてスパナを見上げた。
「あれ、ケンゾウか?」
スパナが目の前の爺さんを指さして聞けば、がこくんと頷いた。
「ケンゾウはいつもああなのか」
「うん」
「毎日?」
「うん」
スパナは呆れた視線をケンゾウに向けた。相変わらず流暢な英語でデイジーベルを口ずさんでいる。狂ったように機械をいじりながら、ただそれだけを歌っている。
「まるでハルだ」
スパナがつぶやくと、
「…ハル?」
が首をかしげた。
「ええと…、昔の映画に出てくる、架空のコンピュータだ。人工知能を備えてる」
余分な説明はいらないだろうと思ったので、スパナは頭の中でできるだけわかりやすいように言葉を整理して言えば、は納得したようにうなずいた。
「でも、どうして?」
「ハルが機能停止するとき、狂ったように歌うんだ、この歌を」
は頷きもせず、スパナから視線をそらして、ケンゾウの背中を見つめた。なんだかさみしそうにしているように見えたので、スパナはの頭をなでた。は抵抗せず、スパナにされるがままになっている。
はうつむきがちになって、指で目をこすってからスパナを見上げた。
「じゃあ、おじーちゃんは、狂ってるの?」
「え、…えーと」
言葉が出ない。そんなもの聞かれたって知るわけがない。スパナはあちらそちらに視線を泳がせてケンゾウの背中を見た。
彼は猫背になって作業に没頭していたが、やがて「完成だ!」と叫んで立ち上がった。の横を通り過ぎて、後ろのほうにあるガラクタ山をあさり始め、金づちを持って戻ってきた。
金づちを高く振り上げる。
「でぇりゃーっ」
叫んで、作業机に打ちつけた。
いや、正確に言えば、今しがたケンゾウが作ったメカにだ。
何度も何度も金づちで叩きつけられ、がしゃーんと音を立てて、完成品が部品をまき散らして壊れていく。弾かれ飛んできたた小さなネジが、の足にぶつかってころころと転がった。どうして床にネジが転がっていたのかという疑問があっさりと解消され、スパナは唖然としてケンゾウを見つめた。
「ひゃーっはっはっはーっ!」
ケンゾウが作業机に横たわる壊れた機械を見下ろして、見事な高笑いをあげた。薄明かりに照らされたケンゾウの影が床に細く長く映りこんで、まるで子供向けのアニメや映画に出てくる敵側の科学者のように見える。
スパナは何が何だかよくわからなくなってきて、けれども妙に居た堪れなくなって、両手で顔を覆って俯いた。なぜならケンゾウの趣味がすぐわかってしまったからだ。
メカに魅入られる人は二つの種類がいる。
ひとつは出来上がったメカの姿に美を見出す者。
もうひとつは、出来上がったメカが無残に破壊された姿に美を見出す者だ。
スパナはからっきし前者だが、ケンゾウはたぶん後者のほうだ。というか、凄く嬉しそうな顔でメカを破壊している姿を見れば、絶対に前者はあり得ないだろうとスパナは命をかけて誓える。
「…こわい」
が呟きながらスパナのほうにすり寄ってくるので、スパナは何度も頷いて震えるの頭をなでた。
ケンゾウは狂っている。スパナには断言できた。ともすれば組織内での人づきあいがまるで無いことにも合点がいく。
スパナはケンゾウが生きていたうちに彼に会ってみたいなどと思っていたが、その理想は脆くも崩れ去り、今や頼まれてもごめんだと思った。たとえ話ができたとしても、創造と破壊の間に立ちふさがる壁により、対立関係にあっただろうと思う。
「…その、は、手足、壊されたことあるのか?」
脅えた顔のまま、ふるふると首を振った。そこはちゃんと区別していたことに内心ほっとした。
「でも、おじーちゃんは――」
がつぶやくと、高笑いを浮かべているケンゾウがふっと消えた。ケンゾウが持っていた金づちが床に落ちる。
部屋の景色が一気に変わった。スパナが驚いて立ち上がれば、ブーツがばしゃばしゃと水を切った。いつの間にか血だまりの中にいた。
「――わたしが人を殺さないと、すごく怒った」
が大量に積み上げられた屍の上に座って、スパナを黒目がちな瞳で見下ろしてくる。が座っている死人の山は、まるでにわか作りの玉座だ。
そうしてやっとスパナは、どうやらこれは夢らしいと今更気づいた。頬をつねってみるが痛くもかゆくもない。
スパナは血と死体を肉眼で見るのは苦手だ。だから足元に広がる血と目の前の死人たちを極力見ないようにしたつもりだったが、どうしてか死体の山の上にするを見てしまった。
これは自分の脳内の妄想だ、とスパナは自分に言い聞かせる。けれどもこのくらいの人数を一人で殺したのだと考えると、絶望的な気分になった。にあの両手足をつけたケンゾウを末恐ろしく思う。あの爺さんの心の闇は到底理解できないだろう。
「…」
降りてこい、という意味を込めて名前を呼んだ。はじっと、そこに座ったままスパナを見下ろす。人を殺したとは思えない、無垢な瞳で見つめてくる。
――そもそも、血で血を洗う戦いなど、彼女には向いていなかったのだ。もしかしなくともケンゾウはあの機械の手足を枷としてに与えて、自分から逃げられないよう縛り付けていたのかもしれない。人を殺すことでの事を狂わせたかったのだろうか。なんにせよ、あの手足は明らかにの重荷だ。
スパナは本当に心の底から嫌だったが、これは夢だと自分に言い聞かせて死体の山に近づいた。近づいてから、どうせこれは夢なんだからなんかほっといて目を覚ませばいいじゃないかと考えたが、目の覚まし方などわからなかったし、なんとなく、がほっとけなかった。
「…いいの?」
が渋るように聞いてくるので、スパナは眉をひそめてぎゅっと目を閉じて何度もうなずいた。死体の山など見たくなかった。
がそっと手を伸ばした。スパナの指に触れる直前に手を止めて、死体の山を見下ろしてから、覚悟を決めたように口を引き結んでスパナの指先に触れた。指先に冷たい感触が伝わり、スパナは身を乗り出して手をのばしての手を掴んだ。引き寄せるとが胸に飛び込んでくる。
首に柔らかな腕が回された。シリコンの腕だった。
「…ええと」
首を動かして、抱きついているを見下ろした。
枕元の携帯から、7時にセットしている目覚ましのアラームが鳴り響いている。ベッドの端に寄って眠っていたはずだったのに、いつの間にやら中央に移動していた事実に少しばかり混乱しながら、の肩を掴んでそっと引き剥がした。つぶらな瞳がスパナをじっと見上げる。
「――…お、はよう」
スパナが戸惑ったように言えば、は困惑の眼差しをスパナに向けて、
「…おはよう」
言葉のひとつひとつを確かめるように呟いて、スパナの手を握った手に力を込めた。目線を下げてスパナの首に回した手を離して、ほっぺたをつねっていた。
ベッドからでてスパナはまず顔を洗い、仕事着であるツナギに着替えた。棚から予備の歯ブラシとスポーツタオルを出して、ベッドにちょこんと座ってるに差し出した。
「顔洗え。あと歯も」
は素直に頷いてとことことバスルームに向かった。
その間に朝食でも準備しようかと冷蔵庫の中をあさったが、水と酒しかなかった。何か食うものはないかと部屋を見渡したが、棒付きキャンディくらいしかない。とりあえずの着替えとして、クローゼットから予備のツナギを引っ張り出した。
がとことことバスルームから戻ってきたので、ツナギをに渡した。は何も言わずにツナギを受け取ってその場で広げ、ひとしきりツナギを見渡した後。
「どうやって着るの?」
スパナにツナギを差し出しながらほんとうに困ったように言うので、スパナは苦笑してツナギを受け取り、に着せてやった。けれども、スパナのツナギはには大きすぎてぶかぶかでだぶだぶだった。
袖と裾をちょうどいい長さまで捲ってやりながら、
「朝ごはんないから、食堂でもいいか?」
とスパナが聞けば、はきょとんとして、
「おじーちゃんの部屋に、食べ物、いっぱいあるよ」
がそう言ってきた。その一言で、やることは決まったも同然だった。
「いいのか?」
「うん。腐らせるよりは、断然いい」
スパナはふむ、と頷いて、クローゼットからボストンバッグ二つとスーパーの袋を二つ取り出して、にそれぞれ一つずつ渡した。
無言で部屋を出れば、とことこともついてくる。
「部屋、どこにあるんだ?」
「下の階」
意外に近いことにスパナは目を丸くした。
エレベータ前までやってきたが、エレベータに誰かのっているのか現在進行形で上昇中だった。さすがに誰かと鉢合わせになりそうな危険性のあるエレベータを使う気にはならなかったので、階段を使って下の階に行き、ケンゾウの部屋の前までに案内してもらった。
重たそうな鉄の扉を前にして、スパナは息を呑んだ。今朝見た夢を思い出し、なんとなくを見下ろせば、もスパナを見上げてきた。
「開けるぞ」
「うん」
許可が下りたのでドアノブに手をのばして回してみる。鍵がかかっていなかった。ゆっくり押してみると、意外にもドアはすんなりと開いた。
部屋の中は真っ暗だった。ひとしきり目を凝らして見るがさっぱり部屋の情景がわからない。スパナがすんと鼻をならして部屋のにおいをかげば、工具用の油と鉄が混ざり合ったような匂いがした。
いきなり部屋がパッと明るくなった。びっくりしてスパナがきょろきょろすると、ドアのそばにある照明のスイッチをが押していた。
明るくなった部屋を見渡せば、今朝見た夢の中の光景と全く同じ、がらくたばかりの部屋で、スパナは軽い眩暈を覚えた。部屋の入口でふらふらしているスパナをほっといて、はがらくた山の間を通り抜けて一人冷蔵庫に向かった。冷蔵庫のドアを開けて、瓶に詰められたものとかタッパーに入れられたものとか野菜とか冷凍してある肉とか調味料とかをひたすらバッグにつめていく。
「ええと…」
こうしちゃいられないと、スパナはドアを閉めずに足を踏み出した。部屋の真ん中まで歩き、何かないかと探してみたが、めぼしいものは見当たらない。
「スパナ」
に名前を呼ばれたのでスパナはぱたぱたと足音を立ててそっちに向かった。
「これ、持っててほしい」
そう言って差し出してきたのは、ちょっと新しめの海外向け仕様の日本製炊飯器だった。スパナは無言でそれを受け取る。
「コメはないの?」
聞いてみれば、がどこからともなく、厚手の紙でできた、やたらでかい袋をずるずると引っ張ってきた。袋の表面には“こしひかり 30kg”と表記されているが、スパナには30キログラムの部分しか読めなかった。
スパナの傍に米袋を置いたは、スパナから空のままのバッグを受け取って、隅の古びたベットに駆け寄った。ベッドの下から衣装ケースを取り出してバッグに中身をせっせと詰め始める。スパナが無言でそれを見ていれば、何やら水色のギンガムチェック柄の何かをが手に取ったので、スパナは無言で視線を足元にずらした。
しばらくして、がバッグを抱えて戻ってくる。衣類が入った方をスパナに渡して、は食料の入ったバッグを肩にかけて、米を持ち上げようとした。
30キロの米袋など、どう考えてもには無理だ。スパナがじっと成り行きを見守っていれば、はやがてしょんぼりして袋から手を離した。諦めたらしい。
「…ウチが持つよ」
「ごめんなさい」
申し訳なさそうに見上げてくるに苦笑して、頭をなでて炊飯器を差し出せば、はおずおずとそれを受け取った。スパナが袋をつかみ上げ、軽々と肩に担げば、が「わあっ」と小さな歓声をあげた。
と二人してゆっくりとぼとぼドアに向かい、一緒に部屋を出る。
スパナはドアを器用に足で閉めて、きょとんとした顔のを見下ろしたあと、自分の姿を見下ろした。傍から見ればスパナとは空き巣そのものだった。
もじーっとスパナを上から下まで見返して、
「ドロボウさんみたい」
どうやら同じことを考えていたらしい。思わずスパナは苦笑した。
帰り道もやっぱりエレベーターは使わず、歩いて部屋に戻った。
部屋に戻ってからスパナはまず先に持ち帰った食料を冷蔵庫につめた。あんなにすっからかんだった冷蔵庫が見事に潤ってしまった事に少し感動する。
は炊飯器を円卓の上に置いて、内釜を取り出し、それをキッチンの流しに置いた。紐で結えてある米袋を開けて、中に入っている計量カップで米を測り、釜の中に移し始める。が米を磨いでいる間、スパナは部屋の中の空いているコンセントを探して、そこに炊飯器のプラグを差し込んだ。
米と水が入った釜を炊飯器にセットして、が白米急速と表記されたボタンを押した。当然ながら、スパナにはその字が読めなかった。
「炊けるのに、時間、どのくらいかかるんだ?」
二人して炊飯器の前に並んで体育座りして、じっと炊飯器を見つめる。
「30分くらい」
ふむ、と頷いてスパナは立ちあがった。ベッドの上から携帯を取ってきて時間を見た。7時40分だった。またの隣に座りこむ。
今から朝食をとるとしても米が炊けるのに30分かかるという。で、食べ終わるのに速くて5分。けれども今はがいるのでもっと時間がかかるだろう。遅刻は免れそうにない。遅刻したら作業に遅れが出る。つまりもらえる給料が少なくなる。でもかといってを置いて仕事に行くのはなんとなく危ない気がした。もちろん正一的な意味で、だ。
まあ遅刻などスパナは星の数ほどしているし、今更そんな事を気にしたってしょうがないだろう。…と、スパナは延々と悩み続け、まあ遅刻しても別にいいかと、社会人にしては破綻しかけた思考にたどり着いた時に、漸く米が炊きあがった。
スパナが食器棚から皿を持ってくれば、がそれにご飯を装ってくれた。
円卓にご飯が盛りつけられた皿を置いて、スプーンを2本持ってくる間に、が冷蔵庫から何かを持ってきた。タマゴ2個と醤油さしだ。
食器棚からがサラダボウルを勝手に取り出し、卵を割りいれ、スプーンで器用に混ぜ始める。
「…何してんの?」
「混ぜてる」
そんなの誰だって見てわかる、と思っているうちに溶き卵に醤油が加わって、黄色が醤油色に変ってしまった。
はそれを二つの皿のご飯に均一にかけた。そうして余った溶き卵が入っているサラダボウルをが円卓の中央に置く。スパナは呆然と、皿の上の一見ゲテモノ風なご飯を見つめた。
「何これ」
「朝ごはんの定番」
「火、通さないの?」
「通さない」
「…おいしいの?」
「おいしいよ」
「……日本ではこれがポピュラーなの?」
「とっても」
淡々とした会話の後、がスプーンですくって食べ始めるので、スパナもそれに習ってご飯を口に運んだ。
醤油のしょっぱさの中に卵の風味が広がり、米の甘さとあいまって実に微妙だ。どう表現したらいいのかわからない味に戸惑っているスパナが無言でゆっくりとそれを食べているうちに、がご飯のおかわりをしていた。
昨日の食べっぷりを見ていて思ったが、見た目の割には大食いだ。あんなに食っててよくその体型を維持できるなとスパナは思いながらご飯を口に運んだちょうどその時、部屋のドアを軽くノックされた。もぐもぐと口を動かしながらドアを振り返り、口の中のものを飲み込む。
「勝手に入って」
ドアにそう声をかけると、「じゃあ、失礼するよ」と律儀な声が返ってきた。ドアを押しあけて正一が入ってくる。正一は部屋の有り様と、そんな中でのんびり朝食を食べている二人を見て盛大に溜息を吐き、こっちに寄ってきた。
「ご飯食べる?」
スパナが見上げながら聞けば、正一は円卓を見下ろした。きょとんとした顔になる。
「卵かけごはんか」
正一の顔が少しだけ綻んだ。彼は「懐かしいなあ」とぼやきながら、スパナとの間にしゃがみこむ。
「…タマゴカケゴハン?」
スパナがたどたどしく正一に聞けば、正一が苦笑しながら頷いた。
「タマゴカケゴハン、それが正式名称か。で、食べるの?」
スパナが再度尋ねれば、
「…発音がちょっと違うな。卵かけご飯。…そうだな、まだご飯食べてないし…じゃあ頂くよ」
正一が律儀に返した。
スパナが「たまごかけごはん」と呟きながら新しい皿を出してに渡せば、は無言でそれにご飯を持ろうとして、
「どのくらい?」
なぜかスパナに聞くので、スパナは何も言わずに正一を見た。ついでにスプーンを手渡す。
「…てんこもりで」
「てんこもりだって」
スパナが鸚鵡返しにに言えば、は頷いて皿にご飯を山のように盛り付けた。サラダボウルに余った残りの卵を全部かけて、が正一の前に置いた。
「いただきます」
正一は両手を合わせて、がつがつと食べ始める。その勢いに圧倒されてがぽかんと口を開けたが、しばらくすると自分のペースでもくもくと食べ始めた。
スパナといえばなんだかんだでもう食べ終わってしまったので、冷蔵庫からミネラルウォーターを持ってきてコップに注いだ。口直しに水を飲みながら、目の前の二人の様子を黙って観察している。
なんというか、異様だとスパナは思った。ただでさえスパナの部屋に他人がいること自体異様だっていうのに、日本人がそろって卵かけごはんなるものを食べているのは、かなり異様だった。面白いなあと思いながらスパナが眺めていれば、正一が先にご飯を食べ終わった。正一はごちそうさまでした、と両手を合わせて皿の上にスプーンを置いた。
そういえば、何で正一がこんな朝っぱらからこの部屋に来たのだろうとスパナはふと思い出し、
「正一」
スパナが名前を呼べば、ん?と正一が顔を上げた。
「の処遇はどうなる?」
思えば、スパナはこれが一番気になっていたことだった。
「ああ、うん。僕はそれを言いに来たんだ」
今更思い出したように言って、正一がふうと息を吐いた。
「ちゃんは、僕の部下の一人に任せることにした」
スパナが横目でを見る。はスプーンを口にくわえて正一をじっと見上げていた。眉間に皺が寄っている。どうやら不服らしい。
「で、スパナ。君には申し訳ないけど、定期的にメンテナンスを頼みたい」
「いいけど…」
もともとライモンドから頼まれていたのでスパナは正一に視線を向けて頷き、またを見た。心なしか頬が膨れているように見えたので、銜えたままのスプーンを引き抜いて、機嫌直せという意味をこめて頬をつついた。ふにふにと音がしそうなくらい柔らかい。
「なあ正一、すごく言いにくいんだけど――」
スパナが伺う様に言えば、正一が首をかしげて訝った。
「…ホワイトスペルからブラックスペルに移るのって、可能か?」
眉をひそめた正一の口から静かに、無理だな、と答えが返ってきた。
ドックの床にビニールシートを敷き、機械を覆っていたビニールで適当に作ったケープをに渡した。は無言でそれを身につけて、ビニールシートの上にあるパイプ椅子に腰をおろした。
髪を切ろう、とにそう言い出したのはスパナのほうだ。そう切り出した時、は戸惑っていたものの、邪魔そうに前髪をつまんでから素直に了承してくれた。
スパナ自身これでも手先は器用なほうなので、自分の髪を切った事はたくさんあるがそれは前髪の話で、他人の髪を切った経験など全くない。棚から鋏を取り出してが座っているパイプ椅子の後ろに立ち、の髪を静かに見下ろした。長いなあとは常日頃思っていたものの、まさかここまであるとは思わなかったと、恐らくの腰くらいまであるだろう髪の毛をひと束つまんで、スパナはよし、と意気込んだ。
「失敗したら、殴っていいから」
スパナが言うと、
「…殴らないよ」
振り返りもせずが言ったあと、ふっと小さく微笑むような気配が感じられた。の鷹揚な態度が、尚更スパナの緊張を煽る。
明らかに散髪用ではない、紙を切るための文房具としての鋏で、一気に後ろ髪を切り落とした。ビニールシートの上に黒い束がばさっと音を立てて落ちる。うわーやっちゃった、とスパナは内心呟きながら髪の束を見下ろして視線を戻し、の頭の上半分の髪を掴んでまとめ、それをクリップで頭上に留めた。
下半分の髪の毛先を切りながら、今朝の事を思い返す。
正一にああ言った後、スパナは無い知恵を振り絞って、どうにかを組織内の安全圏に移せるよう遠まわしに聞いてみた。が、正一は思った以上に頑固者で埒が明かなかったので、もうスパナは自棄になって一気にまくし立てた。柄にもない事を言ってしまったことによる後悔がのしかかってきたが、どうにも止められなかった。
は組織内では下っ端だけれども、そこらへんの奴より数倍は役に立つ。だからこそ即戦力として使いたい正一の気持ちもわからなくもない。
けれども、があの手足で、あの夢の中のように死体の上に立つというなら、いっそのこと手足を壊してやろうか、とか、もしくは任務で失敗して死ねばいいと、酷く最低な事を考えてしまうのだ。だからこそ、血濡れた仕事から遠ざけたかった。
こんなのは理知から遠く離れた、独りよがりの自己満足による感情論だ。それも、かなり押しつけがましい――。けれどもは別に何も言わずに、間抜けっぽく口を少しだけ開けて、ちょっとだけ目を丸くして、静かにスパナを見上げていた。
取りつく島なんてないぞと目で訴えていた正一も徐々に呆れ笑いのような顔になり、考えてみるよ、と呟いて部屋を出て行って――……そうして、今に至る。
うなじが隠れるか隠れないかくらいの長さで切るのをやめて、留めていた髪をおろして、段をつけるように切ってみる。
ただ鋏で髪を切る音と、二人の静かな呼吸の音だけが、なぜか大きく聞こえた。
「…スパナ」
いきなり名前を呼ばれたせいで、手元が狂いそうになった。が首を動かしてこっちを振り返ろうとするので、慌てて頭を掴んで固定した。するとは大人しく首を元に戻した。
「あのね、その」
うー、とうなって、
「――ありがとう」
そう、小さな声で照れたようにつぶやいた。
スパナの手が凍り付いたように静止して、鋏が髪の毛を切り落としかけた。
「何が?」
スパナが聞き返せば、が「んー」と言い淀んで、
「…いろいろ」
が含みのある言い方をするので、スパナは無言で止まったままの手を動かし始めた。髪の具合を見るためにポケットに突っ込んだ櫛を引っ張り出して髪を梳く。
また沈黙が訪れた。けれどもなぜか、あったかいぬるま湯みたいに心地がいいように感じられる。そのおかげで、スパナはだんだんと緊張がほぐれてきて、髪を切るのにも慣れてきた。サイドの髪を切るためにスパナは椅子の右側に移動する。
緊張が解ければ、鋏を動かす手もスムーズになってきた。
「」
俄然話しかける余裕が出てきたのでの名前を呼ぶと、がこっちを見ずに、スパナが髪を切るのに邪魔にならない程度で首をかしげた。
「今朝の事だけど…」
スパナが切り出せば、がぴくっと震えた。
「はどう思ってるんだ?」
駄目もとで聞いてみると、がやや俯き加減になった。何やら沈んだ面持ちになるので、返事は得られそうにないな、とスパナが左側に移動しながらそう思いかけたころ、
「…正直、嫌だなあと、思う」
呆気なく返事してきたことにスパナはきょとんとした。
「…正直、嫌なのか」
スパナが確認するように呟けばはこくりと頷いて、落ち込んだように小さなため息を吐いた。
は人慣れしていないから、きっと顔も知らない人の部下になるなど嫌でたまらないのだろう。そんな雰囲気がひしひしと伝わってくる。
またも沈黙が訪れた。
スパナはつまんだ髪の束を櫛で梳いて、毛先を適当に切る。何度かそれを繰り返しているうちに、だんだんと、まともな見てくれになってきた。妙に長い髪とか、なんだか浮いている髪を切って、の正面に移動する。
前髪を上下二つに分けて、上側をねじってクリップで留めた。
「目、閉じて」
が素直に目を閉じた。下側の髪の毛を束にしてつまみ、目にかかるかかからないか程度のあたりでばっさり切ると、落ち切れなかった髪が顔に引っ掛かる。指先でそれを払ってやると、がくすぐったそうに眉をよせて口を引き結んだ。
「あのさ、」
言いかけたとたん、が目を開けてスパナを見上げた。
「…目、閉じて」
スパナが窘めると、が慌てて目を閉じた。
「、そんなに嫌だったら、」
スパナは口をつぐんで、その先を言葉にするのを渋るように視線をさまよわせる。
「ウチの助手、やってみるか?」
少しの沈黙の後に、ぽつりと呟いた。
けれどもスパナの仕事は、助手など全くいらないし、一人でできる仕事だ。現に、今までスパナは一人でモスカの開発をしてきた。もしもスパナの仕事にが携わるとしたら、何をやらせればいいのか考える。思いついたのは軽い肉体労働だけだった。
は目を閉じたまま息をのんで、なんだか不安そうに眉を下げた。
「助手…?」
「うん、助手」
クリップをはずしてポケットに突っ込み、留めていた前髪をおろして、下段に合わせるように切り始める。
「わたし、パソコンの操作とか、プログラムとか、難しいことできないよ?」
がしょんぼりと泣きそうな声で言うから、自然と口元が綻んだ。
「機材とか部品運んでくれるだけでいい。あとお茶汲みとか。それならできるだろ」
「…うん。それならできる」
なんだかくすぐったそうに、明るい調子でが言った。
「じゃあ決まり。正一の説得、協力して」
「うん。する」
頷いて、が幸せそうに笑った。
野暮ったくならないよう気をつけながらなんとかかんとか前髪を切り終え、櫛を通して落ち切れなかった髪の毛を落とした。頬やら鼻先やらについた髪の毛を指先で取り除いて、全体の具合を見ながら仕上げを加える。
「できた」
ドックの壁にかかった時計をちらりと見れば、切り始めてから40分も経過していた。が恐る恐る目を開ける。
「…ぁ――」
前髪が目にかからない事がにとって不自然なのか、は何度も瞬きしながら短くなった前髪を指先でつまんでいた。
「立って」
スパナがの肩を軽くたたいてそう促すと、がすっと立ち上がった。スパナは指での髪を梳いて整え、ケープにひっついた髪の毛を払い落してそれを脱がしてやる。ケープをぐしゃぐしゃに丸めて近くのゴミ箱に突っ込んで、あらためてを見下ろした。
お金が取れる出来ではないが、自分にしてはよくできたほうだとスパナはひとつ満足げに頷いた。
胸ポケットに入れていた手鏡を出して、に自分の頭を見せてやれば、は目を丸くして何度も瞬きしてから、
「わあ…」
心底びっくりしたように呟いた。
「どうだ?」
スパナが聞けば、は鏡の中の自分とにらめっこして、
「…すーすー、する」
首を両手で包みながら、ほんの少しだけ不満そうにがこぼした。スパナが苦笑して何度か頭を優しくたたく。髪に文句を言わないという事は、満足したという事だろう。
「そのうち慣れる」
スパナが頭を撫でまわせば、はほんの少しびくっとしたが、スパナを見上げてからゆっくり視線を落として目を細めた。くすぐったそうに微笑む。
「ありがとう」
がスパナを見上げてはにかんだ。小さな花が咲くような笑い方だった。
最初のころと比べてよく笑う様になったとスパナは思う。スパナを見る目つきも柔らかくなったし、話しかければちゃんと応えてくれるようになった。懐く――というよりは、心を開いてくれたのだと思う。でなければこんな、愛らしい笑顔は見せてくれないはずだ。
「…うん、どういたしまして」
返事をするまでに間があったが、は気にした様子なく、相変わらず笑顔だった。
それからの話。
数日後にスパナとはそろって正一に呼び出され、人払いをした部屋で、の処遇をどうするか話し合った。
まずはじめに正一が、がブラックスペルに移籍することについて話し始めた。オブラートに何枚も包んだ言い方だったが、結論としては100パーセント不可能だと言う事だった。
それに付け加えて、貴重な戦力になるを手放すのは簡単にできないと、と正一が真顔で申し出たため、スパナと正一は揉めた。
かなり揉めた。
その最中、正一はスパナに、
「世の中にはどうにもならない事があるんだぞ!」
と、諭すように言ったが、
「何知ったかぶってんだ、このメガネ!」
とスパナが子供のように言い返したため、さらに揉めた。傍から見れば小学生のそれと変わらないくらい、低レベルな言い合いだった。
場の空気に耐えられなくなったが、大人げないよ、と話しかけても二人は聞く耳持たずだったので、小さく息を吐いた後右手でこぶしを作って強くテーブルを叩いた。叩かれた木製のテーブルはめきょっとか、めりっとかいう音を立てて、叩かれた位置から30センチほど亀裂を走らせ、へこませた。
「わぁっ!? ……あ、その、ご…ごめんなさい」
ここまでするつもりはなかったというふうに、はシュンとして謝ったが、亀裂の走ったテーブルを見たスパナと正一は唖然と凍り付き、そうして口論は呆気なく沈静化した。
それからは、さっきの荒れ具合とは打って変わって、話し合いは静粛に進んだ。自分が話に割り込めばこんがらかりそうだったので、当事者同士が話した方がいいだろうと判断したスパナは壊れたテーブルの上に置かれた皿に盛りつけられたクッキーをつまみながら、と正一の静かな話し声に耳を傾けていた。
2時間ほどじっくり話し合い、正一の要望との要望を考慮して出た結論が、『はスパナの部下として仕事をこなし、時々ホワイトスペルの任務に参加してもらう』という事だった。
悪化しているのではないかとスパナは思ったが、生命の危機に関わるような任務には就かせないと正一がハッキリ言ったので、スパナはそれを信じることにした。といえば満足したのか誇らしげな顔をしていた。
こうして一件落着。かと思いきや、前例のない事柄があっさり通ってしまうわけがなく、ブラックスペルとホワイトスペルの一部の人たちから反対意見が出てきた。前々から両者の溝は埋まらないだろうとスパナは思っていたが、それ以上に両者の溝は深かかったらしい。けれどもスパナの地位がブラックスペル内では高いことと、正一の後押しもあってか、反論の火はあっさり鎮火した。不承不承だが周りに認められたのだ。
これをきっかけに、はケンゾウの部屋を物置として使えばいいと使用権を放棄した。スパナは、なんとなくそういう事になるんじゃないかと考えてはいたので、
「一緒に住む?」
自然とそう、に切り出していた。スパナは男女が一つの部屋で一緒に暮らす意味を知っていたが、今は別にそういうやましい気持ちで言いだしたわけじゃなかった。
言われたは目を丸くして、それから困惑したように瞳を揺るがせて、
「どこに?」
そう聞いてきた。確認を取るかのような言い方だった。
「ウチの部屋」
言うと、が何度も瞬きして視線を下げた。しばらくそのままじっとスパナのツナギを眺める。思考は追い付いているけど、心が追い付いていないといった感じだった。
しばらく待つと、が視線をあげて口を開いた。
「いいの?」
「うん」
スパナがうなずくと、がゆっくり首をかしげた。
「…どうして?」
つぶらな眼差しがじっと見つめてくるので、
「コメの炊き方がわからない」
咄嗟にそう言ってしまった。するとが微笑んだ。
「…炊き方、教えるよ?」
微笑んだまま言う。
どこでこんな事を覚えたのだろう。それとも昔から知っていたのかもしれない。なんにせよ、スパナは今、にからかわれている。
「……いじわるだ」
スパナが眉をよせて思ったことをそのまま言えば、はさも微笑ましいと言わんばかりにふふっと吹き出した。
「ごめんね、ありがとう」
謝られた後にお礼を言われたので、スパナはどっちなんだと困惑したが、自分の都合のいいように解釈することにした。――まあそれが正解だったのだけれども。
こうして交渉が成立し、スパナももすんなり互いの事を受け入れた。
同居することにより、自分にもにもストレスが溜まるんじゃないかと懸念したが、それはただの杞憂に変わってしまった。は意外に順応性が高くて、スパナの生活リズムに何なく溶け込んできた。もともととスパナは似たり寄ったりな波長だったのかもしれない。けれどもここまで違和感なく一緒に入れるというのはスパナにとって初めてだった。
いつまでこの状況が続くのか――が離れていくことを想像して見たが、どちらかに恋人ができて離れるとかどちらかに嫌気がさした、ということよりも先に、互いが死んだり行方不明になった事しか想像できなかった。前者より後者の方がなんだかしっくりくるのだ。
これはスパナの憶測だが、これからずっと、は自分の側にいてくれるのだろうし、自分だって変わらずの側にいるのだろうと思う。
スパナは機械が好きだ。ごく自然な流れでそうなってしまったから、理由なんてない。
じゃあと一緒にいたいなあと思うのも、きっと理由なんてないのだろう。
ごく自然に、そうなってしまったのだから。
3階廊下にある空調設備に電源を入れても、数分後に止まってしまうから様子を見に行ってほしい。昼食を取ろうとしたとたん、そんな連絡が通信機に届いたので、スパナは工具箱を片手に提げ、を引き連れて件の場所に向かった。
室内空調機は天井裏にあるとの事だったので、スパナは足台にできそうな手頃な椅子を近くの部屋から持ってきて、点検口の真下に置いた。椅子に登って点検口の取ってをひっくり返して出し、それを掴んで押しあけた。椅子から降りて工具箱を持ち上げ、しばし考え込んだ後、
「」
名前を呼んで手招きすれば、ぽけっと突っ立って珍しそうに部屋を見渡すが振り返って、とことこ小走りでやってきた。スパナは工具箱をに差し出して、
「ウチ、これから上に潜る」
「うん」
「で、にこれ預けるから、ウチの指示通りに工具を渡してほしい」
それが明らかに要領が悪いのは分かっていたが、を退屈させないためにはそのほうがいいだろうとスパナは思った。ついでにスパナがキャンディを数本渡せば、はそれを受け取りながら、しゃがんで工具箱を床に置いて蓋を開けた。
「…わかった。がんばる」
きらきらと目を輝かせて、ぐっと拳を握った。スパナはの頭をなでたあと、ポケットに持ってきたマスクと懐中電灯を突っ込んで椅子に登り、点検口の端に手をかけて、
「よっ…と」
腕に力を込めて身体を持ち上げた。なんとか天井裏にあがって腰をおろし、埃っぽさにせき込みながら、ポケットに突っ込んでいた懐中電灯とマスクを取り出した。マスクのゴムをを耳にかけながら口と鼻を覆って、懐中電灯のスイッチを入れれば、パッと周りが明るくなった。その明りを頼りに、機械はどこにあるのだろうと右を向けば、
「うわっ」
ほんの数センチの距離に稼働していない空調機が置かれていて、スパナは身体をびくっとさせた。空調機から太い排気ダクトがまっすぐに伸びていて、懐中電灯で悪戯に照らして見たがダクトは暗闇にフェードアウトしていてその先が見えなかった。
空調機を照らして、ざっと周りを見てみる。埃まみれだった。
懐中電灯を置いて、点検口から下を覗き込む。
「、雑巾」
「うん」
は頷きながら、工具箱から真新しい雑巾を取り出して、
「濡らしてきた方がいい?」
聞かれたので空調を振り返ってから、
「頼む」
言えば、は頷いて、とことことどこかに行ってしまった。多分近くのトイレにでも向かったのだろう。
数分待つと。
「わあぁーーーっ!?」
悲鳴が近づいてきた。それも恐ろしく危機感のない。
スパナが目を丸くして廊下をのぞきこめば、がぱたぱたと足音をたてて点検口を素通りし、そのまま駆け抜けていった。何故か両手に雑巾は持っていない。ええー…、とスパナは困惑しながらの後姿を見送れば、別の足音が近づいてきた。
「あれ?」
キツネ目がじっとスパナを見上げた。銀色の髪を揺らして立ち止まる。白い制服に身を包んだ人は、まぎれもなく、ファミリーのボスの白蘭だった。
白蘭は「んー」とスパナを眺めて目を細めた。
「ここに、ちっちゃい女の子来なかった?」
スパナは眉をひそめる。の悲鳴の原因はボスのせいか、と納得して、教えようかどうするか迷ったが、
「…あっちに」
逆らうことなどできずにが走り去った方を指させば、白蘭はニッと笑って「ありがとう」とスパナに礼を告げ、
「そういやこれ、あの子が持ってたけど」
固く絞ったままの形の雑巾をスパナに出してきたので、スパナは手をのばしてそれを受け取った。そうしてが走り去った方向へ小走りで向う。
頭を抱えたい気分になりながら、スパナは空調機のほうへ向かい、モーターとファンの熱を外に出すための排熱口の網目を塞ぐようにびっしり纏わりついた埃をごしごしと擦り落とした。
ずっと掃除していなかったのか、かなりの埃がとれた。まさかこれが原因なのではないだろうかと思いながら、目につくところを掃除して、電源を入れてもらおうかと通信機に連絡を入れようとした途端、
「きゃわーー!」
相変わらず危機感のない変な悲鳴が近づいてきた。スパナはため息を吐いて点検口に向かう。顔を出せば、が半泣きでこっちにやってきた。スパナと目があった途端、走る速度を上げて、真下に置かれた椅子に登った。
「…、うるさい」
「ごめんなさい」
スパナが身を乗り出して手を伸ばすと、がその手を握った。そのままずるずると天井裏に引き上げる。は点検口のふちにへにゃへにゃと腰をおろして、ほっと胸をなでおろしていた。
「ボスの事、苦手なの?」
聞いてみると、は泣きそうな顔でうなずいた。相当苦手なようだ。
「あー、ずるい」
下から白蘭の声が聞こえたとたん、はびくっと震えてスパナの胸に飛び込んできた。スパナは顔をしかめながら点検口から下を覗く。案の定白蘭がいた。
「…ボスは何での事を追いかけまわすんですか?」
突拍子なくスパナが聞けば、んーと白蘭が考え込んで、
「いじめたくなるからかな?」
白蘭がさらっと言った途端、がびくっと震えてスパナのツナギを握り締めた。
「冗談だよ、冗談」
笑いながら言うので、スパナはそれを信じることにした。
「…仕事は?」
「今は休憩中」
ニッと笑う。実にうさんくさい笑い方だ。
「白蘭さん! 何やってるんですか!」
「うわっ!?」
聞きなれた声が響いて、白蘭は慌ててどこかに行ってしまった。ややあって、正一がばたばたと点検口の真下を通っていく。
なんだか呆気ないなと思いながら、スパナは通信機に、空調機の電源を入れてもらう様に頼んた。しばらくすると、耳鳴りにも似た、電気の通る音が空調機から聞こえてきて、静かにモーターが動き始めた。騒音に顔をしかめるの耳をふさいで、スパナは数分間じっと空調機の様子をうかがうが、空調機は自ら停止する様子を全く見せなかった。
「…あー」
原因はどうやら排熱口が埃でふさがれていたことによるものだったようだ。
スパナは先にを椅子の上におろしたあと、雑巾をに受け取らせ、自分も椅子の上におりた。点検口に蓋をし、椅子を元の部屋に返した。二人とも埃まみれだったので互いに埃を落とすと、廊下に細かいほこりがちらばった。掃除しろと言われると面倒なので、二人は荷物をまとめて逃げるようにその場を後にした。
とともにドックに戻った頃には、とうに昼を過ぎていた。
の作ったおにぎりを適当に食べて、スパナはモスカの整備に集中し始めた。パソコンを使う作業だけだったので、に自由に過ごすよう伝えると、はいつも使っている毛布を持ってきて、スパナの背中に自分の背中を預けて、すぐに寝入ってしまった。
2008/12/29